タタールのくびき(7)

〜〜ビザンチン帝国の滅亡〜〜



スルタン・マホメット2世 / Mahommed 2,
1432 〜 1481年 ビザンチン帝国を滅ぼしオスマン・トルコ興隆の基礎を築く

注意!音が出ます
(
イェニチェリ軍歌)

 


Российская  
  История




 〜 1. オスマントルコの成立ービザンチンとの関係 〜

 古代ローマ帝国の流れを汲み、ロシア・東欧のみならず西欧世界にも多大な影響を与えてきたビザンチン帝国が、1453年、イスラム教国であるオスマン・トルコ帝国のスルタン(オスマン・トルコの皇帝)征服王マホメット(メフメット)2世によって滅亡します。

 以後、ロシアとはかなり深い因縁で結ばれるオスマン・トルコ帝国とは、いったいどんな帝国だったのでしょうか。

 現トルコ領内のアナトリア高原でオスマン・トルコ民族が勃興し始めたのは14世紀のことでした。1243年ルーム・セルジューク朝の軍隊を破り、セルジューク・トルコを属国化したモンゴル人に追われ、小アジアに逃げ込んだ彼らでしたが、モンゴル人と同じく強力な遊牧民族の出であります。伝承によればトルコ系オグズ族、カユ部の長だった初代オスマン・ベイの下に征服戦争を繰り広げ、第三代ベイ・ムラート1世の時代までには、あのイェニチェリが形成され始め、やがてコンヤ(現在メブレビ教団の聖地です)を中心とするカラマン君候国を除く現トルコ領のほぼ全域を占領します。ついで現ギリシャ、ブルガリア、マケドニアなどを占領し、東欧に進出しはじめたのです。

 ムラト1世は、初代オスマン・トルコ帝国宰相カラエッティンからイスラム法を学んだオスマン・トルコ帝国初のカザスケル(軍人法官、全イスラム法官の長です)、チャンダルル・カラ・ハリル・アラエッティン・パシャらと組み、異教徒・異民族の奴隷を入手し、イスラム教に改宗させ、軍事訓練を施して軍人にし、歩兵軍団を編成する奴隷軍人(トルコではカプクル、アッバース朝などではマルムーク)制を確立します。奴隷の入手方法ですが、戦争での戦利品として、奴隷の五分の一を君主の取り分とし、カプクル補充に当てておりました。これはいわいる常備軍の走りで、封建制真っ盛りで君主(国王)の威光が地方に行き届かず、陪臣である戦闘の主力の騎士たちに君主の命令が行き届かないヨーロッパの軍勢とくらべてオスマン・トルコの軍勢が圧倒的な強さを誇る原因となります。

 オスマン・トルコは、あまりの手際のよさとスピードから雷(イュルドゥルム)というあだながついた第四代スルタン・バヤゼットの時代急速に力を伸ばします。バヤゼットは、1389年、コソボの戦いで父親のムラト1世が暗殺された時、一緒に出陣していた兄弟たちを暗殺してスルタンの位につきました。これ以後オスマン・トルコではスルタン即位直後の、スルタンの兄弟殺しが慣例化されます(だいぶのちに、殺すのはあんまりだということがあり、さらには自分の運命をいずれ知ることになった弟たちが、死に物狂いで反乱を起こすことになったので、後にスルタンの兄弟は檻と呼ばれた小部屋に生涯監禁されて過ごす、という方式に変更されました。)。ちなみにこれまでのオスマン・トルコの君主は、ベイと呼ばれていましたが、バヤゼットの時代からスルタンという呼称が好まれることになります。

 ところで先代ベイ、ムラト1世はビザンチン帝国内の皇位継承権争いに介入し、彼の援助で皇帝となったヨハネス5世と子のマヌエルをスルタンに臣従させており、小アジアに唯一残るキリスト教都市フィラデルフィアをトルコに譲ることを承認させていました。

 バヤゼットは即位するとフィラデルフィアを攻撃し、守りが固いと見るや、皇帝の息子マヌエルをトルコ軍に参加させビザンチン帝国の力をかりてフィラデルフィアを陥落させます。さらにマヌエルはフィラデルフィア陥落後もスルタンの下へとどめ置かれ、事実上の人質とされました。

 ヨハネス5世の死後皇帝となったマヌエルは、度重なるトルコの要求の前に、スルタンへの臣従を拒否し、同様にトルコの脅威に直面していた東欧諸国に呼びかけ、ハンガリー王ジギスムントを中心とするニコポリス十字軍を結成しますが、ニコポリスでトルコ軍の前に完敗します。ちなみにバヤゼットに雷というあだ名がつき、この勝利をたたえてアッバース朝のカリフからスルタンの尊称が贈られたのはこのときのことです。

 ますます状況は悪化し、マヌエルは西欧諸国へ援軍を求める旅行にでますが、東地中海にそれほど利害関係をもたない西欧諸国の反応は結局は冷たく、そうこうするうちにバヤゼットの軍がコンスタンチノープルを包囲しました。

 と、ここで思いがけないことが起こります。チムール(イル汗国、チャガタイ汗国を滅ぼし彼一代で中央アジアにまたがるチムール帝国を作った人物)が小アジアに侵入したのです。バヤゼットはコンスタンチノープル包囲を解いて、迎撃に向かいますが、チィムールは、オスマン・トルコによって滅ぼされたアナトリアの君候を配下に従えており、アナトリアの君候の旧臣を多く抱えていたバヤゼットの軍勢で、旧主に寝返るものが続出、アンカラの戦いでによって完敗したのです。もはや戦局の挽回を不可能とみたイェニチェリ部隊は、オスマン・トルコを存続させることのみを考え、王子と大宰相のみを連れて戦線を離脱し、バヤゼットはチムールの捕虜となり、オスマントルコはいったんは散り散りになったのです。

 バヤゼットの死後、10年間スルタンの位につくものがおらずオスマン・トルコは大混乱時代を迎えますが、ラッキーにもチムールの死後急速に進んだチムール帝国の瓦解に助けられ、メフメット1世がスルタンに即位しなんとかオスマン・トルコ帝国を支えなおします。もっとも、オスマン・トルコ帝国の蒙ったダメージは大きく、メフメット1世と次のムラト2世の時代は其の殆どをアナトリアの旧領の回復に費やさねばなりませんでした。


 





13世紀〜15世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市


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     〜 2. コンスタンチノープルの攻防 〜

 さて、ムラト2世の死後、若干21歳でオスマントルコ第七代スルタンとして即位したマホメット2世は、チャンダルル・カラ・ハリル・アラエッティン・パシャの孫、大宰相チャンダルル・ハリル・パシャらを中心とする大臣たちの反対を押し切って、オスマン・トルコを地中海世界最大の帝国にすべく、黒海と東地中海をつなぐシルクロードの終着点、ヨーロッパとアジアの中継地点であるコンスタンチノープルを攻撃目標にさだめます。

 さて、ここでイスラム帝国の攻撃を防ぎ、キエフスカヤ・ルーシの名君たち、オレーグやイーゴリも攻撃したコンスタンチノープルとはいったいどのような都市だったのか、ここで再度解説したいと思います。

 まず、コンスタンチノープルは海に突き出た半島のような形をしており、3方向を海に囲まれ、しかも岸辺の防波堤の上にそのまま城壁を築き上げているので海からの攻撃は相当な困難を伴います。

 そして唯一陸側に面している西側の防備はどうなっていたのかといいますと、この面にはビザンチン帝国最盛期に築かれた、テオドシウス城壁がそびえ立っていたのです。下に城砦の概要を示します。







テオドシウスの城壁略図




 三重の防壁に囲まれ、さらに海水を引き込んだ外堀で囲まれたこの都市を本気で陥落させようと考え、なおかつ実行に移せた君公達は1204年の第四回十字軍で主導的役割を果たしたヴェネツィア人とフランス人騎士たち以外、いまだかつてなく、オレーグやイーゴリが通商条約を結んだ後、さっさと軍を引いたのは当然かつ賢明な判断であったといえます。

 当然先代ムラト2世の代からの大宰相で、イスラム法学者出身という、旧世代の代表勢力のハリル・パシャはコンスタンチノープル攻撃に反対します。これに対し、デウシルメ制によって宮廷に入ってきた新勢力の宮廷奴隷出身のザガノス・パシャはマホメット2世に賛意を示したということです。

 さてこの青年君主マホメット2世はあらゆる方法でコンスタンチノープルを攻め立てました。







コンスタンチノープルの包囲戦




 当時の記録では、人口3万5千程度、西欧からの援軍をあわせてもたかだか7千名の守備隊しかいなかったコンスタンチノープルを包囲するために、15万人といわれる当時としても前代未聞の大軍を動員して陸側からの包囲を完璧にし、兵力上での圧倒的優位を保ちました。

 また、マホメット2世が考えた攻略法の一つとして、コンスタンチノープル東側、金角湾ぞいの城壁から攻め寄せることがありました。この金角湾沿いの城壁は手薄で、さきにも述べましたが、1204年の第四回十字軍によって(!)コンスタンチノープルが一時陥落し、十字軍勢力の首脳陣が作ったラテン帝国が一時建国されたことがありますが、このときも十字軍勢力が金角湾から攻め寄せ、船の帆柱から渡した板から城壁上飛び移り、城壁を占領することに成功したのが決定打となったからです。

 しかし当然防衛側もこの方向からの攻撃を予測していました。金角湾は当時地中海で最高の航海術をもつヴェネツィア、ジェノヴァ商人たちが湾の入り口に鉄の鎖を渡して守っていました。

 西欧商人たちはシルクロードを渡って運ばれてくる胡椒その他の物産の集積基地としてコンスタンチノープルを非常に重視しており、この町がイスラム教徒の手に渡った時の商売のやりにくさ、失う不動産・権益の大きさを考え、個人的にビザンチン帝国側について闘っていたのです。

 総計30隻近くで金角湾を守る西欧勢にたいし、100隻近くの帆船を海賊の首領(当時のトルコには海軍がありませんでした)バルタ・オウル・スレイマン・ベイに率いさせて戦ったオスマン・トルコですが、地中海を縦横無尽に駆け巡るイタリア都市国家の商人たちとビザンチンの「ギリシャの火」の前に、船など見たこともない者が大半の遊牧民族国家の悲しさ、包囲をまったく突破することができません。

 そこでマホメット2世が思いついたのが以下の方法です。金角湾の反対側にあるガラタ方面の山を登る道を整備し、地ならしを終えた後、ガラタの斜面から金角湾までのびる二本の木製レールを敷き、レールに動物の油をたっぷりぬりました。

 そしてレールにぴったりはまる車輪がついたトロッコを大量に作ると、二つを一組にして、なんとその上に帆船をのせ、順風を待って帆を張り、牛と人とで船を引っ張って帆船を移動させ、夜中のうちに全艦隊を金閣湾に滑り込ませてしまったのです。

 こうして海からも陸からも完全にコンスタンチノープルを包囲してしまったマホメット2世が、戦場に持ち出してきたオスマン・トルコ軍の最新兵器が大砲でした。マホメット2世は、コンスタンチノープルの城壁も破壊できる大砲を作れると豪語し、その大砲技術をビザンチン帝国に売り込みに行って資金難を理由に門前払いをくわされた自称ハンガリア人ウルバンなる人物を召抱え、彼に命じて大砲の開発に着手させていたのです。

 当時の大砲の発射技術はまだまだ未熟で、ともすれば発砲と同時に砲身も吹っ飛んでしまうものが多く、本格的な実戦配備はまだまだ先と思われていました。ウルバンは、まだ海のものとも山のものともつかない大砲の開発に着手し、また発射回数をかせぐ方向に力を入れていた当時の技術開発方向を無視して、発射回数は少なくても、一発の破壊力を極限まで高める方法を採用し、結局砲身8.2m、口径76.2cm、550〜600kgの石弾を発射できる大砲を作り上げます。

 この大砲による連日の砲撃による城壁の破壊が結局は包囲戦の運命を決めました。

 50日間にわたる攻防戦の末、オスマントルコの3回目の総攻撃を受けてコンスタンチノープルは陥落しました。最後のビザンチン帝国皇帝コンスタンチヌス11世は自ら剣を抜き、なだれ込んできたトルコ兵の群れに切り込み戦死しました。

 これにより、西欧・スラブ世界に多大な影響を与えてきたビザンチン帝国、古代ローマ帝国の最後の名残が、地上から完全に消え去ることになりました。中世は終わり、近代の幕開けがはじまったのです。

 ビザンチン帝国の崩壊により、ロシア正教会の独立は決定的となりました。コンスタンチノープルが陥落する5年前、すでにロシア主教会議はヨナ府主教を独自に選出していたのですが、陥落後はロシア正教会は名実ともにギリシャ正教会から分離することになったのです。

 ビザンチン文明の滅亡は、ロシア独自の文明を育む契機となりました。のちに西欧が、ロシアの文明開化のお手本となるまで、この傾向は続きます。


      〜 3. クリミア汗国の属国化 〜

 さらに、ロシアと関連の深い出来事としては、1475年オスマン・トルコはクリミア汗国を臣従させたことがあります。少し話はそれますが、事の起こりは黒海のジェノヴァ植民地カッファ攻略です。何事も一極集中型、一か八かの賭けを好むジェノヴァ人は黒海方面の貿易拠点をコンスタンチノープルとカッファに集中させていました。

 この性向のおかげで、すぐ後で述べますように、コンスタンチノープルはマホメット2世により攻略され、黒海方面でジェノヴァに残った通商基地はカッファのみとなっておりました。

 ジェノヴァのような巨大通商都市国家の商業拠点ですからカッファは極めてにぎわった都市であり、またここで行なわれるトルコ帝国向けの奴隷貿易(黒海の北方辺りからスラブ人などをさらい、トルコ帝国に売り払う)も賑わっていました。おそらくこれに目をつけた、ハジ・ギレイの息子で当時のクリミア汗メングリ・ギレイは、カッファを攻略することで、中間マージンをとっていたジェノヴァ人を支配し、トルコ・クリミア汗国両国の通商を円滑にしようとクリミア汗国はトルコ帝国に共同出兵を提案します。

 これをうけてトルコも派兵に賛意を示し、1475年、両国軍がカッファに侵攻し、カッファは陥落しました。翌年、借りを返すという形でクリミア汗国の最有力家系シリン家率いる軍勢がトルコ帝国のモルドヴァ遠征に参加し、両国は緊密な間柄となってきました。

 ところが、クリミア汗国軍の主力がモルドヴァに出かけている隙に、大オルダの援助を受けたヌル・デヴレットが反乱を起こし、メングリ・ギレイはイスタンブールに亡命します。しかし、メングリ・ギレイはスルタンの援助を受けてヌル・デヴレットの軍勢を破り、ハーンの位に返り咲きました。その返礼として、クリミア汗国はトルコ帝国の保護下に入ることになったのです。

 トルコ帝国はクリミア半島南岸にトルコの一州(エヤーレト)をおき、州知事(ベイレルベイ)を送って統治します。また、アゾフ、カッファ、ケルチ、オチャキフなどの重要拠点には駐屯軍を置き、事実上は監視役である1200人の護衛兵をハーンの元に送っていました。

 そしてトルコはクリミア汗国の宗主権を握り、クリミア汗の即位にはスルタンの追認が必要となりました。しかしトルコは、北のモスクワ大公国に対する防波堤の役割をクリミア汗国に果たさせるため、トルコの属領であるワラキアとモルドヴァから貢納金が払われ、またトルコからも贈与金を受け取るなど経済的な援助をきちんと与えます。

 クリミア汗国はオスマン・トルコの非常に強力な手勢となり、ロシアとの関係が悪化するたびに、スルタンはクリミア=ハーンに命じてロシア南部を襲撃させる、ということが繰り返されるようになります。

 後にオスマン・トルコはスルタン・スレイマン大帝の時代北アフリカ、バルカン半島、アラビア半島沿岸を支配下に入れ、メッカの領有によりイスラムの盟主としての地位も確立し、押しも押されもしない地中海世界最強の帝国に成長をとげ、神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン国王であり、ヴェネツィア共和国を除くイタリア全土、フランドル地方、南米新大陸を領有する大君主ハプスブルク家のカール6世と全面対決することになります。



      ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『オスマン帝国』
    
鈴木 薫 著
    
講談社現代新書

   ・『生き残った帝国ビザンチン』
    
井上浩一
    
講談社現代新書

   ・『コンスタンチノープル征服記』
    ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥルン 著 伊藤俊樹 訳
    
講談社学術文庫

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