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〜 1. キエフ劫掠後 〜
このようにルーシの地にすさまじい破壊の嵐をもたらしたバトゥの侵攻でしたが、翻って、モンゴル語によるチンギス=ハーンの一代記、「元朝秘史」のルーシ占領の記事を探してみると、偉大な歴史書は簡潔さが特徴ですが、それにしても以下のような簡潔なものです。
−「…エジル、ジャヤグ、メゲドの城塞を破り、オロス人達を破り、燃え尽きるまで平らげた。…バトゥはキブチャグ長征途上から、オゴティ・カハンに使者を以て言上し遣るのに、永の天神の力にて、カハンなる叔父上の威福にて、メゲド城塞を下し、オロス人衆をたいらげ…」−
しかもこののち、酒宴の席でバトゥが皇子の最年長者であることを理由に一番先に酒を飲んだことに対し、グユクとブリが不満をもって退席した、とモンゴルの帝国内部反目の兆しに話の焦点が移っていきます。モンゴル人にとっては、ロシア侵攻はそこまで苦労した戦いではなかったのでしょうか。
さて、こうして「タタールのくびき」時代が幕を開けました。しかし、正直に言わせてもらえばこの時代は「タタールのくびき」というより「タタールによる安定」といったほうが適切な時代であると僕は考えます。確かにハーンの決定に逆らって殺害されたミハイルなどの公もおり、徹底的な破壊をまぬかれなかったトヴェーリなどの都市もありますが、僕の調べた限りでは、巷で言われているほど件数は多くはありません、というか少ないです。しかも後に述べることとなるトヴェーリ公国の破壊は、私の見るところ、最初からヤルルイクに素直に従っておけば何の問題もなく解決していた事件です。むしろこの事件のキプチャク汗国の役割は、モスクワ公国とトヴェーリ公国の喧嘩の尻拭いです。
モンゴルは、侵攻当初は徹底的な破壊を行いますが、いったん支配下に入ればもう味方と考えて反乱等のいかんともしがたい場合を除き弾圧政策だの同化政策だの、そういったものはまったく採らなかった民族です。むしろ、モンゴル侵入以前のルーシの歴史、ヤロスラフ賢公の死後、スヴャトポルク公の時代に開かれたリューベチの諸公会議以降(キエフ公国版ウェストファリア条約)、解体が公認されたキエフ公国の、実に2世紀近くにわたる、絶え間ない親戚同士の治める公国間の骨肉の戦乱の歴史、その間に流された血を考えると、断然モンゴル時代の方が安定して平和といえます。
見方を変えれば200年近くかけてもルーシの力ではキエフ公国を統一することができず、もたもたしているから外部勢力がルーシを統一して内訌に終止符を打ち秩序を回復した、ともいえます。モンゴル統治時代を軍事力による単なる弾圧の歴史としか考えないのは、モンゴル以前のルーシの2世紀にわたる内乱時代、相攻伐すること歴年の時代を考えない、あるいは知らないが故、といえましょう。
したがって、このモンゴル統治は、大変申し訳ない言い方を許していただければ、ロシア最初の統一王朝が、スウェーデンからやってきたリューリクによって開かれたと伝えられることがいみじくも示すごとく、ロシアは外国人、もしくは国内少数民族が統治したほうがうまくいく、という例の一つではないのでしょうか。ドイツ人の血の方が濃いツァーリが統治し続けたロマノフ王朝、少数民族出身者あるいはその影響のきわめて濃い人物の書記長・政治局員の続いたソ連時代を考えると、これはロシア史のセオリーといっても過言ではないと思います。
しかし、だからといってこれはロシア人がやる気がないとか、そういったことではまったくありません。多民族国家はえてしてこのようなものです。たとえば同じくユーラシアの多民族国家、オスマン・トルコ帝国などを考えて見ますと、ハレムにトルコ人を入れることを禁止したためほとんどトルコ人の血が混じらないスルタンがトルコを治め、デウシルメ制度でキリスト教徒の子息を徴用し、イスラム教に改宗した彼らのうち賢いものは宮廷に上がってのちに大臣となり、そうでないものはイェニチェリ部隊に編入されてトルコ陸軍の中心となっていました。つまり、オスマン・トルコは、国名はトルコといいながら実は支配階級はほとんど非トルコ人、という国家でした。つまり、能力あるものはどんな民族であろうが登用し共同体の統治にあたらせるのは多民族国家の優れた特徴なのです。この点は、わが日本にとっては非常に示唆に富む話です。
アドリア海に達したバトゥは、1242年モンゴル帝国の第二代ハーン、オゴタイ=ハーンの死を聞くと、全軍に作戦停止を命じ、ロシア以西の領土を放棄してオゴタイの長男グユクらをクリルタイへ向かわせました。
しかし、バトゥ自身は、チンギス=ハーンの長男である自分の父親ジュチが、生前約束されていた「モンゴル鉄騎の蹂躙しうる限りの西の土地」、つまりポーロヴェッツ(キプチャック)人の地、にバトゥ自身の、ひいてはジュチ一門の支配権を確立するため、ロシアにとどまることになります。もっとも、1236年、オゴタイ=ハーンから贈られて、中国の山西省の平陽府にも領地がありましたが。
キプチャック汗国はジュチの子達が治めるウルス(モンゴル語で自らに隷属する民と封土のことで、かれらの采領のことです)の連合国といった風であり、サライを中心とするキプチャック汗国の西半分はバトゥが治め(金帳汗国)、東半分は兄弟のオルダが(白帳汗国)、ザカフカースはベルケが治め、シャイバンは現カザフスタン付近(青帳汗国)を治めることになりました。バトゥは直接兄弟のハーン国に宗主権すら及ぼさなかったようですが、権威としてはもっとも上で、バトゥの後継者達がヤルルイクの最上段に名前を冠す権利があったということです。
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この章に登場するチンギス=ハーン一族の系譜
チンギス―ジュチ
├――┬―オルダ(白帳汗国)
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├―バトゥ(金帳汗国)
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| ├――――┬―サルタク
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| | ├―トゥガン
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| コンギラト
└―ウラグチ
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├―ベルケ
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├―シェイバン(青帳汗国)
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└―トカチムール
トゥカチムールの高名な子孫としては
キプチャック汗国最後のハーントフタムィシ(但し自称)
クリミア汗国初代ハーン、ハジ・ギレイ、
カザン汗国初代ハーン、ウルグ・モハメッド
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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遊牧民族は、冬や天候不順による不作時に大挙して農業国家になだれ込み、食料を奪い、奴隷として売り払うため人をさらうと、そのまま騎兵のスピードを生かし、一面に広がる追跡不可能な荒野のかなたにすばやく撤退してしまうのが常でした。
しかし、このモンゴル人たちは征服地したロシアにとどまり、彼らの国家を作り上げるという行動に出ました。つまり、ロシアは破壊の限りを尽くしたモンゴル軍に居座られることとなったのです。
キプチャック汗国はのちにイスラム教を国教とし、ここに史上「タタールのくびき」といわれる時代の到来を見ます。このキプチャック汗国の支配は約220年の永きに渡ることになりました(シッチ河畔の戦いで戦死したユーリー大公の弟ヤロスラフが、1243年、キプチャク汗国の首都サライで、バトゥにウラジーミル大公位を認められてから、1462年、モスクワ大公国大公イヴァン3世が、周辺の汗国の許可を取らずにモスクワ大公に即位するまでを、私は「タタールのくびき」と考えています。)。
キプチャック汗国のロシア統治の大まかな枠組みは以下のとおりでした。
まず、南西ルーシは、モンゴルの直接の脅威にさらされているハンガリー・ポーランドが南西ルーシ諸公に対し、陰に陽に援助を与えたため、モンゴルに対し反抗的でした。南西ルーシの覇者であるチェルニーゴフ公身ミハイルなどが、ハンガリー・ポーランドへの亡命を受け入れてもらえるなどがその例です。したがってこの地域の完全服属は時間がかかり、バトゥの次にハーンとなった早世したサルタク=ハーンの次のハーン、ベルケ=ハーンの時代にルーシ全土のモンゴル支配が完成します。
ロシア諸公はその地位を認めてもらうため、土地問題のその他もろもろの紛糾の決裁を仰ぐために、はるばるカラコルム(現モンゴル共和国の首都ウランバートル付近)のハーンの元へ伺候し、ヤルルィクと呼ばれる特許状を下賜されることにより公の地位を認められることとなります。
後年、フビライ=ハーンが独断専横で開いたクリルタイで、ハーンの地位につきます。これに対し四方のハーン国がいっせいに反発し、広大な蒙古帝国が決定的に5つのハーン国(キプチャック汗国、イル汗国、チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、元)に分裂してからは、キプチャック汗国の首都サライのハーンの元に伺候すればよいこととなりました。
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13世紀〜15世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
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〜 2.プラノーカルピニのモンゴル旅行 〜
さて、先ほども登場したプラノーカルピニのジョヴァンニ修道士ですが、この時代のモンゴル帝国についての貴重な記録を残してくれた彼について少し詳しい説明をしたいと思います。
ワールシュタットの戦いの後、1243年インノケント4世が法皇に即位しました。そのときモンゴル軍はヴォルガ川以東に去っていましたが、モンゴルの小部隊はロシア・ポーランド・ハンガリーの国境地帯に、まだ出没していました。
そこで、リヨンで開かれた宗教会議でインノケント4世はモンゴル人対策を議題に取り上げ、断食と祈祷、モンゴル軍に対する防備強化とともに、モンゴル人へ使節を派遣することが決議されました。
というわけで、フランチェスコ会修道士で、スペイン(1230年、管区長として)やチュニスで勤務した経験があり、異教徒についての知識ももっているであろうとの理由から、当時ケルンの管区長をつとめていたプラノーカルピ二に白羽の矢が立ち、かれが托鉢修道会の修道士で編成された対モンゴル法王庁使節の長をつとめることになりました。
アッシジの聖フランシスコとほぼ同年に生まれたとされているため、おそらくこのとき60歳近い年齢であったと思われますが、托鉢と途中のキリスト教徒の有力者の援助のみでバトゥの本営を目指すという困難な旅を行なうこととなったカルピニは、1245年4月15日、リヨンを出発し、ドイツのブレスラウでモンゴル人に会ったことのあるというポーランドの僧侶ベネディクトスをともない、更に旅を続けます。
さて、一行はドイツをぬけ、ポーランドに入り、さらにロシアへ到ってウラジーミルに到着します。ところが当時のウラジーミル大公ダニール(初代モスクワ公とは別人)はバトゥのもとへ出かけて不在でした。
更に旅を続け、先ほどのべたキエフの惨状を目の当たりにします、キエフ通過から二日後、カニエフという町につき、
そこで遊牧中のモンゴル人に会い、誰何されますが、ハーンに会いに行く旨を伝えると、そのまま通過を許されました。
1246年夏、いよいよ当時バトゥが本陣をしいていたヴォルガ川に到着しました。ここで使節の目的を問われましたので、法皇の親書を手渡し、ラテン語→ロシア語→ペルシャ語→モンゴル語、の順で翻訳され、バトゥに手渡されました。
カルピニによると、バトゥはハンガリー人から奪ったというリンネル布製の巨大な天幕のなかにしつらえられた王座につき、傍らには妃の一人が侍っていました。大官は天幕中央の長いすに座り、下級役人は大官の背後に地面に、男は右、女は左、という順で座っていました。
テーブルの上には様々な酒の入った金や銀の杯が置かれ、バトゥが杯を取り上げるたびに楽師が音楽を奏でたということです。モンゴル人の主だった諸侯は、特に人前で飲むときは歌を歌わせ、音楽を奏でさせたそうです。
結局バトゥから許可をもらったカルピニは、カラ・コルムにむけて更に旅を続けることになります。
〜 3.モンゴル人の初期ロシア統治政策 〜
モンゴル人が後世のロシア人に残した最大かつ決定的な制度上の遺産は、徴税・徴兵制度と駅伝制度です。時代が多少前後しますが、この二つについての説明を続けたいと思います。
1257年、フビライ=ハーンの女婿キタトが「ダルガチ」としてロシアに着任しました。
このダルガチは、課税対象人数の正確な把握ということで人口調査、駅伝制の定着、課税・徴税・徴兵、秩序維持の役割をになっていました。そして彼のもとで、おそらくロシア初の全国的な人口調査が行なわれました(目的は太閤検地と同じです)。
その結果、ロシアの住人は、ノウゴロドとその周辺地域および聖職者を除いて、十戸(10人の兵力を供給できる集団)・百戸・千戸・万戸の単位に分類され、課税台帳に記載されました。この人口調査の伝統はモスクワ・ルーシまで引き継がれ、ツァーリの住民把握に大きな力となります。ヨーロッパの文化技術がロシアよりはるかに容易に流入し、ポーランドやリトアニア、あるいはナポレオン率いるフランス軍のヨーロッパに比べ、軍事技術がそれほど進んでいたとは言いにくいロシアが、倒しても倒しても湧き出てくるロシア軍の数量で、最終的にしばしば軍事的優位を保てたのは、この人口調査で兵員をきちんと把握できた伝統のおかげであると思われます。
ヨーロッパで人口調査が始まったのは、革命後、軍事を殆ど独占していた貴族階級が崩壊し、兵役が古代のように上流市民のみならず、国民全体の義務という考えが芽生えため、兵役可能な国民数の正確な算出のためです。したがって、ロシアの人口調査はヨーロッパに比べ、極めて先んじていたものであるといえます。ちなみに、もともと兵役用に集めたこのデータですが、それだけではもったいないと言うことで、各種の国民調査にも使用されることになります。すると、膨大な数字の統計的取り扱いが必要となりますので、これを人力でやるのは大変だ、ということで、コンピューターの開発が進む、ということになります。
後に、モンゴル語のダルガチは、現ウズベク共和国の言語ウズベク語がチュルク化しているのを反映しているのか、トルコ語のバスカクに取って代わりますが、業務内容はまったく同じです。
税の内容は直接税のダーニと関税のタムガが中心であり、肝心の徴税事務は初期はバスカクをロシアに派遣、彼らが税金を集めることになっていましたが、14世紀以降は徴税の責任はロシア大公にゆだねられることになりました。
「過ぎし日々の物語」に示された、イーゴリらのキエフスカヤ・ルーシ時代の公と従士団の巡回徴税に比べてだいぶ進歩したものです、もっとも人口の少なかったキエフスカヤ・ルーシ時代ではこれで十分だったのでしょうが。
この徴税権を通じることでロシア大公は蓄財に励み、かつ支配民に対して強大な権力を振るうことができるため、以降だれが大公位につくのかをめぐって、諸公同士での激しい駆け引きが展開されることとなります。
モンゴル人の徴税政策はロシアに多大な影響をあたえ、現在でも使用されるお金に関するロシア語には、деньги(お金)、таможния(税関)、казна(国有財産、国庫)など、モンゴル・チュルク語起源のものが多く、そのなかにモンゴルの支配の名残をとどめています。
ついでモンゴル人がロシア全土に導入した制度が駅伝制度「ジャムチ」です。
これは、蒙古帝国の首都と地方を結ぶ主要道路を、10里にわかって駅をおき、証明書(海青牌)を持つものは駅で買え馬と食料を支給され、周辺住民からは駅の維持のため駅伝税をとりたてるというもので、この制度があってこそ、広大な蒙古帝国がその初期にはみごとな統一を保っていたのです。
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モンゴルの牌符
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のちのイワン3世の時代によって、モンゴル時代をまねた駅伝制度が発足され、ロシア全土に迅速な通信・移動制度が普及することになります。この駅伝制度こそ、後代シベリア及び極東を領有した広大なロシアの支配を可能にした秘密で、帝政ロシア末期の文学者チェーホフの『サハリン島』で駅馬車の御者が讃えられているのもむべなるかな、です。広大なモンゴル帝国の統治を可能にした駅伝制度をそのままロシアにそっくり持ち込んだのが、後の広大なロシア領の統治を可能にしたわけで、その意味でもやはり、この駅伝制度をマスコフスコエ・ルーシ時代に再興したイヴァン雷帝の祖父イヴァン3世は名君であったと言えましょう。
ちなみに、現在のロシア語では、荷馬車(駅馬車)の御者のことをямщикといいます。
キプチャック汗国は、モンゴル支配の初期には諸公に対して有無を言わさぬ態度をとります。100年間で20人以上の公が殺され、モスクワ公、スーズダリ公、リャザン公などが人質を差し出ねばならないこともありました。
その例として、あくまでモンゴルに楯突いた南西ルーシ諸公の一人、チェルニゴフ公ミハイルの例があります。ミハイルはバトゥの遠征の際東欧に逃亡しましたが、1246年、所領を安堵してもらうため、バトゥのもとに出頭しました。ブラトーカルピニによりますと、以下のような出来事が起こったといいます。
-「ロシアの大公ミハイルがやって来てバトゥを訪問したとき、タタール人が彼に、まず火と水の間を通らせ、そのあとで南面して(君子は北面し、臣下は南面す、でしょうか)チンギス汗の像に礼拝するように言いました。ミハイルは、バトゥとその従者達には喜んで礼をするが、すでに死んだものの像には頭を下げない、なぜならキリスト教徒がそんなことをするのは許されないからだ、と答えました。…そこでバトゥはその従者の一人を遣わしましたが、彼はミハイルの腹部を心臓に向かってけり続けましたので、とうとうミハイルは弱り始めました…」-
やっぱりヤロスラフ賢公の子のスヴャトスラフの息子オレーグを始めとするノヴゴロド・セーヴェルツキー公国系統の反骨の精神を引き継いでいたのでしょう、あくまでバトゥに逆らったミハイルは、この行為を勇気づけた兵士フョードルとともに、この後小刀で首を切り落とされていましました。チェルネグロネ公アンドレイも、モンゴル人の馬を持ち出してどこかよそへ売った嫌疑でバトゥに訴えられ、その嫌疑は立証されなかったものの、処刑されてしまったと伝えています。
また、ハーンの使者が大公のもとに到着した時は大公自らが徒歩で城外に出むき、地に平伏してクミズ(馬乳酒―カルピスの遠い先祖)を捧げてこれを迎えます。一方ハーンの使者は大公の部下のしく貴重な黒テン(いたちの仲間)の毛皮の上で口上を述べ、それを大公が平伏して聞く、このような儀礼も行なわれたということです。
〜 4.その後の公たち 〜
さて、さらなる遠征のためモンゴル人主力部隊がルーシから一旦去ったことを聞きつけたダニール、ミハイルらはルーシに帰りますが、ベレスチエは悪臭と戦死者の死体があまりに多く荒野に入ることができず、ウラジーミルでは生きた人間がおらず、特に教会の中がモンゴル軍に追われて避難した人々の死体で一杯であったと言います。
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この章に登場するリューリク一族の系譜
(ペレヤスラヴリ公国のモノマフ家系統)
ロマンからガーリチ・ヴォルニイ公国系
―イジャスラフ―ムスチスラフ―ロマン―┬ダニール
(モノマフの孫) |
└ヴォロダリ
(ロストフ・ウラジーミル・スーズダリ公国系)
┬アンドレイ・ボゴリュプスキー
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├ミハイル
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└フセヴォロド大巣公―┬コンスタンチン
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├ユーリー
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| ├ムスチスラフ
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| └フセヴォロド
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├ヤロスラフ
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└スヴャトスラフ
(チェルニーゴフ公国のオレーグ家系統)
オレーグ
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├┬フセヴォロド┬スヴャトスラフ―フセヴォロドーミハイル
? | | (赤毛の)
├イーゴリ └ヤロスラフ
| (チェルニーゴフ公国)
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└スヴャトスラフ―┬オレーグースヴャトスラフ
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├イーゴリ(『イーゴリ公遠征物語』の)
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├フセヴォロド
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└グレープ
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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さて、遠征が終わり、バトゥが引き返してきた時、チェルニゴフ公ミハイルはバトゥの元に所領安堵を願って訪れます。『ガーリチ・ヴォルニィ年代記』では、このとき、ミハイルは「我らの父のおきて(おそらくチンギス=ハーンの定めたヤサ)に敬礼せよ」と言いますが、ヤサには従わず、ロシア正教を信じないバトゥの命令には従わない、と言明しましたので、先に述べたごとく、ミハイルは斬殺されてしまいました。
シッチ河畔の戦いでなくなったユーリー大公の弟ヤロスラフは1243年、一足先にバトゥに所領安堵を保障されており(『ガーリチ・ヴォルニィ年代記』によれば(本当かどうか僕には疑問ですが)潅木に礼拝して忠誠を示したそうです)、ダニールもバトゥの元に所領安堵に訪れます。敬礼し、天幕に入ると中ではバトゥが待っており
ー「ダニーロよ!何ゆえ汝はつとに来たらなかったのか。しかし今すでに来たのであるから、それはよきことである。汝は我らの黒い乳を飲むか、馬の乳を?」ー
と声をかけられ、おそらく馬乳をバトゥじきじきに勧められます。ダニールは今まで飲んだことはないが勧められれば飲む、と答えると、
ー「汝はすでにわれわれのタタール人である、我等の飲み物を飲め」ー
と言われ、飲み干すと次はバトゥのお妃に敬意を表しに訪れ、そこでは馬乳に慣れていないだろうから酒でも飲みなさいと言われ、酒を渡されます。
こうしてモンゴル人の特徴と言うか、逆らったものは本当にこの世から消してしまうが、逆らわないものは(これまでの破壊ぶりを見ているとびっくりするくらい)あっさり味方とみとめる性格によってとりあえずダニールはこれまでの地位を保証されたのです。ただ、これまでのような君主ではかく、タタールの代官のような扱いで。
〜 5.キエフスカヤ・ルーシ時代の終わりに 〜
しかし私見によるとこのキプチャック汗国の統治もそうそう捨てたものではないと思われます。
これまでは公の相続法が確定していなかったため、あるいは、年長順番制があっても美味く機能していなかったため、先代の公が死去するとたちまち内乱が勃発し、最強者が勝ち残るまでに国力を大いに消耗するか、あるいは兄弟同士で勝負がつかない場合などは、公国がそれぞれの兄弟によって分割して統治されるため、結局公国の解体、ひいてはルーシ全土の弱体化を招くという結果になっていました。
ところが、キプチャック汗国が安定している限り、ロシア貴族たちは最強者ハーンの決定に問答無用で従うことで、公国を戦火の渦に巻き込む内戦を防ぐ、あるいは親戚同士の分割統治による完全な公国解体を防ぐことができるようになったのです。
つまり「墓場の平和」といえるかもしれませんが、強者の君臨により少なくとも政局の安定と最低の秩序、ひいては天下の太平という結果はもたらされたのでした。
〜 6.モンゴル人の最大進出領域 〜
さて、蛇足ですが、ユーラシア全域をその活動範囲にしたモンゴル人の活動を振り返りますと、その最大領域は大体以下のようになります。
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モンゴル帝国のおおまかな最大版図
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この地図をよく見てみますと、モンゴル帝国の南限は山脈沿いか熱帯の密林地帯、はては現地人以外、補給の困難な砂漠、北限はタイガの密林地帯、東限は海、西限は、途中でバトゥが引き返したこともありますが、ともかく進行領域は深いドイツの森の手前ポーランドまでです。
従って、モンゴル人はその最大の力、騎兵隊が展開できる大平原までがその活動範囲の限界で、機動力を生かした騎兵隊の活躍が極めて困難あるいは不可能な地域、北部、南部、東部の森林地帯、海を越えた地域、山越えせねばならない地域あるいは補給が極めて困難な砂漠への進出は無理だったのでしょう。
卓抜した指揮官だったチンギス=ハーン指揮下の将は、敵のみならず、己も熟知していたはずであり、したがってモンゴル人のヨーロッパ侵攻、インド攻略作戦などは事実上無理な話だったのではないでしょうか。
〜 7.モンゴル支配のロシアへの影響 〜
ここで、長らく論議の的となっていたモンゴル支配のロシアへの影響について、私見を述べさせていただきますと、正直な話、徴税のための人口調査と駅伝制の伝統以外、殆どなかったのではないかというのが私の結論です。
モンゴル人は、そもそも占領地域に対して影響力を行使しえるような政治体制・文化遺産をもっていなかった、というのがその根拠です。モンゴル人が占領した地域は、どこもモンゴルよりはるかに進んだ先進文化地域でした。ペルシャには、メソポタミア文明の流れを汲むペルシャ文化があり、中国には官吏登用制度まで完備した進んだ政治体制、中華文明の花が咲き誇り、ロシアにも東方正教とともに入り込んだ教会建築・イコンなどのビザンチン文化がありました。
モンゴル人支配者達は、これらの被支配民族に比する文化・政治制度の何物をも持たず、被支配民族に影響を与えるどころか、むしろ被支配民族の文化に同化していきました。イル汗国のハーンが結局はイスラム化し、現地のアラビアに文化的にも人種的にも同化され、元朝のモンゴル人も、儒教化こそしなかったもの、あっという間に中国化・ラマ教化し、遊牧民族の戦闘能力の高さを失ってしまったため、もともと少数なのが遊牧民族の最大のアキレス腱でしたから、数で圧倒的に勝る被支配民族にたちまち同化し、消えていきました。
翻ってロシアでなぜモンゴル人の支配が長く続いたのかといえば、それは征服地に入り込んで直接統治を行なった他の四ハーン国とはことなり、キプチャク汗国のモンゴル人はロシア人勢力に対しては間接統治で望み、ヴォルガ川流域の水草地帯に根を張って、あくまで自身の遊牧的生活を守り通し、その戦闘能力を後代まで失わなかったためです。
キプチャク汗国のモンゴル人によるロシア人支配は、徴税人たるダルガチまで引き上げさせ、ロシア大公に徴税・徴兵を完全に任せきりにしたものです。完全な間接統治ですから、そもそも積極的に影響を与える機会がないわけです。モンゴル人はモンゴル人で勝手に国内統治やっていくから、ロシア人はロシア人で勝手に国内統治やってくれ、ただ、税金と兵役だけはロシア大公に頼んでおくからきちんと済まなさい…。これがロシアにおけるキプチャク汗国のスタンスですから。
ロシアにおける専制のスタイルは、モンゴルから学んだともけっこう耳にする話ですが、「朕は国家なり」と豪語したフランスのルイ14世も十分専制的な人です。ロマノフ王朝時代、エリザヴェータ以降はその国家体制(つまりは皇帝専制体制)・文化に於いて、常にフランスが手本でしたから、むしろヨーロッパの絶対王政が、ロシアの皇帝専制の手本になった可能性も高い、というのが私見です。
また、モンゴル支配がロシアをルネッサンスの光から覆い隠したというのもたまに聞く話です。しかし、ロシアはイヴァン3世の時代、1480年(マキアヴェリ11歳、ロレンツォ・メディチ31歳です)にキプチャク汗国のアフメット=ハーンを破りタタールのくびきを終わらせたとされています。さらに、イヴァン3世はイタリア人の建築家フィオラヴァンティを招いてウスペンスキー大聖堂を建設しているわけですし、イタリアルネッサンスを積極的に取り入れていたわけですから、この話はなんとも受け入れがたいものがあります。一歩譲って、モンゴルがルネッサンス導入を妨害したとして、それではモンゴル支配がなければロシアにルネッサンスの花が咲き誇ったんでしょうか?たとえばあれだけ厳格に様式が決められ、個人を捨て去って作画せねばならない、作画そのものが神への奉仕といわれるイコンが、ルネッサンス期のあの自由奔放(というか生活がむちゃくちゃな)な画家たちがやったように、聖母マリアの絵のモデルが自分の愛人だったり、東方三賢者の顔がひそかにメジチ家の人の顔だったり、といったようなことがロシアでも起こりえたのでしょうか?僕個人的には極めて考えにくい話です。
つまりは、ロシアにルネッサンスが伝わらなかったとするなら、それはもっと深いところ、ロシア側に事情があります。もちろんカトリックの宗教画にもルネッサンス以前は厳密な決まりがありました。しかし、農民も商工業者も全員が都市の中に住んでいる古代的都市国家の時代の都市でなく、農村の生産力の発達による、中世的都市の成立(つまりは耕さなくても食っていける人を養うだけの生産力を農村が持ち、都市から郊外に移り住んだ農民によって農村が成立、後に残った商工業者の天下となった都市のことです。)、また都市の発展による富の蓄積、富の蓄積がもたらした世俗の封建権力、天上の世界の権力に対するかなりな抵抗力、それが人間、あるいは人間の自由意志・理性に対する自信をうみ、その自信が宗教芸術として宗教をモチーフにしながらもそのくびきを吹き飛ばし、ルネッサンスを生んだわけです。しかるに、西欧では中世末に解消した農奴制すら確立できていないロシアが、果たしてそこまでの社会段階にあったのか、つまりは西ヨーロッパの都市文明たるルネッサンスを受け入れるだけの都市文明の域に達していたのか、といえばはなはだ疑問であります。つまり、ルネッサンスの光がロシアに届かなかったのは、ロシア側の問題と僕は考えております。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『世界の歴史 6 宋と元』
宮崎市定
責任編集
中央公論社
・『世界の歴史 5 西域とイスラム』
岩村 忍
責任編集
中公文庫
・『世界の歴史 11 アジアの征服王朝』
愛宕松男
著
河出書房文庫
・『世界の歴史 6 宋朝とモンゴル』
栗原益男 山口 修
著
教養文庫
・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
レーベジェフ
編・除村吉太郎 訳
原書房
・『元朝秘史』
小沢重男
訳
岩波文庫
・『蒙古史』
ドーソン
著
岩波文庫
・『中央アジア・蒙古旅行記』
カルピニ/ルブルク 著 護 雅夫 訳
光風社出版
・『ロシア史 1』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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