ロマノフ王朝(1)

〜〜ロマノフ王朝の成立〜〜



フィラレート / Филарет
1554/5
1633年 ミハイル・ロマノフの父で「院政」を行なう 

 


Российская

 

 

История


 



       〜 1. フィラレートの院政 〜

 ミハイル・ロマノフが即位してから6年間は彼の母親がミハイルの後見人となり、デウリノ村でポーランドとの間で結ばれた休戦条約でミハイルの父フィラレートが帰国してからは、モスクワ総主教に任命されたフィラレートが実権を握りました。




     この章に登場するロマノフ一族の系譜


   ―フィラレート(フョードル)
              |
               ├―ミハイル
               |   |
               |   └―タチアーナ
               |
             マリア・シェシュトヴァ


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者




 フィラレートは本来ツァーリの称号である、「大君主」の称号をミハイルから得、スムータ時代ミハイルが味方を得るため行なった土地の大盤振る舞いを停止 します。また、教会領の増大に着手し、広大な総主教座直轄地を治めるため、教会用プリカース、つまりは教会独自の大蔵庁、補任庁、司法庁を設立しました。

 そしてデウリノ村での講和が成立して後、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国領を舞台にした、カトリックvsプロテスタントの最大の激突、最後にして最大の宗教戦争といわれる「三十年戦争」が始まります。

 ロシア帝国はこの戦争に直接介入しませんでしたが、ダンヒチなどの港をおさえ、これを足がかりにしてヨーロッパ大陸に進出しプロテスタントの盟主となっ たスウェーデンのグスタフ2世アドルフが、カトリック側の大勢力であるハプスブルク家の同盟であったポーランドを共同で挟み撃ちにする話をモスクワに持ち かけます。

 ロシア帝国は当座はこの話を断りますが、スウェーデン、デンマークなどに穀物を格安で輸出するなど、プロテスタント側の後方支援を行い、政治的にもモスクワ大公はスウェーデンの同盟国としての立場を明らかにします。

 こうしてロシア帝国はスウェーデンに恩を売り、スウェーデンの軍事的援助を期待しつつ、ポーランドに逆襲できる機会を何年もうかがっていました。


  〜 2. ポーランド侵攻ースモレンスク包囲戦 〜

 すると、ポーランドとの146ヶ月の休戦条約が失効するのとほぼ同時期にジグムント3世が他界します。ポーランドは国王選出で手間取ると判断したロシ ア側はこれを幸いと、スウェーデンに特使を発して傭兵・武器の提供を求め、1632年、スモレンスクへ侵攻しました。これは旧領回復を願うフィラレートが 行なった最大の軍事行動でした。

 ところが頼みの綱の同盟国スウェーデンのグスタフ2世アドルフはリュツェンで戦死します。さらに2年後意外にあっさりポーランド王に選出されたジグムン ド3世の子ヴワディスラフは、クリミア汗国に対ロシア共同出兵を持ちかけ、これに同調したタタール軍は黒海北岸付近から長躯しオカ川をこえ、セルプホフま で達しました。

 自領の危機を感じた士族たちはスモレンスク包囲軍から脱落、こうして弱体化したロシア帝国軍にポーランド王ヴワディスラフ自ら率いるポーランド軍が激突します。ロシア軍は善戦するも降伏し、すべての軍旗、大砲を敵の手に渡してモスクワへ帰還しました。

 この完敗のさなかフィラレートはなくなり、16345月に結ばれたポリャノフカの講和で、ウラディスワフ王にツァーリ継承権を放棄させることができま したが、ロシア側は2万ルーブルの賠償金をはらわねばなりませんでした。勢いにのるヴワディスワフ4世は1635年、シュトゥムスカ・ヴィエシ条約で王領 プロイセンの回復まで果たします。

 フィラレートの亡きあと、ツァーリは相変わらずミハイル・ロマノフですが、国政の実権はフィラレートの甥でミハイルのいとこのチェルカスキー公、チェルカスキー公の死後は彼の義理の兄シェレメーチェフに実権が受け継がれました。

 ちなみにこのスモレンスク包囲戦を契機に再開したクリミア汗国によるロシア襲撃は、1640年近くまで続きます。これに対抗して、1635年から15年をかけてロシア政府は南部国境防衛のため、29の要塞都市を築き、都市間を土塁や逆茂木で結んだ全長800kmのベルゴロド線を作りました。この延々と続 く防衛線でタタールの侵入を防ごうというのです。

 タタールは村を焼き、人をさらってクリミア半島の旧ジェノヴァ領、この時代トルコ領であったカッファで奴隷として売りさばきました。クリミア汗国のかつ ての首都バフチサライを訪ね、その東洋的な景観にエキゾチズムを感じ、さらわれていった多くのロシア・ウクライナ人に思いをはせたプーシキンが作った叙事 詩が、ハレムに入れられたポーランドの姫君の物語、『バフチサライの泉』です。


  ー …北の国をついに見捨てて、

      饗宴の楽しみも久しく忘れ、

      忘却のうちにまどろめる宮殿を

      私はバルチフサライに尋ねた。

      押し黙った回廊の間を私はさまよった、

      諸国の民の鞭たりし

      凶暴なタタール人が宴を張り、

      襲撃の恐怖を与えた後に、

      華やかな無為に沈んだあたりを。

      今にいたるもなお、逸楽の気が漂い、

      水は戯れ、バラは赤らみ、

      ぶどうのつるはもつれ、

      壁の上には金の光が輝く。

      私は年ふりた格子を見た、

      その華やかなりし時は、そのかなたで

      琥珀の数珠をまさぐりながら、

      静寂のうちに妃達がため息をついていた… ー


 100年近く時代をさかのぼりますが、ハレムに献上されたオスマン・トルコ帝国のスレイマン大帝の側室で、ハレムの魔女と言われつつもトルコ史上唯一の 皇后までのぼりつめた、トルコ側からはヒュッレム、ヴェネツィア共和国駐トルコ大使からはロッサーナ、ロクゼラナとよばれた女性は、おそらくロシア出自で あろうと言われております。ウクライナではこの女性はハーリチナ地方ロハティンの地方司祭の娘アナスタシア・リソフスカであると伝えられており、彼女の関するオペラや劇が多く作られているそうです。


  〜 3. コサックー動乱の落し子とロシアの東漸 〜

 さらにロシア帝国にとってこまった存在であったのはドン・カザーク(コサック)です。彼らのロシア南端部の支配権をみとめ、半独立な状態に置いておくことで、タタールの侵入時の第一の防壁にする、という考えもあったのでしょう。自分の土地なら本気で防衛する気にもなるというものです。しかし強力な軍事力をもち、なかばロシア帝国から独立した存在であったかれらは中央の言うことを意に介せず、独自の軍事行動に出てモスクワを恐れさせます。

 17世紀前半にカザークの黒海沿岸略奪行が起こりました。西方の領土回復を優先するロシア帝国は、南のクリミア汗国、オスマン・トルコ帝国と問題を起こすことで、西と南から挟撃されるのを恐れ、カザークには自重を促します。

 オスマン・トルコ帝国は度重なるカザークの被害に音を上げてロシア側にカザークの行動を取り締まるよう要求しますが、モスクワ政府のコントロール外にある カザークに対してロシアとしても打つ手がなく、ただオスマン・トルコ帝国がカザーク追討することに賛意を示すだけでした。

 そうこうするうちに1637年、ドン川河口のトルコ川のアゾフ要塞をカザーク部隊が占領し、イスラム教徒が多数虐殺され、キリスト教徒の奴隷が解放されるという事件が起こりました。

 ロシア帝国はこの件に関し一切預かり知らぬと主張しましたが、オスマン・トルコ帝国は臣下であるクリミア汗国のハーンにロシア南部の略奪を指示、因縁の対決関係にあったサファビー朝ペルシャ帝国との戦いを一時休止して、3万の軍勢をアゾフ要塞に送りますが、なんとカザークはこのトルコ正規軍も撃退してしまいます。

 そしてカザークはアゾフをツァーリに献上し、ロシア帝国に援軍を求めてきました。ロシア側では様々な議論がありましたが、結局オスマン・トルコ帝国と本気で事を構えることの危険性と、スモレンスクでの敗北間もない時期でしたので、結局ミハイルがアゾフ返還を命じ、なんとかこの件は一件落着します。

 そこで、カザークたちのみなぎるパワーの新たなはけ口としてフィラレートとミハイルが用意したのが極東征服運動です。

 内陸ユーラシア乾燥地帯にはヒヴァ・ボハラ・コーカンドの三大汗国と配下の強力な遊牧民族が陣取っており、侵入は不可能でした。もっとも、ヒヴァは豊かなオアシス都市であるとコサックの間には伝わっていましたので、1000人のコサック部隊が内陸ユーラシア乾燥帯に侵入し、一時期ヒヴァのウルゲンジ略奪に成功したこともあります。しかし、これはたまたまヒヴァの首長アラブ=ムハンマド(在位16031623)が遠征にでかけていた隙をつけたからであって、すぐに追っ手をかけられ、コサックたちはヒヴァ軍に包囲されほぼ全滅します。このような事件もあり、この方面への進行はコサックの襲撃程度でなんとなかる状態ではなく、ロシアはこの中央アジア方面への進出を当面停止します。

 ところが、ツンドラ地帯および、北方ユーラシア森林地帯には、クロテンといった高価な毛皮獣が住んでおり、住民の抵抗も、チンギス・ハーンの子孫たちの居座る中央アジアほど強くないことから、ロシアのユーラシア大陸中央部進出は北部森林地帯がメインとなりました。また、北部ツンドラ地帯は、ロシア人の祖先、バイキングたちの故郷と緯度がほぼ同じで気候風土も似ていますから、大河や連水陸路を使って移動することの多かった彼らにとって、多数の川が流れる地シベリアはむしろ住みよい環境であり、したがって内陸ユーラシア乾燥地帯にくらべ、入植も極めて軽やかに進んだのです。






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世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市





 エルマークの遠征失敗後もカザークを中心とするロシア人のシベリア入植はやむことがなく、1629年、サムソン・ナヴァツキーの遠征隊がレナ川流域に派遣され、30年代にはレナ川流域の開拓が急速に進みます。1632年、エニセイスクのコサック中尉ピョートル・I・ベケ トフがレンスク要塞(現サハ共和国ヤクーツク)を建設します。ここを拠点として極東への開拓が続けられ、1638年にベルホヤンスクが建設され、ヤクーツクに軍政部が設置されてシベリア北東部の中心地となりました。

 1639年、ヤクーツクのコサック、セミョーン・ デジニョフらのシベリア遠征隊ははやばやと太平洋岸に到達しました。さらに1648年、彼はフェドート・ポポフとともに二隻の船に分かれて北氷洋を沿岸航海し、ポポフの船は行方不明になりますが、デニジョフの船は、のちにピョートル大帝の派遣したベーリングよりも先にベーリング海峡を南下し、アナドイリの海岸にたどり着くという快挙を成し遂げます。

 この当時シベリアは獣肉や魚類の獲得は容易でも、穀類や野菜類、さらに日用品の獲得は絶望的でした。シベリアで消費される小麦は、ポーランドから輸入したものをはるばるシベリアまで送ることでまかなわれていました。穀物の自給は焦眉の問題であり、穀物が豊かに実る南の大河―アムール川(黒龍江)―の噂を聞いたヤクー ト・コサックは、耕作に適した土地を求め、活発に探検を繰り返しました。

 1643年、ヤクーツクの長官P.P.ゴローヴィンの、「貢納していない人間を探し出して毛皮税を取り立て、鉱石と穀物を探し求めよ」との命令で、ヤクーツクからにオホーツク海まで達するルートの探検が行なわれました。この探検隊を率いたポヤルコフは南進してスタノヴォイ山脈を越え、ゼヤ川、ロシア人として初めてアムール川(黒龍江)を伝ってアムール河口に到着し、オホーツク海に出ることに成功します。このロシア人の動きを清は探知しますが、1644年の入関―山海関を越えた明の首都北京侵攻―を控えておりましたので、清側はこのコサックの動きを静観します。1645年にロマノフ王朝二代目ツァーリ、アレクセイが即位し代替わりするのですが、行きがかり上、このまま話を続けます。

 1646年に無事帰還したポヤルコフはヤクート軍政部にアムール川流域に関する報告書を提出しましたが、その中に以下のようなものがあったと言います。

 ―「その地は人が多く住み、黒テンも多く、あらゆる獣が多く、穀物は豊かに実り、川には魚が多く、兵士たちは穀物に不自由することはない」―

 1650年には企業家ハバロフらの遠征が行なわれ、アムール川に進出しますが、ハバロフはアムール川上流で5つのダウール(モンゴル化したツングース族)の集落およびダウールの族長アルバザのウルスを占領、先住民を圧迫する手段に訴えました。モスクワ政府は事を荒立てるのを恐れ、ハバロフに自重を命じますが、ハバロフは命令を無視しました。とうとう極東のモンゴル系部族アチャン族は順治帝の清朝に助けを求め、寧古塔章京(ニングタジャンギン)の海塞の清軍の出撃となり、1652年ウスリー川とアムール川の合流地点あたりで、ハバロフはボクダイ軍、つまりは清軍と衝突しました。このときは火力に勝るハバロフの軍が勝利を収めます。ちなみにこの後、ロシアで清の皇帝はボクダイ=ハーン(Богдыхан)と呼ばれるようになりました。おそらくヌルハチの後を継いだスレ・ハンがモンゴル諸族から受けた尊称、ボグダ・セチュン・ハーン(聖なる聡いハーン)からきていると思われます。

 本国の意向を無視した勝手な紛争を起こされたモスクワ政府は、シベリア開発庁から派遣された貴族のジノヴィエフに命じてハバロフを連行させ、極東開発に功はあったということで、ハバロフにシン・ボヤールスキー(貴族の息子、イギリスのサーと似たようなもので、一代限りの貴族の位です)を与えたもの、 16539月以降の極東へのハバロフの立ち入りを禁じ、莫大な罰金を科しました。

 しかし、ハバロフだけでなく、同じく1653年、今度はステパノフの一団が現れたのです。火器の劣勢を挽回しようと清は属国の朝鮮に火器兵の派遣を依頼し戦いを挑みます。16553月、ステパノフは明安達理(ミンガンダリ)率いる3000人の清軍と衝突するも、ステパノフが勝利を収めました。清側はロシア人の糧食を断つべくアムール川流域にすむ女真族を満州に送る「遷界令」を発しました。

 さて、モスクワは、清と外交関係を築かせるべくバイコフに命じ、彼は1654年モスクワを出発し、1656年北京に到着します。朝貢貿易以外の外交関係を知らない清側は、バイコフに儒教の三跪九叩頭の礼を求めますが、バイコフはこれを拒否したため話が先に進まず、さらに親善を求めてきたというのにハバロフやステパノフの軍事行動はいったい何だと突っ込まれ(大体、清はまだステパノフの一団と交戦中です)、これはコサックの独断専横ですから、きちんと答えられるはずもなく、まずい立場に置かれます。

 ちょうどそのころ、ロシア西部では、ウクライナのコサックを巻き込んだ宿敵ポーランドとの全面戦争、13年戦争がはじまった頃でしたから、モスクワも極東方面に関わっているどころではなくなりましたので、結局何のこの話に進展もなくバイコフは帰国します。

 16586月、ステパノフの一団は松花江を舟艇11隻で航行中、朝鮮兵を含む1500の清軍が分乗した47隻の軍勢に遭遇、終日交戦しますがステパノフが戦死し、コサック部隊は壊滅します。その後清はアムール川流域のロシア人を掃討、アムール川・オホーツク海に艦隊でパトロールさせたためロシア人の侵入は不可能となり(ロシア人の姿が消えると彼らも駐屯軍を引き払いますが)、ヤクーツク軍政部もロシア人のアムール川流域進出を禁止します。

 ともかく、こうしてミハイル・ロマノフの30年に及ぶ治世は、ロマノフ家こそが、ロシアを支配する唯一の血統と人々に認めさせるのに十分でした。そ して1645年ミハイルの死後、ミハイルの長男アレクセイが16歳でたいした波風を立てず即位することができました。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 ウクライナの歴史』
    黒川祐次著
    中央公論社

   ・『ロシア沿海地方の歴史』
    ロシア科学アカデミー極東支部 
    歴史・考古・民族学研究所 編
    村上昌敬 訳
     明石書店

   ・『オスマン帝国』
    鈴木 薫 著
     講談社

   ・『ポーランド文化史』

   ・『歴史読本ワールド ロシア帝国の興亡 第2巻 第7号』
    新人物往来社

   ・『よみがえるロマノフ家』
    土肥恒之 著
     講談社

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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