タタールのくびき(8

〜〜タタールのくびきからの解放とロシアの統一〜〜

  

イヴァン3 / Иван V
1440
1505年 モスクワ大公国の君主中、指折りの名君。

 


Российская

 

 

История


 



〜 1. イヴァン3世の即位ー襲領統一とツァーリ宣言 〜

 1462年、ヴァシーリー2世の遺言により、イヴァン3世が即位しました。このイヴァン3世の後継者指名は、周囲の汗国の許可を取らずに行なっており、モスクワ大公国はこの時点で少なくとも汗国の宗主権は脱したといえます。

 彼は父ヴァシーリー2世の計らいにより、早くから父の共同統治者として政治に参加し、統治の訓練を積んでいました。1463年、ヤロスラヴリ公国がモスクワ大公国に吸収され、同年リャザン公国併合の露払いの意味もあったのでしょう、イヴァン3世はリャザン公の妹アンナ(1456年の時点で息子のイヴァンがいましたが)を妻に娶ります。

 先に述べたごとく、1453年オスマン・トルコの征服王メフメット2世によってコンスタンチノープルは陥落し、長年にわたってロシア文明のお手本であったビザンチン帝国が滅亡していました。



     この章に登場するリューリク一族の系譜


ヴァシーリー2イヴァン3
              |
               ├――ヴァシーリー3
               |   |
               |   ├―ユーリー・ドミトロフ
               |   |
               |  └―アンドレイ・スターリッツァ
               |
             ソフィア・パレオログ
             (ビザンチン帝国皇女)


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 1456年マリアに先立たれたイヴァン3世は、帝国最後の皇帝コンスタンチヌス11世のめい、ソフィア・パレオログ(ローマ法王パウロ2世が後見人となり、ソフィアと家族はすでにフィレンツェでの二大キリスト教会合同宣言を受けいれ、すでにローマン・カトリックに改宗していましたが)を探し出し、1472年彼女と結婚しました。

 もっともローマン・カトリックとロシア正教の結婚ですから揉め事があったようですが、ともかくこれにより東ローマ帝国の継承者を宣言し、モスクワ大公国の紋章をローマ帝国の双頭の鷲の紋章を使用、翌年初めてツァーリ(Царь)の称号を公式文章中でもちいることになります。

 ツァーリ(古代教会スラヴ語ではЦЂСАРЬ、発音はチェーザレ。ちなみに古代教会スラヴ語ではЬにも音価がありまして、短いeです。)とはローマ帝国の創立者ユリウス・ガイウス・カエサルの姓カエサルのことで、代々のローマ皇帝は自分の長い正式名称中にこのカエサルの名を必ず受け継ぐ伝統になっていたことから、(例 初代、二代、三代、四代皇帝

 インペラートル・ユリウス・カエサル・アウグストゥス
 チベリウス・ユリウス・カエサル
 カリグラ・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス
 ティベリウス・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス

 など)後世皇帝を指すようになった言葉です。

 ツァーリとは、ロシアでは旧約聖書に登場する王たち、ローマ皇帝、ビザンチン帝国の皇帝、もしくはタタールのハーンをさす時に使われた言葉ですが、やがて使用範囲が広まり、この時代東方諸国すべての支配者もツァーリと呼ばれるようになっていました。

 したがってイヴァン3世が「ツァーリ」を称したのは、「皇帝」という意味ではなく、「タタールのハーンの支配から脱した独立の君主であるぞ」という意味合いをこめたものと思われます。

 さてヴァシーリー2世はモスクワ大公位は長子相続制度を打ち出し、それ確立することに成功しましたが、所領の長子一括相続は時期が早いみたのでしょう、自分の領地はイヴァン3世、ユーリー、アンドレイ・バリショイ、ボリス、アンドレイ・メーニシェに分割相続しました。

 イヴァン3世は父から譲られ、兄弟達の間で分割された領土の統一に着手します。この作業は事を荒立てないよう、少しづつ、少しづつおこなわれたので、多少時代は前後しますが、事情を述べますと、まず1472年ユーリーが死ぬと、他の兄弟に相談なくユーリーの領地を自分が併合してしまいます。

 そして1481年、自分に好意的だった末っ子のアンドレイ・メーニシェが、イヴァン3世に自領を譲るようにと書かれた遺言を残し、子をなさずに死ぬと、アンドレイ・メーニシェの所領もまた自分の領土に編入します。

 さらに1491年、後で述べるクリミア汗国ハーン、メングリ・ギレイに援軍を提供する命令を拒否したとの理由でアンドレイ・バリショイを逮捕し、アンドレイが獄中で死去したのちにまたも領土を没収します・

 最後に1494年、ボリスが死ぬと、ボリスの領土は二人の息子に相続されますが、1501年にそのうちの一つはイヴァン3世に譲られる運びとなります。

 このようにして、イヴァン3世は時間をかけて分割相続されたモスクワ大公国の領土を回収し、ツァーリおよびモスクワ大公国が強大化する最初の必要条件、領土が広く経済的・資源的に豊かである、という条件を満たしたのです。


 〜 2. ノヴゴロド併合ーロシアの自治都市の滅亡 〜

 ツァーリの称号を名乗り、ビザンチン帝国の皇女を娶るなどして自分の権威を十分に固めておいて、イヴァン3世が最初に手をつけたのが、かつての分領公国、中央から分離し、自治と独立をほしいままにしていた諸都市の併合です。

 まず狙われたのは長年自治都市として繁栄をつづけてきたノヴゴロドです。ノヴゴロドはモスクワ対公国に対し、先のモスクワ大公位を巡る争いの中で、イヴァン3世の父親ヴァシーリー2世の目をつぶし、ヴァシーリー2を盲目にした張本人のドミートリー・シェーミカをかくまった前科がありました。

 騒乱が終わった後、モスクワ大公と相なったヴァシーリー2世が軍を派遣して、その圧力のもとにノヴゴロドと1456年ヤジェルビーツィ条約を締結し、ノヴゴロドは1万ルーブルを払い、民会はモスクワ大公の許可なく法律を公布してはならないこと、モスクワ大公のプリカース勤務から逃れた者やモスクワ大公に敵対する者を保護してはならないことがノヴゴロド側に義務づけられていました。

 この共和国の独立を脅かす条約から逃れたいが為と、内戦を終息させ強大化したモスクワ大公国に恐れをなしたため、ノヴゴロド市長イサーク・アンドレヴィチ・ボレツキーの未亡人であり、息子のドミートリーもやはりノヴゴロド市長となった、女市長マルファ・ボレツカヤと呼ばれた人物と、彼女が率いるノヴゴロド貴族は、西の大国リトアニア大公国に接近し、ノヴゴロドの勤務公(ノヴゴロド公をかねたモスクワ大公と異なり、つねにノヴゴロド近辺に待機してノヴゴロドの防衛を行なう即戦力を指揮する公)にミハイル・オレルコヴィッチ推戴を申し出ました。



    この章に登場するヤゲロー王朝一族の系譜


    ヴァシーリー2世の姉妹
         |
         ├―┬―セミョン(キエフ公)
          |   |
         |  └―ミハイル・オルレコヴィチ
         |
     アレクサンドル(ヤゲロー一族)


 ―┬ヴワディスワフ・ヴァルネンチンスク
   |
   └カジミエシュ―ヤン・オルブラフト
             |
            ├―アレクサンドラス
             |    |
             |    |
             |    |
             |  エレーナ(ヴァシーリー3世の姉)
             |
            |
           └ジギスムント1世―ジギスムント2


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 ミハイルはこれを承諾し、1470年、彼の従者と共に118日ノヴゴロドに到着しました。さらに政治の世界だけでなく、宗教界でも波紋が起こり、ミハイル到着の3日前、ノヴゴロド大主教イオナが亡くなり、聖ソフィアの広場の前で開かれた次期大主教選出の民会で、イオナの懺悔聴聞僧ヴァルソノフィ、イオナの財産管理人のピーメン、聖具保管室長フェオフィルが次期大主教に立候補しました。結果くじでフェオフィルがあたって大主教になり、そこで、モスクワ府主教フィリプに叙任を受けようとしましたが、モスクワがこの人事を承認したとき、ノヴゴロド貴族から、モスクワの叙任でなく、キエフ府主教グリゴーリーの叙任を受けるべきだという話が持ち上がりました。

 フェオフィルはこの話を断りますが、女市長マルファ、ミハイルはピーメンとぐるになっていたらしく、二人の支持を受けたピーメンはキエフ府主教グリゴーリーの叙任を受ける用意があると発言しました。さすがに民会で決定した指名大主教を否定しようとするこの発言は住民の怒りを買い、押し寄せた民衆にピーメンは捕らえらえます。この事件は結局不発に終わったとはいえ、宗教的にもノヴゴロドがモスクワから離反しようとする行動にほかなりません。

 決定打は、ノヴゴロドの貴族党が、リトアニア大公をノヴゴロド大公とすべくカジミエシュと条約を結んだことです。カジミエシュは全力を挙げてモスクワ大公国の攻撃からノヴゴロドを守る旨を宣誓したということで、この条約におけるリトアニア人によるノヴゴロド公の権利は、ヴァシリー2世以前のモスクワ大公が兼任するノヴゴロド公のものより制限されたものだったということですが、ともかくこれはモスクワの影響力を取り除き、明らさまなリトアニアの勢力範囲に収まろうとした決定です。1471年この条約は調印されました。

 こうしてノヴゴロド公より格下の勤務公であるミハイルは、カジミエシュの下風に立たされたことになり、これを潔しとしなかったミハイルは、従者をまとめて1471515日、ノヴゴロド領のリサを掠奪しつつリトアニアに帰ります。





13
世紀〜15世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市


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 さて、ノヴゴロドがリトアニア人をノヴゴロド公に推戴したことは、イヴァン3世の感知するところなり、彼は一般国民向けには、ノヴゴロドがカトリックの大国リトアニア大公カジミエシュをノヴゴロド公に据えたことを、ロシア正教に対する冒涜と宣言し、モスクワ府主教フィリプもイヴァン3世を全面的に支持しました。1471年、イヴァン3世は自分の兄弟、全ての主教、年少諸公、部下などをモスクワに集めてゼムスキー・ソボールのプロトタイプというべき会議を開催します。この会議で、満場一致でノヴゴロド攻撃が決定され、トヴェーリ大公国、プスコフ、ヴャトカの支持も受け、軍を率いてノヴゴロド領に攻め込みました。

 ノヴゴロドはカジェミシェに急使を派遣し、援軍を要請しますが、肝心のリトアニア大公国は、プスコフ領内を避けて通るためチュートン騎士団に領内の軍団通過の許可をもらおうとして拒絶されるなど、さまざまな理由がありましたが、結局のところ衰退期に入っていたリトアニアはモスクワ大公国の軍事行動に対し、ノヴゴロドへの具体的な救援策を示すことができず、興隆期のモスクワ大公国と、斜陽のリトアニア大公国の差をもろに見せつけてしまいます。

 ノヴゴロド側はシェロン河畔の戦いで惨敗し、大主教フェオフェルをイヴァン3世の本陣に送って和平を結びます。賠償金支払い、ノヴゴロドのモスクワ大公国の世襲地化、ノヴゴロドはリトアニアと同盟を結んではならない、などを確約させられ、さらに1477年再度軍を率いてきたイヴァン3世の前にノヴゴロドは城門を開き全面降伏したのです。市長官の職は廃止され、モスクワから派遣される代官がこれにかわり、民会の鐘はモスクワに運ばれました。

 ー「ノヴゴロドというわが世襲地にあっては民会の鐘はあってはならない。市長官もあってはならない。われわれはわれわれの世襲地と同様に、ノヴゴロドで統治しなければならない。」ー

 これがイヴァン3世の言葉でした。

 中世においては鐘は自治都市のシンボルでした。鐘の音の聞こえる範囲が市当局の権威の及ぶ場所であり、朝の鐘とともに市の城門が開かれ、夕の鐘とともに市の城門がとじられました。もちろん婚礼、葬儀などの人生の重要な節目にも必ず鐘はならされました。

 裁判の開始、土地の差し押さえ等も鐘の音の下でおこなわれ、嵐が町を襲った時も雷雨の中鐘をならすことで嵐を退散させようとしたのです。家畜につける鈴も、もともとは家畜を病気などの災難から防ぐための魔よけでした。

 つまり鐘は自治都市の権威、権力、市民生活そのものだったのです。話はとびますが、第二次大戦中、負けが込み始めたナチスドイツが金属を得るため全ヨーロッパ中からハンブルグへ鐘を集めたことがありました。この鐘が出征した時は花輪をかけ、酒をふりかけみなで見送りました。また、戦後もとの町や村の人々があつまり、溶解を免れ放置されていたたくさんの鐘の中から自分たちの鐘をさがし、故郷へもって帰ったのです。

 つまり鐘は町そのもののシンボルで、ノヴゴロドから鐘が奪われたのは、まさに自治都市の死を象徴していたのでした。クレムリンの「鐘の王」も、都市の中の都市、モスクワ市とモスクワ大公国の威光をロシア全土の都市に知らしめるデモンストレーションの一環だったのです。こののちノヴゴロドはイヴァン3世の弟と結んで反乱を企てたりしますが、いずれも散発的で鎮圧されます。

 しかし、ハンザ同盟参加都市の一つであるノヴゴロドの自治を奪ったことは、おとろえたりとはいえバルト海を牛耳るハンザ同盟との関係が悪化するのはモスクワ大公国の経済にとって打撃です。そこで1484年にハンザ諸都市とイヴァン3世は20年間の平和条約を結びました。ところがイヴァン3世は条約を破り、ハンザ同盟の宿敵デンマーク王ヨハンと語らい、デンマーク王の出した条件、ドイツ商人をロシア市場から締め出しノヴゴロドから追放することを条件として同盟を結びました。1493年に秘密条約が結ばれ、ノヴゴロドのドイツ商人居住地ペテルホーフが襲撃され商品が没収されます。

 このハンザ同盟との対立は、貿易を活発化してくれる有能な商人の追い出し、さらにはバルト海貿易からの締め出しにつながります。これが、彼の孫のイヴァン雷帝期のイギリス人との貿易交渉の遠因です。

 イヴァン3世は、ノヴゴロドから新たに得た臣民に対し新制度を適用しました、それが知行地制です。イヴァン3世はノブゴロドから8千人の貴族と商人を呼び集め、彼らに一代限りの土地を与え、その代わりにモスクワ大公への勤務を義務づけるという、中世ヨーロッパの封建制的といわれる制度を始めました。ただ、この土地は世襲のものではなく、代が変わるごとに大公が配布するものであるため、必然的に大公の方が圧倒的に力が強いという点でロシア的なものだといわれています。

 が、私が思うにはむしろ、ツァーリから一代限りの所有が認められる土地を扶持として与えらた新貴族たちは、その見返りとして国家勤務、つまりモスクワ大公国の行政事務をこなす義務を負う、行政官僚的な役割を果たすことになりました。つまり、ここに広大なモスクワ大公国の専制体制を能率よく運営するための官僚層、勤務士族層が誕生することになったのです。

 彼らを集めて専門の業務にあたらせ、統括するプリカースなる現在の省庁にあたるものが、孫のイヴァン4世(雷帝)の時に完成します。ここにロシアのプリカース制(モスクワ大公国後期の専制体制を効率よく運営するために創立されたロシア式官僚制度)が花開くことになったのです。


 〜 3. 分領公国征服と統治ー駅伝制度の創始 〜

 ヴァシーリー2世の時代に進められた分領公国吸収は、イヴァン3世の時代にも着実に進行させられます。この時代の主な勢力として、トヴェーリ大公国、リャザン大公国、ヤロスラヴリ公国、ロストフ公国、三つの自治都市ノヴゴロド、プスコフ、ヴャトカがありました。

 リャザン大公国は1456年、大公イヴァン4世が8歳の息子ヴァシーリーの後をイヴァン3世に託して死去し、イヴァン3世は自分の妹アンナをヴァシーリーの妻にすることでヴァシーリーの後見人となり、リャザン大公国の衛星国化に成功します。

 ヤロスラヴリ公国も、1463年イヴァン3世に領国支配権を譲り、一旦併合されつつもモスクワ大公国の包囲に抵抗していたアレクサンドル公が死ぬと、1471年、完全にモスクワ大公国に併合されます。

 ドミートリー・ドンスコイの時期にすでにモスクワ大公国に従順だったロストフ公国は、この時期領土の半分がモスクワ大公国でしたが、1474年に残りの半分の領土もモスクワ対公国に売却し、完全に併合されました。

 ここまで包囲が狭まってくると、あれほどモスクワと張り合ったトヴェーリ大公国ももはや運の尽きとなってきます。しかもトヴェーリ大公ボリスは、ヴァシーリー2世とドミートリー・シェミャーカが争っていた時期、勝ち馬を読み違えシェミャーカに味方しました。

 ところがヴァシーリー2世が結局勝利を収め、なおかつ周辺公国の併合を目の当たりにし、自分で自分を支えることができなくなった者の常套手段ということで、ノヴゴロドと同じくポーランド国王兼リトアニア大公カジミエシュと相互援助条約を結びます。

 この動きに対し、1484年モスクワ大公国は兵を動かし、結局ノヴゴロドの場合と同じくリトアニア大公国は有効な手段をうてず、トヴェーリ大公国はモスクワ大公国と講和し、カジミエシュとの同盟を破棄を宣言させられます。

 1486年、リトアニア大公国へのさらなる働きかけをしたトヴェーリ大公国に対し、モスクワ大公国軍がトヴェーリに侵攻し、最後のトヴェーリ大公ミハイルはリトアニアに亡命しました。イヴァン3世は息子のイヴァンにトヴェーリを与えました。これにより、イヴァン3世はモスクワ大公国という大統一圏を作り上げたことになります。

 さらにノヴゴロドから独立してできたヴャトカですが、1489年、イヴァン3世は彼の封臣であるカザンのモハメッド・アミン率いる騎兵隊を加えたモスクワ・カザン混成軍団を編成し、ヴャトカ征服に乗り出しました。3日ののちヴャトカは降伏し、全市民はモスクワへ連行され、主だった指導者三人はモスクワに送られて処刑され、のこりは大公への仕官もしくは知行地制を与えられるなどの処置となり、こうしてヴャトカは消滅しました。

 さて、征服するのは難しいですが、維持するのは更に難しいことです。領土が広がり、サイズが大きくなれば、それに対応した統治機構を考えないといけません、さもなくば、キエフ公国解体の二の舞となります。そこで、イヴァン3世はタタールのジャムチに倣ったと考えられる、モスクワ大公国全域の駅伝整備に着手します。

 イヴァン4世雷帝の時代に急速に整備されたこの駅伝制度は、モスクワ公国の荒地に、1,2マイルごとにヤムといわれる総計300の駅を整備し、駅のある町の住人に馬を提供するための土地を与えたというイギリス大使の記述が残っています。


〜 4. タタール政策(1)ーキプチャク汗国との勝負 〜

 イヴァン3世は外政においてもアクティヴで、対タタール政策についても大いに辣腕を振るいました。イヴァン3世と因縁浅からぬ縁を結ぶこととなるアフメットが、少なくとも1460年より以前、アストラハン汗国、カザン汗国、クリミア汗国などに分離独立されてしまったキプチャク汗国残存部のハーンになります。アフメットはモスクワ大公国に対する宗主権の回復と貢納金支払い再開を計画していたと思われ、1460年、リャザン公国のペレヤスラヴリを攻撃しますが、撃退されます。5年後の1465年、今度はモスクワ攻略のためドン川中流に大軍を終結しますが、クリミア汗国初代ハーン、ハジ・ギレイに攻め込まれ、遠征を断念せざるを得なくなります。

 1471年にアフメット=ハーンはジグムント・キェイストゥヴィチ大公の暗殺後、リトアニア大公兼ポーランド王のカジミエシュ・ヤギェロンチク大公の発案でリトアニアと同盟します。そして1472年、カジミシェに勧められ、モスクワに侵攻してきました。しかしこの時は例によって例のごとくリトアニア大公国の援軍が到着しなかったためと、カシモフ汗国の軍勢がサライを急襲したため、アフメット=ハーンは撤退せざるを得ませんでした。





カジミシェ・ヤギェロンチク
1427-1492

リトアニア=ポーランド同君連合を復活



 タタール勢の重圧のもと、全てのタタール勢力に敵対してはモスクワ大公国はとうてい持ちこたえられません。そこでイヴァン3世は、クリミア汗国の後継者、ハジ・ギレイの息子メングリ・ギレイに接近します。ところがここで政変が起こり、小オルダの後押しをうけたヌル・デヴレットが反乱を起こし、もめた後に、オスマン・トルコ帝国の支持でメングリ・ギレイが1478年ハーンの位につきます。ちなみに、このクリミア汗国のハーン位のオスマン・トルコの介入がきっかけとなって、クリミア汗国はオスマン・トルコに臣従しました。これ以後クリミア汗国の行動には必ずオスマン・トルコ帝国の影がついてまわると言うことになります。(クリミア汗国のトルコへの臣従の背景はこちら

 ともかく、イヴァン3世は1480年、クリミア汗国と相互援助条約を結びます。このときイヴァン3世は、抜け目なくモスクワ大公国に亡命してきたヌル・デヴレットとハイダールをいざという時の切り札として仕官させていました。メングリ・ギレイあての外交文章では恭順の意を示し、クリミア汗国のモスクワ対公国に対する優位をはっきりさせて、貢税とほとんどかわらない「贈り物」を送り、クリミア汗国(次の世紀には地中海世界の最強国となるオスマン・トルコ帝国がバックについていますからはっきり言ってやむを得ません。)の傘下に入ることで、クリミア汗国の矛先をかわすことに成功しました。しかしこのとき、キプチャク汗国残存部のアフメット=ハーンが1480年大軍を組織し、モスクワへ向かって進軍していたのです。

 まず、アフメットはウグラ川を渡ろうとしましたが、小火器で武装した、アンドレイ・メーニシェ大公や当時のトゥヴェーリ公イヴァン・メーニシェ公ら率いるロシア人部隊の抵抗に会い、4日間の抵抗の後リトアニア大公国領に撤退し、援軍を待ちました。ところが同盟国のリトアニア大公国はクリミア汗国のポドリア襲撃と、カジミエシュ政権転覆の陰謀の発覚で隣国を助けるどころではなくなり、またも援軍を派遣しませんでした。

 タタール側は、オカ川付近の都市を掠奪しました。が、イヴァン3世はヌル・デヴレットとヴァシーリー・ノズレヴァトイ公の指揮する騎兵隊を組織し、サライを急襲させました。結局アフメット=ハーンは退却し、闘わずして勝者となったモスクワ大公国の権威はいやがうえにも高まり、決定的なものとなりました。

 アフメット汗は、サライに戻った直後に起こったチュメニ汗国とノガイの攻撃で殆ど暗殺同様に殺され、キプチャク汗国残存部は最終的には1502年、クリミア汗国とアストラハン汗国に分割吸収されます。

 もっともイヴァン3世は、このキプチャク汗国残存部と真正面から対抗するために、他の汗国、クリミア汗国、アストラハン汗国、ノガイに「贈り物」という名前の貢税を送り続けて手を出さないでいてもらうことでこの勝利を得たわけですですから、彼らが束になってっくるとやはりモスクワ大公国の実力では太刀打ちできず、タタール優位の状況は続いていたわけです。

 しかし、タタール勢力の宗主権から事実上脱し、クリミア汗国に対するものを除けば貢税もほとんど行なわれなくなり、のちに述べるようにカザン汗国の属国化に成功するほどに成長したモスクワ大公国にとって、唯一心せねばならないタタール勢力はクリミア汗国ですが、この国はすでに15世紀中ごろオスマン・トルコに臣従しており、タタール勢力というよりは、トルコ勢力の尖兵と考えた方が妥当です。したがって、大概においてこのイヴァン3世の時代にタタールのくびきが打ち捨てられたと言われておりますが、本質的にはまったくもって妥当かと思われます。


    〜 5. タタール政策(2)ーカザン汗国 〜

 さきほどちらっと述べたカザン汗国についてまた少し述べますと、カザン汗国はヴォルガの上流、東方貿易の拠点でして、なんとかこの汗国を影響下に置けないかとイヴァン3世は考えておりました。

 話はさかのぼりますが、イヴァン3世の父ヴァシーリー2世を破ったウルク・ムハメッド=ハーンはカザンを占領し、キプチャク汗国から独立して1445年ごろ、カザン汗国を打ち立てます。このとき、彼は自己の権力を固めるため、自分の二人の兄弟カシムとヤコフを殺害しようとしました。

 殺されてはかなわないと、手勢を率いてモスクワに投降してきたカシムとヤコフを、ヴァシーリー2世は庇護します。先に述べましたが、後のカシムとヤコフの対ドミートリー・シェミャーカ戦での活躍に喜んだヴァシーリー2世は1452年、オカ川付近のゴロジェッツ・メシチェルスキーの町をカシムに与えました。いわいるカシモフ汗国の始まりです。

 さて、カザン汗国初代ハーン、ウルク・ムハメッドの死後、息子のイブラヒムがハーンの地位につきます。ここでイヴァン3世は、ウルク・ムハメッドの弟のカシムをカザン汗国のハーンの位につけようと画策します。カシムは亡きウルク・ムハメッドの妻と結婚して自分の権威を固め、おそらくイヴァン3世の裏工作もあって、1467年、カザン汗国の一部から、カザン=ハーンに就任するよう要請を受けます。しかし、イブラヒムは譲位を拒否し、カザン汗国の大部分はイブラヒムを支持します。

 これに対する懲罰遠征として、イヴァン3世は軍勢を派遣し、カザン汗国との三回の戦いの末、1469年、平和条約が結ばれ、カシムも死去します。さて1482年にイブラヒムが死去し、どういうことが起こったのかわかりませんが、イブラヒムには第一婦人のヌル・サルタンがおり、二人の皇子モハメッド・アミンとアブドゥル・レティフがいたにもかかわらず、あまり身分の高くないほかの妻から生まれたイルガム(アリ汗)がハーンの位を継ぎました。

 ヌル・サルタンは第2代クリミア汗メングリ・ギレイの元へ嫁ぎ、第一婦人となりました。ヌル・サルタンは自分の腹をいためていない子供が後を継いだカザン汗国を当然良くは思っておらず、むしろ正統な権利がある(と思っている)自分の息子をカザン=ハーンにしたいと思っていたらしく、イヴァン3世に対して友好的な態度をとります。モスクワ大公国とクリミア汗国が同盟を結べたのもその辺のからみがあったからです。

 こうして当面のタタールの最大勢力クリミア汗国の黙認を得て1487年、ダニール・ホルムスキー公を司令官とするモスクワ大公国軍がカザンを包囲し、42日間の攻防戦の結果イルガム汗は降伏します。イルガム汗は捕らえられてヴォログダに流され、有力氏族数名が処刑された後、ヌル・サルタンの望みどおりモハメッド・アミンがハーンとして据えられ、イヴァン3世の望みどおり、モハメッド・アミンはイヴァン3世に臣従します。この後カザン汗国からのあらゆる文章の発信・受信はすべてモスクワ大公国の検閲を受けることになりました。つまり、カザン汗国をモスクワ大公国の属国のような形にすることに成功したのです。

 もっともイヴァン3世の晩年、1505年、カザン汗国はモスクワ対公国に叛旗を翻し、モハメッド・アミンはロシア商人を殺害し、ニージニー・ノヴゴロドまで攻め寄せます(撃退されしたが)。そこで息子のヴァシーリー3世の治世の1506年に懲罰遠征が2回決行されますが、敗北を喫します。2年後、モハメッド・アミンからのロシア人捕虜釈放をきっかけに友好条約を結ぶにとどまり、せっかくの衛星国に独立されてしまったことになりました。何事も一気には進みません。


  〜 6. 対外政策ーリトアニア大公国との戦い 〜

 リトアニア大公国とは1487年以降、恒常的な紛争状態に入ります。リトアニア大公国では、1492年、カジミエシュが亡くなり、ヤン・オルブラフトがポーランド王になり、アレクサンドラスがリトアニア大公となって一時的にポーランド=リトアニア連合が解消します。



   
     

     ヤン1世オルブラフト    アレクサンドラス・ヤギェロンチク
       1459-1501              1461-1506

      ポーランド国王         ヤン1世の死後、
                     リトアニア大公兼ポーランド国王



 しかし、リトアニア大公国とモスクワ大公国の紛争状態はは双方益無しということで、1493年、状況打開のための条約交渉が行なわれ、イヴァン3世の娘エレーナと、大公アレクサンドラスとの結婚話が開始されました。交渉の末、1494年話がまとまり、リトアニアは今後ノヴゴロド、リャザン、トヴェーリ、プスコフには干渉しないことが決定され、その代わり西の玄関スモレンスク、リュブック、ムツェンスク、ブリャンスクに対する要求権を放棄しました。

 ちなみにこの結婚は、エレーナがギリシャ正教を守ったまま、というのが条件でしたから、当然カトリックのリトアニアでは問題となり、大公アレクサンドラスにはエレーナをカトリックに改宗させるよう常に圧力がかかりましたから、問題となり、イヴァン3世は、1500年、リトアニア大公国に宣戦布告します。ヴェドロシャの戦いではリトアニア大公国軍司令官を捕虜にするという大勝利を収めますが、1502年のスモレンスク包囲は失敗し、1503年、6年間の停戦条約が結ばれます。この二度目の戦いでモスクワ大公国はドニエプル川上流を含む広大な領土を獲得しました。

 もっともリトアニア大公国は、1501年リトアニア大公アレクサンドラスがポーランド国王も兼ねることとなり、さらにボヘミア、ハンガリーも抑え、この時代最盛期を迎えます。


     〜 7. 対内政策ー法令整備など 〜

 さらにイヴァン3世は法令集により、農民は領主の下を立ち去ることのできる期間を秋のユーリーの日(1126日)の前後一週間のみに限定し、後代の農奴制の基礎を作りました。

 また、当時の技術先進国イタリアから技術者を招いてクレムリンの壁を塔と赤レンガで再建し、現在見られる規模に拡張したのも彼です。モスクワを表す形容詞(枕詞)にбелокаменная Москва(白亜のモスクワ)というものがありますが、赤の広場なのに白いとはいったい何事だ、と思ってしまいますが、その発端はここに始まります。

 このように、イヴァン3世は様々な事業をなしとげ、モスクワ大公国によるロシア統一をほぼ完成し、イヴァン3世の時代に行なわれた様々な政策は以後のロシアの多大な面を決定付けることとなります。イヴァン3世はモスクワ大公国興隆に大きな貢献をなした、指折りの名君と言って間違いない人物です。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『パルト三国』
    パスカル・ロロ 著 小沢重男 訳
     白水社

   ・『ポーランド文化史』

   ・『甦るヨーロッパ中世』
    阿部謹也 著
    日本エディタースクール出版部

   ・『鉄の歴史』
    ベック 著
    たたら出版

   ・『東西ロシアの黎明』
    G.ヴェルナツキー 著
     風行社

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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