タタールのくびき(6)
〜〜モスクワ公国の確立〜〜

『チトゥリャールニク』<1672年>より
ヴァシーリー2世盲目公 /
Василий U Тёмный
1415〜1462年 お家騒動にめげずモスクワ公国の枠組みを完成
| Российская | ||
| История | ||
〜 1. ヴァシーリー1世の即位ー大公位を巡る争い 〜 1425年にヴァシーリー1世が亡くなったとき、ヴァシーリー2世はわずかに10歳で父の後を継ぎ、モスクワ大公となりました。このような事態を想定して、ヴァシーリー1世は岳父のリトアニア大公ヴィタウカスを息子ヴァシーリー2世の後見人に指定していたわけです。摂政団は、ヴァシーリー2世の母でヴィタウカスの娘ソフィア、ギリシャ人のモスクワ府主教フォティオスが中心です。 キエフスカヤ・ルーシのウラジーミル・モノマフの頃から、大公位の相続は一族の兄から弟へ、つまり一族の最年長による相続が原則という方針が完全に固まり始め、この伝統はウラジーミル大公位、モスクワ大公位に受け継がれていました。しかし、三代目モスクワ大公イヴァン・カリターは遺言状を作成してモスクワ大公が後継者を決めるという新機軸を打ち出そうとしていましたが、この年長順番制はまだまだ強い力を持っており、問題が発生したのです。 さらに、まだヴァシーリー2世が生まれてなかったときに、ドミートリー・ドンスコイが執筆した遺言状が持ち出され、その中には、ヴァシーリー1世が死去した場合には大公位は弟のユーリーに譲ると記してあったのです。 これに従い、ヴァシーリー2世のおじ(北ロシアの)ガーリチ公ユーリー・ドミートリレヴィチ(ドミートリー・ドンスコイの次男)は息子のヴァシーリー・コソイ、ドミートリー・シェミャーカ、小ドミートリー、イヴァンとともに、ヴァシーリー2世への宣誓を拒否します。実際ユーリーが小領主ガーリチ公で終わってしまえば、彼の四人の子ども達の相続財産は雀の涙となってしまい、このままでは食っていけませんから、一家を挙げてモスクワ大公に名乗りを上げたのです。 |
この章に登場するリューリク一族の系譜 ゾフィア | ├――ヴァシーリー2世 | ―┬―ヴァシーリー1世 | └―ユーリー―┬―ヴァシーリー・コソイ | └―ドミートリー・シェミャーカ 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
この揉め事は、府主教フォティオスの仲介と、ヴァシーリー2世の後見人であったリトアニア大公ヴィタウカスの介入を恐れたユーリーの深謀遠慮により一旦は収まります。ところが1430年ヴィタウカスが亡くなり、その翌年府主教フォティオスも亡くなると、このチャンスを待っていたユーリーはモスクワ大公位を再度主張します。すったもんだのあげく、キプチャック=ハーンに裁定を頼むこととなり、ヴァシーリー2世とガーリチ公ユーリーは二人でハーン国に赴きますが、キプチャク汗国は分裂し、分裂してできた各ハーン国は内紛でそれどころではなく、ヤルルイクは発行されず、二人はロシアへと引き返します。 そこで、モスクワの廷臣イヴァン・フセヴォロドシュイスキーがハーン宮廷に赴き、3ヶ月後、なんとか返事をもらうことに成功し、キプチャック汗国が分裂してできた汗国の一つ、カザン汗国のウルグ・ムハンマド・ハーンはヴァシーリー2世にモスクワ大公のヤルルイクを発行します。当然この決定にユーリーは不満でした。 ガーリチ公ユーリーとヴァシーリー2世との間の不満は、(困ったことですが)ヴァシーリー2世の婚礼の席で爆発します。ヴァシーリー2世の婚礼の席に、ユーリー公の息子ヴァシーリー・コソイとドミートリー・シェミャーカが出席していたのですが、そのときヴァシーリー・コソイはドミートリー・ドンスコイの遺品である黄金のベルトをつけて婚礼に出席していました。 この品を、皆が集まる婚礼の席で身につけられてはユーリー一家の大公位相続に極めてプラスとなるとかんぐったソフィアはこの黄金のベルトを奪い、この無礼を怒ったユーリーの二人の息子は席を立って帰ってしまったのです。 この無礼をとがめたユーリーは、1433年に軍事行動を起こし、クリャジマ河畔でヴァシーリー2世の軍を破った後、モスクワ入城を果たします。敗れたヴァシーリー2世はトヴェーリへ逃げ込み、ついでコロムナへ逃げますが、ガーリチ公ユーリーはヴァシーリー2世を捕捉し、ユーリーの勝利は確実なものに見えました。 ところが、ユーリーの寵臣セミョン・モロゾフの仲介で、ヴァシーリー2世との和議が成立し、ヴァシーリー2世がコロムナ領有が認められると、モスクワ大公の家臣団が、今まさにモスクワ大公になろうとしているユーリーではなく、ヴァシーリーに忠誠を誓ったのです。ヴァシーリー2世のカリスマなのか、なんなのかは判然としませんが、ともかくこの造反を見た、機を見るに敏なユーリーは、すぐさまヴァシーリーと講和し、ガーリチ公国へ帰還しました。 モスクワ大公就任直前でモスクワ大公の家臣の造反に会い、引き返したかに見える父のやり方を手ぬるいと評したユーリーの息子二人は、やり場の無い怒りをセミョン・モロゾフに向け、彼を刺殺します。 ユーリーはこれに怒り、息子達との手切れをヴァシーリー2世に対する和議で宣言します。後に、ヴァシーリー2世がヴァシーリー・コソイとドミートリー・シェミャーカに兵を送り、返り討ちにあってしまいますが、このときユーリーは、息子達から自分達の陣営に加わるよう誘われます。しかしユーリーは、ヴァシーリー2世との和議での約束を守り、これを蹴ります。ところが、ヴァシーリー2世が、ユーリーと息子達の結託を疑ってユーリーに兵を出した時点でとうとうヴァシーリー2世に対して叛旗を翻し、ヴァシーリー2世の郡を破って実力でモスクワに入城します。 今回はモスクワ大公国の家臣たちはユーリーに対し忠誠を誓い、ユーリーは記念貨幣を発行、その図案に自分の守護聖人である、竜を踏む聖ゲオルギウス(このゲオルギウスのなまりがユーリーです)の図案を採用しますが、モスクワ入城わずか2ヶ月にして急死します。享年60歳でした。 |
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ガーリチ公ユーリーの死後、モスクワ大公位を争う戦いはユーリーの息子ヴァシーリー・コソイ、ドミートリー・シェミャーカに引き継がれ、1436年ヴァシーリー2世はヴァシーリー・コソイとの戦いに勝利し、彼を捉えて盲目にします。 ところがヴァシーリー2世は、1445年、モスクワ大公国の内紛に乗じて軍事干渉してきたカザン汗国のウルク・ムハメッド=ハーンとの戦いに破れ、捕虜となります。このときはさすがにルーシの敵タタールは倒さねばならないと、ドミートリー・シェミャーカはモスクワから脱出しようとしていたヴァシーリー2世の母ソフィアを連れ戻し、モスクワで徹底抗戦を行い、ハーンの軍を撃退します。 しかし、戦いが収まると、ドミートリー・シェミャーカは兄の敵とばかりに、1446年ヴァシーリー二世を捕らえ、彼を盲目にします。ちなみにこのときウルク・ムハメッド=ハーンは、ヴァシーリー2世から、莫大な身代金を手にしたといいます。息子のイヴァン3世とユーリーもこのとき捕らえられ、投獄されたのですが、リャザン主教イオナの尽力でようやく解放されました。 ヴァシーリー2世はもう一度軍勢を建て直し、息子のイヴァン(後のイヴァン3世)に率いさせた軍勢と、後に述べる投降タタール人カシムとヤコフ兄弟とそのタタール人部隊の戦闘力で1452年、ドミートリー・シェミャーカを打ち破り、彼のモスクワ大公位を不動のものとしたのでした。ドミートリー・シェミャーカは「都市の空気は自由にする」の格言どおりノヴゴロドに逃亡しました。シェミャーカはヴァシーリー2世の放った料理人の手により毒殺されたとのことで、ノヴゴロド領内のユリエフ修道院に埋葬されました。 シェミャーカをかくまったノヴゴロドに対しヴァシーリー2世は怒り、もちろんこれを機会に強力な自治都市の力を削っておこうと考えたのでしょう、シェミャーカをかくまったことに対し難癖をつけ、裁判手数料が自分にきちんと払われていないなどと言い立て、納得する回答が得られないとの理由でノヴゴロドに対し宣戦布告しました。イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・ストリガ=オボレンスキー公と勤務士族であろうと思われるフョードル・バセノク率いるモスクワ大公国軍はノヴゴロド領のエリメニ湖付近のルサを掠奪します。 これに対し、とうぜんノヴゴロドはだまっておくわけにはいきませんから、騎兵隊5千を組織して派遣します。そして、本隊は掠奪品を持って本国へ帰ったため、200人近くしか残っていなかったといわれるモスクワ公国軍と衝突しました。ところがノヴゴロドの騎兵隊は人間は甲冑を着込み、長槍で武装していましたが、馬に装甲を施していなかったため、モスクワ公国軍は馬に弓を放ち、騎兵隊はさんざんに打ち破られました。これでノヴゴロドは戦意を喪失し、大主教エフィミイをヴァシーリー2世の陣営に送って和睦を結びました。 1456年結ばれたこの条約で、ノヴゴロドはモスクワ大公国に罰金8500ルーブリを支払い、ノヴゴロド属州から黒税(どうやらモンゴル時代の貢物の遺物らしく、この税金を払っていた地域を黒ロシアなどと呼んだりしますが。)を徴収し、全ての文章には大公の印章が必要で、ノヴゴロド国内にはモスクワ大公国の敵は一切受け入れないということを認めさせられます。ちなみにヴァシーリー2世の息子イヴァン3世の時代に、イヴァン3世がノヴゴロドを自己の相続領とみなし、このときの条約が根拠として、ノヴゴロドを併合します。 この大公位を巡る抗争に打ち勝つことで有無を言わせぬ実力を見せたヴァシーリー2世は、有力分領公を打ち破り、年少諸公の領地を召し上げ、権力を保持していた公たちに対しては宗主権を保持しました。これにより、殆ど独立国のような広大な土地をもち、モスクワ大公国に拮抗できる権力をもった有力分領公は消滅し、封臣に格下げされます。しかしこの独立の気概に溢れた、というかもともと独立した勢力で、自由の夢が全く覚めない旧分領公である貴族達はちょっとやそっとでは中央の権力を認めようとせず、この問題はヴァシーリー2世の孫イヴァン雷帝の時代に噴出しました。 〜 2. ヴァシーリー2世の内政 〜 こうして名実ともにモスクワ大公位を勝ち取ったヴァシーリー2世は3つの重要な政策を実行します。一つは1449年、息子のイヴァンを正式な共同統治者に任命し、モスクワ大公位の長子相続を確立したことです。 ここに、キエフスカヤ・ルーシ末期からしばしば内乱の種となっていた年長順番制の弊害(父は息子に大公位を譲ろうとし、一族の最年長のおじは自分が大公になろうとする)が根絶し、大公位の皇位継承権の確立による武力に頼らないスムーズな政権交代が一応実現したのです。ただし、ヴァシーリー2世は土地は子供たちに分割相続しました。 二つ目は、このヴァシーリー2世の治世から、投降タタール人を本格的に受け入れ始めたことです。 ヴァシーリー2世を破ったウルク・ムハメッド=ハーンはカザンを占領し、キプチャク汗国から分離し1445年ごろカザン汗国を打ち立てます。このとき、彼は自己の権力を固めるため、自分の二人の兄弟カシムとヤコフを殺害しようとしました。 殺されてはかなわないと、手勢を率いてモスクワに投降してきたカシムとヤコフを、ヴァシーリー2世は庇護します。先に述べましたが、後のカシムとヤコフの対ドミートリー・シェミャーカ戦での活躍に喜んだヴァシーリー2世は1452年、オカ川付近のゴロジェッツ・メシチェルスキーの町をカシムに与えました。 カシムの死後、その町一帯はカシモフ汗国と呼ばれ、投降タタール人の拠点となり、またモスクワ公国の精鋭兵の補給地帯となります。 カシモフ公国のタタール人たちはのちのイヴァン3世のノヴゴロド遠征にも参加、アフメット=ハーンの攻撃に際しての遊撃的役割であるサライ攻略も担当し、イヴァン雷帝時代のカザン汗国征服戦争で重要な役割を演じます。 〜 3. 東西両教会合同問題とギリシャ正教からの分離 〜 三つ目は東方正教会の総本山コンスタンチノープルからの分離です。これには多少いくつか事情がからんでいます。当時のモスクワ府主教フォチイが、1431年に亡くなりました。 翌年、モスクワ大公国と中心とするロシア東部の主教会議はリャザン主教イオナを府主教に推薦し、リトアニア大公国はゲラシム主教を府主教に推薦します。裁定はコンスタンチノープル総主教の手にゆだねられ、結局ゲラシムがモスクワ府主教に任命されました。ところがロシア側はこの決定に従わず、ゲラシムを拒否したため、ゲラシムはスモレンスクに落ち着くことになりました。 ところが1434年、ゲラシムがリトアニア大公によって火刑に処せられると、モスクワ府主教が空位となり、新たにモスクワ府主教として任命されたのが、トルコの猛攻の前にビザンチン帝国の運命も風前の灯となり、当座医療教会の合一もやむなしと、ローマン・カトリックの洗礼を受け枢機卿となった、もとギリシャ正教の修道僧イシドロスでした。 事情を少し説明いたしますと、この当時まさに勃興期であり、向かうところ敵なしの観のあったオスマン・トルコ帝国は、1402年までにはトルコ半島全域を支配下におさめ、現ギリシャ全域・旧ユーゴ南部を占領し、ビザンチン帝国領はコンスタンチノープルとその周り、ペロポネソス半島の一部のみという惨状になります。 オスマン・トルコ帝国の海に囲まれたビザンチン帝国は、キリスト教会の長年の懸案であった、東方正教会の大幅譲歩による東西両教会の合同という、苦渋の選択と引き換えに、西欧諸国に対して援軍派遣を要請しようとしていました。 祖国の喪失を防ぐべく、東西教会合同のまとめ役として奔走していたのが、先に出てきたビザンチン帝国出身のギリシャ人イシドロス枢機卿です。彼はもともとは東方正教会の信徒で、コンスタンチノープルの聖デメトリオス僧院の院長をしていました。 そんな彼でしたが、時のビザンチン帝国皇帝ヨハネスは、ビザンチン帝国を救うには東西合同以外なしと考え、バーゼル公会議のシスマ(教会大分裂)で混乱するカトリック陣営へ彼を派遣します。そこでキリスト教教理の専門家としての学識を認められたイシドロスは、コンスタンチノープルへ帰任後、ロシアの府主教へ任命されます。 そしてコジモ・デ・メジチのプロデュースによる、イタリアのフェラーラ、ついでフィレンツェで開かれた東西両教会合同のための公会議には、皇帝ヨハネス自身や東方正教会総主教ヨゼフ、多数の高位聖職者にまじってイシドロスもこの会議に参加をゆるされました。 ローマン・カトリック陣営からもローマ法王エウゲニウス4世がじきじきに参加したこの会議で、イシドロスはローマン・カトリックと東方正教会の教理のすり合わせ問題を担当します。最終的には教理問題(「父と子より」の問題)の合意、カトリックの至上権と東方正教会の既得権が確認され、1439年7月6日、二大キリスト教会合同宣言が起草されました。 この公会議を通じ、東方正教会を救うためには東西両教会合同もやむなしと考えるに到ったイシドロスは洗礼を受けてローマン・カトリックに改宗し、法王庁からは枢機卿に任命されます。 ローマ法皇エウゲニウス4世は、この決定をキリスト教会世界全土に伝えるべく各地へ使節を派遣、イシドロスを両教会合一を促す法皇特使に任命し、ロシアへ派遣しました。 ところが、ロシアの民衆およびヴァシーリー2世はイシドロスを完全な背教者とみなします。イシドロス枢機卿(ロシアの府主教)がロシアへ到着して法皇の書簡をヴァシーリー2世に手渡すと、ヴァシーリー2世はイシドロスを非難したのち、修道院へ監禁しました。 結局イシドロス枢機卿は釈放されますが、ヴァシーリー2世はロシア主教会議を招集し、コンスタンチノープルの総主教を無視して、おじのユーリー一家との戦いの中で自分を一貫して支持し続けた恩もあり、もともとイシドロスの代わりにロシアの府主教に任命する腹づもりだった、リャザンの主教イオナをロシアの府主教に任命します。 こうしてロシアの東方正教会は、コンスタンチノープルからの分離独立の第一歩を踏み出しました。それはロシアにおける、俗界の権力の、神の国の権力に対する優勢をはっきりと示すものでした。 この問題は後々までこじれ、当時のリトアニア大公ゲティミンはイオナの権威を認めていましたが、法皇ピウス2世が、1448年、合同派総主教グリゴーリー・ママスの任命を追認して、イシドロスの弟子でブルガリア人のグリゴーリーをモスクワ府主教に任命します。法皇によって送られてきたグリゴーリーを、東方カトリック国の盟主としてゲティミンは認めないわけには行かず、彼をモスクワ府主教としますが、カトリック聖職者と民衆は、およびリトアニア大公国領内も多かった方法正教会の信者は彼を認めず、とうとうグリゴーリーはオスマン・トルコの支配下で存続を許されたギリシャ正教総主教の祝福を受けることに決意します。 そしてギリシャ正教総主教はグリゴーリーの権威を認めるよう、ノヴゴロドとロシアに伝えますが、やはり反発をくらい、結局ロシアにおけるモスクワ独立教会と、コンスタンチノープル総主教の下のキエフ管区が並立することとなりますした。 ちなみにイシドロス枢機卿はのちにコンスタンチノープルの総主教に任命され、ローマ法王代理としてコンスタンチノープルの攻防戦にくわわります。彼はコンスタンチノープル落城前夜に開かれた東西両教会の合同ミサを執り行い、コンスタンチノープル陥落のちもトルコ側から必死に探索されながらもなんとかトルコ領から脱出し、ローマで対トルコ十字軍結成に奔走しながら1463年に亡くなりました。 〜 4. 中央アジアの趨勢ーウズベク族とカザフ族 〜 さて、この時代のロシアには直接関係ありませんが、はるかに時代を下ったロマノフ王朝末期の皇帝、アレクサンドル2世によりロシア帝国の版図に加えられるようになった内陸アジア(中央アジア)地域の歴史について触れておきたいと思います。 バトゥの弟の青帳汗国のシャイバン家とその部族は、もともと現カザフ平原の中央部を所領としており、アラル海からサリスゥ川にいたる領域は、白帳汗国のバトゥの兄のオルダの所領でした。ところが14世紀後半の、キプチャク汗国の分裂し、1340年、トカチムールの子孫を名乗るトフタムイシが、オルダの部族をつれてヴォルガ川流域に去っていくと、シャイバン家とその部族は、空いた土地を占領し、カザフ平原からアラル海に至る領域を支配することとなりました。このころからこの集団は、ウズベク族と呼ばれるようになります。 さて、14世紀から15世紀にかけて、イスラム化し、言語もトルコ系の言語に代わったウズベク族ですが、アブール=ハイル=ハーンがでて、彼が事実上シャイバン朝を作り上げます。ところが、イルティシュ川からモンゴル高原西部にかけて勃興した西モンゴル系のオイラート族との戦闘に破れ、部族集団が崩壊します。 アブール=ハイル=ハーンの支配から逃れた部族のうち、現カザフ草原に移動し、そこで独自の集団をなしたものは、カザフ族と呼ばれるようになりました。やがて、キプチャク=ハーンの血を引くカーシム=ハーンが1512年ハーンに推戴され、カザフ汗国を打ち立てます。しかし、カーシム=ハーンの死後内訌が起こり、汗国はセミレチエ地方、中部カザフ草原、西部カザフ草原の三つに別れ、それぞれウルグ=ユズ(大オルダ)、オルタ=ユズ(中オルダ)、キシ=ユズ(小オルダ、クリミア汗国の隣です)、と呼ばれました。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『中央アジア史』 江上波夫 編 山川出版社 ・『東西ロシアの黎明』 G.ヴェルナツキー 著 風行社 ・『ロシアの源流』 三浦清美 著 講談社 ・『ロシア史 1』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |