|
ますます激しくなるポーロヴェッツ人の侵攻と進むルーシの解体の前に暗雲立ち込める、の感がありますが、これは裏を返せば地方分権の時代がはじまったということです。今日ザラトーィエ・カリツォー(黄金の輪)と言われるモスクワ近郊に輪の様に広がる美しい一群の都市は、この時代からのちにかけて建設され、成長しました。
多少先走って話してしまいますと、分領公たちはもはや自分達が中央から派遣された一地方官ではなく、世襲の君主だということを自覚していましたので、自分達の都市を美しく発展させるべく努力しましたし、インダストリアル・ポリシーをもっておのおのの地方を発展させることは、翻って言えばルーシ全体の発展をも意味します。
正直マイナスのイメージの多い分領公時代ですが、こういった別の面からこの時代を振り返るのもまた面白さというものだと思います。
|
|
この章に登場するリューリク一族の系譜
―┬ウラジーミル―――ロスチスラフ――┬ヴァシリコ
| |
| ├ヴォロダリ
| |
| └リューリク
|
|
├イジャスラフ――┬スヴャトポルク――ヤロスラフ
| |
| └ヤロポルク―――┬ヤロスラフ
| |
| └ヴャチャスラフ
|
|
├スヴャトスラフ―┬グレープ
| |
| ├オレーグ
| |
| ├ダヴィド
| |
| ├ロマン
| |
| └ヤロスラフ
|
|
├フセヴォロド
| |
| ├――┬ウラジーミル・モノマフ┬ムスチスラフ
| | | |
| | └ロスチスラフ ├イジャスラフ
| | |
| | ├ヴャチェスラフ
| | |
| ビザンチン帝国皇女 └ヤロポルク
|
|
├イーゴリ――――ダヴィド―――――ムスチスラフ
|
|
└ヴャチャスラフ――ボリス
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
|
|
〜 1. スヴャトポルクの即位ーポーロヴェッツとの戦 〜
さて、フセヴォロド公がなくなりました。父子の情としては、フセヴォロド公からウラジーミル・モノマフへ、つまり父から子へ政権交代が起こりそうなものです。が、先々代のキエフ公イジャスラフ公が亡くなったとき、イジャスラフ公の子スヴャトポルクがキエフ公位を継がず、長順番制に従って当時の一族の最年長者、イジャスラフの末弟フセヴォロドがキエフ公の公位を継ぎました。
そこでウラジーミルは内乱に発展しかねないスヴャトポルクとの対立を未然に防ぐため、今回も先例に従い、自分の伯父の子供たるスヴャトポルクに公位を譲るべく自らはチェルニーゴフの公におさまります。このモノマフの穏健で長者の風は、激しい気質の従兄弟イジャスラフを影から支え続けるのにおおいに寄与します。
結局モノマフの弟ロスチスラフはペレヤスラヴリを治め、モノマフのいとこスヴャトポルクは1093年晴れてキエフ公位につきました。こうして、ビザンチン帝国皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘アンナの息子という実に毛並みのいい一族の統治が始まったのです。ちなみに彼の姉妹のエウプラクシアは、ノルドマルク辺境伯ハインリヒ長身公に嫁ぎました。しかし二人の間に子供が生まれないままハインリヒは1087年死去します。しかし、1089年、カノッサの屈辱で有名な神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世(当時ザクセン王)の後妻としてケルンで結婚、アデルハイドと改名します。
しかし、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世とのイタリアでの戦闘の際に彼女をともない、ヴェローナにエウプラクシアを軟禁します。1093年軟禁から脱出した彼女は反ハインリヒの急先鋒マチルデの居城カノッサに逃亡、法王ウルバヌス2世、マチルデと会見します。そしてウルバヌス2世の要望で、監禁、乱交への強制参加(ハインリヒ4世がグノーシス派の一派ニコライズムのセクトに参加していたと記す年代記もあるそうです)、彼女の裸身の上での黒ミサへの誘惑のかどでハインリヒ4世を告発します。ま、中世君主のやりそうなことではありますが、法王の、皇帝の妻を巻き込んだ根も葉もない告発の可能性が極めて高そうです。
この告発を聞いたハインリッヒ前妻ベルタの子コンラートは、マチルデに説得されて父ハインリヒ4世の廃位に合意、エウプラクシア組んで皇帝を軟禁しようとはかります。ハインリヒ4世は、エウプラクシアとコンラートは近親相姦したと批判、結局政争の具にされたエウプラクシアはハンガリーに逃れ1099年までそこに暮らし、キエフに帰りました。1106年にハインリヒ4世が死去するとエウプラクシアは尼僧となり、1109年に死去したとのことです。
|
|

9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市
|
|
スヴャトポルク公の生涯は結局、内憂外患で彩られたようなものでした。フセヴォロド公の死を知ったポーロヴェッツ人の使者が政権交代時が節目とばかりに、和平交渉をもとめてルーシの地を訪れます。が、スヴャトポルク公は強圧的な態度をとり、ポーロヴェッツ人に先に手を出させて雌雄を決する気だったのか、使者を丸木小屋に閉じ込めて軟禁します。
使者が軟禁された事を知り、ポーロヴェッツ人が軍勢を率いてトルチェスクの町を包囲しました。ここでスヴャトポルクは使者を解放しますが、それではおさまらないポーロヴェッツ軍は帰途に着かず、そのままルーシの地へ侵攻してきました。そこでスヴャトポルクは軍勢を集めましたが、ロシア諸公の意見は一致せず、あるものはキエフ公国軍軍勢の少なさを主張して戦わないよう勧め、あるものは一戦交えるべきだと主張しました。
そこでスヴャトポルクは、非戦派を表明していたものの、スヴャトポルクは協力的なウラジーミル・モノマフとその弟ロスチスラフから軍勢を借り集めると、聖ミハイル教会で遠征軍首脳群議を開きます。借り集めた軍の力が預かって力あったのか、もめた末にポーロヴェッツ人相手に戦端を開くということでなんとか話をまとめることに成功し、十字架に口付けして和解します。十字架に口付けして和解、などという話を読んでいると、ウラジーミルが国教化した東方正教もだいぶルーシの地に根を張った気がします。
さて、公論を決することができたルーシ連合軍は前進を始めストゥグナ河を渡河します。一方、ルーシの軍勢が動き出したことを察知したポーロヴェッツ軍は、トルチェスクの囲みを解いて、ルーシ軍に戦いを挑み、両軍は会戦に突入しました。右翼を指揮するのはスヴャトポルク、左翼を指揮するのはウラジーミル・モノマフ、中央を指揮するのはモノマフの弟ロスチスラフです。ポーロヴェッツ人はスヴャトポルクの右翼に集中攻撃を加え、スヴャトポルク軍がたまらず崩壊し壊乱状態に陥ったのちウラジーミル・モノマフ軍に攻撃を加えました。ウラジーミルの軍が崩れたのに引っ張られ、ロスチスラフ軍も撤退を開始します。
この撤退のさなか背水の陣が裏目に出、先ほど渡ったストゥグナ河をウラジーミル・モノマフとモノマフの弟ロスチスラフは泳いで渡ろうとしますが、泳ぎが下手だったロスチスラフはウラジーミルの目の前で溺死してしまいます。弟の死を目の前にしながら自分も精一杯で何もしてやれず、涙を流し悲しみにくれながら、ウラジーミルは自分の支配地域チェルニーゴフまで逃げ延びます。スヴャトポルクもキエフに落ち延びることに成功しました。
勝ち誇るポーロヴェッツ人は引き返してトルチェスクを再包囲し、物資を断たれたトルチェスクに深刻な飢餓が襲います。住民はポーロヴェッツの包囲をかいくぐってスヴャトポルクに何とか使者を出し、食料が補給できないのなら降伏もやむなし、との意を伝えます。これを受けてスヴャトポルク公は糧食をトルチェスクに運ぼうとしますが、ポーロヴェッツ人に阻まれ失敗します。
ポーロヴェッツ人はさらに軍勢を二つに分け、一方は町の包囲を続行し、もう一方はキエフに向かって進撃しはじめました。これを捨て置くわけには行かず、スヴャトポルクは出陣し、ポーロヴェッツ人とジェラニ河畔でぶつかりますが、前回の戦い以上の惨敗を喫し、スヴャトポルクはキエフに逃げ延び、ポーロヴェッツ人もトルチェスク包囲に戻ります。
ここにいたってとうとうトルチェスクが開城し、ポーロヴェツ人はトルチェスク人々を奴隷として連れ去り、町に火を放ちました。キエフまでポーロヴェッツ人の直接の脅威にさらされた今、もはや和睦しか道はなく、イジャスラフは1094年ポーロヴェッツのトゥゴルトカンと条約を結び、彼の娘と結婚します。かつてウラジーミル聖公の時代、半ば奪うように、無理やりビザンチン帝国から皇女をキエフ公国に降嫁させたのと似たように、次は自分達がポーロヴェッツ人の娘を受け取らねばならなくなったのです。
戦いはこれだけでは終わりませんでした。ヤロスラフの三兄弟時代反乱を起こしたスヴャトスラフの子、オレーグがキエフ公国首脳部の弱体化を見、スヴャトポルクおそるるに足らずと、性懲りもなくこれで三度目になりますが、またポーロヴェッツ人と手を結び、トムトロカーニから共同でチェルニーゴフに攻め寄せたのです。オレーグは町に火を放ち、なんと修道院まで焼き払う(つくづくはねっ返りの人物だったんですね)という強い態度を示し、ウラジーミル・モノマフは篭城しますが持ちこたえられず、オレーグと条約を結んでチェルニーゴフを明渡しました。
こうしてオレーグは父スヴャスラフの治めていたチェルニーゴフの公に返り咲き、ウラジーミル・モノマフは先の戦いで死んだ弟ロスチスラフが治めていたペレヤスラヴリに入りました。この憂さを晴らすためなのかどうか、ウラジーミル・モノマフはポーロヴェッツの汗イトラリとクイタン謀殺に成功しますが、今回の対ポーロヴェッツ人戦の敗北によるキエフ公の威光の失墜は、そんなもので挽回できる程度ではありません。ポーロヴェッツに完敗した直後ですから、この火事場泥棒にちかいオレーグのチェルニーゴフ入城の件は現段階では不問に付されます。
さて、1095年人事がおこなわれ、オレーグの弟でノヴゴロドに派遣されていたダヴィドが配置転換でスモレンスクに赴任し(おそらくこれが今回の人事の一番の目的で、こんな反乱好きな兄を持つ弟を、経済が発展し豊かなノヴゴロドに送り、結果的にオレーグに資金源を与えてしまう結果になりでもしたら大変だと思ったのでしょう。)、ウラジーミル・モノマフの息子ムスチスラフがロストフからノヴゴロドへ転任します。さらにモノマフの息子の一人イジャスラフがクルクスからオレーグの支配領域ムーロムに移り、ムーロム公になります。
この公の配置転換は、公に渡り鳥稼業を強いて、公があまりに長期間一つの都市に君臨し過ぎることで土着勢力となり、地元と結託して中央に反攻する勢力とならないための配慮です。
さて、ポーロヴェッツとしばしば手を組み、ルーシとは別個の行動(と言うかほとんど反乱)をとり始めたオレーグを懲罰すべく、スヴャトポルク公とウラジーミル・モノマフはチェルニーゴフへ軍を率いて向かいます。戦争の大義名分は、異教徒ポーロヴェッツをルーシから追い払う際の遠征にオレーグが協力しなかったことの問責です。オレーグはチェルニーゴフから脱出し、他の町で篭城しますが、結局オレーグは講和を望み、兄のダヴィドとともにキエフの権威に服従することを十字架に口付けして誓いました。
この間またもポーロヴェッツ人ボニャーク率いるポーロヴェッツ人が攻め寄せ、威力偵察か小部隊の独断専横か、キエフ周辺を荒らした後帰途に着きます。おそらくポーロヴェッツ人はまとまりがなく、部族乱立状態だったのでしょう、どうも彼らの襲撃にはモンゴル人の襲来時のような一貫性が見られません。ともかく、その後スヴャトポルクの妻の実父トゥゴルトカンがキエフのすぐ南の重要都市ペレヤスラヴリ攻略に打って出ました。キエフを守るべくスヴャトポルク公とウラジーミルはポーロヴェッツ側に気づかれることなくドニエプル河渡河に成功し、両軍はトルベジ河を越えたところで激突しました。
からくもルーシが勝利を収め、トゥゴルトカンおよびその子は戦死し、スヴャトポルク公は岳父トゥゴルトカンの遺体をキエフに運び葬りました。この時期あのボニャークがまたもペチェルスキー修道院を襲う事件が起こりましたが、ポーロヴェッツ人中で勢力をもっていたトゥゴルカンを倒したおかげか、しばらくはポーロヴェッツ人がルーシの地に攻め寄せることはなくなりました。
〜 2. ”オレーグの乱”ールーシ全土が戦火へ 〜
これで外敵がいなくなり、いくさもしばらくなくなるかと思いきや、今度は内訌がおこり、軍を動かしたのはまたもオレーグです。オレーグは先にスヴャトポルクとウラジーミル・モノマフの軍勢に屈したさい、スモレンスクの兄とともにキエフの下風に立つことを約したわけですが、やはりそれに従わず、スモレンスクで兵を集めると、都市のウラジーミルのすぐそば、モノマフの子イジャスラフの支配するムーロマまで攻め寄せたのです。
|
|

オレーグ・スヴャトスラヴィッチの印璽
|
|
一族の風雲児である、このオレーグの姿は、後に彼の孫イーゴリの有名なポーロヴェッツ人遠征「イーゴリ公遠征物語」、で以下の様に活写されております。
…スヴャトスラフの子の オレーグの
いくさも今は語り草。
このオレーグこそ その昔
一剣持って 風雲を呼び
全地に矢の雨 降らせたる者
この公 出陣の砌は
かならずトムトロカーニの
町で黄金の あぶみを踏んだ。
同じその音を いにしえの
大ヤロスラフも 心して聞き
また フセヴォロドの子
ウラジーミルも
チェルニーゴフで
朝来るごとに 耳を覆った。…
オレーグはイジャスラフに対し、ー「おまえの父の領地のロストフへ行け、この地はわが父の領地である。わたしはこの地を支配し、おまえの父と条約を結ぼうと思う。おまえの父は私をわが父の町から追い出したのだ…。」ーという最後通牒を送り、イジャスラフはこれを完全無視して、オレーグの軍に対抗するためスーズダリやロストフから兵を集めました。
両軍は郊外の平野で激突、さすが所領を求めて散々暴れまわった風来坊オレーグの軍隊は、父から受け継いだムーロマを統治していただけのイジャスラフを完全にやぶり、イジャスラフは戦死してしまいます。キエフ側の軍勢が壊滅したことでスーズダリ、ロストフも自然にオレーグの前に降伏し、こうしてロシア北東部はオレーグの手に落ちました。
オレーグは余勢を駆ってノヴゴロドも領有しようと画策し、弟のヤロスラフをノヴゴロド攻略の部隊として送りました。しかし、当時配置されていたモノマフの子ムスチスラフのほうは、のちにキエフ公となっただけのことはあって簡単につぶされるような人物ではなく、自らはノヴゴロドに座し、部下のドブルィニャを派遣します。ドブルィニャはまず徴税吏をとらえ、ヤロスラフの資金源を断ちます。金がなくては何もできませんから、ヤロスラフはオレーグのもとへ逃げ去り、ムスチスラフはノヴゴロドから進軍しました。
オレーグはロストフに逃げ、ムスチスラフが追撃に入ったとの報が入るや、さらにロストフからスーズダリに逃げ、スーズダリを焼き払った後更にムーロムに逃げ込み、そこでムスチスラフと講和しました。ムスチスラフは父親譲りの温厚の性を見せ、オレーグが軍勢を解散するなら自分は年長順番制に従い年上のオレーグに臣従すると明言し、オレーグはこれを受け入れると申し入れ、これで揉め事は終わったかに見えました。
ムスチスラフはすでに講和成ったと親衛隊を解散します。が、ここでオレーグは裏切りをかまします。ムスチスラフがムーロムで食事をしていると、オレーグの軍勢がムスチスラフへ連絡なしにクリャジマ河畔に展開しているとの報告がはいりました。危険なことにこのときムスチスラフは無防備でしたが、すでにムスチスラフが陣を引き払ったと錯覚したオレーグは軍を進めず、ムスチスラフは敏速にもその日のうちに親衛隊を再度集めることに成功します。事の意外な成り行きに、オレーグは攻撃を控え両軍は4日間対峙します。
そうこうするうちに、ウラジーミル・モノマフがヴャチャスラフとともにおくったポーロヴェッツの軍勢と(彼も結局ポーロヴェッツと手を結んだわけですが…)、ポーロヴェッツ人のクヌイに持たせたウラジーミルの戦旗が届き、これに力を得てムスチスラフは戦端を開き、コロクシャ河畔で両軍は激突、ムスチスラフが勝利を収めます。
オレーグはムーロマにヤロスラフを強制的に守備につかせると、リャザンに逃れました。ムスチスラフは使者を送って、オレーグにキエフへ所領安堵を願う使者を送るよういい、それに関しては自分も口添えすると言わせ、オレーグはさすがにこれを受け入れました。自分の最大最強の支持基盤だったポーロヴェッツ人勢力をモノマフに切りくずされたオレーグは、もはや牙をうしなった狼で、身内を殺した相手でも、穏やかで反抗しないならそっとしておいてくれるモノマフ親子の性根も信用したのでしょう。こうして一件落着し、すべてを解決したムスチスラフはノヴゴロドへと帰還しました。
〜 3. リューベチの会議ー分裂時代の確定 〜
これでルーシ世界全土に戦火が及んだオレーグの乱にもやっと区切りがつきました。が、ルーシ内部で激発する紛争にとうとう根を上げたスヴャトポルクは、紛争を前もって調停するため、1097年キエフの北にあるリューベチで諸公会議(スネム)を開催しました。列席者はキエフ公スヴャトポルク、キエフ公の補佐役ウラジーミル・モノマフ、ヤロスラフの子の三兄弟に隠れて影が薄いですが、紛れもなきヤロスラフ賢公の四男イーゴリの子ダヴィド、これまた影が薄いですが、こちらも紛れもなきヤロスラフ賢公の長男ウラジーミルの子のロスチスラフのそのまた子のヴァシリコ、つい先ごろまで反乱を起こしていたオレーグとダヴィド兄弟でした。
つまり、この会議のメンバーは、ヤロスラフ賢公の直系にあたるいとやんごとなきお方でありまして、つまり、ルーシを仕切ってキャンともいわせぬためには、やはりリューリクの血がものをいうわけで、反乱を起こそうが影が薄かろうがその辺は血筋の重要性に比べれば軽い問題だった模様です。
さてこの会議ではスヴャトポルクは諸公間の団結、さらにはこれ以上の放置を許されなくなったポーロヴェッツ人の脅威を訴え、対ポーロヴェッツ人統一戦線結成を主張しました。また父の領地を世襲の領地として所有する、「世襲地制」を提案します。つまり、キエフ公国の分裂が諸侯会議により公的に認められることとなり、裏を返せば自分の土地は自分で守りなさい、ということが決定したのです。
そこで決定に従い、キエフ公国は大まかに以下のような公国に分裂しました。公国名は、中心都市の名前を取って名づけられており、キエフ公国(スヴャトポルクが世襲)、ガーリチ=ヴォル二ィ公国、ウラジーミル・ヴォルインスキー公国、トゥーロフェビーンスク公国、ポロック公国、スモレンスク公国、チェルニーゴフ公国(もともとヤロスラフ賢公の息子のスヴャトスラフ、つまりダヴィド、オレーグ、ヤロポルク兄弟の父が与えられた領地の、彼らの世襲が認められたのです。オレーグの反乱はもともとこの地の領有を求めたものですから、ごねただけの甲斐はあったのでしょうか。)、ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国、ペレヤスラヴリ公国(ウラジーミル・モノマフが世襲)、ムーロム=リャザン公国、ロストフ=ウラジーミル=スーズダリ(イーゴリの子ダヴィドが世襲)公国などです。
|
|

9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市
|
|
外界からの脅威、ポーロヴェッツ人に対して、以上のような対策をとった後に、これらのことは全て十字架にかけて誓われました。さらにスヴャトポルクは内部固めとして、ルーシの民衆に、ルーシ民族としての自覚を目覚めさせようとギリシャ正教の僧ネストルらに命じて、このHPの歴史コンテンツの元本の一つ、「過ぎし日々の物語」を編集させ、国内統一・対ポーロヴェッツ同盟を計ろうとしました。
〜 4. 内乱の再発ー懲りない人々 〜
さて、会議は終わり、キエフの人々は皆喜んだわけですが、困ったことに平和会議の発案者であるスヴャトポルクとイーゴリの息子ダヴィドと、ロスチスラフの子ヴァシリコの間で揉め事が発生します。
トゥリャ−ク、ラーザリ、ヴァシーリー、というダヴィドの三人の部下がウラジーミル・モノマフは、ヴァシリコと結託してスヴャトポルクとダヴィドに対抗しようとしたのだ、という中傷をダヴィドの耳に入れ、それをダヴィドが信じ、スヴャトポルクにヴァシリコと対抗するようそそのかしたといいます。真実は今では闇の中ですが、ともかくスヴャトポルクはダヴィドの話を信じ、ヴァシリコがやって来たとき、スヴャトポルクの名前の日(自分が洗礼名もらった聖人または天使の祭日)を祝うためヴァシリコに残るようにいい、ヴァシリコはそれに従います。
これは罠であるとの報が一人の年少親兵から伝えられたといいますが、十字架にかけて会議で誓った平和をまさか乱すやつはおるまいとヴァシリコはそれを聞かず、残ったところを一室に閉じ込められて取り押さえられ、両方の目玉をくりぬかれた後、ダヴィドによって都市のウラジーミルに連行され、軟禁状態に置かれます。
ウラジーミル・モノマフはこの話を聞いて泣き、こんな悪事がルーシの起こったのは初めてだ、このように骨肉相食む状態では、いずれポーロヴェッツに滅ぼされるといいました。モノマフ、スヴャトスラフの息子のダヴィドとオレーグは家来をスヴャトポルクに遣わし、なぜこのようのなったのか問いただします。スヴャトポルクはイーゴリの子のダヴィドが物語ったことをモノマフに伝え、直接手を下したのはダヴィドであって自分ではないと主張しました。が、家来は、凶行はスヴャトポルクの町で行なわれたのであり、言い訳は無用と、使者達はおのおのの主君の下へ帰りました。
さて、肉親のあだは晴らさねばならないと、モノマフ、イーゴリの息子のダヴィドとオレーグはスヴャトポルク攻撃に向かい、スヴャトポルクはキエフから脱走しようとしますが、キエフの人々はスヴャトポルクを逃がしませんでした。が、ここで義理の母のフセヴォロド未亡人と府主教ニコライがモノマフのところにやって来て、争いはやめてルーシの地を守り、ポーロヴェッツからルーシを守れ、とモノマフは諭されます。モノマフは泣きながら「わが父祖はルーシの地を守ってきたのに、われわれはそれを滅ぼそうとしている」という意味のコメントを出し、一応矛を収めました。
さらにフセヴォロド未亡人が仲介となってキエフのスヴャトポルクを尋ね、スヴャトポルクはダヴィドを攻撃し、逮捕もしくは追放することモノマフらと話がつき、大物同士の直接対決による惨禍は免れたと伝えます。ダヴィドのところで監禁中のヴァシリコも自分のために戦争が起こるのはやめてほしいとの意向を伝え、代わりにテレボヴリの返還を求めます。
この談判は、ダヴィドがスケープゴートとなってめでたく一件落着、というわけにはいかず、イーゴリの息子のダヴィドはさらにヴァシリコの領土をうばおうと兵を進めました。ところがそこには、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリが軍を率いて待ち受けており、ヴォロダリはダヴィドに一体どれほど罪を重ねれば気がすむのかと問責します。ダヴィドはスヴャトポルクに強制されたことだと言い訳しますが、ヴォロダリは兄を返せば今日のところは兵を引こうと言ったので、ダヴィドは盲目のヴァシリコをヴォロダリに返し、両軍は兵を引きました。
ところが、やはりそんなことでは腹の虫が収まろうはずもないヴァシリコとヴォロダリは再び兵を率いてダヴィドの領地に攻め込み、ダヴィドの支配下の町フセヴォロジを攻略、全住民を殺害するよう命じます。ダヴィドはウラジーミルに篭城し、中から出てこなくなりましたから、二人は更にウラジーミルを包囲し、ウラジーミルの住民に使者を遣わしてそもそもダヴィドに誹謗中傷を吹き込んだトゥリャ−ク、ラーザリ、ヴァシーリーを引き渡せといいます。
ウラジーミルでは民会が開かれ、ダヴィドのためなら戦うが、そもそもの発端となった三人の家来のためには戦いたくない。もし、三人を差し出さなければ城門を開いてヴァシリコとヴォロダリに降伏する、と結論がでました。やむなくダヴィドはキエフに逃げたトゥリャ−クを除く二人を探し出して処刑し、それを見たヴァシリコとヴォロダリは兵を引きます。
さて、スヴャトポルクは今回のそもそもの発端だった(?)ダヴィドを追放すべく兵を集めるため、リャフ(ポーランド)人のヴラディスラフのもとへ行きます。あわてたダヴィドもリャフ人のもとへ行き、黄金50グリヴナで仲介を頼み、ヴラディスラフはダヴィドとスヴャトポルクの間で和解を取り持とうと約束します。が、ヴラディスラフはスヴャトポルクからさらに巨額の金をつかまされたため、ダヴィドに対し、スヴャトポルクは和解交渉に聞く耳持たぬと発言し、埒が空かなくなったダヴィドはウラジーミルに返りました。
その後スヴャトポルクはウラジーミルでダヴィドを包囲し、ダヴィドはリャフ人の援軍を期待して待ちますが、援軍は現れず7週間包囲が続き、いやになったダヴィドは一人で町から出してくれるようスヴャトポルクに頼みます。そこでスヴャトポルクは願いを聞き入れ、ダヴィドはウラジーミルを出て後リャフ人の地へ亡命しました。
ウラジーミルを手に入れたスヴャトポルクは欲が出たのかヴァシリコとヴォロダリに対しなんとまた戦争をしかけます。ヴァシリコとヴォロダリは、軍勢を動かすのはダヴィド討伐であってヴァシリコ攻撃ではないと誓った時に口付けした十字架を戦場へ持っていき、両軍はロジャニ河畔で激突し、そのときヴァシリコは件の十字架を掲げてこういいました。
−「これにおまえ(スヴャトポルク)は口付けした。見よ、最初におまえはわが目から眼球を奪い、いまやわが魂を奪おうとしている。われらの間にこの十字架があらんことを」−
激烈な戦闘の結果、スヴャトポルクは戦場から逃げ出し、ヴァシリコとヴォロダリは、全ては本来あるべき姿に落ち着くべきであると追撃をしませんでした。
ここでやっと和議が結ばれることなり、ウヴェチで会議が開かれ、ヴァシリコの件に関して復讐はなされない代わりにダヴィドはウラジーミル公の地位を追われ、その補償としてブージスクの公位と総計400グリヴナが与えられました。
〜 5. ポーロヴェッツ遠征ー内ゲバよりは外征を 〜
さて、1103年ドロプスクで諸公会議が開かれ、そこでウラジーミル・モノマフがポーロヴェッツ人に対して積極攻勢に出るよう主張します。これこそルーシ内部の統一を狙った外政で、内ゲバで無駄に自分を傷つけて体力を消耗するよりは、外征で異民族でも襲ったほうがいいと考えたのでしょう。襲われるポーロヴェッツ人こそ迷惑ですが、遊牧民族の略奪遠征は農耕民族の古今東西を問わぬ悩みの種でして、一応筋は通っているということになり、議題にのせられた模様です。
スヴャトポルク公の親兵隊は最初「今は春であり、遠征する時期ではないーわれわれのスメルド(奴隷であるホロープとは異なりある程度の自由をもつ。のちのラープ、農奴です。)と農地を滅ぼすことになるだろう」と発言します。それに対してウラジーミル・モノマフは、
ー「私にとって不思議なのは、新兵隊よ、おまえたちはスメルドが耕す馬を惜しんでいるが、スメルドが耕し始めるとポーロヴェッツ人がやってきて、スメルドを矢で射殺し、彼の馬を奪い、スメルドの村に馬で来て、妻や子や財産を全て奪うだろうことを考えないところだ。スメルドの馬は惜しいのはわかるが、スメルドを哀れと思わないのか」ー
と発言し、新兵隊がこれに反論できなかったのでスヴャトポルク公が遠征に賛成して話がまとまります。ウラジーミル・モノマフは自分の子供のヤロポルク、スヴャトポルク公、スヴャトスラフの息子のダヴィド(オレーグは健康不安を理由にポーロヴェッツ遠征にはまたも不参加でした。)、ヤロスラフ賢公の兄イジャスラフのひ孫のダヴィド、イーゴリの孫ムスチスラフ、ヤロポルクの子のヴャチャスラフなどを連れてステップへの遠征に向かいます。こうしてルーシ諸公の初の本格的なポーロヴェッツ人への攻勢が始まったのでした。
|
|
今回のポーロヴェッツ出撃メンバー(赤色)
―┬ウラジーミル―――ロスチスラフ―――┬ヴァシリコ
|
|
├イジャスラフ――┬スヴャトポルク └ヴォロダリ
| |
| └ヤロポルク――――ヴャチャスラフ
|
├スヴャトスラフ―┬ダヴィド
| |
| ├オレーグ
| |
| └ヤロスラフ
|
├フセヴォロド
| |
| ├――┬ウラジーミル・モノマフ┬ムスチスラフ
| | | |
| | └ロスチスラフ
├イジャスラフ
| | |
| | ├ヤロポルク
| | |
| ビザンチン帝国皇女 └ヴャチェスラフ
|
|
├イーゴリ――――ダヴィド―――――ムスチスラフ
|
|
└ヴャチャスラフ――ボリス
|
|
さて、ポーロヴェッツ人の間では迫り来るルーシ諸公連合軍への対策会議が開かれ、ウルソバという人物が、ルーシへの度重なる侵入に対するルーシ諸公の怒りの大きさを考えると、彼らは本気で立ち向かってくるはずであるから、慎重にここは講和するよう発言したといいますが、若い世代の好戦論に押し切られ、結局出撃が決定しました。
|
|

1111年のポーロヴェッツ遠征
右側の変わった生き物は敵を象徴する蛇(聖書の文脈から
すると蛇は楽園を追放されるまえは足があったみたいです。)
|
|
この戦いは大勝利だったらしく、ウソルバを始めとするポーロヴェッツ側の12人の公を討ち取り、多くの家畜(馬、羊、らくだ)を奪い、奴隷、天幕を奪います。この4年後、報復攻撃でしょうか、ボニャークと老いたシャルカンなるポーロヴェッツ人の公が進撃してきます。スヴャトポルク、ウラジーミル・モノマフ、散々問題を起こしたスヴャトスラフの子オレーグ、ムスチスラフなどが迎撃に向かい、これもまた打ち破ってボニャークの兄弟ターズは戦死、シャルカンはかろうじて逃げ延びるという結果になります。
だいたいこの辺までが多くの修道僧の手によって編纂なった原初年代記「過ぎし日々の物語」と呼ばれる年代記をもとにしております。以降は「キエフ年代記」からの記事をベースにまとめていきます。
〜 6. スヴャトポルク公死去ーウラジーミル即位へ 〜
ウラジーミル・モノマフは気をよくしてさらなるステップへの遠征を計画し、またもドロプスクで諸公会議を開き、スヴャトポルク公を説得し、遠征を実行に移します。しかしこの戦いではルーシ諸侯の苦境を助けるため天使が加勢し、その力で勝利を収めたという記述があります。このような超自然的現象もしくは偉大な人物の超人的活躍により勝利を収めたとか言う話は、大概が負け戦でして、今回の遠征はよくいっても辛くも成功したという程度なのではないでしょうか。
こうして段々ウラジーミル・モノマフ主導の体制が整えられる中、1113年スヴャトポルク公は亡くなりました。キエフの人々は民会を開き、ウラジーミル・モノマフにキエフ公になるよう決議しますが、ウラジーミルは(慎重にも)これを一旦は受け入れませんでした。そこでキエフで暴動が起こり、千人長プチャ−クの館が襲撃され、おそらく記録に残る最初のポグロームが発生しました。人々はウラジーミルに向かって使いを出し、もしウラジーミルがキエフ公にならないのなら、さらに手ひどい暴動がおこると警告し、ここまで言われたところでウラジーミル・モノマフはキエフ公に即位しました。
そこで、キエフ公となったモノマフは高利貸しの利子の制限、債務者の保護等、経済面に深く踏み込んだところに特徴のある「ウラジーミル=モノマフの法規」を作成します。ちなみにルーシに様々な波紋を残したオレーグも、1114年スヴャトポルクの後を追うようにして亡くなりました。
長年影に日なたにスヴャトポルクを支えてきたウラジーミル・モノマフが、即位後行なったのは、不服従な一族の討伐です。まず、ミンスクのグレープを、スヴャトスラフの息子ダヴィドとオレーグの息子、自分の息子ムスチスラフとともに攻め、グレープを降伏させます。ついで都市のウラジーミルを領するダヴィドとオレーグの弟ヤロスラフを攻めてこれも降伏させます。ヤロスラフは後に都市のウラジーミルを再興すべく、ポーランド人らとともに攻め込みますが、トゥゴルカンの孫娘を娶ったウラジーミル・モノマフの末息子アンドレイが防戦するなか、ヤロスラフの横死によりこの戦いは終結します。
さらに国境付近も安定させるべく、モノマフは1120年、モノマフの息子ユーリー、モスクワの創建者とされる後のユーリー・ドルゴルーキーがボルガル人遠征に向かい、彼らを破って帰国します。モノマフはアンドレイもリャフ人(ポーランド人)のもとへトゥゴルカンの孫娘を娶った関係からでしょう、ポーロヴェッツ人(年代記では「邪教を信ずる者達」と書かれていますが)とともに遠征に向かい成功を収めました。
これらの戦いにより、最盛期には到底及びませんが、ともかくヤロポルクとウラジーミル・モノマフのコンビはキエフ公国の3/4近くの領域を回復します。歴史は一方向に一気に流れはせず、常に行きつ戻りつしながら流れていきますが、キエフ公国の解体も一気には進まず、ここに小休止のような一時的な領域回復がおこったわけですが、大勢を変えるには到らず、これ以降公国解体はじわじわと進んでいくことになります。
1126年、ウラジーミル・モノマフは亡くなります。総じてこれをいえば、モノマフは猛くもあり、やさしくもある公でした。軍事的に極めて有能で、中でもロシア諸公初のポーロヴェッツ遠征を企画し成功裏のうちに終わらせたのは彼の才に預かること大であったのは紛れもありません。政治家としての力量も大きく、のちの北東ルーシの中心となり、事実上はキエフよりも力を持つことになるウラジーミルを建設したのは彼だとされており、為政者としての器量も十分でありながら、ルーシの地に不穏を齎さぬよう、自らは一歩引いて、その生涯の大部分を年長者のいとこスヴャトポルクを陰から支えることに捧げました。
また、情に厚い彼は、ポーロヴェッツ人の戦い敗走中に川で溺れ死んだ弟を思って亡き、ヴァシリコが目をつぶされた事件では、その一族間で行なわれた残酷な所業を悲しみ、ヤロスラフ賢公の一族の団結が敗れることから起こるルーシの破滅を思ってまたも涙を流す、涙もろい、感情豊かな人物でした。また、一族の団結、ひいてはルーシの団結を守るためなら、自分の叔父(当時の感覚では父と同格です)の戦死の直接の原因で、さらには自分の次男を攻め殺したオレーグも許す力も持っていました。
この20年後に、オレーグの息子のスヴャトスラフを奉ずるモノマフの四男のユーリー・ダルゴルーキーと、モノマフの長男の息子イジャスラフ公との間で争いが起こった時、イジャスラフはキエフの民衆にユーリー・ダルゴルーキーに対する遠征を提案しますが、彼らはこういいました。
−「公よ、我等に怒るな。−ウラジーミル(モノマフ)の一族に対して手を挙げることは出来ない。が、オレーグの子らに対しては、子供らを引き連れても(遠征するだろう)」−
「遺愛民に」ありとはこのことを言うのでしょう。
その母親が東方教会の総本山たるビザンチン帝国の皇帝の娘ということもあったのでしょう、聖職者である年代記作者からえこひいき気味にかかれている、といわれることもあるウラジーミル・モノマフの一族ですが、このモノマフの生涯に関する記事が本当なら(しかし年代記の記述そのものを疑うならもう当時のことを正確に知る資料はありませんが…。)、僕だってモノマフにひいきしますよ。
ウラジーミル・モノマフの後、キエフ公の地位を襲ったのは息子のムスチスラフでした。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
レーベジェフ 編・除村吉太郎 訳
原書房
・『神聖ローマ帝国』
菊地良生 著
講談社現代新書
・『歴史読本ワールド ロシア帝国の興亡 第2巻 第7号』
新人物往来社
・『ロシア史 1』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
|