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セヴァストーポリの戦いのさなかの1855年、ニコライ1世がなくなり、アレクサンドル2世が即位します。
クリミア戦争が失敗し、黒海を失ったことはロシア側に痛烈な反省を呼びました。また、先進国イギリスとフランスと高い工業技術に裏打ちされた軍事力は、ナポレオン戦争の勝利によって軍事大国の名を高らしめたロシアの自信を砕き、とりもなおさず自国の後進性を自覚させられることとなりました。
このクリミア戦争の失敗の反省から、アレクサンドル2世は、ロシア皇帝として始めてシベリアを視察し、立ち遅れた科学技術、鉄道網等のインフラ整備の必要性、検閲からの自由たるグラスノスチ(ソ連邦最後の書記長ゴルバチョフが用いて有名となったこの言葉は、実はアレクサンドル2世の時代に叫ばれたものです)、生産性が低く極めてエグい人間関係をもたらす農奴制、などに関する改革を実行していくことになります。もっとも農奴解放は、工場労働者の確保のため農奴を土地から引き離し、農村から都市の工場労働者を補充したいとの思惑もあったのではないかと考えられます。あるいは、この時代に実施される国民皆兵による国民軍創設の布石だったのかもしれません。
もしそうなら、アレクサンドル2世にたいし、労働者の不足を訴えた産業資本家たちがこの時代のロシア帝国にすでにいたことになりますし、そうでないとしたら、ドイツの農奴解放、アメリカの奴隷解放に倣った都市労働者の補給による産業革命振興を建策した宰相なりなんなりがいたことを証明しなければいけませんが、目下調べ中です。
ともかく、アレクサンドル2世の改革は、農奴解放令をその骨子とし、科学技術・兵制・司法・検閲・地方制度、はては議会創設案など、当時のロシア社会のほとんどにわたり、後世から「大改革」と呼ばれました。つまりは、ロシアの近代化は、この1856年のクリミア戦争の失敗から始まったのです。つまり技術水準としては少しはましだったかもしれませんが、ロシアが工業化の必要に目覚めたのは事実上日本と同じ時期だったといって差し支えないのです(そしてその工業化も上からのものであった点でも同じです。但し、工業化についてはどこの国でも中央集権化の成功により可能となった上からの強力な国家指導が不可欠ですが。)。ロシアのことを当時のロシア人自身(ヴィサリオン・ベリンスキーなど)が「遅れた国」と言っておりますが(この「遅れた」という意味は別にロシア人がぼけっとしていたとか言う意味ではないです)、まさに至言、痛恨の言葉です。西欧との遅れを取り戻すべく必死の全力疾走を続けたことがどのような結果を生むことになったか、それはこれから明らかになっていきます。
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この章に登場するロマノフ一族の系譜
―┬アレクサンドル1世
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├コンスタンチン
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└ニコライ1世
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├―――――――――┬―アレクサンドル2世
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マリーア・アレクサンドロヴナ └―コンスタンチン
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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〜 1. 極東政策ーアムール川獲得と新国境の確定 〜
クリミア戦争での失敗により、宰相ネッセリローデ(1856年3月、パリ講和条約でこの戦争の片をきちんとつけた後、退職)や他の閣僚は責任をとらされて更迭され、新たにゴルチャロフが宰相となります。ネッセリローデの主導による、クリミア戦争で西方からの進出路をとる政策が頓挫してしまったため、ムラヴィヨフによる東方進出策政策が俄然脚光を浴びることとなります。東シベリア総督ムラヴィヨフにとってこの中央政府の転換は何よりの朗報でした。
そこでメンシコフ総司令官の指示で海軍中将プチャーチンが、日本への遠征隊として派遣されます。プチャーチンは清がイギリスに破れたアヘン戦争敗北後に結ばれた南京条約の直後、イギリスの極東進出の危険性を察知し、ロシアの極東政策推進をニコライ1世に意見具申した人物で、本来は彼が1843年日本に遠征隊として派遣される予定でしたが、当時はフランス七月革命運動の余波がヨーロッパに広がった時期であり、極東政策は後回しにされていたのです。
クロンシュタットから旗艦パルラーダ号を含む4隻に乗船したプチャーチンは1853年、アメリカ東洋艦隊司令官マシュー・ペリー大佐に先立つこと一ヶ月前に長崎に来航します。そこでは日露通好条約の予備会談がもたれ、日本がロシアに最恵国待遇を与えることなどが決められました。プチャーチンは一旦日本を離れた後、琉球・フィリピンの状況を視察し、ロシアの沿海州へ戻り、そこでディアナ号に乗り換えて再び日本へ来航し、函館、大阪、そして下田へ入港しました。
会談の後、日露通好条約が結ばれ、領事裁判権、ロシアの日本駐在員の派遣、函館・下田・長崎の開港、そして両国領土の確定、この時点では樺太は両国雑居状態、択捉島以南は日本、ウルップ島以北はロシアと決められました。
日本との交渉をまとめたプチャーチンは1857年、清との全権大使に任命されますが、これにムラヴィヨフが反発しました。この人事に抗議したムラヴィヨフはサンクトペテルブルクに戻り、東シベリア総督の辞職を願い出ます。ところがこれを聞いたアレクサンドル2世は彼を慰留し、さらに侍従武官の職に就けました。これでムラヴィヨフは直接皇帝に意見を上奏できることになり、いっそう発言力を増すことに成功します。その結果、ムラヴィヨフはプチャーチンとは別個に清と交渉を行えることになりました。
さらには1851年に始まり1864年まで続いた太平天国の乱で弱った清と英仏の間で1856年、アロー号戦争がおこります。きっかけは、船長がイギリス人のイギリス船籍をもつアロー号という船が、イギリス人船長の乗船していない時に中国人官憲により海賊船の嫌疑を受け、乗組員15人全員(中国人)が逮捕され、イギリス国旗が引きずり下ろされた事件でした。イギリス側は乗組員全員の釈放と謝罪、賠償を要求、清側は船長を除く乗組員全員が中国人であり、この船は事実上の中国の海賊船であると主張しました。
両国の主張は平行線をたどります。しかし、イギリス下院のリンドハーストらは、アロー号のイギリス船籍は便宜的なもので、事実上中国船であり、このような難癖で出兵することに反対し、事実上下院はイギリスの出兵を支持しませんでした。すると、時の内閣首相は例の、軍の抵抗を押し切って陸軍省を設立した強面のパーマストンですから、下院を解散して総選挙に打ってで、そこで新議会の新任を得ると、エルギンをイギリス全権とし、イギリス軍を派遣します。
フランスも、1856年、フランス人神父シャプレドレーヌが殺害され、広西で逮捕、投獄、殺害され、これに対する清側の対応が鈍いため、イギリスと共同歩調を取り、グロをフランス全権としてフランス軍を派遣します。イギリスは1857年に燃え上がったセポイの反乱の鎮圧に手間取り(結局1859年まで反乱は続きます)、1857年末からフランスと共同で広東の攻撃に入ります。
こうしてまたも極東がきな臭くなると、英仏の攻撃の手が極東ロシア領に及ぶことを恐れたムラヴィヨフはアメリカと手を組むことにします。モンロー主義を堅持し露骨な介入ができず、また、それ以上に少なくとも建前上はフェアプレーの精神を好み、門戸開放・機会均等を伝統的な外交政策として掲げるアメリカに配慮し、アムール川周辺を自由貿易区域とする方針を打ち出すことで、アメリカを味方につけようと画策したのです。そしてムラヴィヨフはアメリカ公使リードとともに英仏連合軍に同行します。
そして1858年、清の苦境につけこむ形でムラヴィヨフは自ら国境交渉を開始し、プチャーチンの頭越しに愛琿条約を結びます。これにより、アムール川左岸は、満州人集落は清の統治のままロシア領(1856年から清の抗議を一切無視してプリアムールスカヤ州に編入する国内法の手続きは進めていたのですが)、ウスリー川の境界が確定するまで(いつのまにやら)沿海州は露清共同統治ということに決定されました。皇帝は彼に伯爵の位を授け、ムラヴィヨフ・アムールスキーの名前を与えることでこの功をねぎらいました。その後もムラヴィヨフはロシア支配を固めるべく、ピョートル大帝湾の測量とウラジオストックの建設準備、清国人の往来禁止、清国守備兵の強制撤去などを強行します。
英仏連合軍は広東から北上し、白河をさかのぼって天津まで到りました。もはや北京は目の前、さすがの清も折れ、天津条約が結ばれました。内容は、英仏に賠償金を支払うこと、外交官を北京に駐在させること、鎖国をやめ、旅券を持つ外国人の国内通好を自由とし、9箇所を開港させること、アヘン貿易を公認し、キリスト教の布教を認めること、などなどです。
ところが英仏連合軍が去っていくと、清は外交官の駐在・外国人の内地通行などの部分の条約改正を望んで上海でイギリスと交渉を始めますが、当然イギリスはうんとはいいません。業を煮やしたのか、清はさらに1859年、条約批准のため北京に赴いたイギリス・フランス大使を白河で足止めします。
これに怒った英仏連合軍は、1860年、天津を占領し、清の首都北京西郊、円明園に侵入、掠奪の限りを尽くした後放火し灰燼に帰さしめました。ここで、清の後事を託して熱河地方へ逃亡した文宗咸豊帝の代わりに、その弟恭親王奕訴はロシアに講和条約調印の仲介を依頼し、プチャーチンに代わってロシア側全権代表となり、愛琿条約批准のために1859年に北京に来ていたイグナーチェフは、愛琿条約追認と沿海州の領有と引き換えに清の依頼を引き受けます。英仏連合軍は北京に無血入城し、天津条約の批准が行なわれ、1860年11月、さらに追加条約である北京条約(沿海州割譲、賠償金増額、天津の開港などが追加されました。)が締結されました。ここに現在の中国とロシアの国境が定まります。
こうして極東問題の最大の懸案、極東におけるロシアの貿易ルート確定、しかも当初はアムール川の航行権を得、アムール川を遡上してバイカル湖付近の交易場のキャフタで貿易する予定でしたが、北京条約で北京のおひざ元、天津を開港させることに成功しましたから、貿易ルートも一気に短縮でき、商売に絶好の首都近辺での交易が可能という利を得ることができました。おまけとして一兵も失わずに日本の数倍に匹敵する領土を得るというとんでもない条件での清露国境確定も成し遂げられました。以上の大任を果たし、一世一代の大事業を成し遂げたと確信したであろうムラヴィヨフは1861年退官して、パリで余生を過ごします。
この後ムラヴィヨフの意向で、クリミア戦争後の財政難克服のため、1867年、北米ロシア領アラスカを720万ドルでアメリカに売却することになります。当時のアメリカの国家予算は3億7千万ドルでした。しかし、この値段は高すぎるとアメリカの新聞に叩かれ、けっきょく新聞社を買収した上でのやっとのことで成立させた商談でした。北アメリカと中国との貿易の採算のとれなさ、広すぎる国境、海を越えての統治は国境警備軍団の維持費等の経費がかかりすぎ、しかも英領カナダと国境を接すことは両国関係の緊張をよぶ恐れがあり、アメリカという緩衝国をおくほうが有利である、などの判断からなされたことでしょう(もっとも後の米ソ冷戦時代、アラスカはアメリカの対ソ最前線基地となりますが。)。
まさかこの13年後に、アラスカのユーコン川源流付近のロンダイク川で砂金が発見されてゴールドラッシュが起こり、1916年にはアラスカの金産出高がアメリカ全体の1/4を占め、さらには、1968年プルドー・ベイで石油まで出ることになろうとは、まさに神のみぞ知る、です。が、もしロシアがアラスカを領有していた場合のアラスカ維持費・軍事費、および軍事的緊張を考えますと、この時点ではどう考えてもいたし方の無かった判断だと考えてよろしいかと思います。
〜 2. 農奴解放令ーその成立まで 〜
1855年、36歳で即位したアレクサンドル2世ですが、彼は即位と同時にデカブリストに恩赦を発表し、この時の恩赦で文豪ドストエフスキーもシベリアから帰還します。治世の始まりを恩赦からスタートしたため、アレクサンドル2世は解放皇帝と呼ばれました。
そして、1856年3月30日、モスクワの貴族の前で以下のような演説を行い、農奴解放に取り組む意思を鮮明にします。正直矛盾した内容の演説ですが、貴族の財産である農奴を廃止すると公言するのは、貴族の財産を奪うと言うのと等しいことですので、貴族の露骨な反発を避けるために、このような内容となってしまったのかもしれません。
ー「諸君、わたしが農奴の廃止を目論んでいると言ううわさがあるようだが、正しくない。みなにそう伝えて欲しい。だが、不幸なことに、農民と地主との間に敵意が存在することは事実である。このためいままで地主に対する不服従が若干あった。早晩このことはやれねばならぬと信じている。同意してもらえると思う。農奴は下から廃止されるより、上から廃止したほうがはるかにいい」ー
ゲルツェンの、「下から起こるのを待つより上から起こる方がよい」という言葉まで持ち出して行われた皇帝の演説ですが、農奴制においては、領主農民(いわゆる農奴、1851年の第九回人口調査によると、当時の人口の40.4%を占めていました)は土地と一緒に領主の所有物とされ、土地とともに売り買いされました(したがって領主の許可のない去就の自由はありません)。ですから、農奴を解放する、あるいは農奴を土地とともに解放するというのは、領主の財産を奪うということにほかなりませんから、下手をすると地方実力者のおおっぴらな抵抗、内乱にもなりかねません。
その治世の前半は開明的であったアレクサンドル1世の時代、1807年に早々と農奴解放を成し遂げたプロイセンに見習って、同じドイツ人の多く住むバルト地域に限り、エストラントで1816年、リヴラントで1819年、試験的に農奴制が廃止されたことがありました。しかし、この場合は土地なしの解放でしたから、農民は土地を借りて賦役を払うか、土地から出て行くしかなく、正直現状は殆ど変わらないままでした。
歴代ツァーリはこの問題は、なるべく関わりたくない政策として、代々放置していましたが、アレクサンドル2世はこの農奴制に関し、正面から取り組もうとしたのです。
1857年、アレクサンドル2世は自らが議長を務める、領主農民の生活状態の調整方法を審議するための秘密会議を開催します。農奴解放は結局はその土地の貴族の力をかりないと不可能ですから、委員はツァーリが任命した大貴族で、農奴解放には反対だったといいます。
さて、委員会ではロストフツェフ、ガガーリン、コルフら三人が、三つの改革案を提示しますが、ロストフツェフの案は農奴解放引き伸ばし案、ガガーリンの案はバルト海沿岸でのあまりの農民蜂起に音を上げた政府が、この地域に限って行なった土地なし解放令の踏襲、コルフの案は改革の前に、領主貴族に農奴解放の条件をまず審議してもらう、というもので、どれも農奴解放には消極的なものばかりでした。
ここで、改革は尻すぼみで消滅か、と思われたところですが、内務省は農奴解放に積極的で、内務省自身も改革案を提出したばかりか、ヴィリノ総督ナジーモフあてに改革案を委託していました。ナジーモフは管轄の三県の貴族団団長と有識貴族をあつめて貴族委員会を設立し、改革案に対する意見をまとめ、アレクサンドル2世に提出していたのです。
さらに内務省は、農地を農奴に買い取らせる案を審議しており、これがアレクサンドル2世の目にとまり、ナジーモフ宛てに勅書を発し、県委員会を組織し、領主農民の生活状態改善案を作成することを命じました。その他の県にも同じような勅書が発布され、農奴制の廃止について各県の県貴族委員会が審議して、解放草案を起草させ、それを中央で審議したのち、全国で一斉に解放を行なうことを明言し、秘密委員会も総委員会と改称し、その活動を公にしたのです。
そして1859年、総委員会に付随して法典編纂委員会(司法、行政、経済、財政の四部門)が設けられ、皇帝の腹心ロストフツェフが議長となり、各省の官僚11人、県貴族委員会代表12人、学識経験者8人が、あつまり、各県から上がってきた解放草案を部門ごとに審議しました。
領主貴族からのさまざまな妨害を受け、1860年ロストフツェフは過労で倒れ帰らぬ人となりましたが、法典編纂委員会は審議を続け、農奴解放令草案作成にこぎつけます。この農奴解放令草案アレクサンドル2世の弟コンスタンチン大公が議長に加わった総委員会で40回に渡る討議をへて、アレクサンドル2世自身が議長を務める国家評議会へまわされました。
総委員会でも国家評議会も大多数が農奴解放に反対でしたが、アレクサンドル2世とコンスタンチン大公が、ツァーリと皇族の力で反対を押し切り、国家評議会もOKを出し、とうとう農奴解放令が成立したのです。
1860年、この改革案は2月19日(アレクサンドル2世の戴冠式の日です)ツァーリの裁可を受け、元老院で読み上げられ、公布されました。
〜 3. 農奴解放例ーその内容 〜
さて、苦心の末成立した農奴解放令の内容は以下のようなものです。
まず、準備期間に2年間の年月を設けます。2年後農奴は人格的に無償で解放されるが、土地の所有権は領主に属します。その準備期間の2年間を使って各土地の事情を考慮した土地証書を作成し、全ての農奴(крепостное
люди)にその土地証書で確定された「分与地」が与えられます。ただし、黒土地帯および黒土外地帯では、従来の所有地の1/3は地主が自分に留保でき、草原地帯では従来の所有地の1/2を自分に留保できます。
「分与地」はあくまで所有権は領主にありますが、農奴には用益権が与えられ、さらにこの分与地は、領主に定められた償却額を現金で払えば自分の土地にすることができます。償却は領主の意思か、領主と農奴の合意によって開始することができ、償却費は、分与地の地代がその6%分と設定するもので、例えば地代が6ルーブルだとしますと、6ルーブルが償却費の6%分です、つまり償却費は100ルーブルということになります。
準備期間に2年間のが経過した時点で、農奴は一時的義務負担農民(Временное-обязанные крестьяне)となります。償却費はとても一度に払えるものではないので、一時的義務負担農民に代って政府が80%または75%の費用を信用証書で代納し、政府が土地を農民に土地を貸し付ける形で農民が政府に返済します。
さっきの例をとれば100ルーブル中80%、つまり80ルーブルを政府が負担するとすると、そのうちの6%、ここでは80ルーブル×0.06=4ルーブル80コペイカ、を49年間(この数字の根拠はたぶん聖書の規定です)割賦で返済します。つまり、利子は(4ルーブル80コペイカ×49年間=235ルーブル20コペイカ)ー(80ルーブル)=155ルーブル20コペイカとなります。領主に支払う20ルーブルを加えると、175ルーブル20コペイカとなり、支払い総額はもとの土地代の29.2倍となります。
この償却を行なうと、はれて農民(крестьяне-собственники)となります。が、もちろん単純な比較はできませんが、仮に2000万円の土地を所有しようとした場合、この土地を手に入れるためには最終的に5億8400万円を支払わねばならない計算となり、これでは償却に二の足を踏むのもいたし方ありません。
さらに分与地策定は以前の土地区分よりも領主の取り分が多くなるよう設定され、平均して農民は以前の耕作地の2/5しか手に入りませんでした。さらに、家内農奴は身分的には解放されても、もともと耕作地をもっていませんから、路頭に放り出されたことになります。さらに分与地の位置も領主が決定できる、など領主側に極めて有利になっていました。政府はこの農地解放を国有地(国が所有)、御料地(皇族が所有)にも適用します。
やはりこの内容は農民達にはまったく満足できる内容ではなく、1861-1863年で、農奴解放令が発布された大部分の県で総計2000件の暴動が起こり、鎮圧に軍隊が出動する騒ぎとなり、ロシアに「土地と自由」なる革命的組織も誕生することになりました。
ただし、農奴解放後、ロシアに産業革命といってもよい事態が発生します。この時期の蔵相ロイテルンは、私企業の育成に力をいれ、1969年から1973年までに281の私企業が生まれ、1866年から1890年にかけて労働者数は3倍、工業生産量は5倍となり、成長を見越した外国からの資金が流れ込み、50年代には1000万ルーブルだった投資額が70年代には10倍となります。アレクサンドル2世の時代、ロシアの工業化が、いよいよその緒についたのでした。
〜 4. 革命運動進展ーロシア国内初の革命組織 〜
先ほどチラッと書きましたが、「土地と自由」の誕生のきっかけとなったのは、ニコライ・セルノ=ソロヴィエーヴィチという人物の行動です。セルノ=ソロヴィエーヴィチは1834年、サンクトペテルブルクの官吏の子として生まれました。官僚となった彼は、官界に入り、改革をこころざしたようですが、官界遊泳術に失敗したのか、それともロシア国内初の社会主義革命結社を作るくらいですから、血の気が多くそりが合わなかったのか、ともかく1848年辞職し、ヨーロッパに経済学の勉強に訪れます。
そこで、1860年、彼はゲルツェンのもとを尋ねました。セルノ=ソロヴィエーヴィチの、農村共同体(ミール)を基礎にして、国家の経済援助でロシア独特の体制を作るという彼の案にゲルツェンとオガリョフは賛成し、ロシアの中に革命組織をつくる相談を始めます。これがロシア初の社会主義的革命組織、「土地と自由」の誕生となりました。
オガリョフが綱領を執筆し、イタリアのアナーキストのマッチニの組織論を応用し、細胞の5人以外はお互いを知らないという組織をつくり、まだ組織が弱いことから、綱領は国民会議の開催を訴えるにとどめます。1862年からセルノ=ソロヴィエーヴィチはネフスキー通りに貸し本屋を開き、ここを運動の拠点とし、組織を広げようとします。しかし、この計画は警察の感知するところとなり、1962年7月、連絡員が逮捕され、32人が検挙されて、セルノ=ソロヴィエーヴィチはシベリアへ12年間の懲役となり、組織は壊滅しました。
さらに、ここでピョートル・ザイチュネーフスキーなる人物も誕生します。モスクワ大学の数学科に在籍中、革命運動に目覚めた彼は、ゲルツェンの教えを受け、私設日曜学校での文盲廃止運動に携わり、そこで社会主義宣伝を行ないます。しかし、警察長官ドルゴルーコフにより、これは禁止されたため、ザイチュエネーフスキーは農村に活動の場を移しました。
宣伝活動をやめない彼にたいし、当局は彼を逮捕し、ザイチュネーフスキーは収監されます。しかし、モスクワの牢獄はルーズであり、彼が獄中で書き上げたパンフレットを外部に持ち出すことを防げず、こうして彼の「わかいロシア」なるパンフレットが広まることになりました。
この、「わかいロシア」は、後のレーニン及び共産党に徹底的な影響を与えたロシア・ジャコバン主義の思想の萌芽でした。ツァーリの専制は諸州の共和的連合に取って代わられねばならず、国民会議と州会議の手に全ての権力が属さねばならない、と彼は説きます。
ー「政府の先頭にたつ革命党は、革命が成功したあかつきは、現在の政治的中央集権制を確保せねばならぬ。それによって、経済的、社会的生活の基礎をできるだけすみやかにつくるためにである。独裁権力を保持して何者にもたじろいではならぬ。総選挙も政府の影響下に行なって現体制の護持者を入れてはならぬ。」ー
彼は逮捕と流刑を繰り返す一生を送りましたが、この彼の思想は、後にトカチョフによって理論化され、ボリシェヴィキズムに極めて大きな影響を与えます。なにごともそうかもしれませんが、思想とは、ある特定の個人から突然ドカンと生み出されるものでなく、人から人へ伝播し、影響を与え、最後にいろんな人の考えを少しずつまぜた上で、纏め上げ、大成し、大思想を生み出す人が出てくるのです。人は人に影響を受ける生き物です。確かに当局が思想統制をしたがるのもわかる気がします、放って置けば、どんどんある思想に影響を受ける(染まる)人たちが出てきますから。
〜 5. 軍制改革ーロシア軍近代化へ 〜
1861年、ドミートリー・ミリューチンが軍事大臣に任命され、軍政の近代化に着手します。1836年に陸軍大学校を卒業した彼は、近衛士官になり、トルコとの間に結んだアドリアノーポリ条約によって、ロシアがフリーハンドを得たカフカースで、ダゲスタン、チェチェン、アディゲと戦います。その後クリミア戦争に参加し、この戦争中に陸軍省に勤務します。そして、1856年、軍制改革に関する提言を行なっていましたが、それが受け入れられたのでしょうか。
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ドミートリー・アレクセーエヴィチ・ミリューチン
Милютин, Домитрий Алексеевич
1816-1912
近代ロシア軍の父
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まずは1961年、25年だった兵役を16年に短縮します。さらに1964年、軍事大臣の下に総合参謀本部と七つの軍事最高機関(行政部、砲兵部、工兵部、軍医部、非正規軍部、軍学校部、軍事裁判部)をおき、これらの部門の長により軍事評議会を構成し、軍事大臣がその議長となりました。さらに1869年、教育部門も整備し、初等兵学校、中等兵学校(ギムナージア)、士官学校というコースを設置し、ここを終了したものにはニコラエフスキー軍事大学校(アカデミー)への入学資格を与えました。
軍事大国プロイセン、ロシア的にはアレクサンドル=ネフスキーの時代からの宿敵チュートン騎士団発祥の地であり、彼らの子孫の住まう地のプロイセンですが、この当時鉄血宰相ビスマルクに率いられ、旭日の勢いで勢力を伸ばし始めていました。1866年のケーニヒグレーツの戦いでオーストリアを破ってドイツの覇権を手に入れ、1870年の晋仏戦争でフランスを破ってドイツ統一成し遂げたプロイセンの前に、ミリューチンは軍事改革を加速します。
1970年、アレクサンドル2世に軍再編成案を提出し、承認を得ます。これをてこに軍事法案が可決され、1974年、国民皆兵制が敷かれます。これにより、全身分から20歳以上の男子が陸軍では兵役6年予備役9年、海軍では兵役7年予備役3年勤め上げ、こののちは義勇兵(予備兵)として40歳まで登録される、ということとなりました。こうして19世紀末までには、ロシアは300万の予備役を誇るようになります。
さらに、兵器の近代化も図られ、ライフル、速射銃、蒸気軍船などを自国で製造するばかりか、近代兵器の輸入も始めます。また、軍事改革は兵役該当者の数を把握する、または軍需物資の量を把握する上での統計の精密化を必要とし、統計が発達します。この統計において、多数の数字を処理する必要が、計算機(コンピューター)の発達をうながすのですが、それはまた後のお話です。
〜 6. 少数民族蜂起ー革命運動の余波 〜
さて、フランス七月革命、ドイツ三月革命と世界的に革命の風潮が高まる中、ポーランドにも革命の波はおよび、1830年のワルシャワでの蜂起につながったわけですが、この波は収まったわけではなく、しばしばデモ行進という形で表面化していました。
そのようなか、ポーランドに政治結社が誕生します。一つは貴族や有産階級を中心とした白党、もう一つは零細シュタフラ、急進的知識人、若者が中心で急進的な赤党です。赤党には、1862年、非合法ながらはじめてベラルーシ語による新聞『農民の真実』などを発行したカストゥシ・カリノフスキーらがおり、ワルシャワで「中央国民委員会」を結成し、ロシア本国の「土地と自由」と連携をとり、ひそかに活動を開始していました。
ロシア政府はこのような状況にかんがみ、1863年、過激な若者をポーランドから隔離するため徴兵令を実行しようとしましたが、これに対し中央国民委員会が1月22日、臨時国民政府と称して蜂起を宣言、農民に土地を分与し、地主にはその分を補償するという農民解放令を発布しました。「われわれとあなた方の自由のために」をスローガンとしたポーランド・リトアニア反乱の始まりでした。
冷静に考えると中央国民委員会がきちんと補償費を出せるのか疑問でしたが、この蜂起はポーランド全土やリトアニア、ベラルーシにまで拡大し、白党も合流したロシア軍襲撃などのパルチザン活動が続けられました。
ロシア政府は鎮圧に軍隊を派遣する一方、やむなくポーランドにも農民解放令を発布、その内容は、現在の農民に耕作地の所有権を認め、土地なし農民には土地を分与し、農村の自治を認めるという中央国民委員会の上を行く好条件であったため、蜂起は鎮圧に向かい、1864年には終息しました。ヴィルニュス(リトアニア)県総督としてこの反乱の残党を摘発したのがあのムラヴィヨフ=アムールスキで、カリノフスキー、最後まで抵抗した反乱軍指導者ロムアルト・トラクウッドら128人を絞首刑、9400名をシベリア流刑に処して、「絞首刑執行人(Муравьёв-вешатель、首絞め役人ムラヴィヨフ)」と呼ばれたのはこのときのことです。
反乱終息後、約束通り13万人のポーランド農民には無償で土地が分与され、土地を奪われた地主に対しては、帝政ロシア政府が補償を行ないました。ただし、代償としてポーランド王国は廃止され、旧ポーランド王国領はロシア帝国の1州のブイ・ヴィスラ州に格下げされ、教育にロシア語を用いるなどの徹底したロシア化政策が進められることとなりました。
ラジウムの研究と二度のノーベル賞受賞で有名なマリー・キュリー夫人(1867-1934年)は、ちょうどこの時代に少女時代を過ごした人で、彼女の伝記には、学校でロシア語教育が強化され、ロシア皇帝の名前を暗記させられたりした、などの逸話が残っていますが、これは暴動を起こしたポーランドに敷かれたであろう厳しい監視と、1866年4月4日に起こったカきのラコーゾフ事件、もとカザン大学の学生で、「土地と自由」の残党からなる「オルガニザーツィア」に属するドミートリー・カラコーゾフという人物がペテルブルクの夏の宮殿を散歩していたアレクサンドル2世に対し発砲した事件により、アレクサンドル2世が反動化した事情が影を落としているのでしょう。
本当に余談ですが、『海底2万マイル』の潜水艦ノーチラス号のネモ船長ですが、作者のベルヌの設定では、彼の正体はこのときの蜂起に参加し、その鎮圧で家族を惨殺されたポーランド貴族(マグナートかシュタフラかはわかりませんが。)、という設定になっておりました。しかし、当時は露仏同盟があり、同盟国の心証を害すのはまずいだろうという編集者の勧告でこの設定は破棄されて長く彼の正体は謎のままとなり、最終的に『神秘の島』でネモ船長の素性が明かされる(ちなみにポーランド人ではなくなっております)ということになりました。
少数民族蜂起はポーランドだけでなく、ザカフカースでも起こりました。カフカース初の統一国家であったアブハジア王国は、1810年のロシア帝国併合後も自治権をもち、アブハジア王を推戴しておりましたが、1864年、アブハジアのルフヌ村で反ロシア帝国暴動を起こし、ロシア人のコニャール将軍を殺害したのです。反乱はロシア正規軍により鎮圧され、自治権ははく奪、兵役参加権は奪われ、「罪ある民族」の烙印を押されます。
当時度重なる露土戦争で優位に立っていたロシア帝国はトルコと交渉し、トルコ側にアブハジア人受け入れを認めさせました。結局1864年、1876年、1878年の計三回にわたりアブハジア人人口の半分がトルコに強制移住させられました。民族ごとの強制移住はなにもスターリンのお家芸であったわけではなく、帝政ロシア時代からあった話だったのです。
〜 7. 中央アジア侵攻(1)ー西トルキスタン制覇 〜
チンギス・ハーンの時代を絶頂としてユーラシア大陸に覇を唱えた遊牧民族ですが、清がジュンガル部を制圧して内モンゴルばかりは外モンゴルまで支配下に納めた今、遊牧民族に最後に残された地が中央アジアでした。しかし、交易のみでなく、掠奪をもその生業とし、ロシア人植民地へ掠奪行くに向かう遊牧民族を、治安維持上から、ロシア帝国は放置しておくわけには行きません。アレクサンドル2世は、中央アジア制覇事業に乗り出します。
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中央アジアで戦った三将
(左)ミハイル・グリゴリーエヴィチ・チェルニャーエフ
Черняев, Михаил Григорьевич
1828-1898
(中)コンスタンチン・ペトローヴィチ・カウフマン
Кауфман, Константин Петрович
1818-1882
(右)ミハイル・ドミートリエヴィチ・スコベレフ
Скобелев, Михаил Дмитриевич
1843-1882
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さて、前に述べたごとく、ヒヴァ汗国の攻略に失敗したロシア帝国は攻撃の矛先をコーカンド汗国に向け、ペロフスキーがコーカンド汗国のアク=マジスト(ペロフスク)を占領し、コーカンド汗国内部にその前進基地を作り始めておりました。
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19世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
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コーカンド汗国側も黙っていたわけではなく、1860年セミレッチェンスク州に侵入、2万の兵を持ってヴェールノイエ要塞の前哨ウズン=アガッチを包囲します。ヴェールノイエからはカルパコフスキー中佐(のちにセミレッチェンスク州軍総督になります。)が大砲六門を所持する800名からの部隊を率いて出撃、コーカンド軍を圧してウズン=アガッチから撤退させました。
しかし、インドに隣接する中央アジアに手を伸ばすのは、インド植民地を支配するイギリスを刺激するとして、外務大臣ゴルチャコフはロシアの中央アジア侵入には反対との立場をとっていました。しかし、軍事大臣ミュリーチンはイギリスを恐れず中央アジアを支配するべきだと主張し、この案が通過して、結局ロシア軍は進撃を開始し、オレンブルク総督の陸軍大佐チェルニャーエフ(のち少将に昇格)、ヴェリョーフキン、カルパコフスキーらを中心とする部隊は、1864年、中央アジアの玄関口、トルキスタンを10門大砲と950人の歩兵の突撃で占領することに成功しました。
ロシアはオレンブルク総督区にトルキスタン州をおき、12門の大砲と2千人からなるチェルニャーエフらの部隊はさらに進んで1865年6月15日、50門の大砲と3万人の防衛軍のこもる中央アジアの中心都市コーカンド汗国のタシケントを占領します。西トルキスタンの遊牧民もこのロシアの重圧をひしひしと感じ始めていました。しかし、1866年2月、チェルニャーエフはサマルカンド付近の要衝ジザクを攻撃しますが、ボハラ汗国の騎兵隊の前に破れ、シルダリア川右岸に撤退します。
勝利に気を良くしたのか、この地のエミールたちは同盟軍を編成することになります。ロシアに攻め込まれ、弱体化したコーカンド汗国にボハラ汗国のムザッファール=エッディンが攻め込んで降伏させ、コーカンド汗国のフダヤール=ハーンはボハラの宗主権を認めました。ついでヒヴァ・ボハラ・コーカンド汗国のうち、チムールの家系の出であり、熱烈なイスラム教徒である最も強大なボハラのムザッファール=エッディンが指揮官に選ばれました。異教徒に対するジハードを説いた彼らは連合し、5千の歩兵と3万5千の騎兵、2門の大砲を集めるとオレンブルクに向けて進撃しました。
チェルニャーエフは歩兵14中隊、コサック騎兵6集団、大砲16門を率い反撃に出ようとしました。しかし、先の敗戦の責任を取らされ、タシケント攻略の褒章としてダイヤでかざられた黄金の剣をアレクサンドル2世から下賜されたのち、司令官を解任、本国召還となり、代ってロマノフスキーが着任します。ロマノフスキーは大砲を増強して遠征軍を強化してオレンブルクを出発、1866年、ジザクとホジェントの間でムザッファール=エッデインらの軍と激突しました。しかし、ハーンの軍勢はロシア軍の敵ではなく、エッディンらの軍は敗れ去り、そのまま進撃したロシア軍はホジェントを占領しました。さらに反攻してきた4万といわれるボハラ汗国の大軍を撃破し、シル・ダリア川流域をほぼ占拠しました。
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コンスタンチン・ペトローヴィッチ・カウフマン
Кауфман, Константин Петрович
1818-1882
初代トルキスタン総督
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さらに1868年、オレンブルク総督区に属していたトルキスタン州をトルキスタン総督区に昇格させ、カウフマンが初代総督に任命されます。
彼は中央アジアを征服し、キリスト教化して文明化させるのがロシアの使命と考えている人物でした。たしかにこのような気候の悪いところで、このような剽悍な部族(その特徴的な犬歯がブラム・ストーカー作「ドラキュラ」に影響を与えたといわれるハンガリーの言語学者アルミニウス・ヴァンペリらの報告によると、ヒヴァにイスラム托鉢僧として潜入したとき、彼らは略奪遠征から帰った後、もちかえった人間の首でピラミッドを作っていたそうです。)相手に戦い、しかもヨーロッパ戦線でないためそれほど目立ちそうでもなく、従ってあまり出世のためにならなそうな戦いを忠実に遂行するためには、そんな使命感のようなものでももたないとやってられなかったのでしょう。が、カウフマンは狂信的な様子はまったく見られず、汗国がわに終始協定をもちこんでなるべく穏便に事を収めようとした平衡感覚を持ち合わせている人物でした。
軍人でありながらカウフマンは文化事業にも力を注ぎ、1867年にはタシュケントにトルキスタン公共図書館を建て、1870年には『トルキスタン通報』なる新聞も発行し、ウズベク語で書かれた新聞『トルキスタン住民新聞』をも発行し、文化向上に努めました。現在タシュケントが中央アジア随一の都市であるのはこのカウフマンの事業によるものです。
1868年、カウフマンは中央アジアの精神上の首都、サマルカンド攻略計画を立案し、3600人の兵を率いて出発しました。部隊は砂漠を越えて進軍、ボハラ・ヒヴァの4万ともいわれる軍勢はザラフシャン川でカウフマンの軍を待ちうけ、5月1日ロシア軍が渡河した時点で戦いの火蓋が切って落されますが、ボハラ・ヒヴァ側はロシア砲兵部隊の前に瞬時に壊滅してしまいます。
そしてサマルカンドに到達、住民は戦わず無血開城しました。しかしこれは罠で、カウフマンが同盟軍が南部で軍勢を終結中との報をきき、わずかな残留部隊を残して本隊がサマルカンドを出撃した際に、居残り部隊がだまし討ちに会い全滅します。悲報を聞いたカウフマン率いる本隊がとってかえし、このだまし討ちに対し報復を行ないました。しかし、このような行為を行なったボハラ汗国のムザッファール・エッディンに対しては寛大にエミールの地位にとどめ、賠償金を受け取り汗国の西側部分(アムダリア川右岸の領土)を割譲させ、ロシア人にのみアムダリア川航行権と無関税商業権認めさせ、ボハラ汗国に対するロシアの宗主権を要求したのみにとどめます。おそらくカウフマンは、エッディンらを廃し、ボハラを仕切れる人物を消滅させた挙句の統治不可能な無政府状態を恐れたのでしょう。かくしてまずボハラ汗国がロシアの軍門に下りました。
1868年、カウフマンは、コーカンド・ボハラ汗国両国に平和裏な協定、国境の現状維持、ロシア商人の通商上の平等待遇、コーカンド・ボハラ汗国からロシア側への戦費12万5千テイラーの支払いなどの温和な条件を提案し、コーカンド汗国のムザッファール・エッディンはこの条件を飲みますが、サマルカンドのイスラム指導者たちはこの態度を軟弱だとしてうけいれず、ボハラ汗国でエッディンの息子カティ・トゥラを新たにアミールに立てて反乱を起こします。ロシア側はムザッファール・エッディンのもとに捕虜となったカティ・トゥラを送りつけます。彼は簒奪者として息子の首をはね、城門につるしたということです。
カウフマンは1873年、最後に残ったヒヴァ汗国を攻撃すべく、ロシア軍は四手に別れてヒヴァに進撃します。カスピ海の北方面軍ロマーキン大佐率いるキンダリー部隊(コーカサス隊)、アラル海の西から南下するベレフキン大佐率いるオレンブルク軍、アラル海東から南下するニコライ大公率いる部隊、最後にタシケントから西へ向かう総勢2千人、ラクダ4千頭からなるカウフマンの本隊です。
これとは別にカスピ海の南方面からマルコゾフ大佐率いるチキシャルヤー隊が1872年冬、カラ・クム砂漠を横断して迫ります。しかしこのマルコゾフ率いる隊はカラ・クム砂漠のイグディでトルクメンの強襲に会い、ラクダ千頭を失ったところで消息を絶ち、とうとうヒヴァに姿を見せませんでした。ちなみにこの軍事行動は、インド周辺域へのロシア勢力の浸透を警戒したイギリスの目を欺くために隠密行動・ジャーナリストの参加は禁止でしたが、アメリカのニューヨーク・ヘラルド紙特派員、ジャヌアリウス・アロイシウス・マックガーハンが、すでに進発したロシア軍に追いつくことに成功してなんとか第三者の記録が残っております。
マックガーハンは、ヒヴァ汗国滅亡と中央アジアにおけるロシア勢浸透というスクープを得ようと、ロシア軍の正式な取材許可を得ないまま現地で知った情報のみを頼りにカウフマンの軍隊を追ってなんと単身キジル・クム砂漠を横断、ヒヴァまで指呼の間のアム・ダリア川のシェリク・アリクでグロバトチョフ将軍率いるカウフマン隊の支隊のロシア軍とヒヴァ軍が交戦中にロシア軍に追いついたのです。
マックガーハンが巻き添えを食らわぬよう必死で戦場にたどり着いたとき、ロシア軍とヒヴァ軍は1.3kmのアム・ダリア川を挟んで戦闘中でした。川の向こうにはヒヴァの騎兵隊が散開し、川べりに建った小さな城砦に据えられた2門の大砲がロシア側に向かって砲撃を加えており、一方ロシア側も川から800m離れたところに待機し、2門の6ポンド砲が榴弾を浴びせていました。ヒヴァ側の砲弾は炸裂しない旧式の砲弾なのでほとんど砲撃の効果が上がらず、30分後、ロシア側がヒヴァの大砲の破壊に成功し、さらにロシア側の榴弾がヒヴァ兵の真ん中で炸裂し、混乱が起こってヒヴァ兵は算を乱して逃走、シェリク・アリクの戦闘は終了したとのことです。
翌朝、マックガーハンはカウフマンの陣営を訪れました。カウフマン将軍はテントの前に座り、タバコをふかし、お茶を飲んでいました。年は45から50に見え、碧眼でひげを生やし、穏やかな風貌で、ロシア人としては小柄、ドイツ系のように見えたといいます。カウフマンはマックガーハンを見ると親しげに握手を交わし、「あなたは勇敢な人ですね」といい、これまでの戦闘経過を説明すると、「ヒヴァへの戦闘にはどうぞ参加されてかまいません」と答えました。これでやっとこさマックガーハンはヒヴァ遠征の従軍許可を得たことになりました。
カウフマンは飲料水の確保に苦労しながらもキジル・クム砂漠を横断、5月30日にはアム・ダリア川を渡河しました。カウフマンは行軍にあたって非戦闘員への暴力行為を厳禁し、軍規の正しさにマックガーハンは感激したとのことです。しかし、そこはやはり軍隊のこと、結局ヒヴァ制圧後、隊商略奪や奴隷貿易でロシアに散々被害を与えてきたトルクメンのヨムート族をゴロヴァチョフの部隊が虐殺する事件も発生しました。
カウフマンの本隊より一足先にオレンブルク隊とキンダリー部隊がヒヴァに到着し、ヒヴァの城壁に攻撃をかけていましたが、6月9日、カウフマン本隊も到着して総攻撃をかけます。ヒヴァの汗、セイド・ムハンマド・ラヒム・ハーンはイギリスのノースブルク卿に使節を送って救援を求めていましたが、イギリスはこれを無視、もはやこれまでとカウフマンに恭順の意を示す手紙を送ってヒヴァから逃走、ロシア軍はヒヴァに入城しますが、住民と、トルクメニスタンからヒヴァ汗国に移住してヒヴァの汗に臣従し、親衛隊などのヒヴァ軍の中核となっていたトルクメンのヨムート族は夜になっても抵抗をやめず、スコベレフ大佐とショウロバフ伯爵が街路の敵を掃討し、ようやく汗の宮殿への道が開かれました。
ロシア軍による、ヒヴァの組織的抵抗終了後のヨムート族虐殺はこのとき起こりました。カスピ海の南方面からヒヴァに入ったマルコゾフ大佐率いるロシア軍の一隊の全滅はおそらくヨムート族によるものですし、ヒヴァの汗はすでにロシアに恭順の意を示しているのに主君の命を無視して戦いを続行する彼らに対してこの野郎、的な気持ちも働いたのでしょうか…。なんにしても悲惨な戦場の話です。
6月14日、セイド・ムハンマド・ラヒム・ハーンが逃亡先から戻り、カウフマンのテント前でカウフマンと会見します。しかしカウフマンはハーンを処刑せず、1879年8月12日、ガンデミアン庭園で平和条約を結び、汗国の西部を割譲させ、ヒヴァ汗国はロシア帝国の藩属国となり、20年間にわたり220万ルーブルの賠償金を支払うこととされました。こうしてヒヴァ汗国もロシアの支配下に入ったのです。
フドヤール・ハーンの治下のコーカンド汗国は政情不安でしばしば叛乱が起こる国でしたが、1871年コーカンドで暴動が発生してこれを何とか鎮圧、1873年も叛乱が起こり、ロシア軍に助けを求めますが、イギリスを気にするロシア本国政府が内政干渉の禁止指令を出したため現地のロシア軍部隊は手が出せませんでしたが、これも何とか鎮圧。しかし、1875年夏、フドヤール・ハーンの直接の増税がきっかけとなり、イスハク・ハサン・オグルィというイスラム聖職者が中心となって大規模な叛乱が勃発しました。
フドヤールはロシア軍の助けを借りてタシケントへ逃げ、フドヤールの長男ナスレディン・ベクがハーンとなりますが叛乱の火の手は燃え広がり、5万人からなる反乱軍はカウフマン指揮下の歩兵16個中隊とコサック900人の部隊に先頭を挑むも敗退、7万人の反乱軍がアンジジャン付近に集結しますが、スコベレフにより鎮圧されました。イスハク・ハサン・オグルィはプラト・ハーンの名でハーンとなり、ウチ・クルガン要塞に立てこもりますがスコベレフはこれを攻略、プラト・ハーンを処刑し、1876年コーカンド汗国領はフェルガーナ州とされ、コーカンド汗国は滅亡します。
こうして19世紀末、中央アジアはロシア帝国の支配下に入り、東トルキスタン・モンゴリアは清が支配し、最後に残ったアフガニスタンも、イギリスとロシアにより事実上の緩衝国として鎖国を強いられます。チンギス・ハーンを登場をその絶頂とし、鬼神のような精強さを誇った独立勢力としてのモンゴル系遊牧民族勢力は、ユーラシア大陸から完全に消滅させられてしまったのです。
西トルキスタンには、もはやカスピ海とアラル海の間の地域を支配下におく最も剽悍な部族、トルクメンの勢力を残すのみとなり、ピョートル大帝の野心、中央アジアからの直接のインド交易が現実味を帯びてきました。
〜 8. 中央アジア侵攻(2)ー東トルキスタン事情 〜
さて、東トルキスタンですが、この地域には清朝の手が伸び、乾隆帝の時代新疆省をおいて支配していました。
ロシアが西トルキスタンを支配下においたことはインドを植民地支配するイギリスを刺激することになりました。ロシアの進出に対抗してイギリスは東トルキスタンに触手をのばし、これに負けじとロシアも勢力を浸透させようとします。
さて、この新疆省ですが、清朝に併合されたとはいえ、イスラム教徒の住民が多く、しばしば反乱を起こしていましたが、1864年、清朝に支配されたカシュガルの旧君主のホージャ(もとはサマン朝ペルシャの官職名で、のちに転じて敬称となりました。)が反乱を起こし、カシュガルとヤルカンドを占領します。
このホージャの参謀だったのがヤクブ=ベクです。かれはコーカンドの出身で、もとは舞踊で身を立てていましたが、後に兵士となり、中央アジアの混乱に乗じて頭角をあらわしたのです。目的を達したホージャが次の目標を失い、たちまち堕落した生活を送るようになると、彼はホージャから権力を奪い、さらにホータン、ウルムチなどを支配下に治め、東トルキスタン全土を統一します。
彼に目をつけたのがイギリスです。ロシアの南下政策に神経を尖らせていたイギリスは、ヤクブ=ベクを傀儡政権とし、ロシアのインド進出に対する障壁となそうと考え、さらには同じイスラム教国ということでトルコと連携させ、反ロシアイスラム網を形成しようと企てていたのです。
ヤクブ=ベクはもちろん西欧列強の支持がなければ自分の勢力も一時的なものに過ぎないことを自覚していましたので、インドのイギリス政庁に使者を派遣し、この使者はインド総督とも会見が許されました。そして非公式にインド総督がヤクブ=ベクに使者を派遣することになり、ダグラス=フォーサイスがヤクブ=ベクの東トルキスタンと通商関係の開始と促進につとめるーこれは当時の感覚では国として認め、国交を結ぶのに等しいことですーという任務を帯びてヤルカンドに向かいます。
使者は無事ヤルカンドへ到着しましたが、ヤクブ=ベクはウルムチに遠征していましたので、そのままカルカッタへ戻ります。1873年にはヤクブ=ベクは彼の甥のサイード=ヤクブ=ハーン=トーラを派遣し、今度もインド政庁で厚遇され、イスタンブールへ渡る便宜を与えられました。
イスタンブールではスルタンと謁見し、スルタンはヤクブ=ベクにイスラム最高の軍職アミール・ウル・ムーミーの位を与え、200挺の小銃、3門の大砲、三人のトルコ将校を指導教官としてヤクブ=ベクへ送ります。
使節一行はインドへ戻り、フォーサイスを団長とする使節団もともにヤクブ=ベクのもとへ赴くことになり、合流した一行はカラコルム山脈を越え、カシュガルへ到着しました。フォーサイスは1874年インドと東トルキスタンの通商協約に調印し、インド政庁と東トルキスタンは大使の交換を承認しました。
インド政庁はヤクブ=ベクに対する武器援助を強化するため東トルキスタンとの通商を行なう会社を設立し、1876年、インド政庁は先の条約を批准しました。東トルキスタンにイギリスがバックについた政権が誕生したのです。
これには今度はロシアが刺激されました。ロシア軍が出動し、ロシアから東トルキスタンへの入り口にあたるイリーを占領しました。ロシアはヤクブ=ベクに通商を要求してこれを受け入れさせ、さらに1876年、クロパトキン大佐(のちの日露戦争時の陸軍大臣で、満州で日本陸軍と激突した人物です)が、ヤクブ=ベクの拠点カシュガルの西方にロシア軍を駐屯させることを主張し、これも受け入れさせていました。
こうして黄信号がともり始めたヤクブ=ベクですが、さらに清朝が左宗棠に命じて討伐軍を派遣し、その軍勢が東トルキスタンへ迫っていたのです。食料はロシアが調達し、ロシアへの支払いは支払いは清がイギリスの借款で行なうという、ヤクブ=ベクを見限り始めたイギリスの二股外交によるものでした。
この非常事態を前にヤクブ=ベクはサイード=ヤクブ=ハーン=トーラをイギリスに派遣し、フォーサイスもイギリスへ召還され、新疆問題について会議がもたれましたが、会議が長引くうちに清朝の軍がヤクブ=ベクの軍を破り、ヤクブ=ベクは毒を仰いでその一生を終わりました。
ヤクブ=ベクの死後、ロシアとイギリスは清朝を無視してお互いカシュガルに総領事を置き、水面下での両国の争いは続行されます。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を宣言し、イギリスはインドを死守する構えを見せます。
1880年にアレクサンドル2世の即位25周年記念式典が行なわれ、そのとき中央アジアを舞台にした活人画が披露されましたが、その活人画の音楽を作曲したのが、『イーゴリ公遠征物語』で名高いロシアの作曲家で本業は化学者のボロディン(バローディン)です。その音楽が交響詩「中央アジアの砂漠にて」であり、この音楽にはこれまで見たような帝政ロシアのユーラシア大陸内陸部の完全制覇の事情があった訳です。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『物語 北欧の歴史』
武田龍夫
著
中央公論社
・『中央アジア史』
江上波夫
編
山川出版社
・『本多勝一集 第30巻 ソビエト最後の日々』
本多勝一
著
朝日新聞社
・『歴史の狭間のベラルーシ』
服部
倫卓 著
東洋書店
・『世界の歴史5 西域とイスラム』
岩村 忍
著
中公文庫
・『よみがえるロマノフ家』
土肥恒之
著
講談社
・『アフガニスタン 戦乱の現代史』
渡辺光一
著
岩波新書
・『アジヤロシヤ民族誌』
沼田一郎
訳編
彰考書院版
・『動乱の中央アジア探検』
金子民雄著
朝日文庫
・『中央アジア歴史群像』
加藤九祚著
岩波新書
・『世界の歴史21 帝国主義の開幕』
中山治一
著
河出書房新社
・『世界の歴史 22 ロシアの革命』
松田道雄
著
河出書房新社
・『世界の歴史13 帝国主義の時代』
中山治一
著
中公文庫
・『ロシア史 2』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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