ロマノフ王朝(11

〜〜バルカン政策と革命運動〜〜



アレクサンドル2 / Александр II
1819 - 1881
年 農奴解放に着手するが、暗殺される。

 


Российкая

 

 

История


 




       〜 9. 三帝会談と露土戦争 〜

 18701871年鉄血宰相ビスマルクとフランスのナポレオン3世との間で戦われた普仏戦争ですが、ロシアは、1863年に起こったポーランドの反乱で、ポーランドからの亡命者に対し好意的な態度を取ったフランスを快く思っていませんでしたから、この戦いに関し好意的中立を守ります。その結果、プロイセンがフランスを撃破、セダンの戦いでナポレオン3世自身が捕虜となり、パリはプロイセン軍に重包囲されるという惨状で幕を閉じます。この戦争でプロイセンは50億フランという賠償金を獲得して、自国の資本主義発達の頭金とし、さらにフランスで最も豊かなアルザス(エルザス)州、ロレーヌ(ロートリンゲン)州の併合に成功しました。

 フランスの弱体化とプロイセンの強大化に乗じて、普仏戦争の借りを返すべくロシアの行動に暗黙の了解を与えたプロイセンの威光を背景に、ロシア政府はクリミア戦争後に結ばれたパリ条約の黒海条項の破棄を一方的に各国に宣言します。イギリス・オーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年ハンガリーの要求でフランツ・ヨーゼフ2世を共通の君主に頂くも、外交・防衛・財政以外の全てにおいてハンガリーが独立政策をとってよいことが決定され、オーストリア=ハンガリー二重帝国が建国されたのです。首都もウィーンとブタペストの二つ、議会もオーストリア議会とハンガリー議会に別れ、公用語もドイツ語とマジャール語が同等と決定されました。)がこれに反対したためロンドンで会議が持たれ、議定書調印により、軍艦の海峡通過の許可権はやはりオスマン・トルコがもつものの、ロシアは黒海沿岸に軍事基地を建設し、艦隊を保有する権利を得ました。

 こののち、1872年オーストリア=ハンガリー二重帝国帝国、統一なったドイツ帝国、ロシア帝国はベルリンへ外相を送って事前に三帝会談を開き、のちに三帝国間で軍事同盟を結びます。このようにしてヨーロッパの東側に位置するため、海から世界へ進出することができなかった三帝国が集まり、植民地で成功したイギリス・フランスと対抗していくこととなりました。

 こうして西側の国境を安定させ、東トルキスタンからの進出をイギリスに防がれてしまいましたので、ロシアの力ははけ口を求め、バルカン半島へと触手を伸ばすことになります。具体的にはモスクワスラヴ福祉委員会を設立し、バルカンやモスクワのスラヴ民族に援助を与え、セルビア公ミハイーロの主導で結成されたバルカン同盟などの支援を通じてバルカン半島のスラヴ人に影響力を与え始めたのです。

 そんななか、1876年ブルガリアでオスマン・トルコに対するスラヴ民族の暴動「四月蜂起」が起こり、トルコはこれに対し厳重な取り締まりをおこないます。しかし、1876年セルビアとモンテネグロがトルコに宣戦布告し、反トルコのスラヴ暴動は拡大しました。ロシアはこの動きに対し、ブルガリア国民義勇軍を結成し、司令官にストレートフ将軍を任命します。

 さらに1876年、アレクサンドル2世はイスタンブールのロシア大使を通じてオスマン・トルコに対し、48時間以内にセルビアと6週間か2ヶ月の無条件の停戦を行い、さもなければ宣戦布告を行なうとの通告を出します。トルコ皇帝はこれを飲み、結果的にセルビアは1877年オスマントルコを宗主国とする大公国として自治権を獲得しました。さらに、ブルガリアで発生した反乱に対するトルコ側の苛烈な鎮圧に関してロシアが抗議、列強に通告して国際会議の招集を提案、イスタンブールのロシア大使館で会議が開かれます。

 1876年、トルコ側にとって極めて不利な最終的な合意案が提出されましたが、土壇場でトルコ皇帝が法の下でのキリスト教徒とイスラム教徒の平等を謳った憲法を発布、これまでロシア側はキリスト教徒の信仰の自由が大義名分の一つでしたので、これを骨抜きにする形でヨーロッパ諸国の申し入れを拒否します。

 トルコの拒否で開戦が不可避となり、1877年、アレクサンドル2世はキシニョフで宣戦布告に署名しました。総司令官は皇弟ニコライ大公、42万と号する軍勢です。トルコ側はアブデュルカリム=パシャが司令官で16万の兵力でした。

 戦闘はバルカン島とザカフカースで行なわれました。バルカン半島を南下したロシア軍部隊は、ちょうどこの時期にあわせて独立したルーマニア軍と合流し、ルーマニア領をなんなく通過して南下しました。このとき、ロシア軍は三つに別れ、クリデネル将軍は右翼を固め、グルコ将軍はブルガリア義勇兵とともに中央を突破、左翼は皇太子アレクサンドル(のちのアレクサンドル3世)が固める、という陣容で進撃しました。

 ドナウ川を渡った右翼のクリデネル将軍はドナウ軍西部戦線司令官オスマン=パシャの防衛するシプカ峠の要衝プレヴナ要塞を攻めますが、720日から912日に渡った三度の総攻撃に失敗します。とうとう軍事大臣ミリューチンの提案で兵糧攻めを行なうことになり、これに成功してプレヴナは1210日開場、戦いの流れが変わります。

 中央のグルコ将軍はバルカン山脈を越え、ソフィアへの入城を果たします。その他ラデッキー将軍、スコベレフ将軍はブルガリア義勇兵と合同してトルコ軍を破り、スコベレフはコンスタンチノープルを対岸に臨むアドリアノーポリを占領しました。

 ザカフカースではロリス=メリコフ大将率いるカフカス軍が1877424日国境を越えて進行します。迎え撃つはアフメット=ムフタル=パシャの第4軍です。ロシア軍はトルコの構築したアルダハンーオルトゥ防衛線に攻撃を仕掛け、519日はアルダハンが、64日にはオルトゥが陥落、カルス城砦が包囲され、エルズルムも包囲されます。ここでは一時トルコがロシアを撃退したもの、1118日には包囲の末陥落、ロシア軍は余勢を駆って小アジアにまで侵入する事態となります。

 ここに到ってトルコ皇帝はアレクサンドルに講和を申し入れ、アドリアノーポリで休戦条約が結ばれますが、ロシアの進出の前に、中近東へのロシア進出の危険性を見て取ったイギリスがまたも立ちふさがります。イギリスはダータネルス海峡をロシアに無断で通過し、マルモラ海に艦隊を派遣し、コンスタンチノープル沖合に停泊して、あくまでオスマン・トルコ帝国の側に立つとの意思表示を示しました。

 1869年にはスエズ運河が開通し、スエズ運河を抜け、英領インドに到達するシーレーンへの補給地として、バルカン半島付近の戦略的価値が劇的に高まってしまった故のイギリスの強硬姿勢でした。これに続いてオーストリア=ハンガリー二重帝国はカルパチアに軍を進めます。

 緊張の続く中、1878年サン=ステファノで条約が結ばれました。この条約により、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアはトルコから独立し、ブルガリアは自治公国、トルコはバツーム、カルス、アルダハンなどをロシアに割譲ということになります。ところが、ブルガリア公国は黒海とエーゲ海に進出可能であり、スエズ運河から英領インドへとつながるシーレーンに直接影響を及ぼせる位置にある国ですので、イギリスのロシアの南下政策に対する警戒感を刺激しました。

 なおイギリスにとって悪いことに、この条約でロシアがトルコに対しコーカサス山脈南部の領有を認められ、これが実現されれば英領インドの防壁としてイギリスが影響力を保持した中近東に対するロシアの直接の脅威が迫ってきます。そこで、イギリスとオーストリア=ハンガリー二重帝国はロシア=トルコ間のサン・ステファノ暫定条約の全条項を審議する会議の招集を要求しました。

 1878年、ビスマルクが議長となり、ベルリンで会議が開かれます。これがベルリン会議です。もっとも肝心な議題はブルガリアの問題で、ブルガリアは南北に分割され、北ブルガリアは自前の政府をもちつつトルコに臣従、南ブルガリアは更に二つに分割され、西のエーゲ海と接する部分のマケドニアはトルコに返還してブルガリアはエーゲ海と断ち切られ、東の部分は東ルーメリアというトルコ領の自治領となり、トルコ皇帝の任命によるキリスト教徒の知事が置かれることになりました(この条項はベルリン会議の前、イギリスのソールズベリ外相とロシア大使シュヴァーロフの間ですでに合意がなされていましたが)。こうしてブルガリアは出来たとたん崩壊の憂き目にありました。






オットー・フォン・ビスマルク
Otto von Bismarch
1815-1898

鉄血政治で国内を固め、「正直な仲買人」として
対フランス大ドイツ同盟を作り上げる



 ただし、ビスマルクを議長とする会議はロシアにコーカサス南部のトルコ諸都市のロシア併合を認めます。これに対して不平を唱えたイギリスには、ギリシャの抗議を無視してキプロス島のイギリス占領を認め(もっともこのことは、会談前のトルコとの秘密条約で、イギリスがコーカサス山脈南部をロシアから「防衛する」かわりにイギリスはキプロス島の占領の承諾をトルコから得ていたのです。)、英領インドへのシーレーン確保の重要な戦略基地を東地中海に与えます。

 フランスに対する利益誘導としては、もちろんキプロス島は北アフリカ侵攻への前進基地にもなりかねませんから、フランスが抗議しそうなので、ビスマルクはフランスのチュニス侵攻の各国の了解を取り付けます(じつはこれがイタリアをオーストリア=ハンガリー二重帝国・ドイツ陣営に引き込むための巧妙な仕掛けでした)。

 イタリアはこの会議から直接得たものはなく、イタリア代表のコルティ伯は、「汚れない手をもって」帰国したことを自慢したところ、イタリアの朝野の憤激を買い、外務大臣の地位を追われてしまいました。一方ドイツも、ビスマルク自身が「予は正直な仲買人の役割を演ずるより以上の何者も欲しない」と会議で演説したように、直接得た権益はなかったわけです。が、この一癖も二癖もある大国同士の利害を見事に調整したベルリン会談の成功はドイツ帝国、ひいてはビスマルクの権威をいやがうえにも高め、すぐ次にくる、ドイツを中心とするフランス包囲の大同盟、「ビスマルク体制」の露払いとなったのです。

 その他ルーマニアは独立を認められたもののベッサラビアをロシアに割譲させられ、モンテネグロ、セルビアも独立を認められましたが、セルビアは、もともとトルコ領ではありますが、地域的にはセルビアと関係の極めて深いボスニア、ヘルツェゴヴィナをオーストリア=ハンガリー二重帝国に帰属することを認めさせられました。つまり、ギリシャもブルガリアもそうですが、ベルリン会議は特にバルカン半島の小国を犠牲にしたヨーロッパ大国の会議です。このときの不満に民族主義が混ざった渦の巻くバルカン半島はヨーロッパの火薬庫となってしまい、第一次世界大戦で火を噴くのは歴史の示すとおりです。

 こうして戦争に勝利したにもかかわらず、ロシアの得たものは結果的にベッサラビアとアルダハン、カルス、バツームなどコーカサスの少数の都市のみであり、ロシアは外交的には敗北し、インドを目指した南下政策はまたも挫折に終わります。


 〜 10. 中央アジア侵攻(3)ートルクメニスタン制圧 〜

 対外進出を阻まれたロシアは、内政に目を転じます。さて、カスピ海とアラル海に勢力をもつトルクメンの諸族(テケ、ヨムート、サロール、ゴクレン、エルサリ、チャドゥルなど)、とりわけテケ族は、略奪遠征を生業とするもっとも剽悍(もっとはっきりいえば凶暴)な民族で、蒙古帝国成立時を文字に残る史上のピークとして、燦然と光を放ったユーラシア騎馬民族の最後の輝きでした。

 ヒヴァ汗国もその襲撃に悩まされた、トルクメン諸族中最も凶暴で恐れられたテケ族ですが、中央アジアの宗主国となったロシアとしても、治安上、交易のみならず略奪、奴隷貿易に従事するこの種族の問題は放置することができず(たとえばアルミニウス・ヴァンペリの報告によると、テケ族はペルシャ人とあらば誰かれなく捕まえて奴隷となしていたとのことです。彼が奴隷市場で見た光景の中で、奴隷市で血でまみれた服を着た1516歳の少女が泣き叫んでいる姿がありましたが、その血は少女を助けようとして殺されたその少女の母親の返り血だったということです。)、さらにイギリスのエージェント、ネーピア大尉の報告によると、テケ族はロシアを嫌い、アフガニスタンを押さえるイギリスの保護下に入る意向があったということですからなおさらです。

 ラザレフ将軍がテケ族討伐戦司令官に任命されます。彼はカスピ海沿岸に設けた軍管区に、兵站輸送用に鉄道を敷設し、カスピ海の港を整備し、蒸留装置を作って海水から飲料水をとる設備を作り、補給に満を持しました。もっともこのインフラ整備は、将来この地域を統治する際のことも考えてなされた施策だったのでしょう。

 しかし、この作業には非常な時間がかかり、ラザレフは春夏目いっぱいをつぎ込みますが食料が尽き、自然環境の悪さで病気が蔓延、25千いた兵士のうち戦闘可能なが4千人足らずとなってしまいました。それでも遠征に出発しますが、ラザレフ自身が病没、代わってロマーキンが着任し、1877年、クラスノボールツクから320キロはなれたテケ族の砦キジル・アルバットを三回攻撃するも攻略に失敗、1879年、コペット・ダグ山麓のゲオ・テペ(ゲオの丘、本当のゲオ・テペは廃墟状態だったので、インド総督リットン卿から任命されたイギリス人エージェント、バトラーの指導の下、イギリスが肩入れして新しくデンギル・テペ城砦が建設されましたが、そこもついでにケオ・テペと呼ばれていたのです。)を攻めて失敗します。

 ちなみになぜこのトルクメンがこれほどの絶望的な状況の中激しくロシアに抵抗したかといいますと、このゲオ・テペ要塞の建設が物語るがごとく、イギリスは1873年から始まるベイカー、マックグレゴール、ネーピア、そしてバトラーなどのエージェントをトルクメンに送り込んで陰に陽に援助し、支援を約束していたからでして、イギリスの援助を信じていたからこそ、あれほどの熾烈な抵抗を示したのです。実際バトラーなどはトルクメン人をロシアに反抗させるためにリットン卿から派遣されたことが明らかになっております。

 ロマーキンのあとテルゴウカソフ将軍が着任しますが彼も数ヶ月で病気で帰国、ムラビエフ将軍が着任し、彼に代わってすぐに露土戦争に出陣したスコベレフ将軍が派遣されてきました。そして12千の軍に対し、大砲を100門装備し、ホチキス機関銃を装備した歩兵隊を加え、1880年、不敗将軍ですが、勇猛といういうよりほとんど残虐といった戦闘指揮を執り、テケ族からのちに「ゲズ・カンリ(血のような目)」と呼ばれ、白い軍服を好んで着用したことからロシア軍からは「白い将軍」と呼ばれたスコベレフ将軍がいよいよゲオ・テペ攻略に臨むこととなったのです。






ミハイル・ドミートリエヴィチ・スコベレフ
Скобелев, Михаил Дмитриевич
1843-1882

ロシア陸軍の至宝



  スコベレフについての詩が残されています。


    Не угас в душе народной,

    Как русской мощи идеал,

    Как чести символ благородный -

    Наш славный, белый генерал.


    民族の魂の中では消え去っていなかった、

    ロシアの不朽体の極致のごとく、

    気高さの象徴の部隊のごとく−

    我々の輝かしい、白い将軍は。


 不朽体とは、朽ち果てることのない聖人の遺体でして、来世の生命を先取りした聖人の遺体は朽ちることがない、というわけです。しかし、スコベレフの支持は絶大だったらしく、ほとんど聖人、日本流に言えば軍神扱いです。確かに不敗将軍スコベレフの指揮、冷静沈着に慎重に作戦を進め、相手の弱点を探り、ここぞというときにその弱点を一気に叩くその方法の鮮やかさは、同時代の他のロシア軍の指揮官に比べ群を抜いています。惜しくも早死にしてしまいましたが、彼が生きていればその年齢とキャリアから行って確実に日露戦争の総指揮を取ったのは間違いありません。彼が相手だったら日本陸軍もタダではすまなかったでしょう。

 テケ族の最後に関しましては、戦闘区域にジャーナリストがいなかったので(唯一イギリス人ジャーナリスト、エドモンド・オドノヴァンがアシュハバードから程近い海抜1800メートルのマルコー山頂から、戦闘が終了した北西のゲオ・テペを望遠鏡で覗いて大砲が砲煙をあげているのを垣間見、敗走するテケ族に混じってロシア軍の追撃をかわしたものがあるのみです。)、スコベレフの戦闘詳報と、クロパトキンらに対するジャーナリストのインタビューの回答でしかその詳細を伺い知ることは出来ないのですが、一応書いていこうと思います。

 スコベレフはあくまで慎重に前進する方針を採り、611日にゲオ・テペの途上にあるバーミを占領し、ゲオ・テペに対する偵察に向かいます。そしてバーミへのテケ族の騎馬隊の襲撃をこらえつつ戦闘可能な冬季(ヒヴァと違いここは雪の心配はありませんでした)を待ちました。1214日、露土戦争のときにスコベレフの副官を務めた最も信頼する部下である参謀のクロパトキン大佐(日露戦争時のロシア満州軍総司令官)が到着しました。係争中の露清国境のイリにいたのをわざわざ呼び戻したのです。

 一方覚悟を決めたテケ族の戦士たちもゲオ・テペに三万の軍勢を集めました。騎兵集団の戦場における優越は重火器の登場により消滅し、テケ族側が持っていた火器はペルシャとの戦争で奪ったものが一門、寄せ集めの銃数百挺という状態でした。彼らはゲオ・テペの城壁内部に数百の天幕を張って女子供を収容しました。

 砦の周りにゲリラ用の騎馬部隊が遊弋しているとは言え、神速を以って鳴り、その機動性こそが最大の攻撃力であった騎馬民族が、塁に拠って刀と小銃で拠点防衛戦を行なうことになってしまったのです。中央アジアのことわざに「馬、馬を失えば降参しろ」というものがあるといいますが、まさにそのとおりではなかったのでしょうか。

 スコベレフは69門の大砲を使ってゲオ・テペに一日100から600発の砲撃を加え、さらに歩兵隊が小銃で1万から7万発の射撃を加えました。また、1223日夜明けまで、1300人の兵を投入してゲオ・テペの東南隅640メートルの地点から深さ1.5メートル、幅5メートルの平行壕を掘ります。これを迎撃に来たテケ族の騎馬隊に対し別働隊が打って出ますが、ロシア側のペトルシェヴィチ少将が戦死するなど甚大な損害が出ます。妨害を受けながらも1226日には最初の平行壕が完成しました。こうして城壁からの狙撃を避ける壕が完成したのでロシア軍は第二の平行壕を掘り始めます。

 じりじりと城壁に近寄るロシア兵を警戒したテケ族は26日夜襲をかけ、ロシア側は将校二人と参謀二人、100名以上の戦死者を出します。しかし、塹壕堀りばかりでは厭戦気分がでますから、クロパトキンは1229日、ゲオ・テペ前面から106メートルに位置するグランド・デュク・カラの砦を急襲し、占領することに成功します。そして第二の塹壕を完成させることに成功し、1230日夜から第三の塹壕を掘り始めます。

 年が変わって188115日の夜、義勇兵の決死隊がゲオ・テペの城壁によじ登り、壕の様子を偵察してきました。偵察の結果、粘土を固めて灼熱の太陽で乾燥させた城壁を持つゲオ・テペへの砲撃はおそらく効果がなく、城壁を登ろうとしても上から小銃で狙撃されては攻略不能とという結論が出、工兵隊で城壁の下に穴を掘り、ダイナマイトを仕掛けて城壁を吹き飛ばす作戦をたてられました。16日朝、ゲオ・テペの城砦下まで坑道を掘り進むことが決定され、ロシア・トルクメン人の兵の遺体が腐敗し、耐え難い臭気の中、一時間1.2メートルの速度で徐々に落盤防止のための丸天井の坑道が掘られていきました。こうして1300キロの爆薬がゲオ・テペ城壁の下に運び込まれました。

 1881112日、総攻撃の準備が整い、スコベレフはせめて非戦闘員は避難させてはという勧告を出しますが、遊牧民の世界では、敗れた者の運命は奴隷か皆殺しくらいしかありません。テケ族側は「ロシア人が女子供をほしければ、われわれの屍を越えていけ」と返答し、そののちロシア軍の総攻撃が始まります。右翼を受け持つクロパトキンが、爆破される予定の城壁地点に強襲をかけ、コゼルコック率いる中央隊が城砦の最南端の大砲で開けられた裂け口に突撃しました。中央隊は榴弾および榴散弾を使用、さらには石油をつめた大砲を発射したためテケ族側の被害は甚大だったといいます。

 そして1120分、城砦の東南から土ぼこりの柱が空中に舞い上がり、大きな震動と、轟音が響きました。空に舞い上がった城壁の粘土の塊が攻撃中のロシア軍めがけて降り注ぎ、義勇兵一中隊の半分が生き埋めとなります。土ぼこりがおさまると城壁が、城砦の上で防御に当たっていたテケ族の戦士もろとも、長さ43メートルにわたって吹き飛ばされており、城壁爆破は成功、クロパトキン率いる一隊はその裂け目めがけて突撃しました。しかしテケ族の反抗も熾烈を極め、状況不利とみたクロパトキンはもう一隊を救援に呼びます。スコベレフは予備兵力を投入、ロシア国歌「神よ皇帝を守りたまえ」を演奏させ、軍旗を掲げさせました。12時半ごろロシア軍は城壁の突破に成功、ゲオ・テペ内に乱入し、あとは虐殺が始った模様です。これまで敗者に対し容赦ない仕打ちを繰り広げてきた遊牧民族の因果応報とはいえ、哀れを誘う話ではあります。

 日没後の午後4時、とうとう戦意を喪失したテケ族は二つの集団となって敗走します。スコベレフはこの集団に追撃をかけ、反抗するしないにかかわらずテケを完全に掃討するよう命令、老若男女問わず追撃を受けたものは皆殺しとなります。こうしてゲオ・テペは陥落し、ロシア軍の中央アジア軍事行動中最大の損害を出したゲオ・テペ要塞戦が終了、トランスカスピア州が設置されました。327日(すでにアレクサンドル3世の時代になっておりました)、クロパトキン大佐がアシハバードを占領したところで1881年、テケ族の最高指導者は自らの剣をスコベレフに渡し、降伏しました。18822月、ロシア軍はテケ族の残党のこもるメルプを占領し、こうして西トルキスタンは完全にロシアの覇権に入ったのです。

 さて、インドをにらむアフガニスタン情勢ですが、1877年に終結した露土戦争で、最初から最後までトルコの味方をしたイギリス政府に業を煮やしており、インドにプレッシャーをかけるべく画策します。インドの周辺を次々と自国勢力に組み入れたロシアは、ロシアに接近したドースト・ムハンマド国王の後をついで国王となったアミール・シェール・アリに対して1878年軍事顧問を含むエージェントのストリエトフ大佐率いる外交使節団を派遣し、ロシアの立場を強め、イギリスの勢力を排除する条約を結ばせるよう画策します。これに気がついたイギリス政府と当時のインド総督リットンは、インドに対する脅威とばかりに過敏に反応、ロシアの挑発に引っかかり、1878年、アフガニスタンにイギリス大使館の常設を許可するよう要求し、3週間以内に回答がなければ攻撃するとの最後通牒を発しました。

 1841年失敗に終わった第一次アフガン戦争の時と同様、最初は簡単にイギリス軍の侵攻が成功しましたが、やはり1879年、カーブルでイギリスに対する反乱が発生し、1880年にはカンダハール付近のマイワランドで両軍は正面衝突し、なんとアフガニスタン軍はイギリス軍を破ります。自由党のグラッドストーン内閣が発足すると、リットン総督は更迭されてリポフ総督が就任し、アフガニスタンからの撤退を決めます。

 ただし、イギリスはアフガニスタンに、イギリスはアフガニスタンの内政に一切干渉しない代わり、アフガニスタンはイギリス以外のいかなる国とも政治的な関係を結ばないことを取り決め、アフガニスタンを保護国化することに成功します。さらにはタシケントで12年間の亡命生活を送っていたイギリスよりのアブドゥル・ラーマン・カーンを国王の位につけることに成功し、のちに「鉄のアミール」と呼ばれた彼は20年間近い長期安定政権を保持することに成功し、イギリスは、安定な親英政権をアフガニスタンに植え込むことで、この地域の勢力浸透にまずは成功したということが出来ます。

 ただ、アフガニスタンへの露骨な干渉は当分不能となりましたので、西トルキスタンに確固たる勢力を築き、コマロフ将軍の小部隊はメルヴを拠点に1884年にはアフガニスタン国境まで進出して、インドまで指呼の間に近づいたロシアに対し、イギリスは、自国のマスコミを通じてロシア軍の蛮行(自国の南アフリカにおけるズールー戦争などの蛮行は無視して)に関するネガティブキャンペーンを張り、イギリス世論は硬化させ、ロシアの行動を牽制しようとします。

 そこで英露間で討議がなされ、インド西部では、1893年、インド帝国外相デュランドとアブドゥル・ラーマン・カーンの間でアフガニスタンと英領インドの国境線(現在のパキスタン・アフガニスタン国境です)を画定し、1895年、西トルキスタンでは、アフガニスタンを中立地帯とし、ロシア・アフガニスタン国境が確定されます。東トルキスタンでは、新疆省から清朝の影響を取り除きつつ、ロシアとインドが直接国境を接するパミール高原にワッハン回廊が設けられました。これでイギリスとロシアの勢力と緩衝地帯が確定し、最終的にロシアとイギリスの中央アジアを巡る情勢に一区切りが付いたのでした。


       〜 11. ロシアの対外情勢 〜

 さて、年代を少し戻しますが、1879年、ベルリン会談終了直後、ビスマルクはオーストリア=ハンガリー二重帝国外相アンドラッシーとの間で対ロシア同盟交渉が行なわれていました。内容は、同盟国中の一国がロシアに攻撃された場合、他の同盟国は援助のため参戦し、個別講和は行なわない。ロシア以外の第三国に同盟国が攻撃された場合、少なくとも好意的中立を守る。しかし、ロシアがその第三国に加担した場合、同盟国は共に戦う。以上がその内容です。

 ビスマルクは、普仏戦争でプロイセンが勝てたのはロシアの好意的中立あってのことで、それにもかかわらずビスマルクがイニシアチブを取ったベルリン会議での、戦勝国であるロシアの権益を大幅に削ることになった条項は、ロシアに対する裏切りであり、これを不満に思ったロシアがフランスと結び、ドイツに軍事的圧力をかける可能性を危惧していました。そこで、先手をうってオーストリア=ハンガリー二重帝国と同盟を結び、自国をロシアの脅威から守るよう、画策していたのです。オーストリア=ハンガリー二重帝国はオスマン・トルコ帝国からさらにバルカン半島の権益を奪おうとしており、その際にビスマルクに便宜を図ってもらおうと、アンドラッシー自身も同盟には乗り気でした。

 ところがロシアはこの頃本格化してきた革命運動の萌芽、ヴナロード運動に手を焼いており、革命の本家本元であるフランスに対して不信感をつのらせていました。さらに外交上の孤立は、戦術上の勝利をも無効にしてしまうことを今度のベルリン会議でいやというほど思い知らされていましたから、むしろヨーロッパにおける同盟国を探っていたのです。

 この時期ロシア外交を握っていたのは外務官僚のニコライ・デ・ギールス、その名の通りドイツ系プロテスタントのロシア人でドイツに対し極めて好意を持つ人物でした。そこでギールスの意向もあって1880年、ロシアからドイツに対して同盟締結の提案があり、同盟国が増えるのはビスマルクにとっては喜ばしいことですから、先に結んでいた三帝同盟の更新といった意味で、ロシアの同盟参加も極めて乗り気でした。

 ところがこれに関してオーストリア=ハンガリー二重帝国が反対します。理由は、イギリスでは親トルコ・親オーストリア的な保守党党首ディズレリが内閣を組織している限りイ、ギリスがオーストリア=ハンガリー二重帝国と友好関係にあるわけで、これ以上ロシアを加えなくてもオーストリア=ハンガリー二重帝国は十分安全である、ということと、同じくバルカン半島の権益に関心を持つロシアが同盟に加わってしまうと、バルカン半島での進出がやりにくくなるということ、が理由でした。

 ところが1880年四月、総選挙でディズレリ率いる保守党が破れ、かわって組閣したのは自由党の第二次グラッドストン内閣です。グラッドストンは「諸君が地図の上に指を置いて、ここでオーストリアがよいことをしたといえるような地点は、地図上に一点もない。またオーストリアがよいことをしたという実例は一つもない」と総選挙中の演説で訴えた人ですから、さすがのオーストリア=ハンガリー二重帝国もドイツとロシアと連合を組む決心を固めたのです。つまり、オーストリア・ドイツ・ロシアの協商関係は成立寸前でした。


      〜 12. ロリス・メリコフの改革 〜

 さて、弾圧するだけではいずれ改革を求める運動は暴発し、さらに大きな被害と混乱を生みます。1880年には冬宮爆破事件が起こります。この事件はステパン・ハルトゥーリンが冬宮のアレクサンドル2世の皇帝の食堂に爆弾を仕掛けたもので、11人が死亡しましたが、皇帝は来客が食事の時間に遅れたため、食堂にまだ到着しておらず、無事でした。事件ののち、アルメニア商人の息子から破格の出世を遂げ、アストラハンやハリコフの総督を勤め、リベラルな人物として知られたロリス・メリコフが招かれます。

 メリコフは、冬宮爆破事件を契機に設けられた国家秩序公安維持最高管理委員会の委員長に任命され(直後内相にも任命されます)、ニコライ1世が作った皇帝直属官房第三部(秘密警察部門)を廃止し、代わりに内務省に付属する国家警察部を設立しました。これは秘密警察の力を弱める措置でしたので、革命運動に共鳴するリベラル諸派から歓迎を受け、テロ行為は一旦沈静化します。

 委員会が解散したのちも、ロリス・メリコフは内相として、「ロリス・メリコフ憲法」と呼ばれるものを提案します。それは、ゼムストヴォ選出議員とドゥーマ議員から構成される総会を設置し、法案作成のための発言権と国家評議会への助言の権利を持つという、いわば諮問機関の提案で、議会のプロトタイプです。アレクサンドル2世は、君主の権限をコントロールしかねない憲法に対して散々抵抗しますが、結局折れて憲法草案作成を認めます。

 このロシア初の議会創設の具体的なプランは、結局後に述べるアレクサンドル2世の爆殺によって強硬化した宮廷の流れによって検討を棚上げされ、メリコフが辞職に追い込まれることによって立ち消えとなります。


       〜 13. ヴナロード運動 〜

 ロシアが外政に明け暮れている中、国内では革命運動、のちの共産革命の萌芽は着実に進行していました。まずこの時代、共産主義・社会主義運動の生みの親、カール・マルクスが主宰する第一インターナショナル(国際労働者協会)が1864年に開かれました。

 ロシアでも、のちにナロードニキとよばれることになった人々が運動を始めます。その最初のものは出版活動でした。1869年学生運動がもりあがると、各地でサークルが発生し、読書会と自己研鑽に励み始めます。

 その読書の需要にこたえる形で「チャイコフスキー団」が誕生しました。1871年ごろニコライ・チャイコフスキーの設立したチャイコフスキー団は各地の大学都市への書籍配布を目的とし、ミルの「経済学原理」、マルクスの「資本論」(第一巻)のロシア語訳を印刷し、その配布網がナロードニキを結合する役割を果たします。運動の高揚につれ、貴族出身で海外に拠点を持つ世界的な無政府主義者バクーニンらも興味を持ちはじめ、1972年、当時彼がいたチューリッヒにロシアから大挙してやってきた、ロシア国内のナロードニキ予備軍と接触を持ちます。






ミハイル・アレクサンドラヴィチ・バクーニン
Бакунин, Михайл Александрович
1814-1876

革命家・無政府主義者



 無政府主義者バクーニンですが、一体どんな人だったのかと言うと、1840年、ゲルツェンの援助でベルリンに行き、ベルリン大学で哲学の勉強を行ないました。そして大学では、あのカール・マルクスやプルードンらと交友しながら無政府主義の理論を作り上げます。18482月、パリで革命が起こるとそれに参加して演説をぶち、6月にはプラハで革命的汎スラヴ主義の運動をおこして蜂起に参加し、1949年ドレスデンの蜂起に参加して逮捕され、死刑判決を受けてオーストリアへ引き渡されます。オーストリアでも絞首刑の判決を受けましたが、減刑された終身刑となり、ロシアへ強制送還されます。

 バクーニンは1851年から1857年までペテルブルクの要塞監獄で服役しますが、1857年にシベリア流刑になります。しかし、1861年、脱走に成功して、アメリカ船で日本を経由し、アメリカを回ってロンドンのゲルツェンと再開します。その後、1863年のポーランド反乱に参加しようとして失敗しました。1867年スイスに移り、国際的革命組織成立に尽力し、1869年、雑誌「エガリテ」を発行して支持を得ます。そしてこの年、第一インターナショナルのバーゼル大会に参加しますが、マルクス派と激しく対立します。

 国家そのものを否定する無政府主義者であるバクーニンにとって、マルクス派のように、革命を起こして新たな国家をつくることはナンセンスです。こうしたわけで、バクーニンは1872年、マルクス派とは完全に袂をわかっており、アナーキストのインターナショナルを結成していました。

 つまりは、この時期世界の革命家たちの中で孤立気味でありましたから、バクーニンは彼のもとにやってきた学生達に熱弁を振い、さすがに無政府主義者だけあって、国家は最大の悪であると説き、国家否定の原型として、ロシアの農村共同体(ミール)を挙げます。ロシアの農民は本能的に反国家的であり、プガチョフやステンカ・ラージンの乱の経験をもつ人民にたいし教育は不要で、むしろ革命的青年は人民の中に入るべきである。人民は何を成すべきか知っており、人民は一揆によって立ち上がるだろう。これまでの一揆の失敗は農村共同体同士の連帯がなかったからであり、革命家は農村に行ってこの連帯を作り出すべきである。

 やがてペテルブルクに各学生サークルの団体が集まり、大会を開くまでになると、バクーニンの話を聞くことや、読書だけでは飽き足らなくなり、学生達は実践の場をもとめ、農村教師などになってロシア農村へ入りこみ、実践活動を続けます。この活動は1873年の暮れから始まり、1874年の「狂った夏」に最高潮に達します。しかし、ここまで来ると、じきに彼らは農村での革命宣伝工作に入るようになりました。これは当然当局の疑惑を呼び、1874年の冬から検挙が始まり、500人以上が逮捕されます。実際チャイコフスキー団と同じような活動をしていたドルグーシン団は反乱を呼びかける檄文を印刷配布して逮捕され壊滅します。こうして、ヴナロード運動は、1875年ごろには終息します。

 農村では農民の一揆も起こらず、結局無関心で迎えられるか、どころか正教のツァーリに対する畏敬の念のつよい農民達は、むしろ青年達を警察につきだしたりするなどし、結局ナロードニキはヴナロード運動の失敗をまのあたりにします。そこで、ナロードニキたちは、バクーニンの主張する人民大衆を期待して組織のない無党派運動の失敗から、組織について再考し始めたのです。

 こうして、ナロードニキの一部は、「土地と自由」という秘密結社を設立します。これはロシアで始めての定期刊行機関紙を持った党となります。彼らは当局の手入れにたいし、やられたらやりかえすとばかりにテロリズムに走りました。その始まりが、1878年1月24日に発生した、「土地と自由」党員ヴェーラ・ザスーリチによるペテルブルク特別市長官トレポフ狙撃事件です。トレポフは革命家達にたいし「弾は惜しむな」と語ったとされる革命最強硬派として知られておりましたが、市長官室の前の請願者のなかにまじっていたザスーリチが、自分の番になるといきなりピストルを取り出してトレポフを狙撃したのです。トレポフは重傷を負いましたが、一命を取りとめました。

 2月にはキエフで党員オシンスキーが検事コトリャレフスキーを狙撃して失敗し、3月には党員ポプコが憲兵副隊長のゲイキングを路上で刺殺し、84日にはサンクトペテルブルクで元砲兵中尉の党員クラフチンスキーが、皇帝直属官房第三部(秘密警察)長官メゼンツェフが白昼路上で刺殺します。怒った当局は徹底的な手入れを行い、9月にサンクトペテルブルクの組織を壊滅状態に追い込みますが、10月には党員アレクサンドル・ミハイロフが組織を立て直しさらには官房第三部に逆スパイ、クレトチュニコフを植え込むことに成功、その健在ぶりを示そうと、機関紙を定期的に発行、60年代の革命党からその名を取り、「土地と自由」と名づけます。ここから、この党は「土地と自由」と呼ばれるようになったのです。

 1879年ハリコフ総督のクロポトキン公爵が射殺され、42日、「土地と自由」党員の医師ソロヴィヨフによる、散歩中の皇帝をねらい5発の銃弾を放った狙撃事件が起こります。弾ははずれ、ソロヴィヨフもその場で服毒自殺しましたが、テロの矛先がとうとう皇帝にまで及び、たまりかねた当局も革命運動の逮捕者に対する裁判は軍事法廷で行なうことに決定します。

 ここにいたって、もはや事態は皇帝直属官房第三部(秘密警察)と「土地と自由」の食い合いの様相を呈し、革命運動に対する締め付けが極めて厳しくなる中、追い詰められ始めた「土地と自由」は、プレハーノフらを筆頭とするテロ反対の「土地総割替」派と、テロ容認の「人民の意志」党の二つに分裂します。反動化した皇帝にたいし、人民の意志党はロシア専制体制に宣戦布告しました。

 もし、これまでのページ全てを見ていただいた方がいらっしゃるならおわかりかもしれませんが、これまでロシア史の中には、日本人の性格、少なくとも私の性格からは考えられないくらい執拗な人物がこれまで登場しました。文字通り死ぬまでキエフ公位を争ったイジャスラフ公およびユーリー・ドルゴルーキー公、モスクワ大公位をトヴェーリ公と争ったイヴァン1世カリターを筆頭とする歴代モスクワ公、モスクワの覇権を確立するためには、当時の大国リトアニア大公国はおろか、タタールと事を構えるのさえ辞さなかったドミートリー・ドンスコイ。これらの執拗な人物の系譜を、アレクサンドル2世暗殺に全てを注いだこの革命運動家たちの中にまた見る事ができます。

 187911月には、クリミアから帰還する皇帝を狙った、オデッサ、アレクサンドロフスク、モスクワ郊外の三箇所でのツァーリ専用列車爆破事件が計画されます。オデッサに皇帝は立ち寄らず、不発に終わり、アレクサンドロフスクでは皇帝列車がダイナマイトを仕掛けたレールの上を通った瞬間ボタンを押しましたが、配線ミスでこれまた不発におわりました。

 ところが、モスクワ郊外では、例のアレクサンドル・ミハイロフと貴族出身のソフィア・ぺロフスカヤが線路に近い家を購入して、そこから線路まで40mの地下道を掘り、1119日線路の下にダイナマイトを仕掛けます。当日、予定通りダイナマイトは爆発しますが、破壊された車両は貨物列車1両で、皇帝の随員の乗る8両が脱線したのみ、皇帝は無事でした。しかし、「人民の意志」は皇帝の農奴解放はにせものであり、全人民による憲法会議を開くまで闘争を続けるとのビラを出版します。

 さらに18802月には、「人民の意志」のステパン・ハルトゥーリンによる冬宮爆破事件がおこります。腕の立つ指物師だったハルトゥーリンは、バティシュコフの変名で宮廷に雇い入れられ、冬宮の地下室に住むことを許されます。ハルトゥーリンは道具箱にダイナマイトを入れて少しずつ冬宮に運び込み、十分な量がたまったところで食堂の床下に爆弾を仕掛け、皇帝の食事時間を狙い、導火線に火をつけて逃亡したのです。皇帝は、会食予定の来訪者が時間に遅れたため、難を逃れましたが、食堂の床が吹き飛び、5人の死者と58人の負傷者が出ました。

 ここで、たまりかねたアレクサンドル2世により、国家秩序公安維持最高管理委員会が設立され、自由主義者のロリス・メリコフが委員長としてまねかれて憲法策定会議が開催されます。

 しかし、「人民の意志」は執拗に皇帝暗殺を諦めず、1880年、オデッサとサンクトペテルブルクで皇帝暗殺を試みますが失敗し、逆に10月、皇帝直属官房第三部が廃止に伴い、内務省に付属して新設された国家警察局がミハイロフの検挙に成功します。

 しかし、皇帝暗殺をまったく諦めない「人民の意志」は、6階の皇帝暗殺計画失敗にも関わらずまたも暗殺計画を立てます。今回のもの非常に入念で、アレクサンドル2世は毎週日曜日乗馬の練習と閲兵のため、ミハイロフスキー錬兵場へ行くので、その帰り道で襲撃を決行することになりました。錬兵場からネフスキー通りに抜けるマーラヤ・サドーヴァヤ街が暗殺決行に好都合ということで、そこで1月に一軒の家を借り、チーズ屋を開きます。そして通りの下に坑道をほり、地雷を仕掛けました。

 さらに、地雷が失敗した際に備えて、四人の擲弾者がマーラヤ・サドーヴァヤ街の両方にわかれ、挟み撃ちにして爆弾を皇帝に投げつけることにします。これも失敗した際には、「人民の意志」指導者ジェリャーポフが短剣で皇帝を刺すことになりました。

 しかし、227日、ジェリャ−ポフは逮捕され、くだんのチーズ店も衛生管理局の手入れを受けますが、坑道には手を触れられませんでした。そして31日、ソフィア・ペロフスカヤは地雷失敗に備えて4人の擲弾者をつれて出、チーズ屋にのこったメンバーは皇帝が通るのを待ち続けますが、何度も暗殺事件を起こされていた皇帝はこの日も警戒してコースを変えたので、地雷の方は不成功に終わります。

 ところがその日の2時過ぎ、サンクトペテルブルクの街中のエカテリーナ運河に沿う道を走っていたアレクサンドル2世のそりの横に、ペロフスカヤが対岸からハンカチを振って投弾の指示を出し、擲弾者ルィサーコフの手により爆弾が投げつけられ、護衛のコサックが負傷したのです。そりも壊れて従者にけが人が出ましたが、皇帝は無事でした。皇帝が「やれやれ、わたしは助かった」と言って馬車から降りたところ、将校の一人が皇帝とは知らず、アレクサンドル2世に、皇帝は無事だったのかと尋ねました。これに対し、皇帝は「神に感謝する、わたしはどうもない。そして彼をどうする。」と負傷して重傷を負ったコサックを指さしました。

 すると、取り押さえられたルィサーコフが「神に感謝するのははやいぞ」といい放ち、皇帝はルィサーコフに近づいて名を尋ねました。しかし、ルィサーコフは偽名を名乗り、それを聞いた皇帝は、何かあったら疾走して冬宮に帰ってくるよう皇后から御者に指示があったので、馬車に乗り込もうとしました。







アレクサンドル2世爆殺の瞬間




 その瞬間、運河の咲くにもたれていた第二の擲弾者グリネヴィツキーが皇帝に近づき、皇帝もろとも自爆すべく、目の前の皇帝の足元に白い包みに入った爆弾を道路に投げつけたのです。仰向けに倒れ、両足が吹き飛び(片足は残っていましたが、千切れの状態だったということです)、下腹部が裂傷を起こし、血まみれで片目だけが判別できる状態でアレクサンドル2世は冬宮に運び込まれ、出血多量で1時間足らずで亡くなりました、63歳の死でした。病院に運び込まれたグリネヴィツキーも夕刻死亡しました。この暗殺現場に建てられたのが、現在でもサンクトペテルブルクにある「血の上の救世主教会」です。







血の上の救世主教会




 しかし、皇帝は、暗殺されたまさにその日の朝、ロリス・メリコフと面会し、ゼムストヴォと市議会の代表を加えた行政改革と財政改革のための委員会の設置に同意を与えていたのです。これは立憲政治の第一歩となるもので、皇帝は「憲法に至る道であるのをよく承知している」と言いながらも決断したのでした。自らの無限の権力を削る立憲君主制への道へ進むのが確実なのにもかかわらず、彼はそれを許したのでした。

 結局、この皇帝暗殺という大事件で、帝政ロシアの政治システムの枠組みの中での改革の可能性を秘めた、ロリス・メリコフの改革案はつぶれてしまうことになります。


     〜 14. アレクサンドル2世の人となり 〜

 ここで、最後にアレクサンドル2世の人となりについてかいつまんで総括を行ないたいと思います。一言でいえば、アレクサンドル2世はロマノフ王朝随一の開明君主であって、いわいる暴君とは全くかけ離れた人物でした。彼の改革は当時のロシア社会のあらゆる面に及び、なおかつそれがピョートル大帝期の改革のように尻切れトンボにならず、きちんと後世に伝えられたことを考えると、ロマノフ王朝中最高の君主かもしれません。自らが最大の既存特権階級なのにも関わらず、自らの特権を削るような初の農奴解放を出し、なるほど確かに最初のうちこそこの解放令は実効がなかったかもしれませんが、息子のアレクサンドル3世は父の政策を受け継ぎます。

 アレクサンドル2世時代の内相イグナチエフは、1881年までには農奴解放による移行措置を完了させ、償却支払金を3/4に低減し人頭税を廃止、農民が土地を購入する際に2.75%の低利子で融資を受けられるよう農民土地銀行を設置し(つまり、小農民の土地取得に政府が援助の手を差し伸べたのです。)、農奴解放は次の時代に着実に進んでいったのです。そして1907には償却支払金の全額を廃止、延滞金も抹消しました(裏を返せば20世紀初頭まで事実上の農奴制が続いたといえるのかもしれませんが。)。既得階級の権利を損なうような行為をなす者にはどのような運命が待っているのか、皇帝が知らなかったわけがありませんし、側近からの進言もあったでしょう。しかし、アレクサンドル2世は断を下したのです。

 都合上、ここにアレクサンドル2世のフィンランド政策を書きますが、彼によるフィンランド統治ははっきりいって善政といってよろしいものです。1860年、アレクサンドル2世は、フィンランドにロシアとは完全別個の通貨単位マルカ(現代でもなおフィンランドの通貨単位です)を発行させます。1863年、半世紀ぶりにフィンランド議会を召集し、フィンランド大公としてフィンランド議会に出席したアレクサンドル2世は、アレクサンドル1世に勝る自治権の回復を宣言しました。










アレクサンドル2世治下に発行されたペニー
100ペニーが1マルカです)






ヘルシンキに立つアレクサンドル2世の銅像




 1863年には言語令を発布、フィンランドの少数支配民族スウェーデン人によるフィンランド支配の風潮に抗して、フィンランド語の出版を再許可し、フィンランド語をスウェーデン語の両方の使用を認めます。1878年には徴兵法によりフィンランドが独自の軍隊を持つことが許可され、フィンランドは外交権以外のすべての自治を回復することとなったのです。上の写真は、ヘルシンキに建つアレクサンドル2世の銅像です。帝政ロシアが滅びた今なお、彼の銅像が撤去されず残されているのは、彼の善性をフィンランド国民が歓迎したからにほかなりません。

 ロシア統治下・影響下のフィンランドは時代によってその統治が全く変わり、ロマノフ朝期は末期(1905年革命以降)をのぞき全般的にきわめて寛大でした。ロシアがフィンランドに対し過酷な態度に出たのは独ソ戦も間近にせまった旧ソ連時代のことです。

 もちろん中央アジアの民族、ロシアに帰順したカザフ族やキルギス族以外のウズベク族やテケ族にとってアレクサンドル2世は征服者であったでしょう。しかし、その征服の目的は、あくまで中央アジアの民族の奴隷貿易廃止とロシア隊商の保護という治安維持がメインであり、中央アジアを制圧したカウフマン将軍も、地元文化のむやみな禁止や抑圧は行なわず、むしろタシュケントに図書館を作り、官報とはいえウズベク語で書かれた新聞『トルキスタン住民新聞』を発行し、収穫率の高い綿花のアメリカ産品種を持ち込み、従来この地に栄えていた綿花産業の保護育成につとめたのは前に書いたとおりです。

 アレクサンドル3世は、治世の後半は反動化したとはいえ、暗殺された当日の朝に、立憲君主制、君主の無限の権力を憲法と議会がコントロールする、への道を開く可能性のあったロリス・メリコフの委員会設置に許可を与えるなど、最後までその先進性と開明性を失なわなかったツァーリでした。その生涯を、国家臣民のためこれほど傾けたツァーリが、革命家によって暗殺されるとは、これを歴史の皮肉と言わずして何と言うのでしょう。君主は誰からも恨まれずにいるのは不可能とはいえ、その冥福を祈ってやみません。



      ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 北欧の歴史』
    武田龍夫 著
     中央公論社


   ・『中央アジア史』
    江上波夫 編
    山川出版社

   ・『アジヤロシヤ民族誌』
    沼田一郎 訳編
    彰考書院版

   ・『歴史の狭間のベラルーシ』
    服部 倫卓 著
     東洋書店

   ・『世界の歴史5 西域とイスラム』
    岩村 忍 著
    中公文庫

   ・『よみがえるロマノフ家』
    土肥恒之 著
     講談社


   ・『アフガニスタン 戦乱の現代史』
    渡辺光一 著
    岩波新書

   ・『世界の歴史21 帝国主義の開幕』
    中山治一 著
    河出書房新社

   ・『世界の歴史 22 ロシアの革命』
    松田道雄 著
    河出書房新社

   ・『世界の歴史13 帝国主義の時代』
    中山治一 著
    中公文庫

   ・『ロシアとソ連邦』
    外川継男 著
    講談社学術文庫

   ・『歴史読本ワールド 2月号 特集 ロシア革命の謎』
    新人物往来社

   ・『歴史読本ワールド ロシア帝国の興亡 第2巻 第7号』
    新人物往来社

   ・『ロシア史 2』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー