タタールのくびき(2)

〜〜アレクサンドル・ネフスキーの時代〜〜



アレクサンドル=ネフスキー
Александр Невский
1220-1263

モンゴル恭順策をとるもロシアの独立を守る

(作曲家プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」に関しては「ロシア音楽」のこちらを参照)

 


Российская

 

 

История


 

ンゴル帝国の確立は、以前から存在したシルクロードの重要通商路メルプ‐カスピ海−黒海−コンスタンチノープルルート、メルプ−バクダード−アンチオキアルートの安全回復につながり、繁栄を誇ったロシア北部諸都市に深刻な打撃を与えることになりました。


 





13
世紀〜15世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市


地図拡大



 さらにこの時期のロシアは、北西からの本格的な敵対勢力−スウェーデン王国、チュートン騎士団−とも衝突することになります。

 まずスウェーデン王国ですが、小王国分立状態であり、かつてロシアにも大挙してバイキングたちが押し寄せた時代もありましたが、だんだんに統一に向かいキリスト教化も果たし、1155年エリク聖王9世による対フィンランド(スオミ)十字軍を派遣するまでになります。この後、1250年に二回目、1300年ごろに三回目の対フィンランド十字軍を行なっており、フィンランドに触手を伸ばしていく過程で、スウェーデン勢は必然的にノヴゴロドでロシア勢力とぶつかったのです。

 ついでチュートン騎士団ですが、そもそも彼らは第一回十字軍の成功の後、聖地エルサレムを守備する目的でパレスチナに設立された三大宗教騎士団(聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、チュートン騎士団)の一つです。チュートン騎士団は聖ヨハネ騎士団などと同じく、もともとは聖地巡礼者を看護治療する病院、聖母マリア・チュートン病院として発足しました。ところが、力で奪った聖地は力で守る必要に迫られたこの病院は、1199年、教皇インノケンティウス3世の手で、純軍事組織として再編成され、チュートン騎士団として生まれ変わります。

 このチュートン騎士団は第四代団長へルマン・フォン・ザルツァの時代、ポーロヴェッツ人対策としてハンガリー王アンドレイ2世に招聘されました。しかし、与えられたトランシルヴァニアを自領化しようとしてハンガリー王の怒りを買って追放され、今度はポーランドのマゾフシェ公国に異教徒プロイセン人からの公国防衛のために招聘されました。ヘルマンは今度は慎重に行動し、神聖ローマ帝国フリードリッヒ2世に頼み込んで、神聖ローマ帝国皇帝に臣従する代わり、全プロイセンの征服・両流の権利を認めてもらいました。さらに1230年、法皇グレゴリウス9世から異教徒プロイセン人の撲滅を正当化する教書を獲得、大義名分を固めて遠慮なくプロイセンの植民地化にかかります。

 このようにしてチュートン騎士団は、プロイセンに自勢力を植え込み、1252年までキリスト教化しなかったリトアニアへ異教徒撲滅を旗印とした自勢力拡大のための北方十字軍を結成し、しばしば現在のバルト三国付近に攻撃をかけており、勢力拡大のためノヴゴロド近辺にもしばしば出没していました。

 後の1291年、十字軍勢力の最後の牙城アッコン港が陥落し、三大騎士団のすべてが根拠地を失うことになり、三大宗教騎士団中最大の勢力と資金をもっていたテンプル騎士団などは、その財力に目を付けたフランス王の餌食となり、壊滅させられます。ともかく、この時代、中東における十字軍勢力はセルジューク・トルコ勢力に押され気味であったため、チュートン騎士団にとって、プロイセンの自領は自然に重要となり、自勢力の東方の安定のためにもノウゴロド攻略はさらに切実な問題となったのです。


    〜 1. アレクサンドル=ネフスキー登場 〜

 この内外多難な時期に北東ロシアを支えたのが、最終的にウラジーミル大公の称号を得たアレクサンドル=ネフスキーです。



     この章に登場するリューリク一族の系譜


 ―コンスタンチン
   |
   ├ユーリー
   |   |
   |  ├ムスチスラフ
    |   |
   |   └フセヴォロド
    |
   ├ヤロスラフ
    |   ├―――――フョードル
    |   ?        |
   |            ├アレクサンドル=ネフスキー
    |             |
   |            ├アンドレイ
   └スヴャトスラフ   |
                ├ヤロスラフ(トヴェーリ公開祖)
                |
               └ヴァシーリー


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 1220年、アレクサンドル=ネフスキーは、バトゥと戦い敗死したウラジーミル大公ユーリーの弟ヤロスラフ(兄の死後ウラジーミル大公)の息子として生まれました。バトゥの元へ赴いて「ルーシの全諸公の年長者」に任じられた、つまりはバトゥの許可でウラジーミル大公位を確保したヤロスラフの息子だけあって父のやり方を見ていたのでしょうか、剛健一本やりの他のルーシ諸公と異なって柔軟性を持ち、勝てる相手とは戦うが、勝てない相手にはきちんと引き下がる(ハーン詣でを繰り返す)という、方針が実にはっきりした人物でした。

 ネフスキーは北西部のチュートン・スウェーデン勢と南東部のモンゴル勢の両者を敵に回して国土を防衛するのは不可能と判断、より強力かつ兵力提供と納税の義務を果たし、モンゴルの宗主権を認めれば内政には一切干渉しないモンゴル勢に接近し、万が一負けてしまえば領土を奪われ定住されかねず、最悪ロシア人が古プロイセン人の二の舞になりかねないチュートン騎士団・スウェーデン王国と対抗しました。

 重要通商路メルプ−カスピ海−黒海−コンスタンチノープルルートがモンゴル人の手に落ちたため、ロシアに唯一残されたシルクロード交易路はサマルカンド−オトラル−黒海・カスピ海の北部−北ロシア−北海・バルト海ルートのみであり、これを死守するため北部のチュートン、スウェーデン勢に対しては一歩も譲歩しませんでした。

 1240年、バトゥがキエフを陥落させた翌年、ネフスキーは北海・バルト海ルートの要衝にあたるネヴァ川にスウェーデン軍を撃破(ネヴァ川の戦い)、後にネフスキー(Невский,ネヴァの)とたたえられるようになります。

 さらに商業都市のつねとして、軍事力が弱体であったノヴゴロドですが、迫り来るチュートン騎士団の脅威の前に、軍事指揮官としての能力を買ってネフスキーをノヴゴロド公に推戴します。そこでネフスキーは、プスコフを手中に収めていたチュートン騎士団と戦ってプスコフを奪取し、反撃に転じたチュートン騎士団を逆にチュード湖(ロシア語ではЧудское озеро、エストニア語でペイプス湖)上で撃破しました(1242年、チュード湖氷上の戦い)。


 ー「それ(チュード氷湖上の戦い)は土曜日であった。太陽の差し上る頃、両軍が衝突した。はげしい戦闘がおこり、槍の砕ける音、切り結ぶ剣の響きは凍った湖を揺るがさんばかりであった。湖の氷は見えず、一面血でおおわれた。」ー

 と、『アレクサンドル・ネフスキー伝』は伝えます。

 アレクサンドル=ネフスキーがこの二つの戦いに勝ち抜くことで、ロシア全域が外国勢に蹂躪されるという最悪の事態は免れることができ、この功績により彼はロシアの英雄となり、のちのイヴァン4世雷帝(恐怖帝)時代にロシア正教会から列聖(聖人の列に加えられること)されます。


 



列聖されたアレクサンドル=ネフスキー



 もっとも、エイゼンシュテインの映画、アレクサンドル=ネフスキー勲章の令名にもかかわらず、アレクサンドル=ネフスキーの生涯はそれほどわかっていることが多いわけではありません。むしろ彼以前の公(たとえばウラジーミル=モノマフなど)で、生き生きとした記録が残っているためネフスキー以上にはっきりとその性格・事跡がわかる人もたくさんいます。やはり彼の名が高いのは、独ソ戦における戦意高揚のため、スターリンが祖国救済の英雄として持ち上げたことによることが多いのでしょう。


〜 2. 蒙古帝国の権力闘争ー大ハーン位をめぐって 〜

 さて、ここでモンゴル人支配者たちの話に戻ります。オゴタイ=ハーンの死後は、オゴタイの皇后トゥラキナ(ドレゲネ)が監国として、大ハーン決定までの大蒙古帝国を取り仕切ります.。ちなみにこれは、先代大ハーンの死から新大ハーンの選出までは、先代大ハーンの皇后が、大ハーンの代理を務めるという新例となります。

 前ページで述べたように、オゴタイ=ハーンの地位は、末の弟のトゥルイの協力があってこそ安泰になったのであり、さらにトゥルイは、1232年の金国攻略作戦の時、三峰山で金軍の主力部隊を破ると言う戦功を立て、さらに兄が陣中で病に倒れるや、自らの命と引き換えに兄を救うことを祈り、亡くなってしまうのです。

 従って、トゥルイ家の人たちにしてみれば、オゴタイ=ハーンの治世の安定は一門の長のトゥルイの隠忍自重と協力があってからこそであり、オゴタイ=ハーンも生前のトゥルイの配慮に答える形で、トゥルイの息子で甥のモンケと孫のシムランをかわいがり、二人を後継者に指定していました。

 ところが、皇后トゥラキナは、新ハーン正式決定までの間大蒙古帝国の政務を執る一方、モンケとシムランを押しのけて、自分の息子でオゴタイの長男であるグユクを大ハーンに推戴するべく画策し、大蒙古帝国の首都カラ・コルムで、大ハーン選出のクリルタイを開催しようとしたのです。




     この章に登場するチンギス=ハーン一族の系譜


 チンギス=ハーン
     |
     |
     |
     ├――ジュチ
     |    |   ├――――バトゥ
     |    |   ?       |     
     |    |           ├―――サルタク
     |    |            |
     |    |          コンギラト
     |    |   
     |    |
    ボルテ  ├―チャガタイ―┬ムアトゥカン―ブリー
          |          |
          |          ├サルバン
          |          |
          |          ├イスマング
          |          |
          |          └バイダル
          |
          ├―オゴタイ(2代ハーン)
          |     |
          |    ├――グユク3代ハーン)
          |     |    |   |  
          |  トゥラキナ |   |
          |          |   |  
          |          | オグル・ガイムイシ
          |          |
          |         ├グチュー―シムラン
          |          |
           |          └カシー――ハイドゥ
          |
         ―トゥルィ
             ├――メンゲ4代ハーン)
             ?    |
                  ├―フビライ(5代ハーン)
                  |
                  ├―フラーグ
                  |
                  └―アリクブハ


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 バトゥは、皇后トゥラキナとその息子のグユクと仲が悪かったため、グユクがハーンに選出されそうな今回のクリルタイを引き伸ばしており、キプチャク汗国の統治に専念していたのも早い話が今回のクリルタイのボイコットの一環でした。

 しかしいつまでも大ハーン選出を遅らせているわけにはいかず、摂政の権限と先代ハーンだった一門の権力を利用して、皇后トゥラキナは、1246年、一族の重鎮であるバトゥ不在のままカラ・コルムに蒙古帝国全域の諸王侯を集め、クリルタイを開きました。

 クリルタイでは筋書き通りグユクがハーンに選出され、グユク=ハーン(定宗)となります。トゥルイ家の人々の落胆推して知るべしです。新ハーンとなったグユクの即位式には、ルーシからはるばる呼び寄せられた、バトゥとの戦いで戦死したユーリー大公の弟ヤロスラフ大公や、あのプラノーカルピニも出席していました。

 プラノーカルピニは1246628日、カラ・コルムの大ハーンの本陣に到着していたのですが、オゴタイが亡くなり、クリルタイは開かれたものの、グユクが正式にはハーンの位についていなかったので、バトゥに渡したものと同じ内容の訳文をモンゴル側に渡し、返事を待っていたのです。

 式の数日後、カルピニはグユクの大臣チンハイと会い、グユクからの返答を預かりました。この返事は、モンゴル語、ペルシャ語、ラテン語の三通が作られ、そのうちペルシャ語のものは法王庁に残っているそうです。

 手紙の内容はモンゴルの征服の正当化で、具体的な取り決めなどはなく、この返事をもらったカルピニは、1247年リヨンにもどり、インノチェンツォ4世にグユクの返事と報告書を提出した後、おそらくは過労でしょう、まもなく亡くなってしまいました。

 さて、バトゥの遠征の際、モンゴル軍に刃向かい破壊されたウラジーミル大公国は、その後はキプチャック汗国の方針に極めて従順となります。バトゥとの戦いで戦死したスーズダリ公ユーリーの弟ヤロスラフは1243年キプチャック汗国の首都サライを訪れ、バトゥに会見し、バトゥの承認を得てウラジーミル大公となりました。彼がタタール人支配下のロシアで最初のウラジーミル大公です。

 ヤロスラフ大公は1246年、皇后トゥラキナに召還され、先ほど述べたバトゥ不在のクリルタイに出席し、グユクの即位式にも参加しますが、カラ・コルムあるいはロシアへの帰途急死します。『ガーリチ・ヴォルニィ年代記』によれば、バトゥの承認を得てウラジーミル大公となったヤロスラフ大公は、トゥラキナらによってバトゥ派とみなされ、毒殺されたのだと言っています。カルピニも同様の見解を述べていますが、歴史家カラムジンは自然死だと言っております。

 ロシア側ではヤロスラフ大公の死後は年長順番制に従い、ヤロスラフ大公の弟スヴャトスラフがウラジーミル大公位につきました。


〜 3. アレクサンドル・ネフスキーの政界デビュー 〜

 グユクは、そもそもバトゥと仲が悪かった上に、バトゥは自分が選出されたクリルタイをボイコットし、なおかつロシア諸公も出席したグユクのハーンへの即位式にも出てこない、などの事情も加わり、バトゥとグユクとの仲は回復不能なまでに悪化、事態はグユクがバトゥと戦端を開く寸前まで進みます。

 ところが、酒色のたたったグユク=ハーンがわずか足掛け3年で亡くなってしまうと、トゥラキナの先例にのっとり、グユクの皇妃オグル・ガイムイシが、数年間大蒙古帝国の統治を行います。とりあえずは蒙古帝国の分裂は避けられたわけです。

 グユク同様やはりバトゥと仲の悪かった皇妃オグル・ガイムイシは、バトゥの意向を無視して1249年、サライへ、さらにはカラ・コルムに亡きヤロスラフ大公の次男アレクサンドル=ネフスキー(初のサライ行き)、三男アンドレイを召還し、アレクサンドルにはキエフと全ルーシの大公に、アンドレイにはウラジーミル大公位を与えました。ここにネフスキーとアンドレイの二人の大公が登場することになったのです。

 こうしてロシア政界に登場したアレクサンドル=ネフスキーですが、彼は徹底したモンゴル恭順策、もっと正確に言えばバトゥ派に対する恭順策をとりました。

 アレクサンドル=ネフスキーとは逆に、アンドレイは、キプチャック汗国のバトゥと反目する、モンゴル帝国本国のグユク派から大公位を保障されたので、国内ロシア諸公の受けを良くしようとしたのでしょうか、バトゥ派であるキプチャク汗国のモンゴル人に対しては反モンゴル政策をとり、ガーリチ公らと手を結んでモンゴルに対抗しようとします。この態度は当然バトゥの怒りを買い、モンゴル武将のネヴルイがスーズダリ攻撃に派遣されるなどの懲罰遠征がありました。

 このような事情の下、前回無理やりオゴタイ派の人物をハーンに推戴された前回の経験に懲りたか、バトゥ派とトゥルイ派はクリルタイ前の票固めで早々と手を結びます。オゴタイ派の機先を制するためか、1251年、バトゥの独断でカラ・コルムで新ハーン選出のクリルタイが開催されました。結果、クリルタイではオゴタイ派の抵抗を排し、めでたくトゥルイの息子モンケを次期ハーンに選出することに成功します。モンケ=ハーン(憲宗)の誕生でした。オゴタイ派は、前回のバトゥ派の行動と同様、オゴタイ家とチャガタイ家が招かれないまま強行されたこのクリルタイをボイコットしました。

 ともかく、バトゥ派と連携を組んだトゥルイ派の勝利によるモンケ=ハーンの即位により、バトゥ派モンゴル人にあくまで恭順策をとるネフスキーに運が開けてきたわけです。以下、『ラヴレンチー年代記』の記述によると、彼はこの大チャンスを逃すことなく、モンケがハーンに選出されたことを聞きつけるとすぐさま、1252年、バトゥ汗国の首都サライにあいさつに出かけ(2回目)、バトゥの息子サルタクとの面会に成功します。

 モンゴル側では、モンケの選出により旧グユク派(旧オゴタイ派)の力は弱まります。さらにこのクリルタイの結果がおさまらなかった彼らは反乱を起こしますが鎮圧され、グユク派のメンバーが死刑・追放によって一掃されてしまいました。バトゥ派ですが、彼らはモンケ選出の返礼として名実ともにバトゥのキプチャック汗国の支配が認められました。この流れで、1252年、サルタクはネフスキーに、「全兄弟中の最年長者」の地位を与えました。つまり、サルタクは、旧グユク派の息のかかったアンドレイから大公位を奪い、代わりにネフスキーを唯一の大公(ウラジーミル大公)と認めたということです。

 チンギス=ハーンがまだテムジン(鈴木真)と名乗っていた頃、彼の妻ボルテがメルキト部にさらわれた後に生まれたためその出生を疑われ、モンゴル帝国の後継者争いでは常に蚊帳の外に置かれ続けたジュチを父にもったバトゥは、帝国後継者レースは断念しましたが、局外で常に運動を続け、大ハーンにこそなれなかったものの、これより子々孫々にわたる一族の封土を確定することに、とうとう成功したのです。

 さて、頼るもののなくなったアンドレイは、1952年、「見知らぬ土地」へ逃げ、モンゴル人ネヴリュイの軍勢にまで襲われますが、辛くも逃げ延びたようです。こうして、ネフスキーの威光に北西ロシア諸侯が従っていくということになりました。

 しかし、ネフスキーはモンゴルの力を背景に自己の権力を保つため、ハーン詣でを繰り返し、結局生涯のうち5回もオルダに向かうこととなります。

 彼はあくまでモンゴル従順策を崩さず、以下、『ノヴゴロド第一年代記』の記事によると、1257年、サライを他のルーシ諸公と訪れた(3回目)アレクサンドルは、ルーシをモンゴルの徴税機構に組み込むべく、モンゴルの「人口調査人」を伴い帰国します。アレクサンドルらは徴税責任者を決めますが、ノヴゴロドはこれに反発、反タタール税騒乱を起こします。アレクサンドルはこれを鎮圧、自身の息子であるノヴゴロド公ヴァシーリーのノヴゴロド公を罷免し、ヴァシーリーはプスコフへ逃亡し、彼の従士団は厳重に処罰されました。このときはノヴゴロドへの課税は失敗し、モンゴル人は贈り物を持たされただけで帰国しました。おそらくこの件の釈明のため、アレクサンドルは息子アンドレイを伴いサライ(4回目)に向かいました。

 さて、サライから帰国したアレクサンドルは、1259年、ノヴゴロドでのキプチャク汗国の課税台帳作成を強行、またもノヴゴロドで起こった反乱も先頭に立って鎮圧、今度こそはハーンによる戸籍調査を実行させました。今度はノヴゴロドも課税に応じ、ノヴゴロド公には彼の息子ドミートリーが就任します。このように、アレクサンドル=ネフスキーは、生涯でモンゴルに対する忠誠の姿勢を貫きました。

 1261年、彼に息子ダニール(初代モスクワ公)が誕生し、サライ主教座を設立します。しかし、1262年、北東ルーシの主要都市で反モンゴルの暴動がおこり、その釈明のため1263年、アレクサンドル=ネフスキーはサライ訪問時(5回目)に発病、帰国中に44歳で亡くなりました。

 結果的に彼の政策は正しく、この先見の明のある君主を迎えたウラジーミルは順調に発展し、やがてはロシアの最強公国となります。現サンクトペテルブルグにあるネフスキー通り、エカテリーナ一世が創設しスターリンが復活させたアレクサンドル・ネフスキー勲章などはこのアレクサンドル・ネフスキーの功績にちなんだものです。






アレクサンドル・ネフスキー勲章



 このアレクサンドル・ネフスキーの活躍により、アレクサンドル一族はロシアを代表する名門となり、彼の一族によって以後のロシアの政局が左右されることとなります。


〜 4. リトアニア大公国誕生ースラヴ世界の西の雄 〜

 さて、この時代、のちにスラヴ世界の覇権を賭けて、今はまだ誕生していないモスクワ大公国と熾烈な戦いを繰り広げることとなるリトアニア大公国、正式名称リトアニア・ルーシ・ジャマイティヤ大公国が、この時代形成されはじめていました。モンゴルの侵入というスラヴ世界の大波乱に乗じて花々しく登場し、一時はスラヴ世界の盟主にまで上り詰めたこの国の誕生は、一体どのようなものだったのでしょうか。

 文字に残された歴史上、初めてバルト海近辺の民族について記されたのが、1世紀ごろのローマの歴史家タキトゥスの『ゲルマーニア』においてです。彼はゲルマニア人の素朴な風習を褒め上げることで、ローマ人およびその文明に対する痛烈な批判者となりながらも、みずからは当時最も都市設備のととのった快適なローマから動こうとせず、当然ゲルマニアに移住するような気もさらさらなかったという、昨今でもよく見かけるタイプの言論人だった人です。しかし、ともかく良心的であり、正確で詳細な記録を残してくれたタキトゥスは、『ゲルマーニア』、第245において、以下のように語っています。

 ー「…さて、スエーピア海の右岸には波に洗われつつ、アエスティーの諸族がいる。スエーピーの祭祀、服装を有し、言葉はブリタンニア(私の註、イギリス)のそれに近い。彼らは神々の母神を尊信し、信仰の徴として野猪の形を身に着ける。この徴が武器、およびその他のあらゆる防護の手段に変わって、その身、たとえば敵中にありといえども、なお女神の帰依者をして安全たらしめる。

 刀剣の使用は稀に、多きは棍棒の揮用である。彼らは穀物その他の作物を、ゲルマーニア一般の習いたる怠惰の割には、念を入れて耕作するのみならず、しかもすべての者のうち誰ひとり、海を探り、浅瀬の間、または単に海岸においてさえ、彼ら自身がグレースムと称する琥珀を採取する…」ー

 つぎにこの国が文字に記された歴史に登場するのは13世紀のことです。それは宗教関係者にとって、異教を信仰するが故の、大量のキリスト教改宗者予備軍の住まう地、商人にとっては、キリスト教徒の奴隷売買は禁止だったが故の、ヨーロッパに残された数少ない奴隷供給市場、チュートン騎士団にとって、1291年、スルタン・カリルによって聖地エルサレムが陥落し、騎士団の設立目的であった聖地警護の任務が消滅し、存続の理由を失った集団が己の存在意義を見出すための、十字軍を仕掛け、なおかつ領土欲も満たせる土地としてでした。

 12世紀中ごろ、ヴェンデ十字軍がヴェンデ人を征服し、熱意溢れるアルベルト司教の運動で、ローマ法王から十字軍特権を得た軍勢を率いて、ダウガヴァ河の河口に港と都市を建設し、中心に大聖堂を建てました。これが未来のラトヴィアのリガです。1204年、リヴォニアの修道士テオドリック(1211年アルベルト司教によりエストニア司教に任命)が、異教徒の攻撃から植民地を守るため、法皇インノチェンチウス3世からの許可を得て、「帯剣騎士団」なる宗教騎士団を設立し、フィン・ウゴル系のリーヴ人などを征服します。

 1219年にテオドリックはデンマークのヴァルデマール2世勝利王(1241年ユトランド法典を作った王です)の協力を得ることに成功、王は6万と号する大軍を派遣します。ところがエストニア人の抵抗は激しく、軍が敗北寸前になったとき、突然十字をもつ血の色の旗が天から舞い降り、これを見たデンマーク兵は神のお告げが下ったと信じ、反撃に転じ尾勝利を収めたということです。この故事にちなんで赤地に白十字の旗がデンマーク国旗となりました。彼等デンマーク人がエストニアの首都タリン(ターニ・リーン、エストニア語でデンマーク人の町、という意味だそうです。)を建設します。帯剣騎士団は、1224年、エストニア人と仲の悪かったラトヴィア人と同盟し、その攻撃でエストニア征服に成功しました。

 チュートン騎士団も、古プロイセン人の住んでいた地を征服してドイツ化し、住民の名からつけられたプロイセン(古プロイセン人の痕跡は、今となってはこの地名に残るのみです。)を足がかりにしてリトアニアにやノヴゴロドに侵入しました。ノヴゴロドへの侵攻は、アレクサンドル・ネフスキーによって防がれたのは先ほど述べたとおりです。

 このように外国勢力にどんどん侵食されていったバルト海沿岸ですが、そのなかでもリトアニアが独立を保てたのは、深い原始林(ヨーロッパバイソンなどが生息しています。)と湿地に守られていたため、ゲルマン系の侵入から守られためだからだといわれます。さて、この異教の大国リトアニア独自の信仰とは、ウプサラ大司教オラウス・マグヌス・ゴートゥスによれば、

 ー「1500年ごろ令名の高かったドイツの歴史家アルベルトゥス・クランチウス及び、彼についでポーランドのメルコヴィータは、リトアニア人が異教の妄想にとらわれていた時代に、彼等のもとに三つの神、すなわち火と森と蛇が主として崇拝されていた、と主張している」ー

 という話があるそうです。また、ペルクナスという雷の投げ手の神がおり、北欧神話のトール、スラヴ神話のペルーンにあたり、このペルクナスが主神だったといいます。彼等の宗教にはヴァイデロトと呼ばれる祭司階級までおり、聖なる火を守り、ペルクナスを始めとする諸々の神へ捧げ物を納め、予言を行い、戦争に従軍して士気を高め、怪我の治療を行なったといいます。彼等を統括するのが最高司祭クレヴェでした。リトアニア大公自身もヴィリュニス(リトアニア大公国の首都)で忠誠の誓いと血の捧げ物からなる即位式を行なったといわれております。

 さて、リトアニア人は、チュートン騎士団、帯剣騎士団、デンマーク王、などの攻撃を天然の要害に潜んでひたすら黙って耐え忍んでいたわけではなく、彼等の侵入を積極的に迎撃していました。リトアニア人たちは動物や人間を神々への供犠にささげる習慣がありましたから、1320年、捕虜となったサビアの領主、騎士ゲラルド・ルーデは甲冑のまま火葬場で焼き殺されて神々に捧げられ、1389年にはメーメルの司令官ニコラス・カッサウが甲冑に騎上姿のまま馬もろとも焼き殺されるなどしました。リトアニア人はこうして強力な外敵を神々への人身御供として気勢をあげていたのです。

 しかし、さすがに剽悍なバルト語族も、チュートン騎士団を始めとするキリスト教勢力には押されがちだったとみえ、さらに強力なモンゴル人の勢力拡大も迫る中、卓抜したヴィルトゥをもつ一人の人物がこの地に現れ、統一の曙光が見え始めます。その人物こそ、ミンダウガスです。

 キエフスカヤ・ルーシの分裂とともに、現ベラルーシ領域に存在したポロック公国、トゥーロフ公国も分裂の道を歩み、ミンスク公国、ピンスク公国、クレツク公国、ヴィテプスク公国、ドルツク公国、スルツク公国グロドノ公国、ノヴォグルドク公国など、多くの公国に分裂していきました。

 ところが、13世紀後半、ノヴォグルドク公国が台頭を始め、1230年代、後の初代リトアニア王国、ミンダウガスが公となると、ノヴォグルドク公国は急激に強大化しました。軍事能力に長けた彼は、1236年、新たな領土を求めて南部に騎士団長フォルクイン率いる遠征軍を派遣した帯剣騎士団をザウレの戦いで破ります。

 この戦いで団長は戦死、騎士団は崩壊状態に陥り、この知らせを聞いた時の法皇は、帯剣騎士団をチュートン騎士団に編入することを決定しました。この、チュートン騎士団が併合した、帯剣騎士団領部分は、騎士団領があった地名をとってリヴォニア騎士団と呼ばれることもあります。キエフがバトゥによって完膚なまでに破壊された1239年、さらにロシア諸公の弱体化に乗じてスモレンスクを占領しました。





リトアニア国王(大公)ミンダウガス ? 1263
リトアニアを統一




 ミこうしてミンダウガスは、東のアウクシュトータ(この中心地方がトラカイを中核都市とするリェトヴァでリトアニアの名前はこのリェトヴァから由来します)と西のジムジに分かれるリトアニアのうち、アウクシュトータを実効支配し、ジムジにも勢力を伸ばしてしました。さらに異教徒撲滅の十字軍を前面に掲げ、猛烈に侵攻するリヴォニア騎士団の圧力を緩和すべく、1251年これまでのリトアニア独自の信仰を捨て、騎士600人とともに自らもローマン・カトリックに改宗し、リトアニアのキリスト教化の端緒を作りました。さらにはサモジチア北部をリヴォニア騎士団に割譲することで、ミンダウガス自身もリヴォニア騎士団の一員となり、リヴォニア騎士団の攻撃の口実を奪います。

 さらにミンダウガスは、ローマン・カトリック世界から国王位を授かります。1252年、ミンダウガスの居城ヴァルータの館に、クルムの司教を伴ったリヴォニア騎士団の騎士が行列を作って現れました。彼らは王冠を携えており、ミンダウガスは彼らの手によって王冠を受け、大公となったということです。1253年にはリトアニア司教区が創設され、ローマ法王から王位を授けられました。

 こうしてリトアニア王国が誕生し、異教徒撲滅を旗印とするリヴォニア騎士団の領土拡大の大義名分を奪ったミンダウガスですが、ここで旗色が悪くなったのがリヴォニア騎士団です。1252年にはメーメルを建設し、クールラントとプロイセンをバルト海沿岸で連結することに成功したものの、リトアニアがキリスト教化した以上、これまでのような異教徒相手の十字軍という大義名分がリトアニア王国に対しては使えず、リトアニアでのこれ以上の領土回復が望めないということになります。

 さらに、騎士団は神聖ローマ帝国の保護下に入ったため、13世紀中ごろ猖獗を極めたギベリン(皇帝党)とグエルフ(法皇党)にもろに巻き込まれることになります。イタリア半島における俗権の優越(神聖ローマ帝国の支配)か神の国の法の優越(ローマ法王庁領の世俗の権力からの独立)かでヨーロッパ中世、ことにイタリア自治都市国家群は揺れに揺れ動きましたが、チュートン騎士団はもちろんギベリンを選ばざるを得ず、リヴォニアにある独立司教領、あるいは、新たに司教区に昇格した地に派遣されてきた司教たちと対立せざるを得なくなりました。

 むしろこれからはローマから、自分達を敵視するグエルフの司祭たちがどんどん派遣され、せっかく血を流して獲得した領土がみすみす法王庁によって支配されるのを当然潔しとしなかった彼らは、独立系のゲルマン人修道士の既得権を強化しようと画策し、両者の対立がおこります。さらにこの状況の中12601261年、異教徒とゼンガール人が反乱を起こし、反乱軍がリヴォニア騎士団をドゥルベの戦いで敗走させたため、1262年、ミンダウガスは棄教したとされます。

 ー「おお、これほど悪い悪は無い。ミンダウガスは黄金に目がくらんで教皇に使者を派遣し、キリスト教を受け入れたが、洗礼は偽装であり、異教の神々に捧げ物を行い、使者の遺骸を焼き、自らの異教の風習を白昼堂々と行なっていた」ー

 と、『ガーリチ・ヴォルニィ年代記』では非難されています。しかし、キリスト教に改宗した異教徒の恨みは大きく、ミンダウガスは、1263年、ダウマンタスに暗殺されてしまいました。アレクサンドル・ネフスキーと没年は同じです。

 ところで、慧眼な読者の皆様はお気づきでしょうが、私はリトアニア大公国の話をしようとするのに、初代リトアニア国王ミンダウガスの最初の根拠地は現ベラルーシのノヴォグルドク公国だといいました。つまり、リトアニア大公国はこのベラルーシの地にあるノヴォグルドク公国を母体に発展していった国家なのです。それでは、リトアニア大公国はいったいリトアニア人主体の国なのか、ベラルーシ人が主体の国なのか、どっちなのかと。

 この問題に関しては、リトアニアの歴史学者とベラルーシの歴史学者の意見が真っ向から対立して、今なお解決をみておりません。リトアニア人は、リトアニア大公国の政治的支配勢力がリトアニア貴族であったことから、リトアニア大公国はリトアニア人の作った国だと主張します。ところがベラルーシ人は、リトアニア大公国の公用語が古ベラルーシ語であり、住民の大多数がルテニア人(ウクライナ、ベラルーシ人の先祖)であり、現ベラルーシにあるノヴォグルドク公国を母体に発展していったのだから、リトアニア大公国はベラルーシ国家である、と主張しております。


〜 5. ベルケ・ハーンの時代ー南西ルーシ諸公服属 〜

 北東ルーシ諸公は、かれらの盟主ウラジーミル大公が戦場で粉砕されるという、モンゴルの恐るべき力を目の当たりにする機会を得たということもあって、一応独立状態ではありますが、キプチャク汗国を盟主と仰ぎ、キプチャク汗国への徴税支払いおよび汗国の戦争へ同盟軍として参加する義務を受け入れました。

 これとはまったく対照的に、南西ロシア諸公は、先述したチェルニーゴフ公ミハイルが最後までモンゴルに抵抗して死んだ例の示すがごとく、モンゴルに対して極めて非従順であり、水面下であくまでハーンの支配に対して抵抗します。

 その最たるものが、ガリーチ・ヴォルイ公国のダニールです。ダニールは、その父ロマンと同じく幼い頃はポーランド宮廷で育ち、バトゥが攻め寄せてきた時、ハンガリーやポーランドに亡命を許可してもらったり、あるいはそのときの返礼で、ドイツとハンガリーが戦ったときはハンガリーに兵力を提供したりと、何かと西の国々と交渉をもっていました。さらには時の法皇、インノケンティウス四世から王の称号をもらったりしています。

 この時代、バトゥが亡くなり、サルタクがキプチャク汗国のハーンとなっていました。ところが、ダニールは、バトゥに対し忠誠を誓っておきながら、リトアニア大公国のミンダウガスと結んでモンゴルに対抗しようとし、ミンダウガスもロシアと結ぶことで背後を安全にし、宿敵チュートン騎士団と干戈を交えるべく画策していましたので、利害の一致した両者の間で話がまとまります。

 そこでガリーチ・ヴォルイ公国のダニールはミンダウガスの姪を妻に向かえ、ミンダウガスの息子ヴォイシェルクがギリシャ正教に改宗します。このヴォイシェルクが仲介に入り、1254年リトアニア大公国とガリーチ・ヴォルイ公国との間で条約が結ばれました。内容は、ダニールの息子ラマーンが、リトアニア大公国が支配していた黒ロシア(ヴォルイニ公国北部)を受け取り、ラマーンはリトアニア大公国に臣従する、ラマーンの弟はミンダウガスの娘を娶る、というもので、こうして両国の同盟が結ばれたのでした。

 ところが、どうも胡散臭いものがあると感じたモンゴル側は、軍を率いたクレムサを派遣し、クレムサはウラジーミルに使者を送りますが、人々は露骨に反タタール姿勢を見せ、使者と戦闘状態に入り、ダニールと弟ヴァシリコも戦闘準備をすすめます。クレムサはルーツクの町を包囲しますが、カタパルトが故障してルーツク攻略に失敗、タタール軍は平原に撤退します。

 タタール撤退の報を聞きつけて、ウラジーミルには一気に反タタール勢力が終結し始め、これを当然捨て置けぬモンゴル側は、1255年、早世したサルタクに代わり、キプチャク汗国はベルケ・ハーンの時代になっていましたが、彼はバトゥの征西軍の指揮官の一人、キエフ攻略にも加わった猛将ブルンダイを送ってこの軍事力の威嚇の下に、リトアニア遠征への参加を強制します・

 タタール人の圧倒的な軍事力の前にダニールも屈服せざるを得ず、ブルンダイのリトアニア侵攻に呼応して弟のヴァシリコを送って黒ロシアへ軍を侵入させます。当然協約違反ですから、リトアニア大公国側はダニールの息子ラマーンを殺害し、両公国の同盟関係は消滅しました。

 さらにブルンダイは軍勢を率いてガリーチ・ヴォルイ公国に現れ、恐怖にかられてハンガリーに逃げたダニールに代わってブルンダイの前に出頭したヴァシリコに対し、1259年南西ルーシの主要都市を無防備化することを命令、これに従ってダニーロフなどの砦が破壊され、やっとこさ南西ルーシの非武装化が終了し、ダルガチが派遣されてここからモンゴル人のルーシ全土の統治が始まりました。これらの全てが終わった後、失意のうちにダニールは早世します。

 ところが1262年、今度は割りとおとなしかった北東ルーシ諸侯の地、ウラジーミル、ロストフ、スーズダリ、ヤロスラヴリなど、北東ルーシの中心地でモンゴル人に対する反乱がおこります。色目人からなるダルガチは立場を悪用して不正を働くものも多く、この反乱はモンゴルに対するものというより、徴税人に対して向けられたものでした。

 もちろんベルケ=ハーンは懲罰軍を送って反乱を鎮圧しますが、次の代のハーン、モンケ・テミュルは汗国の役人を直接徴税人として派遣することになります。

 これらの反乱をへて、キプチャク汗国の統治はだんだん安定したものとなっていきました。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 北欧の歴史』
    武田龍夫 著
     中央公論社

   ・『物語 パルト三国の歴史』
    志摩 園子 著
     中公新書

   ・『パルト三国』
    パスカル・ロロ 著 小沢重男 訳
     白水社

   ・『パルト三国史』
    鈴木 徹 著
     東海大学出版会

   ・『歴史の狭間のベラルーシ』
    服部 倫卓 著
     東洋書店

   ・『ゲルマーニア』
    タキトゥス著
     岩波文庫

   ・『ロシアの源流』
    三浦清美 著
     講談社

   ・『ロシア中世物語集』収録 / アレクサンドル・ネフスキー伝
    中村善和 編訳  
     筑摩叢書

   ・『ロシヤ年代記』収録 / ガリーチ・ヴォルイニ年代記
    レーベジェフ 編・除村吉太郎 訳
     原書房


   ・『タタールのくびき』―ロシア史におけるモンゴル支配の研究
    栗生沢猛夫 著
     東京大学出版会


   ・『世界の歴史 6 宋朝とモンゴル』
    栗原益男 山口 修 著
     教養文庫

   ・『元朝秘史』
    小沢重男 訳
     岩波文庫

   ・『蒙古史』
    ドーソン 著
     岩波文庫

   ・『中央アジア・蒙古旅行記』
    カルピニ/ルブルク 著 護 雅夫 訳
     光風社出版

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー