キエフスカヤ・ルーシ(15)

〜〜イーゴリ公遠征物語の時代〜〜





イーゴリ公(1178〜1204)
Князь Игорь Святославич
ポーロヴェッツ人への遠征を行い、失敗する。



 


Российская

История


公国制はこの時代は、もっとも発達しました。各分領公、ロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国系、スモレンスク公国系、ガーリチ公国系、チェルニーゴフ公国系はお互い親戚同士とはいえ、意識としては完全に別の国家であり、ヤロスラフ賢公時代のキエフ公国の統一は完全に忘れ去られてしまいました。

 ユーリー・ダルゴルーキーの息子アンドレイ・ボゴリュプスキーによって先例が示された、北東ルーシ諸公のキエフ公位の執着のなさ、フセヴォロド大巣公があっさりスヴャトスラフのキエフ公位を認めたこと、キエフ公でない、ウラジーミル公だったフセヴォロドに「大公」の称号が使用され始めたこと(つまり、ウラジーミル大公としては彼が初代となります。)などは、北東ルーシという地域の固定化、また、モンゴル襲来後、ルーシの伝統はどの地域に継承されたかという問に関していろいろ問題はあるものの、とりあえずはここだと思われるガーリチ・ヴォルニィ公国などはドルゴルーキーが生きていた頃からもうキエフ公位に執着する気配がなく、このすぐ次の時代、名君ロマン大公の出現でその国威を輝かし、いよいよ南西ルーシと呼んでもおかしくない地域が形成されます。後のガーリチは、トインビーのにウクライナのピエモンテ」と呼ばれたごとく、ウクライナ民族主義の牙城となります。

 もはやキエフ大公は辺境の一公にしか過ぎなくなり、世襲地制が完全に根づき、年若い公子が、行政官の役割と為政者としての修行を兼ねた、さまざまな都市の公を転々とする風習もすたれ、自分の領地で領主に納まればそれで十分という公の増加、これぞまさにルーシの分裂時代の頂点といえます。


 〜 1. ボゴリュプスキーの死後ーロマンの登位 〜

 アンドレイ・ボゴリュプスキーの死後、スモレンスク公国のロマンがキエフにやってきて、1177年、ヤロスラフに代わってキエフ公になりました。しかし、ロマンもキエフにそれほど執着はなかったらしく、スモレンスクへ戻ります。また、その翌年、ロスチスラフの子のムスチスラフがノヴゴロドから呼ばれてノヴゴロド公になります。ノヴゴロドは、自分達の公を自分達で招致するという伝統のある、自治の強い町であることがこのようなところからも窺えます。


 



     この章に登場するリューリク一族の系譜


     (ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)

   ┬イジャスラフ―――ムスチスラフ――ロマン
   |               (ガーリチ・ヴォルニイ公国)
  ├フセヴォロド
   |
  ├スヴャトポルク
   |
  ├ロスチスラフ―――
ロマン――ムスチスラフ
   |(スモレンスク公国) |
   |             ├リューリク┬ウラジーミル
  └ウラジーミル      |       |
                 |      └ロスチスラフ
                 |
                ├ダヴィド(スモレンスク公)

                |
                └ムスチスラフ―ムスチスラフ
                            勇敢公



     (ロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国系)

   ┬
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
    |     |
    |    ├――┬ロスチスラフ
    |    ?    |
    |         ├
アンドレイ―――ムスチスラフ
   |         |
  ・ボゴリュプスキー
    |         |  
    |         ├グレープーイジャスラフ
   |         |
   |         ├ボリス
   |         |
   |         ├ムスチスラフ――ウラジーミル

    |          |(ノヴゴロド公)
   |         ├ヴァシリコ
   |         |
   |         ├ミハイル

   |         |
   |         └
フセヴォロド大巣公
   |
   └
アンドレイ
      |
      ├―――ウラジーミル
      |
    
トゥゴルカンの娘


      (チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)
        (ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国)

   ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ(チェルニーゴフ公国)
    |       |
    |       └ウラジーミル―スヴャトスラフ
    |
   ├
オレーグ
    | |
    | ├┬
フセヴォロド―┬スヴャトスラフ
    | ? |         |
    |  ├
イーゴリ   └ヤロスラフ
    |   |
    |  └
スヴャトスラフ―┬オレーグースヴャトスラフ
    |              |
    |              ├
イーゴリ(*)
    |              |
    |              ├フセヴォロド
    |              |
    |              └グレープ
    |
    |  
* 『イーゴリ公遠征物語』の主人公のイーゴリ公
    |
    |
    | (ムーロム・リャザン公国のオレーグ家系統)
    |
   └
ヤロスラフ―┬ヤロスラフ――ヴラジーミル
             |
            └ロスチスラフ


          (ガーリチ公国)


   ┬
ウラジーミル―ヤロスラフ―┬ウラジーミル
   |                  |
   |                 └オレーグ
   |
   └ロスチスラフ―イヴァン――ロスチスラフ


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 さて、ロスチスラフの子のムスチスラフは、1178年ポロック公国に遠征します。珍しくも記録に出てきたポロック公国ですが、このときの遠征目的は、ムスチスラフの義兄弟であるポロック公フセスラフが、その祖父の時代、ノヴゴロドの貢物納入所を襲って自らものとしたからです。ところが、これを聞いたスモレンスクのロマンは、ポロック公フセスラフを救うべくムスチスラフに使いを送り、もしフセスラフを攻めるならまず私を攻めよといいます。ムスチスラフは敢えて兄に逆らうことをせず、さらに病に倒れてその年の内に死亡し、遠征はうやむやのうちに終わりました。

 1180年、キエフ大公ロマンと、ユーリー・ドルゴルーキーの末っ子フセヴォロド後の大巣公(功なり名を揚げた子孫が多かったためこう呼ばれました。)が小競り合いを行なっており、オレーグ家のオレーグの子のスヴャトスラフは、義兄弟であったロマンに援軍として自分の息子のグレープを送ります。そしてグレープは紛争の地リャザンに向かいますが、その途中でフセヴォロド大巣公に招かれます。いかに助太刀にはせ参じた相手の敵とはいえ、オレーグ家系統もロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国系も、薄く血のつながった親戚ですから、この招きを断るわけには行かず、いやいやグレープはフセヴォロド大巣公の陣営に向かいますが、なんとそこで枷を付けられ、捕虜となってしまいました。

 父親のスヴャトスラフはこの話を聞いて当然怒り、なんとかフセヴォロド大巣公に復讐しようとしますが、前のキエフ大公イジャスラフの片腕ロスチスラフ公と、ユーリー・ドルゴルーキーとの間にはお互い和を誓った経緯がありましたから、ユーリー・ドルゴルーキーの末子フセヴォロド大巣公とスヴャトスラフが干戈を交えようとした場合、ロスチスラフ公の子供たち、ロマン、リューリク、ダヴィドが黙っていない可能性が高いわけです。そこで、横紙破りが好きなこの一族は、スヴャトスラフ自身も、生前のユーリー・ドルゴルーキーと和睦したにもかかわらず、ロスチスラフの子供たちに対し奇襲攻撃をかけることにしました。

 そこで魚をとりながら船でドニエプル河を航行していたダヴィドが襲われ、完全な不意打ちでしたがダヴィドは逃げ切りました。そこで奇襲が失敗したスヴャトスラフは本拠地チェルニーゴフへ逃げ去ります。そしてリューリクはキエフに入城してキエフ大公となりました。ちょうど同じ頃ロマンがなくなり、キエフ大公位は揉め事なく継承されます。リューリクは来るベク戦いに備えて、兄弟、ガーリチ公国のヤロスラフ、フセヴォロド大巣公に援軍を求めます。

 さて、スヴャトスラフは兄弟及びポーロヴェッツ人を集めて演説を行ないます。

 
ー我はヤロスラフよりも年長であり、汝は、イーゴリよ、フセヴォロドよりも年長である。しかして今我は汝等のために父の代わりとして残った。我は、イーゴリよ、汝にヤロスラフと共にこの地に残り、チェルニーゴフ及びおのれの領地全部を守ることを命ずる。しかして我はフセヴォロドと共にわが子グレープを解き放つべくスーズダリに行くであろう、また我等とフセヴォロドとの間のことは神が裁くであろう。ー

 こういってスヴャトスラフはロシア人部隊・ポーロヴェッツ人部隊の軍勢を二つに分け、ロスチスラフの子のヤロポルクと共にスーズダリに向かい、残りをチェルニーゴフの防衛に残しました。この知らせを聞いたフセヴォロド大巣公もリャザン、ムーロム公の軍勢を集め、スヴャトスラフを迎え撃つべく出陣します。両軍はヴォルガ川で遭遇し、戦いが起こります。フセヴォロド大巣公は温和な人物であったので、親衛隊は決戦を主張しましたが、彼はムーロム・リャザン公部隊を派遣します。

 彼等はスヴャトスラフの軍を破り、スヴャトスラフの子のフセヴォロドが援軍を率いてきたり、ムーロム・リャザン公の軍勢を破りますが、結局勝負がつかづ、スヴャトスラフはドミートロフを荒らしながら軍を引き揚げます。

 結局リューリクはスヴャトスラフと和解し、スヴャトスラフが自分より年上であることを考えてスヴャトスラフに長上権を与えキエフ大公位を譲り、自分は実権を保持しすることで決着がつきました。また、フセヴォロド大巣公はグレープを解き放ち、スヴャトスラフと和解し、スヴャトスラフの末子に自分の義妹を嫁がせることで親族となりました。

 1182年、フセヴォロド大巣公は、スーズダリの東に広がるヴォルガ川流域に住むボルガル人と戦争を始めます。スヴァトスラフの加勢も加えたルーシ連合軍は、イザジとというヴォルガ川の島の上に建設された、銀のボルガル人の町を攻めます。これに対し、テムチェジと呼ばれる別のボルガル人が加勢に現れ、イザジに上陸してルーシ軍を攻撃しますが、撃退に成功し、フセヴォロドの甥のグレープの息子イジャスラフが戦死しますが、なんとか勝利を収めます。


  〜 2. イーゴリ公遠征物語ー理由不明の遠征 〜


  …Улетай на крылях ветра
,
  
   ты в край родной
, родная песня наша,

   туда
, где мы тебя свободно пели,

   где было так привольно нам с тобою
.


  …風の翼で飛びゆけ、

   君、ふるさとへ、親しい私達の歌よ

   私達が君を自由に歌い、

   私達と君があんなに自由だったふるさとへ。…


 1185年、ここで必ずしもロシアそのものに興味がない方にも、クラシック愛好家にはご存知の方も多い、あのボロディン作のオペラ、『イーゴリ公遠征物語』のもととなったイーゴリの遠征が起こります。しかし、この歌詞、その後に続く部分も含めると、


  …
Va, pensiero, sull'ali dorate,

   
Va, ti posa sui clivi, sui colli,

   
Ove olezzano tepide e molli

   
L'aure dolci del suolo natal!


  …行け、想いよ、黄金の翼に乗って、

   行け、山へ、丘へ降りよ君、

   ふるさとの土地の甘い風が

   温かくやさしく香るあの場所へ!…


 という、ヴェルディ作の歌劇『ナブッコ』の合唱曲にちょいと似ているような気もします。

 閑話休題、この遠征の話を続ける前に、この遠征に対する私の考えをもう述べておこうと思います。

 まず、私には、正直この遠征にそこまでの必要性があったかどうかよくわかりません。遠征の理由として、しばしばポーロヴェッツ人の脅威が揚げられますが、ポーロヴェッツ人はこの時期のルーシにとってそれほどの脅威だったのでしょうか。たしかにヤロスラフ賢公の三人の息子の時代から、キエフ大公スヴャトポルクとのちにキエフ大公となったウラジーミル・モノマフの二頭体制の時代においては、ポーロヴェッツ人は深刻な脅威でした。ヤロスラフ賢公の三人の息子の時代には、あわやキエフが攻撃されるかというところまでポーロヴェッツ人が攻め寄せたのを、スヴャトスラフが決死の攻撃で彼らを破ってなんとか事なきを得、スヴャトポルク大公の時代にも、戦局が不利な状態で、結局ポーロヴェッツ人側からの押しかけ女房をスヴャトポルクが娶ることで、講和を結びました。

 しかし翻ってこの時代、ユーリー・ドルゴルキーその弟のアンドレイもポーロヴェッツ人から妻を迎えており、ポーロヴェッツ人有力者とロシア諸公との間にはそうとうな血縁関係が出来上がっていました。ポーロヴェッツ人諸侯との関係は単純な敵対関係ではすまないものとなっており、ユーリー・ドルゴルーキ−などは顕著ですが、むしろロシア諸公の争いの助っ人としてポーロヴェッツ人部隊に援軍を求めるパターンが非常に多くなっていました。

 当然この時代、ポーロヴェッツ人の少なくとも年代記に特筆されるような大規模な侵入などなかったわけです。ただ、ポーロヴェッツ人遠征肯定論もありまして、1170年、ポーロヴェッツ遠征を行なったイジャスラフの息子ロスチスラフの話によると、

 
ー「兄弟達よ、ルーシの地を、しかしておのれの父の地及び祖父の地を愛惜せよ。ポーロヴェッツ人は毎年キリスト教徒をおのれの天幕に拉し去る、彼らは我らに誓言を与えるが、常にそれを破っている、しかしてすでに我等からギリシャへの道を、また塩の道及び鉄の道を奪い取ろうとしている。兄弟達よ、神の助力を期待しつつ、おのれの父及び祖父たちの道とおのれの名誉とを敢えて獲得するのはよきことでなければならぬ」ー

 ということが言われています。ともかくこの時代、積極的なポーロヴェッツ人の侵入は鳴りを潜めており、かといって、ウラジーミル・モノマフの行なったようなロシア諸公の連合といった目的も見当たらず、殆ど自分の一家の成員のみでこの遠征は行なわれました。






9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市




 1185年4月23日、イーゴリは弟のフセヴォロド、甥になる兄のオレーグの息子のスヴャトスラフ、息子のウラジーミル、およびキエフ大公の弟ヤロスラフに頼んでオリスチンにも援軍を出してもらい、ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国から遠征を行います。ところがドネツ川に来た際、日食が起こり、不吉な徴だと皆不安がりますが、イーゴリは全ては神のみぞ知る、と片付け、フセヴォロドの軍と合流しました。

 さて、部隊がシュウルリヤ川にさしかかった時、ポーロヴェッツ人部隊に遭遇しました。イーゴリは攻撃命令を下し、イーゴリ軍は勝利を収め、ポーロヴェッツ人の天幕まで押入り、多数の捕虜を得ました。イーゴリは価値に乗ってさらに前進しようと発言し、スヴャトスラフは叔父達に対し、今回の戦闘で、自分の馬の力が尽きたので、このままに遠征すると落伍しかねないと、遠まわしに撤退を申し入れます。

 しかし、フセヴォロドがスヴャトスラフをフォローするとの話で遠征の続行が決まり、一晩泊まることになります。ところが次の日の夜明け、松林のごときポーロヴェッツ人の大群が攻め寄せてきます。そもそも遠征に参加した諸公の人数が少なく、諸公が率いてきた兵の総数も当然少なく、どっちにしろイーゴリ軍にとってはポーロヴェッツ人部隊は大群に見えたでしょう。イーゴリ軍首脳は会議を開き、皆馬から下りて戦いつつドネツ側まで撤退することが決まりました。戦いは、イーゴリまでが左手を負傷するという激戦になります。

 さらに次の日、オリスチン率いるコウイ人部隊が混乱し、壊乱しはじめました。そこでイーゴリは、コウイ人部隊を押しとどめるべく兜を脱いで顔をみせ、自分がイーゴリだと気づいたものが引き返すようコウイ人部隊の方へ行きますが、壊乱はとまらず、やむなく自分の隊へ戻ろうとしたところ、ポーロヴェッツ人部隊につかまってしまいます。

 結局フセヴォロド、スヴャトスラフ、ウラジーミルと、イーゴリ軍首脳の殆どが捕まってしまうという惨敗に終わり、イーゴリは結局コンチャーク汗に自分の娘をウラジーミルに婚約させられる羽目になりました。






イーゴリの敗戦の絵



 ちょうどこのころ、キエフ大公スヴャトスラフはドン河流域のポーロヴェッツ人への遠征を行なおうと兵を集めていました。ところがイーゴリが軍を率いて勝手に遠征に行ったという話を聞いて不快になります。さらにチェルニーゴフに来たった時、イーゴリら全員が捕虜となったという話を聞き、嘆息して、イーゴリの「節度なき血気が」がこの災いを呼んだと悲しみました。

 キエフ大公スヴャトスラフは、有力諸公が捕らえられ、政治的真空地帯となったノヴゴロド・セーヴェルツキー公国に対し子のオレーグとグレープの子のウラジーミルを派遣して安静を計る一方、イーゴリ救出および勝ちに乗じたポーロヴェッツ人のルーシ侵攻に備え、スモレンスクのダヴィドに応援を頼み、甥のフセヴォロドの子のヤロスラフはチェルニーゴフに待機しました。ただ、このポーロヴェッツ人侵攻の危機に関して、ロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国、スモレンスク公国、ガーリチ・ヴォルニイ公国、コロムナ・リャザン公国などは殆ど無関心で、ルーシの一体化の喪失が、このようなところにも見られます。

 さて、ポーロヴェッツ人側ですが、この勝利の勢いを駆ってルーシに攻め入ろうという話が持ち上がり、会議が開かれ、コンチャークは一応はルーシの中心都市であるキエフを攻めようと言いますが、グザはポーロヴェッツ人の捕虜がまだ抑留されているセイム川に向かうよう主張します。結局二手に分かれて進撃することに衆議が決しました。

 コンチャークはキエフに向かって進撃し、キエフへの南側の橋頭堡ペレヤスラヴリを包囲します。そこにはグレープの子のウラジーミルが派遣されており、ウラジーミルは町の外に打って出て戦いますが、多勢に無勢、三箇所に傷を追い、手勢のものに救われて町に逃げこみました。ウラジーミルは、キエフ大公スヴャトスラフ、その子リューリク、スモレンスク公国のダヴィドに使いを発して援軍を求めます。スモレンスクのダヴィドはトリポリまできたものの、スモレンスクの市民が民会を開き、この戦いに加わらない決議をし、それに従ってダヴィドはスモレンスク公国へ帰ってしまいました。しかし、スヴャトスラフはその子リューリクと共に援軍を率いて向かい、これを聞きつけたポーロヴェッツ人はペレヤスラヴリから撤退しました。

 さて、コンチャーク率いる部隊はペレヤスラヴリから撤退した後にリモフの町に攻め込みます。ウラジーミルはスヴャトスラフとリューリクをリモフ救援に差し向けようとしますが、二人は、ダヴィドが心変わりしてまたこちらの軍に合流することを期待して待機していた結果、リモフは陥落し、ポーロヴェッツ人は多くの捕虜を捕らえて帰国しました。一方、グザ率いるもう一方のポーロヴェッツ人部隊はプチーヴリを荒らし、帰国します。

 ポーロヴェッツ人の捕虜となったイーゴリですが、割と丁重に扱われ、全部で20名(そのうち5人はハーンの子です)の監視役兼お付きの者を用意し、また5、6人ほど自分自身の従者を着き従わせることを許可されました。鷹狩も許され、この軟禁生活は長くなると踏んだイーゴリは、自分の礼拝を執り行ってもらう僧侶を呼び寄せますが、脱走の機会は案外早く訪れます。

 ラヴルというポーロヴェッツ人がイーゴリに、一緒に脱走することを唆したのです。最初イーゴリはラヴルを信用せず、誘いに乗りませんでしたが、周りの者達から、ルーシ遠征から帰ったポーロヴェッツ人たちはルーシの人々を生かしておく気はないという話と聞いたとイーゴリを嚇し、イーゴリに脱走を決意させます。ポーロヴェッツ人が酒宴を開き、馬乳によっている晩を狙ってラヴルとともに脱走を決行し、ノウゴロド・セーヴェルツキーにうまく逃げ帰ることに成功しました。


     …兄弟たがいに

      《こは わがもの 

      これもわがもの》

      と ひしめきあい

      公たちは

      小事を目して 《これぞ大事》と

      声荒らげ

      やがてわが身に 返るべき

      諍いの種を播く…



 『イーゴリ公遠征物語』に書かれた一文です。この当時から、ルーシの統一とまでは言わなくとも、少なくとも小国分立による、分裂時代の最大の弊害の一つ、内紛の勃発をなんとかしてくれという声はあったようです。


 
〜 4. ガーリチ公国の発展ー南西ルーシの形成 〜

 1197年、ガーリチ公ヤロスラフが亡くなります。遺言として、オレーグにはガーリチ公の位を譲り、ウラジーミルにはペレムイシリを与えます。生前、ヤロスラフはオレーグをかわいがっており、これに反してウラジーミルは父に言うことを聞かなかったので、この親子間の事情が相続に反映されたもののようです。ところがこれは長子順番制に明らかに反していますから、ウラジーミルはこれに不満を持ったのでしょうか、ウラジーミルは反乱を起こし、オレーグを追い出して、自分がガーリチ公国全土を手に入れてしまいます。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


     (ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)

   ┬イジャスラフ―――ムスチスラフ――ロマン
   |               (ガーリチ・ヴォルニイ公国)
  ├フセヴォロド
   |
  ├スヴャトポルク
   |
  ├ロスチスラフ―――
ロマン――ムスチスラフ
   |(スモレンスク公国) |
   |             ├リューリク┬ウラジーミル
  └ウラジーミル      |       |
                 |      └ロスチスラフ
                 |
                ├ダヴィド(スモレンスク公)

                |
                └ムスチスラフ―ムスチスラフ
                            勇敢公



     (ロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国系)

   ┬
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
    |     |
    |    ├――┬ロスチスラフ
    |    ?    |
    |         ├
アンドレイ―――ムスチスラフ
   |         |
  ・ボゴリュプスキー
    |         |  
    |         ├グレープーイジャスラフ
   |         |
   |         ├ボリス
   |         |
   |         ├ムスチスラフ――ウラジーミル

    |          |(ノヴゴロド公)
   |         ├ヴァシリコ
   |         |
   |         ├ミハイル

   |         |
   |         └
フセヴォロド大巣公
   |
   └
アンドレイ
      |
      ├―――ウラジーミル
      |
    
トゥゴルカンの娘


      (チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)
        (ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国)

   ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ
    |       |
    |       └ウラジーミル―スヴャトスラフ
    |
   ├
オレーグ
    | |
    | ├┬
フセヴォロド―┬スヴャトスラフ―フセヴォロド
    | ? |         |           (赤毛の)
    |  ├
イーゴリ   └ヤロスラフ
    |   |         (チェルニーゴフ公国)
    |   |
    |  └
スヴャトスラフ―┬オレーグースヴャトスラフ
    |              |
    |              ├
イーゴリ(*)
    |              |
    |              ├フセヴォロド
    |              |
    |              └グレープ
    |
    |  
* 『イーゴリ公遠征物語』の主人公のイーゴリ公
    |
    |
    | (ムーロム・リャザン公国のオレーグ家系統)
    |
   └
ヤロスラフ―┬ヤロスラフ――ヴラジーミル
             |
            └ロスチスラフ


          (ガーリチ公国)


   ┬
ウラジーミル―ヤロスラフ―┬ウラジーミル
   |                  |
   |                 └オレーグ
   |
   └ロスチスラフ―イヴァン――ロスチスラフ


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 さて、キエフの実質上の支配者リューリクですが、、大公フセヴォロドに自分の息子ロスチスラフのため、フセヴォロドの娘ヴェルフスラヴァを貰い受けに、グレープを先頭に、有力貴族団を派遣します。実にこのとき初めて、キエフ公以外の公に対し、「大公」という言葉が使われます。したがって、ウラジーミル大公の称号は、このフセヴォロド大巣公をもってその嚆矢とするのが妥当でしょう。ヴェルフスラヴァは当時まだ8歳だったということですが、フセヴォロド大巣公はこれを受け、ヴェルフスラヴァは媒酌人達とともにベルゴロドへ来て、リューリクはそこでルーシにかつてなかったような豪奢な婚礼が行ったということです。

 さて、ここで、ウラジーミルは、

 
ー多く飲むことを好み、おのれの家来達と相談することを好まず、僧侶から妻を奪って、これをおのれの妻とし、彼の息子が二人生まれたー

 と、年代記作者から非難されております。ともかく、当時ウラジーミル・ヴォルインスキー公であったムスチスラフの子のロマンは、ガーリチ公ウラジーミルと縁組しており、自分の娘フョードラをガーリチ公ウラジーミルの息子のもとへ嫁がせていました。つまりは、ロマンはガーリチ公国と縁続きだったのですが、その辺を買われたのでしょう、ガーリチ公国の住民から、ガーリチ公ウラジーミルが、自分の気に入った女ならだれでも手をつけるという苦情を寄せ(『君主論』中で、マキアヴェリが、君主が国を失う理由として深く戒めている行為です。)、これを聞いたロマンは、ガーリチ公ウラジーミルに対し反乱を起こすよう勧めました。

 これを受け入れたガーリチの市民は人をやって、反乱の意思をさりげなくガーリチ公ウラジーミルに伝えます。公に対して反乱を起こすのではなく、僧侶の妻であった現公妃に服従を誓うのがいやなのだと、公は現公妃を殺して、新たに勝手に妃を選んでくれ。と、言われたガーリチ公ウラジーミルは驚き、金銀財宝と家族、親衛隊と共にヴゴル人(ハンガリー人)のもとへ亡命します。フョードラはガーリチの人々の手で捕らえられ、人々はロマンを公に招致します。ロマンはガーリチの公になると、弟のフセヴォロドにウラジーミル・ヴォルインスキーを与えました。

 さて、もとガーリチ公ウラジーミルですが、ハンガリー人の下に逃げ込んだのはいいものの、ハンガリー王に捕らえられ、なおかつ王は軍勢を率いてガーリチに向かいます。不意をつかれたロマンは対抗することができず、ウラジーミルの財産全てを奪い、ガーリチの人とウラジーミル・ヴォルインスキーに逃げ込もうとしますが、フセヴォロドは兄に対し城門を開かず篭城します。そこで、ロマンは妻をヴルーチーに、ガーリチの人々ピーンスクへ送ると、みずからはベルゴロドを領するキエフの実力者リューリクのもとへ行きました。

 ハンガリー王ですが、ガーリチに入城したものの、ウラジーミルを復位させず、ウラジーミルと公妃をハンガリーの塔に閉じ込め、みずからの息子アンドレイ(後のアンドレイ2世)をガーリチ公に据えました。ロマンは最初リューリクから兵をかり、プレスネンスクを攻め取ろうとしましたが、むしろハンガリー王とガーリチの兵に急襲されてうまくいかず、援軍をリューリクの元へ返し、リャフ人(ポーランド人)に援軍を求めます。

 ロマンは、母の弟、つまり叔父のクラクフ大公カジミェシ2世(若い頃はロマンはカジミェシ2世の宮廷で育ちました)から援軍を得ることに成功し、これまた叔父のメシコ(ムスチスラフ)とともにウラジーミル・ヴォルインスキーに向かいますが、やはりフセヴォロドは城門を開こうとしませんでしたので、さらにリューリクに調停を頼むと、リューリクは代わりの都市としてフセヴォロドにドローツクを示し、さらに人を送って脅すことで無理やり納得させました。これにて、ロマンはめでたくウラジーミル・ヴォルインスキー公に返り咲きます。

 さて、1189年、ハンガリー王はスヴャトスラフに使いを出し、ガーリチ公国をキエフ大公スヴャトスラフに譲ることを申し出ます。スヴャトスラフは喜んでこの申し出を受けようとし、こっそりガーリチを自領にしようと息子のグレープをハンガリー王のもとへ送りますが、リューリクがこれを聞きつけ、一体自分に何の相談もせず何をやったのか問い詰められ、結局私事で使者を送ったと言い、スヴャトスラフとリューリク二人でガーリチ公国問題を話し合うためガーリチに向かいました。

 スヴャトスラフはガーリチ公国をリューリクに与え、自分はキエフ周辺全てを支配下におさめることをリューリクに提案しますが、リューリクはこれを断り、そうこうするうちにガーリチの人々はみずからの公を求めてイヴァン・ベルラードニクの息子ロスチスラフを公位に招きます。このとき、

 
ー彼は軽やかにスモレンスクを出発し、ガーリチのウクライナに来たり、二つのガーリチの町を取り、そこから彼等の助言によってガーリチに赴いたー

 つまりは、ウクライナという言葉が初めて年代記中で使われます。ロシア・ウクライナ・ベラルーシ、この三つの民族の別れ道は、まさにこの時代に用意されたのでした。ところが、ロスチスラフのほうはこの後計略にかかってハンガリー人に殺されます。

 1190年、もとガーリチ公ウラジーミルはハンガリーの塔からの脱出に成功します。塔の中には王のための天幕が用意されており、その天幕を細く裂いて紐を作り、その紐を伝って脱出したのです。さらに護衛のうちにウラジーミルに忠実なものが二人いたので、この二人とともに神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世バルバロッサのもとへ逃げ込みました。フリードリッヒ1世はウラジーミルを丁重に扱い、ポーランドのクラクフ大公カジミェシ2世の下へ送り届け、カジミェシにウラジーミルをガーリチ公へ登位させるよう命じました。ウラジーミルはガーリチへ戻ると、フセヴォロド大巣公に頼んでガーリチの支配権を認めてもらい、大巣公はルーシ諸公、ポーランド人の下に使者を送ってウラジーミルのガーリチ支配権を認めさせました。

 1194年には、リャザン諸公への遠征を企画し、フセヴォロド大巣公にその許可を求めていたキエフ大公スヴャトスラフが亡くなります。そしてキエフへリューリクが到着し、聖ソフィア寺院に入り、キエフ大公になります。そして弟であるスモレンスク公ダヴィドをキエフに招き、ルーシの今後の支配を話し合い、ダヴィドはスモレンスクに帰っていきました。

 ところがこれに対し不満をぶつけてきたのがスーズダリのフセヴォロド大巣公です。フセヴォロド大巣公は、トルチェスク、トリポリ、コルスーニ、ボグスラヴリ、カネフを要求し、これはリューリクがもともとロマンに与えた土地ですから、リューリクはこの提案に難色を示し、あわや両者は激突しかねない雲行きとなります。そこで、リューリクは府主教ニキフォルに相談したところ、府主教はとにかくルーシ同士で争ってはいけない、たしかにフセヴォロド大巣公に長上権があるのだから、ここはフセヴォロドの要求をのみ、ロマンには代わりの土地を与えることで問題を解決するよう進言し、結局府主教ニキフォルの提言が実行に移されました。キエフ大公の意思よりも、スーズダリ公の意思が優先されるという、ロシアの政治の重みが北に移動した何よりの証拠でした。

 あたりまえですが収まらないのがロマンです。リューリクはフセヴォロド大巣公の要求を話し、事情を説明しますが、ロマンはチェルニーゴフ公のフセヴォロドの子のヤロスラフの元へ身を寄せ、キエフへ進撃するよう唆します。これに対し、老練なキエフ大公リューリクは、フセヴォロド大巣公に連絡し、警戒を呼びかけます。その上でリューリクはロマンに使いを出し、十字架の契約書をほうりつけ、徹底抗戦の多度を見せ付けました。

 このリューリクの態度に恐れをなしたロマンはポーランド王国に逃れ、協力を要請しますが、カジミェシ2世公正公の子供たちは、自分達の領土を奪おうとする叔父のメシコに対する戦いに勝てば協力するといい、ロマンはこの話に乗ります。メシコは気が進まず、甥と自分の間を仲裁してくれてと頼みますが、それを蹴ってロマンはとの戦いに挑みますが敗れ去り、ロマンの親衛隊が、ロマンをウラジーミル・ヴォルインスキーまで運びました。

 結局ロマンはリューリクに全面降伏し、府主教ニキフォルのとりなしで、リューリクはロマンを許します。


〜 4. 大公ロマンーガーリチ・ヴォルニイ公国誕生 〜

 さて、ロマンはリューリクに降伏したものの、ガーリチの公位をあきらめず、ウラジーミル亡き後、ガーリチの公位を主張し、ポーランド王国の助けを借りて1199年、ガーリチ公の位につくことに成功し、ガーリチ・ヴォルニイ(ウラジーミル・ヴォルインスキー)公国統合に成功したのです。

 これに対してキエフ大公リューリクとオレーグ家の面々は結託し、ガーリチ公国侵攻作戦をねりますが、先手を打ってロマンがキエフに攻めよせます。すると、黒頭巾はロマンに寝返り、キエフの人々はロマンに対し城門を開いてロマンを無血入城させ、リューリクとオレーグ家の面々はキエフの高所に立てこもりますが、抵抗は思いもよらず、やむなくリューリクは降伏、オレーグ家の面々はペレヤスラヴリに返され、新キエフ大公には、ロマンの従兄弟のルーツク公イングヴァリを据えました。こうして、ロマンはキエフに事実上の傀儡政権を打ち立てたのです。

 もちろんこの仕打ちをリューリクは忘れず、1203年にはポーロヴェッツ人を率いてキエフを劫掠します。しかし、最終的にロマンはリューリクを捕らえて強制出家させ、修道院に追放することに成功します。ガーリチ・ヴォルニイ公国を誕生させ、北東ルーシのロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国をにらむ一大勢力を成立させたところで、なぜかロマンは、ポーランド宮廷での幼い頃の遊び友達だった、クラクフ公カジミェシ公正公の長男レシェク白公を攻めますが、逆襲に遭って1205年ポーランド遠征中にザヴィホストで戦死します。あとに幼い二人の息子、4歳のダニールと2歳のヴァシリコが残されました。このダニールこそ、モンゴル侵入後一旦バトゥの軍門に下るも、モンゴル勢力に執拗に抵抗した人物です。






1203年のポーロヴェッツ人とリューリクによるキエフ破壊




 ロマンの死後、リューリクはすぐに還俗して兵を集め、ガーリチへ攻め寄せますが、貴族たち率いた軍勢の反撃にあい、結局ガーリチを攻め落とすことはできず、キエフに戻りました。ダニールはというと、父ロマンと同じくポーランドで育てられました。そののちガーリチの貴族は、イーゴリ公遠征物語のイーゴリの子のウラジーミルをよびよせ、ガーリチ公としました。ロマンの公妃はヴォロダリを連れてウラジーミル・ヴォルインスキーへ逃げ込みますが、そこも安全ではなくなり、ポーランドへ落ち延びます。

 クラクフ大公レシェク白公は、ロマンに対する恨みを水に流し、、ロマン一家を快く迎え、ヴァシリコと公妃を自分の手元に置き、ダニールをハンガリア王アンドラーシュ2世のもとに送りました。そしてロマンの甥アレクサンドルがレシェク白公と同盟を組んでウラジーミル・ヴォルインスキーを手に入れ、あとからイングヴァリも旗揚げしたアレクサンドルに合流して、結局アレクサンドルがベルズを、イングヴァリがウラジーミル・ヴォルインスキーを領有することになります。このとき、ベレスチエの人々がおのれの公にロマンの遺児を求めたので、ロマン公妃はそれを許可します。

 ところが、イーゴリの子ウラジーミルはガーリチを奪取します。そして反攻的な土着貴族を一網打尽にしようと50人の貴族を殺害し、他の貴族は逃げ散りました。そこで生き残った貴族の養育係のヴラディスラフ、スジスラフ、フィリップなどがハンガリーに逃れ、大公ロマンの忘れ形見ダニールを見つけると、ぜひガーリチの公へとハンガリー王に頼みます。許可を得たガーリチの貴族たちはダニールを押し立てて町に向かい、スヴェニゴロドを降伏させ、ウラジーミルはガーリチから逃げ出し、ダニールは晴れてガーリチ公となります。

 ところが、ロマンの公妃が、クーデターを起こしたヴラディスラフなどと対立し、ガーリチから追放されます。これに関してロマンの公妃の義理の姉妹であるハンガリー王が怒り、軍を率いてガーリチに攻めよせ、ヴラディスラフ、スジスラフ、フィリップらを逮捕します。このドサクサに紛れ、ムスチスラフがガーリチを占拠します。ところがハンガリー王はヴラディスラフを解放し、ハンガリー王アンドラーシュ2世世自ら軍を率いてガーリチを攻撃、ヴラディスラフも攻撃に参加し、ムスチスラフはガーリチから逃亡、ヴラディスラフがガーリチを占拠します。

 しかし、ロマンの公妃は二人の子どもと共にポーランドへ亡命し、そこでレシェク白公に歓待されます。レシェク白公は、当時リューリクからキエフ大公位を奪ったスヴャトスラフの子のフセヴォロドと同盟してガーリチを攻めます。ヴラディスラフは打って出ますが敗れ去り、結局ガーリチはポーランドとキエフの勢力化に入ります。これに対しハンガリー王が異議を唱え、出兵しますが、ズピシ条約が結ばれ、レシェク白公の娘がコンラト・マゾヴィエツキの息子にお輿入れすることで和議が結ばれ、アンドラーシュ2世はガーリチに自分の息子アンドラーシュを送りこみ、ポーランドのレシェク白公はペレムイシリとリュバチェフを領有しました。こうしてガーリチはポーランドとハンガリーに分割されてしまったのです。結局ダニールとヴォロダリにはウラジーミル・ヴォルインスキーが与えられました。

 ところが1212年、ハンガリー王アンドラーシュ2世はペレムイシリとリュバチェフをポーランドから奪い、それに対し怒ったレシェク白公はノヴゴロド公ムスチスラフをガーリチ公になるよう勧め、これはうまくいきましたが、こんどは成長したダニールがレシェク白公から全ウクライナを奪い、レシェク白公は反撃しますが見事に撃退されてしまいました。

 また、1211年、アンドラーシュ2世は対ポーロヴェッツ人防衛の要として、チュートン騎士団団長、ヘルマン・フォン・ザルツァを領内に招きいれ、チュートン騎士団はトランシルバニアへ移住しプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として与えられました。のちに周辺各国を悩ますチュートン騎士団の初ヨーロッパ入りです。

 レシェク白公はダニールのウクライナ侵攻がムスチスラフの示唆によるものと考え、ムスチスラフをガーリチから追い出すべくハンガリー王から軍勢をかり、ガーリチに侵攻しました。ムスチスラフは応援を求めダニールもこれに参加しますが、多勢に無勢、ムスチスラフは敗れ去り、ダニールもウラジーミル・ヴォルインスキーへ退却します。

 1215年、リトアニア諸公が和議を結びにダニール、ヴォロダリ、ロマンの公妃の下に訪れます。リトアニアの名前が始めて年代記に登場する場面です。ポーランド、リトアニア、ウクライナ、チュートン騎士団、次のモスクワ大公国時代を代表する勢力は、もうこの時代の終わりに出揃っていたわけです。1221年にはダニールとヴァシリコが共同でベルズに出兵し、大量に捕虜します。また、1223年にはホルムの町をダニールが建造しました。

 ここで、1224年、実力を増したチュートン騎士団は、ハンガリー王国からの独立を目指して、団長へルマンが、ローマ法王ホノリウス3世に頼んでプルツェンラントを教皇直轄領として宣言させました。この、軒を借りて母屋を奪うような行為に当然ですがアンドラーシュ2世は激怒し、1225年、チュートン騎士団をトランシルバニアから追放しました。しかし、チュートン騎士団はポーランドのマゾフシェ公国に招かれ、バルト海沿岸のプロイセンの異教徒防衛を請け負います。

 そんななかにも、モンゴル軍の侵入の大波は、ひたひたと押し寄せていたのでした。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー



   
・『ポーランド・ウクライナ・バルト史』
    伊東孝之 井内俊夫 中井和夫
     山川出版社


   ・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
    レーベジェフ 編・除村吉太郎 訳
     原書房

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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