キエフスカヤ・ルーシ(11)

〜〜モノマフ家系(ペレヤスラヴリ) vs. モノマフ家系(スーズダリ)の争い〜〜





ユーリー・ドルゴルーキー公(1090年代〜1157)
Юрий Долгорукий
モスクワの創立者とされる



 


Российская

История


 よいよこの時代、これまでチェルニーゴフとペレヤスラヴリのルーシの支配権争いを横目しながら逼塞していた北東ルーシ、ロストフ=スーズダリ=ウラジーミル大公国が、キエフ大公国の公位をめぐりルーシの中央政界に乗り出します。北東ルーシと呼ばれる、ヴォルガ川、オカ川に囲まれたこの土地一帯は、縦横に水路の走り、ヴァイキング時代の重要な水上交通路となっておりました。

 元来こういった沮洳の地は、水はけが悪く農業には向かないものなのですが、一旦水はけを良くすれば、河川が運んだ肥沃な土壌が堆積する生産力の高い豊かな土地に一変します。現ウクライナに広がる、帝政ロシア・旧ソ時代、ロシアの穀倉地帯であったチェルノジェーミエ(черноземье)、つまり黒土地帯もクリークを築き排水を行なった結果誕生したものです。そのど真ん中で起こったのがチェルブイリ原発事故だったわけですから、これはかなり深刻な話でした。






9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市




 こうした豊かな国土とウラジーミル・モノマフ大公を開祖とする輝かしい家系に加え、北東ルーシ、ロストフ=スーズダリ=ウラジーミル大公国は、代々有能な君主を輩出しました。中でも最大の人物は、ウラジーミル・モノマフの息子で、植民・都市建設に励み、現在のクレムリンの位置に木の城砦を築きモスクワの創建者とされるユーリー・ドルゴルーキー公(ドールギー,долгий:長い、ルーキー,руки:手の複数)です。

 しかし、完全に農業に従事するということは完全にバイキング的生活から足を洗うということです。公国への住民の積極的な移住を推奨し、ヴォルガ中流域に多くの植民都市を作り上げるという、荘園の開発領主そのままの彼の行動は、古代の終焉と中世の狭間に位置する貴族制の時代を雄弁に物語り、来るべき時代の最先端をいくものでした。

 北東ルーシの雄をユーリー・ドルゴルーキーとするならば、一方でウゴル(ハンガリー)、リャフ(ポーランド)との関係を強化し、南西ルーシと呼んでよい地域を作り出したのは、ウラジーミル・モノマフの孫で、ユーリーの甥のイジャスラフです。彼はハンガリー、ポーランドとの血縁関係の強化につとめて、北東ルーシと独立した外交を展開することとなり、彼の子孫はルーシの最西部、ガーリチ公国に根を張ることなりました。後の南西ルーシといわれる地域、時代が下っては東西ロシアと呼ばれる地域の西側のリトアニア大公国領、ひいては現代のウクライナとなった地域が創出される源流となったのは、イジャスラフの政策がそのおおもとでもあります。

 もともとルーシの端に位置し、孤立気味で何をやっているのか判然としないポロック公国を含め、こうしてこの時代、現代のロシア・ウクライナ・ベラルーシのおおまかな国境線が出来上がり始めていたのです。


    
〜 1. オレーグの子のイーゴリ公の時代 〜
       (註)赤枠はイーゴリがキエフ公


 1146年、イーゴリはチェルニーゴフのオレーグ家系統の二代目のキエフ公としての第一歩を踏みしめました。キエフの人々は確かに十字架に口づけし、彼に忠誠を誓います。しかし、キエフの人々は、イーゴリを民会へ呼びつけ、弟スヴャトスラフと共に民会に出席したイーゴリにたいし、人々はスヴャトスラフもイーゴリと同格の公となることを要求しました。つまり後期キエフスカヤ・ルーシの政治によく見られる特徴、兄弟の共同統治がまたここでも復活したわけです。二人がこの条件を飲むと、さらに人々はラトシャとトゥードルという二人の事務執行者に対する制裁を要求しました。そこでイーゴリとスヴャトスラフの黙認の下、館が略奪されます。

 新たにキエフ公となったイーゴリはペレヤスラヴリの公ムスチスラフの息子のイジャスラフに十字架に口づけして忠誠を誓うよう使者を送ります。が、イジャスラフは、部下のウレープに、未来のキエフ公となるよう唆され、イーゴリの使者を監禁し、キエフに帰しませんでした。そのうちキエフでは、統治能力が欠如していたと思われるイーゴリ公に対しキエフの人々は不満を持ち、イジャスラフに対しキエフに来て公になってくれと頼みます。

 これを聞いたイジャスラフは自分の戦士達を集め、聖ミハイル教会の主教エフィミー祈祷を授かると、ドニエプル川を渡って進撃し、黒頭巾(Ч
ёрные клобуки、チュルク系民族の総称で、半遊牧的生活形態を保ち、ロシア正教とは別の宗教を信じる集団。ルーシ諸公はのちにロマノフ王朝がクリミア汗国への防波堤としてコサックを用いたのと同様、かれら黒頭巾をポーロヴェッツの防波堤としたと言うことです。)達の援軍を加え、ステップでこう演説しました。

 
−「兄弟フセヴォロドを我はまことに兄と考えた。そのゆえは我より年長の兄弟および義兄弟は父のごとくだからである。しかしこれらの者共(イーゴリ、スヴャトスラフ)に対しては神が、しかして十字架の力が我になさしめるごとくになるであろう。汝らに先んじて命を棄てるか、しからずんばわが祖父およびわが父の王座を得るであろう」−

 年上の兄弟を父のごとく敬う気風は十分にあるものの、要するに公然と叛旗を翻したわけです。イジャスラフ進撃の報を聞き、不安になったイーゴリは、ダヴィドの子のウラジーミルとイジャスラフにもう一度忠誠を確認しました。すると彼らは忠誠の引き換えに領土を要求し(如何にも封建制っぽい話です。)、イーゴリはその条件を飲みました。


 



     この章に登場するリューリク一族の系譜


     (ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)

ウラジーミル・モノマフ
 |
├――――
ムスチスラフイジャスラフームスチスラフ
?      |          |
        |          ├フセヴォロド
        |          |
        |          ├スヴャトポルク
        |          |
        |         
├ロスチスラフ
        |          |(スモレンスク公国)
        |          |
        |         
ウラジーミル
        |
       ├
ヤロポルク
        |
       ├
ヴャチェスラフ
        |
       ├
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
        |     |
        |    ├―┬ロスチスラフ
        |    ?   |
        |        ├
アンドレイ・ボゴリュプスキー
        |        |
        |        ├グレープ
        |        |
        |        ├ボリス
        |        |
        |        ├ムスチスラフ

         |         |
        |        ├ヴァシリコ
        |        |
        |        ├ミハイル

        |        |
        |        └
フセヴォロド大巣公
        |
       └
アンドレイ
           |
           ├―――ウラジーミル
           |
        
トゥゴルカンの娘


(チェルニーゴフ公国、ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国
                      のオレーグ家系統)

 ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ
  |       |
  |       └ウラジーミル
  |
 └
オレーグ
   |
   ├―――┬
フセヴォロド――スヴャトスラフ
   ?     |
         ├
イーゴリ
          |
         └
スヴャトスラフ―┬オレーグ
                    |
                    ├
イーゴリ(*)
                    |
                    └フセヴォロド

    
* 『イーゴリ公遠征物語』の主人公のイーゴリ公


    (ムーロム・リャザン公国のオレーグ家系統)

 ―
ヤロスラフ―┬ヤロスラフ――ヴラジーミル
           |
           └ロスチスラフ


          (ガーリチ公国)

ロスチスラフ―┬
ヴァシリコ
           |
          └
ヴォロダリ
ウラジーミル―ヤロスラフ
                  |
                  └ロスチスラフ―イヴァン


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者



 さて、キエフ付近に来たったイジャスラフは、ナドヴォ湖付近の軍勢を終結しました。イーゴリはスヴャトスラフと共に軍勢を率いて打って出ましたが、ナドヴォ湖付近にたくさんの崩穴があり、そこを通過する際軍勢が混乱し始めました。このときベレンディ人が背後からイーゴリとスヴャトスラフの軍勢を襲い、イーゴリとスヴャトスラフが逃走したところで、さらに側面からイジャスラフが息子ムスチスラフと共に攻撃をかけ、これでイーゴリ・スヴャトスラフ連合軍は総崩れとなりました。

       (註)赤枠はイーゴリがキエフ公

 

  (註)以降このページ最後までイジャスラフがキエフ公

 この戦いの後、イジャスラフは天を仰いで神と十字架に賛辞を捧げ、キエフに入城しました。全キエフの修道院長と聖職者が彼を迎え、イジャスラフは聖ソフィア寺院に入って聖母に礼拝するとキエフ公の位につきました。スヴャトスラフは脱出に成功したものの、イーゴリは戦いの四日後沼沢地で捕らえられ、かせをはめられペレヤスラヴリの聖ヨハネ修道院の牢獄に閉じ込められました。


 
〜 2. イジャスラフ公の時代とオレーグ系統掃討戦 〜

 戦場から離脱することに成功したスヴャトスラフは本拠地チェルニーゴフに逃げ戻り、親戚のダヴィドの子のイジャスラフとウラジーミル(従兄弟にあたります)に前の約束、つまりイーゴリがキエフ公となったときに、彼等が十字架に誓ってイーゴリらに味方するという誓ったあの約束にすがろうとします。忠実な部下のコスニャートコをチェルニーゴフに残して、劣勢挽回のため、援助を求めにクールクス、ノヴゴロド・セーヴェルツキーへ向かいました。

 が、世の中は現金なもので旗色が悪くなった側をあくまで守り立てようとする楠公精神を持っている人物は殆どいないらしく、コストーニャはイジャスラフとウラジーミルが十字架にかけて誓った約束を守るどころか、むしろスヴャトスラフを捕らえようとしていることを聞きつけ、スヴャトスラフに警告を発します。また、イジャスラフとウラジーミルは、ノヴゴロド・セーヴェルツキーに落ち着いたスヴャトスラフに、プチーヴリに退去し、兄イーゴリと袂を分かつよう勧告します。

 進退窮まったスヴャトスラフは四方に使いを出し、スーズダリを治めていたユーリー・ドルゴルーキー、ポーロヴェッツ人に助けを求めます。また、この窮状を聞いた、血縁的にはちょっと疎遠になっていたムーロム・リャザン公国の、人間関係は従兄弟の子供にあたるウラジーミルが手勢を率いてはせ参じました。

 スヴャトスラフが加勢を集めているとの報を聞きつけたイジャスラフは、これまた少し遠い親戚、リャザンのオレーグ家系統のヤロスラフの子のムスチスラフに使いを出し、助太刀を頼みます。お安い御用とばかりに、ムスチスラフはユーリー・ドルゴルーキーの土地とイーゴリの旧領を荒らし、さらにイーゴリの館にあった財宝・酒・鉄や銅をすべて奪いました。

 こうして襲撃で気勢をあげたイジャスラフ側は、ダヴィドの息子のイジャスラフとウラジーミル、イジャスラフの息子のムスチスラフで連合し、プチーヴリに攻め込みます。プチーヴリは最初頑強に抵抗していましたが、キエフ公イジャスラフが到着すると、抵抗を止めて開城し、イジャスラフ公たちは町に入ってスヴャトスラフの館および教会(の銀器、祭衣、勤行用聖杯頭巾、二個の香炉、などなど)を四等分し、掠奪しました。

 スヴャトスラフは、イジャスラフ側の軍がさらにノヴゴロド・セーヴェルツキーをも包囲しようとしているとの情報を得、カラチョフへ避難しましたが、イジャスラフ公連合軍はさらにカラチョフまでスヴャトスラフを追い、スヴャトスラフはカラチョフからも逃げ延びコゼリスクへ向かいました。

 こうして、イジャスラフ公は、あのオレーグ家の出でありながら、戦闘能力には長けていなかったスヴャトスラフから、彼の領地であるノヴゴロド・セーヴェルツキー公国付近を奪い、キエフへ帰還しました。イーゴリがキエフ公となって一年も経たないうちの、あまりにも早い事態の転換でした。

 幽閉されていたイーゴリ公はその後病を発し、もともと剃髪して僧籍に入ろうと考えいていたイーゴリ公は、イジャスラフに願って聖フョードル修道院で剃髪し、修道僧となりました。


 〜 3. ユーリー・ドルゴルーキー登場ー北東起つ〜

 ダヴィドの息子のウラジーミルとイジャスラフは、スヴャトスラフをコゼリスクに追い詰めても満足せず、さらに追手をかけましたので、スヴャトスラフはさらに逃げのびます。しかし、この時点でベロオーゼロからのユーリー・ドルゴルーキーの援軍が届いたので、ダヴィドの息子ウラジーミル達も進撃を止めます。チェルニーゴフ系統の首脳陣が完全に失脚し、ペレヤスラヴリ系統の圧倒的勝利かと思えたわけでしたが、ここで、ウラジーミル、スーズダリ公国からの横槍が入ったわけです。

 1147年、ユーリー・ドルゴルーキー本人も出陣を決め、ノヴゴロドの南方ムスタ川流域を支配下に納め、さらにスヴャトスラフにもスモレンスクを荒らすよう命じます。元気を取り戻したのか、スヴャトスラフはプロトヴァ川上流まで遠征を行い、見事捕虜を得て帰ります。

 さて、ユーリー・ドルゴルーキーは
ー「兄弟たちよ、モスクワなるわがもと来たれ。」ーと、スヴャトスラフに声をかけモスクワに招いてスヴャトスラフ一家を歓待します。やって来たのはスヴャトスラフとその息子のオレーグとウラジーミルでした。ここでユーリー・ドルゴルーキーは彼らを盛大な正餐で厚くもてなし、同盟を結ぶと共に事実上スヴャトスラフ一家の保護者に収まったのでした。

 こうしてユーリー・ドルゴルーキーはスヴャトスラフおよび彼の息子二人、スヴャトスラフの部下たちに贈り物を与え、スヴャトスラフはモスクワ南部オカ川を越えた辺りに腰を据えました。ちなみに、モスクワの名前が年代記に登場するのはこの時が最初です。この記事からだけでは、ドルゴルーキーが自分の領内にモスクワを建設し、そこにスヴャトスラフたちを招いたのか、あるいはモスクワはこの時期より以前にすでに建設されており、そこにドルゴルーキーがスヴャトスラフたちを招いたのか判断できません。が、この記事から、ユーリー・ドルゴルーキーはモスクワの創健者とされております。

 ちょうどその頃、スヴャトスラフの元に、彼の叔父にあたるポーロヴェッツ人が訪問してきました。そこで、渡りに船と、これまたオレーグ家の伝統に忠実にスヴャトスラフはポーロヴェッツ人の軍事援助を受けることに決めます。さらにラッキーなことに、ポーロヴェッツ人の名門氏族(この一門の最年長者がハーンを名乗ることができます)トクソヴィチの一族がやってきたので、彼らにはスモレンスクを攻めてもらい、自らもポーロヴェッツ人を率いてデスナ河流域を占領します。

 戦闘能力に長けたポーロヴェッツ人の加勢がかさなり、ますますスヴャトスラフの陣容が盛んになっていたところ、早くも形勢を察知したのか、ダヴィドの息子ウラジーミルと、フセヴォロドの息子のスヴャトスラフから、スヴャトスラフのところに使いがやって来ました。彼らは、またも十字架の口付けをしてスヴャトスラフに忠誠を誓い、侮辱は水に流して自分達が奪った領土は返却するとスヴャトスラフに申し入れたのです。この二人は要するに前回イーゴリ公を裏切ったのと同様、今回もひそかにイジャスラフ公を裏切ろうと言うのです。

 さらにダヴィドの子のウラジーミルは、何食わぬ顔そしてイジャスラフ公にスヴャトスラフの侵攻を訴え、公をそそのかしてスーズダリのユーリー・ドルゴルーキーに対する遠征を勧めます。そこでイジャスラフはキエフの人々に対しユーリー・ドルゴルーキーに対する遠征を持ちかけますが、

−「公よ、我等に怒るな。−ウラジーミル(モノマフ)の一族に対して手を挙げることは出来ない。が、オレーグの子らに対しては、子供らを引き連れても(遠征するだろう)」−

 と断られてしまいました。そしてキエフの人々からオレーグの子孫を信用するなとのありがたい忠告も受けますが、あくまでイジャスラフ公は遠征を計画し、弟のウラジーミルをキエフに残し、部下のウレープをチェルニーゴフへ送りました。ところがウレープはダヴィドの子のイジャスラフおよびウラジーミルの陰謀を知り、すぐにイジャスラフ公に伝えました。

 このことを使者を通じてイジャスラフとウラジーミルに確認させたところ、なんと二人はこれをあっさり認めました。そこでイジャスラフはもう一度聖ソフィア教会の庭で民会を開かせ、ユーリー・ドルゴルーキーはあのオレーグ一門と結託していること、ダヴィドの子のイジャスラフとウラジーミルが自分を裏切ろうとしていたことを告げ、この遠征はモノマフのこらに対するものでなく、オレーグ家に対するものであることを強調しました。

 この大義名分をキエフの人々は受け入れ、裏切り者の二人の一族である先のキエフ大公イーゴリを殺そうということになり、聖フョードル教会でミサの最中、イーゴリを外に引きずり出し、イーゴリを殺そうとします。このあまりの無体を止めようと、イジャスラフの弟のウラジーミルは馬で駆けつけ、イーゴリが教会の門から引きずり出されたところを衣服で覆い、「兄弟たちよ、敢えてこの悪をなすな、イーゴリを殺すな」といい、イーゴリを何とか自分の母親の館の門の前まで連れていきます。さらに、キエフにいたユーリー・ドルゴルーキーの息子のミハイルが馬から飛び降りてウラジーミルに力を貸し、なんとかイーゴリを館の中に運び込むことに成功しました。

 しかし、激昂した人々はおさまらずミハイルを殴打して首から下げた十字架をもぎ取ります。これまたユーリー・ドルゴルーキーの息子のムスチスラフの息子のウラジーミルが、ここも安全ではないと見たのでしょう、イーゴリを更にムスチスラフの館に運びますが、人々はウラジーミルを捕らえて殺そうとします。さらにイーゴリがムスチスラフの館に運び込まれたのを見た人々はムスチスラフの館に突進し、門を破壊して内部に侵入し、イーゴリを殺害しました。

 後に、事の顛末全てを聞いたイジャスラフ公は泣き出し、こんなことになるならイーゴリをもっと安全な遠い場所にかくまっておくのだったと語りますが、もちろん後の祭りです。スヴャトスラフも後すぐこの方を聞き、年長者の兄を思って泣いたということです。後代の人たちも、高貴な身分に生まれるも非業の死を迎えねばならなかったイーゴリに深く哀れみの情をそそられたものとみえ、「聖者を殺し、その墓を祭る」そのままですが、のちに正教会からイーゴリ公は列聖されました。






列聖されたイーゴリ




 さて、ユーリー・ドルゴルーキーの息子グレープとスヴャトスラフはユーリーの軍勢の前哨部隊としてノヴゴロド・セーヴェルツキー公国の東のクールクスに姿を現しました。イジャスラフ公の長男ムスチスラフはイジャスラフの使わした代官を頂くクールクスのひとびとに、彼らがやってくる旨を伝えますが、キエフで言われたのと同様、

 ー「オレーグの子に対しては汝のために子供等をも引き連れて戦うことを喜ぶものであるが、ウラジーミル(モノマフ)の一族に対しては、ユーリーの子に対しては手を挙げることが出来ぬ」ー

 と言い放たれてしまいました。完全に民心が離反していることをさとったムスチスラフはイジャスラフの元へ去り、グレープとスヴャトスラフはクールクスを占領します。そして、グレープはセイム川沿岸の地に沿って自分の代官を置き、多くのポーロヴェッツ人と条約を結ぶことに成功しました。


 〜 4. イジャスラフ公の反撃ースーズダリ遠征計画 〜

 このさなか、ダヴィドの子のイジャスラフが、イジャスラフ公の領土のポパーシを占領するという裏切りをかまし、これを知ったイジャスラフ公は本格的に軍を動かす決意を固めます。イジャスラフは黒海北岸に住んでいた戦闘能力に長けた黒頭巾と自らの親衛隊を集め、ペレヤスラヴリに入りました。さらに、弟ロスチスラフを軍勢とともにスモレンスク公国から呼び寄せ、この弟の軍勢と途中で合流し、ダヴィドの子のイジャスラフおよびオレーグの子のスヴャトスラフを捕捉べく、オレーグ家の本拠地チェルニーゴフに向かって進撃しました。






ロスチスラフ・ムスチスラヴィッチ
1110ー1167

スモレンスク公、兄イジャスラフ公の良き片腕となる




 ダヴィドの子のイジャスラフおよびオレーグの子のスヴャトスラフは、チェルニーゴフ目指して逃げ出します。イジャスラフ公およびロスチスラフは途中のフセヴォロジの町を陥落させ、ウネヴェジ、ボフマチ、ベラヴェージャを焼き払った後、キエフに入りました。キエフに入ってからイジャスラフはムスチスラフに、スモレンスクに戻りそこでユーリー・ドルゴルーキーを牽制しているよういい、自分は川が凍結した後チェルニーゴフを攻める段取りを決めます。

 と、ここでユーリーの子のグレープが奇襲攻撃をかけ、ゴロドーク・オステルスキーをイジャスラフ公から奪います。当然これを取り返すべくイジャスラフ公はみずから出兵し、グレープはスヴャトスラフとダヴィドの子ウラジーミルに救援を求めますが、これは受け入れられず、結局イジャスラフ公の軍がゴロドークに現れたためグレープはイジャスラフ公と和睦します。

 さて、イジャスラフは叔父のヴャチャスラフから軍を借り、チェルニーゴフに向かって出撃し、付近のオレーグの野に三日間とどまりましたが、オレーグの子のスヴャトスラフ、ダヴィドの子のイジャスラフとウラジーミル、フセヴォロドの子のスヴャトスラフ以下はチェルニーゴフに引きこもったままで、イジャスラフ公の挑戦を受けようとする者は誰もいませんでした。

 そこでイジャスラフ公は篭城戦はあきらめ、付近の全ての村を焼き払い、次の目標リューベチへ5日間で移動しました。そこでオレーグの子のスヴャトスラフ、ダヴィドの子のイジャスラフとウラジーミル、フセヴォロドの子のスヴャトスラフは軍を率いてイジャスラフを追いますが、リューベチのほとりの川に阻まれてイジャスラフ公の軍勢に接近できません。

 イジャスラフ公側も事情は同じで、両軍の弓兵隊同士は交戦するものの、いかんせん川があっては主力部隊の激突は不可能です。そこでドニエプル川が解氷し始めたのをきっかけに、イジャスラフ公はキエフへと撤退しました。

 さて、ダヴィドの子のウラジーミルは正面からイジャスラフと戦うことは無理と判断し、使者を送ってユーリー・ドルゴルーキーに援助を求めます。ところがユーリー側からは援軍を得ることが出来ないとの回答が寄せられ、しかもスモレンスク公国のムスチスラフの軍勢によってユーリー・ドルゴルーキーの息子グレープが北東ルーシの橋頭堡ゴロトークから追い払われる事件も重なり、とうとうチェルニーゴフ公国のオレーグ家系統は、北東ルーシのユーリー家系統頼むに足らずと、ペレヤスラヴリ系統のウラジーミル家系統と和平交渉の使者を送ることになりました。

 さて、この使者を受けてイジャスラフ公は、平和を望むべきか戦争を続行すべきか弟のムスチスラフと相談し、ムスチスラフは和平を結ぶべきだと答え、結局和平交渉を行ないます。オレーグ家はあいかわらずちゃっかりした一族であります。

 関係者一同がゴロドークのほとりに集まり、会議が持たれました。まず、ユーリー・ドルゴルーキーから領地をもらえなかったためにイジャスラフ公の陣営に寝返ってきたユーリーの長男ロスチスラフに5つの町を与え、さらに川に氷が張り詰める頃、ユーリー・ドルゴルーキー追討の軍を出す決議を行ないました。イジャスラフはさきにスモレンスク公国に赴いてロスチスラフと共にロストフを目指し、ダヴィドの息子のイジャスラフとウラジーミル、オレーグの息子のスヴャトスラフはやはりロストフを目指してまずはヴャチチに向かい、両軍はヴォルガ川で合流する、という手はずです。ユーリー・ドルゴルーキーの息子のロスチスラフはブージスクにとどまり、ユーリーからルーシを防衛する役目になりました。さらに、同盟を強化するためにスモレンスク公国のロスチスラフは、自分の息子のロマンの妃として、オレーグの息子のスヴャトスラフの娘を貰い受けました。

 ここにペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統と、チェルニーゴフのオレーグ家系統が結びつき、この時点ではスーズダリ公国のユーリー家系統は完全に孤立したわけです。

 これらの用意を行なった後、イジャスラフ公は留守番役として、末の弟ウラジーミルをキエフに、自分の息子のムスチスラフをペレヤスラヴリに配置して、スモレンスクに向かい、そこで弟ロスチスラフと会見しました。そしてロスチスラフに軍勢をたくすと、みずからは少数の親衛隊を率いてノヴゴロド(リューリクが公を務めたノヴゴロド)に立ち寄ります。

 イジャスラフ公はノヴゴロドのひとびとから歓迎を受け、またイジャスラフ公は息子のヤロスラフと共に聖ソフィアのミサに参列し、ノヴゴロドの住民を大晩餐会に招待します。次の日ノヴゴロドの住民を集めたイジャスラフ公は、ユーリー・ドルゴルーキーから受けた恥を雪ぐために遠征を決意した、ユーリーと和を請うべきかそれとも戦うべきか、ノヴゴロドの人々に尋ねました。

 彼らはイジャスラフ公の恥はわれわれの恥であると答え、イジャスラフの恥を雪ぐべく遠征に付き従うと答えます。こうしてイジャスラフ公は、ノヴゴロドの軍勢も味方につけてしまったのです。

 とうとうノヴゴロドまで含んだルーシ大同盟が成立し、これで向かうところ敵なしのイジャスラフの軍勢の前に、多勢に無勢、スーズダリのユーリー・ドルゴルーキーの運命も風前の灯かと思えました。が、この大同盟はやはりオレーグ家の問題で解体してしまいます。イジャスラフ公とスモレンスクのロスチスラフがヴォルガ川で終結した際、ダヴィドとオレーグの息子達が約束に反して現れなかったのです。

 オレーグ家系統の面々は、要するにユーリー・ドルゴルーキーとイジャスラフ公という二大勢力を前に、どちらにつくべきか日和見主義を決め込んだわけです。強大な二大勢力の端境に位置する国は、自分で自分の運命を決すことが不可能な以上、勢い他力本願となり、頼りにならない外部勢力からは、それがたとえどれほどの重恩を蒙っていた場合でも思い切りよく鞍替えするもので、これはやむをえない次第ではあります。が、人情として怒ったイジャスラフ公はヤロスラヴリ周辺を荒らし、同盟軍は解散して故郷に帰りました。さらにイジャスラフ公は、ユーリー・ドルゴルーキーの息子のヤロスラフとも仲たがいを起こし、ヤロスラフはユーリーの元へ帰ります。

 帰還したヤロスラフからこの話の一部始終を聞いたユーリー・ドルゴルーキーは、大同盟が分解した今、いよいよルーシ征伐に乗り出すことに決し、軍勢を集め始めました。この動きを察知したダヴィドの子のウラジーミルはイジャスラフ公に使者を送って警戒を促しました


  〜 5. ドルゴルーキーの反撃ーキエフ入城 〜

 さて、イジャスラフ公は叔父のユーリーがとうとう西征に赴くと聞き、叔父を迎え撃つ準備を整え始めました。とりあえずは自軍の増強に加え、同盟軍の強化に乗り出します。イジャスラフ公はダヴィドの息子のウラジーミルの元に使者を送り、十字架の口付けを守り、軍勢を提供して欲しいと申し出ます。ウラジーミルはこれを受け入れ、さらにオレーグの息子のスヴャトスラフもイジャスラフ陣営に確実に引き入れて欲しいと頼みます。

 そこでイジャスラフ公の使者がオレーグの息子スヴャトスラフの元に到着し、スヴャトスラフに兵力提供を求めます。ところがこの使者を前にスヴャトスラフは押し黙り、考え込んでしまいました。ここはチェルニーゴフのオレーグ家にとって、一世一代、乾坤一擲をかけた勝負です。キエフを扼し、権威実力ともに兼ね備えたイジャスラフ公と、北東ルーシに引きこもっていたものの、中央の政争を横目に侮りがたい力を蓄えたスーズダリのユーリー・ドルゴルーキー、どちらも極めて能力の高い人物ですし、勝ち馬を読み違えるとチェルニーゴフ崩壊までつながりかねません。

 スヴャトスラフはイジャスラフ公の使者を一週間とどめておき、ユーリー・ドルゴルーキーに使者を派遣し、ルーシ侵攻は本気か、もし本気にしてもチェルニーゴフを荒らさないでくれ、と伝えます。ユーリーから願いを聞き入れるとの返答があり、これを聞いたスヴャトスラフはイジャスラフ公の使者、ダヴィドの息子のウラジーミルとイジャスラフの使者を呼んで、彼らの前でこう宣言しました。

 ー「わが兄(イーゴリ)の財産のうちの何物かを我に返せ、さすれば我は汝と共同するであろう」ー

 要するに、イジャスラフ公に対して過去の話を蒸し返してイチャモンをつけようというのです。ここに、オレーグ家系統の棟梁として、スヴャトスラフは、チェルニーゴフ公国は再度スーズダリ公国側につくと事実上宣言しました。さらにドルゴルーキーは、以下の様に宣言し、ルーシ侵攻の意を明らかにします。

 
ー「我がまことに兵を進めることを欲せぬはずがあるか、わが甥イジャスラフは我に手向かってきたり、わが領地を荒らし、火を放ち、しかもまたわが子をルーシの地から追放し、領地を彼に与えず、我を辱めたのではないか。汚辱を去って、おのれの地ゆえに復讐をなすか、さもなくばおのれの名誉を再び取り返して、おのれの命を投げ出すのである。」ー

 イジャスラフ公の使者はスヴャトスラフの変節を伝えにキエフに戻り、イジャスラフ公は折り返し、スヴャトスラフに十字架の誓いを破るかと嚇しを含めた使者を送りますが、スヴャトスラフはそれを無視してユーリー・ドルゴルーキーの陣営に赴き、オレーグの軍と合流してしまいました。

 ユーリー・ドルゴルーキー、キエフに来るの報が現実化するのが目前となった今、イジャスラフ公は在来勢力の取り込みに腐心し、ダヴィドの息子のイジャスラフとウラジーミルに先の同盟を履行するよう使者を送りますが、二人はイジャスラフ公が前に領地を荒らしたことを理由に拒絶します。さらにはフセヴォロドの子のスヴャトスラフまでユーリーの軍に加わり、こうしてチェルニーゴフ公国の大半がユーリー・ドルゴルーキーに味方することになり、ユーリーは難なくチェルニーゴフを通過、モノマフ家系統の本拠地ペレヤスラヴリを目指して進軍します。

 慌ててイジャスラフはスモレンスク公国の弟ロスチスラフを大軍と共に呼び寄せ、チェルニーゴフ家から唯一助太刀にきたダヴィドの子のイジャスラフをも加えて、ペレヤスラヴリに向かいます。イジャスラフとスモレンスクはユーリーの先遣隊を追い払いつつ一足先にペレヤスラヴリに到着します。

 やがてユーリー・ドルゴルーキーの軍隊も到着し、イジャスラフ公とロスチスラフの軍隊と射手同士は戦闘を交えますが、本隊同士はにらみ合いになりました。さて、ユーリー・ドルゴルーキーはトルベジ河の奥の森のほとりに陣取り、使者を送って以下のような文言を伝えます。

 ー「さて、兄弟たちよ、汝は我に向かって来たり、土地を荒らし、長上権を我から奪った。今、兄弟にして子なるものよ、ルーシの地のために、しかしてキリスト教徒のために、キリスト教徒の血を流すことなく、ペレヤスラヴリを我に返せ、−(我は)おのれの子をペレヤスラヴリに据えるであろう。しかして汝はキエフに座して、支配せよ。これをなすことを欲さぬならば、神が万事の背後にあるであろう」ー

 イジャスラフ公は、ペレヤスラヴリとキエフは自分の命をかけて得たのだと答え、叔父と戦うことを決意します。イジャスラフ公はトルベジ河を渡河し、じりじりとユーリーの軍に接近していきました。両軍とも移動をしつつもにらみ合いが続き、なかなか戦端は開かれませんでしたが、とうとうイジャスラフ側が攻勢をかけ、それに対してユーリー・ドルゴルーキー側が迎え撃つという形で戦闘が行なわれました。

 ユーリー側では、右翼を自分の子供達に、左翼をオレーグの子のスヴャトスラフとフセヴォロドの子のスヴャトスラフにまかせ、自らは中央に位置し、両群の間で激烈な戦闘が起こったのです。

 イジャスラフ公側の、ダヴィドの子のイジャスラフの軍が崩れ、さらにはキエフから連れてきた軍が崩れ、兵の逃亡が始まりました。イジャスラフ公は自軍を率いてオレーグ子のスヴャトスラフの軍とユーリー・ドルゴルーキーの軍の間を破ることに成功しましたが、自軍の崩壊を目の当たりにし、キエフへとそのまま逃げ帰ってしまいました。

 イジャスラフ公とロスチスラフはキエフの人々と相談し、彼らがいつでもイジャスラフ公の味方になる、という話を聞いた後に、イジャスラフ公は府主教をつれてウラジーミル・ヴォルインスキーに、ロスチスラフはスモレンスクに逃げ込みました。そしてもはや誰はばかることなく、ユーリー・ドルゴルーキーはキエフに入城したのです。北東ルーシ始まって以来の快挙でした。