キエフスカヤ・ルーシ(6)
〜〜ウラジーミル聖公の時代−繁栄と衰亡の予兆〜〜

亜使徒ウラジーミル聖公 /
Князь Равноапостльний Владимир
Святой
980 〜 1015年 東方正教を国教化
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Российская |
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| 経済の発展と共にキエフ公国は強大になり、しばらく後に最盛期を迎えますが、一方で公国解体の兆しが見え始めたのもこの時代です。 国内政治の安定、有力な外敵の消滅とともに、キエフ公国の国力は増しました。しかし、キエフ公国の支配領域は拡大し、統治規模も業務も複雑化したこの時代、スヴャトスラフ公の横死に象徴されるように、一人の傑出した人物の才知が国を引っ張っていく方式に限界が現れ初めていました。それに代って、天才とはいえないかもしれませんがなかなかの能力を持つ多数の人間がそれぞれ職務を分担し統治する方式が現れてきたのです。 そんな中で、ウラジーミル聖公の時代を嚆矢とし、じわじわ発達していったのが、分領公国制であります。この制度の下で時代を経るうちに、分領公国の支配者、分領公−つまりは地方有力者たち−の力も増していったのです。 おそらくキエフ大公に代って租税を集めるため、各地に封土されていたキエフ公の一門、あるいは在来豪族として各地を統治していた分領公は、自己に忠実な軍勢をもち、キエフに租税を納めるという条件付きであるが徴税権を持つため、独自の財源を確保できました。 このシステムには血縁を軸とした封建制の初期段階、あるいはプロトタイプであり、一人の公ではとても手の回らないキエフ公国の統治が、各地の統治を複数の公で分担することにより可能となるプラス面があります。しかし、有力な分領公が出た場合、自己の領地に牢固とした基盤を作り上げ、中央の言うことに耳を貸さなくなるというマイナス面ももちます。さらに最初は親戚同士でも、時代が下ると分家が進んで血縁的にはどんどん疎遠となっていき、最終的には殆ど他人同士になってしまうため、一族の血縁的な団結が期待できなくなるという欠陥もありました。 少し話を先走ってしまいますと、時代が下ると、どのシステムにも宿命的にいえることなのですが、もっぱら弊害のみが目立つようになり、彼らはキエフ公国の大公位争い、あるいは土地争いに分家同士で団結して(特にチェルニーゴフのオレーグ家系統とペレヤスラヴリのウラジーミル・モノマフ家系統)積極的に参加し、内乱の規模を拡大かつ長期化させキエフ公国の全体の国力をすり減らすことになります。 |
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この章に登場するリューリク一族の系譜 スヴャトスラフ(? 〜972年) | ├――┬―ヤロポルク | | ? ├―オレーグ ,マルーシャ | └―ウラジーミル(980 〜 1015年 ) | ├―――┬―ヴィシェスラフ | | アンナ ├―イジャスラフ ,ログダネ | ├―スヴャトポルク | ├―ヤロスラフ | ├―フセヴォロド | ├―スヴャトスラフ | ├―ムスチスラフス | ├―ボリス | ├―グレープ | ├―スタニスラフ | ├―ボズヴィズド | └―スディスラフ 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
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スヴャトスラフ公は生前(オリガの死の翌年)、領域の拡大したキエフ公国を家族で共同して統治すべく三人の息子達、長男ヤロポルクをキエフに、次男オレーグをオリガ公妃が討伐したドレヴリャーネ族の地に、末っ子のウラジーミルをノヴゴロドへ送り、統治させていました。ちなみにウラジーミルがノヴゴロドに送られたのは、ノヴゴロドが自分達にも公が欲しいとスヴャトスラフに伝えてきたことがきっかけでした。 ノヴゴロドはノルマン人の本場スウェーデンに近く、しかも商都ですからノルマン人たちに狙われる不安をいつも抱えていたに違いありません。しかも基本的に商業国家国家は軍事的に常に弱体であり、この当時の公は為政者としての面より軍事指揮官としての面がはるかに強かった訳ですから、ノヴゴロドは自分達を統治してもらいたいというよりは、自前の傭兵隊を雇いたいという感じで公をもとめたのでしょう(実際時代が下るにつれノヴゴロドでは民会の自治がどんどん拡大していきます)。 もし公を送ってもらえないなら他の国から公を受け入れる(他国の傘下に入る)との嚇しを受けて、スビャトスラフはヤロポルクとオレーグに、どちらがノヴゴロドに行くべきか尋ねました。ところが両人ともがノヴゴロドに赴任するのを嫌がりました、そこでウラジーミルの伯父のドブルイニャの入れ知恵でウラジーミルがノヴゴロド公として赴任することに決定します。 中央のキエフから見てとんでもない僻地に飛ばされた、といった感がありますが、ロシア語には"Остадки-сладки."(残り物は甘い、つまり「残り物には福」)ということわざがあります。商都として発展し、豊富な政治資金を捻出でき、当時ルーシ近辺で最強の戦闘力を誇ったヴァリャーグ人傭兵隊の補給地スウェーデンと指呼の間にあり、かつあの偉大なるパイオニア、リューリクが最初に公位についたという、ハクづけにはもってこいの都市ノヴゴロドとのコネを作り上げることに成功したことは、ウラジーミルにとって後々極めてプラスになりました。 スヴャトスラフの横死後、ウラジーミルの兄ヤロポルクがキエフ公に即位しました。ところがヤロポルク公はオレーグとの関係が悪化します。事の発端は、弟のオレーグが、ヤロポルクの部下であったキエフの軍司令官スヴェイナルドの息子のリュトが、狩りに夢中になってオレーグの所有する森へ分け入ったところ、森の持ち主のオレーグとばったり出会い、狩場を荒らされたことを怒ったオレーグがリュチを殺したことです。結局スヴェイナルドの勧めでヤロポルク公はオレーグに対し出兵します。 正直、この記事には古代的統一世界の崩れと、貴族制への移行と封建制への発展の第一歩がいみじくも示されていると思います。 この時代の各都市の公の地位は、一言でいえば中央から公地の統治を委任された行政官にあたります。世襲地が工たちの間で正式に認められたのは1097年のリューベチの会議であり、裏を返せばそれまではルーシの地は誰のものでもなく、神祖リューリクの与えたもうた土地を、リューリクの一族(これがルーシ統治の資格でもあります)が大事に共同管理・発展させていく、というのがこれまでのルーシ統治のやりかたでした。 しかるに、この記事で私有地(おそらくは荘園のプロトタイプ)の概念らしきものができ始めていることが看破できます、あるいは交易ではなく、土地による資本形成の概念といいましょうか。その血統により、都市の統治者の地位を独占できた名門貴族たちは、その権力を利用してあちこちに私有地(荘園)を設け、新たな安全な資本形成を行なおうと画策します。 だんだんと私有の耕作地が増大していけば、渡り鳥稼業でなく、自分の私有地が注中している土地に土着したくなるのも時間の問題で、こうして一箇所に定住した公たちは天下の土地に自己の領分を設定し、その範囲から他者を激しく排斥し、あるいは領分を拡大しようと武力を用いた画策を始めます。キエフスカヤ・ルーシ時代の分領公同士の争いはこうして発生したものでして、ここまでくればもはや押しも押されもせぬ封建君主(あるいは武装した大百姓)、分領公の誕生と相成ります。 この領地は世襲地として親から子へ受け継がれます。この新手の貴族たちの権威の根源はもはや血筋、あるいは高位高官を独占(有力都市の公となった)してきた家門の歴史ではなく、代々世襲地される土地にあります。土地貴族(封建領主)誕生の瞬間です。 ちなみにこうなってくると封建君主たちは所領を耕作させるため自己の領地に大量の農民を召抱えることになり、これまで都市の人間が昼頃郊外の自分の農場に出かけ(そこにДача、ダーチャがあるわけですが)、閉門前に都市に引き返してくる、という都市型農業とはまったく別の、耕作地帯に直接耕作民が住み着く、農村地帯が出現することになります。 農村地帯に住み着いた耕作民は、大概が自らの土地を失った隷民でして、いわいる農奴となって制度的にも彼らの地位が固定され、ここに中世の開幕、といった次第になります。 話が先に飛びすぎましたが、ともかく泡を食ったオレーグは一応兄を迎え撃ちますが、戦いに敗れ、要塞化された町ヴルーチ(オヴルチ)に逃げ込もうとします。この町の周りには堀が巡らされ、一本しか橋がかかっていなかったということなのですが、そこへわれもわれもと兵が殺到し、橋から押し出されてたくさんの兵が落ちて死に、その中にオレーグも混じっていました。 ヤロポルクはオレーグを探させ、結局一人のドヴァリャーネ族の証言でオレーグが堀の中で圧死したことがわかり、ヤロポルク公は結果的に弟オレーグを敗死させてしまったことがわかります。発見されたオレーグの遺骸はヤロポルク公の前に運ばれ、足元の敷物に寝かされました。ヤロポルク公はスヴェイナルドに向かって「お前が欲しかったのはこれなのか」と涙ながらに言ったそうです。 そういっても後の祭りですし、太平の世でやさしさは確実に美徳ですが、乱世ではその裏返しの意志の弱さということになり、君主にとっては致命傷にとなります。ともかく、すぐ上の兄の惨劇を目の当たりにし、次の標的は自分だと考えたウラジーミルは「海の向こう」へ逃亡します。ウラジーミルの逃亡により、ヤロポルク公はあらたに代官(ポサードニク)を送ってノヴゴロドを統治します。 亡国の君が優遇されたためしはありません。君公の身でありながら亡命者の辛酸をなめることとなったウラジーミルは、流浪の身でありながらヴァリャーグ人の地で自己の勢力の拡大に成功し、3年後に強力なヴャリャーグ人傭兵隊を率いてキエフへ帰還しました。さらに亡命下での辛い暮らしは彼に冷徹さも授けたようで、今後のウラジーミルの行動には、上の兄二人と異なり、極めて果断な処置が見られるようになります。ちなみにこのヴァリャーグ人たちの傭兵稼業はルーシでも有名だったらしく、現在でも口語ロシア語でбарягとは臨時の助っ人のことを指します。 ここでウラジーミルは、キエフへの進撃路および進軍中の兵站と同盟者を確保するためでしょう、ノヴゴロドからキエフへの通路にあたるポロック公国のログヴォロド公(スカンジナビア人名)へ使いを出し、娘を妻にめとりたいと申し出ました。 |
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ウラジーミルから縁談をもちかけられたログヴォロド公は娘ログネダに気持ちを問いただしたところ、ログネダはなんと −「女奴隷の息子の靴を脱がせるのは嫌です。でもヤロポルクの靴なら脱がせたい。(当時のスラブ人の習慣では花嫁は未来の夫の靴を脱がてやる習慣がありました。)」− と発言します。帰ったオトローク(年少親衛兵)からすべてを聞いたウラジーミルは、ノヴゴロドで軍勢・兵站をととのえるとポロック公国を攻撃、ログヴォロド公と公の二人の息子を殺した後、この時ヤロポルクとの縁談が進んでいたログネダを強制的に妻にしました。 このポロック公国は、クリヴィチ、ドレゴヴィチ、ラジミチの三種族が混合して誕生した、現ベラルーシの源流となる公国で、ベラルーシに触れた大抵の歴史本(もっともそんなに数は多くないですが)ではこの事件とポロック公国をベラルーシの起源として取り扱っています。 旧ソ崩壊後、独立はしたものの、ベラルーシはこの地域としては極めて珍しいと思うのですが、民族的アイディンティティーがあいまいで、調査機関「ノヴァク」の2000年の調査によると、「あなたのみるところベラルーシ人とは何者か」の問いにたいし、「個別の自立した民族である」の回答50%、「三位一体のロシア民族の一つである」の回答が43%という結果が出る状態です。この、「三位一体のロシア民族」とは、帝政ロシア時代のくくりで、ロシア民族には、三つの氏族があり、大ロシア人(今のロシア人)、小ロシア人(ウクライナ人)、白ロシア人(ベラルーシ人)である、というのがありました。つまり、「三位一体のロシア民族」とは、ウクライナ人やベラルーシ人は存在せず、ただ、ロシア人に三つの氏族が存在するだけだ、ということを言っているのです。 旧ソ崩壊後、ソ連時代の各共和国のロシア離れが急速に進む中、ロシアとの統合を公約とする欧州最後の独裁者と呼ばれるルカシェンコ大統領に率いられたベラルーシのみは、1995年の国民投票でロシアとの統合を同意(!)し、ロシア語をベラルーシ語と並ぶ国家言語に指定するなど、ロシアとの統合にひた走っておりました。2004年の段階でプーチン大統領はいきなりの統合ではなしに、まずは通貨統合からという慎重な姿勢を示しています。 このような状態ですので、ベラルーシ国内では明らかに少数派である民族派知識人たちはなんとかベラルーシに民族意識を作ろうと躍起になっています。例えば、バトゥの征西の際、ポロック公国はモンゴル人の支配下に置かれなかったので、ベラルーシはもっともスラヴの純粋を保っている(個人的にはスラヴ圏でベラルーシほど混血の進んだ民族はないと思うのですが。)から固有の民族といえる、などなどです。 ポロック公国なども民族派の人たちの切り札で、この時点では確かに他のルーシ諸公とポロック公国の違いはあまり挙げることができませんが、のちにポロック公国は数ある分領公国中一番最初かつもっとも激しく中央に対する反発を、反乱という形で顕著に示したわけで、だからベラルーシは、ロシアと違う固有の民族だと主張しているわけです。 どんどん南下するウラジーミルの軍勢の前はヤロポルク公は有効な手をうてず、それどころかウラジーミルは公の家臣であるブルートを寝返らせることに成功します。ウラジーミルは以下のような言葉でブルートに裏切りを誘いかけたのでした。 ー「私の友となれ、兄を殺した上は、あなたを父の代わりとするであろう。大いなる名誉をあなたは私からうけるであろう。兄弟を討ち始めたのは私でなく彼である。私はこれに驚いたが、今は彼を攻撃するために来たのだ」ー これに乗ったブルートはヤロポルク公に、キエフの民がウラジーミルに町を明渡そうとしていると「忠告」します。それを信じたヤロポルク公はキエフを脱出し、ブルートとともにロドニアという町に身を潜めます。 ウラジーミルは兄を追って更に南下しロドニアまで押し寄せ、町を兵糧攻めにします。そこでブルートはまたもウラジーミルと講和するのがよいと「忠告」し、ヤロポルク公は、ブルートの言葉に従います。ここで、ヴァリアイコが、ー「行くな、公よ、汝は殺されるであろう。ぺチェネグ人の元へのがれよ。しかして戦士たちと連れ来たるがよい」ーと進言しますが、これは聞き入れられませんでした。 ヤロポルクがウラジーミルのもとへやってきた時、ウラジーミルはヤロポルクを彼の部下と隔離した上で、二人のヴァリャーグに命じて、剣でヤロポルクの胸を突き刺し殺害します。 ウラジーミルはこうして降伏してきた兄ヤロポルク公を謀殺したわけです。カラムージン曰く、「ヤロポルクのウラジーミルに対する信頼は、その心根のやさしさを示しているが、寵臣にあやつられ、王座を守ることができず、かといって勇者として死ぬこともできない君主は憐れみに価しても、権力の座にふさわしくない」、そうですが、私には少々かわいそうなコメントだと思われます。 兄を倒した後、ウラジーミルはヤロポルクの妻であった元修道女のギリシャ人の女を妾とし、980年キエフ公の地位につきました。 〜 2. ウラジーミル聖公の遠征ー周辺部族威服 〜 キエフ公に即位し、要の都市ノヴゴロドにはドブルィニャを送ったことで身辺を固めたウラジーミルは、ついで遠征に出発します。まずはキエフ付近の支配地域を広げようと981年キエフ西方のリアク人の地を攻め、チェルヴェンとペルムイクルの町を占領し、ついで東のヴィアティチ族をやぶって納税を再開させます。 ついで海に出たかったのでしょうか、983年ニーメン盆地の付近に住んでいたイアトヴィジアーネ族をやぶり、彼らの土地を占領します。これによってプリピャチ川、ネマン川の水系がキエフの支配下に入ることになり、商売上も潤ったことでしょう。 984年にはラジミチを破り、彼らにも納税を強制することに成功します。 わりと近めの周辺部族の威服に成功し自信をつけたのでしょうか、次は985年ブルガール遠征を行ないます。このときウラジーミルが攻めたのは「銀のブルガール」とよばれる民族で、ヴォルガ川とカマ川の交差する一帯に住んでいました。これまでとは違って父スヴャトスラフの破ったハザールの支配地をぬけ、かなり遠出した戦いです。 キエフの東の部族にたいしてにらみを聞かせていたであろうブルガール人を叩くことで、する統制をつよめようとしたのでしょうか、この戦いでは和平を結ぶにとどまりました。 〜 3. ビザンチン帝国皇女御嫁下と ルーシのキリスト教化 〜 ウラジーミル聖公に関する話として必ず取り上げられる二つに、ビザンチン帝国の皇女を娶った話と、ルーシのキリスト教化についての話があります。 ちなみにこれまでのルーシが信ずる神々は、最高神スヴァロク(天を歩く人)、太陽神ダイボグ、風神ストリボク、特に属性のない神コール、詩と神託・お金と家畜と商売の神ヴォロス、かまどの神シム、収穫の神ログル、女神モコシュ、雷神ペルーン、戦いと豊穣の神イアリロなどでした。また、悪神もおり、疫病の神マーラ、死の女神モアルガナ、ふくろうを従えるディヴなどがありました。ウラジーミルはこれらの神々の像をキエフおよびノヴゴロドに建てさせていました。 |
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ウラジーミルがキリスト教に興味をもち始めたのには以下のようなバックグラウンドがありました。 コンスタンチノープルを中心とする大商業網の一端につらなったキエフは商人の立ち寄る都として繁盛していました。近隣諸国を平定し国力が充実し、人口も増加していたにも関わらず、特定の強力な宗教に帰依していないキエフ公国をぜひとも自己の宗教陣営にひっさらおうと、当時ウラジーミル公のところには各宗教の宣教師が何人も押しかけていたようです。 まずブルガール人のイスラム教の宣教師がやってきて、ウラジーミルは彼らの話を聞きました。房事多過であった公にとって一夫多妻制は大変気に入ったようでしたが、割礼と豚肉を食べないこと、とりわけイスラム教では飲酒が禁止されていることがお気に召さなかったようです。そこで、 −「ルーシにとっては飲むことが楽しみなのだ。われわれはそれなしには生きている価値がない」− と言い切り、イスラム教の受け入れを取りやめました。 ついでカトリックの宣教師(当時は1054年の東西教会分裂がまだ起こってないはずですが、それ以前に聖像破壊運動やローマ教皇首位権問題、フィリオクエ問題やフランク人のイタリア侵攻によるビザンチン勢力のイタリア半島における衰退で、ローマ教会と東方教会はすでにだいぶ対立していました。)がやってきましたが、彼らは、 −「…私たちの信仰は光であり、私たちは天と地、星、月およびあらゆる生き物を創られた神を礼拝していますが、あなた方の神々は木(木製の偶像?)です。」− と、宣教師たちは、ルーシの人々が長年大切にしてきた父祖の神をけなすともとれかねない発言を行ないました。おそらくこのコメントにカチンときた、あるいはこのような不用意な物言いをする連中なら、祖母のオリガの時に神聖ローマ帝国皇帝オットー1世が送ってきたマクシミヌス修道会の修道僧アダベルトたちと同じく民衆と摩擦を起こし紛争の種になると考えたか、ウラジーミルはやはり彼らも追い返しました。 そしてユダヤ教を国教とする遊牧民族国家ハザールからユダヤ教徒がやってきて、ユダヤ教の説明をしましたが、彼らの唯一絶対神と、律法、ローマ帝国のユダヤ王国完全属州化にともなうディアスポラ(ユダヤ人の離散)について説明を受けたところで、 −「…もし神がお前たちとお前たちのおきてを愛していたのならば、お前たちがよその国々に散らされることはなかったろう。…」− と発言、ユダヤ教も退けます。 最後にギリシャ正教の宣教師にあったウラジーミルは彼の質問に、ギリシャ哲学・アリストテレスの論理学の遺産を背景にした、ギリシャ正教自身の巧みな論理で明快な回答を与えることのできたギリシャ正教の宣教師に褒美を与えて引き取らせました。 このような各宗派の思惑が激化する中で、ウラジーミルはギリシャ人の宗教について調査させるため、家臣をコンスタンチノープルへ派遣しました。と、おりしもビザンチン帝国側では、ルーシのキリスト教化の直接の発端となった事件が勃発していたのです。 事の発端は、ビザンチン帝国でオリエントに左遷されたことを根に持って978年反乱を起こしたスクレルス、その当時ビザンチン宮廷を仕切っていた宦官バシレイオス(そのときの宦官と同じ名前の皇帝バシレイオス2世は976年に18歳で即位していたので最初の10年間は宦官や近臣がはばをきかせていたのです)がフォーカスを使って鎮圧させましたが、そのスクレルスが性懲りもなく、スヴャトスラフを倒したヨハネス・ツィミスケスの子、父と同じでやはり軍人系のバシレイオス2世に、988年に反乱を起こしたことに始まります。 事態はこれにとどまらず、さらにフォーカスが小アジアで兵をあげました。そこに、ウラジーミルから使わされた、ギリシャ人の宗教を視察に四人のルーシからの使者が滞在していたのです。ビザンチン帝国皇帝バシレイオス2世は、ちょうどいいタイミングで降って湧いた来たような、強力な戦士ヴァリャーグ人の支配する国からの使者をいやがうえにも丁重にもてなし、四人は壮麗な東方正教会の典礼を目撃して、四人の使者はルーシに戻った後に、「私にはわからなかった。天上にいるものか、はたまた地上にいるものか」と報告します。 |
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その後キエフ公国へ援軍を求めるバシレイオス2世の密使が届きました。この時点でフォーカスはスクレルスと手を結び、直後にスクレルスを監禁して皇帝を名乗り、軍勢を西方へすすめていましたから、バシレイオス2世は、背に腹を代えられぬ気持ちで、ウラジーミルがキリスト教に改宗し、ビザンチン帝国の皇女をウラジーミルに嫁がせる代わりに、キエフ公国から援軍を仰ぐという取り決めを結びました。 さて、一応約束をされたとは言うものの、ビザンチン側が本当に履行するのかどうかは未知数です。これ以前にも神聖ローマ帝国皇帝オットー1世が、この皇帝は自分をローマ皇帝と認めて欲しい一心だったのでしょう、962年にコンスタンチノープルへリュートプラントを送り、ビザンチン帝国にもローマ皇帝位を認めてほしいと、当時ビザンチン帝国皇帝だったニケフォロス2世と交渉して、結局決裂したことがありましたが、やはりニケフォロス2世にリュートプラントを送り、この時代をさかのぼること20年前ですが、今度は自分の息子オットー2世のためにビザンチン帝国の皇女を欲しいと申し入れたのです。 わたしならなにもそこまでしなくても、と思うところですが、この時代のローマ皇帝の権威は絶大だったらしく、オットー1世はまたしても低姿勢にビザンチン側に要求を持ち出しましたが、前回のローマ皇帝認定願いのとき、交渉が完全に決裂し、リュープラントが出国の際、お土産のビザンチン帝国特産の絹織物を没収され、代金は返してもらったものの気がおさまらず、 ーギリシャ人を信じるな やつらは騙すために生きている やつらがなんと言おうと、その約束を信じるな 嘘が役に立つと思えば、やつらはどんな誓いでもする その誓いだって破る時には、何の恐れもなく破るー という詩を書いたぐらい両国関係は悪化していましたから、今回の縁談話もうまくいきそうになく、そもそもオットー1世とニケフォロス2世は性格的にもうまが合わなかったらしく、やはり今度の交渉も決裂します。オットー1世はイタリアのブーリア地方に攻め込みバリの町を占領して陣を敷き、ニケフォロス2世を威嚇しましたが、彼はビザンチン皇女降嫁の条件として神聖ローマ帝国のイタリア総督の駐在地ラヴェンナとローマ、その二都市の間の土地をわたせという無茶な要求を出しました。 そこでニケフォロス2世の死後、ヨハンネス・ツィミスケスの親族テオファノをオットー2世の妻に迎えることでやっと決着がついたくらいです。結局オットー1世は目的を果たした訳ですが、ビザンチン帝国皇女を嫁にもらえるまで、極めて困難な道のりをたどらねばならなかったです。 おそらく運を天に任せばくちを張ったのでしょう、988年、ウラジーミルは兵を率いてドニエプル河の河口、黒海のほとりまで出てくると、自らもそこへ待機し、6000人の手勢をバシレイオス側へ送りました。後世になって書かれた、以下のようなキエフの艦隊の描写の詩が残されています。 一艘の船が、他の船を従え、 鷹のごとく船団の先頭を進んでゆく。 船という船は飾り立てられ、塗料が塗られ、 船という船は装備も整い、磨きたてられているが、 それでも鷹の船にかなう船はいない。 見事な頭を高く掲げ、 船首と船尾は野牛のごとく、 広いわき腹は肉牛のごとく、 ああ、我らの小舟はなんと美しく飾られていることか! 二つの目は宝石、 眉は異国のクロテンの毛皮、 髭は二本の鋼の剣、 二つの耳は冬毛の白いオコジョの毛皮、 ああ、我らの小舟はなんと美しく飾られていることか! たてがみには、二匹の異国の狐が釘付けにされ、 尻尾には二頭の北極の白熊がつるされ、 ああ、我らの小舟はなんと美しく飾られていることか! 見事な帆は高価な銀、 衣擦れの音がし、ちらちらとかすかに光る錦、 太い索具は七種の絹、 とがった錨は鋼、 錨の輪は銀、 錨の爪には金箔、 ああ、我らの小舟はなんと美しく飾られていることか! この鷹の船の真ん中に、 極彩色で飾られた小さな船室があり、 天上はビロードで覆われ、 羽目板はクロテンの毛皮で覆われ、 そこら中にテンや豹や狐の毛皮がつるされている、 そう、異国からの高価な毛皮だ! 船室には腰掛けるための床机が置かれ、 この床机に座る者は誰あろう、 姿も立派な若者、 若きウラジーミル、スヴャトスラフの息子だ。 さて、フォーカスはビザンチン帝国のアジア部分をほぼ手中に収め、みずからダータネルス海峡東岸のアビドスに陣取り、さらにフォーカスの先遣隊カロキル・デルフィナスはボスポラス海峡をはさんでコンスタンチノープルの真向かいのクリソポリスに陣取っていました。まさに首都の目の前に敵が迫っていたのです。 やがてウラジーミルの送った手勢も到着し、バシレイオス2世側が攻撃をかけてカロキルの軍を壊走させ、カロキルと副官達を十字架に貼り付けることに成功し、自軍の旗色が良くなり始めると、案の定、バシレイオス2世は約束の履行を渋り始めました。 そこで、ウラジーミル公は、セヴァストーポリ湾内に位置する(戦いはいつの時代でも同じ場所で行なわれがちです。)ビザンチン帝国のクリミア半島における拠点ケルネッソス(コルスーニ)を包囲し、ヴァリャーグ人の伝統に従って武力による威嚇の下にビザンチン帝国皇帝の妹を自分の妻として迎える交渉を始めます。 ウラジーミルは防備の固いケルネッソスを兵糧攻めにし、なかなかこの都市は屈服しませんでしたが、城内のアナスタスという人物が矢に結びつけてはなった手紙の中に、町に水を補給する水道管の位置に関する情報がかかれており、それをもとに水道管を探り当て、破壊したことが決定打となって町は降伏しました。ウラジーミルはアンナを妃にくれないのなら、コンスタンチノープルをケルネッソスと同じ目にあわせると豪語した使いをビザンチン帝国側に送ります さて、バシレイオス2世ですが、988年4月13日、弟のコンスタンチヌスの軍と合流し、フォーカスの軍と激突します。一進一退の戦いが続きますが、なんとフォーカスが卒中の発作で死亡、これでフォーカスの軍は総崩れとなってバシレイオス2世が勝利を収めました。 これで反乱は収まるかに見えたその矢先、亡くなったフォーカスの妻は、スクレルスを解放し、自軍とフォーカスの軍の生き残りをかき集め、新たな脅威となってバシレイオスに迫ります。加えてブルガリア人の王サムエルが軍を率いてビザンチン帝国に攻撃を加え、ヴェリアの町を陥落させ、テッサロニケまで迫る勢いを見せていました。 まさに「四方を敵に囲まれた」というにふさわしい国土をもつビザンチン帝国ですが、やむなく皇帝バシレイオス二世は、ウラジーミル公が東方正教会に改宗することを条件に、妹アンナをキエフ大公国に降嫁させる要求をのみました。ウラジーミルはケルネッソスで大主教に洗礼をさずかり、キリスト教徒として結婚式をすませ、ケルネッソスをビザンチン帝国に返還して、妻とともにキエフへ帰りました。 ちなみにその後バシレイオス2世は反乱を鎮圧し、ブルガリア人との本格的な戦争に突入し、1014年の大会戦でボルガル人を破り、1万5千人のブルガリア人を捕虜にしたといいます。そのとき、捕虜を百人づつのグループにわけ、99人の目をくりぬき、一人を方目だけ残して道案内役とし、ブルガリア王のもとへ送り返したということです。これをみたサムエルはショックで2日後に死亡し、バシレイオス2世は「ブルガリア人殺し」というあだ名が奉られました。その後ブルガリアはビザンチン帝国に併合され、バシレイオス2世のもと、ビザンチン帝国は最盛期を迎えます。 こうしてウラジーミル公は歴代の公が果たせなかった縁組み、ビザンチン帝国皇帝の妹アンナを公妃に迎えることに成功します。 ウラジーミル聖公は、オリガ公妃とは異なり、自身ばかりでなく民衆にも東方正教の信仰をすすめ、古いスラブの神々の偶像を破棄させるなどして、キエフ公国内のキリスト教化を推し進めました。ウラジーミルは雷神ペルーンの像をキエフ中に引き回し、12人の手で像の顔を棍棒で叩いたのち、ドニエプル川へ像を放り込みました。 このとき公妃ログネダは追放されました。こうしてウラジーミル公は東方正教を国教と定めたのです。 さらにはルーシの民のキリスト教化として、「原初年代記」に以下のような話がのこっております。 まず、民衆に対してはいかにもロシアらしく、以下の様にして民衆への一斉洗礼をすませます。 ‐「…もし川に来ないものがあれば、富める者であれ、貧しきものであれ、奴隷であれ、予の意にかなわぬであろう』と。これを聞いて、人々は『もしそれが良くないことであれば、公も貴族もそれを受けなかったはずである』と言いながら喜んで川に行った 翌日、ウラジーミルはコルスニの僧侶たちおよび皇女づきの僧侶たちとともにドニエプル川に出た。そこには、人々が無数に集まっていた。そして水の中に入り、あるものは首まで、他の者は胸まで、幼き者は岸に立っており、あるものは赤子をかかえ、大人は水中を歩んだ。一方僧侶たちは立って、祈りをとなえた」- ついで、「聖ウラジーミルの教会法」を制定し、公的にキリスト教会の立場を強めます。まず、-「…数年以内に、予は歳暮十分の一教会をたて、この教会にルーシの全国土にわたって、公の宮廷収入の十分の一、市場からの収入の十分の一、全ての家畜と穀物の十分の一を与えた…」-の記載の様に、教会の財政基盤を確立させます。 さらに、-「予の息子も孫も親族も、今後、教会の人々やその法廷事件に干渉してはならない」-と定め、教会の法的立場を強めると同時に、古今の名君に一貫して見られる宗教政策、「治めざるを以て治める」を踏襲しました。 〜 4. ウラジーミル聖公と後継者問題 〜 また、前にも述べた通り、かなり女性関係の忙しかったウラジーミル聖公は12人といわれるおおぜいの子をもうけました。この12という数は12使徒にからめた帳尻あわせだったのかもしれませんが、とにかく子供の数が多かったということなのでしょう。 これは公自身「英雄色を好む」という面もあったのでしょうが、やはりそれだけでもなく、広がりすぎた国土には多くの行政官を必要としますからたくさんの息子が必要で、各地へ成長した息子達を公として派遣し、一族の結束をもってキエフスカヤ・ルーシの統一を維持しようとするウラジーミル聖公の深謀遠慮もあったと思われます。 例をあげると、ノヴゴロド公にはフセスラフ、早世したのでヤロスラフがノヴゴロド公に納まります。ロストフにはもとヤロスラフが派遣されていましたが、フセスラフの死で配置転換が起こり、ボリスがロストフ公となります。ムーロム公にはグレープ、ツーロフ公にはスヴャトポルク、ヴルーチ公にはスヴャトスラフ、などなどです。 活動領域の広まったルーシの統一を保つため、何らかの方法をとらねばならない時代はすでにこのとき到来しており、ウラジーミル聖公がとったのが以上のような方法でした。 ところが、このウラジーミル聖公の親心も、彼の晩年にかなわぬものとなります。因果は巡るといいますが、かつて追放した前公妃ログダネとの息子で、当時ノヴゴロドに配置されていたヤロスラフが、ノヴゴロドで徴収された租税の2000グリヴナ、そのうち1000グリヴナはキエフに送り、のこりの1000グリヴナは自分の護衛兵に渡していたのですが、どうしたわけか2000グリヴナを全て自分の懐へ入れてしまったのです。 |
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この章に登場するリューリク一族の系譜 スヴャトスラフ(? 〜972年) | ├――┬―ヤロポルク ? | ,マルーシャ ├―オレーグ | └―ウラジーミル(980 〜 1015年 ) | ├―――┬―スヴャトポルク | | アンナ ├―イジャスラフ ,ログダネ | ├―ヤロスラフ | ├―ボリス | ├―グレープ | └―ムスチスラフ 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
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ウラジーミル聖公は自分に従わない息子に対する懲罰遠征を計画して橋と道を整備するよう命令し、ヤロスラフは父と同じく「海の向こう」に使者を送ってヴァリャーグたちを集めますが、ウラジーミル聖公はベレスト−ヴォで重病にかかります。さらにタイミング悪く、この時期またもぺチェネグ人がルーシへ侵入してきたため、たまたま自分の元にいたボリスに兵を与え、ぺチェネグ人に向かわせたところでウラジーミルは急死し、父子の戦いは長兄スヴャトポルクへと引き継がれることになりました。 〜 5. ”赤い太陽”ウラジーミル 〜 ウラジーミル聖公はその治世を見るに、やむを得ぬとはいえ、兄を殺したり、ビザンチン帝国と縁続きになるため強制的に結婚した前妻ログネダを追放したりと、かなりダーティーな手段も使った人物でした。ところが民衆詩ブィリーナの中では”赤い太陽”ウラジーミルとして親しまれる存在となっています。「遺徳民にあり」といいます、後ろ暗い手段をかなりとったものの、終局的にウラジーミルは国を富まし、ルーシの敵を滅ぼし、ビザンチンの皇女を娶ってルーシの権威を高めた彼は、民にとっては名君であり、さらには彼自身も民を愛したのでしょう。 彼の事跡として「原初年代記」中に、貧しきものに施しをしたとか、自分の親衛隊のために盛大な酒宴を毎週催したといったことがありますが、わざわざこういった部下へのもてなしの具体的な記載がある公はウラジーミルくらいなものです。彼は豪腕の一方で、経世済民にも心を配り、このような民に対する配慮が、後にブィリーナを生んだのです。 ちなみにウラジーミルの脇役としてブィリーナに登場する人物は、伯父ドブルィニャ、百姓のイリヤ・ムーロメッツ(ある宴会でウラジーミルの酒を民衆にまで振舞ってしまい、土牢に閉じこめられたが、後悔したウラジーミルが30年後土牢をあけると、中で福音書をむさぼり読んでいたのが発見された、という逸話(?)を持つ人物です。)、司祭の息子で策士のアリョーシャ・ポポービッチなどです。 ウラジーミルは毎週屋敷の護衛兵集合所で酒宴を行なって、貴族から身分の低い部下まで、全員が招かれ、家畜および野獣の肉、その他あらゆるものがたくさん供されたということです。あるとき、部下たちがこういいました。「吾らは災難であるー吾らは銀製でなく、木製の匙で食べているからである」と。これを聞いたウラジーミルは部下達のため銀製の匙をつくらせ、こういったそうです。「銀と金で親衛隊を得ることはできないが、親衛隊で金も銀得ることができる。わが父わが祖父も親衛隊をもって金と銀を得たのである。」 まさに名君と言えるでしょう。もちろんウラジーミルは深い人物ですから、あらゆる面において一石二鳥のことをするわけで、気前のよさもさまざまな意味や狙いがあったことでしょう。しかし、ここではそんなことは忘れて、この文章を読んでくださっている方もぜひウラジーミルの親衛隊の一員となって、キエフスカヤ・ルーシの「鹿鳴之汁」をともに楽しみ、この時代を終えられれば、思います。 響き渡るは黄金のラッパか、 ピーピー鳴くのは銀の鳥笛か、 話しているのは、大公ウラジーミル、 あらん限りの大声で叫ぶ。 それわがものども、忠義なしもべよ 売れていないぶどう酒で杯を満たせ。 強いビールで杯を満たせ、 甘い蜂蜜酒で杯を満たせ、 そして三つの杯を中身の一つに杯に明け、 この杯を雄雄しいドブルィニャ、 ニキータの息子に捧げよ。 忠義なしもべは大公の言うとおり、 熟れていないビールで杯を満たし、 強いビールで杯を満たし、 甘い蜂蜜腫で杯を満たし、 そして三つの杯の中身を一つの杯にあけると、 中身はいまやバケツ一杯半、 重さは三十キロ、 この杯を有志ドブルィニャの元へ運ぶ、 ニキータの息子ドブルィニャは、 片手でこれをひょいととり、 一気に飲み干す。 「見事じゃ」 とウラジーミルが言う。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『ローマ帝国衰亡史 8』 エドワード・ギボン 中野好之 訳 ちくま学芸文庫 ・『不思議の国のベラルーシ』 服部倫卓 著 岩波書店 ・『ロシア原初年代記』 国本哲夫 訳 名古屋大学出版会 ・『ロシア史 1』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |