スムータ(動乱)(2

 〜〜内乱の拡大とカザーク台頭〜〜
 

 


 


 ヴァシーリー・シュイスキー / Василий Шуйский
 1552 1612年 外国軍をロシアに導入し、内乱を本格化させる

 

 


Российская

 

 

История


 



  〜 1. 偽ドミートリーの即位−動乱は進む 〜

 こうしてモスクワへの凱旋を果たした偽ドミートリーは、クレムリンの警備隊を全てポーランド人に入れ替え、追放したヨナの代わりに、リャザン士族のリャプノフらの引きもあり、リャザン大主教であったイグナチーをモスクワ総主教に任命しました。

 ついでシュイスキー家に対する処罰を行ないます。特にドミートリー変死事件の調査委員長であったヴァシーリー・シュイスキーは、本物のドミートリーはやっぱり1591年に死んでいるといううわさを流し、陰謀をたくらんだとされました。確かに、ドミートリー変死事件を徹底的に調査し、ドミートリーの死の真実についてもっとも知りえた可能性の高い彼は、偽ドミートリー1世にとってのあからさまな脅威ではあります。

 この陰謀はバスマーノフらによって告発され、ヴァシーリー・シュイスキーをはじめ、シュイスキー家の三人の兄弟が逮捕され、ヴァシーリー・シュイスキーは死刑判決、あとの二人の兄弟は終身禁固刑を受けます。が、どういう心境が働いたのか謎ですが、死刑執行直前にシュイスキーは偽ドミートリー1世の「寛大なる慈悲心」によって赦免されます。死刑執行直前、シュイスキーが泣いて民衆に哀れみを乞い、バスマーノフが刑を早く執行しようとしているとき、クレムリンからの急使が現れ、偽ドミートリー1世の特赦状を読み上げたのです。マキアヴェリ曰く、人間は、徹底した善になりきることも出来なければ、徹底した悪になりきることも出来ない、ということなのでしょうか。

 ついで彼は、ボリス・ゴドゥノフ時代に追放された人々に恩赦を与えます。その中にはナゴイ一族および(真)ドミートリーの母マリアも混じっていました。しばらくして偽ドミートリーは(真)ドミートリーの母マリアをタイニンスコエ村で訪問し、自分がすでに死んだと思われていたマリアの息子ドミートリーであることをマリアに認知させ、ウスペンスキー寺院で、さらには父祖の(?)霊廟のあるアルハンゲリスキー寺院で、即位式を合わせて2回行い、晴れてツァーリに即位しました。彼を歴史上偽ドミートリー1世と称します。

 さて、偽ドミートリー1世はマリーナ・ムニシェク/Марина Мнишекとの婚約を実行に移そうと、ポーランド王ジギスムント3世に再三懇願しており、1606年、やっと国王からOKが出、マリーナがポーランドからモスクワへ出発したところを、大公国領内からモスクワまでの道中手厚いもてなしを受けさせます。

 さすが自分が似たような手段で権力の座に付いただけあって不安だったのでしょう、アストラハンで3人現れた新たな偽ドミートリーのうち死亡した1人の除き2人を処刑しました。そして、自分が真のドミートリーであることを示すため、(真)ドミートリーのウーグリチの墓を暴き、(真)ドミートリーとされる人物は、じつはある司祭の隠し子だったということを宣言し、遺体を教会の外に移すことにします。しかし、これが、母親のマリヤ・ナガヤの神経を逆なでしました。また、偽ドミートリー1世は、民衆の支持を取り付けるため、この混乱の中で逃亡・身売りしたものに自由を認めます。ところがこれは自らを支援してくれたモスクワの貴族層の不満を呼ぶことになりました。

 さらに偽ドミートリー1世は、ロシアのツァーリを名乗りながら側近やボディーガードまでポーランド人で固めてロシア人を信用しない、ポーランドに接近しようとするあまり、ロシアを無視したポーランド風の風習(戴冠式の銘文の文字にラテン語を使う、ポーランド風の記念貨幣を発行するなど)をとりりれた、などで民衆の愛国心を逆なでし、上下の反感を買ってしまった彼の政権はのっけから危険なものとなってしまいます。そこで、貴族会議の要求にこたえてポーランド人部隊とドン・コサックのアタマン、コレラに多額の褒章を与えて故郷へ返しましたが、これは自分で自分のアーマーを脱ぐのと同じことで、彼の軍事的な力を殺ぎ落とすこととなります。

 そして58日、待ちに待った結婚式が行なわれました。が、その裏で赦免され、偽ドミートリー2世の母方の叔母と結婚したたにもかかわらず、それを恩に着ず懲りもしないシュイスキーがまたもやクーデター計画を練っていたのです。 この計画には(真)ドミートリーの母マリヤ・ナガヤ、本当に変わり身の早い偽ドミートリー1世の寵臣ゴリーツィン公らも参加していました。さらにカトリック同士の結婚を東方正教会の教会で行なうことも、聖職者層の憤激を買っていました。





偽ドミートリの妻マリーナ
数奇な生涯を送る。



 514日、シュイスキーは、偽ドミートリー2世がローマ法皇の対トルコ十字軍用に集めていたノヴゴロドおよびプスコフの軍勢の支持をとりつけます。そして516日の夜、偽ドミートリー2世の結婚式の祝いに訪れていたポーランド人のための宴会が終ったとき、シュイスキーはひそかにツァーリ親衛隊に命じて彼らを帰営させ、そのスキに無防備になったクレムリンの要所を占領することに成功しました。

 シュイスキーは515日の早朝早鐘を鳴らします。集まってきた民衆に対し、シュイスキーはポーランド人がツァーリを襲っていると説明し、怒り狂った民衆はポーランド人千七百人を殺害します。偽ドミートリー1世は、書記官チモフェイ・オシポフに襲われ、バスマーノフが書記官を切り殺し、変事を知った偽ドミートリー1世はクレムリンの窓から飛び降りますが、このとき足を脱臼してしまい、気絶したところを発見されました。彼は意識を回復してから周りを取り囲んだものたちによってリンチをくらい、最後に商人の手により銃でとどめを刺され、死体はマリヤ・ナガヤの前に引きずり出され、マリヤは偽ドミートリー1世が実の息子でないと認めました。

 妻のマリーナは侍女のスカートの中に隠れて無事でした。バスマーノフは偽ドミートリー1世の代わりに事態を収拾しようと館の玄関に出、ツァーリの名において民衆を解散させようとしたところを、タチシチェフに刺殺されました。

 シュイスキーは赤の広場にバスマーノフの死体とともに偽ドミートリー1世の死体をさらし、彼は偽者で、本物のドミートリーはすでに死んだと民衆に説明しました。偽ドミートリー1世の遺体は最初は道端に埋められましたが、良きツァーリの再来を願う民衆の声が高まる中、掘り起こされて荼毘に付され、骨の灰は大砲に詰められ、西方のポーランドめがけて発射されたということです。


   〜 2. ヴァシーリー・シュイスキー政権 〜

 偽ドミートリー1世が殺害されたため、新ツァーリを選出しようと全国会議が開かれ、ボリス・ゴドゥノフの時代シュイスキー家で唯一追放を免れた人物であり、この反ポーランド暴動の糸を引いていたヴァシーリー・シュイスキーがノヴゴロド主教イシドールによってツァーリに即位します。

 シュイスキーは次から次へと発生するドミートリー出現問題に片をつけるためウグリチに埋葬されていたドミートリーの遺骨をモスクワに移して盛大な葬儀を行なって列聖し、本物のドミートリーはすでに死亡していることを内外にアピールしました。本物のドミートリーの母も、偽ドミートリーを息子と認めたのは強制によるものだったと表明します。同時に、本物のドミートリーはボリス・ゴドゥノフの命令によるものだった、との布告を発表しました。

 さてシュイスキーは即位後、例によって例のごとく大量の政敵の追放を行ないます。その代表として、出家はしましたが、やはりロマノフ家の当主であったフィラレートをロストフ府主教に任命し、別の人物をモスクワ総主教地位に据えることで、フィラレートの影響力を削ごうとしたことなどがあげられます。

 ところが、ダーティーかつ旧来の大貴族の特権を守る政策に出たため「貴族のツァーリ」と呼ばれたシュイスキーには人望がなく、南部ロシアでは彼に対する宣誓拒否が続出していました。

 ここで、イヴァン・ボロトニコフなる人物が登場します。この人の出自は正直はっきりしないのですが、もともとはホロープ家庭に生まれるもコサックの群れに身を投じ、クリミア・タタールにつかまりトルコに売られた奴隷でガレー船のこぎ手をやったといわれております。ともかく彼はオーストリアの海戦の際につかまって解放されてハンガリーに行った後、ポーランドに向かいます。そしてポーランドでサンドミールのミハイル・マルチャーノフの知遇を得、反シュイスキー派の巣窟と化していたプチーヴリに派遣されます。

 新帝への忠誠宣言を最初に拒否し、偽ドミートリーが最初に根拠地としたプチーヴリには、シュイスキーに飛ばされたシャホフスコイ公がおり、彼は反シュイスキー軍を編成していましたが、派遣されてきたボロトニコフにこの軍の指揮をゆだね、ボロトニコフは偽ドミートリー1世から軍司令官に任命されたとうそぶき、ここにボロトニコフの乱が発生しました。

 さらに、フョードルの息子僭称者ピョートルなる人物も登場します。テレク・コサックに担ぎ上げられ、反乱を起こしたこの人物は、男の子は生まれなかったはずのフョードル1世とイリーナとの間の息子で、二歳で死亡した女の子のフェオドーシヤは、実はピョートルの替え玉だったと主張する、偽ドミートリーよりもさらに過激な主張を展開していました。

 16067月、ボロトニコフは僭称者ピョートルと合流し、流民の群れやドン・カザーク(コサック)、加えてリャザンの勤務士族層リャプノフらの雑多な階級を率いて10万といわれる軍勢を編成、モスクワめがけて進撃します。

 シュイスキーの弟イヴァンがカルーガでボロトニコフを迎え撃ちますが大敗を喫し、さらにモスクワからボロトニコフを迎え撃ったシュイスキーの甥スコピン・シュイスキーらの軍も進撃を止めることができず、とうとうボロトニコフのモスクワ包囲を許してしまいます。ロシア史でこれまでのところ最初で最後の反乱軍によるモスクワ包囲でした。

 しかしモスクワ包囲が長引くうち、ボロトニコフの階級も違えば利害もまったく違う寄せ集めの軍隊の中で内部分裂がおこり、リャプノフらをはじめ士族部隊の中でモスクワ側に寝返るものが続出し、結局ボロトニコフはモスクワ包囲を解いてカルーガをめざして撤退します。

 最後にボロトニコフは、僭称者ピョートル、シャホフスコイ公とともにトゥーラに立てこもり、ヴァシーリー・シュイスキー帝自らが率いる懲罰遠征軍に対し絶望的な抵抗を試みますが、シュイスキー陣営にとっての新たな脅威ー偽ドミートリー2世ーが現れたため、反乱軍への全面的な恩赦と引き換えにその年の10月降伏しました。


     〜 3. 偽ドミートリー2世の登場 〜

 恩赦を与えておきながら、結局シュイスキーは降伏したボロトニコフ、僭称者ピョートルを処刑し、シャホフスコイ公を流刑に処しましたが、動乱はおさまるどころかますます拡大します。先ほど述べたように、今度は、前年暴動で殺害された偽ドミートリー1世は偽者で、本当のドミートリーは実は生きていた、といううわさが流れ、再度ドミートリーなる人物が出現したのです。これが偽ドミートリー2世です。

           偽ドミートリー2


 





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世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市



 アリョールで旗揚げした偽ドミートリー2世は、僭称者ピョートルとボロトニコフを救うため、ドン・カザーク(コサック)とポーランド人部隊を率いてモスクワに迫ります。しかし、モスクワ攻略に失敗した後はクレムリの北西数キロの地点のトゥシノ村に本営を築き、モスクワを包囲します。

 トゥシノ陣営には、偽ドミートリー1世の妃マリーナとお付きのもの者たちがはせ参じ、マリーナは夫の再会を果たし(?)もう一度結婚して行動をともにし、一子イヴァンをもうけます。ロストフ府主教であったフィラレートはトゥシノ側に捕らわれ、強制的にトゥシノ府主教に任命されるという形で偽ドミートリー2世陣営に参加しました。反シュイスキー派を始めとする人材をそろえて自前の政府を組織したトゥシノ陣営は、モスクワ陣営と激しく対立します。

 このモスクワvsトゥシノの戦いは2年におよびました。モスクワ陣営では、シュイスキーの甥っ子で国の上下に人気の高いスコピン・シュイスキーが交渉してスウェーデン王国のカール9世とヴィボルク条約を結ぶことに成功し、スウェーデン側にカレリア地方を割譲するかわりに、モスクワに援軍を派遣するよう求めました。

 デンマークとの交戦状態にもかかわらず、約束どおりJ.P.ド=ラ=ガルディ率いる5000名のスウェーデン軍が到着し、スコピン・シュイスキー率いるロシア帝国軍はスウェーデン軍とともにトゥシノ陣営を撃破、偽ドミートリー2世はカルーガに逃亡するという事態になります。


    〜 4. ポーランドの介入−動乱拡大へ 〜

 この敗戦で、トゥシノ陣営は四散し、モスクワ側が勝利を握ったかに見えたその瞬間、ポーランド王国のジグムント3世が本格的にロシアの内乱に介入してきたのです。

 ポーランド軍は、スウェーデンの介入を機会に出兵し、1609年すでにポーランドとロシア勢力の接する西の要衝スモレンスクを包囲していました。ちょうどそこへ敗れたトゥシノ陣営の貴族が訪れ、ポーランド軍に共闘を呼びかけ、勝利の暁にはロシア正教の伝統を尊重する条件でポーランド王の息子ヴワディスワフをツァーリに迎えると申し出たので、ジグムント3世はこの提案にとびつき、コサックのヅウキェフスキを総司令官に任命し、自らもロシア遠征軍に加わったのです。

 1610年、スコピン・シュイスキーはトゥシノ陣営残党を蹴散らした後、スモレンスク救援に向かおうとしていた矢先になんと急死してしまいました。有能な指揮官のないままシュイスキーの弟ドミートリーを総司令官に立ててポーランド軍に立ち向かったモスクワ・スウェーデン軍は、クルシノの戦いでヅウキェフスキ率いるポーランド軍に惨敗、モスクワ軍は解体して兵は故郷に逃げ帰り、スウェーデン軍はノヴゴロドへ撤退します。

 この時点でシュイスキーに完全に愛想をつかしたモスクワ市民たちはロマノフ家・ゴリーツィン家の指導で暴動を起こし、1610年シュイスキーは士族リャプノフらの手で逮捕・強制退位・出家させられました。退位後2年後強制連行された先のポーランドでシュイスキーはこの世を去りました。



      ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 北欧の歴史』
    武田龍夫 著
     中央公論社


   ・『歴史読本ワールド ロシア帝国の興亡 第2巻 第7号』
    新人物往来社

   ・『ポーランド文化史』

   ・『ボリス・ゴドゥノフと贋のドミトリー』
    栗生沢猛夫
     山川出版社

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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