タタールのくびき(3

〜〜キプチャク汗国の最盛期とモスクワ公国の台頭〜〜





『チトゥリャールニク』<1672>より

イヴァンI世カリター
/ Иван TКалита(-1340)

モスクワ大公

モスクワ公の大公位授与を確定する

 

 


Российская  
 

История


 


   〜 1. 大蒙古帝国情勢ー分裂と抗争 〜

 ベルケ=ハーンはバトゥの建設した首都サライ(バトゥ・サライ)をヴォルガ川上流240mの地点という交通の要所に移し、新サライ(ベルケ・サライ)へと移します。これにより、ヨーロッパとアジアをつなぐ新流通センターが誕生したこととなり、キプチャク汗国は益々発展を遂げていきます。

 ここで蒙古帝国の中心地で大政変が起こりました。フビライが、バトゥの顰に倣ったのか、一門全員の賛成を得ずに開平(元の上都、フビライの居城がありました)で開いたクリルタイでハーンに推戴されたのです。ジュチ家(バトゥ派)と手を握り、協力してオゴタイ家を追い払ってハーンの座に着いたトゥルイ家の面々でしたが、外敵がいなくなると今度は一門で争いを始めたということです。





世祖フビライ=ハーン




 原因はフビライの中国化です。モンゴル諸公子中もっとも中国文化に理解を示し、中国人官僚を取り立てていたフビライに対し、宮廷中での地位を失ったモンゴル至上主義者が反発を感じ、かれらがフビライの弟のアリクブカを中心に反フビライ勢力を集めていたのです。

 彼らの反目は南宋攻略作戦中(顎州の役)、総大将のモンケ=ハーンが病死したことで表面化しました。この作戦には、モンケ=ハーン、ウリャンハタイ、フビライが出征し、アリクブカはカラコルムにとどまっていました。モンケ=ハーンが率いていた本隊はそのまま本国へ引き返しましたが、顎州を包囲していたフビライは、安南(ベトナム)から攻め入ったウリャンハタイと連携をとりつつ帰国したため、帰国が遅れてしまいました。

 フビライの抱える中国人官僚あたりから、どうもアリクブハは着々とカラコルムで票固めに着々と動いているらしい、いまからクリルタイに出席してもハーン位が得れるかどうかわからないので、南宋遠征軍を抱えているという軍事的優勢を生かして勝手にクリルタイを開催してハーンになってしまいましょう。そうすれば、いくら文句が出ても手持ちの軍勢を使って戦争を吹っかければモンゴリアはさからえないだろう、などという建策があり、フビライはこれを受け入れ、1260年、クリルタイを開催して、年号を元とあらためます。

 あたりまえですが、これには激しい反発が起こり、特にアリクブハはこの一ヵ月後カラコルムでクリルタイを開いてハーンに推戴され、独断専横を許すなとばかりにフビライに対して軍事行動を起こします。トゥルイ家の内部対立ここに至れり、といった風ですが、このときアリクブハが頼ったのがオゴタイ汗国のメンバー、ハイドゥです。

 オゴタイ家一門は、前回のクリルタイで一家の押す候補シムランがモンケに破れてしまい、しかもオゴタイ一家はシムランを奉じて反乱を起こして、これにも敗れたため処刑・追放の嵐に見舞われて、すっかり勢力を失っていたのです。この事件を忘れず雌伏していたのが、当時一家の長だったハイドゥです。ハイドゥはこのアリクブハの提案を受け入れ、お家再興を図ります。

 この混乱をまっていましたとばかりに、ベルケ・ハーンは1261年水槽豊かなホラズム・アゼルバイジャン地方を巡って、フラーグと戦闘状態に入ります。バグダードを攻略し、イラン付近を領有していたフラーグはモンケの死後すぐにクリルタイに出席しようとしたのですが、エジプトのマルムーク朝という大敵を控えて動きが取れない時期にベルケ=ハーンに攻め込まれたのです。ところがアゼルバイジャンは後のイル汗国内での有数の牧草地帯ですからフラーグもここを手放すわけには行かず、アゼルバイジャンのタブリーズを首都とし、ベルケ=ハーンとの全面戦争に突入します。

 ちなみにちょうどこの時期(1260年ごろ)ベルケが謁見したのがヴェネツィア商人ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟で、ニコロ・ポーロとはあのマルコ・ポーロの父親です。二人はベルケに宝石を送り、その二倍の代金の品物をもらいましたが、いざヴェネツィアに帰ろうとしたさい、先ほどのべたキプチャク汗国とフラーグの戦闘が起こり、南西への道が危険となり、そこでボハラを目指しました。そこで、3年間滞在していると、フビライから使わされた使者がボハラに立ち寄り、使者の招きにより二人はフビライの治める元に向かうこととなったのです。

 さて、アリクブハは干戈を交えるとあっさりフビライに破れ、1261年、フビライのハーン位を認めることを条件にフビライと和睦します。あてがはずれたハイドゥですが、1266年、挙兵し、元朝にたいするあからさまな敵対行為にでます。ハイドゥが統治することになるオゴタイ汗国の領域は外モンゴリアの西、バルハシ湖の東側で、荒地だらけで農業には適さず、したがって租税を納めてくれる農民は住まず、ユーラシア大陸の中心に位置しながらシルクロードのコースからも外れているため関税収入も期待できないという悲惨な地域でした。しかも豊かな中国を手に入れた元がすぐ隣、というわけでこのジリ貧状態から脱出するためには元を攻撃するしか手はなかったのです。

 しかし、ハイドゥの支配地域は経済水準が低かっただけあって、モンゴル兵の精強さをそのまま残しており、この兵力を使ってハイドゥは、最初は敵対していたチャガタイ汗国のボラクを武力で屈服させて味方につけます。そしてボラクと共同で元の支配地ソグディアナを攻略し、この地の分割をえさにキプチャク汗国をおびき寄せます。ベルケ=ハーン没後、キプチャク汗国を継いだモンケ=テミュルはこれにのり、ハイドゥは三大巨頭連合を作り上げることに成功し、1269年タラス河で開かれたクリルタイで三勢力から一致してハーンに推戴され、オゴタイ汗国を旗揚げしました。

 こうしてお互い背後の安全を確保した三カ国はそれぞれの敵を、キプチャク汗国はカフカス方面でフラーグの支配地域を、チャガタイ汗国もアム川を越えてフラーグの支配地域を、オゴタイ汗国は元を攻撃にかかりました。兄フビライに忠実だった弟フラーグはあくまで元の宗主権を認めますが、連絡路を三ハーン国に遮断されているためやむなく「ハーンの任命する大ダルガチ」を自称し、息子のアバカの時代にフビライからハーンの位を授けられ、イル汗国を立ち上げます。こうして大蒙古帝国は完全に分裂してしまったのでした。


〜 1. ウラジーミル大公国の衰退ーネフスキー以降 〜

 さて、以下のような情勢をにらみつつ、ロシアに話をもどします。富強を誇ったウラジーミル大公国ですが、アレクサンドル・ネフスキーの死後は大公位を巡って混乱が続きました。アレクサンドル・ネフスキー大公には息子ドミートリーとアンドレイ、さらに末っ子のダニールがおりましたが、、ヤロスラフの子のヴァシ−リー大公が亡くなると、年長順番制に従い、兄ドミートリーがバトゥの孫モンケ・テミュル(チムール)から大公位を授かっていました。



     この章に登場するリューリク一族の系譜


  ―アンドレイ
    |
   ├アレクサンドル・ネフスキー――ドミートリー
    |                    |
   ├ヤロスラフ(初代トヴェーリ公) ├―アンドレイ
    |                    |
    └ヴァシーリー           ダニール
                       (初代モスクワ公)

   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 ところが兄のドミートリーは、ウラジーミル大公位は伝統的にノヴゴロド公位もかねることになっていたため、ノヴゴロドでの権益拡大に熱中し、キプチャク汗国に対しておろそかな態度を取っていました。そんな中、弟のアンドレイは、モンケ・テミュルにまめまめしく忠勤を励んでおりました。1277年にイル汗国との戦いで、キプチャク汗国のモンケ・テミュルがアゼルバイジャン領有を狙ったカフカース遠征を企てると、アンドレイはロストフ公やヤロスラフ公とともに手勢を率いて参戦し、ハーンのために戦いました。

 さてモンケ・テミュル没後、トゥダ・モンケが新ハーンとなったとき、兄のドミートリーは相もかわらずノヴゴロドでの紛争に熱中していましたが、弟アンドレイはすぐさまサライを表敬訪問し、トゥダ・モンケからヤルルィクを授かり、大公位を得てしまいます。ドミートリーは、かれこれ200年以上も続く、伝統的なヤロスラフ賢公の定めた長子相続があるもんですから、まさか一族の最年長者の自分のウラジーミル大公位が脅かされるとは、夢にも思わずたかをくくっていたんでしょう。しかし、モンゴルにとってはそんなルーシの慣習なんかあまり関係ないわけで、ようは自分たちに忠実であれば基本的にロシア諸侯の誰がウラジーミル大公位をついでもいいわけです。



     この章に登場するチンギス=ハーン一族の系譜


  バトゥ
   ├――――サルタク
 コンギラト    |
          ├トゥガン―――バルト
           |           |
           ウラグチ     ├―トゥダ・モンケ
                      |
                      └―モンケ・テミュル

                       ノガイ


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 もともと遊牧生活を送っていたポーロヴェッツ人は直接支配下においたものの、ロシア諸国にはダルガチすら引き上げさせ、ロシア大公を通じた徴税・兵役を課すのみの間接統治(というかそもそも先進服属多民族を統治しきれる複雑な政治機構そのものを自分達は持っていなかったというほうが正解でしょうが)を敷き、ロシアにめだった政治上の痕跡を残さなかったモンゴル人たちですが、ことロシア人の間で重んじられていた長上権を殆ど考慮しなかったという点では、キエフスカヤ・ルーシ時代とは全く異なる政権交代方法をロシアにもたらしたわけでした。

 というわけで、なんと弟なのにもかかわらず大公位を得たアンドレイは、キプチャク汗国に対しては不真面目な兄を懲らしめようと、カウガーディーらの率いる汗国軍とともに帰国し、ペレヤスラヴリにいた兄を攻撃します。これら全てを不服とした兄のドミートリーはバトゥの一族ではありませんでしたが、当時キプチャク汗国の実力者であったノガイにことの次第を訴えます。

 1283年、ノガイの援軍と共にロシアに帰国したドミートリーの前にアンドレイはウラジーミル大公位を兄に譲ります。ところがこれはトゥダ・モンケの面子をつぶすことにほかなりませんから、1285年、トゥダ・モンケの支持を得たアンドレイは、ドミートリーを攻撃します。

 こうしてウラジーミル大公国の二大実力者を巡り、ロシア諸公はアンドレイ派(トゥダ・モンケ派)とドミートリー派(ノガイ派)に真っ二つに分かれ、汗国内部の権力闘争も加わったこの問題は激化し、本家本元のキプチャク汗国内で内乱が起こります。が、結局トゥダ・モンケ、トレボガ、その次にノガイの策謀により、トフタがハーンの地位に着くと、トフタは両雄並び立つキプチャク汗国の情勢に終止符を打つべく強攻策を取り、アンドレイ大公支持で固まったモンゴル軍が、兄ドミートリーの領地を攻撃し(トフタ=ハーンの弟ヂュデンによる軍事侵攻)、ドミートリーが勢力を失ってプスコフへ逃亡することでこの問題には決着がつきました。さらに1300年、トフタの攻撃のよってノガイが敗れ去り、ロシア人援軍部隊の手によりノガイが殺されることでキプチャク汗国の内乱はおさまりました。

 こうして、長年の伝統をひっくり返し、アンドレイは年上の兄がいたにもかかわらず、ウラジーミル大公位を手中に収めます。さすがはアレクサンドル・ネフスキーの息子、相当な実力の持ち主です。しかしこれは、ルーシの地に、下克上の風、肉親間での権力争奪戦の激化に対する先例を作ってしまったということでした。


 〜 2. モスクワ、トヴェーリ台頭ー二大強国への道 〜

 しかし、ウラジーミル大公国はこのような兄弟内紛で国力を失いロシア全土への権威を喪失していきます。このウラジーミル大公国に代わって台頭してきた勢力が、モスクワ公国とトゥベーリ公国です。


 





13
世紀〜15世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市

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 モスクワの名前が最初に文献にあらわれるのは、キエフスカヤ・ルーシの後期、当時キエフ大公位を賭けてイジャスラフと争っていたユーリー・ドルゴルーキーが、1147年、「兄弟たちよ、モスクワなるわがもと来たれ。」とスヴャトスラフ・オリゴヴィッチに声をかけ、モスクワに招いてスヴャトスラフ一家を歓待したのが始まりです。やって来たのはスヴャトスラフとその息子のオレーグとウラジーミルでした。ここでユーリー・ダルゴルーキーは盛大な正餐で彼らを厚くもてなし、同盟を結ぶと共に事実上彼らの保護者に収まったのでした。

 さらに1156年、ユーリー・ドルゴルーキーはネグリンナヤの河口付近にモスクワを作り、つまりは自分の邸宅の周囲に木造の城壁をめぐらし、都市としたのがモスクワの起源です。しかし、モスクワはキエフスカヤ・ルーシ時代にあっては目立たない一都市にすぎませんでした。

 このモスクワが公国となるのはアレクサンドル・ネフスキーの末子ダニールがモスクワを自領とするようになってからのことでした。キエフスカヤ・ルーシ時代には、年長者の方が相続順位が高かったため、末子であるダニールは、ウラジーミル大公位を得た兄のドミートリーや、後にそれを奪い取ったこれまた兄のアンドレイとくらべ、相続上極めて不利な立場におかれることになります。そこで、モスクワという当時はまだ小さかった町を与えられたのです。





初代モスクワ公ダニール
12611303



 厳しい立場におかれたダニールですが、彼は領土拡張のための努力を重ね、コロムナのコンスタンチン公を欺瞞によって捕虜としコロムナを併合し、ペレヤスラヴリの兄のドミートリーを攻撃したにも関わらず、トフタ=ハーンの弟ヂュデンの攻撃とプスコフ追放を食らったそのドミートリーの死後、その子イヴァンと親しくなり、イヴァンは善良で子どもがいなかったことを利用し、遺言状でペレヤスラヴリをモスクワ公国に寄贈すると書かせることに成功しました。年長順から言えば当然兄に権利がありますから、ダニールの兄のウラジーミル大公アンドレイはペレヤスラヴリの相続を主張しました。

 こうしてもめにもめているロシア情勢を立て直そうと、トフタ=ハーンは、1297年に汗国の使節ネヴルイを派遣してウラジーミルで諸公会議を開催します。特に問題となった議題はロシア諸公国の利害の調整、ペレヤスラヴリ帰属問題でした。ところが、やっぱりというか、会議は紛糾し、刃傷沙汰になりそうになったので、ウラジーミルの主教シメオンとサライの主教イズマイロの仲裁で会議はお開きとなりました。この決定に不服で実力行使に出たウラジーミル大公アンドレイがペレヤスラヴリを併合しようと軍を派遣しますが、このときはドミートリー派で結託していたモスクワ公ダニールとトヴェーリ公ミハイルの軍に行く手を阻まれます。

 かくてペレヤスラヴリ問題を解決するため、1301年ドミトロフで再度諸公会議が開かれ、そこでウラジーミル大公アンドレイとトヴェーリ公ミハイル、モスクワ公ダニールとペレヤスラヴリのイヴァンが会議で対立しました。しかし話し合いの折り合いがつかないまま、1302年にイヴァンが死去した際、ダニールは遺言を執行し、1303年後を追うように自分も亡くなります。

 ダニールの息子ユーリーは、父の死後モスクワ公となり、1303年モジャイスクを攻めてモジャイスク公を捕虜とし、モジャイスク併合に成功し、父が捕虜としたコンスタンチン公を殺害することで、コロムナをモスクワ公国に完全併合します。1303年、諦めきれないウラジーミル大公アンドレイは、ペレヤスラヴリの件をトフタ・ハーンに直訴し、1304年、トフタ・ハーンはペレヤスラヴリにロシア諸公会議を招集させます。

 ウラジーミル大公アンドレイ、モスクワ公ユーリー、トヴェーリ公ミハイルなどの関係者が集められ、立会人の主教マキシムの前で、汗使はトフタ=ハーンのヤルルイクを読み上げました。その内容は、これ以上のいかなる紛争も、キプチャク汗国は望まない、従って全ては現状維持である、ということでした。もちろんモスクワ公国のペレヤスラヴリ併合の既成事実も承認され、こうしてモスクワ公国は、ロシア諸公国中で目立った存在になります。

 また先ほど述べたトヴェーリは、1209年初めて分権にその名を現し、1247年、アレクサンドル・ネフスキー公の弟ヤロスラフを奉じペレヤスラヴリから分離独立したのがそもそもの始まりです。のちにこのヤロスラフがウラジーミル大公位を得て、トヴェーリ公国経営に辣腕を振るうことになります。

 このロシアにおける二つの新興勢力は、ウラジーミル大公位、ロシアの覇権をかけ、すさまじい闘争を開始することとなりました。


   〜 3. モスクワvs.トヴェーリ−仁義なき戦い 〜

 ー…この年(1307年)、ルーシの地に戦があった

    ミハイル(トゥヴェーリ公)、ユーリー(モスクワ公)と

    ノヴゴロド公位を争った。

    これら公の世に、内紛の種がまかれ

    芽が吹き出した

    ダージボーグの孫の宝はむなしく滅び、

    公たちの内乱で人の命も短くなった…ー


 『プスコフ使徒行伝』の末尾に記されたという、写字生ドミドの詩が示すごとく、ウラジーミル大公アンドレイが死ぬと、当時急速に力を伸ばしつつあった初代モスクワ公ダニールの息子モスクワ公ユーリーと当時トゥベーリの公であったミハイルの間で大公位をめぐる熾烈な争いがおこりました。1308年、ノヴゴロド公に支払われる裁判手数料などから軍資金を調達するのに最適な商都ノヴゴロドの公となったミハイルは、1312年、ノヴゴロドに対する戦争を仕掛け、代官を引き上げ、食料の搬入を止め、ノヴゴロドに揺さぶりをかけ、さらに支配を強めようと画策します。



     この章に登場するリューリク一族の系譜


 ├アレクサンドル・ネフスキードミートリー
  |                 |
  |                ├アンドレイ
  |                 |
  |                  └ダニール
  |                     |
  |                     ├アファナーシェフ
  |                     |
  |                    ├ユーリー
  |                     | 
  |                    └イヴァン・カリター
 ├ヤロスラフ
  |    |
  |   ├ーーーーーーーーーミハイル
  |    |                |
  |   ?               └ドミートリ
  |                      |
  |                      ├アレクサンドル
  |                      |
  |                     └コンスタンチン
  |
  └ヴァシーリー


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 当時のキプチャク汗、トフタ=ハーンはトゥベーリ公ミハイルをウラジーミル大公にする決定を下しました。モンゴル人の政治情勢ですが、トフタ=ハーンは、おそらくハーン位の相続時における揉め事を回避したかったのでしょう、遺言状を作成し、自分の息子のイリバスムイシを後継者にしていました。ところがトフタ=ハーンの死後、富裕なイスラム商人層およびキプチャク汗国の知識階級のイスラム聖職者の支持を受けたウズベク=ハーンが、ハーンの位につきます。ちなみにイスラム教に改宗したウズベク=ハーンはビザンチン皇帝アンドロニクス3世の娘と結婚し、ウズベク=ハーンの即位は、モンゴル人がイスラム教徒に改宗し、キプチャク汗国がイスラム化するきっかけを作りました。

 さて、ミハイルは、ウラジーミル大公位を認めてもらうべくウズベク=ハーンの元に伺候しますが、なかなか許可が下りず、2年間の足止めをくらいます。と、その間、トヴェーリ公の代官に過酷な仕打ちを受けていたノヴゴロド市民がモスクワ公ユーリーに使者を送り、彼にノヴゴロド公位を提案します。もちろんユーリーはこれを受け入れ、ミハイルにとってさらに悪いことに、ウラジーミル大公位をユーリーに渡すつもりなのか、ウズベク=ハーンはモスクワ公ユーリーを新サライに召還したのです。

 1315年、やっとヤルルィクを得て帰国したトヴェーリ公ミハイルは、ハーンの軍勢の力を借りて一路ノヴゴロドに向かいます。ノヴゴロドの方でも防戦の準備を固め、モスクワ公ユーリーの兄アファナーシー公、およびルジェフ公フェオドルがノヴゴロド貴族と共に防戦し、ノヴゴロドから出撃してトヴェーリ公ミハイルの軍と戦いましたが、戦いに破れ、アファナーシーとフェオドルを人質に差出し、5万グリヴナの賠償金をトヴェーリ側へ支払う条件での講和を持ち出し、ノヴゴロド側はこれを飲みました。

 ところがトヴェーリ公ミハイルの統治はよほどの悪政だったのか、1316年、ノヴゴロドはミハイルの代官を追い出し、またもアファナーシェフを総大将に迎え、軍勢を集めてトルジョクまで打って出ますが、トヴェーリ公ミハイルに打ち破られ、アファナーシェフが命からがらノヴゴロドまで撤退します。ノヴゴロドは徹底抗戦の覚悟を決め、親ミハイル派と思われる人物の徹底粛清を実行し、市の周りに柵をめぐらし、ノヴゴロドの統治する5つの州から兵を借り集めます。結局ノヴゴロドのあまりに強烈な抗戦ぶりの前にミハイルの軍は恐れをなしたのか、ウスチヤニの前で兵を引き、トヴェーリへと帰還しました。こうしてノヴゴロドは実力でミハイルをノヴゴロド公の地位から追い払ったのです。



     この章に登場するチンギス=ハーン一族の系譜


バルト
  |
  ├―トゥダ・モンケ
  |
  └―モンケ・テミュルトフタ
               |
     ノガイ      └トグリルガ―ウズベク=ハーン 


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 さて、トヴェーリ公ミハイルと同様モスクワ公ユーリーも、2年近くウズベク=ハーンのもとに抑留されていましたが、どういう手段を使ったのか、ユーリーはウズベク=ハーンに気に入られることに成功しました。ユーリーはハーンの娘コンチャカ(洗礼名アガフィア)を娶ることに成功、その上1317年、ユーリーに大公位を認めるヤルルィクまで得ます。ハーンの娘まで嫁にもらうことに成功して帰国したユーリーの前にスーズダリ諸侯が寝返りを打ちました。

 彼の妻コンチャカに従ってきた汗の使節カウガーディー、アストラブィル、オストレフとその軍勢はミハイルに汗の意向を知らせ、ミハイルはウラジーミル大公位をユーリーに譲り、勢いに乗るユーリーは軍勢を集め、1317年そのままトヴェーリに向かったのです。両軍はヴォルガ河をはさんで対陣しましたが、ここはミハイルが矛先を収め、トゥヴェーリへと旗を巻いて引き返しました。

 ところがその秋、ユーリーは先ほどのハーンの軍勢に加えてスーズダリ諸侯の軍勢を集め、さらにノヴゴロドにも使者を送り、モスクワ・スーズダリ・タタール連合軍とノヴゴロド軍でトヴェーリ公ミハイルを挟撃する手はずを整えたのです。ウラジーミル大公位をユーリーに譲ることになった上、領国にまで攻め込まれたミハイルは当然ユーリーへ反撃する決意を固めます。挟撃を受けてはかないませんから、まずトヴェーリ領に侵入したノヴゴロドとは、「ユーリーが大公位を授与された以上、何人もノヴゴロドによこしてはならない」という条件で講和を結びました。

 そしてミハイルは敵の本体のモスクワ・スーズダリ・タタール連合軍と1222日、ボルテネヴォで会戦を行い、なんと撃退に成功、ユーリーは命からがらノヴゴロドへ逃げ込み、ユーリーの妻コンチャカと弟のボリスを捕虜にすることに成功し、二人をトヴェーリへ護送します。このタタール勢との平野での会戦での正面衝突による勝利はルーシ初の快挙です。が、このときユーリーの陣には、ぬかりなく先ほどのハーンの使節カウガーディーが伴われていました。さらに悪いことに、ボリスは殺されましたが、ウズベク=ハーンの娘コンチャカが死んでしまったのです。この戦いの後もユーリーはプスコフ・ノヴゴロドを糾合してミハイルに挑戦しましたが、両者は和睦を結びます。

 ところが、トヴェーリ公ミハイルとタタールとの関係修復はモスクワ公ユーリーの時のようにはいきませんでした。まえにも述べましたが、ハーンの使者が大公国に到着した時は大公自らが徒歩で城外に出むき、地に平伏してクミズ(馬乳酒―カルピスの遠い先祖)を捧げてこれを迎えます。一方ハーンの使者は大公の部下のしく貴重な黒テン(いたちの仲間)の毛皮の上で口上を述べ、それを大公が平伏して聞くかねばなりませんでした。

 これほどの敬意をもって接しなければならないハーンの使節が同行するユーリー側になされた攻撃は、キプチャク汗国にたいする重大な無礼と判断されかねません。戦闘で敗れても計略で勝利したユーリー大公というべきでしょうか。そこで、トゥベーリ公ミハイルは戦の後、釈明のためキプチャク汗国を訪れますが、一足先にユーリーとカウガーディーがハーンの宮廷に到着しており、すでに彼らの工作が功を奏していた模様です。

 ミハイルは到着するなり、汗国への貢納金が支払われていない、コンチャカ殺害、カウガーディーに対する攻撃などの点で糾弾されます。ミハイルは抗議しましたが、問答無用で1318年処刑されてしまいました。汗国の本営で裸で転がされていたミハイルの死体を見たとき、ユーリーは極めて冷淡な態度を示し、これにはタタール人まで憤慨したということです。

 また、トヴェーリ公ミハイルは裸にされ、市中を引き回されるうちにユーリーに暗殺されたとも伝えられています。ともかく、横死したトヴェーリ公に対する民衆の愛惜の気持ちは強く、ミハイルはトヴェーリ初の聖人(Святой благоверный князь)となりました。





列聖されたトヴェーリ公ミハイルのイコン



 極度に緊張していた両公国関係ですが、ミハイルの死後、一時的なデタントの機運が生まれ、ロストフ主教プロホルの仲介で講和が成立、ミハイルの三男コンスタンチンの元にユーリーの娘ソフィアがお輿入れする運びとなりました。

 これで少しは騒動が治まったかと思いきや、1321年、トヴェーリ公国がモスクワ公国に反撃する機会が訪れました。事の起こりはウズベク汗国のガヤンチャルが軍勢とともにトヴェーリに派遣されたことに始まります。トヴェーリは、ガヤンチャルとその軍勢を使ってモスクワ公国に因縁を吹っかけて戦端を開かせ、モスクワ公国のハーンに対する無礼を口実にウズベク汗国から軍勢派遣を要請、モスクワを叩けるチャンスが到来したのです。

 モスクワ公兼ウラジーミル大公ユーリーがかつてハーンの使節カウガーディーとその軍勢を使ってトヴェーリに攻撃をかけたのは記憶に新しいところでしたから、トヴェーリ公に、同じことをやってやろうと思う気持ちが芽生えたかもしれません。実際両国関係は緊張し、両軍はヴォルガ河をはさんで対峙し、一触即発の危機となりました。

 しかし、このときはトゥベーリが穏忍自重し、処刑されたミハイルの息子でトヴェーリ公となったドミートリー(お妃はリトアニア大公国のゲティミンの娘です)がウラジーミル大公位への野心を示さないこと、トヴェーリから汗国への貢納金として二千銀ルーブル渡すことなどの条件で両国は和解しました。

 そこで、汗国への二千銀ルーブルを託されたモスクワ公ユーリー大公は、なぜかそのお金をタタールの徴税吏に渡さずノヴゴロドへ出かけ、しかもノヴゴロドに長期滞在したのです。ちょうどこの頃アレクサンドル・ネフスキーに撃退されたにも関わらず、そんなことではこりないチュートン騎士団が、スウェーデンと同盟を結び、1332年にノヴゴロドへ出兵し、ユーリーがノヴゴロドへ向かわねばならない状態でしたから、ユーリー大公のこの行為は、チュートン騎士団の脅威に晒されていたノヴゴロドを救うための金策の一環だったのかも知れません。すかさずドミートリーは、ウズベク=ハーンの元へ参上し、ユーリーに貢納金着服の疑いありと注進、そのうえウズベク=ハーンからヤルルィクを得、自分が大公位につくことに成功しました。

 かくしてモスクワ公ユーリーは弁明のためキプチャク汗国に赴き、ウズベク=ハーンの前に現れます。しかし、トヴェーリ公ドミートリーは怒りのあまりハーンの目の前でユーリーを殺害してしまいました。このハーンの面前での刃傷沙汰をとがめられたドミートリーは逮捕され、一年後処刑されてしまいました。


〜 4. イヴァン・カリター登場ーモスクワ公国の興隆 〜

 喧嘩両成敗、といったおもむきの結末ののち、ウズベク=ハーンはドミートリーの弟のトヴェーリ公アレクサンドルに大公位を授けます。モスクワ大公国は、ユーリーの弟のイヴァン1世カリター(財布の意味)が継ぎました。









金帳汗国のコイン(14世紀)



これをまねて、後世денга(ジェンガ、
価値としては1/2コペイカ金・銀・銅線を短く切って
叩いて広げ、さらに極印を打って製造したことから
英語でwire kopekといわれるロシアの古貨幣)
が作られたと言われます。(下図)








スーズダリ公国発行のジェンガ


著作権はありません。




 と、ここで事件が起こります。トヴェーリ公アレクサンドルの連れてきたタタール人債権者(おそらく徴税吏)の横暴に耐えかねたトヴェーリは、挽回不可能な致命的な失策、1327年トヴェーリ市民による反タタール暴動を起こしてしまいます。このときの暴動でウズベク=ハーンのいとこであった汗国の使節チョル・ハーンをはじめ多くのタタール人が殺害されました。

 ー「…事件が起こった。815日の早朝、市が立っていた時、ドゥトコという名のトヴェーリの輔祭が一頭の丸々と太った雌馬を引き、ヴォルガで水を飲ませていた。タタール兵はこの雌馬を見ると奪った。輔祭は憤り、叫び始めた。『トヴェーリの民よ、馬を盗ませないでくれ』。彼等の間で乱闘がはじまった。タタール兵は自らの権力をかさに来て剣を抜いたが、すぐさま人々が集まってきて暴動となった。

 あらゆる鐘が打ち鳴らされ、民会が招集されて町全体が蜂起し、すべての民衆がすぐさま終結した。一揆が起こった。トヴェーリの住民は雄叫びを上げ、タタール兵を手当たり次第かまわず殺しはじめ、ついにチョル・ハーンをも殺害した。野原で馬を放牧していた牧童を除き、一人一人遣い役も含めてすべての者が順々に殺された。牧童達は運がよく、すばやくモスクワへ逃げ、そこからハーン国へ逃げ帰り、チョル・ハーンの最期を知らせた。」ー

 治者として最悪なことに、トヴェーリ公アレクサンドルはこの暴動を鎮圧しなかったばかりか、みずからも反乱軍の首魁となって暴動を指揮したという話もあります(ニコン年代記)

 ー「この知らせを聞いて、ハーン国皇帝ウズベクは烈火のごとく怒り、従兄弟チョル・ハーンのために大いなる悲しみがあった。ウズベク皇帝はトヴェーリ公たちを罵って獅子のごとく吼え、皆殺しだ、ルーシ全土を奴隷とするのだと言って、モスクワ大公イヴァンを呼んだ。」ー

 ウズベク=ハーンを本気で怒らせたトゥヴェーリの運命は一体どうなるのでしょう。事件を知ったユーリーの弟で、モスクワ公となったイヴァン1世カリターはただちにサライに赴きハーンに事情を告げ、タタール側から派遣された5人の万人長(つまり、タタール側の援軍が5万人近かった可能性があります)とともにトヴェーリ懲罰軍を組織し、自らが総大将となってモスクワ公国を出発します。「フェオドルチュクの侵攻」といわれるこの戦争で、1世カリターは、ライヴァルのトヴェーリ公国を思う存分、徹底的に破壊しました。

 ー「(懲罰軍が去った後)コンスタンチン公とヴァシーリー大公(トヴェーリ公アレクサンドルの弟)は大いなる悲しみと嘆きのために脱力してしまった。なぜなら、タタール人の狡猾と暴力のためにトヴェーリ公国全土は荒廃し、すべては人跡のない森と荒れ野となったからである。」ー

 トゥヴェーリ公兼ウラジーミル大公のアレクサンドル公は追放され、アレクサンドル公はノヴゴロド、ついでプスコフへと落ち延びていきました。ところがウズベク=ハーンは落武者アレクサンドルにも容赦せず、全ルーシ諸公に命じて彼をハーンの前につれてくるよう命じます。

 この辺で許してあげれば、といいたいところですが、イヴァン・カリターはハーンの命令を忠実に実行すべく、アレクサンドルの弟たち、ノヴゴロド人、スーズダリ公をあつめてプスコフのアレクサンドルに、ウズベク=ハーンに投降するよう主張し、「ルーシ全土が荒廃するよりも、貴殿一人が犠牲になるほうがよいからだ」と発言します。しかし、ハーンの前に出頭した父親がどうなったのか知っているアレクサンドルは、「ルーシの結束を図るべきなのにタタールの手先になっている」とイヴァン・カリターを非難し、プスコフ人もアレクサンドル公を支持します。

 そこで、イヴァン・カリターは荒業を使います。ウラジーミルからモスクワに避難してきた(これ以後全ルーシの府主教座はモスクワに置かれます。)全ルーシの府主教テオグノストスに頼んで、プスコフとアレクサンドル公に対する呪詛と破門を宣言する宣言を出してもったのです。これにはさすがにプスコフは動揺し、それを察したアレクサンドル公は自主的にプスコフからスウェーデンに亡命したということです。こうしてアレクサンドルのいなくなったプスコフは府主教テオグノストスの祝福を受け、破門を解いてもらいます。

 このトヴェーリ公国の徹底的な凋落振りを見、モスクワの勢力拡大を憂慮したウズベク=ハーンは1328年、スーズダリ公アレクサンドル・ヴァシーリエビッチに大公位を授けます。

 しかしあくまでタタールに忠実であったイヴァン一世カリターはその後もハーンへのサライ詣でにはげみ、結局生涯を通じて実に九回もサライのハーンの元へ伺候します。もちろんハーン本営に赴く彼は手ぶらなどではなく、「黄金と銀」の手土産も欠かさなかったといいます。

 1328年(1331年?)スーズダリ公が亡くなると、イヴァン一世はすぐにサライ詣でを決行、ウラジーミル大公位を授かることに成功します。破門を受け、自主亡命したトヴェーリ公アレクサンドルが一時的に大公位に着いた時期もありましたが、モスクワ側の計略により息子のフェオドルと共に1339年処刑されました。こうしてモスクワ公国の計略の前に、トヴェーリ公国の勢力は完全に凋落してしまいました。

 ちょうどこのころ、モンゴル人のルーシ侵入によるロシア諸公の弱体化に乗じて力を伸ばし始め、この世紀後半にはは名実共に東欧の盟主となるリトアニア大公国の大公ゲディミンが、ロシアとリトアニア大公国の勢力圏のちょうど境にあるスモレンスクへ徐々に影響を伸ばし始めていました。これに対する威嚇として、1333年にキプチャク汗国軍とブリャンスク公ドミートリーの軍がスモレンスクに出兵します。

 ところが伸び盛りのリトアニア大公国はそんなことではおさまらなかったらしく、威嚇が功を奏していないと知ったウズベク汗は1339年、さらなる遠征を決定し、リャザン公、スーズダリ公、ロストフ公、ユリエフ公、モスクワ公などの諸侯に兵力供出の命を下します。こうしてキプチャク・ロシア連合軍が進発し、イヴァン一世カリターも、もちろんその中に加わっていました。しかし、このときゲディミンはなんとキプチャク・ロシア諸公連合軍を破り、キエフを占領、1340年にはスモレンスクも占領してしまいます。次の世代の東欧最強国、リトアニア大公国の勃興でした。

 この時代のモスクワ公は、独立した勢力ではなく、キプチャク汗国によって所領を安堵された、ハーンの配下の武将の一人のごとき状態でした。ともかく、このような涙ぐましい努力の結果、モスクワは大公位をめぐる対トヴェーリデスマッチに勝ち抜きます。モスクワ大公国は以後も執拗なトヴェーリの挑戦を受け続けますが、イヴァン1世カリター以降、モスクワ公がウラジーミル大公位を受け継ぐ伝統は揺るぐことはありませんでした。また、財布(カリター)とよばれたイヴァンは、ガーリチ公国、ウグリチ公国、ベロオーゼロ公国を買い取り、遺言書を書いて子孫達に相続させたといいます。

 この遺言書による相続を始めて行なったのが、じつはこのイヴァン・カリターです。これは、年長順番制が安定した政権交代をもたらさないことを当然知っており、この相続問題に関して有効な手段を模索していたイヴァン・カリターの解決策でありますが、これは、ネフスキーの末子であったため、所領相続問題で常に苦労した父ダニールを見て育ったイヴァン・カリターの、年長順番制の廃止への一歩だったといえます。

 また、このモスクワとトヴェーリの対立にはハーンの影、お互いをけしかけ、緊張関係に保つことでバランスととる「コントロールド・コンディション」政策が見え隠れしますが、リトアニア大公国の隆盛は、キプチャク汗国がロシア内部でロシア諸公同士の対立をあおっている余裕をなくし、汗国の弱体化もあって、キプチャク汗国はやがてリトアニア大公国への防波堤として、モスクワ大公国を支援する方向へと政策を変えていきます。

 ー「そのときより40年にわたり全ルーシ国には大なる平安があり、タタール、ルーシ国との戦いはやんだ」ー

 年代記はこのように語ります。この平和が、イヴァン1世カリターが後世に残した最大の政治の果実でした。


 〜 5. リトアニア大公国の動静ーゲディミナス登場 〜

 1263年、ミンダウガスがなくなると、リトアニア大公国は一旦内乱状態に陥りますが、1290年、リウトゥベラスにより回復し、断続的に5人の公が続いたのち、プクヴェラスの息子で、1317年に大公に即位したゲディミナスの時代に回復に向かいます。





ゲディミナス ( 1275? 1341?
リトアニア大公国の基礎を固める



 ゲディミナスは、「100頭の狼の声でうなる一頭の鉄の狼」の夢を見、首都をトラカイからヴィリニュスに移し、ユダヤ人をリトアニア大公国内に移民させ、商工業の活発化を計りました。そして、征服戦争に専念し、1320年にチュートン騎士団を破ってドイツ人をリトアニアから追い出し、騎士団と1324年から1328年まで講和を結ぶことに成功、ベラルーシに勢力を広げ、さらにイヴァン1世カリターを含むロシア諸公を引き連れた、キプチャク汗国のウズベク=ハーンの軍を破ってなんとキエフを占領、1340年にスモレンスクを再占領し、モスクワ大公国の勢力範囲と衝突することとなります。異教の大国の出現です。





ヴィーティス
15世紀に制定されたリトアニア大公国の紋章



 ところがリトアニアから追い出されたチュートン騎士団ですが、リトアニア大公国西部のジムジへの攻撃を止めず、またもや十字軍を結成しようと画策し、フランス・スペイン・デンマークと語らい始めました。そこでゲディミナスは十字軍の矛先をかわすため、キリスト教に改宗します。さらに外交的孤立を避けるため、娘のアルドナをカトリックに改宗させ、ポーランド王、ヴワディスワフ・ロキェテク(短身候)の息子カジミェシュに嫁がせます。リトアニア大公国にとっても、ポーランド王国にとっても、両国ともに共通の敵チュートン騎士団に攻められている歳でしたから、両国が婚姻によって同盟を結び、一致してチュートン騎士団に対抗していくのは一石二鳥だったのです。当時は思いもよらなかったでしょうが、これが後のポーランド=リトアニア大公国の伏線となります。

 外交においても、バルト海を仕切るため、何かと摩擦の多い、タリン、リガなどのハンザ都市と同盟を結び、さらに娘マリアをトヴェーリ公国のドミートリーにお輿入れさせ、結局トヴェーリ公国を傀儡化することに成功します。また、アイグスタ(改宗後はアナスタシア)を東方正教に改宗させて、ペストで早世したモスクワ大公セミョーン尊大公のもとに嫁がせ、外交網を張り巡らすことで、チュートン騎士団を囲繞しました。

 1341年、イヴァン・カリターの死の翌年ですが、ゲディミナスはネムナス川のヴェリオーナの要塞の攻防戦で戦死します。二人の息子のアルギルダスとケイスティクスが父の事業を受け継ぎますが、二人はリトアニアの支配権を争い、リトアニアに内乱が勃発するかに見えましたが、1345年に共同統治の合意が成立します。アルギルダスがヴィリニュスを拠点として東方と南方の領土拡大を行い、ケイスティクスは旧首都トラカイを拠点としてチュートン騎士団に対抗する、という役割分担でした。ケイスティクスはチュートン騎士団をよく防ぎますが、1362年にはコヴノの城塞をチュートン騎士団に奪取されて劣勢気味、アルギルダスは東南部の戦いを続け、ウクライナの占領に成功し、黒海に進出します。リトアニア人の支配するスラヴ圏の大国、リトアニア大公国の登場です。

 この偉大なリトアニア大公ゲディミナスからは(13人の子どもがいましたが)、偉大な子孫達が、その後のロシア史、ポーランド史を飾る公達、ロシアのゴリーツィン、トルベツコイ、クラーキン、ポーランドのチャルトリスキ、サングスコなどを輩出しました。ゲディミナスは、「リトアニア大公国版大巣公」とでも言いたい人物です。



      ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『世界の歴史6 宋と元』
    宮崎一定 著
     中央公論社

   ・『世界の歴史 11 アジアの征服王朝』
    愛宕松男 著
     河出書房文庫

   ・『世界の歴史 6 宋朝とモンゴル』
    栗原益男 山口 修 著
     教養文庫

   ・『パルト三国』
    パスカル・ロロ 著 小沢重男 訳
     白水社

   ・『パルト三国史』
    鈴木 徹 著
     東海大学出版会

   ・『ロシアの源流』
    三浦清美 著
     講談社

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

   ・『ロシア史講話 2』 
    BO・クリュチェフスキー 著 八重樫喬任 訳
     恒文社

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