キエフスカヤ・ルーシ(7)

〜〜ヤロスラフ賢公の時代〜〜



ヤロスラフ賢公 / Ярослав Мудрый
978? 〜 1054年 キエフ大公国最盛期の公

 


Российская

История


族繁栄を願って息子達を公として各地へ配置したウラジーミル聖公でしたが、自分は兄弟喧嘩の末に権力を奪取しておいて、子供達には仲良くしろとはやはり無理な相談でした。

 彼は治世の末期に息子ヤロスラフに対する懲罰遠征を始めることになります。当時ノヴゴロドに配置されていたヤロスラフが、ノヴゴロドで徴収した税のキエフ送金を停止したことがきっかけでした。

 ウラジーミル聖公は自分に従わない息子に対する懲罰遠征を計画している途中急病にかかり、さらにタイミング悪く、この時期またもぺチェネグ人がルーシへ侵入してきたため、たまたま自分の元にいたボリスに兵を与え、ぺチェネグ人に向かわせたところでウラジーミルは亡くなり、父子の戦いは長兄スヴャトポルクへと引き継がれたのは先に書いたとおりです。


    〜 1. ヤロスラフのキエフ公即位まで 〜

 バルト海への入り口にあたるノヴゴロドは、当時シルクロードの新ルートとして脚光を浴びつつあった、北海・バルト海−北ロシア−黒海・カスピ海北部−オトラル−サマルカンド通商路の北ロシア部分に位置していました。






9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市





 そのためノヴゴロドは商都として繁栄し、他のルーシ地域と異なり、一足先に古代を抜け出し、中世的自治都市国家の様相を示し始めていた、ルーシにおける新時代勢力(もっとも都市の起源自体は古いですが…)でした。この新時代勢力ノヴゴロド商人の財力と、彼らの資金援助により雇ったヴァリャーグ人傭兵隊がヤロスラフの勢力であり、一方スヴャトポルクの支持勢力は、旧時代を代表する女傑オリガ公妃の支配地域だったヴィシゴロドの貴族階級です。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


 
ヤロポルク
  |
 ├―
オレーグ
  |
 
ウラジーミル
      |
      ├――
―ヴィシェスラフ
      |    |
    
アンナ  ├―イジャスラフ
   ,
ログダネ  |
          ├―
スヴャトポルク
          |
          ├―
ヤロスラフ――――ウラジーミル
          |             |
          ├―フセヴォロド    ├―イジャスラフ
          |             |
           ├―スヴャトスラフ   ├―スヴャトスラフ
          |              |
          ├―ムスチスラフス  ├―フセヴォロド
           |              |
          ├―
ボリス       ├―イーゴリ
        
  |              |
          ├―
グレープ       └―ヴャチャスラフ
          |
           ├―スタニスラフ
          |
           ├―ボズヴィズド
          |
          
―スディスラフ


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 さて、困ったことにウラジーミルは後継者を宣言せずなくなってしまいました。そもそもキエフ公の相続順位も定かではない状態ですし、いったいキエフ公の公位は誰の手に?というところですが、どこの国でもそうですが、やはりルーシにも年長者をなんとなく尊重する、という風があったのでしょう、長男ヤロポルクがキエフ公になりました。

 ここで注目が集まったのは、ボリスです。ウラジーミルが死去した時点で、ボリスがぺチェネグ人征伐のための軍勢を与えられていましたが、今回のぺチェネグ人の襲撃は略奪がメインだったのか、すでにルーシから立ち去ったらしく、ぺチェネグ人と遭遇することなく、無傷のままの軍勢を率いたまま帰途に着いたとき、ウラジーミルの訃報を受け取ったのです。彼はそのままレタ河畔にとどまります。

 ウラジーミルの旧親衛隊たちは、手元にある軍勢敵優位を使って一気にクーデターを起こし天下を取るべきだと進言しますが、ボリスは父が死んだなら、兄が父の代わりになるべきだ、と答えます。良く言えばやさしさですが、悪く言えば覇気のなさに落胆した兵士達はボリスから離れ始め、彼のもとには年少兵親衛兵が残りました。

 スヴャトポルク公は、もと修道女を母にもつという、キリスト教の倫理からすればちょっと受け入れがたい出生を持つ自分、あるいは自分自身の地位に自信がもてなかったのでしょうか、自己の権力の座を安定させるため父ウラジーミル公の残した多くの兄弟たちを殺害を計画します。彼の治世にはどうも自信の無さからくる不安だの、不安や焦りから来たらしい無用の殺生が見え隠れしますが、ともかくまず狙われたのがボリスです。

 スヴャトポルクは、ボリスに使者を送って財産分与を提案します。その一方でプートシャとヴィシゴロドの貴族たちを呼び、やっぱ自信がなかったのでしょうか、「私を哀れみの心から受け入れてくれるか」と聞きました。彼らは「貴方のためなら命を捨てることもいとわない」という宣誓を得た後、「ボリスを殺せ」と命じます。

 ボリスのもとにはすでに兄の暗殺計画が知らされていたといいますが、ボリスは朝のキリスト教のお勤めを済ませた後、寝床に横になったところをスヴャトポルクの送った刺客に暗殺されます。




  

”スヴャトポルク、ボリスを殺す”の図

(左) ボリスが祈りをする
(中) スヴャトポルクが暗殺者を派遣する
(右) ボリス殺害の瞬間




 つぎに狙われたのがグレープです。スヴャトポルクはウラジーミルが危篤で、グレープを呼んでいるとの偽情報を伝え、グレープはわずかな親衛隊とともに即刻キエフに向かいます。彼がスモレンスクまでたどり着いた時、ヤロスラフからの知らせが届き、その中にはウラジーミルはすでに亡くなり、ボリスがスヴャトポルクに殺されたこと、さらに、グレープにキエフに行くなという警告がありました。

 グレープは父の死を思って泣き、さらに(多分スヴャトポルクに殺された)兄を思って泣いたということです。そして泣きながら祈っていたところ、このときスヴャトポルクの送った刺客が到着し、グレープの乗っていた川舟を占領して、グレープを殺害してしまいました。スヴャトスラフも追っ手をかけられ、ウゴル人(ハンガリー人)のもとに逃げていたところを追いつかれ、ハンガリアの山中で殺されてしまいました。

 グレープとボリスはどちらもやさしい性格だったらしく、彼らを哀れんだ人々の手によって、結局ロシア正教初の聖人とされました。






致命者(Мученик)ボリスとグレープ
14世紀のイコン





 話代わってヤロスラフですが、まだウラジーミルの死を知らない頃、ヴァリャーグたちを集めていましたが、このヴァリャーグたちはやはり傭兵稼業の荒っぽい連中だったらしく、ノヴゴロドの人々と衝突を起こし、これに怒ったノヴゴロドで反乱が起こり、ヴァリャーグたちが全員殺害されました。

 もちろんヤロスラフは怒りますが、この夜、キエフの彼の姉妹ペレドスラヴァから密使が到着し、スヴャトポルクがキエフ公になり、ボリスを殺してグレープに密使を送ったことを知ります。そこでヤロスラフはノヴゴロドの民会(ヴォ−チェ、バイキングのシングまたはティングに相当)に出席し、涙ながらにノヴゴロドの市民に協力を訴えます。

 ノヴゴロドの市民はヤロスラフに協力し、ヴァリャーグと他の軍勢を集め、スヴャトポルクと戦うべく南下します。スヴャトポルクもルーシの兵、ペチェネグ人を助太刀に頼み、ドニエプル川で両軍は対峙し、お互い戦機をさぐって三ヶ月間にらみあいの状態となります。

 そして攻撃に入ったのはヤロスラフでした。彼はドニエプル川を渡り、スヴャトポルクに戦闘を仕掛け、スビャトポルクの軍勢を近くの氷結し始めた湖の上に追い込むことに成功し、軍勢の重みで氷が割れ始めたことでスビャトポルクの軍勢は壊乱状態に陥りました。

 スヴャトポルクは一旦リャフ(ポーランド)に逃げ込み、そこで、外国軍であるポーランド王ボレスワフ1世の軍とともにヤロスラフに迫りました。

 ブーグ河で戦端が開かれ、そこでヤロスラフはポーランド軍に撃破され壊滅的な打撃を受けたらしく、わずか4人の部下とともにノヴゴロドに命からがら撤退します。

 さて、ポーランド王ボレスワフ1世とスヴャトポルクはキエフに入城しますが、ここでスヴャトポルクがボレスワフ1世に裏切りをかまし、ポーランド人を殺害し始めましたので不意を突かれたボレスワフ1世はたまらずポーランドへ逃げ延びますが、このときルーシの貴族たちを連行し、キエフの財貨をもちさったということです。

 ヤロスラフですが、父ウラジーミル聖公の故知に倣って亡命を計ろうとも考えましたが、そのヤロスラフに対し、ドブルィニャの子のノヴゴロド代官コンスタンチンとノヴゴロドの住民達はこう言いました。

 −彼(ヤロスラフ)は遠くに、海の向こうへ逃げることも望んだが、しかしノヴゴロドの市長官(民会が指名しました)のコンスタンチン、ドブリニンの息子はノヴゴロドの人々とともにそういうことはさせなかった。ノヴゴロドの人々はこのように言ってヤロスラフの船を滅多切りにした。「もっとボレスワフとスヴャトポルクと闘いたい。」−

 このエピソードの後、自分の部下やノヴゴロド商人階級が提供した寄付金により長期間雇い入れる事の出来たヴァリャーグ人傭兵隊の力によりスヴャトポルクをやぶり、さらにぺチェネグ人と結んでリターンマッチを仕掛けてきたスヴャトポルクをレタ河の戦いで激闘の末、最終的に追放すると、ヤロスラフは、1019年キエフ大公となります。


 〜 2. ヤロスラフのキエフ公即位とその後の治世 〜

 キエフ大公となったヤロスラフが次に着手したのが兄ヤロポルクと同じく、兄弟の討伐でした。






ヤロスラフ賢公の復元像
М
.М.Герасимовによる




 ところが末弟ムスチスラフは、戦闘に強く、カソグ人(チェルケス人)を戦闘でやぶって税金を課しただけなく、ヴァリャーグ人傭兵部隊を率いるヴァリャーグの盲目の公ヤクーンとヤロスラフの連合軍をも戦闘で破り、ドニエプル川を境にルーシを分割統治することになります。しかし、ムスチスラフが後継ぎを残さず1036年病死すると、結局ヤロスラフがほぼ全ルーシの再統一に成功しました。

 さらにヤロスラフは、934年辺りからマジャールと協力してトラキアに侵攻し始めたペチェネグ人をキエフ郊外で1026年に破ります。「原初年代記」が決定的な打撃とまで賞賛するこの勝利によって、彼らの矛先をビザンチン帝国に向けさせることに成功し、これ以後ペチェネグ人がルーシの地に姿を現すことはなくなりました。

 そこでぺチェネグ人は南下し、ドナウ河を渡ってマケドニアとトラキアを荒らし、コンスタンチノープルを包囲たため、ビザンチン帝国は彼らに貢納金を納めねばならなくなりました。そして時代は下りますが1091年、ぺチェネグ人はアレクシオス1世・コムネノスの時代、コンスタンチノープルを包囲し、セルジューク・トルコと同盟を結びそうになりますが、アレクシオス1世はポーロヴェッツ人と同盟を結んでぺチェネグ人を撃退し、最終的に次の皇帝ヨハネス2世・コムネノスの時代に完全に破れ、ぺチェネグ人は歴史上から姿を消します。

 さて、ヤロスラフ公に支持を与えたノヴゴロドの人々はあくまで商売人であり、収益の見込める事業に投資するわけで、ヤロスラフ公にタダでお金を出したわけではありません。

 ノブヴゴロドの商人階級の要求は、ノヴゴロドが加盟するハンザ同盟の圏内に位置し、北海の北にあるスウェーデン王国とキエフ大公国の関係良好化です。

 商人はいつの時代でも交易ルートの安定による商売活発化をのぞみ、またヤロスラフ公も今度の大公位争奪戦で決定的な役割を果たしたヴャーグ人傭兵隊の補給地スウェーデン王国との関係を良くしておく必要を感じていました。

 ヤロスラフとノヴゴロドの商人階級両者の思惑は一致し、かくしてキエフ大公国のヤロスラフ大公とスウェーデン国王オーラヴの娘インギゲルド(のちイリーナと改名)と結婚しました。

 ヤロスラフ大公は活発な外交活動を展開し、娘のアナスタシアをハンガリー国王へ、エリザヴェータをノルウェー国王へ、アンナをフランス国王アンリ1世へ(アンナはアンリ1世の死後、1052年に生まれた幼い自分の息子フィリップ、フィリッポスというギリシャ風の名前をつけたわけですが、後のフィリップ1世の摂政となり、1066年まで実権を握ります、オリガ摂政みたいですね。)それぞれ嫁がせています。ちなみに、先代フランス王ロベール2世が、国王アンリ1世(次男)の弟ロベール(三男)の公妃としてとしてビザンチン帝国に乞うたのがヤロスラフのたぶん義理の母アンナです、このときは帝国側に断られました。こうしてキエフ大公でヨーロッパ外交に初めて顔を出したのがヤロスラフ賢公です。

 といいますか、なんせヤロスラフ賢公の娘達のたぶん義理のおばあさんはビザンチン帝国バシレイオス2世の妹ですから、アンナさんにしてもフランス伯ロベールから出た当時のフランスのカペー朝(987年より)などよりは格段に血筋はいいわけですから、嫁ぎ先もそりゃあすんなり決まるでしょう。というか、どちらかといえば引く手あまたで、ヤロスラフ賢公(自身もビザンチン帝国皇帝の妹のたぶん義理の息子ですが)は、外交的にはきわめて強力なカードを持っていたわけです。






アンナ・ヤロスラヴナ / アンヌ・ド・キエフ
Анна Ярославна /
Anne de Kiev
?-1075

フランス王に嫁ぐ




 さて、フランス王家に嫁いだアンナ、アンヌ・ド・キエフですが、夫の死後、ヴァロア伯ラウール3世と愛し合うようになり、1062年、ヴァロア伯は妻と離縁してアンヌ・ド・キエフと結婚します。当然離縁されたヴァロア伯の元妻は激怒し、法王庁に不義の訴えを起こし、時の法王アレクサンドル2世はヴァロア伯とアンヌ・ド・キエフを破門し、二人は宮廷から遠ざけられました。しかし二人は結婚生活を続け、1074年ヴァロア伯が亡くなるとアンヌ・ド・キエフは息子フィリップ1世に許され宮廷に戻ります。そして1075年になくなり、フランスのヴィリエールの僧院に葬られました。個人的な感想としては、ロシアは昔からロシアなんだなあ、と思います。

 また、ヤロスラフ賢公は、おそらく公国の国論再統一をねらい、かつこのころ勃興し始めたセルジューク・トルコにビザンチン帝国が押され始めた時期ですから、勝てないわけでもないと踏んだのでしょう、1043年、ビザンチン帝国遠征を企てます。自分の息子ウラジーミルに軍をあたえ、まだウラジーミルは経験不足だったのでしょう、お目付け役件軍司令官ヴィシャークをつけ、彼らは船で出発してドナウ河河口にいたり、コンスタンチノープルへ向かいます。

 自分は戦に赴かず、キエフにとどまったヤロスラフの真意は、息子に武者修行をさせたい、または、比較的強力な外敵も消え、そろそろキエフ公国でも、公に軍事指揮官的要素よりも、どちらかといえば政治家的要素がより必要になる時期が到来し、自分は文治政治の側だと思っていたのでしょうか。

 このころ支配領域が広まり、人口も増え、行政事務が複雑化し、人数も増えた軍勢を指揮するのにもこれまでとは比較にならないほどやっかいだ、というわけで文武の専門、分離化が進んでいたのでしょう。で、ヤロスラフ賢公は文と武どちらに属するかといえば、ヤロポルクとの戦いも、本人の用兵の巧みさというより、ヤロポルクの人望の無さに救われてからくも勝利を収め、弟のムスチスラフは結局倒すことができず、賢公というあだ名がつくぐらいですからやはり文の人、自分の戦術の才のなさも自覚できていたので息子に任せた、これらの全てだったでしょう。

 ところがこの船団を嵐が襲います。どうやらこのころにはバイキング仕込みの操船技術まで低下していたらしく、ウラジーミルはなんとか司令官イヴァン(聖人ヨハネに由来する名前です。このころからギリシャ正教も本格的にルーシの地に広まり始めたのでしょう)の船に乗り移りますが、ヴィシャークの船は嵐を乗り切れず難破し、彼は兵士達とともに何とか岸にたどり着きます。

 ルーシの船が難破したという知らせを聞きつけたビザンチン皇帝コンスタンチン10世モノマコスは、すぐさま14隻の艦隊からなる追討軍を差し向けますが、これはさすがに破られます。しかし、ヴィシャークと部下達は捕らえられ、多くの者達が目潰しの刑に会います。3年後に締結された平和条約で彼らは放免され、ヴィシャークはキエフに帰還します。


   〜 3. キエフ公国の文化国家への脱皮 〜

 国力の衰えた国は光栄ある孤立を保てず外交を重視せざるを得ません。ヤロスラフ賢公が娘達を外国へ嫁に出し、縁組でキエフ公国を強化しようとしたのは、国力(戦闘力)の低下により、外交で国を支えようとしたことの端的な表れです。ヤロスラフ vs スヴャトポルクの大公位争奪戦でも両陣営のかなめは外国軍、ヤロスラフ賢公にしても、弟ムスチスラフを撃ちもらし、ビザンチン帝国遠征も不調という事態は、ヤロスラフ賢公個人がどうもいくさ下手だったのではないか、ということばかりが原因ではなく、キエフ公国の軍事的な力の衰退もあずかって力あったのでしょう。

 キエフ公国は、キリスト教が浸透し、当時の宗教は学問・文化・芸術・技術を全てを運んできますから、君主さえもが筆写に精を出すほど文化の浸透した、(お隣の遊牧民族国家などとくらべ)老成し成熟した国家へ徐々に変容を遂げはじめており、その代わりかつて程の勢い、若々しさゆえの荒々しさ、つまりは蛮族共通の強力な軍事力はなくしかけていたのです。

 うち続いた内乱にもかかわらず、ヤロスラフ賢公の時代にはキエフに石造の聖ソフィア寺院が建設されました。また、キリスト教会が信徒の増えた、つまり人口の増大した繁華な都市に必ず設置する府主教座がキエフにおかれ、ペチェルスキー修道院も開基され、ここにキエフスカヤ・ルーシは支配領域・文化水準とも最盛期をむかえることになります。本朝においても、奈良時代、古代帝国的世界の文化が頂点に達し、「あおによし ならのみやこにさくはなは におうがごとく いまさかりなり」と歌われたのとちょうど同じ状況です。ただし奈良朝というのは、古代的世界に中世的制度の律令を持ち込むという変則的な状況でしたが。

 いちおうキエフ公国の統一には成功したものの、戦場で抜群の功績をのこしたか、ということに関しては疑問の残るヤロスラフ公ですが、彼は後に賢公と呼ばれるほど教養の高い君主で(すこし文弱気味?)、まだ識字率の低かった、というか僧侶と詩人ぐらいしか読み書きのできるもののいなかったこの時代、みずから筆写した聖書を聖ソフィア寺院に奉納しています。やはり文武両道とは現実問題としては難しい、理想状態といえそうです。

 そんな彼の真骨頂といえるものが、ロシア初の成文法、「ルースカヤ・プラヴダ」の編纂です。当初は、ヤロスラフがノヴゴロドにいたことと、高い経済力をもつノヴゴロドの文化レベルの高さを反映し、1014年ごろ、ノヴゴロドの地方法典として作られはじめたものでした。

 この11世紀から12世紀にかけて完成した「ルースカヤ・プラヴダ」にはヤロスラフの法典、ヤロスラフの息子たちの法典からなる、現在「簡略版」といわれるものですが、これは律令と同じで、主に罰則規定からなる、六法というよりは刑法の側面が濃厚ですが、のちにロシアで編纂された法律の模範となります。

 ちなみに、ヤロスラフが早々にコンスタンチノープルのギリシャ正教総主教の影響を排除しようと府主教に任命したルーシ人司祭イラリオンがドネプルの丘に掘った洞窟から始まり、聖アンドレイの時代になって修道院となったペチェルスキー修道院が始まったのもこの頃です。


 〜 4. フセヴォロド人狼公ーポロック公国について 〜

 さて、ヤロスラフの弟に、イジャスラフがいましたが、彼はポロックに派遣されていました。ポロック公国といえばウラジーミル聖公が、キエフへの遠征途上で滅ぼした国であり、さらにウラジーミル聖公はポロック公国の公女ログダネとむりやり結婚し、のちにビザンチン皇女アンナと結婚した時ログダネとむりやり離婚したいきさつもあり、アンチキエフ感情が強烈だったようです。

 その後イジャスラフはなくなり、その子ブリャチスラフがポロック公国を継いだのですが、このブリャチスラフはポロック公国のすぐそばのノヴゴロドに攻撃をかけます。ヤロスラフはノヴゴロド略奪から帰途についていたブリャチスラフに追いつき、彼を破りますが、ポロックを支配下に置くことはできませんでした、このへんもヤロスラフ賢公が戦べただったのでは、と私がかんぐる理由です。

 それはともかく、キエフ公国の統治方式ではポロック公国まで支配の目を行き渡らせることはできない、つまり、ポロック公国はルーシ世界の境界に位置する地域だったといえると思います。そしてブリャチスラフからフセスラフが生まれますが、「原初年代記」によれば彼は母が魔法で生んだ子だということです。この魔法で生まれたことにより、「イーゴリ公遠征物語」に描かれているフセスラフが得た特殊能力はなんと、夜に狼に姿を変えて夜な夜な走り回るということでした(?)。

 ライカンスロープのポロック公フセスラフはこのような強烈なキャラクターを持つ人物ですが、この話は(ロマンがないですけど)要するにポロックがキエフの境界であることの端的な表れであったと思われます。アポロニオスの長編詩アルゴナウティカ、イアーソンが金毛の羊の毛皮を取りに行く筋ですが、そこでヒドラが毛皮の番をしていましたが、金毛羊の毛皮をとりに行く場所はどこあろうポントスの東の果てコルキス、つまりザカフカースの黒海に接する地方です。つまりは、コルキス王国の遺民ミングレル人である内務人民委員部委員ベリヤとゆかりのある土地です。

 人間というものは世界の果てに不思議な生き物とかデミヒューマンがいるものと考えるものです。一昔前(大昔?)のタコ型火星人しかり、ユリウス・カエサルがガリア戦記で報告したガリアに住む不思議な生き物(鹿の形をした耳の間から一本の角が生えている牛、つまりユニコーンとか)しかりです。ともかく、このような遠くにあるポロックはキエフの影響がなかなか及ばず、極めて早い時期に分領公国化した都市の一つとなります。


 〜 5. キエフ公国の相続問題ー「年長順番制」制定 〜

 兄弟や親族を破ってなんとか統一の格好をつけたものの、特に父の代も自分の代も問題になった後継者問題が早晩火を噴くのを予測していたらしいヤロスラフ賢公は、遺言で五人の息子たちに年長順で公国を分配します。

 
-「今、予はわが長子にして汝らの兄たるイジャスラーフに予に変わって王座につくことを委任する。彼は汝らにとって予のかわりとなるであろう。スヴャトスラーフにはチェルニゴーフを、フセヴォロドにはペレヤスラーヴリを、ヴャチェスラーフにはスモレンスクを与える」-

 少しでも後継者争いを回避するべくヤロスラフ賢公によってとられた、「兄から弟へ」一定の地域を分配させるこの方法を「年長順番制」とよびます。おそらくこれが、法典編纂などにより、キエフ公国の秩序を維持すべくその治世のほとんどを傾けたヤロスラフ賢公の後世への最大の贈り物でしょう。様々な問題を残しながらも、この「年長順番制」は、公位の相続に関し最低限のルールを提供することになります。

 キエフ公国の統治は、当時の簡便な行政組織にとっては広大すぎる問題だったのです。中央が地方を一手に統治できないのなら、統一の喪失による公国の弱体化などの多少の不利は我慢してでも分割統治する以外方法はありません。

 かくて、統一を維持する有効な方法を見つけることができず、キエフはその広大な領土を分割統治する道を選ぶことになりました。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『ローマ帝国衰亡史 8』
    エドワード・ギボン 
中野好之
    
ちくま学芸文庫

   ・『不思議の国のベラルーシ』
    
服部倫卓
    
岩波書店

   ・『ロシア原初年代記』
    
国本哲夫
    
名古屋大学出版会

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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