タタールのくびき(5)

〜〜リトアニア大公国の台頭とキプチャック汗国の崩壊〜〜



『チトゥリャールニク』<1672>より

ヴァシーリー1世 / Василий T
1371〜1425年 低姿勢な外交政策を展開

 


Российская  
  История




    〜 1. ヴァシーリー1世ー日和見政策 〜

 ドミートリー・ドンスコイの死後ヴァシーリー1世が大公となりました。彼はおとなしい性格で、あくまで低姿勢に、というか再統一なったタタール勢、リトアニア大公国とポーランド王国の合体によるスラヴ世界の大勢力、この両者を相手に勝ち目はないと冷静に判断していたのでしょう、まずトフタムイシ=ハーンの使者をウラジーミルへ迎え入れ、そののちハーンのもとへ伺候し、ハーンに大公位を認めてもらうという手続きを踏みました。この時点では、やはりタタール勢が宗主国、モスクワ大公国は保護国という状態です。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


    リトアニア大公ヴィトフト(ヴィタウカス)
                |
               ├―
ゾフィア
                ?    |
                   ├――ヴァシーリー2世
                    |
 ―
ドミートリ・ドンスコイ
ヴァシーリー1世
                |
                └―ユーリー


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 その一方で、モンゴル人のキエフ諸公粉砕に乗じて当時勃興してきた西の大国リトアニア大公国に対してもあくまで低姿勢に対応しました。これには、自分のお妃ソフィアの父、つまり自分の義理の父親が当時のリトアニア大公ヴィトフトであったということもありましたが、先の話になりますが、1423年に作成した遺言で、ヴァシーリー1世はヴィトフトを自分の息子と妻の後見人として指定します。この時点では、モスクワ大公国はリトアニア大公国の衛星国といっても過言ではありません。

 この時期は成長著しいモスクワ大公国を自陣営に引き込もうと、キプチャック汗国とリトアニア大公国がモスクワ引っ張り込みに血眼になっていた時代でしたので、モスクワ大公国の実力では強力な両陣営のどちらに対しても恨みを買うわけには行かず、きわめて慎重な身の処し方が必要となる時代でした。

 ただし、自分より力の弱い分領公国には容赦することなく対応し、1393年にはニージニー・ノヴゴロドを支配下におき、1398年にはウスチュークを併合、リャザン公国に対し、モスクワを兄であることを認めさせることを認めさせました。これらはすべて、後で述べますが、チムールに押され、弱体化し、モスクワ大公国に譲歩せざるを得なくなったトフタムイシの容認によるものでした。ノヴゴロドに対しても1396年にノヴゴロドの5州のひとつ、デレフスカヤ州のトルジョーク(トヴェーリ公国の国境沿いにあります)を占領し、抗議したノヴゴロド大主教を逮捕連行しました。


 〜 2. リトアニア大公国の成長ー東欧最強国家へ 〜

 さて、この強大なリトアニア大公国の勢力の前に、モスクワ大公国公のヴァシーリー1世は、モスクワ大公国とリトアニア大公国の勢力圏の境目にある都市スモレンスクをリトアニアが領有することを容認し、さらに先に述べましたが、舅であるケイスティクスの息子リトアニア大公ヴィトフト(ヴィタウカス)を、自分の息子のヴァシーリー2世の後見人にまで指定していました。






13世紀〜15世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市


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 リトアニア=ポーランド同君連合国の力はあくまで強く、このままではもとの木阿弥、大公のハーン従属とまったく変わるところがないじゃないか、というところでありますが、この時期ロシアはラッキーなことに外交関係の良好化に恵まれます。

 まずは、1374年、当時のリトアニア大公オリデゲルドと、ヴァシーリー1世の父のドミートリー・ドンスコイの結んだ講和が生きており、モスクワ大公国に関して心配のなくなった西の大国リトアニア=ポーランド同君連合国がそれをてこに、チュートン騎士団との決着を最大の政治目的としたからです。もともと、ポーランド王国、リトアニア大公国ともに国境を接するチュートン騎士団に対抗して結成された両君主国合同ですから、チュートン騎士団勢力との積年の抗争最終的な解決が、リトアニア大公国の最大外政問題となったのも理の当然です。


〜 3. リトアニアvs.チムール帝国
        ーキプチャック汗国の覇権を巡って 〜


 これでリトアニア大公国は、モスクワ大公国対策にあまり関心を払わない状態となります。さらにモスクワ大公国にとってラッキーなことに東方では、キプチャック汗国とチムール帝国が仲たがいをはじめたのです。キプチャック汗国のトフタムイシ=ハーンは、チムール帝国の下風に立たされることを潔しとせず、なんと子供の頃から養育してもらったチムールに弓引くという恩知らずな事件を起こしたのです。

 1385年、トフタムイシはタブリスを占領し、1387年にはマワナンラール(旧西部チャガタイ汗国です)に侵攻し、明らかにチムールにけんかを売ります。チムールはこの侵攻を撃破し、トフタムイシはさらに1389年中央アジア遠征を企てますが、これもチムールに撃退されます。

 ところがキプチャック汗国再統一がなったのはほとんどすべてチムール帝国のおかげといっても過言ではない状態でした。ですから、1395年チムールがキプチャク汗国への本格的な侵攻を行い、テレク河でキプチャク汗国軍と戦うとトフタムイシ=ハーンはたちまちチムールに敗れ去ります。チムールはサライを焼き尽くし、トフタムイシはリトアニア大公国に亡命する騒ぎとなり、もはやモスクワ大公国に干渉するどころの話ではなくなりました。

 シースターンでは乾燥帯オアシス国家の命である灌漑施設さえ破壊して沃野を荒野に変え、イスパハーンを破壊したときは全住民7万人を皆殺しにし、生首で120個のピラミッドを作ったというチムールのことですから、このときの破壊も相当徹底したものであったと推測されます。

 こうしてもはや広大なキプチャック汗国をまとめきれる人物もいなくなりました。有力エミールのエディゲイの手によって再統一がなされるかと思われましたが、力及ばず、結局チムール帝国の攻撃が引き金となってキプチャック汗国は崩壊をはじめ、キプチャク汗国本体から1430年代にはクリミア汗国(初代ハーン、ハジ・ギレイ)、1445年ごろカザン汗国(初代ハーン、ウルグ・モハメッド)、15世紀半ばにはアストラハン汗国、シビル(シベリア)汗国、ノガイ、などの諸汗国が次々と独立していきます。

 さて、ここでのちにいたるまでロシアと末永い関係を持つようになったクリミア汗国について少し述べたいと思います。クリミア汗国の初代ハーンは、チンギス=ハーンの末裔を称するハジ・ギレイでした。

 かれはキプチャク汗国の四大有力家族、シリン家、バリン家、キプチャク家、アルギン家をともなってクリミアへ移住し、そこへクリミア汗国を立てました。こうしてハジ・ギレイうまく取り込むことのできた有力家族の力が、クリミア汗国はかなり長期間存続することができた一因だといいます。

 東方で起こった政治的波乱に対し、1392年、オストルフの合同でリトアニアの総督権をポーランド王からもらうことでヤガイロと和解したトロキ公ケイスティクスの子ヴィタウカス(つまりヤガイロのいとこ)は、黒海方面の領土拡張をもくろんでトフタムイシを支援することに決めます。1398年、両国の懸案の地ジムジをチュートン騎士団に渡すことを約束して騎士団と和解し、ポーランドからの軍事支援を確約するとルーシ諸侯からなる連合軍を率いてチムール帝国軍へ戦闘を挑みました。

 一方チムールは、自らに臣従させることに成功したタタール人で、アストラハンに勢力をもつチムール・クトルク、ヤイク川流域を根城とするエディゲイらに大軍を与えて送り出しました。

 1398年、リトアニア・トフタムイシ連合軍とチムール軍はヴォルクスラ川で激突し、リトアニア・トフタムイシ軍は壊滅的な打撃を受けます。ヴィタウカス、トフタムイシらはかろうじて逃亡に成功しましたが、これによりリトアニア大公国の東方拡大政策も一時頓挫せざるを得なくなります。


〜 4. リトアニアの成長(2)ーチュートン騎士団壊滅 〜

 さて、妥協が成立したポーランド国王ヤガイロ、リトアニア大公ヴィタウカスは、いよいよお互い手を携え、その広大な国土の豊富な資源・人的資源を活用し、宿敵チュートン騎士団を壊滅すべく手はずを整えておりました。1410年7月15日、リトアニア=ポーランド同君連合国、モスクワ大公国連合軍5万は、チュートン騎士団3万2千と、グルンヴァルト村とタンネンベルクの間の野で激突します(中世におけるもっとも凄惨な戦いの一つと呼ばれます。)。装備で劣るもリトアニア=ポーランド同君連合、モスクワ大公国側が圧勝し、チュートン騎士団は大打撃を蒙ります。







1410年のタンネンベルクの戦い




 ヤガイロ、ヴィタウカスは勢いを駆って騎士団の根拠地マルボルグの城に進撃しますが、チュートン騎士団はこれを善く防ぎ、結局城は攻撃を持ちこたえました。さらにハンガリー王兼ドイツ王ジギスムントがポーランド=リトアニア同君連合国へ宣戦布告してきたこともあり、急遽トルンでポーランド=リトアニア同君連合国とチュートン騎士団の間で和約が結ばれました。騎士団は東ポモージェの返還には応じませんでしたが、リトアニア大公国のジムジの領有をヴィタウカスの生存中に限って認めるということが決定され、領土問題はいわば棚上げ状態にされます。

 その間の、1413年にはホロドウォの両国の合同集会でリトアニアはヴィトフトの死後も大公を持つことが認められ、これでリトアニア大公国はポーランド王国と合同したとはいえ、ほぼ別個の地位を獲得しました。一方で、ポーランドの50の紋章氏族が、リトアニア系のボヤールを同属として受け入れ、これにより、リトアニア貴族とポーランド貴族の合同、正確にはポーランド貴族による、リトアニア貴族の吸収が進みます。

 さらに1422年にはメルノ湖畔の和議でジムジをチュートン騎士団が無条件でリトアニア大公国に渡すことで講和が成り立ち、これ以後リトアニア大公国とチュートン騎士団との紛争は消滅し、騎士団との戦いはポーランド王国に引き継がれます。行きがかり上話をすすめますが、1430年リトアニア大公国ではヴィタウカスが死去して王弟シヴィドリギェウォが即位し、1434年、ポーランド国王ウワディスラフ2世ヤガイロが死去し、ヤガイロの長男ウワディスワフ3世がポーランド王に即位します。

 1437年にはフス戦争で大混乱を起こしたチェコの急進派から、ヤガイロの次男カジミエシ・ヤギェロンチクがチェコ国王に任命され、ヤガイロが手中にした王冠は二つとなりました。加えて1440年、ハンガリー王のハプスブルク家のアルプレヒトが亡くなると、ウワディスワフ3世はハンガリー王も兼ねることになりました。結局、ポーランド国王ウワディスワフ3世は、ハンガリー、チェコ、ポーランドの三つの王冠を手中にすることになったわけです。






14世紀の東方諸国の大体の領域

*リヴォニア騎士団領は実際には
多数の独立司教領およびハンザ都市が含まれる。

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 強大な力を手にしたポーランド王国に引き換え、チュートン騎士団領内では揉め事が発生していました。1440年には、都市と領主層が騎士団の支配を嫌い、自治をもとめて結成したプロイセン同盟なるものがチュートン騎士団領内に結成されます。ウワディスワフ3世が1444年、ヴァルナの戦いで20歳の若さで戦死すると、ポーランド国会はカジミエシュ・ヤギェロンチクを国王に選出し、さまざまもめた後にリトアニアからも大公に推戴されました。このプロイセン同盟から請願を受けたカジミシェは1454年プロイセンの王領併合を宣言、チュートン騎士団領に攻め込みました。

 戦闘は13年間続いたものの、ポーランド王国は最終的に勝利を収め、1466年トルニの講和で旧チュートン騎士団領のうち、ヴィスラ川右岸の部分に騎士団長を封臣として配置し、グダニスク・ポモージェとヴァルミアをポーランド王国領(王領プロイセン)としました。騎士団は本拠地をマルボルクからケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に移し、大幅な自治権をもつものの、プロイセンはこうしてポーランド領となってしまったのです。ポーランド=リトアニア同君連合国は、グダニスク・ポモージェなどの海の出口を手に入れたことでバルト海に進出に成功します。ここから西ヨーロッパへ穀物や木材を輸出することが可能になり、ポーランド=リトアニア同君連合国は史上空前の繁栄を迎えることになったのです。

 この経済的繁栄により、身分的組織化が進行し、マグナートと呼ばれる大土地貴族のほかに、バルト海貿易で成長したシュタフラと呼ばれる騎士層、聖職者、都市民などが新たに成長します。東欧世界の長年にわたる強敵チュートン騎士団を葬り去ったカジミエシュの権威はいやがうえにも高まり、息子ウワディスワフ・ヤギェロンチク1471年にはチェコ国王に、1490年にハンガリー国王になります。こうして三つの王国(チェコ、ハンガリー、ポーランド)と一つの大公国(リトアニア)を手中に収めたリトアニア大公兼ポーランド国王カジミエシュ・ヤギェロンチクの時代に、ポーランド=リトアニア同君連合国は中世の絶頂期を迎えます。

 ヴァシーリー1世は両陣営がそれぞれが抱える問題の対応に追われている際に、局外中立を保ち、派手な外征など一切行なわず、鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、分領公国の勢力削減に最大の力を使い、モスクワ公国の内政を固め続け、一生を終えました。「平凡は非凡に通ずる」という言葉がありますが、それを地で行く一生を送った人物が多いのがモスクワ大公の特徴です。傑出した能力・行動力はないが、個人的な失徳は少ない大公が多かった、これがモスクワ大公国興隆の原動力だと思われます。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 ウクライナの歴史』
    黒川祐次著
    中央公論社

   ・『パルト三国』
    パスカル・ロロ 著 小沢重男 訳
    
白水社

   ・『パルト三国史』
    鈴木 徹 著
     東海大学出版会

   ・『ポーランド文化史』

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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