キエフスカヤ・ルーシ(4)
〜〜女傑オリガ公妃の時代〜〜

亜使徒オリガ公妃 / Княгиня
Равноапостльная Ольга
? 〜 969年 イーゴリを補佐しルーシを統治
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Российская |
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イーゴリ公の横死ののち、幼い息子スヴャトスラフを守り立てて事態を収拾し、キエフ公国の統治に辣腕を振るったのが、イーゴリ公の妃であった女傑オリガ公妃でした。 |
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この章に登場するリューリク一族の系譜 ┬リューリク(? 〜 879年 )――イーゴリ(? 〜 945年) | | ├シーネウス ├――スヴャトスラフ | | └トルーヴァル オリガ(? 〜 969年 ) 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
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イーゴリとの結婚を機にスカンジナビア名ヘルガに由来するオリガを名乗ったのが、オリガ公妃の名前の由来ですが、そもそも二人の馴れ初めは、次のようなものであったといいます。ただし、この話は僕が見た限りでは『Сказания русской летописи』という本にしか載っていませんでしたから、ひょっとしてフォークロアか何かなのかもしれません。 ある日、イーゴリ公はプスコフ人の地に狩猟へ出かけました。狩猟場が大きな河の向こう岸に見えましたが、あいにく彼は船を持っていませんでした。 |
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その時、イーゴリ公は河を渡っている青年を見つけました。そこで公は彼に声をかけ、自分を船で向こう岸まで渡すよう命じました。二人で河を渡っているとき、イーゴリ公がその青年のほうをよくみると、青年だと思ったのは、なんと美しい娘でだったではありませんか。 彼女の美しさに魅了されたイーゴリ公はさっそく彼女に”不躾な(нескромный)言葉で”話しかけました。 オリガはすぐに彼の考えに気づき、断固としてイーゴリ公に言い放ちました。以下現代ロシア語訳では、オリガの言葉は相手に敬意を込めた二人称выではなく、親しい仲あるいは喧嘩している場合等、とにかく相手との精神的な距離が近い場合のтыとなっています。 −「公よ、なぜ私を不躾なことばで辱めるのか。あなたの考えを引っ込めなさい。私はまだ若く、しかも高貴な生まれではなく、加えてたった一人でこの地にいますが、しかしお知りなさい。−私にとっては、侮辱に耐えるより、川に飛び込むほうがよいということを!」− イーゴリ公は彼女の毅然とした態度と、筋の通った考えに驚き、押し黙ってしました。二人は黙ったまま川を渡り、しばらくしてイーゴリ公はキエフへと帰っていきました。 |
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やがて時は流れ、イーゴリ公は結婚することとなりました。慣例に従い、国中のあらゆるところから、公や貴族の血を引くいとやんごとなきおおぜいの姫君が探し出され、キエフへとやって来ました。 ところが誰一人、イーゴリ公の心に添う姫君はいません。とそこでイーゴリ公はオリガを思い出し、プスコフ人の地へ使いを送り、敬意をもってオリガを連れ帰り、二人はめでたく結婚しました。 以上のエピソードが示すごとく、平民出身(プスコフの貴族の出という話もある)ではありますが、断固たる意志をもち、賢く、誇り高く、加えて生来の美貌とキエフ公と二人で出会うという強運の持ち主であったオリガ公妃の治世は実り多きものでした。 イーゴリ殺害後のキエフ公国主要メンバーは、結局三人のキエフ公に仕えることとなった司令官のスヴェネリド、スヴャトスラフの養育係のアスムードでした。まずオリガ公妃は、姦計と軍勢、知恵と豪腕を同時に使いこなしてドレヴャリャーネ族への懲戒的復讐を果たし、彼らのキエフ公国への反抗を押さえ込み、加えてキエフ公国外部の周辺部族の動揺も押え込みます。 このドレヴャリャーネ族への懲戒的復讐とは、以下の四つです。イーゴリ公を殺害し意気のあがったドレヴャリャーネ族は、オリガに使いを送り、自らの公マールとオリガを結婚するよう求め、スヴャトスラフ公を思いのままに操ろうとします。 第一の復讐は以下のようなものです。オリガは、馬でなく、車でなく、徒歩でもなく、船の中に入ってオリガが送った使者に船ごと担がれてオリガの館へやってくるよういいました。そこでドレヴャリャーネ族が言われたとおり船にのってやってくると、彼らを前もって掘っておいた穴の中に船ごと投げ込み、生き埋めにしました。 第二の復讐は以下のようなものです。ドレヴャリャーネ族にオリガはまたも使いを出し、もし自分を妃にもらいたければ主だった名士を使いに送ってくるよういいました。それに答えてドレヴャリャーネ族の名族がやってきて、オリガはサウナを用意しますが、かれらがサウナに入ったときに扉をとざし、丸木小屋ごと燃やしてしまいました。 |
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第三の復讐は以下のようなものです。つぎはオリガ自らドレヴリャーネ族を訪ね、夫イーゴリの異教供儀を行ないたいので、ドレヴリャーネ族に蜜酒を用意するよう頼みます。彼らは言うとおりにし、イーゴリの墓が出来て、異教供儀は終わりました。その後の酒盛りで、ドレヴリャーネ族が酔った時に、オトローク(年少親兵)たちに命じて彼らを皆殺しにしました。 第四の復讐は以下のようなものです。オリガはスヴャトスラフ、スヴェネリド、アスムードらと共にドレヴリャーネ族を攻め、イスコロステニを包囲しました。一年にわたる包囲にも町は屈せず、オリガは一計を案じて家一軒につき三羽の鳩とすずめの貢物で包囲を解こうと提案します。 ドレヴリャーネ族はこれを受け入れ、鳩と雀を渡しますが、オリガは鳩と雀に硫黄を結わえ付け、夕方放しました。すると、鳥たちは住処に戻り、(科学的には疑問ですが)硫黄が発火して町は火事となり、逃げ出してきた町の人を捕らえ、町を占領しました。 かなりフォークロア的な要素が混入している復讐談ですが、要するに断固たる処置をとったということでして、この態度は、キエフ公の突然の死と幼い後継者を奇貨として、自らがキエフスカヤ・ルーシの覇権を握ろうとするキエフ公国内部の諸公の策謀を封じることにもなりました。 こうして突然の政権交代と未成熟な後継者により起るやもしれない国内国外での波乱を並々ならぬ政治的・軍事的手腕で静めたのち、オリガ公妃は内政、特にキエフ公国の財政・税制整備に着手します。 彼女は商都ノヴゴロドを手始めに、税率、税制規約、貢税納入所、貢税徴収人等を決定します。国庫収入の安定・増大を見たキエフ公国はのちの繁栄の基盤をここに確定することとなりました。 さらにオリガは、自身957年にコンスタンチノープルで東方正教会の洗礼を受けた(ことになっている)ばかりか、ザクセン王朝の東フランク王国(だいぶ後で神聖ローマ帝国と呼ばれるようになる地域です。)の皇帝オットー1世にも使者を派遣して、当時カトリックに分離しかけていた、ラテン教会の僧の派遣も求めています。 これから長いお付き合いになる神聖ローマ帝国ですが、オットーは皇帝に即位したのですから、自らが皇帝として治める帝国の名前をつけてもいいと思うのですが、オットー大帝はこれをせず、この地域が神聖ローマ帝国を名乗るのはザクセン朝のだいぶ後です。ザリエリ朝コンラート2世の時代の1043年、初めて「ローマ帝国」の名称を使用し、1157年シュタウフェン朝のバルバロッサ・フリードリッヒ1世の時代、王権神授説の観点から、ローマ法皇庁との対抗もあり、神聖帝国の名を使用し、1254年、ホラント伯ウィリアムがやっと神聖ローマ帝国という名称を使用したのです。 さて、当時のビザンチン帝国皇帝コンスタンチヌス・ポルフュロゲトス自らが書き残したビザンチン側の記録によれば、コンスタンチノープルへやって来たオリガは皇后へレナという名前を与えられ、随員であった彼女の伯父、通訳二人、高位の女性18人、下位の女性18人、従者22人、ロシア商人44人など全員が受洗したそうです。 ちなみにオットー1世は、962年ローマ法王ヨハネス12世から皇帝の冠を授けられており、それだけでは不安だと思ったのか、コンスタンチノープルへ、リュートプラントを送り、ビザンチン帝国にもローマ皇帝位を認めてほしいと、当時ビザンチン帝国皇帝だったニケフォロス2世と交渉していました(交渉は決裂しました)。 つまりオットー1世の帝国、後の神聖ローマ帝国は当時ビザンチン帝国とならばんとする西方世界の大勢力であり、オリガはこの二つの勢力の牽制を考えたのでしょうか、伝道師をキエフ公国へ招き、ルーシをキリスト教化しようとしたオリガのねらいは以下の三つであったと思われます。 まず一つはキエフをキリスト教化することで、ギリシャ語を解する知識人−当時はそのほとんどがギリシャ正教の僧侶ら−を通じてインフラ整備に必要なローマ帝国の高度な土木建築技術、国内統治に必要なローマ法典等の先進文明をルーシに導入することです。二つ目は、キエフ公国がキリスト教化することで、東の大国ビザンチン帝国とのあつれきの種を少しでも減らそうとしたことが挙げられます。最後に、国勢調査、租税徴収などの行政事務に当たる官吏として、聖職者を用いようとしたからです。 聖職者階級は大量の識字者を抱える当時の唯一の階級であり、キリスト教会は高度に組織化された、全ヨーロッパ規模で広がる唯一の団体でした。この聖職者を官吏として駆使し、国家経営の一端を担わせていたのが、中世前期の君主達です。公的には結婚できない聖職者は子供が世襲の在地支配者として定着する恐れもなく都合がよかったのです。 もっとも、オリガは最愛の息子スヴャトスラフにも洗礼を勧めますが、スヴャトスラフはー「我が一人別な掟を受けることを欲するなら親衛隊はこれを笑い始めるであろう」ーと拒否し、オリガも強いて洗礼をスヴャトスラフに勧めはしませんでした。 さらにオリガの願いでオットー1世の派遣した伝道師、マクシミヌス修道会の修道僧アダベルトたちは、オリガの息子スヴャトスラフがキリスト教に好意をもっていなかったことも影響したのでしょう、キエフに到着したそうそうキエフ住民とのあつれきを起し追い払われるなど、オリガの洗礼はあくまで個人的な範囲にとどまり、また、スヴャトスラフの例が示すようにオリガも住民に対する強制的な洗礼は望みませんでした。 ルーシ全土のキリスト教化、「ルーシの洗礼」は後のウラジーミル聖公の時代にやってきます。 夫亡き後のキエフ公国を切りもりし、息子スヴャトスラフを無事成人させ、彼に政治権力を譲った後、969年オリガ公妃はキエフで病没し、その数奇な生涯を終えます。 オリガ公妃はキエフ公国興隆の基礎を作り上げた、英邁な女君主であったといえるでしょう。私にとっても最も印象の強いキエフスカヤ・ルーシの君主の一人です。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『神聖ローマ帝国』 菊地良生 訳 講談社現代新書 ・『生き残った帝国ビザンチン』 井上浩一 訳 講談社現代新書 ・『Сказания русской летописи』 Автор текста: Карпов Алексей Юрьевич Типография акционерного общество <<Молодая гвардия>> ・『ロシア原初年代記』 国本哲夫 訳 名古屋大学出版会 ・『ロシア史 1』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |