タタールのくびき(4)

〜〜タタールへの最初の反撃〜〜





『チトゥリャールニク』<1672>より

ドミートリー・ドンスコイ / Дмитрий Донской
1350 〜 1389年 タタール人とロシアの正面衝突クリコヴォの会戦に勝利

 


Российская  
  История




    〜 1.ドミートリー・ドンスコイの即位まで 〜

 イヴァン1世カリタの時代、モスクワはウラジーミル大公位を手中にすることに成功しましたが、その後も前途は多難でした。

 1341年のイヴァン1世の死後、息子達はウズベク=ハーンの元に赴いて歓待を受け、セミョーン(ゲディミンの娘アナスタシアがお妃です)がウラジーミル大公位を授けられます。セミョーンは、ハーンとの確固たる友好関係をバックにロシア諸公の長として君臨し、セミョーン尊大公のあだ名を奉られます。ちなみにこの「尊大」とは別に悪い意味ではなく、「誇り高い」に近い意味だったようです。その訳は、

 
ー「大公セミョーンはゴールドゥイ(гордый)と通称された。というのは、彼は不正と陰謀を好まず、全ての罪あるものを自ら処罰し、蜂蜜と酒を飲んだが酩酊するまで飲むことはなく、酔っ払いに我慢できず、戦争を好まず、しかし常に軍勢の準備を万端にしていた」ー

 つまりセミョーン大公は、強烈な個性とはいえませんが、極めて平衡感覚に富んだ政治家向きの、個性的な人物の多いロシア人には珍しい人物だったようです。しかし、小アジアからヨーロッパへ上陸し、ヨーロッパの人口の1/3が犠牲となったといわれるペストがこの時代ロシアに上陸し、1352年セミョーン大公もその犠牲となって病死してしまいます。セミョーン大公の死後、大公位を継いだのが弟のイヴァン2世美公(красный)でした。イヴァン2世もハーンからウラジーミル大公に任命され、北東ルーシの全諸公に対する裁判権を与えられ、モスクワ大公国はますますロシアを代表する国家となっていきました。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


 
ダニール(初代モスクワ公)
      |
      ├
ユーリー
       |
      └イヴァン・カリター
          |
         ├―
セミョーン・ゴルドゥイ
          |
         └―
イヴァン2世
               |
               └―
ドミートリ・ドンスコイ


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 ところが、イヴァン2世も長続きせず彼の跡を襲ったのが、当時9歳であったドミートリー、のちのドミートリー・ドンスコイです。幼いドミートリーは、府主教アレクセイの補佐を受けながら成長しました。ところが、この時代は、リトアニア大公国の事実上の創始者ゲディミナスが、本人は異教徒でしたが、モスクワ大公国に対する牽制として、リトアニア大公国にルーシの第二府主教座を設立しようと画策してた時期で、すでにコンスタンチノープルの裁可を受けていました。結局この第二府主教座は閉鎖されたましたが、ゲディミナスの死後、その息子のアルギルダスは諦めず、傀儡府主教を送り込もうとしていたさなかでしたから、府主教アレクセイも大変だったわけです。

 一方タタール側では、1359年にウズベクの孫ベルディベクが死んでバトゥの一族が断絶し、1379年までの20年間に21人以上のハンが交代するという大混乱時代を迎えます。

 そんな最中、1360年、クルパ汗を倒して一時的に実権を握ったネブルズ汗が、スーズダリ=ニージニー・ノヴゴロド公国のドミートリーに、ウラジーミル大公位を認めるヤルルイクを与えるという事件が持ち上がりました。ウラジーミル大公位がモスクワ公の手から離れてしまったのです。




    この章に登場するチンギス=ハーン一族の系譜


 ―
ウズベク=ハーン
ティニベク 
               |
              └
ジャニベク
ベルディベク
                        |
                       ├
クルパ
                        |
                       └
ネブルズ

                        
ママイ


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 しかし、1361年、最有力エミール(キプチャク汗国の貴族)の家系の出であったママイが、キプチャック汗国から独立し、ネブルズ汗への対抗上、ドミートリ・ドンスコイにウラジーミル大公位を与えました。ちなみに汗国側の混乱をストレートに反映したウラジーミル大公位の混乱期にはドミートリーはどさくさにまぎれてタタールへの貢税に知らん顔を決め込んでいました。こうしてママイのバックアップで力をつけたモスクワ公のドミートリーは軍勢を引きつれスーズダリ公のドミートリーを攻め、彼をウラジーミルから追放することに成功します。

 のちにスーズダリ公ドミートリーはサライの汗からもう一度ウラジーミル大公位を贈られますが、サライの汗が北東ロシアに勢力を持たないことを悟ったスーズダリ公ドミートリーは、大公位を辞退します。これを機にモスクワとスーズダリは和解し、ドミートリー・ドンスコイがスーズダリ公の娘を妻に迎え、両国は盟友同士になることで、ウラジーミル大公位に関する全ての問題の決着がつきました。


〜 2.トヴェーリとの最後の戦いーモスクワ大公位確定 〜

 ところが次に、かつてはモスクワ公国の最大のライバルでしたが、いまや完全にリトアニア大公国の傀儡となり下がったトヴェーリ公国と、裏でトヴェーリ公国の糸を引く、当時の大国リトアニア大公国とによる、モスクワ公国挟撃作戦という危機が起こったのです。

 トヴェーリ公国のお家騒動(ミハイルvs.伯父ヴァシーリー+従兄弟エレミア)に乗じ、後者に加担し攻め入ったモスクワ大公国軍と対抗すべく、トヴェーリ公ミハイルは、義兄弟のリトアニア大公国大公アルギルダス(ミハイルはアルギルダスの妹を妻に迎えていました)に援助を求めます。

 
ー「大公ドミートリーはモスクワに石の要塞を起工し、絶え間なく建設を続行した。ドミートリー大公は全てのルーシ諸公を自らの意思のもとにおき、その意思に従わない諸公があれば、諸公らに服従するよう要求し始めた。ミハイル・アレクサンドロビッチに対しても同様だった。ミハイル二世公はこのためにリトアニアに行った」ー

 ニコン年代記のこの記事で、モスクワのクレムリン建造が始まり、己の力を誇示し始めたモスクワと他の分領公国との軋轢が始まりかけている様が目に浮かぶようです。当時急速に力をつけ始めたリトアニア大公国はロシア方面への進出を狙っており、リトアニア大公国の傀儡政権トヴェーリ公国への支援を通じ、ロシアへ自国の勢力を浸透しようとしていたのでした。そこでトヴェーリ公国に呼応したリトアニア大公国軍とともに、ミハイルは1367年、ヴァシーリー公領とエレミアを攻撃します。

 ヴァシーリーとミハイルの間には和議が結ばれ、一件落着と思われました。ところが、アレクセイ府主教とモスクワ大公ドミートリーが講和の話を持ち出し、それを信じたミハイルがモスクワに行ったところ、なんとそれは罠であり、捕らえられてしまいます。ミハイルだけでなく、お付きの者達も監禁され、拷問を受けたという話です。アルギルダスは府主教アレクセイの仕打ちを、聖職者にあるまじき行為であるとコンススタンチノープル総主教に訴え出、問題は拡大するかに見えましたが、ここで、今度はドミートリーの勢力拡大を恐れたママイの仲裁が入り、ママイは汗使をモスクワ公ドミートリーの下へ遣わしてミハイルを釈放させました。

 しかしトヴェーリを屈服させることを諦めきれないモスクワ公ドミートリーは1368年トヴェーリ公国を再度攻撃し、ミハイルはリトアニアに逃亡しますが、今度はリトアニア大公国軍がモスクワに攻め入りました。リトアニア大公国の首脳陣には、トヴェーリ公ミハイルはもちろん、リトアニア大公アルギルダス、アルギルダスの子ども達、弟のケイスティクス、ケイスティクスの子のヴィタウカスなど、そうそうたるメンバーが終結し、この戦いに賭ける、リトアニア大公国側の思い入れが伝わってきます。

 
ー「アルギルダスのやり方はこうだった。どこに兵を差し向けようと考えているのか、何のために多くの兵力を集めているのか、だれにもわからない。軍人も兵も皆どこへ行くのかわからない。自分たちも、他人も、客将も、来援者も誰かわからない。極秘裏に出兵しようとする土地に知らせがもれないように巧みに全てを行ない、多くの土地を得、多くの町、多くの国を獲得してきた。」ー

 『ニコン年代記』によって描かれた、この秘密の軍隊によって攻められたモスクワ公国は、ドミートリーの命令で着工し、1367年完成していたクレムリンの城壁でリトアニア軍の侵入を防ぎます。しかし、リトアニア軍が3日間周辺地域の略奪を始めたため、領地を荒らされて浮き足立った部下の離反を恐れたドミートリーはリトアニアと講和します。こうしてモスクワ大公国は矛を収め、トヴェーリは一応モスクワ大公国の攻撃を免れます。

 しかし、1370年、リトアニア大公国に攻められても諦めないモスクワ公ドミートリーは再度トヴェーリ公国を攻撃します。ちょうどこのときリトアニア大公アルギルダスはチュートン騎士団との戦闘にかかりきりでミハイルを支援できなかったため、ミハイルはママイに支援を求めました。ママイはミハイルにウラジーミル大公位を認めるヤルルイクを授けることで事を解決しようとしますが、ミハイルは汗使サリ・ホジャが伴っていたにもかかわらず、敢行されたドミートリーの帰途妨害により、ロシアへ帰ることができず、またもリトアニアに逃亡しました。この辺でドミートリーの力に気づき始めたリトアニアはおっとり刀で駆けつけ、再度トヴェーリ公国を支援し、モスクワを包囲しますが、さしたる戦果もなくドミートリーと和議を結んで引き上げます。

 これまた諦めないミハイルはママイの下へ伺候し、またも大公位をみとめるヤルルイクを受け取り、汗使サリ・ホジャとともにウラジーミルに向かいます。ドミートリーは汗使サリ・ホジャに十分な贈り物をわたし、あとでママイのもとにも伺候しますが、なんと汗のヤルルイクの決定に逆らい、ミハイルのウラジーミル大公位を認めないと明言しました。

 そこでミハイルはリトアニア大公オリデゲルドと語らい、またもやモスクワに進撃しますが、モスクワ公ドミートリーは、1372年、トヴェーリ・リトアニア連合軍をリュブツク付近の戦いで破ります。ミハイルはドミートリーと講和し、精根尽きたリトアニア大公国もモスクワ大公国と講和しました。1374年、コンスタンチノープル総主教のフィロテオス・コキノスの使者ブリヤンの仲介で、リトアニア大公国とモスクワ大公国の間に恒久的な和議が結ばれました。これにより、リトアニア大公国は長年の強敵チュートン騎士団と全面的に立ち向かえるようになり、モスクワ大公国もキプチャク汗国対策に全力を注げることになります。

 すると今度はママイ側もドミートリーの危険性に気づきはじめ、ママイのヤルルイクと汗使アチ・ホジャがトヴェーリに到着し、援軍を約束されたトヴェーリ公ミハイルが1375年モスクワ公国に宣戦します。ロシアを圧迫するリトアニアに与すばかりか、タタールとまで露骨に手を結んだトヴェーリに対しロシア諸公は憤激し、ドミートリーは19人のロシア諸公を糾合してトヴェーリに進撃しました。ところが、トヴェーリ公国に当てにしていたママイからの援軍は現れず、ミハイルはドミートリーの大軍の前に講和せざるを得なくなります。こうして結ばれたモスクワ・トヴェーリ条約で、トヴェーリ公国はモスクワを兄として敬うべく定めたのです。

 こうしてドミートリー・ドンスコイは尽きせぬ精魂と凄まじい執念ですべての困難を退け、モスクワの大公位を決定的なものとしました。


 〜 3. チムールとトフタムィシー中央アジアの覇者 〜

 先にも述べましたが、モスクワ大公国が着々と勢力を固めつつある中で、逆にタタール側はますます分裂と昏迷を深めていったのです。

 キプチャク汗国には、1359年からの20年間に21人以上のハーンが登場した政情不安を経験した後、ヴォルガ河一帯を支配して独立を宣言した最有力エミール出身の実力者ママイが出現したことについては先に述べました。さらに、この頃にキプチャク汗国のサライ方面で、この大混乱期を利用し、チムールの後援で一気に成り上がったキプチャク汗国の最後の英主トフタムィシ/Тохтамыш=ハーンが登場します。

 トフタムィシの生まれは定かではありませんが、おそらくチンギス=ハーンの長男ジュチの十三男トゥカ・チムール(テミュル)の子孫ではないかといわれています。トフタムィシの父トゥイ・ホジャはウルス汗と対立し、命令不服従のかどで処刑され、まだ幼かったトフタムィシは1376年、トグルック=チムールのもとへ身を寄せていました。

 そしてこの中央アジアの英雄チムール(オスマン・トルコに対抗するため、チムール帝国との協力の可能性を探ったカスティリア王エンリケ3世の使者の騎士クラヴィホからはタルメランと呼ばれました)についてですが、彼は1333年、チャガタイ汗国領、現在のサマルカンドにほど近いカッシュの名族の家に生まれました。


 






チムール/Тимур(1336−1405年)の復元像
М.М.Герасимовによる

中央アジア統一の英主





 中央アジア情勢について少し述べようと思いますが、チャガタイ汗国は、ちょうど現在の中央アジア(旧ソ連圏のトルキスタン)に位置していました。チンギス=ハーンから中央アジアを与えられた次男のチャガタイが、このオルダを支配し、大蒙古帝国が五つに分裂した際、この地域はチャガタイ汗国として独立しました。

 ところがチャガタイ汗国はもともと地勢的にも西のオアシス国家地帯と東の遊牧地帯に分かれていた上、モンゴル諸帝国共通の問題、後継者の選び方が確定せず、内乱で実力を示したものが権力を握る方式のため、ハーンの代を重ねるごとに国が疲弊し分裂をかさね、最後に敵対勢力に滅ぼされる、というお決まりのコースが割と早めに訪れた汗国でした。

 チャガタイ汗国には、チャガタイ=ハーンの孫のハラ=フラグが一族のまとめ役としてチャガタイ汗国の後継者に収まります。しかし、その後もチャガタイ汗国には内紛が絶えませんでしたが、元の干渉により、一応安定した政権交代が実現していました。ところがここに、もとはキプチャック汗国、チャガタイ汗国の支持を得てオゴタイ汗国のハーンとして推戴されたオゴタイの孫にあたるハイドゥ(海都)があらわれます。

 ハイドゥが統治するオゴタイ汗国は外モンゴリアの西、バルハシ湖の東側で、荒地だらけで農業には適さず、したがって租税を納めてくれる農民は住まず、ユーラシア大陸の中心に位置しながらシルクロードのコースからも外れているため関税収入も期待できないという悲惨な地域でした。しかも豊かな中国を手に入れた元がすぐ隣、というわけでこのジリ貧状態から脱出すべく、ハイドゥは、フビライ=ハーンが独断専横で、しかも先例に反しカラ・コルムでなく開平で1260年に開かれフビライがハーンに納まったクリルタイ糾弾を旗印に、1266年叛旗を翻し、オゴタイ汗国は元朝と戦闘状態へ突入したのです。

 「ハイドゥの乱」は、それまで統一されていたモンゴル帝国が、五大ハーン国へ決定的に分裂させる結果となりました。最初チャガタイ汗国は、オゴタイ汗国を支持していましたが、チャガタイ汗国が戦乱に疲弊し、チャガタイ汗国のバラク=ハーンが離反しそうになったところをハイドゥは南征して捕らえ、自分の息のかかったバラクの子孫をハーンに据えて戦いを続行します。

 経済的に弱い地域を扼していただけあって、手勢の兵が極めて精強だったハイドゥ=ハーンは元をしきり破り、しばしばカラ・コルム付近まで攻め込みますが、元はフビライ=ハーンと宰相バヤンの力でハイドゥの軍を破り、両国の勝負がつかないまま、フビライ、バヤン、ハイドゥの三人が相次いで亡くなりました。

 ハイドゥの死後、その子チャバルは戦いを続行しますが、いいかげん愛想の尽きたチャガタイの汗国ドワ=ハーンはチャバルに元との和睦をすすめ、オゴタイ汗国は一旦矛を収め元と講和します。しかし、チャバルは後悔してまた戦争を始めそうになりましたので、ドワはチャバルを捕え、1303年、元のチムール(成宗)の宗主権をみとめ、イル汗国と講和し、チャガタイ汗国の独立路線、つまりオゴタイ汗国とは今後関わらないという状態を確立させます。これにより、モンゴル5大汗国の争いが終結しました。

 結局チャバルは元に投降し、長年にわたる戦いで疲弊したオゴタイ汗国は自然消滅します。

 チャガタイ汗国も40年にわたる内乱で大きく疲弊し国内を統治する力を失い、かといってキプチャク汗国も元もこの時期には下り坂にきており、この国を仕切る強力な外部勢力も見当たらない、という状態になります。チャガタイ汗国は1321年前後に、キプチャック汗国の息のかかった西のマワナンラールと、元朝の影響の強い東のモゴリスタン(モグーリスタン=ハーンの一党が支配しました。)に分裂して争いをはじめ、名状しがたい大混乱に陥ることになりました。

 このアノミーの中、登場したのがチムールです。彼は戦闘を重ねつつ西のマワナンラールを滅ぼし、イル汗国領のペルシャを併合、本人一代で中央アジアにまたがる大帝国を築き上げたのです。

 話を元に戻しますが、チムールは、チャガタイ=ハーンの皇女の一人を妃に迎えましたが、自身チャガタイ=ハーンに仕えた宰相ハラチャールの子孫と言われ(実際はトルコ系種族の出だといわれております。)、チンギス=ハーンの男子直系子孫でないため、ハーンを名乗ることはせず、ベイまたはエミールを称し、正式にはスルタンを号しておりました。彼は、チンギス=ハーンの一族を非常に丁重に扱っており、またタタール人勢力にくさびを打ち込む機会をうかがっていたため、自分の下にトフタムィシを迎えいれ、実の息子同様に養育しました。

 英雄チムールからの援助でウルス汗国を滅ぼし、勢力を拡大した東のトフタムィシ=ハーンは、ヴォルガ川以東を支配下に納め、西のママイの支配地に対し戦いを挑み、両者はほとんど別個の勢力として存在していました。

 このようなモンゴル側の分裂、つまりは弱体化を見て取ったロシア諸公の中には、ドミートリー・ドンスコイを始めとして、ハーンに対する貢税を停止するなど、反タタール的態度を示し始める者が現れ始めたのです。


  〜 4. クリコヴォの戦いータタール勢への勝利 〜

 さて、タタール勢力の一方の雄であるママイは、この反タタール的状況を見過ごすことは出来ず、かつタタール内部の敵対勢力に自己の力を見せ付けるべく、モスクワ公国に対して本格的な介入に入ります。

 1374年ママイは、先にも述べたようにドミートリーの娘がモスクワ公国にお輿入れし、モスクワ公国と緊密な同盟関係にあったモスクワ公国の盟友スーズダリ公ドミートリーのへ軍と汗使を派遣し、モスクワ公国の傘下から離れるよう要求します。しかしおそらくはスーズダリ公ドミートリーの意向で、スーズダリ・ニージニー・ノヴゴロドの住民はこれを拒否し、汗使を殺害します。

 1377年、これに対し、青帳汗国(バトゥの弟オルダの支配地域)のアラ・プシャが率いる軍勢がニージニー・ノヴゴロドへ進撃しました。盟友を見殺しにするわけには行かず、モスクワ大公ドミートリーは決意をかため、すぐに援軍を派遣します。かくして100年ぶりくらいに、モスクワ大公国軍と青帳汗国軍、つまりはタタール軍が正面からぶつかることになりました。両軍はピヤナ河畔で激突しますが、やはりアラ・プシャの勝利に終わり、彼はニージニー・ノヴゴロドを占領・略奪し、翌年仕上げのためママイの軍が侵攻しました。

 さて、このころチムールの援助を得たトフタムィシが急速に力をつけており、ママイは先に内憂のモスクワ公ドミートリーを叩いて、そののちロシアから軍勢を補給しトフタムィシとことを決そうとしたのでしょう、1378年、ペギチ率いる汗国軍をロシアに送ります。モスクワ公ドミートリーは前年の敗北にもめげず、なんとこの軍勢に対しても戦うことを決意します。リャザン公国の北のヴォジャ河で両軍は交戦し、ロシア側が勝利を収めました。

 モスクワ公国軍の、タタール勢に対する勝利は、これはタタール側にとっては極めて由々しき事態で、モスクワ大公国を捨て置くことはできず、ママイは御大自ら大軍を編成する準備を整えます。ママイはリトアニア大国ヤガイロおよびリャザン公国と同盟し、二国の好意的中立を取り付け、自軍をジェノヴァ人傭兵隊、チェルケス人、ヤス人の兵で補強しました。さらにリトアニア大公国はママイを助けるべく、援軍を進発させました。

 そしてモスクワ公ドミートリーに対し、ママイに臣従すること、ウラジーミル大公がウズベク汗国に払っていたのと同額の貢税を払うことを要求します。これはママイがしぶしぶにでもドミートリーのウラジーミル大公位を公的にみとめたということでもあるのですが、ドミートリーがこれを拒否すると、要求を受け入れない衛星国は征伐する、とばかりに一気にことを決すべくママイはモスクワへと向かいました。ママイの軍にリトアニア大公国に軍が合流すればもうどうやっても勝ち目はありません。

 しかし、度重なる戦闘での経験と、タタール側の大混乱を見て、ここはいけると判断したのでしょう。1380年、これまでの従順な態度をかなぐり捨て、タタールとことを構える決心をしたドミートリー・ドンスコイは、リトアニア大公国のオリゲルドの息子でヤガイロの兄のアンドレイ・ドミートリーら、盟友スーズダリ公国ドミートリーらのロシアの公国などから軍勢を借り集めました。

 ですが、モスクワ公国の覇権拡大を憂慮するノヴゴロドは兵を送らず、モスクワ公国と仲の悪いトヴェーリ公国は援軍要求はもちろん無視です。ニジェゴロド、スモレンスク公国などの有力諸公も戦闘には不参加、クリコヴォはリャザン公国にある場所なのですが、リャザン公国はキプチャク汗国に地理的にもっとも近いという関係上、ママイに味方する有様でした。タタール側も政治的に混乱を重ねていましたが、ロシア側とて一枚岩ではございません。むろん、モスクワ公ドミートリーがそんなことであきらめるはずがありませんが。

 準備万端を整えると、ドミートリーはラドネジの森に潜み、ひそかに高徳の生活を送っていた修道士セルゲイ・ラドネジスキーからの祝福も受け、いとこのセールプホフ公ウラジーミル・アンドレイヴィチとともにモスクワを出撃します。両軍はモスクワの南、ドン川をこえてすぐのクリコヴォの草原に布陣します。クリコヴォ草原の後にはドン河・ネプリャドヴァ河が広がりますから、ドミートリーはまさに背水の陣を引いたのです。


 





セルゲイ・ラドネジスキー
トロイツェ・セルギーエフ修道院の創立者







13世紀〜15世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市


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 1380年9月8日朝方、その日は朝から濃い霧に包まれていましたが、午前10ー11時ごろから晴れ上がりました。ドミートリーの偵察隊がママイの先遣隊と接触し、小ぜりあいになりますが、ロシア側が敗退し、ドミートリーに急を知らせるべく撤退します。ママイ軍接近す、の知らせを受け取ったドミートリーは陣形をととのえ、ママイも布陣を完了したまま接近し、正午過ぎに両軍は会戦に突入します。言い伝えによると、当時の風習に従い、両軍から兵士が選ばれ、両軍の前で一騎打ちを行いました。彼らが相打ちで倒れるとともに、戦闘の火蓋が切られました。

 ママイの右翼を受け持った騎兵隊がドミートリーの左翼に攻撃を加えて殲滅し、中央本隊に強襲をかけます。ママイの別働隊(おそらく中央本隊)はさらにロシア軍の右翼も攻撃、ママイ軍の左翼はロシア軍の背後に回って、包囲殲滅を図ります。が、ママイの右翼がママイの中央本隊と離れすぎた隙にドミートリーが壊滅した左翼のさらに左にひそかに配置していたセルプーホフ公ウラジーミル、ヴォルニィの軍長官ドミートリー率いる伏兵部隊が現れ、ロシア軍中央本隊とともにママイの右翼を挟み撃ちにします。これに泡を食ったママイの右翼は壊走し、撤退を始めますが、この右翼の動きがママイの軍全体に伝わって混乱が始まり、結局午後3時ごろには全軍が後退し始め、ロシア側が追撃に入りました。

 このようにしてクリコヴォの戦いはドミートリーの勝利に終わり、ママイは敗走しました。正面からロシア軍とハーン自らが率いるタタール軍がぶつかった戦闘でのロシア軍の勝利は、実に140年ぶりの快挙です。タタール勢に対する勝利は、1254年、ダニール公治めるガーリチ・ヴォルニィ公国の町ルーツクの包囲攻撃にモンゴル人のクレムサが失敗したり、1317年のボルテネヴォの会戦でイヴァン1世が総指揮を取るタタール・モスクワ・スーズダリ連合軍に対し、トヴェーリ公ミハイルが勝利したことなどがあります。しかし、今回のようなハーン自らが率いる軍勢と、堂々の正面衝突での勝利は初めてです。







クリコヴォの戦い
『絵入り年代記集成』<16世紀>より




 この勝利にちなんで、ドミートリーは以後、ドンスコイ(ドン川の)という名前で呼ばれることとなります。

 クリコヴォの戦いで、無敵タタールの神話が崩れるとともに、全ロシアを代表する公としてのモスクワ公の立場は揺るぎないものとなりました。

 しかし、この戦いでのロシア側の損失も大きく、兵の半数が失われ、おびただしい死者を葬るため、ドミートリーはクリコヴォに8日間逗留したといいます。


〜 5. トフタムィシの逆襲ーキプチャック汗国の再統一 〜

 さて、雪辱戦に備えて軍勢を終結していたママイのもとへ、クリコヴォの戦いの敗報を聞きつけたトフタムィシが進撃を開始します。両軍は1381年、コルマク河の戦いで激突し、トフタムィシが勝利を収めました。敗れたママイはクリミアに逃れますが、黒海のジェノヴァ人植民地カッファでジェノヴァ人と摩擦を起こし、殺害されます。かくしてタタール人実力者はトフタムィシただ一人となり、ここにキプチャック汗国の最後の統一が現出しました。

 早速トフタムィシはリトアニア大公ヤガイロと結び、ドンスコイおよびロシア諸公に対し、恭順の意を示すことを命じた使者を送りました。しかしママイを破ったドンスコイは使者には十分な贈り物を渡して返したもの、要求に関してはこれをほぼ無視したため、トフタムィシは軍勢を整え、ヴォルガ川を渡りロシアへの侵攻を開始しました。

 再統一なったキプチャク汗国の本格的な侵攻に対し、今度ばかりは盟友スーズダリ公国のドミートリーをはじめロシア諸公たちは次々と屈服し、抵抗を決意したドンスコイは軍勢を借り集めるためモスクワを後にしました。

 1382年、トフタムィシはモスクワを包囲し、3ヶ月間攻撃をかけますが、リトアニア出身のオスチェイ公を総司令官とするモスクワは、リトアニア大国軍を二度も撃退しただけのことはあり、頑強な抵抗をつづけていました。そこでトフタムィシは策略をもちい、使者を通じてモスクワ市自体にはなんら敵意はなく、ただ市の視察を行ないたいのみだと伝えさせました。

 これを信じたモスクワ市はオスチェイ公と市民は聖職者を先頭にトフタムィシの陣営に向かいましたが、トフタムィシは彼らを殺害し、開かれた門からタタール軍がモスクワ市に侵入、住民を虐殺しました。

 モスクワ失陥を聞きつけた当時のトヴェーリ公ミハイルは、トフタムィシに接近して、彼の権威の下にモスクワ・トヴェーリ条約を破棄させることに成功します。モスクワを失ったことで大幅に権威を失墜してしまったドンスコイは、結局ハーンに対する貢税と兵力提供の義務を確約しました。

 要するにクリコヴォの戦いは、キプチャック汗国側の大混乱を利用してロシア側が勝利を収められたのであって、ひとた結集したタタール勢の前には、現状ではロシア側はやはり手も足も出ない状態だったのです。

 しかしモスクワの実力を認めたハーンは、モスクワに戻ってきたドミートリーのウラジーミル大公位をそのまま保持しさせます。モスクワ公国の力は、当時西方で力を伸ばしつつあったリトアニア大公国への防壁として利用できるまでに成長していたのです。しかも、ドミートリーは前言を撤回して貢税支払いは拒否、次のモスクワ公にはハーンの意向を無視して息子のヴァシーリー1世を据えました。たしかにこの時点では「タタールのくびき」、つまりはタタールの宗主権から脱したといえるのですが、息子のヴァシーリー1世本人は、父ドミートリーが死ぬとすぐにハーンの使者を迎え入れ、ハーンの沙汰を受けてモスクワ公になりました。何事も一気には進まないものです。

 ともかくこのハーン自らが率いるルーシの敵異教徒タタールに対して正面からぶつかり勝利したことは、聖職界でのドミートリーの受けを非常によくし、だいぶのちに列聖されます。この勝利は、内外に渡って広く喧伝され、無敵タタールの神話を打ち砕くのに極めて功があったのは事実です。






列聖(1988年)されたドミートリー・ドンスコイ




〜 6. クレヴォの合同ーリトアニアとポーランド合体 〜

 トフタムィシに逆襲されたとはいえ、こうしてハーンの率いるタタールの軍隊を正面から破ることでスラヴ世界随一の権威を手に入れたかに思えたドミートリー・ドンスコイ及びモスクワ大公国ですが、しばらくしてその功績を吹き飛ばしかねない政界大編成、リトアニア大公国とポーランド王国の合体という大事件が持ち上がったのです。

 ここですぐのちにリトアニア大公国と深い関係で結ばれるポーランド王国に触れることにします。ちょうどこのころポーランド王国では、ヴワディスワフ・ロキェテク(短身候)とその子カジミシェ大王の時代でして、この王は国土の統一に成功し(ピャスト朝)、法典の整備、クラクフに大学を設置するなどの国内整備に励んでいました。

 さらにカジミシェは北方からの神聖ローマ帝国およびチュートン騎士団の攻撃に耐えかねて、国土の膨張を東方にもとめ、最後のガーリチ・ヴォルニィ公ユーリー2世の死後、後継者のいなくなったガーリチ・ヴォルニイ公国に目をつけ、公位継承に干渉します。これにリトアニア大公国も相続権を主張し始めます。話はこじれて15年間の戦闘状態の後、1356年、リトアニア大公アルギルダスと、ポーランド国王カジミシェとの間に和議が結ばれ、ガーリチ部分をポーランドが、ヴォルニィ部分をリトアニア大公国が領有することでおさまります。

 ところがカジミシェ大王は息子に先だたれ、さらにその息子は子供に恵まれておらず、王朝断絶が確実となってしまいました。そこで大王の死後、ハンガリーから大王の姉エルジェビェータの息子、つまり大王の甥のルドヴィク(ハンガリー名はラヨシュ)がやってきてポーランド王となりました。ところが、彼は母親をポーランド総督に任命してハンガリーに帰ってしまい、エルジェビェータは政治は得意でなかったらしくポーランドは領土を失い、治安も悪化します。







リトアニア大公ヤガイロ ( 1351? 〜 1434 )
リトアニア大公国の最盛期を創出する





 さて、リトアニア大公国ですが、アルギルダスが1377年に死去すると、その息子ヤガイロ(ヤゲロー)は叔父のケイスティクスに楯突き、ケイスティクスはヤガイロをヴィルノから追放します。ところがヤガイロは返り咲き、ケイスティクスは1381年にクレヴォに幽閉され、謎の死を遂げ、ケイスティクスの息子ヴィタウカスはチュートン騎士団のもとへ走ります。こうしてヤガイロが晴れてリトアニア大公となりました。

 リトアニア大公国は、相変わらず執拗な攻撃を加えているチュートン騎士団と対抗するため、1386年、同じくチュートン騎士団の領土拡張に頭を痛めていたポーランドのルドヴィクの娘で、11歳で即位したポーランド女王ヤドヴィガとヤガイロ大公が結婚を画策し、ポーランド国会もこれに同意を与えました。これでヤガイロは、洗礼を受けてウヴワディスワフの洗礼名を得、ポーランド国王としてヴワディスワフ2世としてポーランド王も統治するに至ります(ヤゲロー王朝)。ここにポーランドとリトアニアの二大国が合同した強力な国家、リトアニア=ポーランド同君連合国が誕生したのです。ポーランド王位は、この時期は神聖ローマ帝国皇帝ではありませんでしたが、ハプスブルク家のヴィルヘルムもねらっており、彼のポーランド王即位を防ぐ目的もあったということです。

 1385年クレヴォ僧院で結ばれた協約(クレヴォの合同)では、リトアニア大公のみならず、貴族から庶民に到るまでカトリックに改宗することが謳われており、これで一応リトアニア全土がキリスト教化しました。そののちリトアニア=ポーランド同君連合国は、その最盛期には、現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、現ロシアの一部、バルト三国、のちにポーランド王が、ボヘミア王、ハンガリー王を兼任し、リトアニア人の支配するスラヴ国家の盟主にふさわしい威容を誇ります。

 クレヴォの合同に伴う完全棄教の証として、ヤガイロはヴィリニュスの神聖な火を消させ、異教神殿を破壊し、神木を切り倒し、神聖とされる蛇を殺したということです。

 ところがこれに不満をもっていたのが、リトアニア大公国内にも増え始めていた、東方正教会勢力をバックにするケイスティクスの息子ヴィタウカスです。ヴィタウカスは当時チュートン騎士団領に亡命していましたが、リトアニアのポーランドからの分離を目指しますが、うまくいきませんでした。代わりに、ヤドヴィガが死去したことで立場が弱くなったヤガイロとの間で妥協を成立させ、1401年、ヴィルノ・ラムドの合同が行なわれ、ヤガイロはリトアニアとポーランドの統治権を保持するが、ヴィタウカスにリトアニア大公として事実上リトアニアの支配権を認めることで話は収まります。

 こうしてモスクワ大公国の前に、新たに強盛なスラヴ勢力、リトアニア=ポーランド同君連合国が成立したのです。







リトアニア=ポーランド同君連合国国章





       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『ロシア中世物語集』収録 /
ザドンシチナ
    中村善和 編訳  
     筑摩叢書

   ・『パルト三国』
    パスカル・ロロ 著 小沢重男 訳
    
白水社

   ・『パルト三国史』
    鈴木 徹 著
     東海大学出版会

   ・『ロシアの源流』
    三浦清美 著
    
講談社

   ・『ビザンツとスラブ』 世界歴史シリーズ
    鈴木 勤 編集権発行人
     世界文化社

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

   ・『ロシア史講話 2』 
    B・O・クリュチェフスキー 著 八重樫
任 訳
     恒文社

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