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〜 1. ポーランド軍のモスクワ占領−動乱の頂点 〜
シュイスキーを退位させた貴族たちはすぐにムスチスラフスキー公を中心として有力貴族の合議制による七卿政府を設立しましたが、モスクワ軍はヅウキェフスキ率いるポーランド軍に粉砕されたばかりで、軍隊はないも同然でした。
この状況で首都モスクワに、1610年、勝利に沸くポーランド軍と、カルーガに逃亡していましたが、モスクワ側の大敗で勢力を盛り返しつつあった偽ドミートリー2世の軍が迫っていました。
この二大勢力を前にしたモスクワ貴族団は熟考の末、ヅウキェフスキを事実上の降伏協定を結ぶ交渉相手に選びます。これによって偽ドミートリー2世軍のポーランド人部隊はヅウキェフスキに寝返り、偽ドミートリー2世はまたもカルーガへのがれるはめになりました。のち偽ドミートリー2世は内輪もめでタタール人のウルーソフに殺害されます。その後マリーナは、ドン・コサックのアタマン、ザルツキーと組んで、皇子イヴァンを押し立ててアストラハンに落ち着きます。
この協定の下に、トゥシノ派が決めたのと同様ジグムント3世の息子ヴワディスワフをツァーリに迎える条件でポーランド軍がクレムリンとそれに接するキタイ・ゴロドに駐屯、モスクワはポーランド軍の占領下に置かれます。
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ポーランド皇太子ヴワディスラフ
1595-1648
後のポーランド国王ヴワディスラフ4世バーサ
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これを受けて、スモレンスク包囲中のポーランド王ジグムント3世は、フィラレートを始めとするモスクワの主だった貴族からなる使節団をスモレンスクへよびよせ、自分に対し臣下の礼をとるよう説得しますが、使節団はこれを拒否します。そこで使節団の有力者はポーランドへ送られ、「バビロン捕囚」さながらの境遇におかれました。
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地図拡大
17世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
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さらに北方では、モスクワの要請で援軍としてロシアに上陸したJ.P=ド=ラ=ガルディ率いるスウェーデン軍が、スコピン=シュイスキー死後のモスクワ側の軍事的無力を見越し、ロシア第二の都市ノヴゴロドを包囲していました。
この危機的状況でモスクワ総主教ゲルモゲンが各都市に檄文をおくり、全ロシア人に、ロシア正教防衛のため闘うことを呼びかけます。この件でゲルモゲンはポーランド軍に逮捕されますが、彼の呼びかけに答え、いつのまにか重要人物になりおおせたリャザン総督のプロコーピー・リャプノフ、トゥシノ派残党の名門貴族トルベツコイ公、リューリクの血を引くという名門貴族でザライスク総督のドミートリー・ポジャールスキー、アタマン(コサックの頭目)のザルツキー率いるコサック部隊なども加わった第一次国民軍が組織されました。
1611年3月初め進発した国民軍は3月18日からモスクワ市内で戦い、ポジャールスキー公が負傷で戦線離脱しますが、4月7日までにポーランド勢をクレムリンとキタイ・ゴロドに閉じ込めることに成功しました。6月30日にリャプノフらの臨時政府が設立されますが、国民軍は士族とコサックが対立を起こし、ブレーンのリャプノフがコサックに殺され士族軍は引き上げ、あえなく崩壊します。
1611年、とうとうポーランド軍によりスモレンスクが、スウェーデン軍によりノヴゴロドが陥落しました。ポーランド軍の首都モスクワ占領、同じくポーランド軍によるロシアの西の玄関スモレンスク落城、スウェーデン軍によるロシア第二の都市ノヴゴロド入城により、ロシア帝国北東部はスウェーデン軍に、モスクワを中心とするロシア中央部はポーランド軍に支配されることとなりました。
あまつさえ、スウェーデンのカール9世とその後継者グスタフ2世は、スウェーデン側をモスクワ側に引きこもうというリャプノフの交渉により、ノヴゴロドの聖俗両界の指導者から、ツァーリ継承権をも認められていました。
ちなみにこのカール9世の後継者グスタフ2世とは、だれあろう、あの16歳で即位したグスタフ2世アドルフです。彼は後の、神聖ローマ帝国を破壊と混乱の渦へ叩き込んだ三十年戦争で、ヨーロッパではじめて火縄銃の三段射撃を考案するなどの卓越した戦略眼により、カトリック側の傭兵隊長ヴァレンシュタインと双璧をなす人物と目された、プロテスタント側の名将です。このような人物とロシアは戦わねばならなくなったのです。
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グスタフ2世アドルフ
1595-1632
30年戦争のプロテスタントの雄
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〜 2. 草莽の志士と名門貴族立つ−危機を越えて 〜
この正真正銘のロシア民族の危機にさいして立ち上がったのが、クジマ・ミーニンとドミートリー・ミハイロビッチ・ポジャールスキー公です。
ヴォルガ川沿いの商業中心地であったニージニー・ノヴゴロドの年寄格(старосто)クジマ・ミーニン(一説では肉屋)は外国軍に対する戦争を訴え、市民から義捐金を募り、1611年9月、集まった義勇兵の指揮官として、ポジャールスキー公が推挙されます。モスクワの戦闘の負傷を癒すべく領地で静養していたポジャールスキー公はこれを受け入れます。
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ポジャールスキー公に国民軍結成を訴えるクジマ・ミーニン

ドミートリー・ミハイロヴィッチ・ポジャールスキー公
Пожарский, Домитрий Михайлович
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ポジャールスキー公とともに、これにポーランド軍占領地帯の士族軍が中心となるトルベツコイ公の国民軍残存兵力とカザーク(コサック)部隊がニージニー・ノヴゴロドに到着し、第二次国民軍が組織されました。ポジャールスキー公は1612年本拠地を出発、ヴォルガ川をさかのぼってヤロスラヴリに軍を移し、ここに臨時政府である全国協議会(ポジャールスキーが代表、ミーニンは財政長官)を設置します。この第二次国民軍には参加者が相次ぎ、結局10万人規模の大軍になりました。
第二次国民軍組織さる、の報に、ポーランド本国ではホドキェヴィチ指揮のもと、モスクワのポーランド軍救援のためポーランド軍が組織され、ロシアへと向かいました。
ポーランド軍の増援来る、の報に7月ポジャールスキー公率いる第二次国民軍はヤロスラヴリを出発、ホドキェヴィチ率いるポーランド軍到着前に、ポーランド軍モスクワ守備隊を撃退すべくモスクワへ急行し、7月24日には第一陣がモスクワに到着、人を張ります。8月中旬にはポジャールスキー公率いる本隊が到着、モスクワ方位が完了します。しかしポーランド軍モスクワ守備隊を撃破することはできず、それどころかホドキェヴィチ軍がちょうど救援に到着、モスクワ内のポーランド軍に挟み撃ちにされるかたちで戦闘が始まってしまったのです。
ところがポジャールスキー公率いる第二次国民軍はすさまじい敢闘をみせます。結局9月22日〜9月24日のおよぶ激闘の末、最終段階でトルベツコイ公が投入したカザーク部隊が勝敗を決し、1612年、なんとホドキェヴィチ軍を撤退させます。
ホドキェヴィチ軍を撤退の知らせをうけたポーランド王ジギスムント3世は、スモレンスクから出発し自ら軍を率いてモスクワに向かいましたが、勢いに乗るポジャールスキー公率いる第二次国民軍はそのままモスクワに突入し、クレムリに立てこもるポーランド守備隊および七卿政府を降伏させ、戦略目的を消失したポーランド軍は自国へ撤収していきました。
このようにしてモスクワ大公国は、建国始まって以来の危機を乗り越えたのです。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『物語 北欧の歴史』
武田龍夫
著
中央公論社
・『ポーランド文化史』
・『ボリス・ゴドゥノフと贋のドミトリー』
栗生沢猛夫
山川出版社
・『歴史読本ワールド ロシア帝国の興亡 第2巻 第7号』
新人物往来社
・『ロシア史 1』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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