スムータ(動乱)(1)

 〜〜リューリク朝の崩壊と混乱時代の幕開け〜〜
 

 


 ボリス・ゴドゥノフ / Борис Годунов  
 1552? 〜 1605年 リューリク朝崩壊後権力を握る 
 




Российская  
  История


 
 帝フョードルが病弱で後継ぎを残さず亡くなり、リューリクの直系が断絶したことよるロシアの皇位継承システムの崩壊は、以後の歴史に致命的な影響を与えました。

 現在ならば、選挙で当選し国民の新任を得たということが、政治家が国民を統治できる理由となっています。

 ところが選挙の概念の薄かったこの時代、国民を統治できる人物の条件として、人々が納得できた考え方は「リューリクの高貴な血を引くこと」であり、その高貴な人物の中から適任者(基本的には年長者)を選ぶのが当時の政治家の選出方式でした。

 この「リューリクの血を引くこと」という条件をもつ人物が消えてしまったということは、当時の人々にとっては、人々を支配する条件を満たすと思える人物が消えてしまったということにほかなりませんでした。

 そこで、どんな大貴族が支配者として現れようが、人民はその人物に一向に従わず、むしろリューリクの血を引くことイヴァン雷帝の息子を称する野心家に心を向けてしまうということになりました。また、リューリク家以外でロシアの支配者たらんとした大貴族たちの統治能力の程度も、民衆を失望させただけでした。
 
 結局、支配者に被支配者がまったく従わず、それに乗じて外国勢がロシアにつけいり、ロシア全土が名状しがたい大混乱に陥る「スムータ」の時代を迎えることとなったのです。


  〜 1. イヴァン雷帝の死後ーフョードル摂政団 〜

 1583年、イヴァン4世が世を去り、彼の後を継いだのがフョードル1世です。







フョードル1世(1557-1598)
リューリク朝最後のツァーリ



 「フョードルは極めて単純な人物であり、鐘を鳴らしたり、教会に行ったりする事で時間の大半を費やしていた」と同時代人に酷評され、また病身であった息子フョードル1世のため、イヴァン4世は生前5人の有力者をフョードルの後見人に指定していました。もっとも彼の治世は何も得るところがなかったわけではなく、イギリス商人にのみに与えていた貿易権をオランダ人にも与え、競争によって貿易を振興しようとします。

 ともかく、イヴァン雷帝が生前指名していた摂政団が実際の政治を取りました。アレクサンドル・ネフスキーの弟アンドレイの血を引き、プスコフの包囲戦で名をあげた名門貴族イヴァン・シュイスキー、大公ヴァシーリーの姪の息子イヴァン・ムスティラフスキー、最初の皇后アナスタシアの弟ニケタス・ユーリエフ、ボグダーン・ベリスキー、フョードルの妻イリーナ(ちなみにフョードルとイリーナは幼馴染でした)の兄でイヴァン4世の寵臣ボリス・ゴドゥノフです。


 


     この章に登場するリューリク一族の系譜


  ―
イヴァン4世(雷帝)
      |
      ├―――――――
――イヴァン
      |            |
    
アナスタシア      ├――フョードル
    (その他七人の後妻) |      |
                  |   
イリーナ
                  |    |
                  |    └ボリス・ゴドゥノフ
                  |
                 └―――ドミートリー 


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 ボリス・ゴドゥノフは、名門貴族をその偏執狂的な性格から信用することができなかったイヴァン雷帝の寝殿官(君主と同じ部屋で眠り、食卓の管理も行ないますから、ツァーリの信頼が相当厚くなければ任命されません)、さらには侍従官にまで出世したオプリーチニク出のドミートリーを叔父に持ち、さらにオプリーチニクの「死刑執行人」とまで呼ばれたマリュータ・スクラートフの娘婿でして、イヴァン雷帝期のオプリーチニナ期を利用して破格の出世を遂げた新興貴族の雄でした。

 イヴァン4世が死ぬと5人はたちまち権力闘争をはじめ、結局アレクサンドル・ネフスキーの血を引く名門貴族イヴァン・シュイスキーと、オプリーチニナ期に勢力をのばし、いまや新興貴族の雄となったゴドゥノフ家の当主ボリス・ゴドゥノフとの一騎打ちとなりました。

 シュイスキーはイリーナに皇太子が生まれないことを口実にボリス・ゴドゥノフの失脚を図りますが失敗し、逆にシュイスキーの一族がヴァシーリー・シュイスキー(後のツァーリ)を除いて全員がモスクワから追放され、フョードル1世の後見人メンバーを、全員失脚させたボリス・ゴドゥノフが全権を握ります。


 〜 2.  ボリス・ゴドゥノフの権力掌握ーその治世 〜

 さてボリスの政治ですが、内政的面では、1589年モスクワ府主教座をモスクワに置き、民衆への影響力の強いモスクワの聖職者階級を抱き込むことで、民衆の支持をとりつけようとしました。

 また、これはイヴァン3世以来脈脈と続けてきた政策ですが、たびたびツァーリに歯向かう大土地所有貴族に対抗して、一代限りの所有が許された土地ポメースチを扶持として与え、その代わりにプリカースに務めることでモスクワ大公国の行政事務をこなす行政官僚にあたる、新たに設けた子飼いの部下勤務士族層の保護育成に努めます。

 土地制度としては、ボリスは、イヴァン3世の定めたユーリーの日(11月26日、この日の前後一週間は農民は自由に移動できました)を一時的に禁止する「禁止年」を導入して、ユーリーの日を利用して中小の勤務士族の土地から大土地所有者の土地へ農民が移動するのを防ぎ、また逃亡農民の捜索に力を尽くすなどして、勤務士族を保護する政策を打ち出します。

 さらに、モスクワを訪れたコンスタンチノープル総主教エレミアスを軟禁し、脅したりすかしたりで、むりやりロシアに総主教座を設立できるという言質をとり、結局ロシア人のモスクワ総主教を認めさせ、初代モスクワ総主教としてヨブを任命しました。オスマン・トルコにビザンチン帝国を滅ぼされ、頼るべき国家のなくなった国民の弱みでしょう。

 また外政面では,、1577年のデヴレット・ギレイの死の後に起こったクリミア汗国の内紛で、当初はマグメット・ギレイがハーンの位を継ぎましたが、1585年、イスラム・ギレイがハーン位につき、権力闘争に敗れた兄弟達は復讐を恐れて国外逃亡しますが、モスクワにはムラト・ギレイがやってきました。そこでこのムラトにビヴォフ指揮下の1000人の銃兵隊、900人のコサックを与えてアストラハンに送り込み、石造の砦を作らせて防衛させます。

 1591年にモスクワはクリミア汗国による大規模な来襲をうけます。結果的にはこれがタタール勢の最後の大規模なモスクワ来襲になるのですが、ともかくボリスはクリミア汗国に貢税をはらうことで平和をあがなう一方、モスクワの南東にツァーリチィン(現ヴォルゴグラード)を初めとする防衛都市を築かせ、南方から侵入する敵に対するモスクワの防衛を強化しました。






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17世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市




 このツァーリチィンは旧ソ連時代スターリングラードと改名され、防衛の要衝に位置するこの街では、20世紀に入り、共産革命成功直後に起こった内乱期の白軍のデニーキンが、赤軍を率いるトロッキーやスターリンと激突し、第二次世界大戦でソビエト軍とナチスドイツ軍とが死闘を繰り広げることとになります。

 西シベリアでは1585年イェルマークの敗死後、すかさずロシア帝国正規軍をおくり、オビ川と支流に城砦(острог、アストローク)を築いてシベリア支配を固め、ヤサク(毛皮税)徴収の行政機関としました。これ以後、このアストロークに50人から100人単位の兵を置き、そこへ徴税人がヤサクを集めに現れ、ヤサクを徴収している地域がロシア帝国の支配地域となる、というやり方が、シベリア統治方式の骨子となります。

 この時代、シベリアの向こうには東アジア最強を誇る大清帝国が誕生し、1661〜1722年には聖祖康熙帝が即位し、まさに清が絶頂期へ向かわんとしていた時期でした。清朝を建てた満州族も狩猟民族であり、当然毛皮を大量に使用する文化をもっていましたから、東アジアに忽然と誕生したこの毛皮の大消費地では、毛皮に需要が急増し、この需要を満たすべく、コサックたちがシベリアに入植し、あちこちに交易拠点となる町を作り上げていったのです。こうして清朝は、ロシアの重要な輸出品目となるシベリア産の毛皮の主要取引先となり、このロシア(コサック)勢力の北方ユーラシア地帯への進出は、清朝という毛皮大消費地の誕生という需要に足並みを合わせたものだったのです。

 ちなみにシベリア産の毛皮の取引のヨーロッパ向けは、当時イギリスが独占していました。この毛皮取引を中心として、後には毛皮以外(特に鉄鋼)の輸出入品目が徐々に拡大し、後世ロシアとイギリスの間には深い貿易のパイプができることになりました。19世紀のナポレオンの大陸封鎖令によりイギリスとの貿易が禁止された際もっともダメージを受けた国の一つがロシアだったのは、この辺に遠因があります。

 ポーランド情勢ですが、ポーランド王ステファン・バートリーが1586年に亡くなり、またも国王選出の選挙が行なわれます。このときの候補者は前回のポーランド国王選挙で息子を出馬させて落選し、今度は本人自ら立候補することで当選しようとする神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世、スウェーデン王ヨハン3世の息子ジグスムント、ロシア帝国のフョードルの3人です。選挙の結果ジグスムントが勝利し、1587年、ジギスムント3世が即位します。

 ここで同じバーサ王家の父と子の支配するスウェーデン・ポーランド王国の連合軍の脅威にロシアが晒されるかと思われましたが、ポーランド国王になる条件としてカトリックに改宗したジグスムントは、すでにプロテスタント化の進んでいたスウェーデン国内からの受けが悪く、父のヨハン3世が急死したのちスウェーデン国王にも即位した、ジグスムントに対し、ヨハン3世の死後、摂政をやっていた伯父のフィンランド公カールをスウェーデン側は担ぎ出し、国王に据えます。






ジグムント3世バーサ
1566−1632

スウェーデン王国のバーサ王家出身、選挙でポーランド王に




 ボリスはリトアニア大公国と新たに休戦条約を結び、こうしてポーランドとスウェーデンが分裂した機会を捕らえ、ポーランドの脅威を抑えたところで、1590−1595年にスウェーデンと戦い、タユシナ条約を結んで、リヴォニア戦争で失ったバルト海を諦めてエストニアをスウェーデンに渡すかわりに、フィンランド湾岸地域を取り戻します。


   〜 3. ボリス・ゴドゥノフの即位ーツァーリへ〜

 さて、病身のフョードル1世には弟のドミートリーがいました。ドミートリーはイヴァン4世の遺言でモスクワ北方のウーグリチに領土を与えられて、ナゴイ一族とともに追放された母マリアとともに住んでいました。

 ドミートリーはイヴァン4世の七人目の息子であり、教会法では正統な妻は三人目までしか認められていないため、帝位継承権があるかどうかは微妙な問題でしたが、ともかくボリス・ゴドゥノフは、政敵がドミートリーを担ぎ出し自分に反抗することを恐れ、厳しい監視をつけていましたが、1591年ドミートリーは変死します。

 ドミートリーの母マリアの一族ナゴイ家は、ドミートリーの死をボリスによる暗殺と考え暴動を起こしましたが、ボリスはこれを鎮圧します。そして真相究明のため、公平さをアピールするためか、かつての政敵シュイスキー家の一員で、ごく最近追放先のガーリチから呼び戻したヴァシーリー・シュイスキーを団長とする調査団をウーグリチに派遣します。保母ヴァシリーサ・ヴォローホフ、養育係オリナ・トチコヴァ、寝具係マリア・コローボヴァ、一緒に遊んでいた子ども4人などの証言と、入念な調査の末に、ドミートリーは遊んでいる最中にてんかんの発作が起こって倒れ、そのはずみに持っていたナイフがのどに突き刺さって死亡したという結論が出ました。

 当時の人はこれを信じず、後世も暗殺説が主流を占め、プーシキン作の戯曲でムソルグスキーがオペラ化した「ボリス・ゴドゥノフ」もドミートリーの死はボリスによる暗殺という筋書きで作品が書き上げられています。

 そしてドミートリーに続いてフョードルが息子を残さないまま1598年死去した際、帝国最大の実力者はボリス・ゴドゥノフでした。ただ、彼は新興階級の出であったため名門貴族勢力から反発を買っていたため、しばらくは権力の空白が生じます。モスクワの民衆はイリーナがツァーリに即位することを望みましたが、結局彼女は修道院に入ってしまい、ボリスもイリーナと行動を共にしました。

 しかし、貴族勢力が候補者を決めかねている間、ボリスがモスクワに総主教座を置いた見返りに、総主教ヨフが全国会議を開き、ボリスをツァーリに選出します。ボリスは再三辞退しますが、断りきれず全国会議の推薦を受け入れたという形で1598年ツァーリに即位しました。

 このボリスの選出には分領公系門閥貴族の抵抗も大きく、中にはあのイヴァン雷帝期に一瞬イヴァン自身の手によりモスクワ大公を宣言されたシメオン・ベグブラートヴィチや、もとフョードルの5人の摂政団の一人のボグダーン・ベリスキーなどを擁立しようとする動きもあったといいます。

 そこで、新君主としての実力を示す為にも、アゾフのコサックから、またもモスクワに攻勢をかけようとしているという報告のあったクリミア汗国のハジ・ギレイに対して同年セールプホフへ遠征を開始します。ハジ・ギレイは確かにノガイと合流しておりましたが、この軍隊が本当にモスクワへ向かう予定だったのか、正直定かではありません。が、ともかくロシア軍がやってきたので、ハジ・ギレイはアレイ・ムルザを特使として派遣し、クリミア汗国はロシア帝国に進撃する意図のないことを示します。こうして、ボリスはこの事実を利用して、自分には軍事指揮者としての能力もあるとの箔付けをおこないます。

 ボリスはツァーリに即位すると大赦を発動して人気取りをはかり、それと同時に殆ど言いがかりに近い理由で貴族階級の力を殺ぎ落とす作戦出でます。

 まず狙われたのは、ボグダーン・ベリスキーです。セーヴェルツキー・ドネツ川方面へ遠征に出かけ、ツァリョフ・ボリソフ要塞を築く任務を帯びている際、彼は「ボリス・フョードロヴィッチにはモスクワを治めさせよう、しかし、ツァリョフ・ボリソフでは、いまやわしがツァーリだ」と発言したことが問題とされました。たしかにロシア帝国の実力者にしては不注意極まりない失言ですが、ボリスはベリスキーを召還し、裁判にかけ、有罪宣告を出して恥辱柱に彼を縛りつけ、髭を一本一本抜いてさらし者にし、侍従官の身分を剥奪してニージニー・ノヴゴロドへ流刑としました。

 もっと露骨に迫害されたのはロマノフ家で、ロマノフ家の親戚アレクサンドル・ニキチッチの召使の密告で、アレクサンドルが自分の家の金庫に魔術様の木の根を隠し持っており、それを用いてツァーリ一家を呪い殺そうとしているという訴えがあったのです。やがてロマノフ家の館の探索が行なわれ、問題の木の根が発見され、総主教館にあつまった貴族・高位聖職者の前に証拠物件として持ち出され、ロマノフ家の主要人物は死刑を宣告されます。

 ところが、あまりの強引さにさすがに良心の呵責を覚えたのか、なんなのか不明ですが、ボリスは、ロマノフ家の当主フョードル・ロマノフを強制出家させて修道士フィラレートとし俗界との縁を断ち切らせ、彼をアントニエフ・シスキー修道院に送り込んで隠居させて、フィラレートの四人の弟達、アレクサンドル、ミハイル、ヴァシーリー、イヴァンは流刑に処しました。このうちイヴァンはを除く三人は流刑地で死亡しました。

 大貴族ばかりでなく、もちろん中小貴族もボリスの迫害を蒙り、あの文豪プーシキンの先祖もこのとき迫害を受けたということです。


  〜 4. 大飢饉ー偽ドミートリー登場とボリス病死〜

 ところが念願の権力の座についたのもつかの間、不運なことに1601,1602年にヨーロッパを襲った大寒波がロシアにも襲来し、イヴァン4世のオプリーチニーナ期の荒廃からいまだ立ち直れていなかったロシア農村は凄まじい飢饉に襲われます。
 
 モスクワを始めとする大都市には故郷を捨てた難民が流れ込み、逃げ込む先のない農民たちは飢餓暴動を起こし、食いつめた小領主が盗賊騎士と化して周辺の農村を襲撃略奪するという惨事が、全ロシア的規模で発生することになります。もちろんボリスは穀物の買占め禁止、困窮者に対する現金支給などの措置を取りましたが、焼け石に水でした。

 このロシア史上未曾有の混乱と社会不安の中から、一つのうわさがささやかれるようになりました。

 それは、イヴァン4世の息子ドミートリーは死んだのではなく、実はどこかに身を隠しているのだといううわさです。そのうわさを裏付けるかのように1603年にポーランドでドミートリーを名乗る人物が出現しました。当然ボリスはこのドミートリーなる人物を偽者だと断定します。ところが話はこれだけでは済みませんでした。






偽ドミートリー1世(?〜1606)
ともかくツァーリとして即位




 偽ドミートリーの出自は、後のモスクワ側の調査によりポーランドで行なわれた発表によると、本名グリーシカ・オトレーピエフ、父親は銃兵隊の百人長をやっていたボグダンでした。モスクワに出て、ロマノフ家に仕えていたため、ボリスがロマノフ家に迫害を加えた時点で後難を恐れてモスクワ大公国から逃亡し、どこかで修道士となってモスクワに舞い戻り、腕を買われて総主教ヨナのもとで写本製作者として働いていました。ところが何があったのかはわかりませんが、モスクワを出奔し、1603年にポーランド人貴族アダム・ヴィスニオヴェツキ公の下へ現れ、自分はウーグリチで死んだとされるイヴァン雷帝の息子ドミートリーだと主張したのです。

 アダム・ヴィスニオヴェツキはボリス・ゴドゥノフに反感を持っていたため、この件を当時のポーランド国王ジギスムント3世に伝える一方、偽ドミートリーをウクライナのポーランド貴族サンドミール公ムニシェクに紹介します。

 この話に興味を持ったポーランド王ジギスムント3世は偽ドミートリーをクラクフへ招待し、陰ながら彼に援助を与えることを約束します。偽ドミートリーはポーランドの支持を得るためカトリックに改宗、さらにはムニシェクの娘マリーナと婚約し、ウクライナのドン・カザーク(コサック)と接触し、彼らの協力を得ることに成功しました。

 こうして地位と力を固めることに成功すると、偽ドミートリーはジギスムント3世の暗黙の了解(ポーランド宰相ヤン・ザモイスキの反対もあったため)を得てポーランド人とロシア人、ウクライナ人などその他雑多な志願者からなる混成部隊を編成し、リヴォフで挙兵しムニシェーク公と共にモスクワへと侵攻したのです。

 本格的な戦闘に発展したこの事態に対し、ボリスの送った侍従官ピョートル・バスマーノフ(祖父アレクセイ・バスマーノフ、父フョードル・バスマーノフがオプリーチニクでした。)ら有能な司令官の指揮するモスクワ大公国正規軍は、ノヴゴロド・セーヴェルツキーの包囲戦で、攻め手の偽ドミートリーの軍を破ります。ところが折からの飢饉のため、モスクワ大公国正規軍は追撃ではなく、偽ドミートリーを支持した地域の略奪に専念し始めたため、偽ドミートリー勢力は壊滅を免れました。

 ところが事態は進展し、偽ドミートリー蜂起の報を聞いたプチーヴリが自主的に開城するとの知らせが入りました。ここで大量の物資・資金が偽ドミートリー軍の陣営に入り、とくに無傷で手に入った大砲による砲撃で篭城中のピョートル・バスマーノフの軍に大打撃を与えます。そこで、バスマーノフは降伏を匂わせながら時間稼ぎに走ります。そして前衛軍総司令官ムスチスラフスキー公率いる政府軍が到着しますが、内外の連携がうまく取れず、偽ドミートリー方率いるポーランド騎兵の突撃により、ムスチスラフスキー公が負傷することで、援軍は撤退しました。

 さて、偽ドミートリー陣営はやはり手元不如意で兵の俸給が払えず、脱落者が続出し、ムニーシェク公も戦線離脱、そのかわりザポロージェ・コサックの援軍が加わりますが、ともかくノヴゴロド・セーヴェルツキー攻略をあきらめ、モスクワ進撃を決定し、コマリツカヤへ入ります。偽ドミートリーはここで休養と兵・物資の補給を行ないますが、やはりここにも政府軍が攻め寄せ、傷の癒えたムスチスラフスキー公、および後のツァーリとなるヴァシーリー・シュイスキーが援軍に駆けつけ、やはり正規軍と不正規軍では話になりません。偽ドミートリー軍は、政府軍の右翼のシュイスキー軍を撃破することに成功したものの、政府軍本営の砲撃および銃の一斉射撃で総崩れとなり、偽ドミートリーも自分の馬が打たれますが、なんとか脱出に成功し、彼に帰順することを表明していた、ルイリスクに逃げ込みます。

 ところが、ルイリスクに政府軍の追っ手がかかり、その地の守備をドルゴルーキー公にまかせた偽ドミートリーは、プチーヴリを目指して逃亡します。ドルゴルーキー公のもとには、コマリツカヤでの反逆者に対する政府軍の処刑と破壊の嵐の話がすでに伝わっていたので、ドルゴルーキーは徹底抗戦を行い、政府軍もルイリスクの守りが堅いと見るや撤退していきました。

 撤退した政府軍ですが、なんとオスコル、ヴァルイキ、ヴォロネジ、ツァリョフ・ボリソフ、ベルゴロドなどに反乱の火の手が上がっており、モスクワに最も近い反乱軍のクロムィを目指します。ところが、ここを守るドン・コサックのアタマン、コレラの猛烈な抵抗にあい、前衛軍第二司令官のサルティコフは突撃を敢行しますが、本丸を抜くことは出来ず、逆に被害が拡大したので、撤退しました。その後政府軍による激しい攻撃でクロムィは炎上し、地上建造物は全て破壊されましたが、コレラは塹壕とトンネルを掘り、その中であくまで政府軍に抵抗します。

 リューリクの血を引く正統なツァーリが実は生きていたのだといううわさは、ボリス政権時に発生した社会混乱に苦しめられた民衆にきわめて好意的に受け入れられ、偽ドミートリーに呼応した、コサック、銃兵、ポサード民らによる反乱の火の手が各地で上がっていたのです。民心は徐々にボリスから離れ、ボリスの権力の源泉である民衆の支持がボリスから失われていくのを見た貴族たちも、もはやまじめにボリスに従おうとしませんでした。

 民衆・貴族両者に見放され、権力が自分の手中からこぼれ落ちていく様をまざまざと見せつけられたボリス・ゴドゥノフは、もともと病弱だったのですが、失意のうちに急死し、彼の息子で16歳のフョードル・ゴドゥノフがツァーリとして即位します。これがフョードル2世で、皇后はマリュータ・スクラ−トフの娘マリアでした。

 しかし、反乱の真っ只中のモスクワ南部地帯は新ツァーリに対する忠誠を拒否し、政府は、総司令官に権威付けのための名門貴族のロストフスキー公、第二司令官に、身分はなきに等しいですが、実力は折り紙つきのピョートル・バスマーノフを任命するという、思い切った人事を敢行し、モスクワ南部地帯に派遣します。

 ところが、リトアニア大公国の創立者ゲディミンを先祖とするゴリーツィン公とリャザンの士族達がフョードル2世に対して反乱をたくらみます。度重なる戦役にともなうホロープ提供により疲弊し始めた勤務士族は、フョードル・ゴドゥノフを見限り、いっそのこと偽ドミートリーに与しようという動きが現れ始めたのです。また、ピョートル・バスマーノフも父と祖父をマリュータ・スクラ−トフの讒言で殺されており、スクラ−トフの娘のマリアが皇后のフョードルにいい感情を抱くはずがありません。さらにバスマーノフは母方の縁でゴリーツィン公と縁続きでした。

 その辺の空気を感じ取ったモスクワ政府はセミョーン・ゴドゥノフの提案で、バスマーノフの降格人事を発表します。ここで、ゴリーツィン公の誘いを受けたバスマーノフは、ゴリーツィン公、リャザン士族のリャプノフらとともに、偽ドミートリーに寝返ります。最高司令官が反乱を起こしたロシア帝国軍は混乱し、モスクワへと逃走していきました。

 モスクワの大物寝返るの報に、偽ドミートリーはプチーヴリを出発します。ゴリーツィン公の弟イヴァンから忠誠の表明を受けた彼はグロムィに向かい、政府軍の遺棄した大量の物資を拾得し、軍を増強した後、ツァーリツィンの軍司令官プレシチェーエフと、文豪プーシキンの祖先ガヴリーラ・プーシキンをモスクワに対する使者として選ばれて先行し、偽ドミートリー自身もモスクワへ出発します。

 反ボリス派貴族は偽ドミートリーにひそかな支持を与え、おそらくは彼等の力でモスクワに潜入できたプレシチェーエフとプーシキンは、6月1日「火事の広場」と当時呼ばれていた赤の広場に到着すると、偽ドミートリーの文章を読み上げ、これを聞いた群集が暴動を起こし、ゴドゥノフ一族に対する反乱がおこります。フョードル2世とマリアはゴドゥノフ邸に監禁されました。

 ボリスの子フョードル2世と母マリアは旧オプリーチニクのモルチャノフに殺害され、ゴドゥノフ一族は追放の憂き目に遭い、ボリスと二人三脚で政治を行なったヨナ総主教は、ウスペンスキー寺院での勤行中にバスマーノフから廃位を宣言され、スターリッツアへ流刑となります。こうして抵抗する勢力をすべて消した偽ドミートリーはセールプホフから、1604年7月20日、モスクワに入城しました。



      ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『パルト三国』
    パスカル・ロロ 著 小沢重男 訳
    
白水社

   ・『ポーランド文化史』

   ・『ボリス・ゴドゥノフと贋のドミトリー』
    栗生沢猛夫
     山川出版社

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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