キエフスカヤ・ルーシ(8)
〜〜ヤロスラフ賢公の三人の息子の時代〜〜

イジャスラフ スヴャトスラフ フセヴォロド
Изяслав Святослав Всеволод
1024-1078
1027-1076 1030-1093
ロシア最初(?)の「トロイカ体制」
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Российская |
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| ー話説す、天下の大勢は分かるること久しければ必ず合し、合すこと久しければ必ず分かる。ー 内紛に見まわれつつも最盛期をむかえたキエフ大公国の前にさした不吉な影が、1061年、ヴォルガ川、ドニエプル川の間の平原を越え、ルーシに初めてに姿を現したトルコ系遊牧民族ポーロヴェッツ人−половец(平原の民、の意), −です。ビザンチン側からはクマン、モンゴル側(つまりはペルシャ人史家)からはキプチャクと呼ばれました。 |
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カスピ海に注ぐヴォルガ川下流の東西に広がる地域は地図をみると平原になっておりまして、古来ヤス人、モルドヴァ人、ボルガール人、バシキール人などの遊牧民族を育てた豊かな水草地帯であり、この地は11世紀のペルシャ人史家から「デシュト・イ・キプチャック」と称されていました。 当時ユーラシア大陸中央部では、モンゴル系の契丹(中国名遼)が益々勢力を張り、東トルキスタン辺りにまでその触手を伸ばしていましたから、彼らに圧迫された遊牧民が大挙して西へ押し寄せており、もともとシベリアのイルトィシ、オビ川辺りに住んでいたと思われるトルコ系のポーロヴェッツ人も、彼らの圧迫でだんだんに西に移り、とうとうロシアに姿を現したものと思われます。 変わり身の早いビザンチン帝国はさっそくポーロヴェッツと同盟してペチェネグ人を挟撃し、ペチェネグ人はこの後没落します。ポーロヴェッツの略奪・隊商襲撃により、キエフ公国繁栄のかなめともいえる、コンスタンチノープル−黒海−カスピ海−メルプ−サマルカンド通商路を撹乱されたキエフは徐々に衰えていくことになりました。 当時分裂傾向の強まっていたルーシはポーロヴェッツ人の襲撃を一丸となって防ぐことが出来ず、最終的にはポーロヴェッツ人の撃退に成功したものの、のちに恒例となった土地争い(支配都市争い)に、ポーロヴェッツ人勢力を抱き込むということさえ起るようになっていました。何でも飲み込むスラヴのバイタリティーともいえないことはないですが、内紛の解決に外部勢力を導入するのは極めて危険なことです。 通商ルートの荒廃による経済の沈滞化、対遊牧民族軍事費の膨張、軍事費をまかなうため不況下にもかかわらず断行されたであろう増税(銭がないと何もできません)、このような原因が重なりキエフ大公国はルーシ全体への指導力を少しづつ失っていきます。 さらにキエフ公国自身の問題として、オレーグ公やイーゴリ公の時代とは比べ物にならないほど領域も広がり、農耕が定着し始め人口も増加したキエフ公国の統治方法の不備があります。この問題が浮上し、露骨に表面化したのがこの時代です。 例えば税制をとってみても、国家というより部族集団といった方が適切であった時代では、イーゴリ公のような巡回徴貢でも十分だったかもしれません。しかし、国家の領域が広がり、婚姻などを通じて諸外国と国交を開くほどキエフ公国の規模が拡大した時代でに、これでは満足な税の徴収は望むべくもありません。 キエフ公国の規模をこのまま維持したいのなら、なんらかの内政改革、もしくは新しい行政組織の整備が必要だったはずです。たとえば、徴税なら、まずは人口調査を実施し、戸籍をつくり、全住民と納税(徴兵も)可能な人数を正確に把握し、ついで徴税業務を遂行するための税務署のような組織をつくり、役所の運営のために地方豪族を地方公務員に任命する、といった風にです。 しかし、ルースカヤ・プラウダ等にみられる法律の整備は行なわれたものの、私の見る限りではそういっためだった行政改革は行なわれたようにはみえません。 そうすると、自然の流れとしては、キエフ公国は、現在の行政機構では広大すぎて統治できない領土を分割統治、言い換えれば、分領公国の発達による、キエフ公国の解体という手段で統治するという方向に、否応なしに進んでいくことになります。 〜 1. ヤロスラフの三人の息子の時代 〜 ヤロスラフ賢公の死後、キエフ大公位は彼の三人の息子イジャスラフ、スヴャトスラフ、フセヴォロドの三兄弟に順に受け継がれます。 |
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この章に登場するリューリク一族の系譜 ヤロスラフ | ├――┬ウラジーミル――ロスチスラフ―┬ヴァシリコ | | | イリーナ | ├ヴォロダリ | | | └リューリク | | ├イジャスラフ――┬スヴャトポルク | | | └ヤロポルク | ├スヴャトスラフ―┬グレープ | | | ├オレーグ | | | ├ダヴィド | | | ├ロマン | | | └ヤロスラフ | ├フセヴォロド | | | ├――――┬ウラジーミル・モノマフ | | | | | └ロスチスラフ | | | ビザンチン帝国皇女 | ├イーゴリ――――ダヴィド | └ヴャチャスラフ――ボリス 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
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さて、恒例のキエフ公国公子の配置決定ですが、イジャスラフがキエフ公となり、スヴャトスラフはチェルニーゴフへ、フセヴォロドはペレヤスラヴリに、イーゴリはウラジーミルに、ヴェチェスラフはスモレンスクに派遣されました。もっともヴェチェスラフは夭折したので、イーゴリがウラジーミルからスモレンスクへ配置転換となります。 長男のイジャスラフはキエフ公国の中心地キエフでルーシ全体を統治し、次男のスヴャトスラフはキエフの南東の玄関チェルニーゴフ、つまりはキエフに東から攻め入る敵はここで防ぐ極めて重要な戦略要地に配置し、キエフの北を守るペレヤスラヴリに南の三男のフセヴォロドが固め、キエフの中枢は上の三兄弟が抑えます。 そして四男のイーゴリはルーシの北東の中心都市ウラジーミルに据え、ヴャチャスラフはルーシの西の境スモレンスクを収めます。さらにリューリク一族がルーシに初めてやって来た際根拠地とした商都ノヴゴロドは今は亡き長男ウラジーミルが治めていました。 この三兄弟時代の最大の問題はやはりポーロヴェッツ人の侵攻です。初のポーロヴェッツ人の侵入の際には、講和して事なきを得たのですが、1061年2月2日、ソカルというポーロヴェッツ人の公がルーシの地に侵入します。今度はフセヴォロドが軍を率いて迎え撃ちますが、敗れてしまいます。 この侵攻は威力偵察だったのでしょうか、ソカルはフセヴォロドを破った後に、しばらくルーシを荒らした後去っていきます。これが、実質上ポーロヴェッツ人の初のルーシ侵攻でした。 そして、広すぎるキエフ公国の統制もとれなくなっていたのか、ポーロヴェッツ人に敗れたキエフ公国首脳を見くびったのか、ポロック公国のフセスラフがノヴゴロドを略奪し、キエフの覇権に楯突きます。三兄弟は軍を率いて出陣し、ミンスクを占領、さらに前進を続けてネミガ河畔でフセスラフの軍と衝突します。三兄弟はフセスラフを破り、フセスラフは逃亡します。ここで三兄弟は姦計をめぐらし、十字架に口付けして、「われらのもとに来たれ、汝に対し悪をなさないだろう」と誓います。そこでフセスラフはこれを信用し三兄弟のところへやって来ますが、イジャスラフは誓いを破ってフセスラフを逮捕し、二人の息子とともに彼を監禁しました。 〜 2. ポーロヴェッツ人の勝利とキエフ占領の危機 〜 ところが、1068年、今度は大勢のポーロヴェッツ人がルーシへ襲来します。三兄弟は出陣し、レタ川で激突しますが、またもポーロヴェッツ人が勝利をおさめ、ルーシ諸公はちりぢりとなり、イジャスラフ公とフセヴォロドはキエフに逃げ、スヴャトスラフは自分の支配地域チェルニーゴフまで逃げ延びます。キエフではキエフ公国軍の敗北とポーロヴェッツ人の侵入の報に騒然となっており、人々は民会を開いて「いまやポーロヴェッツ人が国中に散った、公よ、武器と馬を与えよ、ーなお彼等と戦おうではないか」と言い、イジャスラフ公に徹底抗戦をもちかけます。 が、イジャスラフ公は耳を貸さず、それならば、ということで民衆は司令官コスニャーチコの家に押し寄せますが、彼を発見できませんでした。十字架にかけた誓いを破った天罰でキエフ公国軍が敗れたと解釈したかれらは牢獄へむかい、先ほど捕らえられたフセスラフを解放し、そののちイジャスラフ公の館の略奪に向かいます。もやは内乱状態となったキエフには危険だと思ったのでしょう、無責任にもイジャスラフ公とフセヴォロドはポーランドへ亡命し、フセスラフが一時(七ヶ月間)キエフ公となりました。 勢いに乗るポーロヴェッツ人はチェルニーゴフまで攻めよせました、ここが落ちればキエフまでの防衛拠点は何もありません。スヴャトスラフは、己の生まれついた身分の職責と義務を果たすべくわずかばかりの親衛隊を集め、ポーロヴェッツ人と戦うためチェルニーゴフから出撃しました。ポーロヴェッツ軍はキエフ公国軍を見ると戦闘隊形をとり、スヴャトスラフは「攻めかかろう、もはやわれわれに隠れる場所はない」、と部下を激励し、自ら馬にまたがり決死の突撃を敢行しました。この攻撃は辛くも功を奏し、ポーロヴェッツ人は破れ、スヴャトスラフはチェルニーゴフへ凱旋します。 このスヴャトスラフの勝利がキエフ公国の起死回生の一撃となり、ポーロヴェッツ人をルーシから追い払うことができました。 イジャスラフ公は亡命先のリャフ(ポーランド)の王ボレスラフとともに新キエフ公フセスラフ攻撃へと向かいます。フセスラフはイジャスラフ公へ向かって出陣しますが、夜の闇にまぎれてポロックへ逃亡しました。そこでキエフでは民会が開かれ、スビャトスラフとフセヴォロドへ使節を派遣して、自分達の行為は間違いであった、もう一度イジャスラフにキエフに戻って欲しい、もしそれがいやなら町を焼いてギリシャに行ってしまおう、との意を伝えます。 そこでスヴャトスラフとフセヴォロドが仲介にはいり、ポーランド人を連れて入らず、怒りを納めて町を滅ぼすようなことをしないよう説得し、イジャスラフ公はわずかなポーランド人とボレスラフ王のみをともなって町に入ります。ところがイジャスラフ公は町を滅ぼしこそはしなかったものの、イジャスラフ公の息子達がフセヴォロドを開放した人々70人を皆殺しにし、他は盲目にし、最期に無関係な人も巻き添えを食わせて殺してしまいました。 イジャスラフはさらにポーランド人を闇討ちし、ボレスラフは残った手勢とともにポーランドへ帰国せざるを得ませんでした。そしてポロック公国のフセスラフを追放し、新ポロック公に息子のムスチスラフを派遣します。ところがムスチスラフが早世してしまったで、その兄弟でのちにキエフ公となり、ポスト三兄弟時代を築くスヴャトポルクをポロック公として派遣しました。もっともスヴャトポルクは戦いに破れ、フセスラフにあっさりポロック公国を奪われます。 ごたごたが収まったところで、スヴャトポルクに殺害されたボリスとグレープの墓をイジャスラフがあらたに建立した教会に移すことが決定されました。この儀式には府主教ゲオルギー(ルーシの人イラリオンと異なりギリシャ人です)、ペチェルスキ−修道院長フェオドシー、各地の主教など宗教界の大物があつまり、厳かに儀式は行なわれました。まつりもまつりごとも、どちらも為政者には重要なことです。 〜 3. 三兄弟の離反ー兄弟垣に鬩ぐ 〜 これでキエフ公国の内外安定か、とおもいきや、共同で国を治めていた兄弟の間で1073年内乱が起こります。きっかけはスヴャトスラフがフセヴォロドと組んでイジャスラフ公に対抗したことでした。このスヴャトスラフの行動は、彼がイジャスラフの統治能力と戦闘力に失望したか、今回のポーロヴェッツ人襲来のキエフ混乱を回復した功勲一等は自分だと考えたからでしょう。 スヴァトスラフはフセヴォロドをイジャスラフ公にけしかけ、イジャスラフ公はたまらずキエフを脱出します。そして財産と妻を連れてポーランドに逃げ、財宝で兵を集めようとしますが、先ほどのボレスラフに対する無礼のおかげで財産や妻を奪われた挙句ポーランドから追放されてしまいます。そしてキエフではスヴャトスラフがキエフ公になりました。 しかし、わずか足掛け3年でスヴャトスラフはなくなり、かわってフセヴォロドがキエフ公につきます。ところがどういう手段をとったのか、イジャスラフ公はなんとかポーランド人部隊を集め、キエフに向かうことに成功しました。フセヴォロドはヴォルィニまで出かけていってイジャスラフ公に忠誠を誓い、イジャスラフ公は意外に度量の大きなところを見せ、フセヴォロドを許してこれにて兄弟同士の悶着は一件落着となります。 が、中央の混乱は必ず地方に波及します。ここで先にキエフ公となったスヴャトスラフの息子オレーグと、ヴャチスラフの子ボリスがポーロヴェッツ人を引き入れフセヴォロドに攻撃を仕掛けてきたのです。これはキエフ公国内部の問題に外部勢力のポーロヴェッツ人を引っ張り込んだ初めであり、悪しき先例として、基本的に後世に問題を残すことになりました。 ボリスの父ヴャチャスラフはもともとスモレンスクに配置されていましたが、スモレンスク公の後釜には、のちにウラジーミル・モノマフと称される未来のキエフ公ウラジーミルが座り、オレーグの場合も、イジャスラフのキエフ帰還後は、もともと父スヴャトスラフの封じられたチェルニゴーフにフセヴォロドが居座る、という状態でした。つまりは二人はともども「無足の御家人(土地のない武士)」化し、このまま朽ち果てるならいっそのことポーロヴェッツと手を結んでやれ、という気になったのでしょうか。 オレーグはこの後、何度も何度もキエフの覇権に楯突いて戦争を起こしますが、起こした戦争が(基本的には土地争いではあるのですが)が一つの糸つながっていないようで、私にはいまいち読めず、単に血の気の多い騒ぎ好きな人物だったのかな、という気もします。このオレーグの血の気の多さを引いたと思われる彼の孫こそが、のちにボロディンのオペラにもなったかの有名な「イーゴリ公遠征物語」の主人公イーゴリ公です。 「イーゴリ公遠征物語」中でイーゴリは、功名心のため無茶な遠征を計画し、ルーシに敗北を招いたと非難されていますが、この一族のいくさ好きと反乱好きを考えますと、遠征の原因は、功名心のような立派なものでなく、たんに刺激のあることが大好きで、なかなかの才能があるのだが、一貫性がかけているため全ての行動が単に火花を散らすだけに終わってしまうという性格がなしたものだと思えてなりません。 もっとも偉大な詩人にインスピレーションを与え、後世中世ロシア文学の傑作と表される作品が残るきっかけを与えたのはそれでロシアに対するすばらしい貢献です。 話を戻しまして、二人の叔父のフセヴォロドはソージ河に出撃し、ポーロヴェッツ・ルーシ連合軍を迎え撃ちますが、やはり強力なポーロヴェッツ人には勝てず、オレーグとヴャチャスラフはそのままチェルニーゴフを占領します。これをそのまま放置しては置けませんから、今度はイジャスラフ公は息子のヤロポルクを連れ、フセヴォロドは息子のウラジーミル・モノマフを連れてチェルニーゴフに進撃します。オレーグはこのままでは四人の公を相手に多勢に無勢、他の伯父を頼ろうといいますが、ボリスは抗戦を主張し、結局二人は四人の公と戦うことに決めます。 戦いはネヂャーチナ畑で行なわれ、激戦となり、混戦のさなか一方の最高指揮官の一人ボリスが殺され、さらにキエフ公イジャスラフ公が、馬に乗った敵兵の一人に肩の後を槍で突かれて死亡します。結局勝利の女神はキエフ公側に微笑み、オレーグはわずかばかりの親衛隊とともに脱出し、フセヴォロドが勝利者となりました。 このときのシーンは「イーゴリ公遠征物語」の中に以下の様に描き出されています。ボリスの驕りとは、オレーグが多勢に無勢だと主張したにもかかわらず、自らの力を恃んで開戦に踏み切ったことを指します。 … 傲りゆえ 神の審判を蒙ったは ヴャチャスラフの子 ボリス 若く勇ましき オレーグ公をば 辱めた その報いに 経帷子に 包まれて 荒野の青草に 見を横たえた。 その同じ 青草から スヴャトポルク(イジャスラフの息子)は 二頭のマジャール馬の 間に載せて 看取りつつ 亡き父を キエフなる 聖ソフィアの 御堂へ運んだ … イジャスラフ公の死をキエフ中に人々が悲しみ、彼の棺をキエフ中の人が向かえ、大いなる慟哭と涙の中で聖歌すら聞こえなかったといいます。イジャスラフの次男ヤロポルクは、親兵隊とともに泣きながらその葬列に従い、こういったといいます。 −「父よ、わが父よ! 何ゆえあなたはこの世に悲しみなしには生きなかったのか、人々および己の兄弟たちから多くの災禍を受けたのか?あなたは弟によって身を滅ぼしたのではなく、己の弟のために命を捨てたのだ」− ついでフセヴォロドがキエフ公位につきました。フセヴォロドは息子ウラジーミルをチェルニーゴフに、ヤロポルクを(都市の)ウラジーミルに配置します。さらに、スヴャトスラフの息子ロマンと一緒にキエフに攻め寄せたポーロヴェッツ人と和睦し、事態の収拾を図りました。ちなみにロマンはのちポーロヴェッツ人に殺害されます。 その後ヤロポルクはフセヴォロドに反抗しようとしましたが、派遣されたモノマフの軍の前にポーランド(リャフ人の地)へ逃亡し、ウラジーミルと和睦してルーシに戻りますが、ネラーデェッツに刺し殺されて横死し、フセヴォロドは病気で亡くなりました。 このように三兄弟は紛争を起こしますが、なんとか力を合わせキエフ大公国を統治、その合間に三兄弟は側近と集まり「ヤロスラフの子らの法典」と称される法律集を編纂します。これにより、彼らは、破壊と流血による人的・物質的損害を避けられない武力による解決ではなく、穏健な法の裁きによる解決を奨励することで、上下の無秩序状態を少しでも回復しようと努力したのです。 ともかく、ヤロスラフ賢公の子供の世代が全員この世をさり、次には彼の孫の時代、スヴャトポルク、ウラジーミル・モノマフの時代がやってきます。 |