キエフスカヤ・ルーシ(12

〜〜モノマフ家系(ペレヤスラヴリ) vs. モノマフ家系(スーズダリ)の争い〜〜





ユーリー・ドルゴルーキー公(1090年代〜1157
Юрий Долгорукий
モスクワの創立者とされる

 


Российская

История


 

 て、ユーリー・ダルゴルーキ‐がキエフ公となり、北東ルーシ公(スーズダリ公)として始めての快挙を成し遂げますが、やはりルーシの三大都市ペレヤスラヴリの実力と威信にはあなどりがたいものがあり、その後イジャスラフは何度もキエフを奪取します。

 この時代に、ウラジーミル大公国と中心とする、モンゴル軍の侵攻の直前から、アレクサンドル・ネフスキー、初代モスクワ公ダニールの登場直前までの、北東ルーシ中心のロシアの政治地図が出来上がります。その一方で、キエフから西、ウラジーミル・ヴォルインスキーへ追い払われたイジャスラフ公もウゴル(ハンガリー)人、リャフ(ポーランド)人との通婚、軍事援助を通じて西方カトリック諸国との関係を強化し、のちの西ロシア発達の萌芽が見られたのもこの時代でした。

   (註)以後赤枠まではイジャスラフがキエフ公


    〜 1. ユーリー・ドルゴルーキーの時代 〜

 さて、1148年、キエフに入城したユーリーは、チェルニーゴフを支配してたダヴィドの子のウラジーミルへ使いを送ります。ウラジーミルはすぐにユーリーの元へあらわれ、恭順の意を表したため、めでたく所領安堵と相成りましたが、一方兄のイジャスラフからは勝者の権利を遠慮なく利用し、クールクスを含む殆ど全ての土地を取り上げます。

 恒例の行政官人事ですが、キエフの二つの目とも言うべきチェルニーゴフとペレヤスラヴリですが、チェルニーゴフには先ほどのウラジーミルが留任、ペレヤスラブリにはユーリーの長男ロスチスラフが着任、アンドレイ(彼の居住地にちなんでボゴリュプスキーと呼ばれました。)はヴィシゴロドへ、ボリスはベルゴロドへ、グレープはカネフへ、ユーリー一族の根拠地スーズダリにはヴァシリコを配置しました。

 敗れたイジャスラフは先祖伝来の土地を手放し、ウラジーミル・ヴォルインスキーに逃げ込んで、リャフ人(ポーランド人)のボレスラフ4世とウゴル人(ハンガリー人)のゲイザ2世などへ援軍要請の使者を送ります。イジャスラフは自分の娘エヴフロシニヤをゲイザ2世の妻に与えており、つまりハンガリーは舅の国、ボレスラフ4世には自分の姪(これも当時の感覚からすれば娘にも等しいです)を与えていたため、ポーランド王国とも縁続きでした。政略結婚はいざという時やはり我が身を救ってくれるものです。

 さてゲイザ2世は、ビザンチン帝国は皇帝マヌエル2世の時代で、ヨーロッパにはちょうど第二回十字軍の熱狂があり、この寄せ集めで統制の取れない軍事集団の矛先がビザンチン帝国に向かうことを極度に恐れ、対応に汲々とした皇帝ですが、ともかくマヌエル2世との戦闘に入っており、自らの出陣は断りましが援軍を送ってきました。ポーランドのボレスラフ4世は弟メスチスラフをプロイセンへの守りへと残し、弟ゲンリヒとともに軍を率いて自ら出陣することを確約しました。

 





9
世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市



 このポーランドとハンガリーからの援軍の情報を聞きつけたユーリーの兄ヴャチェスラフはユーリーにこれを伝え、ユーリーはポーロヴェッツ人の軍勢を助太刀として、ヴャチェスラフと共に軍勢を率いてキエフから出発し、ロスチスラフとアンドレイが加勢の軍勢を、ガリーチからウラジーミルの援軍が到着しました。すわ大戦争か、というところですが、ここでボレスラフ4世のところへ、プロイセンがポーランドに攻め込んできたという報告が入り、すぐさま帰国したいボレスラフの発案で和議が成立し、イジャスラフはウラジーミルに帰還します。さらに、イジャスラフは自分に味方したノヴゴロドから集めた税金をなんとかノヴゴロドに返そうとしましが、ユーリーはこれを拒否、そこでまたもめてユーリーがイジャスラフに兵を出しますが、これは失敗します。

 イジャスラフはともかく和を結ぼうと欲し、ガリーチのウラジーミルを通じてユーリーに働きかけ、さらにイジャスラフに領地を荒らされることをひたすら心配していた穏やかな性格のヴャチェスラフもユーリーに働きかけ、1148年、和議が成立します。そしてユーリーは、ガリーチのウラジーミルへ自分の娘を嫁がせ、スヴャトスラフの子のオレーグにも娘を嫁がせてオレーグ家とも関係を強化しました。

 十字架に誓って和平を誓ったイジャスラフですが、今度の戦いによって発生した損害賠償をユーリーに請求したところ拒否されます。この不満に加え、今回の和平に心底では納得していなかったイジャスラフは、軍を率いてユーリーの息子のグレープを襲って捕らえ、グレープはユーリーに忠誠を誓って解放されます。さらにイジャスラフは黒頭巾(Чёрные клобуки)らの支援を得ると、キエフに迫りました。これにユーリーは耐えられず、息子達と共にドニエプル河を渡って逃亡しましたが、兄のヴャチェスラフはユーリーがキエフを脱出した際にキエフに入ります。

 キエフに入ったイジャスラフはヴャチャスラフを丁重に扱い、悶着を避けて本来の領地ヴィシゴロドへ帰ってもらいました。さらにイジャスラフは、キエフの安全を確保するためペレヤスラヴリを占領するよう息子のムスチスラフへ命じました。ユーリーの長男ロスチスラフはユーリーに救援を頼み、ユーリーはアンドレイ・ボゴリュプスキーを派遣し、チェルニーゴフ公家の縁つながりの面々、ダヴィドの子のウラジーミルとイジャスラフ、オレーグの子のスヴャトスラフ、フセヴォロドの子のスヴャトスラフに援軍をもとめて使いをだします。一方イジャスラフもヴャチェスラフに使いを送り、彼と養子縁組を結んでキエフ公に祭り上げて対抗しようとします。



     この章に登場するリューリク一族の系譜


     (ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)

ウラジーミル・モノマフ
 |
├――――ムスチスラフイジャスラフームスチスラフ
?      |          |
        |          ├フセヴォロド
        |          |
        |          ├スヴャトポルク
        |          |
        |          ├ロスチスラフ
        |          |(スモレンスク公国)
        |          |
        |         ウラジーミル
        |
       ├ヤロポルク
        |
       ├ヴャチェスラフ
        |
       ├ユーリー手長公(スーズダリ公国)
        |     |
        |    ├―┬ロスチスラフ
        |    ?   |
        |        ├アンドレイ・ボゴリュプスキー
        |        |
        |        ├グレープ
        |        |
        |        ├ボリス
        |        |
        |        ├ムスチスラフ
         |         |
        |        ├ヴァシリコ
        |        |
        |        ├ミハイル
        |        |
        |        └フセヴォロド大巣公
        |
       └アンドレイ
           |
           ├―――ウラジーミル
           |
        トゥゴルカンの娘


      (チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)

   ┬ダヴィド―┬イジャスラフ(チェルニーゴフ公国)
    |       |
    |       └ウラジーミル―スヴャトスラフ
    |
   ├オレーグ
    | |
    | ├―――┬フセヴォロド――スヴャトスラフ
    | ?     |
    |       ├イーゴリ
    |       |
    |       └スヴャトスラフ―┬オレーグ
    |                   |
    |                   ├イーゴリ(*)
    |                   |
    |                   └フセヴォロド
    |
    |  * 『イーゴリ公遠征物語』の主人公のイーゴリ公
    |
    |
    | (ムーロム・リャザン公国のオレーグ家系統)
    |
   └ヤロスラフ―┬ヤロスラフ――ヴラジーミル
             |
            └ロスチスラフ



          (ガーリチ公国)

ロスチスラフ―┬ヴァシリコ
           |
          └ヴォロダリウラジーミル―ヤロスラフ
                  |
                  └ロスチスラフ―イヴァン


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 そして、まずイジャスラフの前に現れたのが、ガリーチのウラジーミル率いる軍勢です。このウラジーミルを撃破しようとイジャスラフは自分の弟のウラジーミル、息子のロスチスラフ、黒頭巾の軍勢を連れてキエフから出陣しました。ところがウラジーミルの軍勢の射手がはげしく矢を射掛け始めると、ウラジーミル率いる軍隊の威容に押され、主力部隊の黒頭巾が遁走し、キエフの住民たちからなる加勢も逃げ、イジャスラフの軍勢はキエフへと逃げ帰ります。

 キエフにはヴャチェスラフが入城していましたが、イジャスラフはキエフに逃げ帰ると善後策をヴャチェスラフと相談しましたが、そのうちにもチェルニーゴフ公国のダヴィドの子のウラジーミルとイジャスラフ、オレーグの子のスヴャトスラフと、スヴャトスラフの兄のフセヴォロドの子のスヴャトスラフがキエフ向こう側のドニエプル川に終結しましたので、二人はそれぞれの根拠地、ヴャチェスラフはヴィシゴロドへ、イジャスラフはウラジーミル・ヴォルインスキーへ一時撤退することに決めました。

 こうしてユーリーはキエフ奪回に成功し、集まった一族はお互い旧交を温め、ガリーチのウラジーミルとも同盟の意思を確認しあいます。さて、ウラジーミルはユーリーの子のムスチスラフを連れてイジャスラフ領に侵入し、イジャスラフの子のムスチスラフはルーツクの叔父のスヴャトポルクの下へ逃げ込みました。ウラジーミルは殆どすべての町を占領し、ルーツクまで来ましたが、この町を落すことが出来ず撤退します。
.
 さて、ユーリーは、イジャスラフへの防波堤として息子のアンドレイ・ボゴリュプスキーにトゥーロフ、ビーンスクなどの土地を与えます。イジャスラフはアンドレイに使いを送ってユーリー・ドルゴルーキーと和解しようとし、アンドレイは父ユーリーに使いを送りますが、ユーリーはこれを蹴ります。そこでルーシに頼るべき味方の少ないイジャスラフは、義理の息子のハンガリー(ウゴル)王に頼んでガーリチのウラジーミルの領地を荒らしてもらい、さらに自分の弟ウラジーミルの嫁に、ホルヴャチャの領主の娘をもらいます。

 このハンガリーとの同盟はイジャスラフにとってユーリーと対抗していく上での極めて重要な軍隊補給経路となりました。イジャスラフは弟のウラジーミルに頼んでハンガリー王に援軍を頼み、ウラジーミルはハンガリー人の援軍を率いてイジャスラフの元へ返り、ゴロドノのボリスを呼び寄せた上でイジャスラフはウラジーミルとハンガリー人を率いてキエフに向かいます。手初めに、進軍経路のアンドレイ・ボゴリュプスキーの領地を荒らしました。

 イジャスラフ来るの報に、ガーリチ公ウラジーミルが軍を出動させたとの情報がイジャスラフ方に入ります。そこでイジャスラフは弟スヴャトポルクをウラジーミル・ヴォルインスキーの守りに送り、前進を続けます。一方ガーリチ公ウラジーミルはアンドレイ・ボゴリュプスキーを呼び寄せて合流し、イジャスラフの軍勢を追い、ウシャ河での捕捉に成功します。イジャスラフ側は弓兵で応戦し、ウシャ河の向こう岸までウラジーミルの軍を追い返します。イジャスラフは付近でウラジーミル方の一人の兵士を捕らえて尋問することに成功しました。捕虜の証言によると、ウラジーミルは加勢を待ってしばらく近辺にとどまろうとしていることがわかりました。

 ここで軍議が開かれ、イジャスラフはウラジーミルと雌雄を決することを主張しますが、イジャスラフの親衛隊は、このままウラジーミルにかまうことなく一路キエフを、さもなくば、せめてベルゴロドまでを目指すことを主張します。イジャスラフが姿をあらわすことで、ユーリーに支配され、これまで不遇を託っていた旧イジャスラフ側の者が加勢に現れるのを期待しての意見具申でした。

 イジャスラフはこの意見を容れ、キエフ占領を目指し、策を練ります。そして大掛かりな焚き火を起こしてまだ野営を続けると見せかけました。そして、弟のウラジーミル、ボリス、ハンガリー人部隊を説得し、まずウラジーミルに先発隊を編成し、ベルゴロドを攻略開始と同時にイジャスラフ本隊に急使を送るよう命じます。そしてイジャスラフ本隊は黒頭巾の援軍をあおぎ、そののちベルゴロドのウラジーミルを救援に向かい、キエフを攻略する、という作戦を立案しました。

 このプランにしたがってウラジーミルはベルゴロドへ向かいますが、ここを守備していたユーリーの子のボリスはふがいないことに、ちょうど祝宴の最中で、ウラジーミルの軍勢が迫ると聞くととるもとりあえず脱出するのが精一杯で、あっけなくベルゴロドが陥落してしまいました。イジャスラフはベルゴロドに急行するとこの地の守りをウラジーミルに託し、自らはキエフを目指します。ほうほうの体で逃げ出してきたボリスからベルゴロド失陥を知らされたユーリーはこれまたゴロドークへ逃げ込むことしか出来ませんでした。こうしてユーリーは聖ソフィア教会からヤロスラフの館へ入って権力を掌握すると大宴会を催し、ユーリーのあまりの失態にあきれ返ったガーリチ公ウラジーミルは帰途の町々で銀を掠奪しつつガーリチへ返り、アンドレイもユーリーの元へ落ち延びました。


 〜 2. イジャスラフのキエフ奪取ーほぼ完全勝利 〜

 こうしてキエフに入城したイジャスラフは1151年、ヴィシゴロドの叔父ヴャチェスラフに使者を送り、もはや実の父が他界した自分にとって、父といえるのはヴャチャスラフのみである、したがってヴャチャスラフにキエフを渡す、と言わせました。いっぽうヴャチャスラフも、使者に対し実の子に恵まれなかった自分にとってイジャスラフはわが子である、と語り、涙ながら(?)の場面が展開されたのち、十字架にくちづけして同盟を結びました。

 そしてヴャチェスラフはキエフへ入り、キエフ公となりました。ヴャチェスラフはイジャスラフ、ハンガリー人を十分にもてなしたのち、ハンガリー人たちを故郷へ送り返し、ビザンチン帝国皇帝マヌエル2世と戦うハンガリー王のために、イジャスラフの子のムスチスラフに軍を率いさせてハンガリー王のもとへ送りました。さらにヴャチェスラフとイジャスラフは、イジャスラフの弟のスモレンスク公国のロスチスラフに使いを送り、一族の結束を固めます。

 さて、ゴロドークに逃げ込んだユーリーですが、当然このくらいでルーシ支配を諦めるユーリー・ドルゴルーキーではありません、キャスティング・ヴォートをにぎる、あるいは、あいかわらず優柔不断なチェルニーゴフ家のオレーグ家系統の実力者、チェルニーゴフを支配するダヴィドの子のウラジーミル、オレーグの子のスヴャトスラフに使いをだし、同盟を結んでイジャスラフを叩こうと提案します。

 ユーリーの呼びかけに応じて、オレーグの子のスヴャトスラフはパスハ(イースター、復活祭)を待たず、ユーリーの元にはせ参ずべく月曜日に出発しますが、火曜日に彼のもとに子どもが生まれました。そこでゲオルギーという洗礼名を与え、イーゴリという俗名を与えました。この彼こそが、何を隠そう、あの中世ロシア文学史上の傑作と謳われる『イーゴリ公遠征物語』のイーゴリです。

 スヴャトスラフは、ダヴィドの子のウラジーミルと合流し、ユーリーの元へ向かいました。一方、同じ一族でも、ダヴィドの子のイジャスラフは、ヴャチェスラフとイジャスラフの陣営に走りました。

 ユーリー・ドルゴルーキーはポーロヴェッツ人をも味方に引き入れ、キエフへ向かって進軍し、船を使ってドニエプル河を渡ろうとしました。ところが、イジャスラフはユーリーの本隊が渡河するのを恐れて船で警戒していました。イジャスラフがユーリーの船団を見つけることで戦闘となり、イジャスラフの考案という、こぎ手を板で覆って敵の攻撃から守る船に防がれて、ユーリー側は河を渡ることができません。

 そこで浅瀬をみつけて、そこから対岸へ渡るべく、ユーリーはヴィチチェフの浅瀬へ軍を移動させますが、イジャスラフはまたも渡河を阻止すべく、黒頭巾の加勢も手に入れて、ユーリーの軍と浅瀬で船合戦を繰り広げます。ここでもユーリーは防がれますが、さらに攻め込んだザルーブの浅瀬は、イジャスラフの軍勢を振り切ったこともあり、突破に成功し、守備隊を破ってなんとかドニエプル河を渡ることに成功します。

 迫り来るユーリー連合軍の前に、イジャスラフ連合軍は防備を固めることに決め、キエフへと引き返します。そして、イジャスラフとヴャチャスラフは金の門の前のヤジナ河の前に陣を張り、ダヴィドの子のイジャスラフはボリスラフの館に陣を張り、イジャスラフの弟スモレンスク公ロスチスラフとその息子ロマンはユダヤ門を固め、ゴロドノのボリスはリャフ(ポーランド)門の前に陣取りました。この状況を見て、ダヴィドの子のウラジーミルは黒頭巾たちを使ってキエフ周辺を荒らして揺さぶりをかけます。

 さて、モノマフ系、オレーグ系の中央実力一家同士の殆どを巻き込んだ大激突を前にし、やはり温和なヴャチェスラフは最後にユーリーと話し合いで事を収めようとします。イジャスラフはそれを許可し、ヴャチェスラフは使者を送って、まずルーシの地をキリスト教徒の地で染め滅ぼすような行為をやめるよういい、さらに自分の長上権をたてに、自分に従うようにいいます。ユーリーは使者を送って、ヴャチェスラフの言うことを全面的に認めたものの、話し合いにはイジャスラフをウラジーミル・ヴォルインスキーに、ロスチスラフをスモレンスクに返してから、それから行なおうといいます。もちろんヴャチェスラフは自分のアーマーを自分で脱ぐようなまねはせず、自分を父と呼んだイジャスラフを自分の下から追い出そうとは思わないと返答したため、交渉は決裂しました。

 戦争は不可避となり、ポーロヴェッツ人を率いたユーリーはキエフに入り、アンドレイ・ボゴリュプスキーとイジャスラフの弟のアンドレイの子のウラジーミル、ポーロヴェッツ人を率いてルイベジ河を越えてイジャスラフと激突しますが、イジャスラフ率いる黒頭巾の力でユーリーの軍勢はルイベジ河まで押し戻され、ポーロヴェッツ人側の、1096年ペチェルスキー修道院を荒らしたボニャークの子セヴェンチャなる人物も討ち取られました。そこで、ガリーチのウラジーミルが援軍に来るという報を聞きつけたユーリーは、ウラジーミルの軍と合流するべく引き返しました。

 イジャスラフは、ユーリーがガーリチのウラジーミルと合流すべく撤退したとの報を聞くと、合流を阻止すべく、キエフの人から兵を借り受けると、キエフから出撃しました。キエフの住民は、

 ー「すべての人々をして、棒を手にとることの出来るものさへも、行かしめよ。しかしていかぬものは、我等に渡せ、そのものを我等が自ら打つであろう」ー

 とまで言ってイジャスラフに全面協力してくれました。さらにイジャスラフの元に、ウゴル(ハンガリー)人の王から、大量の援軍をすでに送ったとの幸先のいい知らせが届きます。イジャスラフとユーリーは、お互い講和のための使者を交わしたということですが、話はまとまらず、イジャスラフはユーリーの軍勢を追って進み、ユーリーはひたすら退くということが繰り返されました。ところがユーリーの軍勢はとうとう逃げ切ることが出来ず、ルート河のほとりでイジャスラフの軍勢に追いつかれ、渡河が不可能と見たユーリーの軍勢はイジャスラフの軍勢と向き合い、戦闘に突入しました。

 戦いは激戦となり、アンドレイ・ボゴリュプスキーは槍が折れ、兜も盾も失いましたが、何とか無事でした。イジャスラフも槍が折れ、手に傷を負い、太ももを突き刺されて落馬します。しかし、まずはユーリー方のポーロヴェッツ人の陣が崩れ、ついでオレーグの子のスヴャトスラフの陣が崩れ、ユーリーやアンドレイ・ボゴリュプスキーらの陣が崩れて敗走が始まり、ダヴィドの子のウラジーミルは敗走中に討ち取られ、戦いはイジャスラフ側の勝利に終わりました。

 イジャスラフは兄弟が戦死し悲しみにくれているダヴィドの子のイジャスラフを慰め、(キエフ大公の)イジャスラフの弟ロスチスラフとその子のロマンの兵と一緒に、チェルニーゴフを占領するよういいます。ダヴィドの子のイジャスラフは軍勢と共にチェルニーゴフに入ると、ダヴィドの子のウラジーミルを埋葬し、自らはチェルニーゴフ公になりました。

 さて、敗走を続けるユーリーとその子達はペレヤスラヴリまで落ち延びます。オレーグの子のスヴャトスラフとフセヴォロドの子のスヴャトスラフは、最初チェルニーゴフに逃げ込もうとしましたが、すでにイジャスラフの手に落ちたとの報を聞くと、チェルニーゴフは諦め、ノヴゴロド・セーヴェルツキーへと入城しました。ユーリーの同盟軍が崩壊したとの報を聞き、ガーリチのウラジーミルは、ガーリチへ引き返しました。ただし、この時代最強の戦闘力を誇るガーリチのウラジーミルは、イジャスラフの子のムスチスラフの率いるウゴル(ハンガリー)人の援軍に追撃をかけて破り、ムスチスラフを敗走させます。

 勢いに乗るヴャチェスラフ、イジャスラフ、イジャスラフの弟スヴャトポルクはさらに追撃をかけ、ユーリー・ドルゴルーキ―のこもるペレヤスラヴリに攻撃を開始します。ヴャチャスラフとイジャスラフは使者を立て、ペレヤスラヴリをユーリーの子どもに支配させる代わりに、ユーリーはペレヤスラヴリから立ち去ってスーズダリへ戻るよう勧告します。ユーリーは、ゴロドークにあくまでとどまる以外のことはすべてイジャスラフの提案を飲み、ペレヤスラヴリには息子のグレープを残して、ゴロドークへ向かいました。

 イジャスラフ派とユーリー派に分裂したオレーグ家ですが、一家の中でダヴィドの子のイジャスラフは、あの大暴れした先祖のオレーグの世襲地だったチェルニーゴフをそのまま領有し、オレーグの子のスヴャトスラフはノヴゴロド・セーヴェルツキー公国を領有することで、話がまとまります。

 さて、ペレヤスラヴリを明渡したものの、ゴロドークにがんばって動かないユーリーに、無理やり言うことを聞かせるべくイジャスラフ、ダヴィドの子のイジャスラフ、フセヴォロドの子のスヴャトスラフは兵を率いてゴロドークを囲みます。どこからも援軍のこないユーリーはさすがに観念して自分の子をゴロドークに残すと、自らはスーズダリへと去っていきました。これでユーリー・ドルゴルーキーは完全に北東ルーシへ追い返されてしまったわけでした。

 イジャスラフの最後の仕上げとして、目の上のたんこぶ、ガーリチ公国のウラジーミルの勢力の弱体化がなされました。イジャスラフは再度息子のムスチスラフをウゴル(ハンガリー)人の王のもとへ送り、ガーリチ遠征の援軍を頼みます。これも快く許したウゴル人の王は、自ら援軍を率いて出発し、イジャスラフは弟ウラジーミルとともにガーリチ遠征に乗り出します。

 イジャスラフとハンガリー王の連合軍はガーリチへ入り、ウラジーミルも防戦に出てきますが、両軍の激突でウラジーミルの軍は破れ、ウラジーミルは敗走します。ウラジーミルは病気を装い、ハンガリー王やその大主教のもとへ金銀財宝衣服を送って赦免を懇願します。ハンガリー王はこれを快く受け、ウラジーミルも死期が近いことだし、許してやれとイジャスラフを説得し、さらにウラジーミルはガーリチの領地を割譲するとの追加条件を持ち出したので、イジャスラフはしぶしぶ講和を受け入れました。こうしてルーシの地は殆ど全てイジャスラフの下に威服することとなったのです。ところがウラジーミルは、この領地割譲の件に関しては約束不履行を決め込みます。


  〜 3. ユーリー・ドルゴルーキーの再々反撃〜

 さて、キエフ攻略はまたも成功しなかったばかりか、根拠地のスーズダリへ追い込まれてしまったユーリーですが、やはりこの程度で諦めるような人物ではありません。リャザン公国の親戚、ヤロスラフの子のロスチスラフに援軍をあおぎ、さらに性懲りもなくポーロヴェッツ人、オペルリュエフ一族、トクソビチ一族などを援軍に加え、ルーシの地に進撃しました。これにはガーリチ公国のウラジーミルも加わり、さらにノヴゴロド・セーヴェルツキー公国のオレーグの子のスヴャトスラフは、ユーリーから同盟軍に加わるよう勧告され、要請を拒否した場合の危険を考えてやむなくユーリー・ドルゴルーキーの軍に従いました。

 ユーリーはスモレンスク公国のロスチスラフの軍勢は素通りして、チェルニーゴフへ向かいました。スモレンスク公国のロスチスラフはチェルニーゴフを守るべくオレーグ家系統のフセヴォロドの子のスヴャトスラフとともにチェルニーゴフに到着し、チェルニーゴフ公のダヴィドの子のイジャスラフとともに篭城しました。

 ユーリーとスヴャトスラフはチェルニーゴフの付近にとどまり、ポーロヴェッツ人部隊に総攻撃を命じます。彼らは外廊を奪い、ロスチスラフは内廊に避難しました。ところがユーリーの進撃を聞いたイジャスラフとヴャチェスラフはチェルニーゴフ救援軍を編成し出発しました。ユーリーの前哨部隊がイジャスラフ・ヴャチェスラフ連合軍の前哨部隊を捕らえ、連合軍迫るの報を聞くと恐れをなしたポーロヴェッツ人部隊が退却をはじめ、ユーリーもやむなくチェルニーゴフを引き払いました。撤退の際、オレーグの子のスヴャトスラフからイジャスラフの報復を恐れる訴えがあり、ユーリーは息子のヴァシリコを親衛隊と共に残し、スーズダリへと去りました。

 ちなみにここでいう外廊、内廊とは、おそらく中国の唐代末期の藩鎮の支配する都市のつくり、まず都市全体を囲みこむ城壁(外廊)があり、そのうち節度使のいる官衙(役所)を警備するためこの建物をさらに包み込む牙城(衙=牙、同音意相通ず)というものを作りましたが、それと同じことなのでしょう。

 さて、案の上、ユーリーを引き止めるべく、スモレンスク公ロスチスラフはスモレンスクへ引き返しましたが、その代わりロスチスラフの子のロマンと援軍を受け取ったイジャスラフはヴャチェスラフと共にノヴゴロド・セーヴェルツキーへ進軍しました。イジャスラフは途中でヴャチャスラフをキエフへ返し、追いついてきたロスチスラフの子のロマンとフセヴォロドの子のスヴャトスラフと合流し、町を包囲します。

 さらにチェルニーゴフ公国のイジャスラフも加わったこの戦いは、3日で町の外郭を奪うことになり、オレーグの子のスヴャトスラフは和睦を乞い、これは受け入れられました。さて、戦いを片付けると、イジャスラフはリャフ(ポーランド)人の王ボレスラフ4世の息子ピョートルを派遣して、約束の履行を迫り、ウラジーミルはこれを蹴りますが、急死し、息子のヤロスラフがガーリチ公になりますが、ヤロスラフはイジャスラフに対する忠誠を誓います。

 1153年、イジャスラフはガリーチ公ヤロスラフに対する遠征を計画します。アンドレイの子のウラジーミル、ペレヤスラヴリの軍を率いた自分の息子のムスチスラフ、ダヴィドの子のイジャスラフ、自分の兄弟のウラジーミルとスヴャトポルクも加わったこの大軍には黒頭巾も加わっていました。

 イジャスラフ率いる大軍ガーリチに迫るの報を聞いたヤロスラフは、軍勢を率いて追撃に向かいました。イジャスラフがセレト河を越えたところで両軍は遭遇し、霧が晴れ、両軍にらみ合いとなります。と、ここでガーリチ公ヤロスラフの部下達が、以下の様に言いました。


  ー「汝(ヤロスラフ)は若い、脇に行ってわれわれを見ておれ。汝の父は我等を養い、我等を愛した。しかして我等は汝の父の名誉のために、また汝の名誉のために命を差し出すことを欲する」ー

 ー「我等の下では公は(たった)一人である。もし汝の身に何か起これば、我等の身にも起こるのである。公よ、町に行け、我等自らイジャスラフと戦うであろう、しかして我等のうち生き残るであろうものは汝の下に走り行くであろう。しかしてその時汝と共に町に篭城しよう」ー

 亡きガーリチ公ウラジーミルの軍勢がなぜあれほど強かったのか、そのわけがわかります。こうしてウラジーミルの旧部下は、旧主の息子を安全な場所に移動させると、イジャスラフの軍と激突しました。凄まじい混戦となり、どちらが勝ったか判別しがたい情勢でしたが、ともかくイジャスラフは戦場に残り、ガリーチの兵を捕虜にし、ガリーチの兵もイジャスラフの兵を捕虜にするという事態になります。イジャスラフは奪ったガリーチの軍旗を立てて、ガリーチの兵を大量に捕虜にしますが、捕虜の数が自軍より多くなったので、能力の高いもののみ残し、あとは殺害してガーリチから去りました。


   〜 4. イジャスラフの死ー破り得ぬ敵 〜

 1154年、諦めるということを知らないとしか言いようがありませんが、ユーリーは更にキエフに対する遠征を計画します。ロストフとスーズダリから兵を集めた、ポーロヴェッツ人も加勢に来ますが、馬の疫病がはやり、スーズダリへと引き返します。


      (註)赤枠はロスチスラフがキエフ公

 ちょうどその頃イジャスラフが病に倒れ、11541114日、亡くなりました。ユーリー・ダルゴルーキーに対して一歩も引かなかった彼も、病魔には勝てなかったのです。彼の父ヴャチェスラフはイジャスラフの死を嘆くと共に、フセヴォロドの子のイジャスラフをキエフに呼ぶと、キエフの秩序を守るべくとどまり、ダヴィドの子のイジャスラフとオレーグの子のスヴャトスラフはスモレンスクのロスチスラフに使いを発し、キエフに来たったロスチスラフとヴャチャスラフは親子のちぎりを結んで、ロスチスラフがキエフ公となりました。

 
       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
    レーベジェフ 編・除村吉太郎
     原書房

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