ロマノフ王朝(12)
〜〜帝政ロシア工業化とロシア式帝国主義の時代〜〜

アレクサンドル3世 / Александр III
1845 - 1894年 ロシアの工業化促進とシベリア鉄道の着工を行なう。
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| この時代、ヨーロッパには世界を巻き込んだ帝国主義が咲き誇っていた時代でした。ロシア帝国も遅ればせながら、この帝国主義に参加することになります。 しかし、帝国主義とは、工業化を達成して国内に余剰資本ため込んだ先進資本主義国が、そのはけ口を、工業化の終わっていないヨーロッパ外の地域に求め、 工業化の頭金として余剰資本を貸付け、その担保として鉄道敷設権、鉱山採掘権、港湾建設・使用権、甚だしきは租税徴収権を得るという、資本輸出の面が伴い ます。そして万一債務国の負債が膨らみ、返済不可能になると、担保を没収して自国の権益を他国に拡大し、他国における自国の特殊権益・あるいは自国民の商 業活動の保全を図るための軍隊の派遣、ひどい場合には他国の政府を倒して、自国の投下資本・権益を完全に保全するという植民地化にまで進行します。実際ト ルコなどはすでにフランスからの借金漬けで、フランスの意向に逆らえない状態となっていました。バンスで縛っていいようにあやつるということが、国家規模 で堂々と行われていた恐ろしい時代でした。 ところがロシアの場合は、余剰資本どころか、みずからの工業化さえ達成できておらず、工業化に必要なインフラ整備(工場稼動に必要な燃料生産設備をバ クーに整備、ドイツからの工作機械買い付け、工業製品の輸出、原料、燃料の輸入に必要なシベリア鉄道を始めとする鉄道敷設)を殆ど外債、主にはフランスの 借款に頼っている段階でした。つまり、立場的には海外資金調達により工業化を成し遂げようとしていたアメリカ、エジプト、オスマントルコ、ペルシャ、清と 全く同じです。 その結果、先走りますと、ニコライ2世の治世の末期には、ロシアの鉱山の90%、化学工業の50%、機械工場の40%以上、銀行の株の42%が外国資本 の所有となりました。少なくとも金融・工業に関しては、これを半植民地状態というのではないでしょうか。現在(2006年)のプーチン政権の今でも、ロシ ア経済活性化ということで、さかんな外資誘致が行なわれていますが、ロシアの経済活性化のいつもの手段が外資誘致とは言え、大丈夫なのでしょうか…。かて て加えて、ロシア帝国はこの状態で海外に自国の権益を設定、あるいはロシア帝国領への直接併合を画策していたのです。 無理はたたるといいますが、いわば、この片肺帝国主義の推進によって、一体どういうことが起こるのか、これから詳しく見ていこうと思います。 〜 1. アレクサンドル3世の即位 〜 アレクサンドル2世が爆弾テロに倒れ、1881年アレクサンドル3世が即位しました。兄ニコライが皇帝修行の最後の仕上げのヨーロッパ旅行中に結核性髄膜炎倒れ、不帰の人となったため、次男であった彼が帝位を継いだのです。 息子の暗殺を恐れたアレクサンドル2世の計らいで、ロマノフ王朝の離宮ガッチナで厳重に警備されて育ったアレクサンドル3世ですが、歴史家のセルゲイ・ ソロヴィヨフと、当時ペテルブルク大学法学部教授でのちに宗務院総裁となったコンスタンチン・ポベドノースチェフによって教育されました。とくにウルトラ保守 のポベドノースチェフからは専制君主の絶対性を叩き込まれ、のちにポベドノースチェフはアレクサンドル3世の政治顧問となり、人事権を握ります。 |
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ソロヴィヨフの影響か、歴史学会へ出席するのと、宮廷音楽界を開くのが趣味だったアレクサンドル3世ですが、音楽会では、チェロやトロンボーンを自ら演奏する、なかなかの趣味人だったようです。また、怪力の持ち主で、怒って護衛がつけていた剣を引き抜いてへし折ったり、パーティーの会場で銀の皿を手の中で丸めたり、1888年、皇帝一家の乗る列車がボルキで横転したとき(これはただの事故です)、一家は 椅子や鉄板の下敷きになりましたが、アレクサンドル3世は自力で這い出し、さらには家族全員を救出した、などの話が伝えられております。 アレクサンドル3世は厳格な人物で、父アレクサンドル2世が秘密裏に結婚していたユリエフスカヤ公女(あのウラジーミル大公のユーリー・ドルゴルーキー の血を引くことにちなんでアレクサンドル2世が与えた肩書きで、本名はエカテリーナです)およびその子供を国外追放し、愛人を抱えていた伯父のコンスタン チンを国家評議員から解任しました。 多少説明いたしますと、このエカテリーナさんですが、先帝のアレクサンドル2世は、スモーリヌィ女学院(エカテリーナ2世の命令で、貴族の子女のために 作られました)を1865年訪問しました。ところが、このスモーリヌィ女学院で、数年前の軍事演習の際立ち寄った、ポルタヴァ近郊のドルゴルーキー家の別荘で会ったことのあるエカテリーナと再会したのです。エカテリーナは皇帝直属官房第三部長官ドルゴルーキー公爵の姪で孤児となっておりました。当時18歳となっていたエカテリーナは、56歳の皇帝を魅了し、皇帝は、孤児であったエカテリーナの後見人として女学院に出入りし、一年後二人は恋に落ちてしまいました。 こうして、「あしながおじさん皇帝」となったアレクサンドル2世ですが、もちろん彼には皇后マリアがおりましたが、1872年、アレクサンドル2世とエカテリーナの間には男の子が生まれ、結局二人の間には、3人の子宝が授けられました。アレクサンドル2世は、半ば二人の仲を公認するとでも言うように、エカテリーナを冬宮に住まわせます。そして、1880年、皇后マリアが亡くなると、40日後の追善供養の際、アレクサンドル2世とエカテリーナは密かに挙式してしまいました。 アレクサンドル3世とエカテリーナの中は、はやりなさぬ親子関係ですからうまくいかず、アレクサンドル3世が即位すると、すぐに、先帝のアレクサンドル 2世の生前の計らいに従い、エカテリーナとその子ども達をパリへ、しばらくして南フランスのニースへと送り出し、事実上の国外追放としたのです。 |
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また、兄の許嫁だったダグマール王女を、兄が死んだからといって放り出すのはまずいということで、そのまま妻にしました。しかし、ダグマール王女、後に 改名してマリア・フョードロヴナ、は、写真を見る限りでは別に特別な理由がなくてもそのままぜひ妻になってほしいような人物だと思います。ウィッテ曰く、 アレクサンドル3世は、模範的な家庭人の皇帝だったそうです。 |
この章に登場するロマノフ一族の系譜 ―┬―アレクサンドル2世 | | | ├――――――┬―アレクサンドル3世 | | | | | └―セルゲイ | | └―コンスタンチン 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
〜 2. 革命運動弾圧と愛民政策 〜 執拗としか言いようのない革命家達の陰謀により、父親を革命家に暗殺されたアレクサンドル3世は、当然ながら革命運動に対してきびしい姿勢を見せます。 皇帝暗殺に関わった「人民の意志」の主要メンバー5人、ジェリャーポフ、キバルチッチュ、ミハイロフ、ルィサーコフ、ペロフスカヤが逮捕され、公開処刑されました。1881年8月14日には内務省の警察部が警察局に格上げされ、中央の特別機関としての特務部と、ロシア全土に配置される保安部(通称オフラナ)に整備されました。保安部部長は後にウィッテと対立したプレーヴェです。皇帝暗殺という一大不祥事を前に、この機関は獅子奮迅の働きを見せます。 アレクサンドル3世ですが、憲法の制定との交換にテロの即時中止という手紙を「人民の意志」から受け取りました。皇帝は、ポベドノースツェフのアドバイスを受け、アレクサンドル2世が許可したメリコフの改革案を破棄します。そしてメリコフ内相に対して辞任を勧告しました。それに対しメリコフは以下のように答えました。 ―「陛下、私は自分の意見を述べません。私はこの悲劇の自分の責任の重さを感じており、部下の秘密情報員がもたらした情報を報告するにとどめます。すなわち、陛下に手紙を書いた執行委員会は、もう存在していません。廿名の委員のうち十七人は、逮捕、処刑、亡命しています。」― メリコフ内相が辞任したのちもメンバーの逮捕は続き、1883年には警保局のスパイに転向することで身の安全を得たデガーエフの密告により、彼を除く全執行委員会メンバーが逮捕され、幹部のいない「人民の意志」は壊滅状態に陥ります。 このデガーエフですが、もともとは士官学校での人物でして、早く退役し、工学を修めた後に「人民の意志」に入党しました。アレクサンドル2世の暗殺のと きは、例のチーズ屋の坑道堀りに参加しましたが、後に逮捕された時、秘密警察の監察官ズデイキンから、実は「人民の意志」と志は同じである、よって自分が将来内相となったときに事を起こすから私を手伝えと言われて警察のスパイに転向しました。 このデガーエフの手引きで、軍事裁判の判事ストレーリニコフに瀕死の重傷を負わせた事件の首謀者、ヴェーラ・フィグネルなどの、ロシアに残った幹部執行委員が逮捕され、「人民の意志」メンバーは次々と逮捕されていきました。確かにズデイキンは、「人民の意志」の機関紙発行に協力し、ある号などは自分が編 集長まで務めました。デガーエフは国外にでて、「人民の意志」執行委員チホミーロフを巻き込もうとしましたが、ヴェーラ・フィグネル逮捕の罪は、ズデイキン暗殺以外には償えないと言われ、帰国してズデイキンを射殺します。 こののちデガーエフはアメリカに亡命し、1897年ジョン・ホプキンズ大学で学位を取り、サウス・ダコタの大学で、アレキサンダー・ベル教授の変名で10年間勤め上げ、工学部部長までなるという数奇な一生を送りました。 キリがいいのでここで「人民の意志」党の最期についてのべますと、海外の執行委員から、「人民の意志」党の再建を任されたロパーチンなる人物が派遣されますが、そのころサンクトペテルブルクでは「若い人民の意志」なる派が形成されており、彼らは憲法制定会議の開催を主目標とし、都市労働者を中心におき、党の独裁に反対すると言うもので、 ロパーチンらと対立します。そのうち、ロパーチンが逮捕され、その際に党員名簿の破棄に失敗し、これでメンバーがほぼ全て逮捕され、「人民の意志」はロシアから消えました。 ともかく、4月29日、ポベドノースツェフが執筆した皇位継承宣言で、アレクサンドル3世は以下のような声明を発表します。 ー「…この悲しみの中に、神は命じ給う。大胆に政府の舵をとれ。聖なる摂理を信ぜよ。専制権力の力と真理を信ぜよ。専制権力の力と真理を信ぜよ。人民の幸福のために、あらゆる障害を排して専制権力を強固にすることが私の使命である。…」ー この緊迫した雰囲気は国民の間に恐慌を呼び、農奴制廃止を進めた皇帝アレクサンドル2世が暗殺されたことから、農奴制復活のうわさが流れ、それをおそれる恐怖と急激な治安維持の締め付けが異常な緊張をよび、南ロシア、エリザヴェトグラードとキエフでポグローム(ユダヤ人襲撃)が起こりました。 さらに、新たに内相に任命されたニコライ・イグナチエフらは「国家保安と社会平静の維持に関する措置」法を制定します。危険な状況にあると判断される地 方に「特別警戒事態」と「非常警戒事態」を宣言することができるようになり、その際には地方の行政責任者が特別な権限を行使し、さらに内務省と司法省の4 人のメンバーの会議で裁判なしでの1〜5年の流刑が決定できるようになりました。 テロリストの温床と見なされた大学などの高等教育機関の自治の制限、余計な教育を与えると余計なことを考えかねないとの立場から、料理人、御者、召使、などの子息の大学入学制限、女子高等学校の閉鎖、ユダヤ人の入学制限などが開始され、識字率が低下します。さらに、レフ・トルストイの作品はほとんどが出版を禁止され、レーピンの「イヴァン雷帝」の展示も禁止されます。 厳しい取締りの中、この時代のロシア国内の革命運動はほぼ壊滅状態に追い込まれます。しかし、ささいな事件で立件され、断罪されてしまった人たちも少なくなかったようです。その中で、1887年3月1日に皇帝暗殺を企てたとして、多くの大学生が逮捕された事件で、罪を自分ひとりにかぶって絞首刑になった学生アレクサンドル・イリイチ・ウリヤーノフがいました。この事件はその弟ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフにとって生涯消えない記憶となって残りました。ウラジーミルはのち、レーニンというペンネームを使用し、革命運動にその生涯を捧げることになります。 もっとも締め付けばかりではありません、革命運動を根絶できたのは臭いものに蓋をしたからではなく、革命運動の根本原因、社会不安を緩和できたからで す。内相イグナチエフは蔵相ブンゲと協力し、1881年には農奴解放による移行措置を完了させ、償却支払金を低減し人頭税を廃止、農民が土地を購入する際 に2.75%の低利子で融資を受けられるよう農民土地銀行を設置しました。こうしてなんだかんだいっても農奴解放はすすみ、降って湧いた償却支払金を有効利用できず、没落する地主貴族があらわれはじめました。チェーホフの「桜の園」はそういった没落地主貴族の話です。 皇帝と臣民間の結びつきを円滑にしようと、イグナチエフが全国会議の開催を計り、失脚してから内相はドミートリー・トルストイに代り、彼は1882年貴族銀行を設立し、土地地主向けに不動産抵当信用を再開しました。これは土地を担保に世襲貴族に担保物件額の60%までを48年8ヶ月か36年7ヶ月の割賦 払いで行なうものです。 さらに農民に対しては農民家族分割制限を行ない、労働者には、12〜15歳の就労禁止、二週間の解雇予告期間を定めた工場労働者雇用規正法を制定し、あわせてストライキに対する刑事罰ももうけられました。 このように国の上下を一応安心させる法を通過したことで、この時代は一応平穏なままに過ぎていきました。 〜 3. ロシアの革命運動ーマルクス主義の導入 〜 革命組織により、皇帝が暗殺されるという非常事態が発生したためと、アレクサンドル3世が容赦のない苛烈な人物であったため、国内の革命運動は全滅か、ちょっと行動を起こしてもすぐに鎮圧され、この時代の有効な革命運動の進展は、ロシア国外で進みました。 その方法が有効であったかどうかは於くとしても、ロシア革命史に大きな足跡を残した、農奴解放を期に成立した「土地と自由」社ですが、この社内でも、テ ロリズムに反対の立場を唱える一派がいました。その中心人物が、ロシアにマルクス主義を輸入したゲオルギー・プレハノフです。彼は1879年6月、「土地 と自由」社から離れ、その年の末に「黒い再分割」なる機関紙を発行し、新組織を立ち上げます。ちなみに、「土地と自由」社から、政治テロ専門の分派、「人民の意志」が誕生し、機関紙を発行し始めるのも同じ年の10月です。 |
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ところが、「黒い再分割」発行直後に印刷所が警察によって押さえられ、いきなり「黒い再分割」派はダメージを受けます。そこで、安全を図るため、指導層 は海外に脱出することとなり、1880年プレハーノフは出国し、フランス・イタリアを転々とします。そこで、マルクス・エンゲルスの著作に親しみ、感銘を 受けた彼は、『共産党宣言』をロシア語訳します。 しかし、そもそも工業化の進んでいないロシアに、資本主義が行き着く果てまで行き着いた場合の、封建階級からのブルジョア階級の権力奪取、さらにブル ジョア階級からのプロレタリア階級の権力奪取がおこるのでしょうか?そもそもロシアには、まだ本格的な資本家や労働者が誕生したかどうかも怪しいもので、 まだまだ国民の大半は農民です。 しかし、ちょうどこの時期はロシア政府の始めた、鉄道建設を核とする工業化事業が進行中で、ロシアにもヨーロッパ諸国に遅ればせながら資本主義化が進行 中であること。また、マルクス史観によれば、封建主義は資本主義になり、資本主義は共産主義になると説かれていました。この二つをもって、ロシアにもマル クス主義の革命理論の適用は可能である、こうプレハーノフは判断し、ナロードニキからマルクス主義者へ転向した後、『社会主義と階級闘争』なるパンフレッ トを発表し、ナロードニキのマルクス主義者への転向させるべく奮起します。 バクーニンの影響を受けたナロードニキは、国家を否定し、国家を運営するための政治そのものも否定しましたから、政治闘争は不活発で、社会を革命で変え ようとするのは誤りで、労働者階級(ヴナロード運動の失敗に懲りて、それほど農民による革命にプレハーノフは期待していませんでした。)が革命で権力を奪 取し、一時的にでもみずからが政権となり、政治で社会を変えるのが現実的である、とプレハーノフは主張しました。 さらにプレハーノフは、当時、ビスマルクの「社会主義者鎮圧法」により非合法化されていたドイツ社会民主党をモデルに1883年、「労働解放団」なる政 党をスイスで作ります。この時期のロシアには憲法がなく、国会もなく、当然、資本家・地主・ツァーリ政党すら存在しない状態でしたが、とにもかくにも政党 らしきものを作り上げます。政党ができたらつぎは綱領だということで、ドイツ社会民主党の「ゴータ綱領」をお手本に、「人民の意志」党員向けの「社会民主 主義的労働解放団綱領」をつうりあげ、さらにロシア社会民主主義者向けに「第二次綱領」を作り上げます。 1889年、第二インターナショナル創立大会にはプレハーノフらも出席し、1904年の第六回第二インターナショナルで、日露戦争のさなか日本の片山潜 と共に握手をかわして満場の拍手を浴びました。ちなみに片山潜は、のちにコミンテルン(第三インターナショナル)のモスクワ本部で活躍し、現在ロシア第二 級の墓地、クレムリンの城壁の中に、ブレジネフの下、首相をつとめたコスイギンや宇宙飛行士のガガーリンとともに眠っております。この大会の後、プレハー ノフはロンドンでエンゲルスと一週間ほど話し込み、国際マルクス主義者として認められたのです。それまでは「人民の意志」党の派手な行動が国外でクローズ アップされ、どちらかといえば「人民の意志」党の脱落組とされたプレハーノフらの汚名返上です。 以上の動きは、すべてロシア国外にいたプレハーノフらによるものですが、ここまで話が進むと、ロシア国内にも影響を受けるグループが現れます。それが、 ミハイル・ブルースネフです。ペテルブルクの工科大学の学生だったブルースネフは学生サークルに参加して、『資本論』などを読んでいましたが、プレハーノ フの名前を知り、テロ一本槍の「人民の意志」だけでなく、労働者の中に入り、彼らを動かして革命を起こそうとする考えがあるのを知り、これに共鳴します。 そして、1891年、サンクトペテルブルクのエカテリンゴーフ公園のクレストフ島に労働者を70〜80名集め、ロシア初のメーデーを決行します。さらに はシンパの作家のシェルグーノフの埋葬に100人のデモを組織し、これまたロシアでの労働者のデモの初のケースとなります。こうして自信をつけたブルース ネフは、モスクワ、キエフなどにも似たような社会民主主義の労働者サークルを作ります。 そして、プレハーノフらの印刷物を送ってもらえるように手配できたところで警察に逮捕され、組織は壊滅の憂き目に会いました。まだまだ帝政ロシアの力はこの時代、だいぶ強かったのです。 〜4. ロシア的資本主義の発達ー歴代蔵相の奮闘〜 さて、ロシアの資本主義の開花が見られたのがこの時代です。資本主義の発達には物とお金の軽やかな流通が必要であり、当時の国内物流用のインフラの主役は鉄道ですから、ロシアでもこの鉄道の大々的な敷設が検討され始めました。 ロシア初の鉄道はニコライ1世の時代に始まります。まず試験的にペテルブルクとツァールスコエ・セローを結んだのがその始まりです。つづいて1848年 にはワルシャワ=ウィーン間、1851年にはモスクワ=ペテルブルク間に鉄道が敷設されました。いかにもまっとうな選択で、わりと短期に元が取れそうな路 線といえばこの区間ぐらいしかなさそうです。 したがって、アレクサンドル2世の時代までには鉄道は3区間しかありませんでした。しかし、鉄道事業に投資することで、鉄道関連の各種事業、レールを作 る鉄鋼業、車両の燃料を供給する石炭業などを刺激し、鉄道の完成で各地の流通を活発化させ、ひいては商業を活発化させようとの公共投資の観念から、ロシア 政府は1857年鉄道勅令を発します。 これによりロシア鉄道中央会社を設立され、政府が株式の利子配当、社債を補償し、その会社に4000キロの鉄道建設の計画が与えられました。しかしこの ような大事業には先立つものが不可欠で、そんなお金がロシアのどこからでたんじゃい、という話ですが、これはドイツでのロシア国債の起債で(つまり借金 で)まかなわれました。 このおいしい事業は飛躍的な発展を見せ、アレクサンドル3世の時代となった1883年までには2万4100キロまで路線が延び、ヨーロッパとロシアの幹 線が完成しました。この順調な伸びを見て、政府は1866年から鉄道用材の国産化を命じました。海軍省の技師プチーロフが政府からレールの発注を受けたの がそのスタートです。この鉄道用材の確保の必要から製鉄業がおこり、イギリス人ジョン・ヒューズがロシア初の高炉を作ります。鉄道網の急速な拡大に伴い、 蔵相ブンゲのもと、鉄道ゲージの規格化による相互乗り入れ、運行調整、統一貨物運賃率を可能とするため、1885には鉄道一般規則が制定され、私鉄に関す る統制を強化しました。 鉄道用の燃料、製鉄用のコークスとしての石炭の採掘がはじまり、炭鉱での照明用として灯油の生産が行なわれ始めました。ロシアでの灯油生産は、ロシア政 府の外資誘致政策もあって1875年バクーに進出したノーベル兄弟社(ノーベル賞のノーベルの兄が中心となって資本投下し、ノーベルも事業に参加した会社 です)によって行なわれ、パイプライン・タンク車・タンカーや連続蒸留法や重油の利用等、石油業界に革新的なアイディアをもちこんだ彼らの会社はロシアの 原油採取量の1/4、灯油生成量の1/2を占めることになりました。 1883年にはロシア政府の公債を引き受けた功績でロスチャイルドのフランス分家のアルフォンソがバクー付近のバニト油田を入手し、ロシアでの石油ビジ ネスに乗り出します。ロスチャイルド家は大幅な資金援助を行なうことでノーベル兄弟社と手を組み、ノーベル・ロスチャイルド企業連合が成立しました。 さらにアレクサンドル2世の時代服属した中央アジアは綿の供給地、綿製品市場という完全な植民地として機能し、ロシア人産業資本の中枢として機能することになります。こうした綿花市場の発達から、領主農奴から身を起こしたサッヴァ・モロゾフが初代のモロゾフ家などのブルジョアジーが現れました。サッ ヴァ・モロゾフはモスクワ芸術座(МХАД)を設立したスタニスラフスキーを援助し、トレチャコフは美術品収集、美術館開設などをおこない、彼らが学問・ 芸術のパトロンとなっていきます。ウォッカの専売で成長したマモントフはシャリャーピン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフらの音楽家、レーピンな どの画家を庇護しました。 こうして資本家が成長し、工場などを経営し始めると、技術と熟練を要する職人的な金属労働者は都市から補充し、低賃金を強いられる繊維工業は農村から労働力を呼び込むことになります。もちろんこういう場所に革命家達が宣伝工作のために潜入していきます。 以上のような形で、ロシアも国の資本でインフラ設備がおこなわれ、この公共投資の波及効果よる国内経済刺激、各種関連工業の発達とブルジョアジーの形成が、他のヨーロッパ諸国に遅ればせながら、進んでいきました。 |
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こうした各種重工業の進展していく中、いよいよロシアの工業化、あるいはロシアの産業革命の達成という最難関の目標が内政の最優先事項として設定されます。この任務を担ったのが、1881年、アレクサンドル3世により蔵相に任命されたドイツ系ロシア人ニコライ・フリスチアノーヴィチ・ブンゲです。彼はキ エフ大学の経済学および財政学の教授であり、キエフ大学の学長を務め、キエフ政界に乗り出し、農民問題に関する政府委員会委員を務め、1880年大蔵省入りした人物です。 ブンゲは、工業化を促進するための基盤として、ルーブルに信用を与えようと考え、ルーブルの兌換紙幣化を主張しましましたが、ロシアの金準備高の不足などで頓挫します。そこでブンゲは、国際収支の改善による、金準備高増大、政府の均衡予算達成をめざします。 そこで彼は、収入を増やすよりは支出を押さえるという方策を採用し、ロシアの輸入を抑制すべく、関税率を徐々に引き上げ、1885年までには大部分の輸入商品に20%の関税をかけることに成功します。結果的にではありますが、この保護貿易により、ブンゲの政策はロシアの工業の発達に少なからず貢献することになりました。 ところが、1866年から1885年のロシアの政府支出は、陸海軍の支出が32%、政府負債の総額が28%、鉄道建設費用が10%を占め、政府が国民の 福祉などの生産的支出に振り向けることのできる予算は鉄道建設費を別にすると30%となりました。一体これだけの予算で何をしろというのでしょう。 それでもブンゲは農民福祉に力を注ぎ、先ほど述べたごとく農民に対する一切の直接税、人頭税を廃止(シベリアでは1899年に廃止)しました。こうして 農奴制はほぼ完全にロシアから姿を消しましたが、その分政府は収入を失ったわけで、これ以後、後の蔵相ウィッテなどがその不足分を補うべくウォッカの専売 制などに乗り出すわけです。農民土地銀行などの設立、工業立法なども先に述べたのと同様です。 しかし、30%の予算の枠内で、臣民の福祉を考えようとした彼の政策は当然予算の不均衡を招いて借款を重ねざるを得ず、さらには、後に述べます1885 年〜1886年のブルガリア公位をめぐるロシア帝国とオーストリア・ハンガリー二重帝国の緊張で発生した軍事予算の急増により、ロシア帝国の予算は破綻 し、ルーブルはかつてない大暴落を起こし、1887年、ブンゲは辞任します。 1887年2月、ブンゲの時代、大蔵省評議会の一因に選ばれた事業家兼ペテルブルクの工業技術高専教授のヴィシネグラツキーがブンゲの後任として、蔵相になります。彼は均衡予算を目指して増税・新関税設立を行います。またちょうどこの頃、ビスマルクの与党の国民自由党の機関投資家を守るためと、ロシア勢のブルガリアからの撤退を目論んだビスマルクの事実上の外債募集禁止措置(ロシア国債の借款抵当受け入れ禁止による、ドイツ市場におけるロシア国債の事実上の起債不可)が発動されました。 これをうけて、高度経済成長に水をさしてはならないとばかりに、ロシア政府は、今度はフランス金融市場で大量のロシア国債を発行します。ここでビスマルクの誤算が発生したのですが、資本のだぶつくフランス金融界は、ビスマルクの予想に反し、熱狂的にロシア国債の買い付けに走ったのです。こうしてベルリン市場からパリ市場へのロシア証券の移動が起こり、1888年、フランスのホスキエ主宰する金融シンジケート団がペテルブルクを訪れ、ヴィシネグラツキー蔵相 と会談し、利子4%の5億フランの公債を消化します。さらにはロスチャイルドのパリ分家が20億フランものロシア公債を引き受けます。 先走っていってしまいますと、1888年-1895年の新規発行公債は1890年の4.5%国債の7500万ルーブルと1891年の3%国債の1億 2500万ルーブルのみです。それ以外はすべて既発債の期限前償還と利率引き下げを目的とした借換債でした。かくしてロシア公債の80%近くをフランスが 引き受けることとなり、これは後の1893年の露仏同盟のひそかな布石となりますが、一方で、借金で経済成長を支えるという、のちのロシア国庫の首をしめかねない芳しくない傾向が見られ始めました。結局1888年-1895年のロシア公債のフランスでの発行・公募額は44億6300万フランでして、これは普仏戦争でフランスがプロイセンに支払った賠償金に匹敵する額です。しかも投資家をひきつけるためにロシア公債の利回りがほぼ5%という高配当、この借金返せるのでしょうか? ともかく、こうして資本の導入先を確保したヴィシネグラツキーは、ロシア政府の収入源として、徹底的な穀物輸出に走ります。カナダやオースラリアの穀物が台頭による、穀物の国際の下落に対抗して価格農民に対しては租税納入の時期を秋に設定し、穀物の価格が最も低い時期に農民に穀物を手放さざるを得ないよ うにし、こうして政府が手に入れた安い穀物を輸出にまわしたのです。「われわれはたとえ餓死しても輸出しなければならない。」。これが彼の言葉でした。 さらにヴィシネグラツキーは、ブンゲ時代よりもさらに徹底した高関税政策を取ります。一般的には輸入価格の1/3ほどまでに高められた関税は、輸入を抑制し、折からの鉄道ブームに乗ってロシアの工業化を推し進め、経常会計を黒字に転換し、3億金ルーブル分の金準備高を増大させ、これを基礎に、ロシアは ウィッテ時代に金本位制に突入することに成功します。皇帝アレクサンドル3世は、この黒字財政を背景に、シベリア鉄道着工を宣言します。 ところが、ちょうどこの年、ロシア20県の不作による飢餓がロシア農村を襲います。穀物輸出のし過ぎで備蓄穀物が底をついており、これにコレラの流行も加わり、事態を一層深刻化させたのです。ヴィシネグラツキーは輸出を停止し、ロスチャイルドのフランス分家に借款を申し込みますが、この当時政府が出した モスクワ・サンクトペテルブルクからのユダヤ人追放令が祟って、これに失敗、1892年ヴィシネグラツキーは退陣し、かわってウィッテが蔵相となりますが、これは後で述べます。 〜 5. 対外政策ーバルカンから極東へ 〜 革命勢力に対する恐怖から、絶対王制的強国との連帯を図ろうとしたアレクサンドル3世は、アレクサンドル2世の生前に提案されていた三帝協商を締結します。これにより、ひとまず西方の安全は確保されたことになります。 さて、ここでヨーロッパ情勢の概観ですが、1881年、ベルリン会議で承認されていたフランスのチュニス出兵が起こり、アルジェリアからチュニスに侵入・占領したフランスはそのままチュニスに保護権を確立してしまったのです。 イタリア領シチリアから極めて近い距離にあるため、多くのイタリア居留民が居住するチュニスをフランスに占領されたイタリアはもちろんフランスに抗議を送り、ヨーロッパ各国に対してフランスの行動に対する反対行動をとるよう持ちかけますが、ベルリン会談の協定が生きていましたので、各国ともイタリアの抗議を黙殺します。 ここで自国が如何にヨーロッパから孤立しているか知ったイタリアは、とうとうドイツ大同盟に加わるためのビスマルクの条件、オーストリア・ハンガリー二 重帝国との関係改善を飲むことに決定します。実はイタリアは、前々からドイツ大同盟に加わりたい旨をビスマルクに表明していたのですが、ビスマルクはオーストリア・ハンガリー二重帝国とイタリアの関係改善がなされないかぎり、この提案を受けいれることは出来ないと拒否していたのです。 イタリアは1859年のソルフェリーノの戦いでオーストリア・ハンガリー二重帝国からロンバルディア地方(ナポレオンから譲られた旧ヴェネツィア共和国 領)をもぎ取ってイタリア統一を成し遂げた経緯があり、オーストリア・ハンガリー二重帝国との仲は最悪でした。がしかし、もはや四の五の言っておられる状 況ではなくなり、やむなくイタリアはオーストリア・ハンガリー二重帝国へ使節を派遣し、関係改善を見届けた上でビスマルクの交渉が始まりました。 こうして1882年、ドイツ・オーストリア・イタリア間に三国同盟が結ばれます。また、セルビア・ルーマニアを犠牲にしてブルガリア公国を打ち立てたロ シアの脅威に備えるためセルビアがオーストリア・ハンガリー二重帝国との間に同盟を締結し、ルーマニアもドイツに接近してあらたにドイツ・オーストリア・ ルーマニアの三国同盟が結ばれます。 こうしてビスマルクは最初に締結したドイツ・オーストリア・ロシア間の三帝協商にドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟を組み合わせ、さらにドイ ツ・オーストリア・ルーマニア三国同盟、オーストリア・セルビア同盟でバルカン半島を押さえつけるという、いったい各国間の利害をどう協調したのか謎です が、ともかく芸術的といっても過言ではないドイツを中心とする大同盟網を作り上げることに成功しました。 一方ロシアの方はといえば、ブルガリア公国一国の統治さえてこずっていました。アレクサンドル2世の時代、トルコと戦って独立させ、先帝のお気に入りの 甥バッテンブルク家のアレクサンドルを公としておいたブルガリアが、一旦半独立すると、ロシアの庇護を潔しとせず、完全な独立を得ようと動き始めたので す。 1885年、ブルガリアの自由党カラヴェーロフの政権と呼応した勢力がトルコ支配下のルーメリアの中心都市フィリポポリスで革命を起こし、ブルガリアの統一を要求ました。結局イギリスの介入により、ブルガリア公アレクサンドルが東ルーメリアの総督に任命され、統一が事実上実現されましたが、ブルガリア・ ナショナリズムの台頭と、外部勢力イギリスの介入で統一成ったブルガリア公国をロシアは不快な面持ちで眺めていました。 すると革命の2ヵ月後、ブルガリア大公国の領土拡張を見ていたセルビアが「補償」を要求し、ブルガリア大公国と戦闘状態に入ります。結果はセルビアの敗北となったのですが、このとき同盟国としてオーストリア・ハンガリー二重帝国が介入、セルビアに肩入れして事態を収拾し、バルカン半島に対して隠然たる勢 力をもつことに成功します。 ブルガリアの自治への要求は高まり、1886年ブルガリア軍の士官が決起し、ブルガリア公アレクサンドルにピストルを突きつけて退位を要求し、廃位に追い込みます。とうぜんロシアは反発し、ブルガリアからのロシア軍引き上げ措置がおこりました。自力でトルコ軍に対抗できないブルガリアはオーストリア・ハ ンガリー二重帝国に接近し、オーストリア・ハンガリー二重帝国のザクセン・コーブルク家のフェルディナンドを二代目の公に任命、フェルディナンド公はオーストリア軍の仕官でして、こうしてブルガリアは事実上オーストリアの手に落ちたことになります。 さて、この失陥に対して当然ロシア世論は激昂し、反オーストリア、ひいては反ゲルマン的な風潮が一気に盛り上がり、ロシア史上に名高いゲルマン派とスラヴ派の対立がここに始まります。また、このときフランスでもドイツとの国境でフランスの警部がドイツの警官にスパイ容疑で逮捕されるという事件が起こり、 伝統的な反ドイツ感情が燃え上がっていたのでした。 ロシアの反ゲルマン感情とフランスの反ドイツ感情を契機とした、フランスとロシアの接近によるドイツ圧殺の可能性をおそれたビスマルクは早速手を打ち、 1887年ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の更新に成功し、ついでビスマルクが音頭をとって、イギリス・オーストリア・イタリア間に地中海協定 を結ばせます。この地中海協定は、締結国間と他国との間に問題が持ち上がったとき、協定国はお互いに支持しあうとの内容です。 このときイギリスの内閣は保守党の第1次ソールズベリー内閣に代わっており、保守党政権は他国との関係や植民地などの国際関係に手を出すのを好みます し、ソールズベリーは親ドイツ的な人物でしたから、事実上この協定はビスマルクの仲間内の協定といっても過言ではありません。さらにビスマルクはこの協定 にスペインをも加えることに成功します。 この大同盟網の成立を見て、寄らば大樹の陰とばかり、アレクサンドル3世は1887年6月、三帝同盟への再保障を与えます。これに喜んだビスマルクは、 秘密覚書の形で、ロシアがブルガリア問題を処理する場合にドイツはロシアに特別の支持を与えること、ロシアがダータネルス海峡、ボスポラス海峡、コンスタ ンチノープルを攻撃する際ドイツは好意的中立を守ることを約束しました。 ところがビスマルクは1887年12月、イギリス・オーストリア・イタリアの地中海協定国にさらなる条件、この三国はバルカン半島の安定を期すること、もしバルカンがロシアの脅威に晒される場合は、三国が共同の手段をとること、を決めさせたのです。 こうしてビスマルクはバルカン半島におけるロシアの行動の完全自由行動をみとめたものの、地中海協定によりその行動は事実上封殺される、という形になりました。「右手で与えて、左手でとる」というビスマルク外交の真骨頂とも言うべき行動です。 このようにしてヨーロッパ大陸にはドイツを中心とする大同盟網、ドイツ・オーストリア・ロシアの三帝協商、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟、 バルカンの橋頭堡ドイツ・オーストリア・ルーマニア三国同盟とオーストリア・セルビア軍事同盟、さらにドイツとのなんらかの友好関係を持つ国で形成されて いる、バルカン半島ににらみを効かせるイギリス・オーストリア・イタリア・スペイン地中海協定が成立します。 この異常に複雑な同盟関係から見えてくるのは、ヨーロッパ大同盟の中心に燦然と輝き、「譬えば北辰の、其の所に居て、衆星の之に向かうが如し」のビスマ ルク統治下のドイツ帝国、この大同盟網からはずれ、完全徹底的にヨーロッパから孤立したフランス、一応同盟の一端に連なるものの、二重にも三重にも絡まった同盟でバルカンを縛られ、バルカン半島への侵攻、ひいてはヨーロッパへの進出を事実上ふさがれたロシア帝国の姿です。オーストリア・ハンガリー二重帝国やイタリアなども同盟に縛られすぎて思うに動ける状態ではありません。 このようにして大同盟網でヨーロッパを絡めとり、身動きできなくしたビスマルクが行なったのはドイツ帝国の殖産興業・富国強兵です。平和を回復したドイツでは産業革命による急激な工業化に成功し、また近代化には欠くことに出来ない与件、近代科学の急激な発達を迎えることになります。 ロシアはバルカンでまたも挫折、と言った観があり、新たな対外進出先の模索が始まりますが、島国という地理的条件もあってヨーロッパ大陸では孤立気味の イギリスも世界での活動はアクティブで、前にも述べたごとく、中東ではオスマントルコをバックアップしてロシアに対する防壁となし、中央アジアではアフガ ニスタン・ワッハン回廊などの中立地帯を設けてやはりロシアの進出を防ぐ、といった状況で、トルコ・中央アジア・中国西部全域におけるロシアの進出がイギ リスによって防がれてしまったわけです。そこで次にロシアが目を向けたのが極東でした。つまり、両者ともヨーロッパから事実上の締め出しを受けているわけですから、両者のヨーロッパ外での競争が過熱した、といった格好です。 具体的には極東地域の李氏朝鮮に関心をもちました。ロシアは、日本が江華島条約を押し付けた後の1884年、朝露通好条約を結びました。ロシアは千島樺太交換条約により、千島列島の全てを日本側に譲っていたので、日本が朝鮮の南に支配を及ぼしたりすれば、太平洋に通じる全ての海峡が日本によってコント ロールされてしまうわけであり、これを恐れた模様です。 さて、李氏朝鮮で金玉均らによるクーデターが失敗すると、朝鮮国王外交顧問メーレンドルフが日本駐在ロシア大使に朝鮮に対するロシアの保護を要求します。しかし、昔から朝鮮に対する宗主権をもっていた清の激しい反発を招くとの恐れから、ロシア側は極めて慎重に行動します。国王高宗が、現在の朝鮮の状況を救えるのはロシアだけだともらしたという話が伝わり、それを知った清側が激怒するという一幕もありました。そこで、1886年、ロシアと清がともに朝鮮 を保護もしくは併合するという協定が結ばれました。 そして1891年には大津事件が起こります。1890年、帝王教育の一環として世界一周旅行の旅に出た後のニコライ2世は、最終目的地の日本で、よりに よって本来要人を警備すべき巡査からサーベルで切り付けられます。皇太子は人力車から飛び降りて逃げ、となりに乗っていたギリシャ皇太子がステッキで巡査 を殴り、車夫二人が犯人をとりおさえました。後に下関条約締結のために日本にきていた李鴻章も暴漢に襲われ、ずっと後に若き日の金大中大統領も日本のホテ ルから拉致されるなど日本の警備の不備は続きますが、ともかく皇太子は予定を切り上げて神戸から日本を出発しました。 少し時計の針を元に戻しますと、ヨーロッパ政界に大嵐が吹き荒れます。それは、1888年のドイツのヴィルヘルム1世の死去(91歳)と(その子フリー ドリッヒ3世が帝位を継ぎますがすでに57歳でしかも病弱だったので即位後99日で崩御します。)、ヴィルヘルム2世の即位、それにともなう2年後のビス マルクの解任でした。「ホーエンツォレルン王家が支配すべきか、ビスマルク王家が支配すべきか、それが問題なのだ」とまで言うヴィルヘルム2世および側近達の態度と、自分を支持する保守党と国民自由党の1890年2月の総選挙での敗北、ビスマルクが提案した社会主義者鎮圧法の延長に反対する野党の連合多数 勢力による法案否決(この法案に反対のヴィルヘルム2世の意向が議会に漏れた結果です)、これがビスマルクの運命を決めたのです。 しかし、ビスマルクは皇帝から辞職を勧告されるも、それを拒否して粘り、ヴィルヘルム2世に勅令をもって辞職させられる3月まで宰相の地位についてました。おそらくビスマルクは、1890年満了となるロシアとの再保障条約の更新を見届けたかったのでしょう。仮にロシアの再保障条約が失効すれば、先ほど見た大同盟網からロシアが抜けてしまうことになります。するとロシアに残るものはヨーロッパにおける完全孤立と、バルカン半島における大同盟によるロシア完 全ブロックです。 すると、ここで孤立したものと孤立したものの同盟、フランスとロシアの同盟が成立する可能性が発生します。この場合の最悪のシナリオは、ヨーロッパ屈指の工業生産力をもつフランスと、軍事大国ロシア、この二大国の挟撃によるドイツ帝国の圧殺です。 そこでなんとか破局を回避しようとロシア帝国とドイツ帝国の同盟が再度締結されることを望み、この実現に向けて粘ったわけです。幸いなことにアレクサン ドル3世もこの同盟には乗り気で、あのドイツ系プロテスタントのロシア人、ニコライ・デ・ギールスが外相になっておりましたから、ロシア側はドイツとの同 盟更新に異存はない、という状況でした。 ところが、ビスマルク辞任後の親宰相カプリヴィ将軍と外相ビーバーシュタインは、ビスマルクの個人的天才によって構築された同盟関係を自分達で維持する のは無理と判断し、ロシアと手を切り、一方ではビスマルクが宰相時代に手がけていたイギリスと結ぶ方針は継続したのです。 こうしてロシアとの条約は失効し、代わりにイギリスとの交渉に入ります。その手始めとしてアフリカ植民地におけるドイツ・イギリスの勢力確定が行なわれ、これはイギリス・ドイツの協商関係進展の現れとして関係者はおおいに喜びました。また、当時のイギリスの内閣は、保守党の第二次ソールズベリ内閣であり、先に述べたごとくソールズベリは新ドイツ的な人物であり、実際協商が成立しそうな雰囲気でした。 ところがロシアはこれを非常に恐れました。もし万一ドイツとイギリスの協商が成立し、イギリスがドイツの大同盟網の中に入るのなら、ヨーロッパ大勢力と イギリスの結合、つまり、ドイツ大同盟網によるヨーロッパ進出シャットアウトとイギリスの暗躍による海外植民地でのロシア進出の頓挫、これがリンクしてより一層効果的に行なわれるようにでもなれば、ロシアは本当にユーラシア大陸ロシア領に追い込まれてしまいます。 そこでロシアは必死になって同盟の相手を探しますが、いいところに、同じようにヨーロッパから孤立させられた仲間がいました。フランスです。もちろんロシアにしてみれば、フランスは専制君主制の不倶戴天の敵共和制の生みの親でコケットリー、フランスにしてみれば、ロシアは反動専制の巣窟で文化的後進国、という悪感情がわだかまっていました。しかし、今回の非常事態はそんなわだかまりを吹き飛ばしてしまいました。 1891年、フランスのクロンシュタット訪問を受けたロシアは、ロシア国内で演奏が禁止されていたフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を吹奏してフラン スへの好意を示し、1893年ツーロンへ答礼のためロシア艦隊を派遣し、その2ヵ月後ロシア外相ニコライ・デ・ギールスとフランス外相リボーとの間で秘密 軍事協定(いわいる露仏同盟)が結ばれます。フランスとしては投資したロシア債権が返ってくるかどうかの不安もあり、金を貸した相手を支援せざるを得ない という状況がありました。 ちなみにドイツのイギリス接近は、1892年のヨーロッパ大陸に深入りしたくない、孤立的な傾向の好きな自由党の第4次グラッドストン内閣の成立により つぶれてしまいます。さらにグラッドストンが政界を引退して、代わって自由党のローズベリが内閣を組織しますが、かれもやはり自由党の流れを受け継ぎ、 1893年のイタリア首相ルディーニの三国同盟参加の誘い、1894年のオーストリア・ハンガリー二重帝国外相カーノルキによる同様の誘いも断りました。 このように、自由党が政権を握っていた時は、イギリスは孤立外交政策をとります。 こうして、ビスマルクの真意を理解しないこのような中途半端なビスマルク路線継承のおかげで、最終的には1897年ビスマルクの最も恐れた露仏同盟が成立し、結局歴史はビスマルクの描いた最悪のシナリオ、露仏によるドイツ帝国の圧殺、が第一次世界大戦で(悪いことにイギリス、アメリカまで加わっていまし た)もろに現実化することとなってしまいました。 〜 6. ウィッテ登場ー「ウィッテ・システム」の発動 〜 ー 国際競争は待ってはくれません。もしわれわれが、次の数十年間の経過のうちに、わが工業がロシアのまたわが勢力化に置かれているーあるいは置かれるべきー アジア諸国の必要を満たすことが出来るよう、精力的かつ決定的な措置をとらないなら、そのときには急速に成長しつつある外国工業がわが関税障壁を突き破り、わが祖国に、また上に述べたアジア諸国に自身を確立し、わが経済の深みに彼らの根を深く突き下ろすでありましょう。これはまた、外国による勝利の政治的浸透のための道をも徐々に掃き清めるかもしれません。…わが工業の緩慢な成長が帝国の偉大な政治的任務の遂行を危うくすることはありうることです。われわれの経済的後進性は、政治的ならびに文化的後進性にも同様に導くことでしょう。ー 〜ウィッテのニコライ2世への上奏報告(1900年2月)〜 何とかユーラシア大陸から外へ出たいロシアの力は極東へそのはけ口を見出そうとしていたわけですが、その矢先の1890年、清がイギリスへ南満州鉄道の 調査を行なわせます。進出しようとしていた先の極東でもまたもイギリスの影を見つけたロシアは先手を打つ必要ありと判断し、1891年、アレクサンドル3 世は息子ニコライ2世にあてた勅令の中でシベリア鉄道着工を宣言しました。 従来はその膨大な費用をどこから捻出するんだ、またシベリアなぞに鉄道を敷設して、投資した資金の元は取れるのか、などというしごくまっとうな意見があり、たとえばヴィシネグラツキー蔵相などが反対論を唱え、この問題は棚上げになっていました。が、1891年にヴィシネグラツキー蔵相が一時的に達成した ロシア財政の黒字化と、イギリスの極東への進出の前にこの決定がなされてしまったのです。 このシベリア鉄道着工の大任を引き受けさせられてしまったのがウィッテです(彼はその任を立派に果たしました)。後に詳しく述べますが、ウィッテは蔵相 として、ロシアの工業化・資本主義化の際の資本調達環境を整えるべく、ロシア初の金本位の通貨制度を打ちたて、次に交通大臣経験者として、鉄道を中心とした各種産業を振興すべくシベリア鉄道建設に着工、たったの10年で全線を開通させ、さらには外交にも秀で、賠償金なしという前代未聞の条件を日本に飲ませ、ロシア帝国の流刑島だったサハリン島の南半分の割譲でポーツマス条約をとりまとめ、しかもこれらの仕事すべてを自分が先頭に立ってやったという、しば しばロシア史にでてくる、恐るべき能力の持ち主の一人です。 ウィッテは、1848年バルト地方出身のオランダ人(本人が回想録で語るところによると)を先祖にもつ、カフカース総督府の農業局長ユリウス・ウィッテ と、ロシア貴族の母(ウィッテの母方の祖母はドルゴルーキー家の娘でした)の間にチフリスで誕生しました。当時ロシア第三の都市であったオデッサの新ロシ ア物理・数学部に進学し、数学者を目指します。しかし、叔父の知人のボブリンスキー交通大臣の進めもあって大学を卒業後、数学者の道を諦め、オデッサ鉄道 に就職します。 切符売り場での勤務から鉄道界でのキャリアを始めたウィッテは、やがて列車運行事務所の主事となります。さらにオデッサ鉄道が、ヤン・ブロッホの経営する西南鉄道株式会社に吸収された際、ヤン・ブロッホに営業支配人に抜擢され経営上の手腕を発揮し、1886年に専務取締役までに出世します。その後ウィッ テは、彼の手腕を見込んだヴィシネグラツキーにより1889年創立された、大蔵省鉄道事業局初代局長に抜擢され、1892年に交通大臣となり、同年ヴィシネグラツキーの後を襲って蔵相になりました。 |
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ロシア宮廷としては、要するにシベリア鉄道建設に常に反対な蔵相の座に、鉄道建設に前向きな交通大臣出身者をすえれば反対がおさまるだろう、という考え だったのでしょう。彼の経歴をみると政府が何を望んでいたのかわかるような気がしますが、もともとシベリア鉄道建設には意欲的であり、徹底的な専制支持者 であった彼は、なにせ皇帝の命令ですからともかく与えられた任務をこなします。ウィッテは、ブレーンとして周期表を考案したあの化学者メンデレーエフらを ともなって1892年工事計画を提案し、国営鉄道であるシベリア鉄道の財源確保のための準備にかかります。 1888年-1895年のロシア公債のフランスでの発行・公募額が44億6300万フランでして、これは普仏戦争でフランスがプロイセンに支払った賠償 金に匹敵する額がすでに借金として横たわっているというシャレにならない状態でしたが、ウィッテは奮闘します。ウォッカの専売を行い(政府の全収入の3割 がウォッカ関連といいますからこれはけっこう大きいです)、粗糖税を75%引き上げることで、歳入を増やし、先の蔵相ヴィシネグラツキー時代の金準備高を もとに金本位制を導入を検討します。 資本主義は偶然的な非等価交換でぼったくるのではなく、等価交換が原則ですから(少なくとも僕はそう信じています)、等価交換を確実にするためには価格 の安定が必要であり、価格の安定のためには通貨そのものの安定、というわけで金本位制を導入しよう、というのが19世紀に資本主義化を目指した国々の目標 でした。かくして1816年に早くも金本位制を導入し、安定したポンドを背景に繁栄を謳歌したイギリスを筆頭に、1890年代までには、ベルギー(跛行金 本位制、後述)、スイス(跛)、ドイツ、スウェーデン、ノルウェー、オランダ、フランス(跛)、イタリア、デンマークなどが事実上の金本位制をとっており ました。 資本主義化・工業化を目指すロシアとしてもここはぜひ金本位制を取りたいところです。しかも金本位制で、銀行券が金に等しいという法的規定が国家に付与 されると、信用が多大なる発展をとげますし、海外に向かって金に変わる金為替が金と同一であるということならば、ルーブル手形も金と同様であるとのこと、 これはルーブルがこれまでに比べ絶大な信用を得るということでして、公債発行でシベリア鉄道建設費用・工業化の原資を捻出したいロシアにとっては願っても ないことです。 但し、この時期はフランスがいまだ跛行金本位制(金銀複本位制の国において銀の価値が金の価値に比べ低落している場合、銀貨の自由造幣を停止して銀貨の 下落を防ぐ制度)をとっておりました。1816年のイギリスの金本位制決定に伴い、各国が金本位制を採用、正貨としての銀の需要が落ち込み銀の価値が下落 する中、ラテン通貨同盟の中心国としての体面か、跛行金本位制をとり続けていたフランスですが、当然ロシアが金本位制に移行することは大反対でありまし た。 普仏戦争のときは、プロイセンはフランスからの賠償金で金本位制に移行し、50億フランの賠償金を払わされたのは、3年、40カ月の繰り延べ返済できた のですが、それよりドイツ帝国が金本位制に移行し、大量の銀が不要となって市場に過剰供給されて銀価格が暴落したことは、この当時銀本位制だったフランス でそのまま正貨たるフランの暴落、目減りとなりましたから、そっちのほうが深刻だったでしょう。普仏戦争はフランスにとってまさに踏んだりけったりです。 したがって、ロシアが金本位制に移行すれば、1876年に跛行金本位制に移行し、自由鋳造が停止され不完全とはいえ銀貨も本位貨幣として使用していたフ ランスにとっては、ロシアでの金本位制以降でまたもや銀が市場に過剰供給され銀の値段が暴落する痛手を蒙ります。さらに、フランス経済が打撃を受けて、フ ランが安くなれば、ロシアが安くなった借金を楽に返せる、フランスにとってはロシアに貸した金が目減りして返ってくるということです。当時ロシア国債の 80%近くを引き受けていたフランスにとってロシアにカウンターをくらった気分になるでしょう…。 そこで、フランスの(しごくまっとうな)横槍を防ぐため、ウィッテはロシア臣民の逆らえない皇帝の勅許という形で、皇帝臨席の財務委員会で、むりやり金 本位制移行を決定したのです。財務委員会では金貨の鋳造を決定し、1897年の勅令で国立銀行が発券銀行となり、金保有量の二倍の兌換券を発行することに なりました。 もっともこの外資導入による経済発展政策は、外資の席巻をおそれる国内業者の反対を呼び、『ロシアの勤労』主幹シャラーポワらの反対をよび、シャラーポ ワはアレクサンドル・ミハイロヴィッチ大公らを通じて運動し、この当時アレクサンドル3世に代わって即位していたニコライ2世が外資導入に反対の声をあげ ます。 そこでメンデレーエフらに、外資導入賛成の意見書をニコライ2世あてに書いてもらい、さらにニコライ2世主催の協議会で外資導入を必要とする自分の意見 を述べ、ムラヴィヨフ外相らの支持(後に詳しく述べますが、ウィッテの反対を押し切って旅順租借をおしすすめた時の借りを返さねばならないと思ったので しょうか)で協議会を制することができ、ニコライ2世はウィッテ路線を承認します。 当然ですが、このロシアの決定はフランスを、特に金銀複本位制支持派だったメリヌ蔵相を怒らせます。フランス政府はロシア国債の新規上場の一時拒否を行 い、ウィッテはロンドン・ニューヨーク・ベルリンでロシア国債の起債を行いますが、ほとんど成果はなく、やはり国債引き受けはフランス頼み、しかもこれ以 後の新規国債発行はすべて義和団事件のフランス支持やモロッコ問題でのフランスの無制限の支持など、かならずひも付き、フランスに対する見返りつきが条件 となってしまいました。 借金でフランスに頭が上がらなくなり、これ以後のロシア外交にフランスの消し難い影がついてまわります。第一次世界大戦へのロシアの参戦の原因の一つは このフランスにした借金です。フランスでの国債募集で国家予算を組む羽目になった当時の帝政ロシア政府はフランスの外交的要請を断りきれなかったのです。 下野してのちウィッテは第一次世界大戦へのロシア参戦に批判的だったといいますが、失礼ながら責任の一端(というかかなりの部分)はあなたの政策のせいで しょう、と思ってしまいます。 ともかく、質の高い鉄道工作機械を手に入れ、関税措置でもめた関係を修復する目的もあり、ドイツとの間に露独通商同盟が結ばれます。こうしてロシアは穀物をドイツに輸出し、ドイツは工作機械をロシアに輸出する、ということになりました。 |
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