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παντα
δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν
ー物は、すべてそれ(悟性、言葉)を通して生まれた。そして生成した物の中で、物はそれ(悟性、言葉)なしでは生まれなかった。―
(註) αυτουは既出のλογος(言葉、悟性)を指しています
9世紀中頃、奇せては返す遊牧民族の波に抗し、ロシアの歴史に最初に姿を現した都市の一つがキエフ(バイキング的呼称ではケーヌガルド、現ウクライナ首都)でした。
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衛星写真によるキエフの位置

9世紀〜13世紀までのルーシの地図
赤丸は当時の主要都市
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ロシア人の手によるロシア初の年代記、「過ぎし日々の物語(原初年代記)」によると、キエフはドニエプル川に住み着いたスラブ人の一派パリャーネ族の兄弟、キー、シェーク、ハリーフの三人が力を合わせて建設した町で、長男のキーの名にちなんでその都市をキエフと名づけられのがその由来だといいます。
9世紀〜13世紀、キエフを中心とした、南は今の黒海北部沿岸、東はヴォルガ川、西はドニエプル川の西部、北はノヴゴロドまでの土地一帯をまでをキエフスカヤ・ルーシと呼びます。日本ではなぜか「キエフ・ルーシ」という呼び方が定着していますが、ロシア語だと必ず「キエフスカヤ・ルーシ」といいます(ロシア人に3回くらい訂正されたことがあります…。)。
このキエフスカヤ・ルーシはまとまった国がなく、内乱が続いていたため、当時の人達は海を渡って北方バイキングの一派ヴァリャーグ人の元を訪れ、この混乱に秩序を与える人物を求めました。「過ぎし日々の物語」によると、
−「そして彼ら(ロシア人)は海の向こう、ルーシと呼ばれたヴァリャーグ人のもとへ出発し、彼らに語った。”われらの地は広く豊かである、しかるにその地に秩序はない。統治し
われらを支配せんがため来れ。”」−
と記されています。ちなみに『原初年代記』に、当時のヴャリャ‐グ人と総称される種族として、ルーシ、スヴェーイ(スウェーデン人)、ノルマンおよびアングル(1066年のヘイスティングの戦いでイングランドを占領した種族)、ゴート(バルト海沿岸、ヴィスラ河口にもと住んでいた種族)の四つがあると書かれています。このルースとは、フィンランド語で「スウェーデン人」を意味するルオツィの訛りとも言われております。
このルースたちの文字に残る最初の活動の一つが、フランク王国の『サン・ベルタン年代記』に記されているもので、839年、ライン河畔のインゲルハイムにあったルイ敬虔王の宮廷を訪れたテオフィロス帝の時代のビザンチン帝国の使者が、自らをロースと名乗るスウェーデン系の使者を連れていたことが伝えられています。彼等はドニエプル河畔の土着民の反乱で本国への帰途を妨害され、西欧を経て帰国するためビザンチンの外交団に加わっていたということです。
戦闘能力に長けた彼等は、ビザンチン帝国の傭兵隊に加わっていたことも推測されます。1687年、ヴェネツィアにもちこまれた、アテーナイの外港ピレウスで発見された大理石のライオン像の右の前足に、ルーン文字が刻まれており、ヴァリャーグたちが掠奪で訪れたのか、商売で訪れたのか、傭兵だったのか判然とはしませんが、ともかく、航海に長けたヴァリャーグたちの行動範囲は、エーゲ海にまで及んでいました。
さて、彼らの懇願に答えて862年、ルーシの首領リューリクが兄弟シーネウス、トルーバルらを伴なってルーシ(ロシアの古名)の地を訪れ、ノヴゴロド(新しい町、の意味でして、ラドガ湖南岸にすでに建設されていたノルマン人の古い町アルデイギャボルィ(ラドガ)と区別するためこう名づけらたようです。ノルマン人たちはノヴゴロドをホルムガルド、丘の町、と呼んでいました)に住みつき、リューリクが初代ノヴゴロド公となり、シーネウスはベロオーゼロへ、トルーバルはイズボルスクに住み着きました(異説あり)。
のちにシーネウスもトルーバルも早死にし、リューリクが全権力を握り、部下たちに町を分け与えたということです。
これがロシア初の王朝であるリューリク朝の始まりです。
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ノルウェー、バイキング博物館所蔵オーゼベルグ船(9世紀)
発掘時、高貴な人物が副葬品と共に埋葬されていました
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上に示したのは、ノルウェーのオーゼベルグで1903年に発見されたオーゼベルグ船で、9世紀終わりごろヴァリャーグたちが使ったと思われる船です。ここでは墓として用いられ、内部には馬12頭、犬6頭、牡牛2頭の骨が発見されていました。舷側で二人の女性の遺体が見つかっており、副葬品の豪華さと、船の装飾の豪奢さから、女王が葬られていたのではないかともいわれています。後の述べるオリガ公妃のような女性の権力者も、ヴァリャーギには不自然なことではなかったのでしょうか。ヴァリャーグたちは船を埋葬に使ったらしく、ほかにもノルウェーで、1880年に発見された、10世紀頃埋められたと思われるゴクスタルド船の中には、中年の男性が埋葬されていました。
このゴスタルド船は、機能一点張りでしかも極めて保存状態がよかったことから、1893年にレプリカが建造され、マグヌス・アナセン船長のもと、大西洋を横断する実験が行なわれ、ノルウェーからニューファンドランドまで一ヶ月弱で損傷なくたどり着くことができたということです。このことで、この船が実際に使用可能な状態のものであり、なおかつヴァリャーグたちの建造技術の確かであったことが証明されたということです。
船中の埋葬について思い出されるのは、先の話になりますが、第二代キエフ公イーゴリの妻オリガの、夫イーゴリを殺害したドレヴリャーネ族に対して行なった復讐です。復讐は以下のように行なわれました。夫を殺害されたオリガはドレヴャリャーネ族の公マールとの結婚話をえさに、馬でなく、車でなく、徒歩でもなく、船の中に入ってオリガが送った使者に船ごと担がれてオリガの館へやってくるよういいました。そこでドレヴャリャーネ族が言われたとおり船にのってやってくると、彼らを前もって掘っておいた穴の中に船ごと投げ込み、生き埋めにしました、という話です。この話は、当時のルーシの支配階級のルース達の、ヴァリャーグたちとの関連を極めて強く示唆しています。
さらに、922年、外交官だったイブン・ファドラーンがヴォルガ川流域を旅行し、そのときヴァリャーグ人首長の葬式を目撃した、極めて詳細な記録が残されています(『イブン・ファドラーンのヴォルガ=ブルガール旅行記』)。その首長は死後、新しい衣服を着せられ、陸に揚げた船の中には果物、野菜、パン、犬、武器、馬、羊、鶏がいれられ、女奴隷の中から一人死者とあの世へ旅立つものが選ばれ、これら全てと一緒に埋葬されたそうです。
さて、北欧からロシアへ入植したヴァリャーグたちは、ノヴゴロドをはじめ、ポロック、スモレンスク、チェルニゴーフ、ペレヤスラヴリ、キエフなどの都市を建設・定住し、彼らの活動は都市を中心として行なわれることになります。このことから、本家本元のノルマン人たちからロシアはガルダリキ(町の国)と呼ばれるようになりました。
ちなみにキエフは、リューリクの部下だったアスコリードとディールがツァーリグラード(コンスタンチノープル)へ行く許可を得、その途中でキエフを発見し、ヴァリャーグ人たちを集めて定住しました。さらに彼らは866年ビザンチン帝国を襲撃し、コンスタンチノープルを包囲したということですが、嵐で船が破壊され、不成功に終わったとのことです。この遠征は、本当だったとしても、当時のキエフの規模を考えても、掠奪行ぐらいが妥当なところではないでしょうか。
話を戻しますが、こののち、リューリクの血を引くことが、ルーシの地を支配する資格となり、以後公位につく者のほとんどが彼の子孫を名乗る貴族で占められることになります。
内紛の果てに外国人に自国の統治を委ねてしまうのは我々には少々理解に苦しむ現象ですが、これは何もロシアだけに限った話ではありません。すさまじい権力闘争が続いていた、たいがいの中世イタリアの都市国家で、たとえばフィレンツェの大法官やジェノヴァの元首などに国内の党派争いとは無縁と思われた外国人が就任した例がちらほら見られます。
しかしノルマン人がロシア初の国家を成立させたという伝承(ノルマン説)については異論(反ノルマン説)もありますので、両方の説を以下に挙げておきます。
*** ノルマン説・反ノルマン説 ***
この、「過ぎし日々の物語」の記述を素直に読めば、バイキングがロシア初の統一国家をつくったということになります。これをノルマン説といいまして、「過ぎし日々の物語」の記述を素直に受け入れ、初のロシア国家の形成は、スラヴ人を支配するヴャリャーグ人(ノルマン系)の覇権の下に達成されたとする説です。
ノルマン説は、ドイツ人でロシア科学アカデミー会員でもあったシリョツェル(1735-1809)が唱えたものでして、ドイツ語で書かれた古代ロシア年代記の批判の中で初めて登場しました。このノルマン説が初めてロシアで公に発表されたのは、1749年9月6日サンクトペテルブルクで行なわれた、ロシア科学アカデミーのドイツ人歴史家ゲルハルト・ミュラーによる講演「ロシアの名の起源」においてです。ミュラーは、当時10年程前に発見された既述の『サン・ベルタン年代記』の中で、ルーシからフランク王国にやってきたルーシ使節団のメンバーの多くがスカンジナヴィア系の名前であることを根拠に、キエフスカヤ・ルーシの支配者がノルマン人であることを主張しました。
ところがこの時代はちょっと曰くつきでした。この講演より少し前にはアンナ・イヴァーノヴナという女帝がロシアを治めていました。彼女は、イヴァン5世(ピョートル大帝の異母弟)の娘でして、クールラント公(クールラントとはリトアニア=ポーランド同君連合国が、同国に屈服したチュートン騎士団に与えた封土名。)のもとに嫁いでいました。
ところが、ピョートル大帝の一人息子のアレクセイが亡くなり、さらにピョートル大帝が後継者を指名せず亡くなったおかげで、アンナが女帝としてロシアに戻ってロシアを治めることになったのです。長年ドイツで過ごしたアンナ女帝は、人間関係がドイツ化していまして、側近として寵臣ビロンを始めとするドイツ人を大量に登用しました。ロシアで外国人集団が幅を利かせ始めたわけで、これは今でも一般的に愛国心の強いロシア人の憤激を買います。
アンナの死後、ピョートル大帝の娘エリザヴェータ・ペトロ−ヴナが女帝につくと、アンナの時代のドイツ人一辺倒の反動が起こり、ドイツ人が退けられ、大量に失脚しましたが、ミュラーが講演を行ったのはまさにこの時期にあたります。時代の空気もあったのでしょう、講演会は途中で野次と怒号に包まれ、ミュラー自身も講演途中で壇上から引きずり下ろされてしまいました。
一方、ノルマン説に対して反ノルマン説という説があります。これはロシアの万能科学者ミハイール・ヴァシーリエヴィッチ・ロモノーソフが最初に唱えた説です。彼は、
ー「そして彼ら(ロシア人)は海の向こう、ルーシと呼ばれたヴァリャーグ人のもとへ出発し、彼らに語った。”われらの地は広く豊かである、しかるにその地に秩序はない。統治しわれらを支配せんがため来れ。”」ー
の、「ルーシ」の部分に着目し、「過ぎし日々の物語」の6360(852)年の記事の、
ー「インディクトの15年、ミカエルが皇帝として治め始めたとき、ルシの国という呼び名が広まった。我々がこれについて知ったのは、この皇帝の治世にルシがツァーリグラードに攻めてきて、(そのことが)グレキの年代記に記されているからであるしたがってここから始め、年代を記すことにしよう」ー
この部分に着目し、つまり「ルーシ」とはロシアの国家の起源とされる9世紀中頃からすでに存在する言語であり、さらにこの「ルーシ」が非スカンジナビア起源の言葉であると主張し、したがって「ルーシ」とは実はスラヴ人のことであり、キエフスカヤ・ルーシを形成したのはノルマン人でなく、スラヴ人であるという説を主張しました。
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ミハイール・ヴァシーリエヴィッチ・ロモノーソフ(1711〜1765)
人文科学・自然科学・文学芸術等に優れたロシアの万能科学者
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さらに反ノルマンとまではいかないにしても、ノルマン人のキエフスカヤ・ルーシ形成過程の、ノルマン人の影響を低く評価する人もおり、クリュチェフスキーなどはこの派に属す人です。彼の説を説明しますと、『ヴァリャーグ招致伝説』そのものは認め、ルーシの地には、リューリクがやってきた際に、ポリャーン族(特に『過ぎし日々の物語』の作者はこの民族に共感をもっております)、ドレヴリャーネ族、セヴェリャーネ族がすでに種族的政治結合を形成し、全ルーシ結合ができており、リューリクがやってきて国家形成を行なったのは、この全ルーシ結合にうまく乗ったわけで、いわばただ乗りのようなものであると主張する説です。年代記作者がポリャーン族を
ー「彼ら(ポリャーン族)は自分達の父祖の温和で静かな慣習を持ち、自分の子の嫁や姉妹達、母や自分の父に対して敬意を、そして姑や夫の兄弟に対しては大きな敬意をもっていた。」ー
と褒め上げ、ドレヴリャーネ、ラジーミチ、セヴェリャーネ、ヴァーチチなどを「家畜のように住み、野獣のように暮らしていた。お互いに殺し合い、あらゆる不潔な物を食べていた。」とけなしているのは、ポリャーン族がキエフの住民となり、他の種族をまとめ上げ、古代ルーシの種族的結合の中心となったため、特別扱いしているからだというのです。
クリュチェフスキーが『ロシア史講話』でこの説の証拠として挙げている話は、アラブの地理学者マスゥディの記した地理誌『黄金の牧場』なる本にのっているという話です。その本によると、スラヴには基本的な一種族がかつて他の種族を支配しており、それには最高の王がおり、他の王を支配していたが、後に部族間に不和が起こって連合が破れ、種族ごとにばらばらとなった、と書かれているそうです。その一種族はヴァリナン(ヴォルィニャニン)といって、これは西ブグ川に住んでいたドゥレブ人のことである、とクリュチェフスキーが主張しており、これがリューリク招致に先駆けてスラヴ人による国家的が行なわれていた証拠だというものです。
さらに、反ノルマン説に立つ『ロシア民族の起源』を書いた旧ソ時代のレニングラード大学教授マヴロージンなどは、このヴァリャーグ招致伝説は年代記作者の改竄だと主張します。理由としてシリヴェストルが『過ぎし日々の物語』の編纂を始めた時代はウラジーミル・モノマフがキエフ公についた時期のことで、キエフは先代キエフ公スヴャトポルクの死をきっかけに暴動が発生しておりました。しかし、モノマフはキエフ入城をためらい、これ以上入城をためらうと更に暴動が激しくなると人々に警告され、やっとキエフに入りキエフ公になった経緯があります。
このウラジーミル・モノマフのためらいを、マヴロージンは、もともとキエフを世襲地としないモノマフのキエフ入城はリューベチの諸公会議で決定した世襲地安堵の原則に反するとモノマフが考えたことによるとしています。そこで、シリヴェストルにヴァリャーグ招致伝説を年代記に書き込ませることで、キエフの民衆に招致された結果起こった自分のキエフ占領を正当化したかったのだ、としています。しかし、自説を述べるには、やはり確固たる根拠・証拠に立脚した論理から導かれる結論、という手順が必要です。マヴロージンは年代記改竄の動かぬ証拠を何一つ提示しておりません(というかそもそもそんなことできるのでしょうか)。
また、彼は「ルーシ」という言葉にも疑問を投げかけ、ルーシという名の種族が北欧サガやヴァイキング時代の口碑に出現しないことを理由に、「ルーシ」のスカンジナヴィア起源説を否定しています。もっとも、「ルーシ」という東スラヴ種族もいないことから、「ルーシ」という語は地理的用語で、ローシ川、ロサーヴァ川、など「ロス」の用語を用いた河川名がドン河・ドニエプル河両岸に多いことから、もともと「ルース」という種族がこの地一帯に住んでいて、「ロス」の接頭語の多い河の名前は、この種族の名をとった名残ではないかと主張しています。しかしこれも仮説の域を出ません。
さて、以上各種の反ノルマン説を上げてきましが、ノルマン説・反ノルマン説どちらがより真実に近いのか、と言われますと、さまざまな情報をまとめた私見は以下です。ビザンチン帝国やイスラム世界の記録は、普通に読めば、ルーシに住んでいたスラヴ人の地を仕切るルース達がヴァイキングの一部族であった可能性を強く示唆する話に事欠かず、ロシア人による、ロシア人の記録『原初年代記』自体にも、特にルーシがキリスト教化する以前の話には、北欧系の人物と見られる名前がやたらと出てきます。装飾品などのスウェーデン人の遺物もロシアに出土します。ところが、スラヴ種族による国家形勢の記録は残念ながらロシア人、ロシアの周辺国のものを含めなかなか見つかりません。ノルマン説のほうがすんなりと話が進むと思います。
ただ、僕から見てノルマン説の欠点だと思われるのは、ヴァイキングたちは、たとえば北方ルート(ノルウェーから出発してアイスランド、グリーンランド、アメリカなどに植民したもの)については「グリーンランドのサガ」、西方ルート(ノルウェーからスコットランド、アイルランドに向かうもの)には「エイルビッギアサガ」など、彼らの植民を、彼ら自身の記録にのこしているにもかかわらず、この東方ルート(リューリクが行ったもの)に関しては、現在(2008年)サガが発見されておらず、かなり腑に落ちないところがあります。リューリクは、実は860年ごろまで西ヨーロッパを荒らしたフリョーレクルではないか、という人もいるそうですが。結局、リューリク朝成立にはヴァイキングの力があったのは間違いないですが、その中心人物がスラヴ系であった可能性は極めて薄く、スウェーデン系ヴァイキングであった状況証拠は多いが、断定するには今一歩文献的・考古学的証拠がたりない、ということです。
この論争は、ロシア人にとっては民族の誇りに関わる問題であるのは十分わかりますし、この時代のイスラム教徒の残した記録には「ルースはスラヴ人を捕らえて奴隷に売った」とか「ルースはスラヴ人のものだけで生活していた」とかいう記述がやたらと出てきますので、たしかに気分が悪くなると思います。しかし、反ノルマン説とは、いつの時代でも、どのような政権下においても出現する、政治色の極めて強い歴史的解釈の一種であると思われます。まあ、だから学問は自由であるべきなんですが。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『甦る中世ヨーロッパ』
阿部勤也
著
日本エディタースクール出版部
・『ヴァイキングの世界』
ジャクリーヌ・シンプソン 早野勝巳
訳
東京書籍株式会社
・『ヴァイキング』
フレデリック・デュラン 久野
浩 日置正子 共訳
白泉社
・『ヴァイキング』
荒 正人
著
中公文庫
・『ポーランド・ウクライナ・バルト史』
伊東孝之 井内俊夫 中井和夫
山川出版社
・『ロシア民族の起源』
マヴロージン著 石黒
寛訳
群像社
・『ロシア原初年代記』
国本哲夫
訳
名古屋大学出版会
・『ロシア史 1』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
・『ロシア史講話 1』
B・O・クリュチェフスキー 八重樫喬任 訳
恒文社
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