〜〜ミハイル・ロマノフの即位〜〜 |

|
| Российкая |
|
|
| История | ||
〜 1. ミハイル・ロマノフの即位−スムータの終結 〜 モスクワ解放を成し遂げたミーニン、ポジャルスキー、トルベツコイの3人は全国会議(ゼムスキー・ソボール)の開催を通知し、ツァーリを選出するための代議員をモスクワに送るよう要請します。全国から集まった代表はたちの顔ぶれは、都市民代表、国民軍代表、カザーク(コサック)代表、豪農などでした。 会議は決して順調に進んだわけではありませんでした。なぜなら混乱時代の独立組織が結んだ各種協約がまだ生きていたからです。特に、旧トゥシノ陣営からツァーリ継承権を認められていたポーランド皇太子ウワディスワフ、リャプノフらによってツァーリ継承権を認められたカール9世らを支持するロシア貴族勢力が問題でした。 会議の流れとしてはまずこれらの外国人で異教徒(カール9世はプロテスタントの福音ルーテル派、ポーランド皇太子ウワディスワフはローマン・カトリック)の王たちの支持者を退け、ついでロシア人の中から候補者を絞り込むということになりました。 ロシア人候補者としては、モスクワ解放者ポジャルスキー、第一次国民軍の創立メンバーで大貴族のトルベツコイ、七卿政府の発起人ムスチスラフスキー公などが挙げられましたが、代議員たちの間では、リューリクの血を引かないツァーリに対する反発が強く、話はまとまりませんでした。 そこで注目を集めたのがミハイル・ロマノフです。まず、ロマノフ家は公の称号を持っていませんでしたが、その家系は、あのイヴァン4世を理解しうまく包み込み、国民にもそのやさしい人柄を愛されたイヴァン4世の最初のお妃アナスタシアの出身一族で、血筋的に旧リューリク家に割合近いことから民衆には好意的に受けとめられていました。 また、貴族団はいまだ若く、性格も弱く、しかも後見人たる父親フィラレートがポーランドに抑留中で、政治力のないツァーリを選出することで貴族全体の勢力拡大を計る思惑からミハイル・ロマノフを支持しました。 教会はロシアを襲う異教徒たちと張り合ったあげく「ポーランド捕囚」の身になったロシア正教の殉教者フィラレート、また教会組織の事実上のトップで、教会への利益誘導に間違いなく熱心であるフィラレートの息子がツァーリになるのに異存はありませんでした。またカザーク(コサック)も、トゥシノ陣営の指導者の一人がフィラレートであったことからミハイル・ロマノフを支持していました。 こうして思惑はばらばらながら、国の上下の意見は一致し、1613年、めでたくミハイル・ロマノフは全国会議でツァーリに選出されます。赤の広場で全国会議の意思が公になると、民衆は歓喜の声をあげて「モスクワ国家と全ルーシの大国の君主にしてツァーリ、ミハイル・フョードロヴィッチ」と叫び、その選出を喜んだということです。 しかし、問題なのは本人の意思でした。ミハイルはその母マルファとともに戦乱の続くモスクワを脱出し、コストロマのイパーチェフ修道院に避難していたのです。そこで、名門貴族のフョードル・シェレメチェーフを団長とする使節団が派遣され、コストロマのミハイルに会議の決定が伝えられました。ところが、ミハイルと母は、こんな不安定な時期にツァーリになればどんなあえない最期を遂げないかもしれないということで、ツァーリへの即位を拒否したのです。 そこで使節団は、このツァーリ選出は奇跡のイコンによるものだと説明、神の意思に逆らうことはできないと信仰に厚い母子を無理やりなだめすかしてミハイルのツァーリの即位を承知させました。そしてミハイルはコストロマを出、5月にモスクワに到着、ウスペンスキー聖堂で祈りを捧げ、アルハンゲリスキー大聖堂で歴代モスクワ大公の棺に口付けしました。こうしてモスクワ大公国との一体性を強調しておいて、17歳の誕生日の前日の1613年7月11日、戴冠式を行なってツァーリに正式に即位しました。こうして、以後300年つづくロマノフ王朝が誕生したのです。 〜 2. スムータの後始末 〜 新政府がまず手をつけたのがカザーク(コサック)の懐柔です。動乱全史を通じて、時に対立する政権両者にとってなくてはならない強力な軍事的味方としてキャスティング・ヴォートをにぎったり、時に物資調達をかねた略奪暴行を繰り返し動乱をますます広げてきたりと、動乱に強力な影響を及ぼしてきたカザークを味方につける、当面暴れないでもらうことがロシア帝国の当面の最重要課題でした。 |
|
そこでロシア帝国は、最も強力であったドン・カザークに、ツァーリの名で武器弾薬、金品食料酒などを送って、ミハイルへの忠誠を誓わせました。 挙国一致態勢に突入できたロシア帝国は、動乱の後始末に入ります。まず、アストラハンで偽ドミートリー2世の子イヴァンを奉じていたザルツキーをヴォロネジで破ります。これをきっかけにザルツキーは凋落していき、1614年、ヤイク川方面へ逃れたところを捕らえられ、モスクワへ護送されます。最終的には、ザルツキーと行動をともにしていたマリーナ・ムニシェクと、偽ドミートリー2世の子もともに政府軍に引き渡され、ザルツキーは串刺しの刑で処刑、マリーナ・ムニシェクと3歳のイヴァンは処刑か自殺が、どういう形でかはわかりませんが、ともかくその生涯を閉じました。 さらにロシア軍は、プスコフを攻略することで北西ロシアをロシアから切り離し完全に支配下に置こうとしていた、スウェーデンのグスタフ2世アドルフの軍と戦いました。グスタフ・アドルフは、1613年、イギリスの仲介でデンマークとの戦いを講和に持っていき(クネーレドの和議)ロシアとの戦いに全力を集中した結果、1617年ストルボヴォの講和で、ロシア側はフィンランド沿岸を放棄することで、バルト海への進出を完全にあきらめる代わりにノヴゴロド周辺を回復する、スウェーデン側はフィンランド沿岸の旧ロシア領を手に入れ、ロシア側から1万ルーブルを受け取る代わりに、アドルフ2世のツァーリ継承権を破棄し、新ツァーリを認めさせるところまでこぎつけました。 スウェーデンは、フィンランド沿岸の旧ロシア領を手にしたことにより、これで先のタユシナ条約で得たエストニアとスウェーデン領を陸で結ぶことに成功し、フィンランド湾を全てスウェーデン領で取り囲むことに成功したことになります。いわゆる、「バルト帝国」の始まりでした。 ポーランドとの戦闘状態はしばらく続きましたが、1617年ツァーリの位を要求して自ら軍を率いてモスクワ近くにまで迫ってきたヴワディスラフの軍を、ロシア帝国軍が打ち破り、デウリノ村で14年6ヶ月の休戦条約が結ばれました。この講和でロシア側はフィラレートなどの重要人物を捕虜交換で得ることができましたが、スモレンスク、チェルニゴフなどの都市は放棄せざるを得ませんでした。 その後のポーランドとスウェーデンですが、ポーランド王国は、カール9世とその後継者グスタフ・アドルフのスウェーデン王位を認めようとせず、1621年、グスタフ・アドルフはリーブランド(ラトビア)に侵攻、リガを落とし、エストランド(エストニア)を支配、さらにポーランド本国へ侵攻して、1629年、フランスの仲介によるアルトマルク条約を結び、バーサ王家へのポーランド王国の王位継承権を放棄させることは出来なかったものの、実力で王位を認めさせ、スウェーデンへ帰国しました。そして1632年、アドルフはバイエルンに侵攻して本格的に30年戦争に介入して活躍し、スウェーデンがバルト帝国として君臨する下地を作ります。 海を越えての統治が難しいバルト沿岸諸国の直接支配は難しいと見た、歴代スウェーデン王は、リヴォニア戦争での騎士団勢力の崩壊、独立司教区の消失などにより旧来の現地支配者階級が消滅してしまったので、リヴォニア在住のドイツ貴族に独自の貴族身分であるリッターシャフト身分を与え、自治領に対する管理権、農民に対する裁判権、警察権などの特権を与えました。こうして特権的な地位をいたラトビア、エストニア農民を支配するバルト・ドイツ人貴族は、バルト海における支配階級として君臨し、この地域がロシア領に編入された後も、彼等が吸収したヨーロッパにおける文化・技術を、ロシアに伝える役割を期待され、ロマノフ王朝下でも、帝国内に特権的な地位を築き上げます。 最終的に政府が行なったのが、クリミア汗国との関係良好化でした。ボリス=ゴドゥノフの時代に貢税を払うことによって保たれていたタタールとの平和でしたが、動乱期にはロシア側は貢税を払うことも一丸となって国を守ることもできなくなっていたため、タタールは侵略し放題でした。平和を回復するためミハイルはまたもクリミア汗国に高額の貢税を払うことで平和をあがなわざるをえませんでした。 このようにして多大な努力、すさまじい荒廃と犠牲のうちに動乱は終わりを告げ、新たな時代、帝政ロシア、ロマノフ王朝の時代へとロシアは進んでいくことになります。 〜 3. ザポロージェ・コサックの成長−ウクライナへ 〜 さてこの時代、ウクライナのアイディンティティーを決める上で非常に重要な役割を果たした人物、ペトロ・サハイダーチヌィが現れます。旧ガーリチ公国の小貴族の出であった彼は、ガーリチ公国はポーランドが併合しましたので、カトリックの、東方正教に対する宗教的攻撃を恐れて亡命し、コサックに身を投じました。 かれは戦闘で優れた功績をあげ、コサックの指導者となり、キエフの再興に力を尽くします。1482年、オスマン・トルコの後押しでハーンの位につき、その見返りとしてトルコに臣従したクリミア汗国のメングリ・ギレイがリトアニア大公国を襲い、キエフを破壊して以来、一寒村に過ぎなくなっていたキエフはサハイダーチヌィの力により教会・出版所などが再び出来上がったのです。この順調な発展ぶりに対し、1620年、東方正教の総主教テオファネスは、長い間空席だったウクライナ府主教、五人の主教を任命します。 さらに1634年、ペトロ・モヒラの手により、学校建設などで猛烈にカトリックの勢力を伸ばそうと画策していたイエズス会の圧力を撥ね退け、キエフにキエフ・モヒラ・コレギウム(キエフ神学校)が設立されます。この学校にはウクライナから有能な人材が入り、ウクライナ・コサックの指導者層もこの学校の卒業生が大半を占めるようになりました。 このようにして、モスクワ大公国、リトアニア大公国の両方の目が届かなかったウクライナには、自らをウクライナ人と考える民族集団が発生し始めたのでした。 〜 4. スムータの終わりに 〜 「悪いことは重なるもの」といいますが、まさにこのことわざどおりの出来事が起こったのがスムータの時代でした。リューリク朝の断絶という政治的混乱に加え、リトアニア大公国の侵攻、のちにはリトアニア大公国と合体し、そのウクライナ部分を支配下に入れ、ウクライナの小麦をバルト海を通じ輸出することで富を得、その絶頂期を迎えたポーランドの侵攻、同じくグスタフ2世アドルフなどの名君を生み、次の世紀に絶頂期を生む下地を作ったスウェーデンの侵攻、さらにはオスマン・トルコとの戦いで自らの力に目覚めることで民族的自覚にも目覚め始めたコサックの参加による戦いの激化、これら全てが重なりスムータを生み出したのです。 かてて加えて、スムータには、世襲大貴族と新興勤務士族層の激突による内乱という面がきわめて大きかったのです。大部分が旧分領公の血筋を引く世襲大貴族は、当然ながら自分達の先祖を屈服させたモスクワ大公のツァーリの家系に対し独立を奪われた恨みこそ抱け、心の底から忠誠を誓いモスクワ大公国を守り立てようとする者はほとんどいませんでした。これに対抗するため、イヴァン3世の時代あたりから、それほど身分の高くないものの中から才能のあるものを選び、一代限りの知行地を与えて自己の股肱の臣として取り立てたのが新興勤務士族の起こりです。いわば、中国の東晋時代の清流・濁流の争いのようなもので、当然この二つの勢力に妥協などありえませんでした。 世襲大貴族は、アレクサンドル・ネフスキーの末子からでたモスクワ大公などよりも更に古く家柄もよい家系を誇っていますから、ツァーリの恩顧に頼らずとも十分やっていけます。しかし、新興勤務士族はちがいます。かれらがモスクワ大公国内の地位を築けたのは、ひとえにモスクワ大公(ツァーリ)の恩顧があったからであって、リューリク朝の崩壊は彼等に特権を与えたツァーリの消滅、つまりは自分達の地位の消滅以外の何物でもありませんでした。 そこで、大部分の新興勤務士族階級は、リューリク朝が途絶えた後、なんとか自分達の地位を守ろうと自分達の階級のボリス・ゴドゥノフをツァーリを選出しました。ところが、ボリス一族が失脚して大貴族達が力を盛り返し、世襲大貴族階級の代表者であるヴァシーリー・シュイスキーがツァーリとなってしまいました。こうして、自分達の階級がいよいよロシア上層部から追い出されることが決定的となったとき、いかに胡散臭かろうとも、新興勤務士族階級は自分達の力の根源であるリューリク朝、その生き残りを名乗る偽ツァーリを支持しました。自分達の出世頭をツァーリに持ち上げることに失敗した以上、リューリク朝ツァーリの威光で出世した彼等にとって、あくまでリューリク朝の血筋を引く(と称する輩)ものを支持ずる以外の選択肢はなかったわけです。 しかしこの行為はスムータを大変に長引かせ、激化させる効力を発揮しました。このような私欲に走り、万民を困窮させる行為を天下は望みませんでした。結局新興勤務士族は偽ツァーリ達の陣営に走って忠誠を誓い、偽ツァーリの破滅と共に彼等も滅びていったのです。 こうして一度はリューリクの一族に圧倒された世襲大貴族がお互い手を握って自分達の代表をツァーリにすることに成功し、完全に実権を握った後、天下は漸くにして安定に向かいます。国民も安定を望み、普段争ってばかりの世襲大貴族達が団結したロマノフ王朝ロシア帝国の回復は、これほどの戦災の惨禍を蒙ったことを考慮に入れれば、ただただ驚くべきものでした。 |
|
ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『物語 北欧の歴史』 武田龍夫 著 中央公論社 ・『物語 パルト三国の歴史』 志摩 園子 著 中公新書 ・『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 伊東孝之 井内俊夫 中井和夫 山川出版社 ・『ポーランド文化史』 ・『よみがえるロマノフ家』 土肥恒之 著 講談社 ・『ボリス・ゴドゥノフと贋のドミトリー』 栗生沢猛夫 山川出版社 ・『ロシア史 1』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |