タタールのくびき(9)

〜〜ヴァシーリー3世の時代〜〜



『チトゥリャールニク』<1672年>より

ヴァシーリー3世 / Василий V
1533 〜 1584年 モスクワ公国を安定成長させる。



Российская

 
  История




      
〜 1. ヴァシーリー3世の即位まで 〜

 実り多きイヴァン3世の治世で少し難癖をつけるとしたら、それは後継者問題です。先にも述べたように、イヴァン3世は先妻マリアに1467年に先立たれ、後添えとしてビザンチン帝国最後の皇帝コンスタンチヌス11世の姪ゾエ(コンスタンチヌス11世は子供に恵まれませんでした)、改宗してソフィアと名乗った皇女を娶りました。

 ところが先妻マリアとの間には長男イヴァンが生まれており、彼は成人してモルダヴィアのエレーナと結婚し、二人の間にはドミートリーが生まれておりました。イヴァン3世は長男のイヴァンに大公の称号を与え、共同統治者に任命していました。ところがイヴァンが32歳の若さで夭折した際、エレーナはドミートリーの相続権を主張したのです。




     この章に登場するリューリク一族の系譜


              
エレーナ
                 |
      
マリア       ├―――ドミートリー
        |        |
        ├――――イヴァン
        |
   ―
イヴァン3世
        |
        ├――
ヴァシーリー3世
        |     |
         |    ├―ユーリー・ドミトロフ
        |     |
         |    └―アンドレイ・スターリッツァ
         |
   
   ソフィア(ビザンチン帝国皇女)


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 イヴァン3世の心が決まり、ドミートリーを後継者として宣言しようとした時期、ソフィアとヴァシーリーが、ドミートリーの暗殺をかねた反乱を起こすべく、兵を集めようとしました。慧眼なイヴァン3世はこれを察知し、ヴァシーリーを逮捕投獄し、反乱に加担した者を処刑します。そして1498年、正式にドミートリーを後継者として宣言し、全ロシア大公の称号を与えました。

 ところが、イヴァン3世とソフィアの娘エレーナは当時のリトアニア大公アレクサンドルの妃となっており、ソフィアは当時のモスクワ大公国のリトアニア派の重鎮のような立場にありました。タタールやトルコとの戦いに備えるため、モスクワ大公国は、大国リトアニアとの関係を良好なものにしておく必要があり、国内のリトアニア派におとなしくしてもらう必要に駆られたイヴァン3世とソフィアとの間で取引が成立します。

 1499年、ヴァシーリーは釈放され、1502年にはモルダヴィアのエレーナとドミートリーが逆に自室に監禁され、ヴァシーリーはイヴァン3世から正式に「ウラジーミルとモスクワの大公にして全ロシアの専制君主」として認められました。1505年、モルダヴィアのエレーナとドミートリーは相次いで亡くなりました。ちなみにソフィアは1503年に亡くなりました。


   〜 2. プスコフ併合ー「第三のローマ」論 〜

 こうして権力闘争を勝ち抜いたヴァシーリー3世は、父親のイヴァン3世の積み残した最後の課題、ヤロスラフ賢公以降キエフ公国から分裂していった諸公国の、モスクワ大公国による統一を実現します。

 まずノヴゴロドとならぶロシアの自治都市プスコフの併合をたくらみます。最初に親プスコフ的であったピョートル・シュイスキー=ヴェリーキーを解任し、代わりにイヴァン・レプニア=オボレンスキー公をプスコフの代官に任命します。この新代官をめぐってプスコフは二つに割れ、またプスコフ市民自身のもろもろの裁定を新大公に仰ぐためもあり、ヴァシーリー3世はノヴゴロドに全てのプスコフ高官、貴族、商人が集まるように命じます。






16世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市

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 1510年1月6日、多くの市民達がノヴゴロドを訪れましたが、ヴァシーリーは集まった全員を逮捕監禁します。当然この処置についてプスコフ市民は怒りますが、軍事的に弱体な自治都市のこと、戦端を開いてもモスクワ大公国に勝てるかわからなかったこと、政府高官の殆どを人質に取られた人材枯渇状態では新たな政府を組織するのも難しいということで、結局民会はやむを得ず大公の慈悲を嘆願する特別使節を派遣することにしました。

 それに対しヴァシーリー3世は、二つの条件、一つは民会を解散し民会の鐘を引き渡すこと、もう一つは大公の二人の代官に統治されること、これらを受け入れる限り大公の慈悲は取り戻せる、さもなくばモスクワ大公国がプスコフに対し宣戦布告するとの要求を出しました。

 無理難題を突きつけられたプスコフ市民の無念や如何ばかりのものだったでしょう。ヴァシーリー3世から1日だけ考慮する猶予を受け取りますが、翌日、やむなく条件を飲むことに同意します。1月24日、プスコフ視察のためにヴァシーリー3世がプスコフの大公館に現れ、全プスコフ人は大公の意向を伺うべく大公館に集合するよう布告が出されます。

 こうしてまたもプスコフの住民が集まったところで高位の市民が逮捕され、今回は一般人は解放されました。こうして前回と今回でプスコフの有力家族が逮捕され、モスクワに300家族が強制移住され、モスクワから同数の家族がプスコフに送られてきました。この強制移住は中産階級にもおよび、彼らの家屋敷5600件が没収され、住人は家から退去させられました。

 さて、プスコフは新たにモスクワ大公国の支配下に組み込まれることになりましたが、旧プスコフ市民に対する風当たりは当然厳しく、プスコフ市民は聖職者にとりなしを頼みます。プスコフはノヴゴロド主教座に属していましたが、ノヴゴロド主教は当時空席でしたので、プスコフのエレアザロフ修道院の院長だったフィロフェイに市民達が働きかけたのです。

 フィロフェイは偉大な殉教者達のごとく不幸を耐え忍ぶことを進めた手紙を市民達に送り、その一方でヴァシーリー3世に対して書簡を送りました。内容はノヴゴロド主教の不在、十字架のきり方の問題点などの一般的な問題を論じたものでした。しかし、その合間に、虐げられているものを虐げるものたちから解き放ち、財産は貧しきものを救うために使えと警告し、暗にプスコフの不正を正すよう促したのです。

 最後にフィロフェイは無断で大公に手紙を出したことに対する非礼をわび、「第三のローマ論」
"Москва - третий Рим"を持ち出します。これは、要するにモスクワ大公は地上に残された唯一の正教の支配者(つまり第一のローマが滅び、第二のローマのコンスタンチノープルも陥落した後に残された、第三のローマ)なのだから、正教徒に対して特別な最後の責任と義務、つまり臣民に対し正しい政治を行なうこと、が存するのだ、と書きました。

 ようするに支配者のご機嫌をとりながら、さりげなく民衆をいたわるよう主張した、さすがインテリらしい賢い文言です。ただし、この第三のローマ論が後代とんでもない方向に拡大解釈されてしまったのは後代の歴史が示すとおりです。

 さらにトヴェーリのスピリドン成る人物、ロシア府主教としてコンスタンチノープル総主教から派遣されてきましたが、リトアニア大公カジェミンにトルコと通じていると疑われて逮捕され、モスクワへ脱走した人物が、さらにロシアでもベローゼロのフェラポント修道院に幽閉されていました。

 彼はヴァシーリー3世に宛てて手紙を書き、あのリューリクは、プロイセンに住んでいたが、実はリューリクはローマ初代皇帝アウグストゥスの弟プスル(アウグストゥスに姉がいたのは事実ですが…。)の14代目の子孫で、プルスがすんでいた土地がプロイセンなのだ。ロシア大公の王冠、紋章はビザンチン皇帝コンスタンティノス・モノマコスから、キエフ大公ウラジーミル・モノマフに送られたものだということを主張しました。正直事実無根だと思いますが、ともかくこの説は次のツァーリ、イヴァン雷帝のイデオロギーとして利用されます。


 〜 3. 外交政策ーリトアニア、クリミア汗国との緊張 〜

 さて、カザン汗国の状況ですが、モハメッド・アミン=ハーンが死去した後、ヴァシーリー3世がモスクワ対抗国内にあるカシモフ汗国ハーン、シャー・アリーを送り込み、1519年、カザン=ハーンの地位につけます。ところがカザン人はモスクワ大公国から送られたハーンに対して反乱を起こし、クリミア=ハーンのメングリ・ギレイの弟、サイプ・ギレイを1521年カザン=ハーンの位に就けます。サイプ・ギレイは着任早々、カザン汗国内のロシア人を皆殺しにするか奴隷に売り払うよう命じました。

 クリミア汗国は最初こそモスクワ大公国と手を結んだものの、どんどん勢力を拡大していくモスクワ大公国の前に不安を覚え、1512年、モスクワ大公国との同盟を破棄してリトアニア大公国と同盟します。そして1521年、メングリ・ギレイの息子モハメッド・ギレイは騎馬隊で長躯してモスクワ近郊まで侵攻することに成功しました。ヴァシーリー3世はタタール、モスクワに来るの報を受け取ると、自らは兵を集めるべくヴォロクまで退き、改宗タタール人で、ヴァシーリーの妹エウドキアを妻にしていたピョートルにモスクワの守備を任せます。結局ピョートルはモハメッド・ギレイに多額の「贈り物」を与えることでモスクワ包囲を解かせました。

 クリミア汗国と歩調をあわせたてリトアニア大公国もモスクワ大公国に対し攻勢的な態度をとります。リトアニア大公アレクサンドルが死去し、1506年、アレクサンドルの弟ジグムント1世がポーランド王兼リトアニア大公となりました。夫と死別したヴァシーリー3世の姉エレーナはリトアニア大公国とモスクワ大公国の緊張で人質同然の身となり、結局祖国へ戻ることもかなわず1513年死去しました。




    この章に登場するヤゲロー王朝一族の系譜


        
ヤゲロー
   |
   └
ヴワディスワフ・ヴァルネンチンスク
     |
    └
カジミエシュ
ヤン・オルブラフト
              |
             ├―
アレクサンドラス
              |       |
              |     ├―ミハイル
              |      |
              |  
エレーナ(ヴァシーリー3世の姉)
              |
             |
            └
ジグムント1世―ジグムント2世


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 1510年にはリトアニア大公国から、ドミートリー・ドンスコイに敗れたママイを先祖にもつ名望家ミハイル・グリンスキーがモスクワ大公国に亡命してきました。理由は、アレクサンドラス治下には大公の覚えめでたかったのですが、ジグムント1世の時代になると雲行きが怪しくなり、ジグムント1世から反逆罪で告発されたので、1508年実際に反乱を起こしましたが失敗し、ヴァシーリー3世へ庇護を求めて一族ごとモスクワ大公国へやってきたのです。この、青年時代の12年をドイツ・イタリア・スペインで過ごして広い視野を身につけ、なおかつリトアニア大公国の内情に詳しいグリンスキーをヴァシーリー3世は厚遇します。






ジグムント1世スタリー
1467-1548

リトアニア=ポーランド同君連合を復活



 これらの事件も火花となって1514年、ダニール・シチェニア公率いるモスクワ大公国軍はリトアニアからスモレンスクを奪いました。リトアニアは一ヵ月後オルシャの戦いでモスクワ大公国に大勝利しますが、モスクワ側はスモレンスクを死守し、戦いは泥沼化します。1517年、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が両国の仲介に入りますが、失敗に終わり、1522年、両国の間で現時点での領土を保持したまま、つまりモスクワ大公国がスモレンスクを保持したままでの休戦条約を結びました。こうしてリトアニアに対して優位を保ちつつ、1520年、モハメッド・ギレイとの接触を理由に、リャザン大公イヴァン6世を告発し、1521年、伝統的に中央権力に楯突いてきたリャザン公国を併合しました。

 翌1522年にはノヴゴロド・セヴェルツキー公国を併合し、とうとうキエフ公国の時代の領土をほぼ取り戻したのです。さすがはキエフスカヤ・ルーシ時代、『イーゴリ公遠征物語』に記されるほどのルーシ全土にわたる反乱を起こした独立心旺盛な風来坊、オレーグ公の子孫の封土だけあって、ノヴゴロド・セヴェルツキー公国がモスクワ大公国に併合された最後の公国でした。

 ちなみにあのアレクサンドル・ネフスキーの時代ノヴゴロド周辺に出没してロシアを脅かしたチュートン騎士団ですが、その後、1410年タンネンベルクとグルンヴァルトの間で行なわれた戦いでリトアニア大公国のヴィタウカスに完敗し弱体化します。そして、1466年、トルニの講和が結ばれ、旧チュートン騎士団領のうち、ヴィスラ川右岸の部分に騎士団長を封臣とする騎士団の領土が認められたものの、グダニスク・ポモージュとヴァルミアが騎士団領から奪われ、ポーランド=リトアニア大公国領とされました。

 こうして徐々に衰えていった騎士団ですが、1515年、ポーランド王兼リトアニア大公ジグムント1世はウィーンで神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世と会見し、チェコとハンガリーでヤゲロー王朝が絶えた場合、ハプスブルク家が王位を継承する代わりに、神聖ローマ帝国はチュートン騎士団を支持しないという取り決めを結びます。こうして背後を固めた後、ジグムント1世は、チュートン騎士団領に攻め込みました。

 とうとう、1525年、チュートン騎士団最後の団長アルブレヒト・ホーエンツォレルンはルター派に改宗し、ポーランド国王に臣従を誓いました。こうして騎士団は世俗化してポーランドの一部のプロイセン公国となり、政治的独立を失ってしまいました。こうしてプロイセン本国が力を無くしてしまった以上、バルト三国に点在する騎士団領およびそれを経営する騎士たちは独自の行動をとらざるを得なくなり、ためにこれ以後バルト三国で活躍した騎士団は「リヴォニア騎士団」などと呼ばれることもあります。こうして、長年バルト海沿岸でその精強を謳われたチュートン騎士団のプロイセン部分が、歴史の表から姿を消しました。

 リトアニア=ポーランド連合王国は、条約上は対等な二重国家とはいえ、やはりその二つの国の間には力の優劣があり、リトアニアが本格的なカトリックに改宗したためリトアニアのポーランド化が進み、圧倒的多数が東方正教の領民には離反され、ロシアとの戦いで疲弊し、下降期に入ったリトアニア大公国はロシアに対するライバルの座から降り、代わって力を付け始めたポーランド王国が今後ロシアの前に立ちふさがる相手となってきます。

 このころバルト海貿易が本格的に軌道に乗ったポーランド王国は史上最高の繁栄をむかえます。ウクライナの穀物をヴィスワ河のグダンスクまで運び、バルト海を通じて西欧に売り出すことで得たその富により、クラクフにはポーランド・ルネッサンスの文化が栄え、その1543年ローマ教会の迫害を恐れ、死の床で出版された著書『天体の回転について』で地動説を唱えたコペルニクスなどの大科学者を生むことになりました。ただしこの貿易を通じて、シュタフラという騎士階級が力をつけ始め、彼らは中央に反抗することで中央政府の力を弱め、ひいてはポーランド王国全体の力を弱めることになりました。

 ここまで政治を進めたところでヴァシーリー3世は、君主の政治上の重要な義務である世継ぎを残すことにし、何の落ち度もありませんでしたが、子供の出来なかったサロメアを離婚し、1525年エレーナ・グリンスカヤ、つまりあのミハイル・グリンスキーの姪と再婚します。ヴァシーリー3世とエレーナとの間には二人の子供が恵まれました。これで十分に君主の責務を果たしたと確信したであろうヴァシーリー3世は妻と二人の子供をつれて聖セルギー・トロイツァ寺院に巡礼し、ヴォロクで狩りに出かけた後発病し、1533年亡くなりました。


 〜 4. 内陸アジア史ーシャイバン朝、ボハラ、ヒヴァ 〜

 ここで後にロシアと関係の深くなる内陸アジアの歴史を述べておこうと思います。1468年、ウズベク族の祖となったアブール=ハイル=ハーンが死去した後、お家騒動で一族の支配は動揺しますが、孫のムハンマド=シャイバーニーがでて、モグーリスタン=ハーン国(東チャガタイ汗国)からトルキスタンを封邑として受けとり、再びウズベク族を仕切ることに成功、チムール帝国の弱体化に乗じて西トルキスタンに侵入し、1500年にボハラ、つづいてサマルカンドを占領し、チムール帝国を滅ぼして、シャイバン汗国を名乗ります。

 さらにムハンマド=シャイバーニーはホラズム地方、ヘラート地方を占領し、西トルキスタンの王者として君臨します。サファビー朝ペルシャがシーア派でしたので、スンニ派のシャイバン朝は攻撃を食らい、1510年、シャー・イスマーイールにホラサン地方に侵入され、ムハンマド=シャイバーニーはメルプでサファビー朝に破れ、殺されます。で、チムール帝国の残党バーブルは、サファビー朝から軍を借りてサマルカンドに帰還、ボハラを占領しましたが、住民の抵抗が激しく、これに乗じてシャイバン朝の反攻が始まり、撃退されましたので、カーブルへ戻り、北インドを征服してムガール朝を立てました。

 こうして危機を乗り越えたシャイバン朝ですが、アブド=アッラーの時代、シャイバン朝の血統が絶えてしまいます。時代が少し飛びますが、イヴァン雷帝に滅ぼされた、アストラハン汗国の残党の、キプチャク汗国のハーンの血を引くヤール・ムハンマドはその子ジャーンと共に、チムール帝国を滅ぼして西トルキスタン初のウズベク族の国家、シャイバーン朝のイスカンダル=ハーンの保護をもとめてボハラに逃れ、ジャーンはイスカンダル=ハーンの娘を娶りました。

 ところが、1599年、イスカンダル=ハーンの男子直系が絶えてしまったので、ジャーンの子のバキー=ムハンマドがシャイバン朝を継承します。この王朝がアストラハン朝ですが、首都がボハラにおかれました。しかし後年、ウズベク豪族のマンギト氏族が力を伸ばし、アストラハン朝最後の君主の娘を妃としたマースム=シャー=ムラードが1785年、ハーンの位につき、アストラハン朝は名実共にマンギト王朝に政権を奪われますが、ボハラに首都がおかれたことから、この両王朝を合わせてボハラ汗国といいます。


 さて、サファビー朝ペルシャが攻め込んできた際、ホラズム地方を占領しましたが、このときシャイバン朝の一首長イルバルスが反乱を指揮し、ペルシャを追い払いますが、彼はシャイバン朝から分離独立してホラズムにヒヴァ汗国を建てます。ここはロシアと内陸アジアを結ぶ商業路の位置し、それだけ関税収入も期待できるので独立勢力として生き残るのも可能でしたが、それだけに周辺各国から狙われ易い位置にあるということです。

 ハージー=ムハンマド(在位1558ー1602)の時代、例のボハラのアブド=アッラー=ハーンにホラズムを一時占領されます。また、次のアラブ=ムハンマド(在位1603−1623)の時代にコサック軍1000人が侵入します、もっともこれはほぼ全滅させることに成功しました。さらに1616年、天山北方高原からヴォルガ川流域に移動したオイラートのカルムク族(仏教徒で、あのレーニンの父がこの民族出身です。)もしばしば攻め込まれることとなりました。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 ウクライナの歴史』
    黒川祐次著
    中央公論社

   ・『パルト三国』
    パスカル・ロロ 著 小沢重男 訳
    
白水社

   ・『中央アジア史』
    江上波夫 編
    山川出版社

   ・『ポーランド文化史』

   ・『ポーランド・ウクライナ・バルト史』
    伊東孝之 井内俊夫 中井和夫
     山川出版社


   ・『東西ロシアの黎明』
    
G.ヴェルナツキー
    
風行社

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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