キエフスカヤ・ルーシ(14

〜〜ノヴゴロドの繁栄〜〜



ノヴゴロドの紋章、大ノヴゴロド卿
Герб Новгорода, Господин Белький Новгород
1136 - 1478


中世的都市国家として自治

 


Российская

История


 

央権力の不在は地方分権をもたらし、都市国家の隆盛をうみます。室町幕府崩壊後の戦国時代の堺、法王庁の神聖ローマ皇帝に対する勝利で強力な世俗の統一国家の成立しなかった中世イタリア都市群、ロシアではキエフ大公国の力の低下によるノヴゴロドがこれにあたります。

 



    〜 1. ノヴゴロドの地理的な環境 〜

 1096年にキリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から奪い返そうという十字軍の戦火は、これまでのシルクロードの重要通商路の一つであったサマルカンド−メルプ−バグダード−アンチオキア通商路を通行不可能にしました。

 また、ポーロヴェッツ人の侵略により、サマルカンド−メルプ−カスピ海−黒海−コンスタンチノープル通商路も治安の悪化した危険な通商路となりました。これで、シルクロードのメイン交易路のうちの2本が事実上使用できなくなったのです。

 そこで新たに「北海・バルト海−北ロシア−黒海・カスピ海北部−オトラル−サマルカンド通商路が開拓され、北海・バルト海での海上輸送が安全におこなわれるよう、北欧・ドイツ諸都市が加盟するハンザ同盟が成立します。ノヴゴロドは1278年、このハンザ同盟加盟都市となったのです。ちなみに付近のハンザ加盟都市としては、リガ、ドルパトなども挙げられます。





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世紀〜13世紀のルーシ
赤丸は当時の主要都市


 



 土地がやせて農業に不向きであり、さらに「ヴァリャーグからギリシャへの道」といわれる古くからの南北ルートの通過点でもあり交通の便の良かったノヴゴロドは、もともと商都として栄えていましたが、キエフの分裂と新たな通商路の成立により、自治都市としての性格をより確固たるものにします。


   〜 2. ノヴゴロドの民会と自治獲得の歩み 〜

 ノヴゴロドでは、民会および参事会が発達しました。この民会は1126年が最初となる市長官(行政)の選出、千人長(軍事・警察)の選出、条約締結、法律審議などをノヴゴロド公の許可なく行うという、ロシアでは珍しい共和国の国会のような存在でした。そして参事会が実際のノヴゴロドの執行機関です。






ノヴゴロドの町並み



 どんどん力を増していったノヴゴロドは、1138年、当時のノヴゴロド公フセヴォロドを追放し、代わりにオレーグの子のスヴャトスラフを招致するなど、公の選出まで民会が握ることとなりました。ちなみに、この時はもともとノヴゴロドの一部であったプスコフが追い出されたフセヴォロドをプスコフ公として招き、プスコフはノヴゴロドの派遣から脱し、独立の行動をとるようになりました。

 1161年、ノヴゴロドはさらに大胆な行動に出ます。当時ノヴゴロド公であったダヴィド、キエフ公ロスチスラフの子のスヴャトスラフを相次いでノヴゴロド公の地位から追放し、スヴャトスラフの方は市民に捕らえられて丸木小屋に監禁され、公妃は修道院に押し込められ、公の財産は没収されてさらにスヴャトスラフはラドガ湖まで流される羽目になりました。このときは、ノヴゴロド市民の要請を受けたアンドレイ・ボゴリュプスキーの甥のロスチスラフの子のムスチスラフをノヴゴロド公に据えることで話がまとまりました。

 自らの公に対してもここまでの行動をとるノヴゴロドに対して、招致されたノヴゴロド公の権力は当然制限されたもので、市長官の同意なく統治し、裁判権を振るうことが許されておらず、通関税や免税居住区の自由な設定が禁止されておりました。ノヴゴロド公はノヴゴロドに定着することのないよう、公の役所と居館は都市郊外の旧市街(ガラジーシシェ)におかれ、公と家族、その従者のノヴゴロド領内での土地財産の取得が禁止されていました。さらに、ノウゴロド公としての職能は、彼がノヴゴロドにとどまっている期間限りにおいてであって、一旦モスクワだのその他の都市に赴任すると直ちに職能を失うということが規定されていました。そのノヴゴロド公が不在の時に備え、ノヴゴロド公よりは格下の勤務公なる公もノヴゴロドは任命していました。

 ノヴゴロド公の主な役割は、軍事司令官と裁判官です。商業を基盤とする自治都市はたいがい軍事的に弱体で、たとえばルネッサンス期のイタリア諸都市は傭兵隊長と契約を結んで自国の都市の防衛を任せています。一応ノヴゴロド教会の編成による、「大主教による軍旗」という騎馬隊、緊急事態の場合、市民を動員した歩兵隊を組織することがありましたが、やはりその道のプロに頼むのが無難ということで、ノヴゴロド公もまさに傭兵隊長のような役割を果たしていました。ついでノヴゴロド公は裁判も行ないますが、これはノヴゴロド公はよそ者でしたから、第三者のよる公正な判決を期待されてのことでしょう。

 ノヴゴロド公は雇われ人ですから当然報酬は払われますが、その報酬はノヴゴロド本土ではなく、ノヴゴロド属州からの収入で、その他裁判手数料、ノヴゴロド公の使用に供する狩猟地および猟漁地が割り当てられます。

 さらに、1156年にはノヴゴロドは主教の選出まで民会が口をはさむようになり、政教分離もある程度まで達成してします。この傾向は、ノヴゴロド大司教エウフィミイ2世の時代決定的なものになりました。話ははるか200年後になりますが、1429年、エウフィミイ2世がノヴゴロドの民会でノヴゴロド大主教に選出されます。ところが当時のモスクワ府主教フォチイはこれを認めず、ノヴゴロド大司教座は空位のまま、1431年、フォチイは亡くなります。

 翌年話は変わりまして、モスクワ大公国と中心とするロシア東部の主教会議はリャザン主教イオナをモスクワ府主教に推薦し、リトアニア大公国はゲラシム主教をモスクワ府主教に推薦します。裁定はコンスタンチノープル総主教の手にゆだねられ、結局ゲラシムがモスクワ府主教に任命されました。ところがロシア側はこの決定に従わず、ゲラシムを拒否したため、ゲラシムはスモレンスクに落ち着くことになりました。このゲラシムがノヴゴロドの民衆の要求で、1434年、エウフィミイ2世をノヴゴロド大司教に任命したのです。

 ところが1434年、ゲラシムがリトアニア大公によって火刑に処せられると、モスクワ府主教が空位となり、新たにモスクワ府主教として任命されたのが、トルコの猛攻の前にビザンチン帝国の運命も風前の灯となり、当座医療教会の合一もやむなしと、ローマン・カトリックの洗礼を受け枢機卿となったギリシャ正教の修道僧イシドロスでした。

 さすがにこの人事(信仰厚い正教徒にとってはイシドロスは背教者にしか見えなかったでしょう)は当時のモスクワ大公ヴァシーリー2世も正教の民衆も受け入れず、そこで1448年、モスクワ大公国の東部ロシアの主教会議は独断でリャザン主教イオナをモスクワ府主教に選出します。このとき、エウフィミイ2世は、さすがに主教会議には出席しませんでしたが、ともかくイオナ支持を表明します。イオナは、エウフィミイ2世にモスクワ府主教位を認めてもらう代わりに、エウフィミイ2世ノヴゴロド大主教位を認め、こうしてノヴゴロドは、既成事実を認めさせ、自らが選出した大司教を自らが据えるという伝統を残したのです。

 「都市の空気は自由にする」の格言の通り、市民の(少なくとも建前は)直接統治による、俗界の君主・神の国の権力の排除は、都市国家の特徴です。というか、いろいろ調べていきますと、神の国の権能の、俗界の権力に対する優越を掲げて世俗の権力と向こうを張ったローマン・カトリックに対して、東方正教会はかなりしおらしいです。ビザンチン・ハーモニーと呼ばれる東方正教会の考え方、イエス・キリストが人にして神、神にして人であって、両者は分離できない、とするニケア・コンスタンンチノープル信条(ローマン・カトリックの呼称はクレド)の考えのように、皇帝といえども精神世界では一人のキリスト教徒、総主教といえども俗界では帝国の臣民、両者は分かちがたく混じりあい、ともに助け合うことで神の国も地上の国もともに栄えることができるという考え方のなせる技でしょう。

 あるいはローマン・カトリックの神の国の地上の国への優越の考え方(聖アウグスチヌスの「神の国」とかまさにそれです)は、歴史的に言えば、現在のローマン・カトリック、当時のローマ司教座は、ゲルマン諸族の侵入で西ローマ帝国が崩壊し、東ローマ帝国が生き残った東方キリスト教世界と異なり、世俗の盾を失ってしまいました。しかも旧西ローマ領になだれ込んだそのゲルマン人たちは、自分たちが第一回ニケア公会議で否定したアリウス派キリスト教徒に改宗しておりまして、彼らからの助力も期待薄でした。教会を守る世俗の腕を求めて、時に神聖ローマ帝国に寄り添うことでビザンチン帝国の介入を防ぎ、神聖―マ帝国の力が法王の選任にまで及ぶほど強大になった時は皇帝と戦うことで自らの独立を守らざるを得なかったローマン・カトリックの避けがたい運命だったのでしょうか。


      〜 3. ノヴゴロドの市民生活 〜

 さて、ノヴゴロドの支配地域は5つの州(ヴォツカヤ州、オポネジスカヤ州、ベジェツカヤ州、デレフスカヤ州、シェロンスカヤ州)と属州(ザヴォローチェ)に分かれており、ノヴゴロド市は、ヴォルホフ川で二分され、北側はプロトニツキー区、スラヴェンスキー区、南側はネレフスキー区、ザゴロツキー区、リュジン(ゴンチャルスキー)区の5つの区に分けられており、川に隔てられた南北二つの市街は、ヴェリーキー・モスト(偉大橋)でつながれておりました。ヴェリーキー・モストのたもとの南側の市街には、大抵の他のロシアの都市と同じくクレムリンがあり、クレムリンの城壁の中にはソフィア大聖堂がありました。また、ヴェリーキー・モストの北側のたもとには、ヤロスラフの館の跡があり、民会広場、市場などがありました。

 こうした市民たちの本業である商業ですが、ドイツのハンザ商人の商館に、イヴァン商人団なるギルドのような団体まで存在していたことが知られています。また、ノヴゴロド市近辺の中核部分が5つの州から構成されており、この周辺に存在する土地が属州とよばれます。

 ノヴゴロドから西方に輸出される蜜蝋の計量は、このイヴァン商人団のメンバーのみ許されており、その際に手数料をとることができたことが、イヴァン商人団の最大の特権でした。

 イヴァン商人団のメンバーとなる資格は、50グリヴナ(1グリヴナ=銀約408g)の銀を支払うことと、千人長(市民代表)にラシャを納めることであり、この権利は世襲させることもできました。

 また、考古学的な発見として、ノヴゴロドからは白樺文章と呼ばれる、白樺の皮をうすくはいだものを(白樺の皮でできた、羊皮紙より安価で手軽に使えた紙です。セルゲイ・ラドネジスキーが、高徳の生活を送っていたことを証明する伝承として、「大いなる清貧と無欲に甘んじていたから、至福なるセルゲイの修道院では本でさえ羊皮紙には書かず、白樺樹皮に書いたのである」と、宗教思想家ヨシフ・ヴォロツキーが語っているそうです)、紙の代わりに使用したものも出土しています。ピサロと呼ばれる骨や鉄でできた、先のとがった棒で、白樺の皮を引っかいて作った文章です。






ピサロ/писало

これを使って白樺文章が書かれました。



 その中には、商業文、遺言状、商売人にとって必要不可欠だった読み書き学習用ノード、らくがき(1956713日と14日に発見された文章類・絵は、オンフィムという少年が書いたものと見られまして、文字の練習、完全なる子どもの落書き、債権取立て書類の練習などがあります。)なども含まれており、当時の市民生活がしのばれます。また、現ロシアの通貨単位ルーブルの名前が始めて登場するのもこのノヴゴロド出土の白樺文章中です。

 ノヴゴロドはその後もロシア最強の都市国家として存続し、1478年、イヴァン3世により、モスクワ大公国に併合されるまで自治を守り続け、その後もながらくロシア第一の自治都市としての地位を保ちました。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『白樺の手紙を送りました』
    V.L.ヤーニン 著 松木栄三・三浦清美 訳
     山川出版社


   ・『東西ロシアの黎明』
    G.ヴェルナツキー 著
     風行社


   ・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
    レーベジェフ 編・除村吉太郎 
     原書房


   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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