キエフスカヤ・ルーシ(10)

〜〜モノマフ家系(ペレヤスラヴリ) vs. オレーグ家系(チェルニーゴフ)の争い〜〜





大ムスチスラフ公

Мстислав Великий

?−1073年

オレーグ家との闘争と調停



 


Российская

История


 しもの激しかったポーロヴェッツ人の侵入も、ヤロスラフ賢公の三人の息子の防衛、そしてスヴャトポルクとウラジーミル・モノマフの時代の巻き返し(前のページで書いたとおり、二人はポーロヴェッツの地まで遠征に打って出ました)おかげか、通婚を通じてポーロヴェツ人と婚姻関係ができたからなのか、あるいは彼らを圧迫する遊牧民勢力が消失したからなのか、今の私には判断できませんが、ともかく年代記(「キエフ年代記」)には、勢力争いのためにロシア諸公自らが彼らをルーシに引っ張り込んだ場合を除いてほとんど見られなくなります。

 ヤロスラフ賢公の残した年長順番制は確かに機能し、キエフ公の公位は見事なまでに年長順に受け継がれていきます。この好条件の中、ロシア諸公は一体何をしたのかというと、チェルニーゴフに根を張るオレーグ家系統と、ペレヤスラヴリを本拠地とするウラジーミル・モノマフ家系統の所領(ときにキエフ公位を巡る)争いです。ヤロスラフ賢公のнаряд(ナリャート、指令)はキエフ公国の公位の円滑な継承には成功したものの、所領争いまでを防ぐことはできなかったのです。


   
〜 1. モノマフの子、ムスチスラフ公の時代 〜

 ウラジーミル・モノマフの死後、1126年モノマフの長男ムスチスラフがキエフ大公位につきました。モノマフの死を知ったポーロヴェッツ人は政権交代の混乱を狙ってバルーチに向かって攻め寄せます。モノマフの弟ヤロポルクの指揮よろしきを得てバルーチ防衛に成功します。そこでポーロヴェッツ人は防衛の要、ヤロポルクを直接攻めるべく彼の本拠地ペレヤスラヴリに攻め寄せますが、ヤロポルクはこれも見事に防ぎます。

 ところが、このあたりがキエフスカヤ・ルーシ時代後期の君主達の悪いところなのですが、外部の脅威が去ると早速内輪もめが始まります。問題を起こしたのはスヴャトポルクがキエフ公だったときにルーシ全土に広がる反乱を起こしたあのオレーグの息子のフセヴォロドです。




     この章に登場するリューリク一族の系譜

      ・(チェルニーゴフ公国)

ウラジーミル・モノマフ
 |
├――――
ムスチスラフイジャスラフ
?      |          |
        |          ├フセヴォロド
        |          |
        |          ├スヴャトポルク
        |          |
        |         
├ロスチスラフ
        |          |(スモレンスク公国系)
        |          |
        |          └ウラジーミル
        |
       ├
ヤロポルク
        |
       ├スヴャトスラフ
        |
       ├ヴャチェスラフ
        |
       ├ロマン
        |
       ├
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
        |    |
        |    ├――
アンドレイ・ボゴリュプスキー
        |   ?     |
        |         ├ミハイル
        |         |
        |        
フセヴォロド大巣公
        |
       
アンドレイ
           |
           ├―――ウラジーミル
           |
        
トゥゴルカンの娘


・(ペレヤスラヴリ公国、ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国)

 ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ
  |       |
  |       └ウラジーミル
  |
 ├
オレーグ―┬
フセヴォロド
  |        |
  |       ├イーゴリ
  |        |
  |       └スヴャトスラフ
  |
 └ヤロスラフ―――――――┬ヤロスラフ
  (ムーロム・リャザン公国)  |
                   └ロスチスラフ


          ・(ガーリチ公国)

 ―
ロスチスラフ―┬
ヴァシリコ―イヴァン
            |
           └ヴォロダリ―ウラジーミル


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 フセヴォロドは叔父のヤロスラフ(オレーグの末の弟)をチェルニゴフで捕らえ、その地から追い払い、チェルニゴフを実力で占拠してしまいました。もちろんキエフ大公でこういった揉め事の裁定者であるムスチスラフは一族相手に干戈を交えるとは何事かとヤロポルクを伴いフセヴォロドに対し出兵しようとします。ところがフセヴォロドは一族を相手に敵方のポーロヴェッツ人と手を組もうとし、ヤロスラフを解放し、ポーロヴェッツに使者を送って援軍をもとめます。

 自国の内乱に外部勢力を引っ張り込むという、政治的には最悪にまずい行動に出たわけですが、フセヴォロドに呼応して出陣したポーロヴェッツ人(その数7000人といいます)の使者はヤロスラフの手のものに捕らえられ、フセヴォロドからの連絡がこないためポーロヴェッツ人は撤退します。

 形勢不利とフセヴォロドは様々にムスチスラフ公に贈り物を与え穏便にことを収めようとしますが、収まらないのはムーロムに落ち着いたヤロスラフで、「あなたは私のために十字架に口づけしたのだからフセヴォロドを討ってくれ」とムスチスラフに懇願します。

 この政治家同士の揉め事を収めたのが聖職者の、聖アンドレイ修道院長のグレゴリーです。彼は「キリスト教徒の血を流すよりは十字架への口づけを破って(つまり、誓いを破って)戦争をしないほうがいい。」といい、聖職者同士で会議を開いて「(誓いを破った)罪はわれわれに降りかかるだろう」と太鼓判を押しましたので、結局フセヴォロドのチェルニゴフ占拠は黙認され、ヤロスラフはムーロムにとどまりました。






9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市





 さて、内乱が収まった後、ムスチスラフ公は外征を開始、クリヴィチ(ポロック公国)に遠征します。ムスチスラフ公の兄弟ヴャチャスラフ、アンドレイ、オレーグの息子のフセヴォロドなどをともなったこの遠征は成功し、ポロックを平定します。ついでおそらくロシアの歴史を通じて初になる、キエフ公国のリトヴァ遠征を行ないます。


 〜 2. ヤロポルク公の時代ーフセヴォロド再反乱 〜

 ところがムスチスラフ公は1132年で亡くなります。短いキエフ公位でした。そこで年長順番制に忠実に、ムスチスラフはヤロポルクにキエフ公位を譲り、自分の子供達も弟にゆだねたのです。ヤロポルクは兄と同様ウラジーミル・モノマフの温厚な性格を受け継いでいた模様です。温厚なのはいいのですが、この温厚な性格は政治の世界ではどうも激しいトップの性格を和らげる役回りの時には最大の成果を発揮しますが(平清盛に対する重盛、豊臣秀吉に対する秀長、徳川家康に対する秀忠など)、この人がトップになった場合、わからず屋に対して断固たる処置を取れないと言う欠点が生じます。

 ヤロポルクはムスチスラフの子フセヴォロドをノヴゴロドからひそかに連れ出し、ひそかにペレヤスラヴリを与えますが、フセヴォロドがペレヤスラヴリ公になったその日のうちにユーリー・ダルゴルーキーが彼を追い出してしまいます。ヤロポルク公はムスチスラフとの約束に忠実に、ユーリーを追い出し、代わりにムスチスラフの他の息子、イジャスラフをペレヤスラヴリ公位につけます。

 ところが、イジャスラフはヴャチャスラフにペレヤスラヴリを奪われ、イジャスラフはトゥーロフに移ります。おそらく失政でペレヤスラヴリを失うと、ヴャチャスラフはトゥーロフからイジャスラフを追い出し、さらにヴャチャスラフがヤロポルク公はユーリー・ダルゴルーキーの願いを聞き入れ、ペレヤスラヴリをユーリーに与えてしまいます。その代わりユーリーはスーズダリ、ロストフの領地をヤロポルクに与えます。つまり、ムスチスラフ公の息子達はヤロポルク公の黙認によって領有すべき都市を失ってしまったのです。

 実はこれまでウラジーミル大公国の基礎を作り上げたかのユーリー・ダルゴルーキーの記述はウラジーミル・モノマフのボルガル遠征の記事以外、この辺りまでまったく見られず、しかも登場したとたん、「スーズダリ、ロストフの領地をヤロポルクに与える」などの、キエフ大公と対等であるかのような記述が出てきます。

 後世「ドルゴルーキー(長い手)」つまり「やり手の」のと言われたユーリーのことですから、ひたすら表立った活動を差し控え、世襲領地への地固めを着々と行なっていたのかも知れません。

 ところで、この処置はスーズダリ、ロストフと地理的に近いチェルニーゴフの領主オレーグの息子フセヴォロドと悶着をおこし、またも反乱好きの一族の血が騒いだらしいフセヴォロドはヤロポルク公に対し1135年反乱を起こします。ヤロポルク公はユーリー、アンドレイとともにフセヴォロドの本拠地チェルニーゴフを攻めますが、常にポーロヴェッツ人と手を組む一族の伝統に忠実にポーロヴェッツ人部隊の支援を待っていたフセヴォロドは町にこもったまま出てこず、ヤロポルク公は数日間チェルニーゴフにいたのみでキエフに帰還します。

 さて、ポーロヴェッツ人部隊が到着したのち、フセヴォロドは自分の兄弟、および散々な冷や飯を食わされた先のキエフ公ムスチスラフの二人の息子、イジャスラフとスヴャトポルクとかたらいペレヤスラヴリを襲撃して火をかけ、さらにキエフにまで迫ります。また、ドニエプル川対岸一帯を略奪し、多くの家畜を捕まえ、ヤロポルクに対し、今回の戦いはヤロポルクがムスチスラフの子らに対する冷遇が原因である、フセヴォロドとしてはウラジーミル・モノマフの時代にオレーグ一家の保持していた地(セイム河沿岸の地)が欲しい、事が起こっても泣き言を言うなと嚇しをかけます。

 これに対しヤロポルク公は講和を望み、アンドレイがペレヤスラヴリを、イジャスラフが都市のウラジーミルを領有することになりました。ユーリーはやはりスーズダリを領有することで落ち着いた模様です。

 この、オレーグの息子フセヴォロドにとって何の特にもならない講和は彼にとっても不満だったらしく、フセヴォロドは兄弟たちとともにチェルニーゴフに兵を率いて現れ、それに対しヤロポルク公、ヴャチャスラフ、ユーリー、アンドレイが出陣してデスナ河で戦端が開かれます。この激戦でまずフセヴォロドのポーロヴェッツ人部隊は崩れ始めますが、フセヴォロドの本陣は崩れず、結局ヤロポルク公らの陣が崩れて、ヤロポルク公、ヴャチャスラフ、ユーリー、アンドレイが戦場から逃走し、この戦いはフセヴォロド側の勝利となりました。

 勝利を収めたフセヴォロドはデスナ河を越え、ヴィシゴロド付近に駐屯します。ヤロポルク公が雪辱線に備え軍勢を集め始めた後、フセヴォロドは7日後、陣を引き払ってチェルニーゴフに帰還しました。

 さらにフセヴォロドは兄弟たちを率いてドニエプル川を越え攻勢を開始し、それに対してヤロポルク公は軍勢を集めましたが、戦いに倦み飽きたのか、府主教ミハイルを仲介にしてフセヴォロドと講和しました。ここでフセヴォロドはセイム河沿岸の地を世襲地を受け取り、1136年、一応両軍は矛を収めました。

 さて、ここで重要都市ノヴゴロドで政変がおこります。代々、ノヴゴロドを扼する者はルーシを制しますから、この土地にはその時代時代の実力者が大体公になっておりますが、先代キエフ公ムスチスラフの子のフセヴォロドがノヴゴロド公に納まっていましたが、ノヴゴロドの住民に追い出され、現在のところ最強者と思われた今は亡きオレーグの三男スヴャトスラフがノヴゴロド公に推戴されます。

 フセヴォロドが一旦ヴィシゴロドをヤロポルク公から与えられますが、プスコフがフセヴォロドを自前の公として招聘し、ノヴゴロドの傘下から離れて独立します。ところがしばらくしてスヴャトスラフの統治能力を見限ったのか、ノヴゴロドの人はスヴャトスラフを追い出し、スヴャトスラフはスモレンスク公に納まりました。そして新たにノヴゴロド公に納まったのが、あのユーリーの子ロスチスラフです。

 さて、フセヴォロドの領土欲はとどまるところを知らないらしく、ポーロヴェッツ人を集めるとまたも戦端を開き、スラ河付近の土地を占領しました。ヤロポルク公はスーズダリ、ロストフ、スモレンスク、ポロック、さらにはウゴル人の王から軍勢を借り集め、大部隊を編成して今度ばかりは容赦せぬとばかりにフセヴォロドの根拠地チェルニーゴフに迫ります。あまりの大軍にフセヴォロドは取り乱しますが、チェルニーゴフの住人はフセヴォロドにこういいました。

 
−「汝はポーロヴェッツ人のもとへ逃れることを期待しているが、おのれの領地は滅ぼすのである、どこへ引き返そうとするのか。それよりは誇りを捨てて、和を乞え。われらはヤロポルクの恵み深さを知っている、−彼は流血を喜ばず、神のために平和を欲するであろう、彼はルーシの地を守っているのである」−

 この進言を聞き、フセヴォロドは使者をヤロポルク公のもとに送りました。寛容の仁に溢れるヤロポルク公はもちろんこれを許し、フセヴォロドと講和し、十字架に口づけして和平を誓いました。その年の1136年、ヤロポルクが亡くなりました。


  
〜 3. フセヴォロドの時代ーとうとうキエフ公へ 〜

 ヤロポルクの死後、キエフ公位に着いたのはヤロポルクのすぐ下の弟ヴャチェスラフです。ところがそれを聞いたフセヴォロドは親衛隊を集め、弟スヴャトスラフ、ダヴィドの子と共にヴィシゴロドに入ります。年が変わった1137年、フセヴォロドはキエフに現れ、街の前面の館を焼き払いはじめます。

 あくまで温厚なヤロスラフ賢公の息子フセヴォロドの家系の血を引くヴャチャスラフは、揉め事を起こすのをきらったのでしょう、自ら年少者である(つまり、キエフ公の継承順位はフセヴォロドのほうが高い)と表明し、自らの領地トゥーロフへ帰り、代わってフセヴォロドがキエフに入り、キエフ公になりました。とうとうはねっ返りで激しい性格を持ったヤロスラフ賢公の息子のスヴャトスラフ家系がルーシの支配権を握ったのです。






フセヴォロド・オーリゴヴィチ
1146

リャフ人と結び、モノマフ家系統をおさえ、オレーグ家系統として
久々にキエフ公位につく




 さて、権力をにぎったフセヴォロド公はやはり責任ある地位につけば、揉め事を起こすのはやはりまずいとわかったのでしょう、ウラジーミル・モノマフ一党に和平の使者を送りますが、さすがに穏健な彼らもフセヴォロドのあまりの横暴に腹を据えかねたのか和平を拒絶し、共同でキエフへ進軍しようと一族どうしで連絡をとり始めます。

 これを察知したフセヴォロド公は先手必勝とばかりに、1140年、自分と弟のスヴャトスラフとともに、モノマフの末っ子でペレヤスラヴリを治めたアンドレイを攻撃し、ダヴィドの息子でいとこのイジャスラフ、そろそろ遠縁の親戚になりかけているガリーチ公国系のイヴァンとウラジーミル、彼らに命じて先のキエフ公ヴャチャスラフと、ムスチスラフの長男イジャスラフに向かわせ、つまりユーリー・ダルゴルーキー以外のウラジーミル・モノマフ家の男児全員に攻撃をかけたのです。




     この章に登場するリューリク一族の系譜

      ・(チェルニーゴフ公国)

ウラジーミル・モノマフ
 |
├――――
ムスチスラフイジャスラフ
?      |          |
        |          ├フセヴォロド
        |          |
        |          ├スヴャトポルク
        |          |
        |         
├ロスチスラフ
        |          |(スモレンスク公国系)
        |          |
        |          └ウラジーミル
        |
       ├
ヤロポルク
        |
       ├スヴャトスラフ
        |
       ├ヴャチェスラフ
        |
       ├ロマン
        |
       ├
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
        |    |
        |    ├――
アンドレイ・ボゴリュプスキー
        |   ?     |
        |         ├ミハイル
        |         |
        |        
フセヴォロド大巣公
        |
       
アンドレイ
           |
           ├―――ウラジーミル
           |
        
トゥゴルカンの娘


・(ペレヤスラヴリ公国 ノヴゴロド・セーヴェルツキー系)

 ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ
  |       |
  |       └ウラジーミル
  |
 ├
オレーグ―┬
フセヴォロド
  |        |
  |       ├イーゴリ
  |        |
  |       └スヴャトスラフ
  |
 └ヤロスラフ―――――――┬ヤロスラフ
  (ムーロム・リャザン公国)  |
                   └ロスチスラフ


          ・(ガーリチ公国系)

 ―
ロスチスラフ―┬
ヴァシリコ―イヴァン
            |
           └ヴォロダリ―ウラジーミル


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 モノマフ家とオレーグ家の全面戦争の様相を呈したこの戦いは、けっきょくオレーグ家の一族にこれまた共通の特徴、とことんまではいかない、土壇場で引き返そうとする癖が発揮されて終わります。

 フセヴォロド公は弟スヴャトポルクとともに軍勢を従えてヤロスラヴリまで来、アンドレイに対しペレヤスラヴリを捨ててクールクスへ行けと勧告します。ところが徹底抗戦をする腹を固めていたアンドレイは親衛隊たちと協議してこういいました。

-「我はクールクスの支配をなすよりは、おのれの父(ウラジーミル・モノマフ)の地、祖父(ヤロスラフ賢公の息子フセヴォロド)の地に於いて親衛隊と共に死ぬほうがましである。わが父はクールクスではなく、ペレヤスラヴリに座していたのである。で、我はおのれの父の地で死にたく思う。もし兄弟がルーシの全土に権力を持つだけで足りなくて、この領地も欲するならば、我を殺して領地をおのれのものとするがよい。

 我は生きている間はおのれの領地から出ぬであろう。これは我らの一門にとっては不思議なことではない、今までもそうだったのである。−スヴャトポルクがボリスとグレープを殺したのは領地のゆえではなかったか、そうしてスヴャトポルクは長生きできたであろうか?この世でも生命を失い、あの世でも永遠に苦しめられているのである。」-


 フセヴォロド公はドニエプル河畔にとどまり、スヴャトポルクがペレヤスラヴリに攻め寄せました。アンドレイはこれに対し打って出、スヴャトポルク軍のをコラニ河まで追い払います。守りが堅いと見たのでしょうか、フセヴォロド公はアンドレイを講和を結びました。

 イヴァンとウラジーミルは臆したのかムスチスラフの息子のイジャスラフと話し合いで所領問題を解決しようとしましたが、物別れに終わりました。ダヴィドの息子のイジャスラフはヴャチャスラフの領地を荒らすにとどまります。

 こうしてオレーグ家とモノマフ家の間での闘争は収まりましたが、今度はオレーグ家で内紛が起こりました。原因は例によって例のごとく土地争いです。フセヴォロド公は自分の息子スヴャトスラフにはトゥーロフを与え、弟のイーゴリとスヴャトスラフ、いとこのウラジーミルとイジャスラフにはキエフ領の町、ベレスチエ、ドロギチン、チャルトリースク、クレーツクを与えようとしますが、彼ら四人は父祖伝来の地、チェルニーゴフ、ノヴゴロド・セーヴェルツキーの所領を欲しがります。願いがかなわぬのを知ったオレーグとスヴャトスラフは、腹いせか、1142年、ペレヤスラヴリのヴャチャスラフを襲います。

 ところがさすがにこの行為は、モノマフ一族の大反発を買い、フセヴォロド公はペネチェグ人の加勢と軍勢をつけてラーザリをヴャチャスラフ救援に差し向け、攻撃にさらされたモノマフ家の危機を救えとばかりに、モノマフ家から亡きムスチスラフの長男イジャスラフが叔父を助けるべくペレヤスラヴリに駆けつけ、イーゴリ・スヴャトスラフの軍を破り、自分の町に逃げ帰ります。

 さらに追い討ちをかけるように、亡きムスチスラフの子でスモレンスク公のロスチスラフが遠征してイーゴリの領地まで向かい、迎え撃ったイーゴリの郡を破り、さらにイジャスラフはチェルニーゴフまで遠征してオレーグ家の領地を荒らしました。オレーグとウラジーミルは雪辱を晴らすべく、もう一度ペレヤスラヴリを襲撃しますが不成功に終わります。騒ぎが収まった後、フセヴォロド公は兄弟たちを呼び集め、ムスチスラフの息子達と今後は争うなと命令します。

 さて、ヴャチャスラフがフセヴォロド公と相談済みでペレヤスラヴリをイジャスラフに譲り、ヴャチャスラフはトゥーロフに入って、それまでトゥーロフにいたフセヴォロドの息子のスヴャトスラフに町のウラジーミルを与えます。これがフセヴォロドの兄弟たちに不満を呼び、特にガーリチ公国のウラジーミルの反感を買って、1144年、ウラジーミルは十字架の誓約書をフセヴォロドにつき返します(要するに協定破棄)。

 ところが指導力には恵まれたフセヴォロドはウラジーミル追討軍として、自分の弟イーゴリとスヴャトスラフ、おじさんのダヴィドの一党、モノマフ家系統からムスチスラフの二人の息子、ユーリー・ダルゴルーキーの二人の息子彫りすとグレープ、おまけにリャフ(ポーランド)の公ヴラヂスラフの加勢まで取り付けて、ガーリチのウラジーミルに戦いを挑みます。ガーリチのウラジーミルはフセヴォロドからすれば第七親等にあたりますからもはやほとんど他人ですので、このような相手に対しては一族も結束し易かったのかもしれません。

 もちろん多勢に無勢でこれでは勝てませんので、ガーリチのウラジーミルは次期キエフ公にイーゴリを押すことを条件にイーゴリにフセヴォロドとパイプ役を頼み、フセヴォロド公に忠誠を誓い、罰金1200グリヴナを払うことを条件に、うまくフセヴォロドと講和することに成功します。もちろん頼りない公を見たガーリチの民衆は、のちにウラジーミルが仮に出た隙をついてロスチスラフの息子のイヴァンを公に迎えるべく画策し、ガーリチへ迎え入れますが、これはさすがにもどったウラジーミルの軍勢の力によってねじ伏せられ、ウラジーミルはガーリチの公位を確保します。

 フセヴォロドはイーゴリを次期キエフ公に指定し、先のウラジーミルの戦いで借りたリャフ人の借りを返すべく、リャフの公ヴラヂスラフが兄弟げんかを始めた際、弟のイーゴリとスヴャトスラフ、そしてダヴィドの息子のウラジーミルを派遣して、軍勢の力でヴラヂスラフとその兄弟ボレスラフ(フセヴォロドの娘のズヴェニスラヴァが嫁いでいました)とメシコの間を調停しました。

 これらのことを済ませて、1146年、フセヴォロドはキエフで病を発し、イーゴリにキエフ公位を譲ることをキエフの人々の前で宣言し、亡くなりました。