キエフスカヤ・ルーシ(16)
〜〜モンゴル人の侵攻[1]〜〜

チンギス=ハーン / 成吉思汗,Чингисхан
1167? 〜 1227 年 モンゴル帝国の建国者
| Российская | ||
| История | ||
−花々は憂いにしぼみ、草は泣いて打ちしおれ、木は悲しんで大地に低く枝を垂れたー |
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この章に登場するチンギス=ハーン一族の系譜 チンギス=ハーン | | ? | ├―――バトゥ ├――┬―ジュチ | | ボルテ ├―チャガタイ | ├―オゴタイ | ├――┬グユク | ? | | └ハイドゥ | └―トゥルィ ├――┬メンゲ ? | ├フビライ | ├フラーグ | └アリクブハ 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
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ホラズム帝国の都ウルゲンジを陥落させた後、チェベ、スブタイの二人の将軍に率いられたモンゴル軍西域遠征部隊は、ホラズム帝国のアラー・ディーン・ムハンマドの行方を追っていました。モンゴル勢力は、チンギス汗がホラズム帝国に派遣した使節団を、ホラズムのオトラルの太守が惨殺したこと機会として、内陸アジアに威を張ったホラズム帝国へ猛攻をかけていたのです。 ホラズム帝国はアラー・ディーン・ムハンマドの時代に絶頂期を迎えていました。ホラズムはアッバース朝のカリフをにらみ、セルジューク・トルコを追い詰め、イスラム世界の覇者に成らんとしていた時期ですから、モンゴル側に対し少々高飛車な態度に出てしまったのでしょう。しかし、これがホラズム帝国の命取りとなったのです。1218年、この無礼に対す報復すべくチンギス=ハーンはクリルタイを開いて自ら四子ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイとモンゴル軍を率いてホラズム帝国へ親征することを決します。 この時代、無敵に近い強さを誇るモンゴル軍を、チンギス=ハーン自らが率いるのですから、ホラズム側はたちまち敗れ去り、ジュチ・チャガタイ・オゴタイの率いる第一軍により前進基地のオトラルが陥ち、さらにトゥルイとチンギス率いる中軍は、ソグディアナに侵攻してこの地の大都市サマルカンド、ボハラを屠ります。ジュチ・チャガタイ・オゴタイの率いる第一軍はホラズム帝国首都ウルゲンジを攻略しました。ムハンマドは西のマザンデランに逃げ、そこからさらにカスピ海の孤島へ落ち延び、そこで病死します。個々のオアシス諸都市はその後も抵抗を続けますが、この時点でホラズム帝国の組織的抵抗は終わりました。 さらにトゥルイとチンギス率いる中軍は、アフガニスタンからインド方面に逃げたムハンマドの子、ジェラル・ウッディンを追いますが、取り逃がしてしまいました。その後ジェラル・ウッディンはわずかな手勢で果敢な抵抗を示して山中鹿之助ばりの活躍をし、ホラズム帝国再興を期した軍事行動を展開しますが、大勢を変えるにはいたらず、結局クルド人に殺害されます。 ところがムハンマドの死を知らないジュチ・チャガタイ・オゴタイの第一軍は、彼の逃亡先が北イラン、カスピ海南岸あたりだと推測し、ムハンマドの探索と付近の部族の威力偵察をかねてその地へ軍勢を進め、ペルシャの穀倉地帯アジェルバイジャンに入り、カフカース山脈を抜け、キプチャック平原に進出し、ポーロヴェッツ人と激突したのです。 〜 2. モンゴルとルーシの接触 〜 モンゴル鉄騎の前に、敗走を重ねて続けていたポーロヴェッツ人酋長の一人コンチャークの子のユーリーが、助けをもとめてキエフ公国へ避難してきたのが、ルーシがモンゴルの名を知った始まりでした。 ー前代未聞の軍隊が来たった。タタール人と呼ばれる、神を進ぜぬモアプの子等が、ポーロヴェッツの地に来たったのである…。全てのポーロヴェッツ人の首領たるコンチャークの子ユリーは彼等に対抗しえずして、逃げ出した。彼等のうちの多くのものはドニエプル河にいたるまで打ち殺された。タタール人は引き返して、おのれの天幕へと去った ポーロヴェッツ人はルーシの地に逃げきたって、ルーシの諸公に言った。「もし汝等が我等を助けぬならば、今日我等は打ち破られるだろう、しかして次の日には汝等が打ち破られるであろう。」と。ー キエフで開かれたルーシ諸公会議には、ノヴゴロド公であり、ガーリチ公国をハンガリー王から防衛するためポーランドのレシコからガーリチに呼ばれた当時ガーリチ公のムスチスラフ勇敢公、コゼリスクおよびチェルニーゴフ公ムスチスラフ(かつてキエフ大公だった赤毛のフセヴォロドの子です)、ロマンの子でキエフ大公ムスチスラフ、あるいはまだ年少ではありましたが、ガリーチ公だったロマンの子のダニールなども集まりました(フセヴォロド大巣公の息子で、スーズダリ大公ユーリーは南ルーシの出来事には我関せずで不参加でした。)。結局、万人の脅威になりかねないモンゴル軍に対抗し、ルーシ会議では諸公・ポーロヴェッツ連合軍を結成することが決定されます。 |
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ルーシ側は、ムスチスラフ勇敢公が、ポーロヴェッツ人のコーチャン汗の娘を妻にしていたことを始めとして、このころ従士団中にもポーロベッツ人出身者を多数抱えている者が増えるなど、良くも悪くも彼らのと関係が深くなっており、そのような背景からも、ルーシはポーロヴェッツと連合軍を組まざるを得なかった背景もありました。 こうして結成されたルーシ諸公軍は、ドニエプル河の川中島のヴァリャーグ島に終結し、ここでポーロヴェッツ軍と合流しました。この時点でモンゴル人偵察部隊がやってきますが、ダニールが急行すると彼等は去っていきました。ドニエプル河を越え、ルーシの弓兵が後退するモンゴル軍と小競り合いを続け、モンゴル人の家畜を奪いながら(これは作戦です。小さく勝たせておいてどんどん深みに引き込み、引き返せなくなった時点で壊滅させる。)カルカ河畔に到着し、モンゴル側の妨害を受けずに川を渡りきることに成功しました。 |
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ドニエプル河中の島でルーシ連合軍が屯営していたとき、モンゴル側からの使者がきて、「モンゴル人はロシア人を襲ったことはないので、ロシア人とは敵対関係にない。われらはただキプチャック人(ポーロヴェッツ人のことです)を追ってきたまでである。キプチャック人はかねてからロシア人の敵であると聞いている。だからこの際吾らとともにキプチャック人を打つべきだ。」との旨を述べましたが、ルーシ諸侯側はこの使者を殺害して前進をつづけた、という話もあります。それが結局は運の尽きとなったのです。 〜 3. 前代未聞の敗戦ー騎馬戦術の圧勝 〜 後退を重ねたのはモンゴル軍の作戦だったのでしょう。モンゴル軍は、ルーシ・ポーロヴェッツ連合軍が根拠地から遠く誘い出され、連合軍が簡単には引き返せない位置に到達したと判断した時点で後退をやめ、ルーシ・ポーロヴェッツ連合軍に向き合いました。 ムスチスラフ勇敢公は、自らがリーダーシップを取ってカルカ河畔のそばの丘に本陣を築き、1223年5月31日、独断でモンゴル軍に襲いかかりました。しかし、逆にルーシ・ポーロヴェッツ連合軍はモンゴル軍に散々に打ち破られます。以下ドーソンの『蒙古史』の記述によると、ガーリチ公のムスチスラフ勇敢公は遁走し、カルカ河畔を渡ったあと、モンゴル軍による追跡をさけるため、なんと川を渡るのに使った船を焼き払いルーシへ撤退したのです。 これによりモンゴル軍のガーリチ公の追撃は不可能になりましたが、残されたガーリチ公率いていたルーシ・ポーロヴェッツ連合軍も撤退が不可能になりました。ガーリチ公の率いていた軍勢のうち、何とか故国まで逃げ延びた兵は十分の一にもみたなかったといいます。 ガーリチ公の敗北を目にしたロマンの子でキエフ大公ムスチスラフは、急遽本陣の要塞化に取りかかりましたが、モンゴル軍はガーリチ公の兵を蹴散らしたあとすぐに本陣の攻撃に移りました。 3日間の死闘が続き、さらにモンゴル軍の援軍が到着したのを見たルーシ・ポーロヴェッツ側は兵士の命は助けること、後に賠償金を払うことを条件にモンゴル軍に降伏しました。 ところが連合軍が降伏するとモンゴル軍はこれを惨殺、さらに三人の貴族を地面に寝かせた上に板を敷き、この板の上で宴会を行うという方法で彼らを圧し殺したのです。 勢いにのるモンゴル軍はノヴゴロド・スヴャトポルチェスキーへ侵攻、恐怖におびえ、十字架をもって町から出て降伏したノヴゴロド・スヴャトポルチェスキーの住民をモンゴル軍は虐殺。そのまま黒海沿岸へ侵攻し、ジェノヴァの黒海の重要な通商基地で、ポーロヴェッツに貢税を払っていたスーダクを陥落させました。ついでモンゴル軍はブルガリアを征服します。 チンギス=ハーンは、ジェラール・ウッディンの件が片付いた後、1223年はサマルカンドにとどまり、1224年東方への帰途につき、1225年カラ・コルム(現モンゴル共和国首都ウランバートル近く)へ到着します(ただし『ガーリチ・ヴォルニイ年代記』では、モンゴル軍の撤退は、蒙古帝国初代ハーン、チンギスの死を知ったからだと記しています。)。このとき、南ロシアのキプチャク平原にとどまったジュチを除いてチンギス=ハーンの三人の子も帰途に着きました。 この大遠征が終わると、チンギス=ハーンはその子ども達に領土を分け与えました。ジュチには南ロシア平原を(ジュチ・ウルス)、チャガタイにはボハラからバルハシ湖にいたる内陸アジアを(チャガタイ・ウルス)、オゴタイにはチャガタイ・ウルスとモンゴル本国にはさまれた部分を(オゴタイ・ウルス)、そして末子が父親の政治的権利を相続するというモンゴルの伝統に従ってトゥルイにはモンゴル本国を残しました。ウルスとは、モンゴル人の治める采領、人民のことです。 さらにこの大遠征から休むまもなくチンギスハンは1225年秋には西夏討伐に出陣します。そしてモンゴル軍の、西夏の国都興慶を包囲した猛攻の前に西夏王が開城を申し入れてきた1227年、狩猟の際に負った怪我がもとでその生涯を閉じました。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『世界の歴史 6 宋と元』 宮崎市定 責任編集 中央公論社 ・『世界の歴史 5 西域とイスラム』 岩村 忍 責任編集 中公文庫 ・『世界の歴史 11 アジアの征服王朝』 愛宕松男 著 河出書房文庫 ・『世界の歴史 6 宋朝とモンゴル』 栗原益男 山口 修 著 教養文庫 ・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記 レーベジェフ 編・除村吉太郎 訳 原書房 ・『ロシア中世物語集』収録 / バツのリャザン襲撃の物語 中村善和 編訳 筑摩叢書 ・『元朝秘史』 小沢重男 訳 岩波文庫 ・『蒙古史 上・下』 ドーソン 著 岩波文庫 ・『ロシア史 1』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |