タタールのくびき(10

〜〜イヴァン雷帝(恐怖帝)の時代〜〜



イヴァン4世(イヴァン雷帝) / Иван Грозный W
1533‐1584
年 ツァーリの権力強化、ロシア帝国の東方進出の道を開く。

 


Российская

 

 

История


 

    ー過悪、溢美の言は共に信ずべからずー


 ヴァ ン雷帝の時代は、政治的な環境としてはほぼ最高の条件にありました。ヴァシーリー1世の時代にリトアニアとタタールの大波の間を巧みに泳ぎきることに成功 ました。ヴァシーリー2世の時代にはビザンチン帝国の滅亡とともに、国内の東方正教会関係者にはツァーリよりも影響力をもっていたコンスタンチノープル総 主教座の影響から抜け出、長男相続の新機軸を打ち出し、後代これが力を発揮して、キエフスカヤ・ルーシ時代から問題になっていた兄弟同士の後継者争い、つ まりは内乱の種を取り除くことに成功しました。イヴァン3世の時代には、ばらばらに相続されたモスクワ大公領と、分領公国合併と自治都市破壊による旧キエ フ公国領の統一が進められ、ヴァシーリー3世の時代にはそのロシア統一政策が完了しました。

 このヴァシーリー2世、イヴァン3世、ヴァシーリー3世のラインによるロシア統一事業は、ロシア史に燦然と輝く大事業であって、彼らのすさまじい業績の 前には正直イヴァン4世の治世はかすんで見えます。ウクライナをのぞく旧キエフ公国の流れを汲む分領公国の全てを併呑したモスクワ大公国の国力は、まさに イヴァン雷帝の時代に絶頂に達さんとしていたのです。

 ところがプラスがあれば必ずマイナスがありまして、分領公国を全て併合したのはモスクワ大公国にとってプラスにはなりましたが、そのかわり旧分領公の血を引く大貴族達が宮廷に入ってくるという爆弾を抱えることとなったのです。

 その大貴族達にはペンコフ公(ヤロスラヴリ公国系大貴族)、シュイスキー公(スーズダリ公国系大貴族)、オボレンスキー公(チェルニーゴフ公国系大貴 族)、分領公系でない貴族としてグリンスキー公(ママイの血を引くリトアニア貴族)、ベリスキー公(リトアニア大公系大貴族)、ヴォロンツォーフ家、ゴ ローヴィン家などがあります。これらは大半が元は自分の所領を持っていた独立系君主の家系でして、世襲の君主として領内で自由に振舞っていた昔日の思い出 が忘れるに忘れられず、当然簡単にはツァーリに従おうとはしませんでした。

 もっとも大貴族達は、ヴァシーリー2世、イヴァン3世、ヴァシーリー3世の時代にその力の根源たる公国領の殆ど全てを奪われており、かつてモスクワ公国 とヤルルイクを賭けて正面衝突したトヴェーリ公国のような昔日の力はなく、ロシアの全ての土地を手中にしたツァーリに対し、真っ向から刃向かうことは出来 ず、彼らが跳梁跋扈したのもイヴァン4世の少年時代のことでして、イヴァンが成人し、実際の権力をもってから彼に正面から楯突く貴族はいなくなります。



〜 1. 雷帝の生い立ちー大貴族(旧分領公)の策謀 〜

 ヴァシーリー3世はイヴァン3世の政策を継承し完成させた、リャザン公国を併合、リトアニア大公国からのスモレンスク奪回を果たしロシアの西方進出の前進基地を手に入れた名君でした。しかし、彼にも泣き所があり、それはサロメヤ・ユーリエブナと結婚するも20年間子供が生まれなかったことでした。そのた めヴァシーリー3世は「小鳥でさえ私よりは幸せだ。少なくとも子供を持っているからだ。」と嘆くまでになってしまったといいます。



     この章に登場するリューリク一族の系譜


  ―ヴァシーリー3
       |
       ├―イヴァン4世(雷帝)
       |   |    |
       |   |    ├――――――イヴァン
       |   |    |        |
       |   |  アナスタシア   ├―フョードル
       |   |             |
       |   |            └―ドミートリー 
       |  └―ユーリー
       |
   エレーナ・グリンスカヤ


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 そこでモスクワ府主教ダニールの許可を得てサロメヤをスーズダリのポクロフスキー修道院に送り込み、スマトリーヌィ(当時のお見合い)も開かず、リトア ニアからの亡命貴族を父にもつエレーナ・グリンスカヤ(ママイの血を引くリトアニア貴族)と結婚しました。

 しばらくしてエレーナはイヴァン、ユーリーを出産します。ユーリーが生まれた翌年、病が嵩じてヴァシーリー3世はこの世を去りました。後継者を二人も残し、おそらく安堵の気持ちとともに身罷ったことでしょう。

 ヴァシーリー3世の死後はエレーナが政治を行ない、寵臣オボレンスキー公(チェルニーゴフ公国系大貴族)を幼いイヴァンの摂政とし、オボレンスキー公の 妹アグラーフェナを乳母とし、府主教はダニールです。エレーナは周辺諸国との友好関係を更新し、ヴァシーリー3世の二人の弟である分領公の排除等を行うな ど、まずまずの業績を収めます。

 ところが1538年、エレーナ・グリンスカヤが死去すると、8歳の幼いモスクワ大公をほったらかしにして、大貴族同士でたちまち権力闘争が始まりまし た。その当時の状況を後年、イヴァン雷帝は「クルプスキー公宛ての第一の手紙」のなかで自ら述べています。

ー 「われらの母、敬虔なる大公妃エレーナが地上を去って、神のもとにみまかれたとき、弟ユーリーと私は完全な孤独となって、この世に取り残された。誰も私を 助けなかった。私達の希望は、神、聖母、全ての神聖なる祈りにかかっていただけであった。このとき私は8歳であった。臣下は、それぞれの願いを実現する時 が来たと考えた。君主のいない王国を手に入れたのである。自分達の君主であるわれわれにいかなる配慮もしたことがなかった。彼らは富と栄誉を奪い、そのた めにまたつぎつぎと共倒れになっていった。彼らは忌まわしい行為のみを行なっていた。何人の私達の貴族、私達の父の側近、軍司令官を殺したであろうか。わ が祖父の宮廷、村落、財産を奪い、私物化した。…

 …一方弟のユーリーと私は彼らからよそ者か物乞いのようにあしらわれた。着るものも食べるものも、どれほどの貧しさに耐えたことか。われわれには、いか なる自由も無かった。子供を育てるのにふさわしい遣り方で、われわれは育てられなかった。… …定められた時間に食事が用意されぬことも珍しくなかった。 それに私の所有権のあったはずの父の財産がどうなったか、貴方は知っておられるか。ひとつ残らず取られてしまったのだ。… …大貴族の息子達が、財産を 奪っていき、それを溶かして金や銀の食器にしてしまった。そしてそれが先祖伝来のものであると見せかけるために、彼らは食器に一族の名を刻んだのであ る。…」ー

 というように手紙は綿々と続き、本人が意図したかどうかはともかく自己弁護の混じらない回想録などありえませんが、本人が幸せな幼年時代を過ごせたと思えない状況に、イヴァンが置かれていたのは確実なようです。

 まずエレーナの死後急速に力を失ったオボレンスキー公が、ヴァシーリー・シュイスキーの手により、土牢に閉じこめられ獄死します。前座を蹴散らし、続い てシュイスキー家 vs.ベリスキー家の本格的な闘争が起こります。まずはシュイスキー一派が勝利を収め、府主教ダニールは追放、イオアサーフが府主教と なりました。しかし、イオアサーフはシュイスキー家を裏切ってべリスキー家に与し、ベリスキー家有利となります。しかし1542年クーデターが発生、ベリ スキー家の有力者イヴァン・ベリスキーが投獄処刑、イオアサーフはキリル修道院に流刑となり、ベリスキー家は没落しました。が、勝利したヴァシーリー・ シュイスキーの方も自然死してしまいます。

 アレクサンドル・ネフスキーの長男の子孫であることを誇る大貴族ヴァシーリー・シュイスキー(スーズダリ公国系大貴族)と、リトアニア大公国の創立者ゲ ティミンの子孫である名門貴族イヴァン・ベリスキー(リトアニア大公系大貴族)ことにシュイスキー家からすれば、現在のモスクワ大公の一族は、アレクサン ドル・ネフスキーの末子である初代モスクワ公ダニールの子孫ですから、傍流で新興に思われたのでしょう。世は、何よりもまず血統重視の貴族政治の真っ盛り ですから、シュイスキー家が天下を取って何が悪い、むしろ血筋からすればわが一門がモスクワ大公にふさわしいと思ったとしても無理はありません。

 ともかく、全権を握ったのが次期シュイスキー家の当主、アンドレイ・シュイスキーです。ところがこのアンドレイ・シュイスキーの専横を苦々しく思ったイ ヴァン(当時13歳)は、1543年のクリスマスの際、居並ぶ貴族たちの面前でアンドレイ・シュイスキーに死刑を宣告します。シュイスキー家の横暴に嫌気がさしていた貴族たちは、えたりかしこしとばかりにアンドレイ・シュイスキーをひっとらえ、猟犬に食わせて処刑しました。

 これを機にシュイスキー家は一時没落し、伏兵ヴォロンツォーフ家が出現しますが、1546年に彼らも粛清され、代わって勢力を得たのはイヴァンの母方の実家グリンスキー家です。グリンスキー家は幼い未来のツァーリを利用して自家の権力を拡大しようとイヴァンに味方しました。

 そんな思惑が渦巻く中、1547116日、クレムリのウスペンスキー寺院で、イヴァン4世は16歳でロシア史上初めてツァーリとして即位します。おそらくは影でグリンスキー一族がお膳立てし、ダニールによってノヴゴロド大主教に抜擢されて頭角をあらわし、モスクワ府主教となったマカリー率いるロシア 正教会が舞台をととのえて、ウラジーミル・モノマフがビザンチン皇帝から受けたという「モノマフの冠」を用いて、戴冠式は挙行されました。

 さて、戴冠式の後スマトリーヌィが執り行われ、ロマノフ家のアナスタシア・ロマーノブナ・ザハーリナ・ユーリエヴァが皇妃に選ばれました。アナスタシア の実家は、14世紀プロイセンからやってきてロシアに定住した家系で、後世のロマノフ王朝の初代ツァーリ、ミハイル・ロマノフは、このアナスタシアの一族 です。このアナスタシアは大変によき妻であったらしく、彼女が生きていたイヴァン雷帝の治世前半期は相当まともな統治が続きましたが、1560年の彼女の 死後、イヴァンがいわいる「雷帝(грозный、このロシア語は普通は「恐ろしい」と訳します)」と呼ばれるようになった所業と失策が続きます。

 グリンスキー家の勢力にかげりなしと見えましたが、突発的な出来事からグリンスキー家は権力の座から失墜します。それはモスクワの大火でした。

 1547年モスクワを襲った大火は市の大部分を焼き尽くしました。火事が鎮火したした後、住民の間に、グリンスキーの一族、アンナ・グリンスカヤ公妃 が、「死体から心臓を取り出し水につけ、さらに悪魔の息を吹きかけたその水を、聖水のようにあちこち振りかけ」て火事を起こしたという、むちゃくちゃなう わさが広まったのです。

 アンナ・グリンスカヤ公妃の息子のひとりユーリーは最初はこのうわさをほっておいたのですが、シュイスキー家の手の者によって扇動された民衆はいきりた ち、ユーリーを黒焦げのウスペンスキー寺院内で殺害し、余勢を買ってグリンスキー家の屋敷を破壊しました。これによりグリンスキー家は一時没落します。


    〜 2. イヴァンの親政開始とカザン攻略 〜

 こうして有力貴族が内ゲバで続々と力を失い、しかも、ヴァシーリー2世、イヴァン3世、ヴァシーリー3世の時代にその力の根源たる公国領の殆ど全てを奪 われた大貴族達は、成人し、完全に判断力のついたツァーリに所詮刃向かう力はなく、イヴァン4世はじきに実権を握りました。





イヴァン雷帝復元像
М.М.Герасимовによる



 イヴァン雷帝の国内政治の目標は明確でした。かつての独立公国時代の勢いはなくとも、先祖から受け継いだ広大な領地をもち、そこから上がるツァーリの恩 寵に頼らぬ地代による経済力を背景に、発言力も大きくツァーリに楯突き続けることは可能でも、ツァーリいなくば内ゲバしか知らない旧分領公からなる大土地 貴族たちの勢力をそぐこと、つまりは貴族制の打破です。かわりに身分はなきに等しくても、能力の高い人材に、一代限りの土地をツァーリの名で与え自己の忠 実な部下とし、代償としてモスクワ国家の行政事務を担当する、いわば行政官僚である勤務士族層、彼の祖父イヴァン3世の時代に種がまかれ、今まさに育って きたこの新階層の勢力をさらに強化することです。

 まずイヴァン4世は、勤務士族層で構成される選抜者会議(Избранная рада)を設置し、腹心の部下アダーシェフ、ウラジーミル・モノマフの血を引く名門貴族クルプスキー公、モスクワ府主教マカリーらを送り込んでこの会議で数々の改革を行ないます。

 1549年にはロシア初の全国会議を開催します。全国会議とは、大貴族・高位聖職者・地方長官・勤務士族代表者など、ロシア臣民の各界の代表者をあつめた会議です。イヴァン3世の編纂した1497年法典の改定を決議し、1550年法典が完成します。

 地方行政改革として、当時行政官の役割を果たしていた地方貴族たちのツァーリへの報告なしの重罪犯の審理、刑の執行を禁じ、それまで土地大貴族の代官 (ナメーストニク)と地元有力者郷長(ヴォロスチェリ)が行なっていた刑事裁判権を、地元大貴族の息子たちの中から選出した郡長老へ権限を移し、補佐役と して宣誓者を地元の有力農民から選んだことが挙げられます。

 代官と郷長の給料は、地元住民が年に三回(誕生日・復活祭・聖ピョートルの日)に払わねばなりませんでしたが、これを悪用して、住民が払えるものは洗い ざらい持っていく者が増え、肝心の国家への納税額が減少するというという現象が現れ始めており、地方行政改革は、この問題への対策でした。さらにこの制度 は拡大され、今度は豊かな商工業者と農民から地方年寄を選出し、郡長老の監督の下、実際の刑事裁判、警察、徴税・債務記録を担当することになります。ちな みに次の時代にあらわれるクジマ・ミーニンなどはこの層の人物です。

 1556年には「勤務規定」を設け、土地貴族層であろうと勤務士族層であろうと関わりなく土地100チェトヴェルチにつき一人の騎兵提供と、軍役に服する義務を設けました。また、戦時には門地に関わらず、上官の命に服すことも決定されました。

 イヴァン雷帝は宗教問題にも手をつけ、「百章会議」を召集し、教会財産の国有化(!)、世俗の法の、教会法に対する優越などを提案しますが、さすがに教会財産の国有化は抵抗にあって実現しませんでしたが、後者については賛同を得ることができました。

 イヴァン雷帝の改革の目玉はプリカースの整備です。プリカースは要するに行政事務を行なう常設の役所で、現在の官庁のようなものです。長官ー書記官ー書記補で構成され、大貴族や宮廷侍従官がその職に任命されました。雷帝の治世には外交使節庁(外交担当)、強盗検察庁(治安担当)、知行地庁(土地の管理と 農民の土地登録)、補任庁(軍事業務担当)、など重要なプリカースが設置され、国土が広がり複雑化したモスクワ大公国の業務を効率的に担うことになりま す。

 また、民衆が道徳を守ることで、民衆の間での秩序が保たれるよう、一般民衆に対しては当時の人々が守るべき道徳集ドモストロイを編纂しました。ツァーリ直属の常備軍である銃兵隊もこの時期創立されます。

 こうして国内整備、軍事増強を終わらせたイヴァン4世はカザン征服に乗り出しました。





16
世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市

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 カザンは東西交通網の要衝であり、ヴォルガ川をつうじて中央アジア、ロシアの物産が流通していました。このカザンの東には広大な中央アジアが開けていま す。また、度々襲撃と略奪に現れるカザン汗国のタタールもロシアの安全にとっていつも問題でした。経済拠点を手に入れて税収を増やし、タタールの拠点をた たくことでモスクワの安全を確保する、以上を目的として、イヴァン4世はカザン攻略を決意しました。

 1551年、22歳のツァーリ自身の率いるロシア帝国軍は、カザンを包囲しました。カザンの城壁の下まで坑道を掘りぬき、そこで火薬を爆破させ城壁を吹き飛ばすロシア工兵隊の新作戦が功を奏し、また、祖父のイヴァン3世の時代からのカザン汗国のモスクワ大公国への属国化が進んで弱体化していたこともあ り、カザン総督ヤディゲル=モハメットは降伏し、カザンは陥落しました。

 イヴァン4世はのちにキリストに改宗したヤディゲル=モハメットをロシアの高官マリーア・クトゥーゾヴァに嫁がせ、貴族の一員としました。このカザン併合によりロシアは戦闘能力に長けたタタールの精鋭を自軍に編入することに成功します。さまざまな民族・文化を飲み込み、大きく発展していくスラヴのダイナ ミズムはこの時代からすでに存在していたのです。

 この後1553年、イヴァン4世は重い病にかかり、大貴族達に対し、幼い息子ドミートリーに忠誠を誓うよう指示しましたが、何人かの大貴族はこれを拒否 し、イヴァンのいとこウラジーミル・スタリツキーを後継者にするよう望みました。この時の大貴族の不服従の態度が、のちのオプリーチニナの一因とも言われ ています。幸いにもイヴァン4世は九死に一生を得ますが、子供ドミートリーを失いました。

 健康を回復したイヴァン4世は、次に黒海・カスピ海・モスクワをむすぶ三角地帯の交通の要衝ヴォルガ川流域を支配するアストラハン汗国の攻略に取り掛か ります。武装を整え、ヴォルガ河をくだり、アストラハンに向かいますが、カザン汗国の悲報を聞いたのかすでに駐屯軍は引き払っており、残軍追討で、 1556年、アストラハン汗国を手中に収めることになったのです。これでモスクワ大公国はヴォルガ流域をすべて支配下におさめたことになります。勢いに乗り、ノガイも服従させることに成功しました。こうしてイヴァン4世の時代までには、クリミア汗国を除く旧キプチャク汗国系の汗国を、殆どすべて併合してしまったこととなります。これらの成功を祝して建設されたのが赤の広場のポクロフスキー(ヴァシーリー・ブラジェンヌイ)寺院です(15551560建造)。

 アストラハン汗国の残党の、キプチャク汗国のハーンの血を引くヤール・ムハンマドはその子ジャーンと共に、チムール帝国を滅ぼし西トルキスタン初のウズ ベク族の国家、シャイバーン朝のイスカンダル=ハーンの保護をもとめてボハラに逃れ、ジャーンはイスカンダル=ハーンの娘を娶りました。ところが、 1599年、イスカンダル=ハーンの男子直系が絶えてしまったので、ジャーンの子のバキー=ムハンマドがシャイバン朝を継承します。この王朝がアストラハ ン朝ですが、首都がボハラにおかれました。しかし後年、ウズベク豪族のマンギト氏族が力を伸ばし、アストラハン朝最後の君主の娘を妃としたマースム= シャー=ムラードが1785年、ハーンの位につき、アストラハン朝は名実共にマンギト王朝に政権を奪われますが、この両王朝を合わせてボハラ汗国といいます。

 このアストラハン汗国の残存タタール国家とロシア勢力との最後の決着は、時代を下ること約300年、1839年のロマノフ王朝のニコライ1世の、オレンブルク総督ペロフスキーに対する遊牧民族追討令で始まり、次のアレクサンドル2世の時代、トルケスタン総督カウフマンの、サマルカンド攻略を契機とした 1868年のボハラ汗国の保護国化で終止符が打たれました。


 〜 3. タタール国家滅亡によるクリミア汗国の変化 〜

 こうして抵抗らしい抵抗をみせずに服属されたアストラハン汗国とノガイから、おおぜいのタタールがクリミア汗国に避難してきました。そこでこの新住民を統括するためクリミア汗国ハーンは、セラスケルという統治者を任命する次第になります。

 ここで、クリミア汗国の権力者達について述べます。私の見るところによりますと、クリミア汗国の特徴は、他の汗国と違って様々な権力者がおり、誰が実権 を握っているのかよくわからないところにありますが、これはうまくすれば権力の分散につながるという長所を生みます。

 クリミア汗国内の権力者としては、まず、ギレイ家から選出され、オスマン・トルコ皇帝スルタンによって承認されるハーンがいます。ハーンは汗国の権威と 軍事指揮権を一手に握ります。また、ギレイ家からはハーンの補佐役として、カガン・スルタンとヌレッディン・スルタンが選ばれます。

 次の権力者として国内の大貴族がいます。クリミア汗国内には、キプチャック汗国時代からつづくシリン家、バリン家、キプチャック家、アルギン家の四大有 力家族がおり、16世紀以降はこれにマンスル家が加わります。これら有力家族の領地は、クリミア汗国内の、オスマン・トルコ領を除いた半分にも達していたと いいます。この中でも特に有力なのがシリン家で、カラスバザールを本拠地とし、クリミア半島東部を支配下においていました。

 ついでオスマン・トルコ帝国から派遣されたカザスケルです。オスマン・トルコ帝国は、エヤーレト(州)の下にカザ(郡)があり、カザにはそれぞれカーディーがおかれていましたが、このカーディーがカザスケルを選出しました。

 これに先ほど述べたノガイ代表のセラスケルがきます。この当時半農半牧の生活になっていたクリミア・タタールと異なり、ノガイ・タタールはまだまだ遊牧 的な生活を強く保っていましたから、ノガイ・タタールにはまた別の枠が与えられたのでしょう。この権力者達、ギレイ家からはハーン、カガン・スルタン、 ヌレッディン・スルタンの三人、シリン家からは一族の長であるベイの一人、オスマン帝国からカザスケルの一人、ノガイ代表セラスケルが集まって、ディー ヴァーヌといわれる国政決定会議が開かれました。

 ちなみにディーヴァーヌとは、トルコ語でクッションのことですが、トルコ帝国の会議室にはこのディーヴァーヌがたくさん置かれていたことから、転じて後には執務室を指すようになりました。ちなみにこの言葉はロシア語にも入っておりまして、диванといえばソファーのことです。

 このディーヴァーヌではオスマン・トルコ代表のガザスケルとシリン家のベイが合意した議決のみ採択され、ハーンやハーンの補佐役およびにセラスケルはただのオブザーバーで、一応出席が認められますが、決定権はありませんでした。

 俗界の権威はクリミア・ハーンがにぎりますが、神の国の権威はイスラム法官のウラマーによって選出されるムフティーが握り、ムフティーは精神世界の権威をにぎり、また広大なモスク領を支配していました。

 以上がおおまかなクリミア汗国の内情です。


 〜 4. リヴォニア戦争(前期)ー東西スラヴ勢力激突 〜

 ついでイヴァン4世が目を向けたのは、バルト海に面したリヴォニア(現エストニア・ラトビア)です。リヴォニアは帯剣騎士団、後には帯剣騎士団を併合し たチュートン騎士団、クールランド司教区、リーガ司教区、サーレ・ラーネ司教区、タルトゥ司教区、等の独立司教領、デンマーク王(もっともデンマーク王の 支配するタリン、エストニア語でターニ・リーン、デンマークの町、は、のちにチュートン騎士団に売り払われました)の三者が長らく治めていた地でした。





            17世紀のバルト沿岸地方
            赤丸は当時の主要都市

                 
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         水色     リヴォニア騎士団領
         ピンク    ドイツ騎士修道会領
         黄色     クールランド司教区
         紫色     サーレ・ラーネ司教区
         緑色     タルトゥ司教区
         濃い青    リガ司教区
         赤色     リガ市(ハンザ加盟都市)
         オレンジ色  タリン市(ハンザ加盟都市)



 プロイセン本土のチュートン騎士団が1410年のタンネンベルクの戦いで惨敗し、1466年トルニの講和を受け入れてポーランド王の臣下となり、 1525年プロテスタントを受け入れ世俗化したのちも、リヴォニアにあったチュートン騎士団支部は独立勢力として残っていました。ですから、本体が滅亡し てもがんばって生き残り、独自の道を歩んだチュートン騎士団のリヴォニア部分は、リヴォニア騎士団と呼ばれることもあります。しかし、リトアニア大公国と の抗争に敗れるなど、時代が進むにつれリヴォニア騎士団の支配力は低下し、イヴァン雷帝の時代にはリヴォニアは分裂と混乱を繰り返していました。

 スカンジナビア半島を北へ迂回する、危険が大きくしかも冬季には航行不能な従来の航路に比べて、バルト海から西方へ直接進出できる新航路の開拓は、貿易の拡大を目指していたロシアにとって魅力的でした。そこでイヴァン4世はバルト海の進出を図って、このバルト海に面する弱体化したリヴォニア占領に乗り出 したのです。

 ことの起こりは1557年、1529年、ジグムント1世が生前強行した国王選挙で選出されたリトアニア大公兼ポーランド国王ジグムント2世・アウグスト が、リヴォニア騎士団団長ウィルヘルム・フュルステンベルクとリガ大司教ウィルヘルムの衝突に介入したことに始まります。リガ大司教の兄プロイセン公アル プレヒト(世俗化した、チュートン騎士団本体の末裔です)はポーランド王(つまりジグムント2世・アウグスト)の臣下であり、リガ大司教とプロイセン公ア ルプレヒトの母親はジグムント2世の姉妹でしたから、リガ大司教ウィルヘルムはジグムント2世の甥にあたります。したがって筋としてはジグムントがリガ大 司教の肩をもつことになり、リトアニア・ポーランド同君連合国軍がリヴォニアに侵攻し、チュートン騎士団は和を乞い、リトアニア・ポーランド同君連合国との軍事同盟を結びました。






ジグムント2世アウグスト
1520
1572

リヴォニア戦争でモスクワ大公国と死闘を演じる



 ところがすでに1554年、イヴァン雷帝とチュートン騎士団、リガ大司教、ドルパト大司教との間に条約が結ばれており、チュートン騎士団はリトアニアと同盟を結ばないこと、ドルパトはモスクワ大公国に貢税を払うという取り決めがなされていました。チュートン騎士団は今回リトアニア・ポーランド同君連合国の援軍を受け入れた結果、リトアニアと同盟を結んでしまい、ドルパト大司教領も長いこと貢税を払っておらず、両勢力ともに協約違反ということになります。 こうして協約違反の問責という、格好の軍事侵攻の口実を手に入れたイヴァン4世は、1558年、かつてのカザン汗国のハーン、シグ=アレイが指揮をとるタタール人部隊を中核としたモスクワ大公国軍をリヴォニアへ侵攻させました。以後、足掛け25年間に及ぶリヴォニア戦役の始まりでした。自らを守るすべを失ったリヴォニア騎士団最後の団長ケトレル(ウィルへルム団長は引退しておりました)は、1559年、モスクワ大公国の休戦期間を利用して、神聖ローマ帝国皇帝がリヴォニア騎士団の宗主権を持つことを求めつつも、ジグムントの保護下に入ることを決定します。

 ところが1559年、サーレマー大司教が自分の司教領のサーレマー島(エーゼル島)をデンマーク国王フレデリック2世に売り払ってしまうという事件が起こります。まずいことに、フレデリック2世は、大司教領を弟のマグヌス大公に転売し、サーレマー大司教領を手に入れることでリヴォニアに対する発言権を得たマグヌス大公は、サーレマー島から大軍を率いてリヴォニアに侵攻しました。リトアニア・ポーランド同君連合国の軍を引き入れ、さらにはロシア帝国とデンマーク王国に軍事侵攻されたリヴォニア騎士団の運命はもはや風前の灯でした。

 こうしてリヴォニア騎士団領の解体が決定的となった今、周辺各国は権益確保に乗り出し、ロシア軍はリヴォニアの東半分を占領し、ジグムント2世のリトア ニア・ポーランド同君連合国はチュートン騎士団とリガ大司教領を保護下におき、デンマークはエーゼル島を領有、カルマル同盟からスウェーデンを分離独立させたグスタフ・バーサの息子エリク14世のスウェーデンはエストニアとタリンを支配する、といった風にリヴォニアは完全に分割されてしまったのです。このとき、おそらく正面衝突を避けたい両国の思惑が一致し(特にモスクワ大公国はちょうどこのときクリミア汗国のデヴレート・ギレイの侵攻もありましたので)、モスクワ大公国とリトアニア・ポーランド同君連合とは1559年休戦条約を結びます。

 このリヴォニア騎士団の後ケトレルは、リトアニア・ポーランド同君連合国が救援に向かうものと思ってドルパート(のちにここに建設されたドルパート大学 が、ロシアのバルト・ドイツ人の専門大学といった風になります)などを包囲攻撃します。これは休戦条約違反ですから、当然もモスクワ大公国は反撃し、モスクワ大公国軍のアンドレイ・クールプスキーやダニール・アダーシェフは各地で勝利を収め、前騎士団団長ウィルヘルム・フュルステンベルクを捕虜にする快挙を成し遂げます。ところがこの時期の1560年、イヴァン雷帝は最初の妻、アナスタシアを病気で失ってしまいました。シルカリアのチェルケスのテムリューク公の息女でロシア正教に改宗してマリヤを名乗った公妃を後添えに迎えますが、この後、イヴァン雷帝の治世は後に述べる失政と暴政が続くようになったので す。

 15616月、同盟関係によりリヴォニアに入ってきたリトアニア・ポーランド同君連合国軍を前に、イヴァン雷帝の攻撃に耐えかねた団長ケトレルは、15611111日、ポーランドにリヴォニアを併合させることを認め、かわりにモスクワ大公国国境から最も遠く、ポーランド国境に隣接するクールラン トとゼンガール人の土地を与えられ、ポーランドから公爵の地位(クールラント公国)を与えられました。ちなみにポーランドは本体のチュートン騎士団も 1466年トルニの講和でプロイセン領を保護領化していますから、チュートン騎士団の本家も分家も支配化に治めたことになります。ここにチュートン騎士団 領は完全に解体し、騎士修道会としての存続は(現在に至るまで)続くものの、独立政治勢力としてのチュートン騎士団は最期を迎えることになります。

 モスクワ大公国が攻め込んだリヴォニアに、リトアニア・ポーランド同君連合国が入るということは、リトアニア・ポーランド同君連合国がリヴォニア防衛を 引き受けたということになります。これによって、西スラヴの盟主リトアニア・ポーランド同君連合国と東スラヴの盟主モスクワ大公国の激突は避けられないも のとなりました。

 両雄並び立たず、休戦協定は破れ、両軍は激突し、モスクワ大公国軍は、リヴォニアを主戦場と見、そこに主力を終結したリトアニア大公国軍の回避に成功し、1563年にはポロックを攻撃して降伏させます。一旦和平交渉のため休戦がもたれますが、これがこじれて戦闘が再開されますが、押されっぱなしだった リトアニア・ポーランド同君連合国が反撃を開始します。

 1564年に、ジグムント2世アウグストの親戚、ニコライ・ラジヴィル・ルージーに率いられたリトアニア大公国軍は、ピョートル・イヴァノーヴィチ・ シュイスキー率いるモスクワ大公国軍を打ち破り、シュイスキーが戦死するという大勝利をおさめます。さらに選抜者会議のメンバーだったクルプスキー公率い る4万と号すモスクワ大公国軍がネヴェルで15千のポーランド軍に壊走、イヴァン雷帝の裁きを恐れて妻子を捨てポーランドに亡命するなどし、戦局は不利 に傾き始めました。

 クルプスキー公は亡命先のリトアニア大公兼ポーランド国王ジグスムントのところから、

 ー 「かつては輝かしく、その昔神に祝福された君主よ、今日ではわれわれの罪の報いとして悪魔のごとき狂気に侵され、良心も腐り果てた君主よ、地上の君主でい かなる不信の徒であろうとも、これほど堕落した暴君はあるまいが、さあその暴君よ、今私の言うことを聞くがよい。…」ー

 という出だしで始まるかなりの中傷も混じった激烈な告発文を送りつけます。

 これに対してイヴァン雷帝が自ら反論して送りつけたのが、先に出した自分の幼少時代をつづった「クルプスキー公あての第一の手紙」です。この往復書簡は 15641579年まで続けられ、当時の大貴族とツァーリの政治上の考え方を知る貴重な手がかりとなっています。


     〜 5. オプリーチニナ制ー恐怖政治 〜

 人間負けが込み始めるとやることは決まってきます。この時期イヴァンは、彼を「恐怖帝(Грозный)」と呼ばせる一因ともなった、オプリーチニナ/Опричнина(オプリーチナ/Опричина)制を発足させました。

 まずイヴァン雷帝は従者や家族とともにトロイツェ・セルギエフ修道院に巡礼し、アレクサンドロフ村へ向かいます。そこで大貴族・高位聖職者に当てて彼ら の不誠実を攻め、自分は退位する旨の手紙を一通書き、さらにもう一通商人と一般大衆に対し、彼らの忠誠心を高く評価する旨の手紙を書きます。

 手紙の内容が公開され、モスクワ市民層の圧力により、貴族と聖職者はイヴァン雷帝にモスクワ帰還とツァーリの続投を要求し、イヴァンの帰還の代償として出してきた条件がオプリーチニナ制の設立です。

 イヴァン雷帝はこれまで政治を行なう際に、度々大貴族達の妨害を受けてきました。イヴァン雷帝から見れば、これらの大貴族達は、高所から全体を見渡すことが出来ず、ひたすら彼らの私(有地に対する)欲に走って国家的な利益に対してまとまるということがなく、そのくせ自分達の階級の利益が損なわれると知る ととたんに足並みをそろえ、あの手この手でツァーリを妨害したり足を引っ張ったりしようとするとんでもない階級です。

 ところが、大貴族たちから言わせれば、イヴァン雷帝は1097年、当時のキエフ大公スヴャトポルク公主催のリューベチの会議で認められていた世襲地の権利、500年このかた認められていた既得権を曽祖父から彼の父の代までにむしりとったあげく、イヴァン雷帝の時代にはさらに貴族の発言力まで奪おうとい う、いまさら一体何を言い出すのか、と言いたくなるような、とんでもなく非情かつ非常識な人物だったわけです。彼らの反発も極めて当然です。

 ですから、イヴァン雷帝は辞意を表明することで「大貴族がそこまで文句があるなら、おまえ達でモスクワ大公国を仕切ってみろ、そんなに簡単なことではないぞ」と大貴族達に迫ったのです。大貴族達にも気骨があるならこれを機会にクーデターを起こして政権を奪うなり何なりすればよかったわけです。ところがそんな人物はあらわれず、大貴族達はイヴァン雷帝に帰還を促すのみでした。ですから、結局おまえ達には何も出来ないのだな、それなら私が好きにやるぞ、というのがトロイツェ・セルギエフ修道院に巡礼した事件の説明です。

 オプリーチニナ制に話を戻しますと、それによると国土は二つの行政区地域に分割され、一つは旧来どおりにツァーリ、貴族会議、役人が支配する「ゼームス チナ」、もうひとつはイヴァン雷帝が全てを差配する「オプリーチニナ」で、「オプリーチニナ」となる地域はイヴァンが一方的に指定しました。貴族・聖職者 層は屈服し、イヴァンの要求は貴族会議で全面的に受け入れられることになります。

 1565年正式に発足したこのオプリーチニナ制を一言で言えば、貴族の権力削減を目的とした公認テロ制度でしょうか。オプリーチニナの構成員はオプリー チニキと呼ばれ、修道僧のような黒い服を着、「裏切り者に犬のように噛み付き、国から掃き出す」ために馬の首に犬の首をくくりつけ、彼らのもつ鞭の柄にはほうきのように獣の毛がつけられていました。

 神聖ローマ帝国皇帝カール5世から諜報活動を命じられ、オプリーチニキになったドイツ人ハンス・シリッテの記録によると、オプリーチニキは以下のような宣誓を命じられていました。

 
―「私は、皇帝のために行うことを決して漏らさないと誓う。懺悔の秘密も私をその義務から解放しえない。そして、私の聴罪師が告白を迫るなら、私は直ちに彼をオプリーチナに告発する。私が捕らわれ人となった場合、拷問に屈するよりも自殺を選ばねばならない。」―

 彼らは偶然の機会によってイヴァン雷帝の目にとまり、たまたま才能も兼ね備えていた身分の低い者たちであったため、ツァーリの威光に頼らなくとも先祖代々の領地と領民と権威とをそなえた大貴族達と異なり、君寵を失えばそれまでして、彼らはツァーリのためならそれこそ牛馬の労を厭いませんでした。オプリーチニキを構成し、権力を得た新興階級の筆頭は、オプリーチニナ長官マリュータ・スクラートフやアレクセイ・バスマーノフとその息子フョードルなどがおり、マリュータ・スクラートフの女婿だったのが後のツァーリ、ボリス・ゴドゥノフです。






オプリーチニクの姿。
ほうきと犬の頭が見えます




 オプリーチニキの行なった大貴族粛清により、カザン攻略戦に加わったシュイスキー家のアレクサンドル・シュイスキー、ロストーフスキー家、イヴァン・ブロンスキー、ドミートリー・シチェヴィレフなどが殺され、旧分領公系大貴族は大ダメージを受けます。また、自治都市時代の記憶が忘れられず中央に対し執拗な反発を繰り返してきたノヴゴロドも、リトアニアと結び、ツァーリの廃位を狙ったとして、イヴァン4世自らも加わった6週間に及ぶ徹底的な破壊と殺戮の洗礼を受けました。モスクワでもクレムリンの中央市場で120人が拷問による公開処刑を執行されました。

 このノヴゴロド破壊に関するイヴァン雷帝の考え方は、ルネッサンス期を代表する政治思想家、ニコロ・マキアヴェリが1513年に執筆した「君主論」第5 章‐占領される前に、市民の自治制をとってきた都市や国はどのように治めていくべきか‐に余すことなくの述べられていると思うので、ここに彼の名文の一部を載せ、稚拙な説明の代わりとしたいと思います。

 ‐だからこれまで自由な生活をつづけていた都市の支配者となろうとして、その都市を破滅させないものは、逆に都市から破滅させられるのを待っていればよいのである。こうした都市は、自由という名目や従来の制度に反するという名目で、たえず反乱を起こすからである。

 こういったものは、歳月がたっても、恩恵を与えても、市民の記憶からはけっして消えないものである。しかも市民は、君主が何を行なっても、なにを与えて も、市民がちりぢりになるか、蒸発するかしなくては、この自由や制度を忘れることはなく、なにか事件が起きればすぐそれに飛びつこうとする。たとえば、百 年も前からフィレンツェ共和国の支配下に置かれていたピサでさえ、ふたたび事を起こしたように。‐

 ‐(中略)‐だが、共和国の都市のばあいとなると、より活発であり、憎悪もいちだんと強く、復讐の願いも極めて根づよい。市民たちはその気持ちを捨てないし、かつての自由の思い出を忘れようとしない。したがって、いちばん安全な方策は、その市民を抹殺するか、君主自身が移住するかである。−

 要するに、政治を全うするために必要な、非常に無慈悲ではあるが、裏に冷静な計算のある、冷徹な統治。イヴァン雷帝の統治と生涯はこれに尽きるのではないでしょうか。

 このオプリーチニナ制はイヴァン自身の手で廃止されます。この制度は、地方で侮りがたい力をもつ大貴族の力を殺ぎ落とし、また恐怖によってツァーリの威光を高める目的で行なわれたものであり、所期の目的はほぼ達せられたと思われます。が、この劇薬はあまりに効き過ぎで、国民の犠牲が多すぎ、むしろ国力を疲弊した政策であったといえるでしょう。この辺をもう少しうまくやれないのか、と考えるのが、まあわれわれ日本人なのですが。


 〜 6. イギリスとの交渉ーエリザベス女王への求婚 〜

 都合上かなり話が前後しますが、イギリスとロシアの関わりは、1553824日、イギリス船「エドワード・ボナヴェンチューラ」号がドヴィナ河河口、現在のアルハンゲリスクに現れたことに始まります。

 イギリスは、探検およびそれによって発見された新大陸、もしくは新航路を通じた貿易に、当時の超大国スペイン・ポルトガルに比べて極めて立ち遅れており、ヴァスコ・ダ・ガマが発見した、喜望峰をまわるインド航路に代わって、北極海経由でインドにいたる航路を探索しようとしておりました。そこで1553年、ジョン・カボットの息子で本人も探検家のセバスチャン・カボットを総裁とする北東航路探検の組織が作られ、ボナ・エスペランサ号(120トン)、エド ワード・ボナヴェンチャー号(160トン)、ボナ・コンフィデンティア号(90トン)が購入され、探検に乗り出したのです。しかし、厳しい気象条件の下、 エドワード・ボナヴェンチャー号のみがドヴィナ河河口までたどり着いたのです。

 この船の船長は、リチャード・チャンセラーという人物で、北氷洋からインドを目指す航路を開拓中にロシアにたどり着いた船でした。彼は当時のイギリス国 王エドワード6世の親書を携えており、これに興味を持ったイヴァン雷帝はチャンセラーを謁見した後宴会を催してイギリス人を歓迎し、翌1554年、エドワード6世宛てに、イギリス商人を歓迎し保護する旨の書簡を持たせて彼らをイギリスに送り返します。

 祖父のイヴァン3世がハンザ同盟加盟都市ノヴゴロドを支配下におさめたことで、バルト海貿易を握るハンザ同盟と険悪になり、さらにバルト海に面する港をもたず、バルト海貿易から締め出されていたモスクワ大公国としては、西ヨーロッパへ向かうあらたな貿易路を見つける必要があり、それがイヴァン雷帝のイギリスへの興味の理由でした。アルハンゲリスクから出発し白海をぬけ、ユトランド半島を北から回って北部ヨーロッパ大陸に到達するこの航路は冬季の航行が不可能とはいえ、やはりないよりはましです。また、1558年に始まったリヴォニア戦争に際して、当時の先進国リトアニア・ポーランド大公国と対抗するため にもイギリスの軍需物資輸入と技術者招聘を仰ぐ必要があったのです。

 さて1555年、病没したエドワード6世に代わりチューダー朝のメアリー(信心深いカトリックで、ユグノーを迫害したためブラッディー・メアリー、つまり「血のメアリー」と呼ばれましたが)の親書をもったチャンセラーが来航し、「新しい市場開拓を志すイギリス商人商会」、つまりは「イギリス商会(モスク ワ・カンパニー)」の代理人もやって来て、イギリス商人の納税の義務の免除などの内容を含む、ロシアとイギリスとの間で本格的な通商関係が結ばれます。そ してチャンセラーの帰国に合わせてロシア大使イオーシフ・グリゴーリエヴィッチ・ネペヤが出発しました。

 駐英ヴェネツィア大使の報告によりますと、ネペヤの目的は弾薬および大砲の貸付要求であったといいます。ネペヤはイギリスでメアリーに謁見し、ガーター 勲章を授与され、ロシアにおけるイギリス商人と同等の権利をイギリスにおけるロシア商人に与える特権を受け、多数の職人を連れてロシアに帰りました。

 こうしてイギリスとの交流が始まったわけですが、1557年にはイギリス商人ジェンキンスが、外国使節の謁見、全国会議開催、ツァーリの家族の結婚式が行われるクレムリンの多稜宮殿に招かれ、内部の様子を以下のように描写しています。

 − 「皇帝は美しいホールで食事をした。ホールの真ん中にはきわめて不自然な一本の四角い柱があり、そのまわりにさまざまのテーブルが置かれ、最上段の部分に 皇帝の弟・叔父たち・息子・府主教・若いカザンの皇帝、さまざまの貴族がすべて一方の側に座っていた。…私のテーブルはすべて金と銀で覆われているようで あり、同じく他のテーブルの上にも400ポンドの値打ちのある宝石をちりばめた黄金の杯が置かれていた…」−

 インド航路発見を目指して始まったこの探検ですが、ロシアそのものが貿易相手国となりそうになり、なおかつロシアを通じてのペルシャの貿易の可能性が出 てきたのでインド航路探検は中止し、ロシア貿易と、イヴァン雷帝に陳情してのペルシャ貿易開始がモスクワ・カンパニーのメインの目的となります。1560 年代、70年代実際にツァーリの許可を取ってペルシャ貿易を始めますが、トルキスタンの部族の跳梁跋扈による中央アジアの治安の悪さとライバル出現を恐れ たロシア商人の反対に会って中断します。

 さて、時はだいぶ過ぎた1568年、イヴァン雷帝はイギリス商人ジェンキンソンに秘密の書簡をもたせ、メアリーの異母妹で、女王となっていた、愛人はい ましたが当時34歳未婚のエリザベス1世に婚約を申し込んだのです。ちょうどこの時期リヴォニア戦争の泥沼に足を突っ込んでいたイヴァン雷帝にとって、同 じくバルト海に権益を持つイギリスをロシアの同盟国としてリヴォニア戦争に引っ張り込み、なんとか状況を妥協しようと思ってなされたことなのでしょう。





イングランド女王エリザベス1世
1533-1603


スペイン無敵艦隊を破り大英帝国興隆の基礎を作る



 当時、エリザベス1世はイングランド王国併合を狙うスペイン国王フェリペ2世と婚約しており、彼からの約束履行の申し出をあの手この手でかわしていた中 ですし、巨費を食う戦争を極力嫌ったエリザベス1世のことですから、当然時間稼ぎで返事を遅らせます。しかし、イヴァン雷帝がナルヴァをイギリス以外の諸 外国にも解放したため、イギリスからトマス・ランドルフが大使としてロシアに派遣されました。

 トマス・ランドルフはイヴァンとの交渉でペルシャとの取引、ロシアの鉱山採掘の権利、バルト海からの諸外国船の追放の権利という新たな特権を認められ、 この大幅譲歩をえさになんとしてもイギリスをロシアの同盟国とするよう期待されてイギリスに戻ります。が、エリザベス1世はイギリスとロシアの共通の敵に 対しては、イギリス軍がロシア軍に協力する、つまりロシアにとっては敵国でも、エリザベスが敵国と認めない国との戦争にイギリス軍が首を突っ込むのはごめ んという、文面はいかにも協力するように読めますが、事実上の兵力提供拒否の返事が返ってきます。

 イヴァン雷帝は当然怒りの手紙をイギリスに送ります。イギリスからはイヴァンをなだめる外交団がやって来て、イヴァン雷帝としてもリヴォニア戦争では、 クリミア汗国とその後に控えるオスマン・トルコ帝国、リトアニア大公国、のちにはスウェーデン王国まで敵に回してしまったわけで、これ以上敵を作るわけに も行かず、結局はイギリスと和解せざるを得ませんでした。

 1582年、リヴォニア戦争が終わりかけており、8人目の妻がいましたが、またもイヴァン雷帝はイギリス王室との結婚話を探り始め、エリザベス1世の姪 にあたるメアリー・ヘイスティングに白羽の矢を立てます。リヴォニア戦争の結果を諦めきれないロシア側の要求はポーランド王国が標的の攻守同盟で、イギリ ス側の条件は、ロシア貿易に関するイギリスの独占権と、イギリスによる可能な限りの調停を行なった後でのイギリス軍の参戦です。

 この間イヴァン雷帝の妻マリア・ナガーヤに息子ドミートリーが生まれます。この人こそが、ウグリチで育てられ、事故死した後もドミートリー本人だと名乗 る人物が後を断たなかった、いわいる偽ドミートリーの出現で、本人の意思と関わらず有名になってしまった人物です。エリザベス1世の父親のヘンリー8世も 6人妻がいましたから、イヴァン雷帝の結婚事情は気にしなかったでしょうが、戦争に首を突っ込むのは反対で、交渉は難航しましたが、そのうちイヴァン雷帝 本人が亡くなってしまい、この話は立ち消えとなります。


       〜 7. リヴォニア戦争(後期) 〜

 リヴォニア戦争はリトアニア大公国に莫大な負担を与えました。戦費を調達するため様々な方策がとられ、1560-1561年にジグムントは大公御料地を抵当に大貴族から借金を重ね、15591560年の臨時銀税滞納分の一括支払い、1561年には新たな臨時銀税の導入、1561-1562年の塩の専売制、領主に対する騎兵二人につき一人の歩兵負担の勅令…。

 しかし長引く戦争に倦み果て、ロシア軍に押され、単独でロシアと対決することが困難となったリトアニア大公国はポーランド王国に助けを求めました。リトアニア大公国とポーランド王国は共通の君主を頂く連合国とはいえ、それぞれ別個の政府・行政を持っていましたから、さらなる協約が結ばれない限り、リヴォニア戦争にポーランド軍が参加する義務はありません。モスクワ大公国軍の極めて鋭い兵鋒の矢面に立たされ国土が疲弊した上、ヤガイロの最後の子孫ジグムン ト2世=アウグスト王は3回の結婚にもかかわらず息子がおらず、健康にも恵まれず、近い将来の彼の死で王朝が断絶することが確実のリトアニア大公国は、 ポーランド王国に完全に足元を見られます。

 リトアニア大公国救援の見返りに、ポーランド王国が提出した条件はかなり過酷でした。ポーランドとリトアニアはポーランド国王のジグムント2世=アウグ ストを共通の王とし、リトアニアの内政は自治に任されるが、東ポドリア、ヴォリニア、ポドラキア、豊かな国土地帯に恵まれたウクライナはポーランドに割譲 される、つまりはリトアニアの国土の半分弱をポーランド領に直接併合されるという、事実上の吸収合併でした。リトアニアに残されたのは現ベラルーシ地方のみでしたが、リトアニア大公国はこの条件を飲まざるを得ず、これが1569年のルブリンの合同といわれるものです。先にモスクワ大公国に対し大勝利を収めたリトアニア貴族のニコライ・ラジヴィル・ルージーはこれを「かつて自由で独立していたリトアニア大公国という国家の永久の死と破滅」と手紙で語ったとい います。

 ともかく、こうして同君連合から一歩進んで誕生したこの新国家を「ジェチポスポリタ(共和国)」と呼びます。このジェチポスポリタの最高権力機関はポーランド王国、リトアニア大公国両国に共通する議会であり、議会はポーランド国王とリトアニア大公を兼ねる単一の君主を選出します。しかし、両国は同権とされ、合同後も独自の国名、軍隊、法体系は保持されました。しかし、この合同は、実際はポーランド王国のリトアニア大公国の吸収合併です。

 さて、リトアニア大公国の吸収で国力を増したポーランド軍は、リトアニア大公国とクリミア汗国との同盟関係を使い、クリミア汗国とその背後に控えるオスマントルコ帝国と共同作戦を展開、東と南からロシア帝国を挟み撃ちにします。

 1571年、クリミア汗国のポーランドとの共同軍事作戦の一環としてロシア帝国軍の主力がリヴォニアに釘付けになっているすきに、クリミア汗デヴレー ト・ギレイがオプリーチニナ制で大混乱し、あらゆる制度が麻痺したモスクワ大公国に侵攻し、モスクワを焼き払ってしまうという事件が起こりました。

 翌1572年、クリミア汗はオカ川を超えて再びロシアへ侵攻しモスクワ50キロの地点でヴォロティンスキー公(のちにイヴァン雷帝による火あぶりの刑で死亡)率いるロシア帝国軍と正面衝突しました。

 イヴァン4世は、ノヴゴロドへ避難しましたが、戦いはクリミア汗国軍に侮りがたい被害を与えたロシア砲兵部隊の活躍がカギとなり、ロシア軍の勝利に終わりました。イヴァン雷帝はさすがにこの戦いを機に7年間に渡ったオプリーチニナ制を廃止します。さらにロシアは勢力の伸張で新たに衝突したスウェーデン王国とも干戈を交えることとなりました。

 さて、ポーランドでは、リヴォニア戦争が終結せぬままジグムント2世=アウグスト王が死去しヤゲロー王朝は断絶しました。新国王選挙が行なわれることになり、神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン2世の息子エルンスト、ヤゲロー王朝のポーランド人の妻を持つスウェーデンのヨハン3世とその息子ジグムント、 フランス国王ルイ9世の弟で聖バルテミーの虐殺の当事者アンジュー公ルイ・ド・ヴァロア、イヴァン雷帝とそうそうたる人物が候補者に名を連ねました。最初アンジュー公が国王に選出されましたが、フランス王シャルル9世の死でフランス国王アンリ3世の座が約束されるとなると、ポーランド国王の座を放り出します。1575年、ポーランド議会はアンジュー公の退位を宣言しました。






アンリ・ド・ヴァロア(ヘンリク)
1551-1589

一瞬ポーランド王に即位




 ところで1575年秋、服属したカザン汗国の王子で、その血筋はチンギス・ハーンにつらなるというシメオン・ベクブラートヴィチを「全ルーシの大公」に任じ、自らはモスクワ大公に甘んじるという行為に出ます。なぜこんなことをしたのかよくわかりませんが、ともかくシメオンはロシア正教に改宗し、大公位につきますが、またなぜか10ヶ月後には退位させられます。

 ここにきて突如浮上したのがハンガリーのステファン・バトーリで、神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン2世が病気にかかって選挙運動に出られない隙を突いて票固めに走り、さらに故ジグムント=アウグスト王の娘アンナ・ヤゲギェロンカと結婚します。結果としてポーランド議会は後釜として、ステファン・バトーリ(500名から成るコサック連隊を創立した、登録コサック制度の生みの親です)をポーランド王に選出します。バトーリはスウェーデン王国と攻守同盟を結んでロシア帝国に総攻撃を仕掛けました。3度の死闘でポーランドは優位につき、1581年バトーリはプスコフへの攻撃を開始しました。






ステファン・バトーリ
1533-1586

リヴォニア戦争の講和



 ロシアはこのプスコフ攻防戦でからくもポーランド軍を撃退したものの国力が疲弊し、ポーランドも同様でしたので、両国は1582年、ローマ法王庁の仲介で休戦条約を結びました。内容はすべてをリヴォニア戦争の前に戻すというものでした。

 さらにロシア帝国は1581年のスウェーデン軍の攻撃で北エストニア(プロテスタントでしたので、スウェーデン軍の援助をうけていたのです。)を失い、 イヴァン4世はバルト海進出をあきらめざるを得ませんでした。エストニア、ナルヴァ、ラドガ湖にいたるロシア領をヨハン3世のスウェーデン王国に渡すことで1583年、スウェーデン王国とも休戦条約を結びます。25年間の歳月を消費し、莫大な戦費・人命が失われたリヴォニア戦争でロシアが得たものは結局何もなかったわけです。どころか、バルト海への足がかりを失って終わってしまったわけで、むしろ後退、駆け込み的にリヴォニア戦争に参加したスウェーデンの、バルト海進出の足がかりをつくってやったようなものです(これをきっかけとして、スウェーデンはスウェーデン領でバルト海を囲繞する、「バルト帝国」 の道を歩み始めます)。

 もっともポーランド王国も無事ですんだわけではありません。1572年にかつては国王参事会を構成していましたが、大挙して肥沃なウクライナへ入植してしまった土地大貴族のマグナートに代わって、バルト海貿易で力をつけたシュラフタという騎士層たちが、2年ごとに議員が改選される国家の投票で国王を選ぶ ようになります。ちなみにこれは「シュタフラ民主制」とよばれ、ここからポーランド分割までを第一共和制とよびます。が、この議会は全会一致が原則でし て、これが原因となり、他国に買収された議員の一票で議決が流れるなど、後にさまざまな機能不全を起こしました。

 さらに1581年、ローマ法皇庁特使、ボッセヴィーノの報告によると、イヴァン雷帝はアナスタシアの二番目の息子イヴァンの妃エレーナをしどけない格好でいたことを理由に殴りつけて流産させ、それに抗議した息子イヴァンまでもあやまって殴り殺してしまいます。残ったのは三番目の息子で夢見がちな頼りないフョードルだけでした。1581年はイヴァン雷帝にとってまさに災厄の年でした。


     〜 8. シベリア進出ー東方へ 〜

 さて、ロシアの西方進出が完全に失敗したとき、東方では以後のロシア史を決定づける重要な動き―ロシアのシベリア進出―が始まっていました。

 1552年カザン汗国を下し、1556年アストラハン汗国を飲み込んだモスクワ大公国の権威は高まり、なんとシベリアのツァーリ(このころは汗をツァー リと呼んでおりました)、エジゲールがイヴァンに祝辞を述べ、年々貢納することを約束しました。タタール側からロシアへ友好を求めてきたのです。しかし、 イヴァン雷帝のリトアニア戦役への多忙により、エジゲールはクチュム(クシャン)に滅ぼされます。

 カザン汗国征服により、プリカミエ(カマ川地域)へのロシア人の殖民が進みますが、製塩業で財をなしたストロガノフ家は(ビーフ・ストロガノフは、このストロガノフ家のフランス人料理人が考案したと言われています。)、1558年、鉱産資源を発見した(実際トゥーラ川では鉄鉱、ソスヴァ川では銀鉱を発見 しました。)場合はロシア帝国に報告するという条件で、東方一帯の、ストロガノフ家の所領における徴兵権、裁判権、武器購入権をツァーリから与えられまし た。つまりストロガノフ家は、ロシア帝国の東方経営に関し、後年の大英帝国の東インド会社の役割を果たしていたわけです。

 さて1581年、彼らは治安を回復し、交易を円滑たらしめるため、キプチャック汗国残から分離したオルダで、ロシア勢と小競り合いを続けていたクチュムをけん制するため、当時モスクワ大公国の追求を避けてストロガノフ家領に避難していたコサックの頭目エルマーク・ティモフェーヴィチ、コルトゾ(隊商襲撃の罪で欠席裁判により死刑判決が確定し、当時指名手配中。)ら率いるヴォルガ・コサック540人にさらに300人の人員をあたえ、一応布教目的という名目を立てるため三人の宣教師を加えて送り出しました。ちなみに、ストロガノフ家がシベリア獲得のため積極的にエルマークらを支援したというのは、ソロヴィヨフ、カラムージンらの意見です。







コサックの軍勢と共に川を下るエルマーク




 ところが彼らはウラル山脈を越えてオビ川まで進出し、弓矢と剣しか知らないキルギス人を相手に、火縄銃と大砲で攻撃をかけ、1582年トゥーラ川での戦いに勝利、チウーメン市を占領してそこで冬営、1583年クチュムと戦い勝利、クチュムのゲリラ的な攻撃を受けつつもトボール川河口に達しイルティーシュ川 に入り、2週間逗留した後、15831023日、シビル汗国の中心地イシュケル(別名シビル、シベリアの語源です)を攻撃、指揮官マーメットクルの負傷で総崩れとなったクチュム側の軍勢を破り、25日にはイシュケルを占領してしまいました。エルマークはこの戦果を、ストロガノフ家をすっとばしてモスクワに報告、思いもよらぬ大戦果に喜んだイヴァン雷帝は、わずかながらモスクワからの援軍(ボルホフスキー指揮、死後はグルツホフ)と、エルマークの遠征隊参加者全員に報酬と恩赦を与えます。

 モスクワからの援軍到着後、イシュケルにボハラ汗国からの隊商が来ているにもかかわらずクチュムの妨害で先に進めないとの情報を得、イルティーシュ川上流へ向けて進発します。しかし、遠征隊はクチュムの逆襲にあい、1585年コルトゾは戦死し、エルマークは逃亡する途中イルティーシュ川に落ち、溺死しました。イヴァン雷帝から与えられた鎧を着ていたため、鎧の重みで泳げなかったのだと伝えられます。ちなみに現在このイルティーシュ河には日本の石川島播磨重工の建設で、旧ソ連圏最大の橋がかかっております。

 結局クチュムに逆襲され、ボルホフスキーとエルマークの残党はシベリアから撤退し、この遠征は終わりました。が、のちに、スーヒン、ミャースヌイ、ついでユールコフの指揮下の軍隊はエルマークの得た領土を再占領し、エルマークの遠征は、ロシア帝国が本格的に東方に目を向ける契機となります。特にエルマークの進出したウラル山脈のすぐ東で良質の鉱石が発見され、それをもとにピョートル大帝の時代にウラルの製鉄業の中心都市エカテリンブルクや製鉄所が建設されてロシアの工業化に大いに貢献し、ロシアが後にアジア中北部全域を領土に含んだ大帝国へと成長する基礎となったのです。


          〜 9. 雷帝の死 〜