キエフスカヤ・ルーシ(3)
〜〜イーゴリ公の時代〜〜

イーゴリ公 / Князь Игорь
? 〜 945年 ドレヴリャーネ族に殺害される
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Российская |
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| オレーグの死後、北欧名のイングバルに由来する名をもつ成長したイーゴリ公は基本的にオレーグの政策を継承します。オレーグの死後ルーシに背いたドレヴリャーネ族を914年に攻撃し、勝利を収めてオレーグ時代よりもさらに多くの貢物を課します。 |
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この章に登場するリューリク一族の系譜 ┬リューリク(? 〜 879年 )――イーゴリ(? 〜 945年) | | ├シーネウス ├――スヴャトスラフ | | └トルーヴァル オリガ(? 〜 969年 ) 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
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結局「ギリシャの火」にキエフ公国側は多くの船を焼かれ兵士も動揺し、イーゴリ公はビザンチン帝国側に撃退されます。 しかしイーゴリ公は日をおいた944年、ぺチェネグ人、ヴァリャーグ人など、極めて勇猛な部族の兵を集め、再度ビザンチン帝国に遠征します。このときもまたブルガル人からルーシ来るの報告がビザンチン帝国側に寄せられ、ビザンチン皇帝ロマノスは、イーゴリの元に貴族を遣わし、オレーグ以上の貢物を与える代わりに遠征を中止するよう申し入れました。 イーゴリはドナウ河を渡ったところで自らの親衛隊と協議を行い、親衛隊たちはイーゴリにこういいました。 ー「もし皇帝がそのように言うならば、我等にはそれ以上何が要ろう? 戦わずして金と銀と織物(ビザンチン特産の絹織物)を得るであろう。我等と彼らと、いずれが勝つか、いずれに海が与するかー誰が知ろう。地上を行くのでなく、海の深みに沿うて行くのではないか、全てのものに共通の死があるのではないか」ー 確かに勝負は時の運、しかもいざとなったときの底力の違うビザンチン帝国相手では、終局的にはルーシの方が体力的に参ってしまいます。そこで、海を恐れるとはバイキングの伝統もだいぶ薄れてきたものですが、ともかくイーゴリ公はこの条件を受け入れることにします。まだまだ技術の程度が低く輸出できるような工芸品などの製造が出来ず、現金収入も乏しかったぺチェネグ人は、おそらくは遠征の際の掠奪を臨時ボーナスにあてこんで来ていたはずであり、彼らに対しては、ボルガル人の領土を攻めるようイーゴリ公は命ずることで彼らの不満を抑えます。 さて、イーゴリは新たな通商条約を帝国側と締結することとなりましたが、条約の一部改定を迫られ、商業上の特権が減少することになりました。ちなみにこのときまだイーゴリ公を含めて異教徒であったルーシ側は、ペルーンの像の立っている丘にやって来て、自分の武器とたてと黄金を供えて宣誓し、キリスト教徒となっていたルーシの兵は、聖イリヤ教会で宣誓を行ないました。 イーゴリ公は先代オレーグ公の政策により、交易の活発化により税収増加が見込めるようになったキエフ公国を相続することとなりましたが、キエフ公国の経済が未発達であった時代を反映し、公国の徴税システムも全般的に未発達でした。 950年ごろ、ビザンチン帝国皇帝コンスタンチヌス7世ポルフィロゲニトスの記した「帝国統治論」の「ルーシについて」という部分によると、キエフ公国の公は冬季に巡回徴貢(полюдье、直訳は「人々を伝って」)といわれる旅に出、自ら税金を集め、おそらくは領地を視察し、地方の裁判に判決を下し、非友好的部族と戦闘を行っていたということです。それが終わると初夏から先進文明圏ギリシャへと商売へ行きます。 ールースの冬季の生活は厳しかった。十一月始めにルースは首領をはじめ全員でキエフを出発する。そして、ルースに貢物を献じるスラヴ人□□の地域の円形の要塞へ行く(あるいは地域を巡回する、ともとれるそうです)。そこで彼等は冬を過ごし、四月になって、ドニエプル川の氷がとけると彼等はキエフに戻るのであるー ルースに支配されるスラヴの民という、少々屈辱ともいえなくも無い情景が繰り広げられていた模様です。そして6月になると、交易のためにドニエプル河づたいにギリシャへ向かいます。ドニエプル河には七つの難所があると皇帝は語り、その一つは ーその中に島とも見まがう高く切り立った岩があった。水流が岩に激しくあたり、轟音が起こった。そこでルースは岩の間をあえて帆走する方法は取らず、この地点の手前で船を岸に着け、荷は残したままであるが、乗員を陸へ揚げた。そして彼等は裸になって水中に入り、石に躓かぬよう足で川底を確かめた。同時に、船首、中央部、そして船尾にも多数の者が取り付いて、棹で船を推し進めた。このように用心深く、最初の急流は岸辺に近い部分を選んで渡った。これを渡るや否や、乗員を再び船に戻し、先へ進んだー さらに危険な場所では、バイキングお得意の、連水陸路をわたるときのあのやり方、船を担いでの移動を行ないます。 ー第四の大きな急流では、…彼等は船を川岸に寄せた。陸揚げの時に警戒にあたる人々もいた。待ち伏せしているパツィナク(ドニエプル河流域に住むトルコ系種族)に備えるため、警戒が必要であった。残りの者は船から荷を下ろし、鎖につないだ奴隷を先導して、急流を越えるまでの陸路約10キロを歩いた。これが終わると、引きずったり、時には肩に担いだりして、船を運んだ。その後船を再び浮かべ、荷を戻し、自らも乗り込んで航行を続けたー 全ての急流(ポローギ)を越えれば、休息と神への感謝です。オークの巨木(トールの神木です)のある場所で、鶏をいけにえとは極めてバイキング臭い行為です。 ー聖グレゴリウスにちなんで名づけられた島に無事到着すると、彼等は供物を献じた。この島にはオークの巨木が生い茂っていたからである。彼等は生きた鶏を捧げ、その周りの地面に槍を円形に突き立てた。彼等の間で広く行なわれている習慣に従って、パン、肉、その他持っているものなら何でも捧げる者もあった。また彼等はくじを引き、殺す鶏、自分達で食べる鶏、放す鶏を決めたのだった。ー 以上がコンスタンチヌス7世自身による巡回徴貢および商売に向かうルーシ人の説明です。この記事をもとに現在考えられている、キエフ公国のおおまかな巡回徴貢コースは、キエフからドニエプル川を北上し、現スモレンスク付近に達するや東よりに南下し、キエフに帰ってくるというものでした。 |
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君主が実際に自分で領国を回って徴税、判決などの事務を行うのは道路網が整備されておらず、地方行政組織がまだ十分整っていなかった時代、例えば中世ヨーロッパなどにおいてもそれほど珍しいことではありませんでした。 例を挙げれば、神聖ローマ帝国のハインリッヒ四世などはマインツ、ヴォルムス、レーゲンスブルグ等の当時のドイツの重要都市を20回以上訪れ自ら税金を徴収して回っています。 話は少しずれましたが、行商人、旅芸人、航海者、遍歴の騎士、巡礼、十字軍、領内を見回る領主たち、中世は一方で土地に縛り付けられた農奴という集団がありながら、生産手段が直接土地と絡んでいない人の移動は、極めて活発な時代でした。 経済が発達すれば国全体の収入も増加するため、当局も増収に見合った税制を整備する必要がありますが、税制見直しの結果増税ともなれば納税者と徴税当局との間で相当なあつれきが発生します。 また、ビザンチン帝国と対等に戦う強力な軍事力をもち、シルクロードの中継地点として財政的にも潤うキエフ公国は、周辺部族の深刻な脅威となっていました。さらに、今回の二度にわたるビザンチン遠征の費用もそうとうかさんでしまったことも予想されます。 オレーグの死の直後に叛旗を翻し、イーゴリに敗れることでさらなる貢物を課されていた、ドレヴリャーネ族は、イーゴリ公が貢税を徴収に来ると聞き、自分達の公マールとともに以下のように語ったといいます。 −「もし狼が羊のところへ度々やってくるなら、狼に食べられないうちにすべての家畜(羊)を移動させるという。この場合もそうだ。もし彼(イーゴリ公)を殺さねば、われわれすべてが破滅する。」− こうしてドレヴリャーネ族は、かれらの根拠地イスコロステニから出撃し、一旦貢税を徴収したにもかかわらずさらなる貢税を徴収しようとドレヴリャーネ族のもとへ戻る途中だったイーゴリ公を彼の親兵とともに殺害しました。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『ローマ帝国衰亡史 8』 エドワード・ギボン 中野好之 訳 ちくま学芸文庫 ・『甦るヨーロッパ中世』 阿部謹也 著 日本エディタースクール出版部 ・『ヴァイキングの世界』 ジャクリーヌ・シンプソン 早野勝巳 訳 東京書籍株式会社 ・『騎馬民族国家』 江上波夫 著 中央新書 ・『ロシア原初年代記』 国本哲夫 訳 名古屋大学出版会 ・『ロシア史 1』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |