キエフスカヤ・ルーシ(13)

〜〜アンドレイ・ボゴリュプスキーの時代〜〜





アンドレイ・ボゴリュプスキー(1111頃〜1174)
Андрей Боголюбский
北東ルーシ隆盛を現出し、ウラジーミルを発展させる。



 


Российская

История


の時代は、ルーシで不完全とはいえ、最後の統一がなったウラジーミル・モノマフの時代から、三代下った孫の時代となります。これほど時代が下ると、いま脂の乗り切った公達にとって、もはやキエフの大統一なった時代は昔のことであり、むしろ分領地こそが封ぜられた自らの親しい土地(родная земля)という感覚が強くなり、祖父の代ほどはキエフに執着しない者もあらわれます。

 この時代の空気を最も端的に吸ったのがユーリー・ドルゴルーキーの息子アンドレイ・ボゴリュプスキーです。彼の行動には、ヴラド・ツェペシュだのジル・ド・レ伯だのまでは行かないにしろ、少々病的な偏執狂的中世君主ぶりを感じ、キエフ公に興味が無かったというより、それよりも自らの町ウラジーミルに異様な執着があったというほうが正しいと思いますが、ともかく、諸公中の最強者となり、実力十分であったにもかかわらず、一度もキエフ公とならず一生を終えました。

 あまつさえ、1169年、彼はモンゴル軍に先立つこと1世紀以上前に自ら軍を率いてキエフを破壊し、キエフ大公の権威を完膚なまでに失墜させました。このキエフの破壊こそ、ウラジーミルスカヤ・ルーシ(?)の力がキエフスカヤ・ルーシの力を凌駕したことを象徴する最大の事件で、キエフスカヤ・ルーシの歴史の結節点の一つだといえます。もっとも、アンドレイ・ボゴリュプスキーは自らはキエフ公にならなかったものの、キエフ公の人事そのものには介入を繰り返しますので、彼は完全にキエフ公の権威を認めていなかったわけではありません。

 ウラジーミルを中心とする北東ルーシ、ガーリチを中心とする南西ルーシの発達は、中央集権を最高の政治形態とみるならば、救いがたいほどの分裂ぶりを示しており、ヤロスラフ賢公の時代までの統一は遠い昔の夢としか思えず、分領公国制ここにきわまれリ、といった感があります。


 〜 1. イジャスラフの死後ーキエフ公位のゆくえ 〜

    (註)以後赤枠まではロスチスラフがキエフ公

 さて、イジャスラフの片腕だったスモレンスク公ロスチスラフがキエフ公となりました。が、「引き際が肝心」などいう概念を全く持っていなかったとしか思えないユーリー・ドルゴルーキーは、息子のグレープに兵を率いさせ、ポーロヴェッツ人部隊と共にペレヤスラヴリに攻め寄せてきました。ロスチスラフは、トゥーロフ、ビーンスクを統治させていた姉妹の子(つまり甥)のスヴャトスラフをつれ、ペレヤスラヴリに急行します。

 ペレヤスラヴリを守っていた亡きイジャスラフの子ムスチスラフから、すでにグレープはペレヤスラヴリ付近に到着し、両軍の間で矢の打ち合いがはじまっていることを告げられ、ロスチスラフはスヴャトスラフを急派します。ムスチスラフは、スヴャトスラフの軍と合流すべくペレヤスラヴリから出発し、両軍は合流に成功し、ペレヤスラヴリに無事帰還し、グレープ率いるポーロヴェッツ人部隊を追い払うことに成功しました。それにしても、その勇猛さを以って、かつてビザンチン帝国に傭兵として召抱えられたヴァリャーグの子孫達が、今ではポーロヴェッツ人や黒頭巾などの外国人傭兵隊に頼るようになったとは、歴史も変わったものです。






9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市




 さて、グレープの軍を追い払ったロスチスラフは、ダヴィドの子のスヴャトスラフの治めるチェルニーゴフへの進軍を計画し、軍を進めます。ところが、ヴャチェスラフがポックリ死んだとの報が入ったので、ロスチスラフは急遽キエフに引き返、ヴャチャスラフの葬儀を行ない、母親のムスチスラヴリャに後を任せた後、チェルニーゴフ遠征軍の下へ引き返しました。群臣達は、キエフに戻って地位を固めるべきだと進言しますが、ロスチスラフは聞き入れず、そのまま軍を進めました。

 ダヴィドの子のイジャスラフは、ユーリー・ドルゴルーキーの子のグレープをポーロヴェッツ人部隊と共に呼び寄せ、ロスチスラフの下にはフセヴォロドの子のスヴャトスラフ、イジャスラフの子のムスチスラフもはせ参じます。ところがいざ両軍が鉢合わせてみると、あまりのポーロヴェッツ人部隊の多さにロスチスラフは恐怖を感じ、ダヴィドの子のイジャスラフに、ロスチスラフ自らの領するキエフと、ムスチスラフの領するペレヤスラヴリを与えることで、イジャスラフと講和しようとします。

 自分に一言の相談もなく自分の領地を引き渡す交渉をされたムスチスラフは、あきれて戦列から離れ、すかさずダヴィドの子のイジャスラフ率いるポーロヴェッツ人部隊の攻撃が始まりました。結局ロスチスラフの連合軍は破れ、ロスチスラフはスモレンスク公国に逃げ帰り、ムスチスラフとロスチスラフの子のスヴャトスラフはペレヤスラヴリから、さらにルーツクへと逃げ延びました。


      (註)赤枠はイジャスラフがキエフ公

 さて、突如無防備都市となったキエフを前に、1154年、ダヴィドの子のイジャスラフは自らをキエフ公にするよう要求し、キエフの人々はポーロヴェッツ人部隊の乱暴狼藉を抑えるという条件でこの要求をのみました。こうしてダヴィドの子のイジャスラフはキエフ公に納まり、グレープをペレヤスラヴリ公へ、フセヴォロドの子のスヴャトスラフはチェルニーゴフ公へ配置するなど、さっさと人事も決めてしまいました。


〜 2. ドルゴルーキーのキエフ入城ー不屈の勝利へ 〜

 さて、諦めという文字を知らないユーリー・ドルゴルーキーは、先ほどの敗戦にも全くめげることなく平然とキエフ進撃軍を編成し、実際スモレンスク付近まで移動していました。ところが、そこでヴャチェスラフが亡くなった事、ロスチスラフが戦いに敗れスモレンスクに逃げ帰ったこと、ダヴィドの子のイジャスラフがキエフ公に収まったことを聞きました。自分を邪魔できる権威や実力を持つ人物も死に絶えてしまい、残ったのは小物だけ、いよいよわが世の春を謳歌すべく、行動を開始しました。

 もはや衆目が一致して最高実力者と認めるユーリーの下にノヴゴロドから人が派遣され、ユーリー・ドルゴルーキーの息子のムスチスラフをノヴゴロド公に推戴するよう懇願する使者が届き、ユーリーはムスチスラフをノヴゴロドに向かわせました。さて、ユーリーは悠々とスモレンスクへ向かい、スモレンスク領内に入ったところで、ロスチスラフの方からユーリーの下へ、和を乞い、ユーリーを父として敬うと申し出ること(つまりは全面降伏です)を伝える使者がやってきました。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


     (ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)


 ―
ムスチスラフイジャスラフ―――ムスチスラフ
   |          |        (ペレヤスラヴリ公国)
   |         ├フセヴォロド
   |          |
   |         ├スヴャトポルク
   |          |
   |         ├ロスチスラフ―――ロマン
   |          |(スモレンスク公国)
   |          |
   |         
ウラジーミル
   |
   ├
ヤロポルク
    |
   ├
ヴャチェスラフ
   |
   ├
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
    |     |
    |    ├――┬ロスチスラフ
    |    ?    |
    |         ├
アンドレイ―――ムスチスラフ
   |         |
  ・ボゴリュプスキー
    |         |  
    |         ├グレープ
   |         |
   |         ├ボリス
   |         |
   |         ├ムスチスラフ――ウラジーミル

    |          |(ノヴゴロド公)
   |         ├ヴァシリコ
   |         |
   |         ├ミハイル

   |         |
   |         └
フセヴォロド大巣公
   |
   └
アンドレイ
      |
      ├―――ウラジーミル
      |
    
トゥゴルカンの娘


      (チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)
        (ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国)

   ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ(チェルニーゴフ公国)
    |       |
    |       └ウラジーミル―スヴャトスラフ
    |
   ├
オレーグ
    | |
    | ├―――┬
フセヴォロド―┬スヴャトスラフ
    | ?     |         |
    |       ├
イーゴリ   └ヤロスラフ
    |       |
    |       └
スヴャトスラフ―┬オレーグ
    |                   |
    |                   ├
イーゴリ(*)
    |                   |
    |                   └フセヴォロド
    |
    |  
* 『イーゴリ公遠征物語』の主人公のイーゴリ公
    |
    |
    | (ムーロム・リャザン公国のオレーグ家系統)
    |
   └
ヤロスラフ―┬ヤロスラフ――ヴラジーミル
             |
            └ロスチスラフ


          (ガーリチ公国)

ロスチスラフ―┬ヴォロダリ
           |
          └
ヴァシリコウラジーミル―ヤロスラフ
                  |
                 └ロスチスラフ―イヴァン


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 これを余裕で許したユーリーは、キエフに向かいましたが、ペレヤスラヴリ公のオレーグの子のスヴャトスラフもすぐさまユーリーの下へ自ら出頭します。チェルニーゴフ公になったばかりのフセヴォロドの子のスヴャトスラフもやはりすぐさまユーリーの下に自ら出頭し、スタロドゥープのほとりで彼を迎え、あの時自分はどうかしていたんですとユーリーに平謝りし、オレーグの子のスヴャトスラフもフセヴォロドの子のスヴャトスラフのためにわびを入れ、フセヴォロドの子のスヴャトスラフは今後叔父ユーリーの全ての意志にしたがうと十字架に口づけして誓いました。

 そしてオレーグの子のスヴャトスラフは、キエフを支配するダヴィドの子のイジャスラフに対して使いを送り、すぐさまユーリーにキエフを明渡すよう勧告しました。ところがイジャスラフはこれを受け入れなかったので、さらにオレーグの子のスヴャトスラフはイジャスラフに対して使いを送り、チェルニーゴフを譲り渡すから悪いことは言わない、キエフから退去するよう勧告します。こんな親切極まりない忠告を受けながらも粘ったイジャスラフですが、ユーリー・ドルゴルーキー本人からの勧告が届いた時にはさすがに観念し、自分に危害を加えないという条件でキエフを明渡しました。


     (註)青枠はドルゴルーキーがキエフ公

 こうしてもはや誰はばかることなくユーリーはキエフに入場し、押しも押されもしない実力者のユーリーは、1154年、全ルーシからキエフ公としてむかえられます。ユーリーは勝者の権利を存分に行使して封建を大いに行い、アンドレイ・ボゴリュプスキーをヴィシゴロドに送り、ボリスをトゥーロフに、グレープをペレヤスラヴリに送り、ヴァシリコにはロシ河沿岸の土地を与えました。1155年のことでした。ところが、アンドレイ・ボゴリュプスキーは父の意思に反しヴィシゴロドから勝手にスーズダリへ行ってしまいました。


 
 〜 3. ユーリーの時代ー短い治世と子孫達 〜

 ユーリーは、キエフ公になると、スモレンスクのロスチスラフと完全に和解すると、公の義務である、臣下に対する所領安堵を果たすべく、ガーリチ公ヤロスラフと共に、ウラジーミル・ヴォルインスキーを治めていたイジャスラフの子のムスチスラフに対し兵を進めました。ユーリーは、今は亡き弟アンドレイにウラジーミル・ヴォルインスキーを与える約束をしていたのですが、アンドレイがなくなった今、その息子のウラジーミルに対し約束を履行しようとしたのです。ウラジーミルはアンドレイとポーロヴェッツ人のトゥゴルカンの娘の息子で、しばしばユーリーはこの血縁関係を利用してポーロヴェッツ人部隊を主力増援部隊として借り集めていましたから、ポーロヴェッツ人に対する借りを返すための遠征でもあったのでしょう。

 ウゴル(ハンガリー)人のもとにいたムスチスラフの息子のウラジーミルも加勢に駆けつけましたが、ウラジーミル・ヴォルインスキーの包囲は10日間たっても解けず、それどころかアンドレイの息子のウラジーミルがのどを矢で射抜かれるという重傷を負う始末で、結局ユーリーは撤退し、アンドレイの息子のウラジーミルにはドロゴブージ、ペレソープニツァ、ゴリナ河沿岸の全ての町を与えました。ちなみにユーリーの息子のボリスもトゥーロフを受け取りました。

 と、ここでやはりオレーグ家系統はかましてくれたといいますか、1157年、ダヴィドの子のイジャスラフがユーリーに対する反乱をたくらみ始めます。オレーグ家一党の反乱好き、騒ぎ好きの血統はもはや一族を通じた遺伝で、家風というのは家庭を通じて連綿と受け継がれていくものとしか思えません。ともかく、ダヴィドの子のイジャスラフは、スモレンスク公国のムスチスラフの子のロスチスラフ、イジャスラフの子のムスチスラフ、オレーグの子のスヴャトスラフと語らい、ユーリーへの遠征をたきつけます。


     (註)黄枠はイジャスラフがキエフ公

 オレーグの子のスヴャトスラフは、ユーリーとの盟約を破ることは出来ないと断りを入れましたが、その他のメンバーは対ユーリー遠征に賛成し、準備をしている際にキエフから使者がきて、ユーリー・ドルゴルーキ−の訃報が入り(1157年)、さらにその使者はダヴィドの子のイジャスラフをキエフに招いたのです。こうしてたなぼた式にイジャスラフはキエフ公に返り咲きました。ひさびさのオレーグ家系統出身者による、キエフ公の誕生です。


 
  〜 4. めぐるキエフ公位ー覇者の不在 〜

 しばらく一族の間で揉め事があったのち、結局キエフ公イジャスラフは、オレーグの子のスヴャトスラフをチェルニーゴフに据え、フセヴォロドの子のスヴャトスラフにノヴゴロド・セーヴェルツキーを与えました。そして北東ルーシでは、ユーリー・ドルゴルーキーの死後、ウラジーミル、ロストフ、スーズダリの町の人々が一致してアンドレイ・ボゴリュプスキーを三つの町の公に推戴しました。

 アンドレイ・ボゴリュプスキーは敬神公(ボゴリュプスキー)といわれるだけのことはあって、ユーリーが建築に着手していた石造の聖救世主教会の建立を完了させ、自身も多くの修道院を設立し、ウラジーミルに石造の聖母教会を建立し、主教座を置き十分の一税の特権を与えました。また、ウラジーミルにクレムリンを築き、もはやキエフを相手とせず、ウラジーミルを自らの治める世襲地の首都とする姿勢を明確に打ち出しました。






アンドレイ・ボゴリュプスキー復元像

М.М.Герасимовによる




 1159年、ガリーチのヤロスラフは、ロスチスラフの子のイヴァンを迫害し始めました。イヴァンに対して共同戦線をはろうとしてヤロスラフは、多くの公たちと共にダヴィドの子のイジャスラフに使いを送り、これを知ったイヴァンは驚いてポーロヴェッツ人と協力し、ドナウ河付近の町々を荒らしました。ところがこの騒ぎを利用して、オレーグ家一統に対し、モノマフ家の面々、アンドレイの子のウラジーミル、ユーリー・ドルゴルーキーと執拗な戦いを繰り広げた故キエフ大公イジャスラフの子のムスチスラフ、それにガリーチのヤロスラフがアンチ・イジャスラフで結託しようとしていたのを察知していましたので、イジャスラフは先手を打って、イヴァンのために領地を求めるため、ガリーチのヤロスラフに攻撃を仕掛けます。

 イジャスラフは、オレーグの子のスヴャトスラフ、フセヴォロドの子のスヴャトスラフらに援軍を求めましたが、スヴャトスラフは、防衛戦ならまだしも、一族でない者のための軍事行動は拒否しました。そこで、イジャスラフは援軍なしで出発せざるを得なくなります。オレーグの子のスヴャトスラフは自重するよう重ねて使者を送りますが、イジャスラフは使者を突き返し、後でポーロヴェツ人と共にイジャスラフの軍勢に追いついた、フセヴォロドの子のスヴャトスラフと共に前進を続けました。

 さて、この軍勢に向かってイジャスラフの子のムスチスラフ、ムスチスラフの子のウラジーミル、ヤロスラフが打って出ました。そこでオレーグの子のスヴャトスラフは、ベルゴロドに到着し、相手を待ち構えます。ベルゴロドについたイジャスラフとムスチスラフの間で激戦が繰り広げられ、20日間勝負がつきませんでしたが、イジャスラフ陣営で黒頭巾(トルク人、ベレンディ人)部隊の裏切りがあり、イジャスラフはゴミエまで撤退します。


 こうして抵抗する者がいなくなり、ムスチスラフ、ウラジーミル、ヤロスラフはキエフに入りました。ムスチスラフは、イジャスラフの財産を戦利品として没収した後、自分の父の弟、つまり伯父のスモレンスク公国のロスチスラフへ使いを発し、キエフ公になるよう嘆願します。


    (註)緑枠はロスチスラフがキエフ公

 ロスチスラフはこれを受け、スモレンスクを出発し、キエフへ到着しました。1160年のことでした。また、ロスチスラフはオレーグの子のスヴャトスラフと会見し、和解します。ロスチスラフは黒テン、豹、北極狐、白狼、魚の歯(海獣の牙)をスヴャトスラフに与え、スヴャトスラフはロスチスラフに豹、黄金が巻かれた鞍を着けた二頭の名馬を送ったということです。

 さて、ここで事件が起こります。それは、ノヴゴロドが自らのノヴゴロド公の解任を迫ったことです。このところめまぐるしいキエフ公の交代で、当然安定した政治が国の隅々まで行き届くとは程遠い状態となっていたルーシでは、中央が当てにならない以上、各地方が自治に励むという状態となっていました。ノヴゴロドも例外ではなくなっていたのでしょう、ともかく、ノヴゴロドはヴォーチェ(民会)を開き、まずは当時ノヴゴロド公だった二人の公(ノヴゴロド公と勤務公?)のうちの一人ダヴィド公の解任を要求し、これに成功すると、さらにはスヴャトスラフを捕らえて丸木小屋に監禁し、公妃を修道院に押し込み、公の財産を没収して最終的にはスヴャトスラフをラドガ湖まで流刑に処したのです。

 ロスチスラフの下にこの騒ぎの報告がなされ、ロスチスラフはノヴゴロドの人々を捕らえ、牢につなぐよう命じました。ただ、この牢はあまりに環境が悪かったらしく一夜にして14人が死亡したため、これはやりすぎだと感じたロスチスラフはノヴゴロド人を流刑へ変更します。

 結局ノヴゴロドの市民はアンドレイ・ボゴリュプスキーに使いを送り、アンドレイの息子が公に欲しいと要請しますが、先ほどのノヴゴロド公流罪騒ぎをみたアンドレイは当然この要求を渋り、アンドレイの弟のムスチスラフをノヴゴロド公に送ろうとします。ところがノヴゴロドの市民は前ノヴゴロド公だったムスチスラフの就任を嫌がり、結局妥協が成り立って、甥のロスチスラフの子のムスチスラフをノヴゴロド公におくりだし、これで問題が片付きました。

 さて、ダヴィドの子のイジャスラフですが、彼の行動をみると、それほどの大物とは思えませんが、キエフ公位への執着は強く、ポーロヴェッツ人の援軍を迎え入れると、フセヴォロドの子のスヴャトスラフ、オレーグの子のスヴャトスラフの息子のオレーグ、兄弟のウラジーミルなどと同盟をくみ、ロスチスラフの座するキエフに向かって進軍しました。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


     (ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)


ムスチスラフ―┬イジャスラフ―┬ムスチスラフ―ロマン
 |          |         |
 |         ├フセヴォロド ├ヤロスラフ
 |          |          |
 |         ├スヴャトポルク└ヤロポルク
 |          |
 |         ├ロスチスラフ―――┬ロマン
 |          |(スモレンスク公国) |
 |          |            ├リューリク
 |         └ウラジーミル     |
 |                      ├ダヴィド
ヤロポルク                |
 |                      └ムスチスラフ
ヴャチェスラフ
 |
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
 |     |
 |    ├――┬ロスチスラフ
 |    ?     |
 |         ├
アンドレイ―――ムスチスラフ
 |         |
  ・ボゴリュプスキー
 |         |  
 |         ├グレープ―――ウラジーミル
 |         |
 |         ├ボリス
 |         |
 |         ├ムスチスラフ――ウラジーミル

 |          |(ノヴゴロド公)
 |         ├ヴァシリコ
 |         |
 |         ├ミハイル

 |         |
 |         └
フセヴォロド大巣公
 |
アンドレイ
     |
     ├―――ウラジーミル
     |
  
トゥゴルカンの娘


      (チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)
        (ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国)

   ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ(チェルニーゴフ公国)
    |       |
    |       └ウラジーミル―スヴャトスラフ
    |
   ├
オレーグ
    | |
    | ├―――┬
フセヴォロド―┬スヴャトスラフ
    | ?     |         |
    |       ├
イーゴリ   └ヤロスラフ
    |       |
    |       └
スヴャトスラフ―┬オレーグ
    |                   |
    |                   ├
イーゴリ(*)
    |                   |
    |                   └フセヴォロド
    |
    |  
* 『イーゴリ公遠征物語』の主人公のイーゴリ公
    |
    |
    | (ムーロム・リャザン公国のオレーグ家系統)
    |
   └
ヤロスラフ―┬ヤロスラフ――ヴラジーミル
             |
            └ロスチスラフ


          (ガーリチ公国)

ロスチスラフ―┬ヴォロダリ
           |
          └
ヴァシリコウラジーミル―ヤロスラフ
                  |
                 └ロスチスラフ―イヴァン


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 ロスチスラフはアンドレイ・ボゴリュプスキーの子のウラジーミルなどと防戦を続けましたが、けっきょくイジャスラフが勝利を収め、ポーロヴェッツ人部隊が町に侵入し、ロスチスラフ方の黒頭巾(ベレンデイ人、トルク人)たちは逃亡を始めましたので、ロスチスラフは親衛隊の助言に従ってベルゴロドへ撤退し、アンドレイの子のウラジーミルは、トルチェスクの黒頭巾のところへ逃げ込みます。


 こうして勝利を収めたイジャスラフはキエフに入り、さらにロスチスラフを追ってベルゴロドへ進撃します。ロスチスラフは都市の内廊に立てこもっていましたが、イジャスラフはこれを包囲しました。ところが、チェルニーゴフを守っていたオレーグの子のスヴャトスラフは、そろそろこの辺で講和を結ぶようイジャスラフに勧告しますが、イジャスラフはこれを拒否します。

 そうこうするうちに、亡きイジャスラフの子のムスチスラフが、ウラジーミル・ヴォルインスキーとガーリチ公国から援軍を伴って攻め寄せ、ロスチスラフの子のリューリクが、アンドレイの子のウラジーミル、ユーリー・ドルゴルーキーの子のヴァシリコ、ベレンディ人、トルク人、コウイ人、ペチェネグ人など、黒頭巾と総称される殆どの民族を引き連れてイジャスラフに向かってきました。つい最近までウラジーミル・モノマフ家系統同士で血で血を洗う戦いをしていても、さすがにオレーグ家系統がキエフ公位を奪おうとするなら、モノマフ系統同士でがっちり団結できるわけで、オレーグの子のスヴャトスラフの警告は、やはりあたっていたのです。

 ポーロヴェッツ人の報告で予想を越える援軍が向かっていることを知ったイジャスラフはベルゴロドから撤退を始めますが、ムスチスラフ方のトルク人部隊が追いつき、戦闘が行なわれ、イジャスラフは頭を切りつけられ、太ももを突き刺されたため落馬し、結局聖シメオン修道院に送られた後、殺害されました。


    (註)茶枠はムスチスラフがキエフ公

 ところがスモレンスク公ロスチスラフも亡くなり、当面キエフ公たる権威を備えた人物としては、亡きキエフ大公イジャスラフの長男ムスチスラフだけとなりました。そこで亡きロスチスラフ公の子ども達、リューリクとダヴィドがムスチスラフへ使いを送り、キエフの住人も、黒頭巾たちもそれぞれ使いを発して、つまり国の上下が一致してムスチスラフをキエフ大公へ推戴したのです。これをうけてムスチスラフはキエフへと入りました。

 このイジャスラフの子のムスチスラフは、実に久々にポーロヴェッツ人遠征を行なった人です。たしかにヤロスラフ賢公の三人の息子の時代およびスヴャトポルク公と彼を支えたウラジーミル・モノマフ公の時代は、国が滅びるかと思うくらい激しいポーロヴェッツ人侵入がありましたが、時代を経るにつれて彼らの活動はだんだんと下火となり、ユーリー・ドルゴルーキーの時代にいたってはユーリーは早世した弟のアンドレイも両方ポーロヴェッツ人から妻を迎えており、その血縁関係から、とくにユーリーの援軍としてポーロヴェッツ人が重宝されてたのですが、いったいなぜいまさら遠征が行なわれたのでしょうか。1170年に行なわれたこの遠征の当事者たるムスチスラフは以下のように語ったといいます。

 
ー「兄弟達よ、ルーシの地を、しかしておのれの父の地及び祖父の地を愛惜せよ。ポーロヴェッツ人は毎年キリスト教徒をおのれの天幕に拉し去る、彼らは我らに誓言を与えるが、常にそれを破っている、しかしてすでに我等からギリシャへの道を、また塩の道及び鉄の道を奪い取ろうとしている。兄弟達よ、神の助力を期待しつつ、おのれの父及び祖父たちの道とおのれの名誉とを敢えて獲得するのはよきことでなければならぬ」ー

 この時代、中世最大の海運業である十字軍が起こっており、この十字軍の兵の輸送を請け負うことで資本を蓄積した地中海のイタリア自治都市国家が、地中海航路を開拓維持するだけの力を身につけ、新たな商業航路が形成されかけていました。そこで地中海は再び安全な海となり、キエフからノヴゴロド、そしてバルト海へと進むルートより、黒海のターナやトレビゾントから、コンスタンチノープルをぬけてエーゲ海へ達す航路が発達し、「ヴァリャーグからギリシャへの道」の重要性が薄れていったのです。

 ルーシと同様、「ヴァリャーグからギリシャへの道」から通商の利益を得ていたであろうポーロヴェッツ人にとっては、この商業路がさびれたことによる実入りの低下は深刻な問題を起こしたのに違いなく、結局この減収を取り戻そうというポーロヴェッツ人の荒っぽい行動が、「ギリシャへの道を奪い取ろうとしている」ということになったのではないでしょうか。

 結局この提案は賛成され、遠征にはロスチスラフの子のリューリク、ダヴィド、フセヴォロドの子のスヴャトスラフとヤロスラフ、スヴャトスラフの子のオレーグとフセヴォロド(「イーゴリ公遠征物語」のイーゴリは不参加です)、とオレーグ家面々は殆ど参加、ユーリー・ドルゴルーキーの息子のグレープ(ペレヤスラヴリを治めていました)、弟ミハルコ、などなど、キエフ公位を争って二手に分かれていた面々が共同戦線を張ることとなりました。たしかに、一族の結束という点では確かにポーロヴェッツ遠征は大いにプラスでありました。

 さて、このような大規模な遠征軍が攻め込んでくるとは露知らず、不意をつかれたポーロヴェッツ軍は完敗し、ルーシ側は殆ど損害のないまま勝負は決まりました。


   〜 5. キエフ劫奪ーキエフ公の権威失墜  〜

 さて、独立のままキエフを中心とするルーシ中央部の動きにはわれ関せずで、ひたすら教会を建立していた少々偏屈気味のアンドレイ・ボゴリュプスキーですが、ひそかに一族と結託してキエフ大公ムスチスラフに対する共同戦線を張ります。なぜかムスチスラフは一族から嫌われており、この提案は十字架の口付けをもって確認されました。

 さて、アンドレイに従った諸公は、アンドレイ・ボゴリュプスキーの息子ムスチスラフ、ユーリーの息子でペレヤスラヴリ公のグレープ、のちの大巣公と呼ばれたフセヴォロド、亡きスモレンスク公ロスチスラフの息子全員、つまりロマン、リューリク、ダヴィド、ムスチスラフ、亡きアンドレイの息子ウラジーミル、スヴャトスラフの息子のオレーグと『イーゴリ公遠征物語』のイーゴリ、イーゴリはこれが初陣です。


 1169年、キエフに遠征してきたこれだけの軍勢に包囲されたムスチスラフはさすがに多勢に無勢で、キエフにこもるも、脱出を余儀なくされます。さて、無防備都市となったキエフですが、ここでロシア版サッコ・ディ・ローマ、キエフ劫掠が起こります。聖ソフィア教会、修道院、十分の一の聖母教会など、キリスト教関連の施設までも破壊を免れることが出来ず、ペチェルスキ−修道院にも火が放たれました。アンドレイ・ボゴリュプスキーにはキエフに対する畏敬の念などまったくなかったのでしょう。しかし、これが初陣だったイーゴリは、『イーゴリ公遠征物語』では、ルーシの敵ポーロヴェッツと戦って武運つたなく敗れた公、的な書かれ方をしますが、ルーシの心の都キエフを破壊するとはなんとも罰当たりな人物です。遠征失敗も因果応報というものではないでしょうか?


      (註)紺枠はグレープがキエフ公

 アンドレイ・ボゴリュプスキーは、長上権がありますから、一応キエフ公に叔父のグレープを据えますが、この後彼は、自らはキエフ公にならないものの、キエフ公の人事に積極的に介入します。ちなみにムスチスラフはガリーチの兵、一族、黒頭巾のところへ行って軍勢を集め、再起を図ってキエフを攻めますが、失敗し、失意のうちに1172年死去します。

 1173年にはアンドレイ・ボゴリュプスキーの息子ムスチスラフがロマンの治めるノヴゴロドを攻めますが、失敗します。一方でロマンは父のムスチスラフの死を聞いて、ウラジーミル・ヴォルインスキーへ戻り、その後アンドレイ・ボゴリュプスキーはリューリクを遣わしてノヴゴロドを与えました。


    (註)オリーブ色枠はロマンがキエフ公

 さて、同年ユーリーの子のグレープが死去したので、ダヴィドとムスチスラフは、スモレンスク公国のムスチスラフの末の息子で自分達の叔父のウラジーミルをキエフ公に推戴しますが、じきアンドレイ・ボゴリュプスキーはウラジーミルに反発し、ウラジーミルにルーシ退去を命じると、ロスチスラフの子のロマンにキエフ公になるように命じました。
 
ウラジーミルはまもなく死去し、アンドレイの思惑通りロマンがキエフに入ってキエフ公になるのですが、これに対し、アンドレイ・ボゴリュプスキーは亡き弟グレープのかたきをとるため、グレープを苦しめた連中を渡せなどとロマンに対し無理難題を押し付け始めました。引渡しを求めたグリゴリーをひそかにロスチスラフ一門が脱出させると、アンドレイはこれに反発し、ロマンにキエフ退去、ダヴィドにヴィシゴロド退去、ムスチスラフにはベルゴロド退去を命じ、ロスチスラフ一門はスモレンスクに引っ込むよう言い渡しました。


 そしてアンドレイはミハイルにキエフを渡そうとし、ミハイルの代わりにフセヴォロド大巣公がキエフに入ります。ロスチスラフ一門は当然この決定には反対で、意を決して夜中キエフに侵入し、フセヴォロド大巣公などを捕らえ、リューリクをキエフ公に祭り上げます。アンドレイは怒り、再びリューリクはスモレンスク追放、ダヴィドとムスチスラフはルーシの地そのものからの追放を命じます。

 この追放令を乱発するむちゃくちゃな君主に対し、当然ロスチスラフ一門も怒り、アンドレイの使者の髪と髭をそって侮辱し、これに対してアンドレイはロストフ、スーズダリ、ウラジーミル、ペレヤスラヴリ、ノヴゴロド、ムーロムなど、当時の殆どのメイン都市から兵力を集め、さらにはポロック公国、スモレンスクのロマンの息子まで軍事力の威嚇の下に自軍に編入し、フセヴォロドの子のスヴャトスラフに指揮をとらせ、その数1万8千人と号しました。

 さて、ロスチスラフ一門は、キエフに篭城してこの大軍を迎え撃つことをせず、おのおのの支配する都市へもどって篭城する作戦を取ります。リューリクはベルゴロドへ、ムスチスラフはダヴィドの軍勢と共にヴィシゴロドへこもり、ダヴィド自身はガーリチのヤロスラフへ援軍をもとめに向かいました。

 さて、スヴャトスラフ、ユーリー・ドルゴルーキーの子のフセヴォロド大巣公、『イーゴリ公遠征物語』のイーゴリをふくめ、20人以上の公が参加した大遠征部隊はヴィシゴロドに到着し、これを見たムスチスラフは果敢にも打って出ます。当時の戦いの定法ですが、最初は弓兵同士の打ち合いが始まり、ムスチスラフの軍が混乱したのを見て、彼は
ー「兄弟達よ、神ならびに受難者ボリスとグレープの助力を期待せよ」ーといって兵の指揮を鼓舞し、そのまま突撃をかけました。

 スヴャトスラフの率いる軍勢は、ノヴゴロドの援軍、フセヴォロド大巣公率いる本隊、ロストフの援軍、という構成になっておりましたが、ムスチスラフは中央に猛攻を加え、混乱させることに成功します。槍が折れ、武器が鳴り、雄たけびともうめき声ともなんともいえない声が沸き起こり、巻き上がる土ぼこりで騎兵と歩兵の区別すらつかない激戦が行なわれますが、両者引き分けに終わります。その後は包囲戦に移り、ヴィシゴロドをめぐって7週間攻防が続きます。


 ところがルーツク公のイジャスラフの子のヤロスラフがヴォルニイの地の軍勢を全て率いてやってきました。彼はロスチスラフの一族と話し合い、ベルゴロドのリューリクの下へ出発しました。これ見たスヴャトスラフ方の軍勢は、おそらくこの当時ルーシ最強を誇ったガーリチの軍勢が加勢にきたと考え、ドニエプル河を渡って撤退します。こうして、アンドレイ・ボゴリュプスキーの遠征は失敗に終わりました。


      (註)紫色枠はヤロスラフがキエフ公

 こうして危機が去った後、長上権をロスチスラフ一門に譲り渡し、ヤロスラフがキエフ公となりました。戦いに敗れはしましたが、諦めきれないスヴャトスラフは兄弟と語らってキエフを襲撃し、ヤロスラフは逃走、スヴャトスラフはキエフを掠
奪してチェルニーゴフに去っていきました。しばらくして戻ってきたヤロスラフは略奪された分を取り戻すべく、キエフの住民に税金をかけるというけち臭いことをします。



  〜 6. ボゴリュプスキー暗殺ー政権交代 〜


 さて、この当時選挙などというものはありませんから、不適格と思われる政治家を挿げ替えたいと思ったとき、本人がまったく引退する気がなければ暗殺するしかありません。教会建設に血道をあげ、理不尽な追放例を乱発したアンドレイ・ボゴリュプスキーは結局暗殺されてしまいました。

 1174年、アンドレイ・ボゴリュプスキーにはヤキムという従者がおりましたが、ヤキムは、彼の兄弟をアンドレイが処刑するよう命じたと聞いてしまいました。明日は我が身と思ったヤキムは、酒を飲み、20人の仲間と語らって、二階の公の寝室へむかい、従者の一人のプロコフィーと偽って扉を開けさせようとしましたが、計略が見破られたので、扉を破って寝室へ侵入し、公を剣できりつけ、槍で刺しました。

 こうしてアンドレイ・ボゴリュプスキーを殺害したと思った彼らは一階に避難しましたが、実はまだ生きており、一階に逃げていました。公の死体がないことに気がついた下手人たちは、放置しておけば彼らの身の破滅ですから、隅々まで彼らは公を探し、はしご段の柱の陰に隠れていたところを見つけた彼らはとどめを刺し、こうしてアンドレイ・ボゴリュプスキーは暗殺されてしまいました。