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〜 1. 偽ドミートリーの即位−動乱は進む 〜
こうしてモスクワへの凱旋を果たした偽ドミートリーは、クレムリンの警備隊を全てポーランド人に入れ替え、追放したヨナの代わりに、リャザン士族のリャプノフらの引きもあり、リャザン大主教であったイグナチーをモスクワ総主教に任命しました。
ついでシュイスキー家に対する処罰を行ないます。特にドミートリー変死事件の調査委員長であったヴァシーリー・シュイスキーは、本物のドミートリーはやっぱり1591年に死んでいるといううわさを流し、陰謀をたくらんだとされました。確かに、ドミートリー変死事件を徹底的に調査し、ドミートリーの死の真実についてもっとも知りえた可能性の高い彼は、偽ドミートリー1世にとってのあからさまな脅威ではあります。
この陰謀はバスマーノフらによって告発され、ヴァシーリー・シュイスキーをはじめ、シュイスキー家の三人の兄弟が逮捕され、ヴァシーリー・シュイスキーは死刑判決、あとの二人の兄弟は終身禁固刑を受けます。が、どういう心境が働いたのか謎ですが、死刑執行直前にシュイスキーは偽ドミートリー1世の「寛大なる慈悲心」によって赦免されます。死刑執行直前、シュイスキーが泣いて民衆に哀れみを乞い、バスマーノフが刑を早く執行しようとしているとき、クレムリンからの急使が現れ、偽ドミートリー1世の特赦状を読み上げたのです。マキアヴェリ曰く、人間は、徹底した善になりきることも出来なければ、徹底した悪になりきることも出来ない、ということなのでしょうか。
ついで彼は、ボリス・ゴドゥノフ時代に追放された人々に恩赦を与えます。その中にはナゴイ一族および(真)ドミートリーの母マリアも混じっていました。しばらくして偽ドミートリーは(真)ドミートリーの母マリアをタイニンスコエ村で訪問し、自分がすでに死んだと思われていたマリアの息子ドミートリーであることをマリアに認知させ、ウスペンスキー寺院で、さらには父祖の(?)霊廟のあるアルハンゲリスキー寺院で、即位式を合わせて2回行い、晴れてツァーリに即位しました。彼を歴史上偽ドミートリー1世と称します。
さて、偽ドミートリー1世はマリーナ・ムニシェク/Марина
Мнишекとの婚約を実行に移そうと、ポーランド王ジギスムント3世に再三懇願しており、1606年、やっと国王からOKが出、マリーナがポーランドからモスクワへ出発したところを、大公国領内からモスクワまでの道中手厚いもてなしを受けさせます。
さすが自分が似たような手段で権力の座に付いただけあって不安だったのでしょう、アストラハンで3人現れた新たな偽ドミートリーのうち死亡した1人の除き2人を処刑しました。そして、自分が真のドミートリーであることを示すため、(真)ドミートリーのウーグリチの墓を暴き、(真)ドミートリーとされる人物は、じつはある司祭の隠し子だったということを宣言し、遺体を教会の外に移すことにします。しかし、これが、母親のマリヤ・ナガヤの神経を逆なでしました。また、偽ドミートリー1世は、民衆の支持を取り付けるため、この混乱の中で逃亡・身売りしたものに自由を認めます。ところがこれは自らを支援してくれたモスクワの貴族層の不満を呼ぶことになりました。
さらに偽ドミートリー1世は、ロシアのツァーリを名乗りながら側近やボディーガードまでポーランド人で固めてロシア人を信用しない、ポーランドに接近しようとするあまり、ロシアを無視したポーランド風の風習(戴冠式の銘文の文字にラテン語を使う、ポーランド風の記念貨幣を発行するなど)をとりりれた、などで民衆の愛国心を逆なでし、上下の反感を買ってしまった彼の政権はのっけから危険なものとなってしまいます。そこで、貴族会議の要求にこたえてポーランド人部隊とドン・コサックのアタマン、コレラに多額の褒章を与えて故郷へ返しましたが、これは自分で自分のアーマーを脱ぐのと同じことで、彼の軍事的な力を殺ぎ落とすこととなります。
そして5月8日、待ちに待った結婚式が行なわれました。が、その裏で赦免され、偽ドミートリー2世の母方の叔母と結婚したたにもかかわらず、それを恩に着ず懲りもしないシュイスキーがまたもやクーデター計画を練っていたのです。
この計画には(真)ドミートリーの母マリヤ・ナガヤ、本当に変わり身の早い偽ドミートリー1世の寵臣ゴリーツィン公らも参加していました。さらにカトリック同士の結婚を東方正教会の教会で行なうことも、聖職者層の憤激を買っていました。
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