キエフスカヤ・ルーシ(2)
〜〜”予言の力を持つ”オレーグの時代〜〜

”予言の力をもつ”オレーグ公
/ Князь Олег Вещий
? 〜 912年 初代キエフ公
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Российская |
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| リューリクの死後、幼いリューリクの息子イーゴリを守り立てて、ノヴゴロドの統治を継いだのがリューリクの一族出身であった、北欧名ヘルゲに由来する名を持つオレーグです。 |
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この章に登場するリューリク一族の系譜 ┬リューリク(? 〜 879年 )―イーゴリ(? 〜 945年) | ├シーネウス | └トルーヴァル オレーグ(キエフ公,? 〜 912年) 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
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〜 1. オレーグの統治ー根拠地の移動と貢税と 〜 882年オレーグは南下しキエフに到り、当時キエフを統治していたアスコリートとディールをだまし討ちで殺害、そのまま都を占領し初代キエフ公を名乗りました。 オレーグ公はそのままキエフにとどまってこの地を統治し、こう言いました。ー「この町をしてルーシの町々の母たらしめよ」ーこうして南ロシア、現ウクライナ共和国近辺に、ロシアの文明の曙光、キエフスカヤ・ルーシが成立することとなります。 |
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しかしなぜオレーグは、ルーシの建国者であるリューリクの治めた由緒あるノヴゴロドから、より内陸のキエフへと根拠地を移したのでしょうか。「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれた通商路の最北の町ノヴゴロドと最南の町キエフを同時に押さえることで、この通商路の完全制覇を狙ったのはむろんのことでしょうが、これではなぜ根拠地を移動させたかの説明にはなっておりません。むしろ、時代を経るに連れてノヴゴロドがどんどん独立傾向を強め、ついには自治都市にまでなってしまった経緯を見ると、二つの水系の統一というよりは、やはり根拠地の移動、ノヴゴロドを切り捨て、キエフに重点を移したという方が適切と思われます。 この理由と致しまして、一つには、オレーグは「勝ち易きに勝つ」ためにキエフへと移動したのでしょう。ヴャリャーグたちの戦闘能力はこの時代ヨーロッパ近隣ではほぼ最強を誇っておりまして、ビザンチン宮廷でも傭兵として彼らは雇われ、さらにリューリクのひ孫のウラジーミルがキエフ公位に就いた際には、ウラジーミルがスウェーデンからやとったヴァリャーグ人傭兵隊の力が預かって大いに力がありました。時代こそ少しずれますが、中世叙事詩「ロランの歌」や「ニーベルンゲンの歌」にもヴァリャーグの傭兵に関する言及がちらっとあります。 彼らと戦ってうっかり負けてしまえばどれほど金品を要求されるかわかったものではありません、つまり、自分達より強力な親族の攻撃をおそれて南に根拠地を南に設けたのです。ところが、この新たに引っ越してきた南の土地は、北の土地と全く逆のことがいえます。南(現ウクライナ)は農業に適した豊かな土地ですから、土地も温暖で人も温厚、つまり戦闘訴えても十分勝てる相手ですし、しかもこの土地には巻き上げるだけの資源があるのです。この考えを裏付けるのが年代記に記されたオレーグの行動です。さらに、後で述べますが、このキエフ遷都には、もう一つのさらに重要な意味がありました。 まずオレーグは一族でもある戦闘能力にたけたバイキングのヴァリャーグ人部隊を引き連れ、883年ドレヴリャーネ族を屈服させてクロテンの皮一枚の貢物を貸しました。ついで翌884年セヴェル族を破り、貢物を課してハザール汗国への貢納を停止させます。同年ポリャーン族、ドレヴリャーネ族、セヴェル族、ラジーミチ族の地を併合します。あまりいい言葉ではありませんが、簡単に言うと「カツ上げ」でキエフ公国の財政を固めていったのでした。ずらずらと種族名を挙げるだけでは味気ないですので、それぞれの種族の考古学的な説明を致します。 ・ポリャーネ 『過ぎし日々の物語』の作者が特に好意的に書いている部族です。竪穴内式クルガン(高塚墳)がポリャーネの特徴で副葬品は、指輪状のこめかみ飾り、針金の指輪、ガラス・彩色・めっきビーズなどなどです。 ・ドレヴリャーネ 非クルガン式(高い塚をつくらない)の火葬墓と骨壷を収めた共同クルガンがこの部族の特徴です。副葬品はポリャーネと殆ど変わりません。 ・ラジーミチ 火葬と地表式土葬がこの種族の特徴です。七放射状のこめかみ飾りが特徴的な副葬品です。その他、牛の頭部型、月型、十字型の円形垂れ飾りなどがあります。 ・セヴェル 竪穴内式墳墓であり、球形ビーズ、特に螺旋形こめかみ飾り、ねじり状首飾りなどがこの種族に特徴的な副葬品です。また、この種族は小高い丘の上に堅固な防備集落を作って住んでいました。 貢税によって財政を固め軍資金を確保し、さらに服属を拒否する部族と戦闘を繰り返しつつ自己の手勢を精強部隊へと変貌させ、キエフ公国だけでは編成不可能な大軍を、服属した諸部族から兵を借りることで組織しました。 〜 2. コンスタンチノープル包囲ーオレーグの快挙 〜 こうしてオレーグが、満を持して行ったのが、当時のキエフにとって東の超大国ともいえる皇帝レオ四世の時代を迎えていたビザンチン(東ローマ)帝国遠征です。ここでオレーグはビザンチン帝国を相手に彼の天才的な軍略の才を見せつける事になります。 2000槽といわれる大小の兵員物資輸送用、上陸用舟艇を率いたオレーグは海からビザンチン帝国の心臓部首都コンスタンチノープルへに迫りました。 ビザンチン帝国側は、バイキングのヴァリャーグ人部隊を中核とするキエフ公国軍と海戦を行うのは不利と考え、海峡(金角湾?)を封鎖、オレーグの船団が海からコンスタンチノープルに接近するのを阻止し、近くの岸でキエフ公国軍を迎え撃ちました。 しかしビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルは、410年のゲルマン人の首領アッティラによるローマ陥落の惨事に震撼した当時のビザンチン帝国の人々の力により、テオドシウス帝時代にほぼ全体が完成した、前代未聞の大城壁を備えていたのです。 コンスタンチノープルは下に示すように三重の防壁で囲まれ、その上海水を引き入れた外堀の巡る難攻不落の城塞都市として知られていました。 |
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この城壁の完成時にはレギウス門に記念碑が建てられ、その記念碑には 「テオドシウス帝の命令で、二ヶ月以内に、コンスタンチヌス(当時の市総督)はこの強大な城壁を見事に建設した。パラス(パラス・アテネ)といえども、これほど強固な要塞をこれほど早く作ることはできなかったであろう」 という自賛のラテン文が添えられたくらいです。 さらにすでに湾が封鎖されているため、コンスタンチノープル唯一の弱点ともいえる金角湾沿いの手薄な城壁には、近寄れません。 これでは埒が開かず、もし総力戦に突入すれば圧倒的な経済力を誇るビザンチン相手ではキエフ公国は国力が続きません。このままではキエフ公国側は撤退です。そこでオレーグは、「過ぎし日々の物語」のハイライトの一つである以下の作戦を命じました。 −「そしてオレーグは船を岸に運ぶように命令し、一方自分の軍勢に車輪をつくり船に取り付けるよう命じた。向かい風が吹き、帆を揚げ、船は陸を通って都(コンスタンチノープル)へ運ばれた。」− 事実は割と簡単なことだと思われます。要するにこの当時のヴァイキングの船は、川を伝って内陸部奥深くまで進入するため船底が浅くつくられており、帆船のような規模の船というより、大型のカヌーといったほうが適切な程度でした。 したがって彼らは川を使って平原を移動する際、二つの川が支流などでつながっていない場合、船を人間が持ち上げる、もしくは丸太を敷いてその上に舟を載せ、人が船を押して、一方の川からもう一方の川へ移動する、ということをしばしば行なっていたのです。 この船の陸上輸送移動方法は、「ヴァリャーグからギリシャへの道」、バルト海のフィンランド湾からヴォルホフ川を上り、さらにドニエプル川を下りから黒海にいたり、コンスタンチノープルへ渡る道を航海する際に行われていたやり方です。 二つの河川の直接つながっていない二ヶ所の部分、ロヴァチ川上流と西ドヴィナ川支流の間、西ドヴィナ川上流とドニエプル川の上流の間は「連水陸路(Волок)」と呼ばれる二つの川を結ぶ最短距離の船曳道があり、ロシアの画家ニコライ・コンスタンチノビッチ・リョーリフが陸を移動するヴァリャーグ達を描いた作品があります。 |
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次も連水陸路を使って船を移動させている絵です。このように、大河や連水陸路を使うことでこのバイキング達はたとえ陸上でも海上のように自由な行動ができました。この時代から800年近く時代が下った後、彼らの子孫がシベリアに入植した際、この彼らの性向とシベリアが多数の川が流れる地であったことが、広大なシベリアの領有を可能にしたといいます。そもそもヴァリャーグたちの住んでいた地域とシベリア北部ってほぼ緯度的に同じところにありますから、自然環境も似通っており、その地の自然環境に強い影響を受ける生活習慣も似通っていたでしょうから、なおさら溶け込みやすかったのでしょう。 |
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つまり、普段バイキングが行なっていた移動手段の一種を、ここでも少々大掛かりにやったまでなのですが、ともかくこの作戦を含む「過ぎにし日々の物語」のキエフ公国敢闘の記事は、オレーグの軍事上の才と当時の超大国ビザンチンを相手に予想外の健闘を行ったキエフ公国軍への賛美の現われととらえるのが適切かと思われます。 これらの壮挙に恐れをなしたビザンチン帝国側は講和を申し入れ、ここが潮時と、おそらくこのタイミングを開戦前からずっとうかがっていたオレーグは、形勢有利なまますかさず申し入れを受け入れました。 このときオレーグは、カルル、ファルラル、ヴェルムード、ルラーフ、およびステミードといったいかにもスカンジナビア系出身者の名前の使者をおくり、ビザンチン帝国がルーシの町々に(ガリダルキ、町の国というくらいですから)貢物を納めさせるよう取り決めを結びますが、オレーグがビザンチン帝国から得た最大の戦果は、領土ではなく、賠償金ではなく(キエフ、チェルニーゴフ、ペレヤスラヴリ、ポロック、ロストフ、リューベチなどにも貢物を送ることを約束させたということですからかなり大きいといえば大きいのですが)、奴隷でもなく、キエフ公国の軍事的圧力の下、911年に締結された通商条約でした。 この条約が結ばれる以前は、通商条約がないものですから、ルーシ商人は安全にコンスタンチノープルを通れません。ですから、スウェーデンのルーシの交易ルートは、現ペテルブルク付近から上陸し、ネヴァ河をさかのぼってノヴゴロドに至る、あるいはラドガ湖を経由するなりして、連水陸路をつたってヴォルガ川の支流に入ってハザール汗国の都市イティリに入り、アッバース朝の奴隷商人と交易するものが一つ、これがメインルートでした。あるいは、ノヴゴロドから出発してバルト海を抜け、ドーバー海峡あたりでフランスに上陸し、南下してフィレンツェあたりから地中海に出、そこからコンスタンチノープルにいたるというルートがもう一つです。しかし、後者のルートは目的地にいたるまでの日数がかかりすぎるので、あまり繁盛したとは思えません。 その考えを裏付けるのが、スウェーデン・ヴォルガ川流域で発見されている、大量のアラブとペルシャの貨幣です。ロシア北部での出土量はいまのところわかりませんが、同じくスウェーデンで発見されたアラブの貨幣は8万5千枚近くであり、発見されたビザンツ貨幣の5千枚をはるかに引き離しております。この当時のスウェーデンの歴史はかなりの部分がロシア北部と重なりますので、ルーシでもヴァイキングの交易はその圧倒的な部分がイスラム商人との間のものであったことが推測されます。要するにヴォルガ川のルートは通いやすかったため、多くの商人が利用し、繁盛したのです。 かてて加えて、そもそもこの時代は622年のヒジュラから始まるイスラム帝国の勃興期が732年のトゥール・ポワティエの戦いで峠をこし、アッバース朝は地中海を囲繞する大帝国であるものの、スペインで後ウマイヤ朝がおこり、チュニジアと中心都市、シチリア島も支配下に納めるファティマー朝が起こるなど、国土がばらばらになりかけていました。とうぜんイスラム帝国の国威が輝いていた時代までは、安全だった地中海も、中央権力の弱体化により海賊の跋扈する危ない海となってしまい、代用ルートとして、キエフからノヴゴロドまで北上し、そこからバルト海をつたってヨーロッパ大陸へ物産が流通していく、というルートが発達しました。ですから、地中海を通る交易ルートは、ますます使い勝手が悪いのです。 アッバース朝との貿易ですが、この当時のイスラム世界は、急激に広がった国土を統治するのに文字通り人手が足りず、隣接するあらゆる地域からの奴隷の買い付けを積極的に行なっておりました。ですから、ルース商人の扱っている商品はたいてい奴隷、また、この当時のルースおよびルース商人について記録を残したのは殆どがイスラム商人、もしくはイスラム商人の情報を収集整理したイスラム地理学者でして、10世紀の記録になりますが、地理学者イブン・ルスタが、そのようなルース商人の姿を描いています。 ールースは湖内の島に住んでいた。彼等の住んでいる島を徒歩で一周するには、三日を要した。この島は深い藪と林で覆われていた。不衛生極まりない湿地で、歩いた後にはくぼみがついた。彼等の王子はハーガン・ルースといわれていた。彼等は船を用いてスラヴ人を捕らえては、ハザランとブルガール(ハザールとブルガール)に運び、売り払った。彼等は畑を持たず、スラヴ人の土地から手に入れたものだけで生活していたのである。…彼等は居住地、開拓地、畑を持たなかった。彼等の取引といえば、黒テン、リス、その他の毛皮の商いだけで、それを彼等から買うことを望むものに売るのだった。支払いとして貨幣を受け、それを彼等はベルトの間にしまいこんだ。ー この通商条約を結ぶことにより、歴史も古く経済力も高いビザンチン帝国と直接交易できるようになり、ルーシの関税収入等も飛躍的に増大したのは想像に難くありません。つまり、通商における「ヴァリャーグからギリシャへの道」、をビザンチン帝国と通商条約を結ぶことにより、国家的な規模で保障したのがオレーグ公だったのです。開祖リューリクの領したノヴゴロドを後にし、キエフへ遷都行なった理由は、これまでのルートよりさらにうまみの大きい、キエフードニエプル河ー黒海ーコンスタンチノープル・ルート開拓を目論んで行なわれた、オレーグ公の深謀遠慮によるものだったのです。 条約により、シルクロードの重要な交易路の一つである、コンスタンチノープル−黒海−カスピ海−メルプ−バグダット通商路の一端にキエフ公国が参入するに成功し、キエフスカヤ・ルーシは東西貿易路の中継地点として、繁栄の第一歩を踏み出すことになります。逆にこれまでの繁栄から一転、衰亡の道を歩み始めたのがハザールです。通商路からはずれ、乾燥帯では灌漑用水を引いて農地改良でもしなければ(乾燥帯は大概、陽光・温度共に十分で、うまく灌漑できれば非常に高収穫が期待できる農地となります。しかし、こういう乾燥帯に無理やり水をまいて大規模農業をすると最終的には塩害が発生しますが…。ですから、自然に逆らう開発はやめたほうがいいです。)、あとは関税収入くらいしか高収入が期待できるものがありません。 しかし、基本遊牧民族だったらしいハザールは、川岸を整備してその氾濫を抑え、灌漑用水網を張り巡らせるだの、川がなければカナート(今風に言えば地下灌漑用水路)でも作って人工オアシスを作るといった高度な技術は持っていなかったらしく、通商路からはずれ、収入を断たれたことで、これ以後ハザールは徐々に国力を弱めていきます。 この世界史的変動に便乗できたキエフ公国は発展を遂げていくこととなり、このうまみは、中世最大の運送業、十字軍にうまく乗っかることができ、そのときためた資金で台頭したイタリア海洋都市国家の地中海ルートの再興までつづきます。 さて、話をオレーグに戻しますと、この条約を、レオ四世は十字架に口づけして誓い、まだキリスト教の広まっていなかったルーシの人々は、ペルーンおよび家畜の神ヴォロスに誓いました。 武力の傘の下に市場参入あるいは市場開拓を行うのはいつの時代にも見られるやり方です。「右手に剣、左手に秤」とよばれたバイキングにふさわしく、オレーグもこの方法を採用することにより、キエフ公国を強国たらしめる基礎を作ったのでしょう。 〜 3. オレーグの最後ー謎めいた死 〜 オレーグの最後は、キエフスカヤ・ルーシの伝説の時代にふさわしく、謎めいたものでした。ある時彼は予言者に、「自分の愛馬によって死を迎えるであろう」と言われました。それ以後オレーグは愛馬にまったく近寄らず、結局その馬は死んでしまいました。 オレーグが愛馬の死を確かめようと、馬の死骸を見に行ったところ、すでに馬は骨になっており、頭蓋骨がそこに転がっていました。オレーグは笑って、「どうして死んだ馬が私を殺すことが出来るのだ」と言い、その頭蓋骨を足蹴にしました。するとその頭蓋骨の中には毒蛇が隠れており、そのヘビにかまれたオレーグは亡くなったといいます。 ともかく、オレーグの卓越した軍事政治にわたる才能と先見性によるキエフ公国の統治によって、後世の人々は彼を「予言の力をもつオレーグ」と呼ぶこととなりました。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『ローマ帝国衰亡史 8』 エドワード・ギボン 中野好之 訳 ちくま学芸文庫 ・『ヴァイキングの世界』 ジャクリーヌ・シンプソン 早野勝巳 訳 東京書籍株式会社 ・『ロシア民族の起源』 マヴロージン著 石黒 寛訳 群像社 ・『ロシア原初年代記』 国本哲夫 訳 名古屋大学出版会 ・『ロシア史 1』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |