キエフスカヤ・ルーシ(17)

〜〜ポーランド・ハンガリーとの交渉〜〜



ダニール公(ガーリチ・ヴォルニイ公国)
Даниил Романович
1201 〜 1264 年 モンゴル人支配に執拗に抵抗


Российская  
  История


 うしてルーシ諸公は、非常に悪い言い方を許させていただければ、ある特定の大公、あるいはその大公の一門に対し、えこひいきじみた書き方をすることも感じられる年代記作者でさえ、「前代未聞の敗北」と描写せざるを得なかった敗北を喫します。チンギス=ハーンの死でモンゴル人は一旦は去っていきましたが、モンゴル人たちにとってはこれは終わりではありませんでした。少なくとも、メルキド部の血が流れているのでは、と疑われ続け、モンゴル帝国ハーン位継承レースの蚊帳の外に置かれ続けたジュチの子のバトゥはそうは考えておりませんでした。バトゥは自分の確固たる所領、ひいては自分の子孫達の所領をもとめるべく、チンギス=ハーンがその生前約束した「モンゴル鉄騎の馬蹄にかける」までの所領を西方に、つまりはロシアにもとめようとしていたのです。

 津波のごとく押し寄せ、潮が引くごとく返っていくのが遊牧民族の習いですから、モンゴル勢力も、掠奪さえ終わればまた荒野のかなたに去っていくとルーシ諸公が考えたのも無理はありません。しかし、残念ながら、相手は文字通り前代未聞の軍隊だったのです。さて、このカルカ河の敗戦の1223年から、バトゥの西征の1237年の十余年間をルーシ諸公が以下に過ごしたか、追っていきたいと思います。


 〜1. 南西ルーシーハンガリー、ポーランドの交渉〜

 ドーソンの『蒙古史』の記述が正しければ、称号は勇敢公でもカルカ河でやったことは卑劣だったムスチスラフ勇敢公(Мстислав Удалой)は、ダニールの従兄弟のアレクサンドルにそそのかされ、ダニールを攻めます。泡を食ったダニールはポーランドへ逃げ、レシェク白公から援軍を借りてムスチスラフの軍勢に立ち向かい、両群は激突、耐え切れずにムスチスラフはガーリチに逃げ込みます。ダニールはガーリチの付近を荒らし、ヴァシリコは多くの馬を戦利品として持ち帰ります。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


     (ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)

 ┬イジャスラフムスチスラフロマンダニール
  |                 |      |
  |                |      └ヴォロダリ
  |                |
  |              └フセヴォロド―アレクサンドル
  |
  |               (ガーリチ・ヴォルニイ公国)
 ├フセヴォロド
  |
 ├スヴャトポルク
  |
 ├
ロスチスラフ―――
ロマン―――ムスチスラフ
  |(スモレンスク公国) |
  |             ├リューリク┬
ウラジーミル
 └ウラジーミル      |       |
               |      └ロスチスラフ
               |
               ├ダヴィド(スモレンスク公)

                |
               └ムスチスラフ―
ムスチスラフ
                            
勇敢公


     (ロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国系)

   ┬
ユーリー手長公(スーズダリ公国)
    |     |
    |    ├――┬ロスチスラフ
    |    ?    |
    |         ├
アンドレイ―――ムスチスラフ
   |         |
  ・ボゴリュプスキー
    |         |  
    |         ├グレープーイジャスラフ
   |         |
   |         ├ボリス
   |         |
   |         ├ムスチスラフ――ウラジーミル

    |          |(ノヴゴロド公)
   |         ├ヴァシリコ
   |         |
   |         ├ミハイル

   |         |
   |         └
フセヴォロド大巣公――
ユーリー
   |
   └
アンドレイ
      |
      ├―――ウラジーミル
      |
    
トゥゴルカンの娘


      (チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)
        (ノヴゴロド・セーヴェルツキー公国)

   ┬
ダヴィド―┬イジャスラフ
    |       |
    |       └ウラジーミル―スヴャトスラフ
    |
   ├
オレーグ
    | |
    | ├┬
フセヴォロド―┬スヴャトスラフ―フセヴォロド
    | ? |         |           (赤毛の)
    |  ├
イーゴリ   └ヤロスラフ
    |   |         (チェルニーゴフ公国)
    |   |
    |  └
スヴャトスラフ―┬オレーグースヴャトスラフ
    |              |
    |              ├
イーゴリ(*)
    |              |
    |              ├フセヴォロド
    |              |
    |              └グレープ
    |
    |  
* 『イーゴリ公遠征物語』の主人公のイーゴリ公
    |
    |
    | (ムーロム・リャザン公国のオレーグ家系統)
    |
   └
ヤロスラフ―┬ヤロスラフ――ヴラジーミル
             |
            └ロスチスラフ


          (旧ガーリチ公国系)


   ┬
ウラジーミルヤロスラフ―┬ウラジーミル
   |                  |
   |                 └オレーグ
   |
   └
ロスチスラフ―イヴァン――ロスチスラフ


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 さて、アレクサンドルは策謀を止めようとせず、アレクサンドルの話によってムスチスラフ勇敢公は義理の父のコータン汗からポーロヴェッツ人の軍勢を集め、さらにキエフ大公でリューリクの子のウラジーミルらを加勢にたのみ、リャフ(ポーランド)と激突する構えをみせます。と、ここで、こんな大戦争を起こす前に事情を確かめようと、ムスチスラフ勇敢公の天幕付近で諸公を集め、アレクサンドルが使わした使者ヤーニに申し開きをさせます。すると、結論は、アレクサンドルが問題を煽っているだけであるということになり、ムスチスラフはダニールと和解しました。

 さて、ムスチスラフ勇敢公は自分の妹の娘をハンガリー王子アンドレイに娶わせ、ペレムイシリを与えましたが、そのアンドレイがウゴル(ハンガリー)人のところへ脱走し、戦争の準備を始めます。1226年、ベーラ四世の指揮下ハンガリー軍はペレムイシリを攻め、そこを占領すると、今度はガーリチに攻め寄せました。ムスチスラフは軍を率いると自ら出征し、ハンガリー軍を打ち破り、ガーリチからハンガリー軍を追い払うことに成功します。






9世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市




 このときポーランドのクラクフ大公レシェク白公がアンドレイ2世を救援にやってきますが、ダニールはこれを妨害し、レシェク白公も子どもの頃から自分の宮廷で育ったダニールと干戈を交えるのが嫌だったのでしょう、ダニールとヴァシリコの送った使者に説得されてブーグ河からポーランドへ引き返しました。さて、戦闘が終わり、論功行賞が行なわれましたが、スジスラフに「もしダニールに土地を与えたらダニールの一族が永遠にガーリチに根づいてしまう」と言われ、ムスチスラフ勇敢公はその言葉に従い、ダニールとヴォロダリはまたも恩賞をもらえず、結局無言のムスチスラフ(Мстислав меной)が自分の世襲地を与えました。

 ところが1227年、ルーツクの公ヤロスラフがダニールを自領へ招きます。そのとき、ダニールは軍隊を伴ってルーツクに侵入し、ヤロスラフ夫妻を捕らえます。ルーツクの町は篭城の構えを見せますが、ダニールとヴァシリコが到着した際、門を開いて降伏しました。さらにムスチスラフ勇敢公に頼んでチャルトリースクを占領することを許可してもらった上で、チャルトリースクを夜中包囲し、突撃をかけて町を占領してしまいました。

 しばらくしてムスチスラフ勇敢公がなくなり、翌年ポーランドのクラクフ大公レシェク白公も殺害されます。レシェク白公の下の弟マゾフシェとクヤーヴィの大公コンラト・マゾヴィエツキはダニールとヴォロダリに友好を示します。このコンラト・マゾヴィエツキは、プルシ人(プロイセン人)の進行に手を焼き、アンドレイに追い出されたチュートン騎士団をポーランドに招きいれた人物です(結果的に言えばチュートン騎士団は、ポーランドにとってプルシ人とは比較にならないほどの脅威となります)。

 1229年、コンラト・マゾヴィエツキはシロンスク公老ウラジスラフに対する遠征に助力してもらえるようダニールとヴォロダリに頼み、二人はこの話をうけ、ウラジーミルにビーンスクの守りを託し、領地を出発します。すると、ルーシ発のリトアニア人の侵攻が起こりました(ウラジーミルはリトアニア人撃退に成功します)。ダニールとヴァシリコは兵を率いてコンラト・マゾヴィエツキに合流し、水堀で囲まれたカリシの町を攻めます。しかし、三人は善戦し、結局カリシから人質を取って町と講和することに成功します。

 と、そのガーリチの人々が、ダニールに、ガーリチからスジスラフがいなくなり、のこるはハンガリー王子アンドレイだけだ、今のうちに帰国してガーリチ公になってくれという要請が入りました。そこでダニールはガリーチに到着しましたが、町の意見も一枚岩というわけではないらしく、城門が閉ざされままでした。ガーリチの貴族やウラディスラフなどが加勢にやってきて、包囲戦となり、やがて町は開城しました。こうしてダニールはガーリチを手に入れ、父の創出したガーリチ・ヴォルニイ公国を再興することができたのでした。そして、ハンガリーのアンドラーシュ王子とスジスラフを解放します。

 さて、ハンガリー王国ですが、ベーラ王子に(後のベーラ四世で、モンゴル人に攻め込まれ、国土の回復等に苦労したハンガリー王です。)にスジスラフが、将来強大な勢力になるであろうダニールを今のうちにつぶすべきだと吹き込まれ、軍勢を率いてガーリチを包囲します。ダニールはコーチャン汗のポーロヴェッツ人とポーランド人を援軍に頼み、ベーラ四世はベゴヴァルス汗のポーロヴェッツ人を援軍に率いていました。この包囲は失敗し、ハンガリー王は兵をまとめて引き上げました。

 ところがよほど独立心旺盛だったと見えるガーリチ貴族の陰謀が起こり、ダニールの従兄弟アレクサンドルが中心となってヴィーシニャでダニールを殺害する計画が練られましたが、千人長のデミヤンの通報でダニールは難を逃れ、この計画は失敗します。ヴォロダリも暗殺されるところでしたが、ダニールからの急使により、事なきを得ます。今度はダニールが軍を率いて貴族たちに向かい、アレクサンドルはハンガリーへ逃走します。

 スジスラフはさらに策謀をつづけ、今度はハンガリー王アンドラーシュ2世に軍を編成させることに成功し、アンドラーシュ2世はベーラ、アンドラーシュを率い、まずヤロスラヴリを攻めます。ヴォロダリが篭城軍総大将で激しい抵抗が続きましたが、持ちこたえられずヴォロダリはヤロスラヴリを放棄して撤退します。

 さて、ヤロスラヴリを陥落させたアンドラーシュ2世はガーリチへ向かい、ガーリチでは内部で貴族が裏切ってあっさり陥落、いよいよウラジーミル・ヴォルインスキーへ向かいます。ここでアンドラーシュ2世は
ー「かかる町を我はニェーメッツ(ドイツ)人の国々においても見なかった」ーと言ったといます。この町を守備していたのはミロスラフですが、彼はダニールとヴァシリコの許可なくハンガリー王と講和してしまいます。この講和により、アンドラーシュ2世はベルズとチェルヴェをアレクサンドルに与え、王子アンドラーシュはまたもガーリチ公に返り咲きます。

 とこで、キエフ大公ウラジーミルから、赤毛のフセヴォロドの子のミハイルがキエフへ兵を動かしたので、援軍に来てくれという要請が来ます。このチェルニーゴフ公ミハイルとは、のちにバトゥ汗に、チンギス=ハーンの定めたモンゴル人の最高法規ヤサに従うよう命じられたのを拒否して斬首された人物です。ともかく、ダニールは二人の間に講和を斡旋するため、キエフ方面に向かいました。

 と、このときを待っていたのでしょうか、1232年、ハンガリー王子アンドラーシュはダニールに向かって兵を進め、ベロベレージェに向かいました。そこで、返す刀でキエフ大公ウラジーミルとダニールはアンドラーシュを迎え撃ちに南西ルーシに向かいます。それを知ったアンドラーシュは一旦引き返したものの、ヴェリヤ河のあたりでダニールの軍勢に追いつかれましたので、両社は交渉しましたが、談判は決裂し、戦闘は避けられないものとなりました。

 ダニール側の軍勢は千人長のデミヤン、弟のヴォロダリ、ミロススラフで、アンドラーシュの側はベルズ公アレクサンドル、スジスラフなどです。結局この戦闘ではダニール側が勝利を収めました。そこで翌1233年、アンドラーシュとスジスラフは軍司令官デオニシーを連れて出陣し、これに対し、ダニールはコチャ―ン汗のポーロヴェッツ人とムスチスラフの子のイジャスラフを連れて出陣しました。ところがイジャスラフは裏切りをかまし、どさくさにまぎれてチムホリを占領し、自領へ返ります。それでも戦闘を開いたダニールはアンドラーシュ率いるハンガリー軍を破り、アンドラーシュはガーリチに撤退します。

 と、この辺であまりにも負け続ける公に対して不安を感じたのでしょうか、ガーリチ有力貴族のゼレメイの子のグレープがダニール側に鞍替えし、手ごたえを感じたダニールとヴァシリコはガーリチに向かうと、多くの貴族たちが彼等を迎えました。そこでダニールはガーリチ周辺の土地を奪ってガーリチ貴族達に与え、ガーリチを兵糧攻めにします。これにはアンドラーシュ、アレクサンドル、スジスラフも音を上げて撤退し(アンドラーシュはしばらく後に亡くなります。)、ダニールはガーリチ奪取に成功しました。スジスラフはハンガリー王のもとへ逃げ、アレクサンドルはキエフ公を頼って逃げますが、ダニールに追跡され、捕まってしまいました。

 さて、キエフ大公ウラジーミルは占領なったガーリチに使いを送り、ダニールと友好関係を維持します。ダニールもこれに答え、キエフ大公ウラジーミルの要請でダニールは連合軍を組み、赤毛のフセヴォロドの子ミハイルをキエフから追い出します。ダニールは返す刀でこれまた敵対的なムスチスラフの子のイジャスラフを叩くべく、チェルニーゴフ公国まで攻め入り、多くの町を奪った後、チェルニーゴフにカタパルトをすえつけて攻撃し、十分脅しておいたのちにキエフへ撤収しました。

 ところがイジャスラフは諦めず、ポーロヴェッツ人と手を組みます。イジャスラフと連合したポーロヴェッツ人部隊はキエフを襲い、多くの人々を捕虜にします。退路を立たれたダニールは身を隠して森林地帯を抜けて帰途に着こうとします。しかし、ウラジーミルはこんな軍隊がキエフ付近に居座っておられては困ると思ったのでしょう、正面突破を懇願し、ミロスラフも賛成したので、ダニールは承諾し、軍勢を進めます。

 ポーロヴェッツ人はトルチェスクで待ち受けており、壮絶な戦いになり、ダニールは自分の馬を殺されますが何とか脱出に成功しますが、キエフ大公ウラジーミル及びミロスラフが捕虜となります。

 ダニールは慌ただしくガーリチに返りますが、現金で二股膏薬なガーリチの貴族たちは早くも裏切りを画策し、イジャスラフとポーロヴェッツ人がウラジーミル・ヴォルインスキーに攻め込んできたという偽情報をダニールに流し、それを信じたダニールが、兵を率いさせたヴォロダリをウラジーミル・ヴォルインスキーに派遣したとたんに反乱を起こし、ガーリチからダニールを追い出します。ダニールは一旦ハンガリー人の下へ逃げ、ヴォロダリはポーランド人から援軍を借り、ダニールと合流してガーリチに向かいますが、付近を掠奪したのみで去っていきました。

 1235年、雪辱戦とばかりにダニールはガーリチの人々とカーメネッツで戦い、勝利を収めます。ミハイルとイジャスラフはダニールと戦うべくコンラト・マゾヴィエツキ率いるポーランド人、ポーロヴェッツ人の援軍を率いてやってきますが、ポーロヴェッツ人の援軍はダニールと戦おうとせず、ガーリチ付近を荒らして撤退し、それをみたミハイルもガーリチへ帰り、コンラト・マゾヴィエツキもポーランドへ帰国して結局連合軍は解散しました。

 ダニールはガーリチを取り戻すべく町を包囲しますが攻めあぐね、周辺の土地を荒らした後、ガーリチと和睦します。一旦目の前の敵と講和しておいてから、ダニールの領地ドロギチンを占領した帯剣騎士団(リヴォニアのキリスト教布教を目的として結成された騎士団です)を攻撃し、さらにリトアニア大公ミンダウガス、ノヴゴロド公イジャスラフと同盟を結んでポーランドのコンラト・マゾヴィエツキを攻めました。

 しばらくしてハンガリー王ベーラ四世の戴冠式があり、ダニールとヴォロダリはこれに出席します。スーズダリの大公ユーリーの弟ヤロスラフ(モンゴル人支配下で初めてヤルルイクを授かってウラジーミル大公位につきました)がウラジーミルからキエフを奪いますが、やがてミハイルがキエフをさらに奪います。ミハイルは息子のロスチスラフをガーリチに送ります。

 ところが、ロスチスラフはリトアニアの攻撃に向かい、ガーリチを留守にしました。これを幸いとダニールは、がら空きとなったガーリチへ急行します。ダニールはガーリチの人々に自分を公として迎え入れるよういい、主教アルテミーたちは人々を押さえようとしましたが、無駄であり、ダニールはまたもガーリチ公としての復帰を遂げました。

 この出来事から3年後、バトゥの西征が始まります。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー



   
・『ポーランド・ウクライナ・バルト史』
    伊東孝之 井内俊夫 中井和夫
     山川出版社


   ・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
    レーベジェフ 編・除村吉太郎 訳
     原書房

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー