キエフスカヤ・ルーシ(5

〜〜スヴャトスラフ公の時代〜〜




スヴャトスラフ公 / Князь Святослав
? 〜 972年 キエフ公国領を広げるもぺチェネグ人により殺害される

 


Российская

История


 

リガ公妃の息子スヴャトスラフ公は、母オリガから堅実財政を基盤とする内政のきわめて安定したキエフ公国を受け継ぎ、国力のほとんどを外政(外征事業)に振り向けることが出来ました。


     この章に登場するリューリク一族の系譜

 イーゴリ(? 〜 945年)
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   ├―――スヴャトスラフ(? 〜972年)
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   |       ├―――――ヤロポルク
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   |        |       ├―オレーグ
   |       ?       |
   |                  └―ウラジーミル
   |
 オリガ(? 〜 969


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 キエフスカヤ・ルーシの英雄時代の最後を飾るスヴャトスラフ公は、最後の、そして最大のバイキング戦士型君主でした。「過ぎし日々の物語」には、そんな彼の姿が、以下の様に生き生きと描写されています。

 ー「…豹の様に歩き回り、しばしば戦争を行なった。遠征に赴くときは輸送隊を従えず、鍋を持ち歩かず、肉は煮ることなく、馬肉であれ、野獣の肉であれ、牛肉であれ、細かくきざみ、炭火で焼いて食べた。また天幕を携えず、馬の腰掛を敷き、鞍を枕に寝た…」ー

 さらに、ビザンツのヨハネス1世時代の歴史家レオ・ディアコヌスはスヴャトスラフ公について次のように記しています。

 
ー「…かれは、スキティアの小舟を、部下に漕がせてやってきた。中肉中背で、長いふさふさとしたひげを蓄えて、肩幅は広い。鼻はずんぐりしていて、両眼は碧く、まつ毛は濃く、頭部は片側の髪の垂れた部分から削られていた。それは、貴族のしるしであった。片方の耳には、ルビーと真珠を二つ垂らした黄金の耳輪を垂れていた。白い寛衣は、いくらか清潔という点で、部下のものと異なっていた。表情は、考えに耽り、荒っぽい…」ー

 スヴャトスラフ公の時代はルーシの勢力範囲が広がり、オレーグやイーゴリの時代のビザンチン帝国襲撃のような略奪行ではなく、近隣外国勢力との本格的な衝突が起こった時代でもありました。その結果、彼はハザール、ブルガリア、ビザンチン帝国の三つの国家と激突することになり、その生涯を外征で彩ることになりました。それではスヴャトスラフ公の治世について見ていくことにしましょう。


   〜 1. ハザールについてー遊牧民族国家 〜

 ハザール揺籃の地はカフカス山脈の手前、カスピ海沿岸の草原です。ハザール人は民族的にはトルコ系で、後にヴォルガ川河口に首都イティリを置くハザール汗国を築き上げました。また、彼らはコンスタンチノープル−黒海−カスピ海−メルプ−サマルカンド通商路のうち、カスピ海−メルプ通商路に位置するカスピ海、アゾフ海、ヴォルガ川下流を押さえていました。

 さて、カフカス山脈の南に位置するアジェルバイジャンは、カスピ海南部のマザンデランと並ぶペルシャの穀倉地帯であり、かつ放牧に豊かな水草地帯であるため、古来からこの地を巡る熾烈な戦いが繰り広げられてきました。はるか後代、このアジェルバイジャン領有をめぐって、五つに分裂した蒙古帝国の二つ、イル汗国とキプチャック汗国が全面戦争に入ったこともあります。

 ハザールも当然このアジェルバイジャンに侵攻し、ザカフカース諸国のグルジア、アルメニア、アルバニアにも侵入します。この地を支配していたササン朝ペルシャ帝国はとうぜんハザールと衝突し、ササン朝ペルシャのカワード1世(488年即位)の時代、ハザールはグルジア、アルメニア、アジェルバイジャンの占領に成功します。もっともカワード1世は勢いを盛り返してハザールの地に逆に侵攻します。さらに息子のホスロー1世の時代には、ハザール、同じく強盛を誇ったサヴィルなどの遊牧民をやぶり、エルブルツ山脈の北側、カスピ海南岸に広がる水郷地帯マザンデランへの入り口アルバニアを占領していた遊牧民を追放するか、アルバニアの都市カバラに強制移住させることに成功しました。

 ところが、6世紀初期に建国された突厥帝国の誕生で状況は変わり、このユーラシア大陸に現れた大遊牧帝国にハザールは破れ、強制的に同盟を結ばされます。この時期殆ど突厥の一部として行動するハザールは、626年ジェベル=ハーンの時代にビザンチン帝国と同盟を結ぶことに成功します。ギボンによれば、ジェベルとその臣下は馬から下りて平伏して、皇帝の権威を認め、ヘラクリウス帝は平素自分が宴会で使用していた什器類や装飾品、絹を与えて自分の頭の上から王冠を脱ぎ、ジェベルの頭の上にのせてわが息子よ、と呼んだそうです。ハザールはこうしたビザンチン帝国との関係を梃子にヘラクリウス帝と共同出兵してアルバニアに侵入、ササン朝ペルシャと戦いました。

 しかし突厥帝国は内乱で崩壊し、ブルガリア、ペチェネグなど多くの遊牧民族が突厥内部から独立し、独自の行動を取り始めましたが、ハザールも例外ではなく、ブルガリア人の地を占領し、アゾフ海をも支配化に納めます。

 時代が下るにつれ、ハザールとビザンチン帝国との関係は密接なものとなります。帝位を剥奪されたユスティニアヌス2世・リノトメトスがケルネッソスに流されてきました。ところがこの皇帝は復位の望み、自らを鼻そぎ、舌きりの刑に処した連中への復讐の念を全く忘れることがありませんでした。ケルネッソスの住民にそれを本国に密告されたユスティニアヌス2世はハザール汗国に逃げ込み、ハザールのハーン、イブズィロス・グリアバノスに保護されます。そこでハーンの娘もしくは妹をめとり、彼女をギリシャ正教に改宗させ、それが皇后テオドラで、二人の間に生まれた息子がチベリウスです。ユスティニアヌス2世は結局ハザールから脱出し、ブルガリアのテルヴェル汗の助力で皇帝位に復位しました(残念なことに最終的には処刑されてしまいましたが。)。

 さらにハザールは、732年、イスラム帝国、ブルガリア人の猛攻の前に、もはや同盟者が不可欠となっていたビザンチン帝国のレオン3世の息子コンスタンチン5世に、ハーンの息女イレーネを、嫁がせることに成功します。この辺りからオアシス定住民的性格をもち始めたらしいハザールは、アラブ人の猛攻の前に、皇室との婚姻関係をたどって帝国の先進技術、都市計画および都市建設技術を導入することに成功しました。

 コンスタンティノス7世によると、9世紀ビザンチン帝国皇帝テオフィロスの時代、ハザールの汗の要請に応じて招聘された帝国の技術者ペトロナス・カマテロスを派遣し、彼らの力により交易路のかなめであり、ペネチェグ人に対する防壁である堅固な城塞都市サルケル(ギリシャ名サルケル、ロシア語名ベラヴェージャ、「白い天幕)を築き上げました。サルケルは、川が二股に分かれている土地を水掘で仕切って(その水堀のさらに内側も土塁で防御されていました)人工の川中島とした島の突端に位置し、レンガ造りでした。さらにサルケルは第二の水堀に守られていたということです。その他ハザール領内には、イティル、セメンデル、ハムリジ、バイダ、ベレンジェル、サヴガル、フトルグ、ルクン、スル、マスマダなどの都市があったと伝えられます。

 つまりハザールは彼らの生活スタイルから来る、馬を使った遊牧民族特有の高い戦闘能力、国内にシルクロードの中継地点として使用できる都市を建設する能力と、都市からあがる税収による豊かな財力の両方を備えた強力な国家だったのです。

 遊牧民族の特有の宗教受容性でしょう、ハザールでは商業を円滑にするためにも東方教会の設立も許可されておりました。また、ハザール汗や貴族達は、5代カリフ、アブドル・ヒシャームの庶子ハビーブ・イブン・マスラマ率いるイスラム帝国とザカフカースの覇権を争って735年大敗したつけで、イスラム帝国との和平の代わりにバルジール=ハーンはイスラム教に改宗します。さらに、ハザールにはササン朝ペルシャやビザンチン帝国から宗教的迫害をうけたユダヤ人達も集まっており、彼らの影響でハザールの貴族達の中にもユダヤ教に改宗する者がいました。

 そういったユダヤ教に改宗したハザールの首長や貴族達のなかから、8世紀末から9世紀初頭にかけて、オバティアがでてハーンとなります。彼はユダヤ教を主要宗教とし、ハザールは史上珍しい非ユダヤ人によるユダヤ教国家となったのです。この宗教上の混乱がハザール衰亡の遠因となったものと思われます。

 更に悪いことに、ハザール汗国にトルコ系遊牧民ペチェネグ人が襲来したのです。9世紀中ごろ、もともと西突厥の一部が分離したペチェネグ人が南ロシアに押し寄せ、ハザール人を窮地に追い込むようになったのです。ハザール汗国はハンガリア人と同盟し、ペチェネグ人に対抗しましたが、ペチェネグ人の勢いは止められず、スヴャトスラフがハザール遠征を思い立ったのはこのようにハザールにとっては極めてタイミングの悪い時期でした。





9
世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市




 さて、スヴャトスラフはまずこの強力な国家に本格的な戦闘を挑み、サルケルを陥落させ、首都イティリを破壊することに成功しました。こうしてキエフ公国は、通商路のうち、実にコンスタンチノープル−黒海−カスピ海−メルプ部分を一手に押さえ、ますます強大な国家へと発展を遂げていくこととなります。一方でイスラム帝国の猛攻とキエフ公国とペチェネグ人の両勢力の挟撃に耐え切れなかったハザールは、11世紀始めには歴史から姿を消しました。

 しかし、プラス面が生ずると、かならずマイナス面が発生するのが世の常です。スヴャトスラフがハザールの弱体化に成功したことにより、これまではハザールによって抑えられていた、ルーシの地に対する新たな脅威、ペチェネグ人が押し寄せる結果を生んだのです。

 彼らについては前に少し述べましたが、西突厥の一部が分離したペチェネグ人は、アルタイ山脈東方に起こり当初は西へ西へと勢力を拡大した契丹(916年建国、後の遼)の勢力拡大に押されて西に移動を始め、915年に初めてルーシに姿をあらわし、968年にはキエフを包囲することとなります。


   〜 2. ブリガリア戦役ーさらなる敵を求めて 〜

 ハザール汗国問題が一息ついたのち、スヴャトスラフが目を向けたのが、635年、クブラト汗が突厥から分離独立して、アゾフ海沿岸に国を立てたトルコ系のブルガリアでした。ビザンチン皇帝ヘラクレイオスはクブラトにパトリキの称号を与え、ブルガリアと同盟を結びます。彼の息子アスパルフの時代ハザールの圧力を避けてドナウ河付近に移動しますが、ともかく名君シメオンの時代を最盛期とするブルガリアは、キエフ公国に先駆けてキリスト教化し、シメオンの父ボリスの時代ブルガリア東方正教会を設立、その軍略の才を以ってビザンチン帝国領内へ何度も攻め込んでいました。

 さて、ビザンチン帝国側ですが、多少バックグラウンドを説明しますと、ローマ帝国の東西分離によって出現したビザンチン帝国(旧東ローマ帝国)は、今の時代をさかのぼること300年前、西ローマ崩壊のあおりを受け、622年のマホメットのヘジラより始まる、イスラム暦元年のアラビア帝国の誕生、それに伴うイスラム帝国の成立、ウマイヤ朝のスライマーンの弟マスラマの指揮するアラブ軍の猛攻の前に帝国は崩壊寸前でした。

 正真正銘国の存亡を賭けて戦ったビザンチン帝国ですが、そのアラブの攻撃を、レオン3世の時代、ギリシャの火とヘラクリウス帝と考案の軍管区(テマ)制度によって徴兵した農民新兵により、717718年のアラブ軍のコンスタンチノープル包囲軍を最終的に破ります。破るというよりはスライマーンの死後、戦争の嫌いなオマルがカリフとなり、さっさと軍を退いてくれて助かったのですが、ともかくアラブの重圧をはね返し、この悪夢のような時期を乗り越えることで、ビザンチン帝国はふたたび強力な国家へと変貌していたのです。

 しかしハザール汗国との同盟を使ったり、軍事改革を行なったりして、アラブを何とか跳ね返したビザンチン帝国に、帝国のすぐそばでのより重大な脅威、ブルガリア人の脅威が迫っていたのです。レオン3世はブルガリア人と講和することでアラブ軍との戦いに全力を集中することが出来、コンスタンチノープルまで迫ったアラブ軍を撃退出来たわけです。が、レオン3世は息子コンスタンチン5世・コプロニュモスはブルガリア人に対して厳しい態度をとり、762年にブルガリア人相手にアンキアロスの会戦で勝利を収めました。しかし、ビザンチン帝国はだんだん劣勢となり、女帝エイレーネーの時代には年貢金を納めねばならない羽目になっていました。

 これを挽回しようとニケフォロス1世はブルガリアのクリム汗に戦いをいどみますが殺害され、ニケフォロス1世の頭蓋骨はどくろ杯にされ、813年にはクリム汗はコンスタンチノープルを包囲します。もっとも814年にはクリム汗は世を去り、危機は回避され、クリム汗の後継者オルムタグは次のビザンチン皇帝レオン5世とトラキアにおける両者の勢力圏を定めました。831年にはオルムタグの後をついだ息子マミラルはマケドニアに侵入するも和を結びます。宗教勢力を浸透させ、この野蛮人の勢いを削ごうとビザンチン帝国側が画策した結果が実り、864年には、マミラルの甥のボリスがコンスタンチノープルで洗礼を受け、ミカエルの洗礼名をさずかり、ギリシャ正教に改宗し、全人民にも洗礼を強制ました。

 さらにブルガリアには、ボリスの息子でコンスタンチノープルで教育を受けたブルガリアの名君シメオンが即位します。どんどんブルガリアが強大となるのを恐れたレオン6世は、マジャール人に呼びかけてブルガリアに攻め込ませますが、ぺチェネグ人と共同戦線を張ったシメオンはマジャール人の撃退に成功し、返す刀でビザンチン帝国に攻め入り、コンスタンチノープルの城壁まで迫ってレオン6世に年貢金を支払わせることに成功します。

 このように、ビザンチン帝国は次から次へと外敵の嵐に見舞われていた時期ですから、代々歴代皇帝に軍人出身者が名を連ね、さらにビザンチン人の恒例行事とも言える宮廷陰謀事件を潜り抜けてきたこの時期のビザンチン帝国皇帝は、軍人出身者でありながら調略にも長けていた人物でした。

 そんな軍人貴族出身だった皇帝ニケフォロス2世・フォカスはやはり外交政策を展開、「夷を以って夷を制す」政策を採用し、以前は、ハザールに従属していたマジャールの王アルパートなどと手を組んで(使嗾して)ブルガル人に当たらせていたのです。ここでニケフォロス2世新手の蕃人の国、キエフ公国に目をつけて同盟を結び、927年のシメオンの死後、後継者のペータルのもとで内紛が起こり、弱体化したブルガリアに、ここぞとばかりにスヴャトスラフ公の支援を受けて攻め込み、ドナウ河まで領土を推し戻すことに成功していました(967968年、第一次ブルガリア戦役)。

 ルーシに話をもどしますが、この時期の968年、ペレヤスラヴェッツに本陣を敷き、故国を遠く離れてブルガリアに攻め込んでいたスヴャトスラフの隙を突くかたちで、ペチェネグ人がキエフを包囲します。スヴャトスラフの母オリガ、三人の子供のヤロポルク、オレーグ、ウラジーミルが篭城し、救援隊も川岸に集まっていましたが、ペチェネグ人の包囲は固く、篭城軍も援軍も双方なかなか使者を送る事ができません。

 このまま救援隊が突撃せねば、開城もやむなし、と言う意見にキエフ内が固まりかけてきた時、一人の年少親兵が自分が行こうと申し出ます。ペチェネグの言葉を使えた彼は一計を案じ、くつわを手にして「誰か(私の)馬を見たものはいないか」と呼ばわりながらまんまと川のそばまで接近し、服を脱いで飛び込みました。

 彼が何者かわかったペチェネグ達は矢を射かけましたが、運良く矢はあたらず、川向こうの救援隊までたどり着くことができ、軍司令のプレチチに事情を伝えます。話を聞いたプレチチは、ラッパを吹いて突撃を敢行、スヴャトスラフがたどり着いたと勘違いしたペチェネグ人は一旦退避します。

 さて、後でペチェネグ人の公が単身プレチチの元へやって来て話し合いがもたれます。プレチチが後にスヴャトスラフが大軍を率いて帰ってくるので今のうちにわれわれと同盟を結ぶべきだと主張し、結局ペチェネグ人もこれを受け入れ、講和が成立します。スヴャトスラフはブルガリアからの帰還後、ペチェネグ人を撃退して、キエフに一応平和が戻ります。

 さて、スヴャトスラフを愛し、かつスヴャトスラフの膨張政策を危惧していたであろう(必要以上の戦争は財政破綻か戦死に終わります。)オリガは、おそらく慧眼な彼女には自分の息子の行く末が大体のところは見えていたのでしょう、親子の情に訴えることで、せめて自分の生きているうちはスヴャトスラフを自分の手元のキエフに置き、破局を回避しようとします。が、そんなオリガも病が嵩じ、とうとう「私を葬った後はどこなりと好きなところへ行け」と遺言を残して亡くなってしまいました。スヴャトスラフはオリガを丁重に葬った後、ドナウ川河口のペレヤスラヴェッツに本陣を布きます。





スヴャトスラフとオリガ
母と子



 ー「…予はキエフにとどまることを好まぬ。ドナウ河畔のペレヤスラヴェッツに住みたい。それはわが領土の中心であり、そこにはあらゆる財宝、すなわちギリシャからは金、錦、葡萄酒やさまざまな果実、チェクとウグルからは銀と馬、ルーシからは毛皮、ロウ、蜜酒と奴隷が集まってくるからである…」

 生前のオリガに語った、「過ぎし日々の物語」に書かれている彼の言葉です。スヴャトスラフ公は黒海北部からドナウ川にわたる領域を支配下に治める広大な王国の建設を夢見、その中心地としてペレヤスラヴェッツを考えていたのでしょう。

 ところが、ペレヤスラヴェッツに陣取ってしまったキエフ公国軍を恐れたビザンチン帝国側は、ブルガリア遠征の血のりも乾かぬ968年、一転してブルガリアと同盟締結。これはブルガリアとキエフ公国の緊張につながり、結局スヴャトスラフはドナウ川を越えてブルガリアへ再侵攻し、ブルガリアを占領しました。


  〜 3. ビザンチン帝国との衝突ー南の超大国 〜

 これを迎え撃つべくビザンチン帝国側も同盟国救出を旗印にブルガリアへ侵攻しました(第二次ブルガリア戦役)。両大国の境にある国家はともすれば両大国のぶつかりに巻き込まれるものです。

 その例にもれず、ブルガリアは最悪の時期を乗り切り、老帝国たる面目を失わないビザンチン帝国側と、新興ではあるが旭日の勢いにあるキエフ公国の両勢力が真っ向から激突する戦場となりました。

 さて、この時期のビザンチン皇帝についてですが、サラセン(アラブ)人の「蒼ざめた死」とまで呼ばれた前皇帝ニケフォロス2世は、彼の考案した重装騎兵を率いて分裂の続くイスラム帝国を破り、東地中海の制海権を握る最重要拠点クレタ島、かつてはキリスト教の5大総本山の一つであったシリアの大都市アンティオキア(のちイスラム帝国の首都となります)等を回復したほどの人物でした。

 ところが軍隊生活が長く皇帝即位後も質素な生活を守り、ギリシャ正教の聖地アトス山に修道院を建設したほど敬虔で、自分にも他人にも厳しかったニケフォロス2世は、もと先帝ロマノス2世の妃だった妻テオファノに疎まれ、彼女は将軍ヨハネス・ツィミスケスにニケフォロス2世の暗殺を依頼しました。

 暗殺は成功し、969年、ヨハネスは皇帝に即位します。テヨハネス1世は後にオファノと結婚し、ニケフォロス2世の後釜に座りました。皇帝交代に関する国内の引継ぎが一段落するとヨハネス1世は971年春、自ら指揮をとってキエフ公国軍に立ち向かいました。

 こんなごたごたが続いても、、ヨハネス1世率いるビザンチン帝国軍は5月にはブルガリアの都プレスラウを奪回、ルーシ側に幽閉されていたブルガリア王を救出、ついでキエフ公国軍を追って北上し、6月にはドナウ川沿岸の町シリストラに立てこもったスヴャトスラフを包囲します。スヴャトスラフは従士団に演説します。

 ー「『もはやわれわれには、身を隠すべき所もない。好むと好まざるとにかかわらず、迎え撃たなければならない。ルーシの国を辱めないで、ここに骨を横たえよう。死ねば辱めを受けないからである。もし逃げるなら辱めを受けないからである。もし逃げるなら辱めを受けるであろう。逃げずに激しく戦おう。われは汝らに先駆けて進もう。もしわが頭が横たわれば、汝らはおのがことを考えよ』戦士たちは言った。『汝の頭のあるところに、おのが頭を横たえよう。』」ー

 しかし奮闘むなしく、ヨハネス1世は、65日間の戦闘の末、スヴャトスラフを降伏させます。

 無礼な野蛮人どもが略奪行にきた、程度なら面倒くさいから金をつかませて早々に退散願ってもらおう、という手段もとりますでしょうが、その野蛮人たちが本格的な国家を形成し、自国に対して恒久的な脅威・不利益を与えるなら、すておくわけにはまいりません。ビザンチン帝国も総力を挙げてキエフ公国を叩きに打って出、総力戦ともなると、よほど兵峰の鋭い国でない限り経済力のあるほうに分があるのは古今東西争えない事実です。

 この時点で971年講和条約が結ばれることとなり、ブルガリアはビザンチン帝国の影響下に置かれることが決定されました。

 結局この戦役でものをいったのはビザンチン重装騎兵隊の力でした。先に述べたごとく、おそらくは古代ローマ共和制・帝制時代のエクイタスにヒントを得たこの重装騎兵隊はニケフォロス2世の発案で編成されたものです。

 この時期のビザンチン帝国は、テケ制度で農民から兵を徴収していましたが、その中でも特に裕福な農民に税制上の優遇措置を与える代わりに戦時には重武装と馬を率いての参加を課す、というのが重装騎兵隊で、この矢をも通さぬ当時の先進重装備の前には、さしもの勇猛なスヴャトスラフも兜を脱がざるを得ませんでした。

 ちなみにこのとき、ヨハネス1世はスヴャトスラフに財宝および絹織物を送って彼の反応を見てみたということです。

 まず、使者をスヴャトスラフの元に派遣して、黄金と絹織物を献上したところ、スビャトスラフは年少親兵に片付けるよう命じましたが、武器を代わりに送ると、スヴャトスラフはそれを手にとり、愛でて皇帝に感謝の言葉を告げたということです。あくまで質実剛健を貫き、武辺のものを好み、自らも武芸に巧みであったスヴャトスラフの姿を髣髴とさせるエピソードです。

 さて、武運つたなく敗れたスヴャトスラフは、ビザンチン帝国との講和成立後、船を連ねてドニエプル川の早瀬(ポローギ)目指して出発します。この時、彼の司令官スヴェネリドが、早瀬にはぺチェネグ人が待ち受けている可能性があるので、馬で即刻帰国するよう勧めますが、スヴャトスラフはこれを受け入れませんでした。

 もっとも現在では、1950年代から1970年代のウクライナの工業化とそれに伴う電力不足を解消するためドニエプル河にやたらとダムが建設され、いまではドニエプル河は地図で見ると人造湖の数珠つなぎのような川となってしまい、早瀬なんでどこにあるんじゃい、というような状態となっています。

 運悪くスヴェネリドの予感は的中し、ペチェネグ人が早瀬を通っていく道を封鎖していました。スヴャトスラフは冬営を決めますが、準備のできていない彼の軍団は食料が欠乏し、馬の頭一つが半グリヴナで取引される状況に陥ったといいます。

 春が来、これ以上の野営は軍団の自己崩壊を起こすと判断し、スヴャトスラフは強行突破を決めますが、おそらく兵も多くが脱落したのでしょう、ペチェネグ人の公クリャの襲撃を受けて殺害されました。彼の頭蓋骨はどくろ杯にされました。

 ビザンチン帝国側の記録では、帝国側とペチェネグ人が別件で交渉している時、帝国側がキエフ公国の仇敵ペチェネグ人の公に対し、スヴャトスラフの帰途の安全を保障するよう求めたところ、ペチェネグ側はこれに応ぜず、しかもこの事情を知らされないままスヴャトスラフは出発したといいます。

 ともかく東の強国ブルガリアとキエフ公国は大きなダメージを被り、イスラム帝国は、この時代アッバース朝に代わっていましたが、ザンジの乱でもめたり、国内のトルコ人勢力が増大してカリフの生殺与奪を握るようになって屋台骨がぐらつき始めたころでしてとても外征するような余裕はない、などの理由でビザンチン帝国は当分の間帝国の四方が安定しました。新興国の出鼻をへし折った老帝国の面目躍如たるものがあります。

 悲劇的な最後とはいえ、武器によるスヴャトスラフ公の死は、オーディーンの嵐に彩られた彼の生涯をかんがみると、似つかわしいものではあったのでしょうか。

 ワリキューレたちによってヴァルハラに案内されたであろうこと確実のスヴャトスラフは今でも、ラグナロクに備えさぞかし武芸に余念のないことでしょう。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー


   ・『ローマ帝国衰亡史 8
    エドワード・ギボン 中野好之 訳
     ちくま学芸文庫

   ・『騎馬民族国家』
    江上波夫 著
     中央新書

   ・『ヴァイキング』
    荒 正人 著
     中公新書

   ・『ハザール謎の帝国』
    SA・ブリェートニェヴァ 著 城田俊 訳
     新潮社

   ・『生き残った帝国ビザンティン』
    井上 浩一 著
     新潮社現代新書

   ・『ビザンツとスラブ』 世界歴史シリーズ
    鈴木 勤 編集権発行人
     世界文化社

   ・『ロシア原初年代記』
    国本哲夫 訳
     名古屋大学出版会

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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