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この時期、かつてルーシの盟主であったキエフ公は、権威権力をともに失っており、しかしキエフ公に代わってルーシを牛耳る強力な公はまだ出現しているどころか、むしろガーリチ公国、ロストフ=ウラジーミル=スーズダリ公国、ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国など、地方分権花盛り、分領公国全盛期でしたので、ルーシにおける強力な統一政権誕生など程遠い状態でした。
つまり、ルーシはまとまっておらずバラバラの状態でしたので、ルーシが一丸となってモンゴル軍に対抗することが出来なかったことも、ルーシがモンゴル軍に敗れた原因の一つです。
しかし、当時のモンゴルはまだ十分団結していた上に、ユーラシアの北、南、東をみわたしても、モンゴルに抵抗できそうな強力な国家はもはや中国の南宋以外見当たらず、しかも南宋もモンゴルに対し防備はおさおさ怠らなかったものの、打って出る気などさらさらなかったわけですから、モンゴルはその恐るべき軍事力を西方に全力投球できたわけで、バトゥの東方遠征のメンバーの充実ぶりがそれを如実に物語っています。
したがって、仮に全ルーシが強力な君主の下に統一されていたとしても、このモンゴル軍の侵入を防げたかどうかは甚だ疑問であります。
-「6745年(1237年)、すなわちコールスンから奇跡をなすニコラの聖像が招来されてから12年目に、神をしらぬバトゥ汗がタタールの大軍を率いてルーシの地に押しよせ、リャザンの地に程近いヴォロネジ河畔に陣を張った。バトゥはリャザンの町なるリャザン大公ユーリー・インゴレヴィッチのもとに無頼漢の軍使を派遣して、諸侯と全ての民のあらゆる収入から、10分の1税を支払うことを要求した。
リャザン大公ユーリー・インゴレヴィッチは不徳なるバトゥ汗の襲撃を知ると、ウラジーミルの町なる正教徒、ウラジーミル大公ゲオルギー・フセヴォロドヴィチに使者を送り、不徳なるバトゥ汗に対する戦いに援軍を派遣するか、さもなくば大公自身が出馬するよう乞わしめた。しかし、ウラジーミル大公ゲオルギー・フセヴォロドヴィチは、自ら出馬せぬばかりか、援軍も派遣しなかった。彼は一人でバトゥと戦うことを望んだのである。…
…呪われたバトゥ汗はリャザンの地に攻め入ってリャザンの町に迫った。そして町を取り囲み、5日間のあいだ絶え間なく攻め立てた。バトゥの軍は次々と新手を繰り出したが、住民たちは休むまもなく戦った。住民の多くは殺され、残りのあるものは負傷し、あるものは疲労し尽くしてしまった。
6日目の朝早く、異教徒どもは、あるいはたいまつをもって城壁へ近づき、あるいは破城用の大づちをひき、あるいは無数のはしごをもって城壁に近づき、ついにリャザンの町を占領した。…
…タタール勢は町の中で、あまたの住民を女子供に到るまで剣で切り尽し、あるものは河でおぼれさせ、僧侶と修道士を一人も余さず切り尽くして、町全体を焼き払った。…
…神を知らぬバトゥ汗はキリスト教徒の血がおびただしく流されるのを見て、ますますたけり狂い、心すさび、ルーシの地をくまなく攻め取ってキリストの教えを滅ぼし、神の教会を根こそぎ打ち壊さんものと、スーズダリとウラジーミルの町へ向かった。」-
〜「バトゥのリャザン襲撃の物語」より〜
チンギス=ハーンが死去したのち、父親の政治的権利は末子が引きつぐというモンゴルの伝統に従い、末子のトゥルイによって開かれたクリルタイで、大ハーンの地位は、第3子ではありますが、オゴタイ=ハーンが継ぐこととなりました。この時のクリルタイのハーン選出は、チンギス=ハーンが生前一族の了解を得たていたものであり、スムーズなものとなりました。
実際候補者達を見渡しましても、長男ジュチは出生に疑いがもたれていたため支持が集まらず、次男チャガタイも、『元朝秘史』によれば、モンゴル西方遠征を前にチンギス=ハーンが後継者の話を出し、ジュチに発言を求めた時、チャガタイは
ー「『ジュチが申せ』と云うは、ジュチににか委ぬるを言うや。このメルキドの紛れもない申し子に如何に統べしむるや我等」ー
とジュチの出生の話をもちだして勝手に発言し、怒ったジュチとチャガタイはお互い襟をつかみ、あわや兄弟げんかか、という失態を犯した思慮の浅い人物でこれも不安、本来末っ子でもっとも権利のあったトゥルイも兄に一歩譲って文句をいわず、でオゴタイのハーン就任は人事的にもまるく収まりました。さらにこの後トゥルイは、父チンギス=ハーンから譲られたモンゴル人の本拠地モンゴリアまでオゴタイに譲って兄の大ハーンの地位を固めることに協力します。
さて、このオゴタイ=ハーンの時代に開かれた、1235年のクリルタイでヴォルガ川西方の侵略が決定され、総司令官をバトゥに率いられたモンゴル軍が再びロシアの平原になだれ込んだのです。
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オゴタイ=ハーン(太宗) 1186−1242年
蒙古帝国二代ハーン
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まず1237年12月、モンゴル人はルーシに姿を現し、冒頭で述べたごとく、まずリャザン、コロムナに接近し、それぞれの町の公、リャザン公ユーリー・インゴレヴィチ、コロムナ公ラマーンらに全臣民の財産の十分の一を蒙古帝国に差し出すよう要求しました。リャザン公ユーリー・インゴレヴィッチは、前述したごとく、ウラジーミル大公に援軍を要請しますが、拒絶されたため、とりあえず息子のフョードル・ユーリエヴィチに贈り物をもたせてバトゥの元へ参上させ、リャザンを攻撃対象から外すよう懇願します。
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9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市
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さて、バトゥは一応贈り物をうけとり、リャザンは攻撃しないといいます。そしてフョードルのお供でバトゥの下にやってきていたリャザン貴族に対し、娘か姉妹を差し出すよう求めました。リャザン貴族達は、フョードル・ユーリエヴィチの妃はビザンツ皇女の出で、極めて美しいと答えました。そこでバトゥはフョードルに対し、フョードルの妃エウプラクシアを見たいと申し入れたといいます。
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この章に登場するチンギス=ハーン一族の系譜
チンギス=ハーン
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├――┬―ジュチ
| | ├――――バトゥ
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| | ├―――サルタク
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| | コンギラト
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ボルテ ├―チャガタイ―┬ムアトゥカン―ブリー
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├サルバン
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├イスマング
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└バイダル
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├―オゴタイ(2代ハーン)
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| ├――┬グユク(3代ハーン)
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| トゥラキナ | |
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| | オグル・ガイムイシ
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| ├グチュー―シムラン
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| └カシー――ハイドゥ
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└―トゥルィ
├――┬―メンゲ(4代ハーン)
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├―フビライ(5代ハーン)
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├―フラーグ
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└―アリクブハ
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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フョードルは、
ー「われらキリスト教徒には、自分の妻を信仰なき汗のなぐさみものに差し出す習しはありませぬ。われらを打ち破ったあかつきには、女房どもを思いのままにされるがいいでしょう。」ー
と答え、これを聞いたバトゥは即座にフョードルの首をはねさせ、野ざらしとし、その他の使節も殺し、リャザンに向けて兵を進めました。この話を伝え聞いたエウフラジアは、フョードルの息子イヴァンを抱き、リャザンの塔の上から飛び降り夫の後を追ったといいます。
フョードルの死を聞いたユーリー・インゴレヴィッチ大公は、これを聞いて泣き、兄弟たちに向かって
ー「おお、わが殿ばら、いとしきはらからよ。我等は主の御手からもろもろの幸を受けたる上は、不幸も忍ばずにおられようか。生きながら異教徒の支配をうけんよりは、死をもて永遠の生命をあがなうがましぞ。諸卿の兄たる予が、みなに先駆けて、神の聖なる教会のため、キリストの教えのため、われらの父上インゴリ・スヴャトスラヴィチ大公の残された父祖伝来の領地のため、死の杯を飲み干すであろう。」ー
といい、教会で祈りを捧げ、アグリピナ・ロスチラーヴナ大公妃に最後の口付けをあたえ、主教と全ての聖職者から祝福を授けられると、軍勢を整え、モンゴル勢と戦うべくリャザンから出撃しました。
モンゴル勢とリャザン勢はリャザンの町のはずれで遭遇し、激しい戦闘が展開されますが、なにせ相手はこの世紀最強を誇るモンゴル軍です、リャザン大公ユーリー・インゴレヴィチ、その弟ムーロム公ダヴィード・インゴレヴィチ、その弟コロムナ公グレープ・インゴレヴィチ、その弟ブロンスク公フセヴォロド、など名のある将が戦死し軍勢はほぼ全滅します。また、ある資料では、リャザン大公ユーリーは、公妃をえさに誘い出されて殺されたとも言います。
さて、野戦でリャザン軍を破ったモンゴル軍はリャザンを取り囲み、町の周囲を防柵で囲ったのち、カタパルトで攻撃を開始しました。一方をアカー川に臨む切り立った崖に囲まれ、他の三方を深さ8mの濠、濠のすぐ後ろにそびえる高さ9-10mの土塁に守られたこの堅固な城はたったの7日間で陥落し、子供、乳飲み子の容赦なく場内の住民が虐殺されました。ついでコロムナから打ってでたラマーンもモンゴル軍に敗れ去って討ち死にし、リャザン救援に向かったラマーンの子フセヴォロドは、リャザンの陥落とコロムナ軍の敗北を知ると北東ルーシ中心都市ウラジーミルへ逃げ込みました。
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モンゴル軍のカタパルトによる城壁攻撃
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モンゴル軍に包囲されたコロムナはすぐに陥落、勢いに乗るモンゴル軍は遠征途上に位置したモスクワも略奪します。アラーウッディーン(علاءالدين)によれば、周辺に草木が生い茂って蛇も入り込む隙のないモスクワの攻略のため、3両の戦車が並んで楽に通れるだけの道を切り開いたのち、カタパルトでモスクワを攻撃、数日でモスクワは陥落し、住民を殺戮しましたが、戦死者の右耳を切り取って数えたところ27万個あったそうです。ラシード(رشید الدین)によればキエフ大公ゲオルギー・フセヴォロドヴィチは戦いに敗れて森の中に姿を隠していたところを見つけられて殺されたということです。
さて、リャザンの殺戮と破壊の嵐の中から、からくも逃げ延びてきたリャザン大公ユーリーの息子キールは部下とともに北東ルーシの三大重要都市(ウラジーミル、スーズダリ、ロストフ)の一つスーズダリに入り、スーズダリ公ユーリーにモンゴル人来襲を知らせます。スーズダリ公ユーリーは、二人の息子ムスチスラフとフセヴォロド、それにキールも加えバトゥの軍勢に向かわせますが、鎧袖一触、あっさり粉砕されてしまいました。彼らはなんとかスーズダリに帰還し、事の次第をスーズダリ公ユーリーに知らせました。事態の並々ならぬのを知ったユーリーは、二人の息子に北東ルーシの中心都市ウラジーミルの守りを託し、自身はヤロスラフとスヴャトスラフの援軍と合流するため町をあとにし、シッチ河畔に本陣を築きました。
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この章に登場するリューリク一族の系譜
(ロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国系)
┬アンドレイ・ボゴリュプスキー
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├ミハイル
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└フセヴォロド大巣公―┬コンスタンチン
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├ユーリー
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| ├ムスチスラフ
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| └フセヴォロド
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├ヤロスラフ
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└スヴャトスラフ
(チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)
オレーグ
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├┬フセヴォロド┬スヴャトスラフ―フセヴォロドーミハイル
? | | (赤毛の)
├イーゴリ └ヤロスラフ
| (チェルニーゴフ公国)
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└スヴャトスラフ―┬オレーグースヴャトスラフ
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├イーゴリ
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├フセヴォロド
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└グレープ
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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1237年2月2日、モンゴル軍は、北東ルーシのみならず、当時のルーシの中心都市の一つでもあったウラジーミルにとうとう姿を現しました。モンゴル軍がウラジーミルを包囲した時、貴族達は死を覚悟し、最後はせめて神のしもべ、修道士となって死を迎えるため剃髪したのち守備についたということです。
ウラジーミルは南はクリャジマ川、東及び北をルイべジ川が流れており、三方を川に囲また天然の要害の地です。さらに幅22m、深さ8mの濠で囲まれ、その濠の後ろには高さ9mの土塁があり、土塁の上には木柵が植え込まれていました。町は三つの部分に分かれており、西から「新町」、「モノマフの町」、「旧町(ヴェチャトノイ・ゴロド、商工業地区)」と呼ばれていました。ウスペンスキー大聖堂や公の居城といった政治の中心地はモノマフの町におかれており、さらに石の城壁でかこまれていました(いわば藩鎮の牙城です。)。
モンゴル軍が川のない西からウラジーミルを攻略したいなら、まずは新町の土塁と木柵をやぶり、ついでモノマフの町の土塁と木柵、最後に牙城を破らねばなりません。
しかし、ウラジーミルの堅い守りとルーシ側の防戦のかいなく、モンゴル軍は2月7日には新町を落とし、2月8日牙城を攻略、遠慮なく町の内になだれこみました。モンゴル軍はウラジーミル包囲中にスーズダリも攻略してしまいました。
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モンゴル軍の都市攻撃
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ドーソンの「蒙古史」によれば、両公子は乱戦のさなか戦死し(ガーリチ=ヴォルニィ年代記によれば、フセヴォロドはまだ若かったので命が惜しくなり、バトゥの元へわずかな手勢とともに投降したが切り殺されたとのことです。)、民衆や大公妃、貴族や僧侶達は教会内に避難しました。モンゴル軍は教会の扉を破って乱入して中にいた全員を殺害したのち、聖具室に立てこもった大公妃および貴族達に身の安全を保障し投降を薦めました。
しかし人々はこれを受け入れなかったため、モンゴル軍は教会に火を放ち、聖堂ごと彼らを火中へ葬り去りました。わずか6日間ののちウラジーミルは陥落したことになります。さらに前進を続けるモンゴルの主力部隊(ブルンダイ指揮)はシッチ河畔で援軍の到着をまつウラジーミル大公ユーリーと激突、大公は戦死しました。
この、ルーシ諸公の最大勢力をもつウラジーミル大公ユーリーを倒したことは、バトゥの北東ロシア征服を決定づけました。勢いに乗るモンゴル軍は、コゼリスクの攻略に取り掛かります。しかし、コゼリスクにはヴァシーリーといういまだ年若い者がおり、民会でこう発言します。
ー「われらの公は若いとはいえ、彼のために命を捨てよう。そして此岸ではこの世の栄光を受け、彼岸では天の王冠を神から受け取ろう」ー
こうして決死の覚悟を固めたコゼリスクの人々の抵抗はリャザン、コロムナ、ウラジーミルと異なり激烈なものとなり、町は7週間持ちこたえたます。しかし、コゼリスクにも最期の時が迫り、モンゴル人に市の外壁を破壊され、モンゴル人は町の最後の守り、土塁に取り付きました。
コゼリスクの住民は血刀を振るって戦いましたが、いよいよ最期のとき来るを知るや、民会でモンゴル本陣への決死攻撃を決定、最後まで残った戦闘員が市から打って出て突撃を開始し、破城槌を破壊、モンゴル人の諸隊を攻撃しました。もちろん部隊は全滅し、町を占領したバトゥは少年や乳飲み子まで容赦なく殺害します。戦いの後、バトゥはヴァシーリーの死体を捜させましたが、遺体が多すぎて発見できなかったといいます。
こういった抵抗を受け続ける中、だんだんモンゴル軍の損害も馬鹿にならないものになってきたのでしょう、北東ロシアの征服に成功するといったんモンゴル人はポーロヴェッツ人の地に退却します。そして、再びルーシの地に現れ、南西ロシアのキエフの守りの二大重要都市、キエフの南北に位置するチェルニーゴフとペレヤスラヴリを攻撃します。
バトゥの軍勢はペレヤスラヴリを突撃で屠り、ミハイル首天使教会を破壊し、全住民を虐殺、主教を殺害、チェルニーゴフでは出撃してきたグレープの子ムスチスラフを破ったのち町をあっさり抜き、火をかけて焼き尽くします。こうしてキエフスカヤ・ルーシ時代の後期を彩った二つの主要都市はあっけなく陥落してしまい、南北二つの砦を失ったキエフはいわば裸にされてしまったのです。
けっきょくモンゴル軍による惨禍を免れたルーシの大都市はノヴゴロドだけでした。ノヴゴロドは沼地に囲まれるため、平野に展開しての騎馬戦術を駆使するには不向きであったためともいわれています。ガーリチ・ヴォルニー年代記だけをたよりにモンゴルに襲われた町を結んだモンゴル軍侵入経路を見てみますと、モンゴル軍はノヴゴロドに侵入する気配はなく、ウラジーミルを下した後は、明らかに一直線にキエフを目指しています。
この当時はノヴゴロドは都市国家としてほとんどルーシと別個の国家となっていましたから、ルーシ征服を目標にかかげるモンゴル軍の目には、あまりかまう必要のない、小独立勢力と写ったのでしょうか。むろん、ノヴゴロドは後に税をモンゴル側に支払うことになりますので、モンゴルから完全に独立を保てたというわけではありません。
さて、 このキエフに偵察部隊を率いてまず到着したのが後にハーンの位につくメンゲで、彼はこの大都市の美しさ威容に感嘆したといい、メンゲの見たであろう、在りし日のキエフ最後の姿が以下の様に描写されています。
-「…大河の彼岸にそびえる大都会の絵のような光景、壮麗な多くの寺院、樹木の上に輝く円屋根、白い城壁、大きな城門、威圧するようにそびえる城の塔など、ヤロスラフ賢公繁栄の日にコンスタンチノープルから呼び寄せた工匠たちの傑作であるこの都の風景は、これをはるかに望んだ砂漠の野蛮人を魅了した…」-
ここでやっと1237年のモンゴル軍の軍事行動が終わります。この2年後に、いよいよバトゥのキエフ包囲が起こるのですが、この貴重な2年間の間のルーシの公達の動きを見てみましょう。
当時キエフを占領していたのはチェルニーゴフ公ミハイルです。かれはモンゴルのあまりに巨大な軍事力の前に敵前逃亡し、ハンガリーに逃れます。これを好機とばかりにスモレンスクのムスチスラフの子ロスチスラフがキエフを占領し、キエフ公になります。ところがガーリチ公であるダニールがロスチスラフを追い出し、キエフを奪いますが、千人長のドミートリーにキエフの守りを託すと自分もハンガリーに逃れてしまいました。
チェルニーゴフ公ミハイルがハンガリーへ逃亡したのを知ったシッチ河畔でモンゴル軍に殺されたウラジーミル大公ユーリーの弟ヤロスラフ(のちにハーンの承認を得てウラジーミル大公位を得た初のロシア諸公になります。)がミハイルの妃を捕らえて、ミハイルの動きを牽制するため人質としてダニールの元へ送りました。結局和解したのですが、要するにモンゴル軍が目の前に迫っても内訌を行い、公は支配地に対する責任を放棄し逃亡を重ねたのです。
1239年、周到な準備を終えたであろうバトゥはいよいよこのルーシ最大の都市、勢いこそウラジーミルに劣れども、ロシア初の統一国家を作り上げたリューリクとともにルーシの地へやってきたオレーグ、キエフ公国発展の祖であるオレーグが初めて大公として坐した都キエフ、以来長らくルーシの中心であり続けたルーシの心のふるさと、キエフを包囲します。キエフの守備を任され、このバトゥを相手に最後まで戦う羽目になったのが先ほど述べたようにガーリチ公ダニールの千人長ドミートリーです。キエフ攻略のために集められた諸将は、キエフ側に捕らえられたトヴルラと言うモンゴル人の語るところによると、
・バトゥ(総大将、ジュチ家長男)
・ウルジュ
・バイダル(チャガタイ家四男)
・ビリュイ(ブリー、チャガタイの孫で嫡男)
・カイダン
・ベチャク
・メニグ(トゥルイ家長男メンゲ、後の三代ハーン)
・グユク(オゴタイ家長男、後の四代ハーン)
・セベチャイ(スブダイ、チンギスの四狗の一人)
・ブルンダイ
などであり、モンゴルの宿将貴公子のオールスターといった感があります。
バトゥはリャフ(ポーランド)の門の前に破城槌を設置し、昼も夜も外壁にぶつけ、外壁に穴をあけることに成功します。キエフの人々が破壊された外壁に上ると、そこから市外で展開される戦闘で、槍が折れる様、盾が砕け散る様、無数の矢で天が暗くなる様が見えたということです。外壁を破壊され、占領されたキエフの人々は、夜のうちに聖母教会の周りに新たな外壁を築き、教会に立てこもりました。
その翌日キエフになだれ込んだバトゥは教会の外壁に突撃をかけます。激しい戦闘がおこり、人々は財貨を携え教会の丸屋根の上に避難しますが、重みで教会が崩れ落ち、これによりキエフ陥落が決まりました。こうして激烈な攻防戦の末、1240年秋、キエフスカヤ・ルーシの中心地、ルーシの都の母なるキエフ、府主教座のおかれた聖なる都キエフは陥落したのです。
ただしバトゥは最後の最後まで奮戦し負傷したドミートリーは見逃し、彼は一時キエフの統治をまかされ、バトゥのアドバイザー的なこともします。
さて、前回の遠征でホラズム帝国のムハンマドを追ってモンゴル軍が西進したように、ダニールを追ってバトゥは西進し、ガーリチ公国の地に入ります。コロヂャノを計略で陥落させ、カーメネッツ、ウラジーミル・ヴォルインスキーを陥落させて全住民を虐殺し、ガーリチも占領しますが、ダニールが治めていたクレメネッツは抜くことができませんでした。ちなみにダニールはこのときすでにウゴル人(ハンガリー人)のところに逃れていました。これで南西ロシアの占領も完了したことになります。
その後モンゴル軍は二手に分かれます。バトゥ本隊はキエフ大公ダニールを追ってハンガリーに侵攻し、ダニールはさらにリャフ人(ポーランド人)の下へ逃げ込みました。バトゥの兄オルダ、チャガタイの子バイダル率いる別動隊はポーランドへ侵攻、ワールシュタットでドイツ(チュートン騎士団団長ポッポ)・ポーランド連合軍(シレジア公ハインリッヒ2世)を撃破します。
ドイツ・ポーランド連合軍は惨敗で、ハインリヒ2世は首をとられてしまうという惨状でした。モンゴル軍はハンガリーで合流し、戦闘を重ねつつイタリア東岸を望むアドリア海沿岸まで達しました。
キエフの破滅は、一都市の破滅というより、一文明の破滅でした。この事件でキエフスカヤ・ルーシの時代は終わりをつげ、キエフはロシアの歴史の表舞台から姿を消します。
1246年、法王インノチェンツォ4世の、托鉢修道会からなる使節団の長として、蒙古帝国の首都カラ・コルムへ派遣されていたケルンのフランチェスコ会の管区長、プラノーカルピニのジョヴァンニ修道士は、かつてルーシの中心として繁栄を誇ったキエフの都にのこる人家はせいぜい200戸のみと報告しています。
-「私どもが旅行の途中にその土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数え切れぬほど地面に散らばっているのに出くわしました。キエフは以前は非常に大きく人口稠密な町だったのですが、今ではほとんど無に帰してしまいました。こう申しますのは、今日ではそこの人家はせいぜい200戸あるかないかで、住民はまったくの奴隷状態におちいっているからです。」-
〜カルピニの報告より〜
キエフ以外の都市でも状況は似たり寄ったりで、その規模故にモンゴルの徹底的な劫掠と破壊と免れなかった、キエフスカヤ・ルーシ時代を華々しく彩った分領公達の都市の数々、ウラジーミル、ロストフ、スーズダリ、ペレヤスラヴリ、チェルニーゴフ、これらは惨劇から立ち直ることはなく、ロシアの歴史の舞台から永遠に姿を消し、少なくとも主役を張ることはなくなります。現在、モスクワ周辺部に輪のように広がるこれらの一群の美しい都市は、ザラトーィエ・カリツォー(黄金の輪)と呼ばれ、往時の面影を忍ばせています。
代わって、略奪を受けたもののあまりに規模が小さく、徹底的な破壊を免れた小都市、モスクワ、トヴェーリなどが成長をとげ、今後のロシア史の担い手たる都市へとして新たに舞台に登場し、新たな時代を作り上げていくことになります。さらに時代を下れば、イヴァン雷帝以降のシベリア進出による東方拡大で、カザン、アストラハン、など東方の都市も重要な役割を演ずることになるでしょう。
少し先走りすぎました。しかし勇躍奮戦し、散っていった人間はそれまでですが、生き残った人間には否応なしに明日がきます。モンゴルの破壊と支配の中で、生き残った公やルーシの民草が、いかに次の時代を生きていったかを次の章では見ていきたいと思います。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『世界の歴史 6 宋と元』
宮崎市定
責任編集
中央公論社
・『世界の歴史 5 西域とイスラム』
岩村 忍
責任編集
中公文庫
・『世界の歴史 11 アジアの征服王朝』
愛宕松男
著
河出書房文庫
・『世界の歴史 6 宋朝とモンゴル』
栗原益男 山口 修
著
教養文庫
・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
レーベジェフ
編・除村吉太郎 訳
原書房
・『ロシア中世物語集』収録 / バツのリャザン襲撃の物語
中村善和
編訳
筑摩叢書
・『元朝秘史』
小沢重男
訳
岩波文庫
・『蒙古史』
ドーソン
著
岩波文庫
・『タタールのくびき』
栗生沢猛夫
著
東京大学出版会
・『中央アジア・蒙古旅行記』
カルピニ/ルブルク 著 護 雅夫 訳
光風社出版
・『ロシア史 1』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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