ロマノフ王朝(15

〜〜 ロシア革命とロマノフ朝の最後 〜〜



アレクサンドル・フョードロヴィッチ・ケレンスキー
/
Керенский, Александр Фёдорович(1881-1970)

臨時政府司法相
第一次連立政府陸海相
第二次、三次連立政府首相、陸海相

帝政から共産主義への過渡期の資本家政府の首班を務める

注意!音が出ます
1919年、レーニンの赤軍に対する演説)

 


Российская

 

 

История


 


 スマン・トルコの弱体化は、旧オスマントルコ領内、とくに民族のモザイクバルカン半島での各民族の独立を目指した蜂起を促し、この騒乱は当然バルカン半島情勢の不安定を生みます。誕生したばかりの小民族国家群は、自国の利益を巡ってさらに騒乱を起こし、そこで、小民族国家群のバックについているヨーロッパの大国の、地域安定を名目とした介入がさらに巨大な戦火を生みました。自分たちの間の最終的な利害調整に失敗した列強諸国は、自らまいた種で、世界を巻き込んだ大戦争の業火に、自らも巻き込まれていくことになります。

 産業革命の進展は軽やかな兵器生産・輸送を可能とし、その国力が枯渇するまでの戦争続行を可能とし、世界の主要国の殆どが参加したため、止めるもののいなくなったこの戦争は、相手国の完全なる戦争遂行能力喪失まで進みました。この戦争の終わった後に現れるのは、敗戦国はもとより、戦勝国も疲れきった墓場の平和です。

 この戦いは、終わってみれば、ヨーロッパに残されたの三つの帝国、事実上の専制君主制国家、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ドイツ帝国(4つの王国、6つの大公国、5つの公国など計22の君主国と3つの自由都市と1つの帝国領からなる連合国を、プロイセン王国が押さえるというものでした)すべてが崩壊し、ヨーロッパに残されたアンシャン・レジーム全てを消し去ってしまうという、劇的な変化をもたらしたのでした。

 アジアにおいても、極東、特に中国におけるイギリス、ドイツ、フランスなどの権益は以前に比べ格段に後退し、かわって山東半島をてこに、これまでとは比較にならないほど強力な権益を中国北部に設定し、国連委任統治領の名目で旧ドイツ領の太平洋の島々を手に入れ、アジアにその手を広げ、太平洋国家として勃興しようとする大日本帝国の台頭、あるいは戦争景気で工業化・資本輸出国としての脱皮を遂げ、同じく太平洋国家としての発展を遂げつつあったヨーロッパの田舎アメリカの台頭と、世界は新たな局面を迎えつつあったのです。



   〜 1. バルカン戦争ー第一次大戦の伏線 〜

 1908年内乱が起こって青年トルコ党が政権を握り、物情騒然と成りかけていたトルコの苦境を見越し、19126月、トルコ領アルバニアで反乱が起こります。昔日の面影はもはやどこにもなく、おまけに19119月から、イタリアとリビアのトリポリを巡って戦争中で内政にかかずらっている余裕がなく、事態を収拾する力を失ったオスマン・トルコ帝国は状況を追認するしかなく、アルバニアの自治権を認めました。

 と、この状況を見て、バルカン半島の国々、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャの四カ国の間で個別に同盟が結ばれ、この四カ国が一致してオスマン・トルコに宣戦布告したのです。第一次バルカン戦争の勃発でした。セルビアはマケドニアの大半を占領、モンテネグロ、ギリシャ、セルビア、はアルバニアを占領してしまいました。オスマン・トルコは慌ててイタリアとローザンヌの講和を結んでイタリアのトリポリ地方の領有を認め、四カ国に対し応戦しますが、この四カ国のバックについているオーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国が動員令を発し、恫喝をかけ、イギリス外相エドワード・グレイの斡旋で両国は矛を収め、19135月のロンドン条約でオスマン・トルコが四カ国にそれぞれ領土を割譲することで話がつきました。

 ところが、講和からたったの一ヶ月後、マケドニアの分割をめぐってセルビアとギリシャ・ブルガリアが対立し、またも戦争が始まりました。これが第二次バルカン戦争です。この戦いではセルビアがギリシャ、モンテネグロを味方につけてブルガリアを攻撃し、さらにはルーマニアが裏切りをかましてセルビア陣営に加わったため、ブルガリアが屈服し、19138月のブカレストの和議で領土を奪われ、セルビア・ギリシャは領土を拡大しました。

 この結果に極めて不満をもったブルガリアはドイツ・オーストリア・トルコに急接近し、セルビアは南スラヴ人の解放が旗印でしたから、南スラヴを支配下におくオーストリア・トルコとは反目し、逆にスラヴの盟主たるロシア帝国とは極めて緊密な関係を持つことになります。こうしてバルカンの小国のバックにヨーロッパの大国がつき、小国間の争いが、世界情勢を揺るがしかねない力を持つ大国どうしの激突に直接つながるという極めて危険な情勢が出来上がったのです。

 さらにロシアでは、先ほど述べたごとく、親英親独派、つまりはよく言えば国際協調、悪く言えば八方美人派、穏健派のココツォフが、ラスプーチンと『市民』紙の主宰メシチェルスキーの攻撃で首相を退陣し、反独派で強硬保守のゴレムイキンが首相となりました。




     この章に登場するロマノフ一族の系譜


 ―アレクサンドル3
      |
      ├――ニコライ2
           |    |
           |    ├―――オリガ
           |    |     |
           |    |     ├―タチヤーナ
           |    |    |
           |    |    ├―マリア
           |    |    |
           |    |    ├―アナスタシア
           |    |    |
           |    |    └―アレクセイ
           |    |
           | アレクサンドラ
           |
           |
           ├―アレクサンドル
           |
           ├―ゲオルギー
           |
           ├―ミハイル
           |
           └―娘二人


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者






    〜 2. 第一次世界大戦ー世界戦争 〜

 1908年、トルコで内乱が起こった時期に、オーストリア=ハンガリー二重帝国はオスマン・トルコからボスニア州とヘルツェゴヴィナ州を奪い取っていました。この二州はセルビアと隣接しており、セルビアにとっても垂涎の的でありました。ところが、よりによってこのボスニアで、オーストリア=ハンガリー二重帝国が大軍事演習を開いたのです。

 1914615日、ボスニアの州都サラエボで、大演習を見学にきたオーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナンドとその妻が、地元の民族主義団体に所属する青年プリンチッペに射殺されてしまいました。皇位継承者を殺害されてオーストリア政府は黙っているわけには行かず、この事件の責任は、セルビア政府にあると断言(しかしボスニア州は当時オーストリア領ですから、オーストリア自身の警備体制の不備にも相当の問題があるとは思うのですが)、723日、セルビア国内での一切のあらゆる反オーストリア運動の禁止、反オーストリア団体の解散、オーストリア政府代表の立会いによる皇太子射殺犯の審理をもとめ、48時間以内の期限付き回答を要求しました。

 そうとう内政干渉的なヒステリックな要求ですが、最後のオーストリア政府代表の立会いによる皇太子射殺犯の審理の条項に到ってはもはやセルビア国家の主権の侵害です。ロシア外相サゾーノフは、セルビアの関与を信じず、農業庁長官クリヴォシェインらとともにセルビア擁護の発表を出し、オーストリアはドイツの同盟関係をバックに一歩も譲らず、イギリスのグレイ外相がオーストリアとロシアの直接交渉を提案したり、イギリス、フランス、ロシア、ドイツの四大国大使会議開催を提案したりしますが、不調に終わります。

 25日になってセルビアは、オーストリア政府代表の立会いによる皇太子射殺犯の審理意外をのぞく全ての条件を飲むと回答しましたが、オーストリアはこれに満足せず、重ねて要求全部の受理を承認を求めました。セルビアがこれを受け入れないことを知ったオーストリアは、728日、セルビアに宣戦布告します。

 ロシアはこれに対しその日部分動員令を下します。翌日、ドイツはロシアが部分動員令を解除しなければドイツも動員令を出し、戦争準備を始めると通告してきました。外相サゾーノフと参謀総長ヤヌシケヴィチは戦争を決意し、部分動員令を総動員令に変更するようニコライ2世に上奏しました。さすがに強硬派のゴレムイキンも、首相という責任ある立場についた以上、絶対に無茶はできませんから、ニコライ2世に対し、このまま部分動員令にとどめるよう上奏します。皇帝は一人で決断し、総動員令を下します。

 こうして30日、ロシアに総動員令が下り、続いてドイツも総動員令を下します。31日にはニコライ2世臨席のもと、会戦の方針が決定され、81日にはドイツがロシアに宣戦を布告しました。これをうけて83日には露仏同盟からフランスがドイツに宣戦布告します。さらにドイツが中立国ベルギーに侵攻すると、英露協商のからみで84日にはイギリスがドイツに宣戦布告しました。86日には、オーストリアがロシアに宣戦布告します。戦火は極東に飛び火し、イギリスは開戦三日後、外相加藤高明を通じて日本政府に東シナ海におけるドイツの武装巡洋艦の探索と撃破を依頼してきました。

 そこで日本政府はこれを受け、それどころか積極参戦までイギリスに申し込みます。イギリスはこの日本の積極的な態度に驚き、日本の軍事行動をイギリス商船の保護のみに限定することを申し入れましたが、日本はこれを無視してドイツに対し、ドイツ艦隊の日本海およびシナ海からの即時退去もしくは武装解除、ドイツ租借地の膠州湾全部の中国返還のため、91日までにこの地域を日本に引き渡すという最後通牒を発します。

 イギリスは、日本の行動は、西太平洋での日本船舶の航路の保護するのに必要な場合を除いてシナ海やその西方アジアに出ず、ドイツ占領地域などの外国領土に及ばないものと了承する、という声明を一方的に発表し、アメリカも膠州湾の中国返還及び中国の領土保全を日本に申し入れます。が、日本はドイツから先ほどの最後通牒の満足な回答が得られなかったことを理由に823日、ドイツに宣戦布告しました。こうして戦争は世界に広がっていったのです。

 ロシアでは挙国一致体制が敷かれ、旧暦もしくはユリウス暦(Старый стиль, Юлиянский календарь)7月20日、グレゴリウス暦では82日、冬宮のゲオルギウス広間でツァーリ自らによって開戦の詔勅が読み上げられました。

 ーいまや不公平に傷つけられたる我等が血縁の国を擁護するのみでなく、ロシアの名誉、尊厳、領土保全と大国の間でのその地位を守ることが急務である。チンは、朕が忠良なる臣民がロシアの地の守りのために結束して献身的に立ち上がるとの不動の確信を抱いている。恐るべき試練の時に国内の不和は忘れられ、ツァーリと国民の一体化はさらに緊密に強化され、一人の人間のごとく立ち上がったロシアは、敵の野蛮な攻撃を撃退するであろう。我等の事業の正義を信じ、全能の神慮を心静かにたたえつつ、朕は聖なるルーシと勇敢なるわが将兵に神の加護を祈るものであるー

 当時外交官補としてロシア帝国の日本大使館に在勤していた芦田均は現地の雰囲気を以下のように書いております。

 ―「…広場にはすでにいっぱいの人が押し寄せ、聖像を高く捧げ、ツアの像を担い、あるいは国旗を押し立て、学生・労働者・インテリ・商人あらゆる階級の人々が、一斉にロシア国家ボージェ・ツァリャー・フラニーを歌う。そして、合間合間に、ウラーと喚声をあげている。人々の顔は、熱に燃え、涙にぬれて輝いていた。この光景は、我々にとって予想外でもあり、素晴らしいものでもあった。ポアンカレ(フランス駐露大使)の公式訪問のときには、同盟罷業が行われ、警察は革命分子の取り締まりに血眼であるとの噂であった。戦争が起これば、労働運動は革命化するとさえ言うものもあった。だが、今眼前に見る光景は、若者も年寄りも女も子供も、愛国心に燃え、階級を超えて、一死報国の熱に我を忘れた姿である」―

 ―「やがて冬宮の二階正面の露台に、夏の軍装に身を固めたニコライ皇帝の姿が現れると、広場の群衆は、さらに熱狂の度を高めて、一背に、ウラーを叫ぶ。やがて旗を振り、手を挙げ、国歌を歌い始める。皇帝もまた右手を高くあげて群衆に答えられる。間もなく、皇后アレクサンドラの白服の姿が露台に現われて、群衆の喚声は鳴りもやまない。おそらく、ニコライ皇帝とロシア国民との心のつながりは、即位以来、この時ほど密着した瞬間はなかったのではなかろうか」―


 つまり、戦争の最初期においては、ロシア国民の世論が本当に一致したのです(翌年の19156月にはストライキが発生し、一年もしないうちにこの結束の瓦解が明らかになりますが)。726日にはドゥーマが開催され、各党代表が戦争協力を誓います。ボリシェビキ、メンシェビキは共同で戦争反対の声明を朗読し、退場しましたが、さすがに「一切の侵害から国民の文化的財貨を守る」との一説を声明に盛り込まざるを得ませんでした。83日には、ポーランドのガリシアでレーニンが逮捕されます。さらに、首都サンクトペテルブルクの呼称がドイツ的として(実際にドイツ人に発音を聞いてもらったところ、確かにドイツっぽいとのことでした)、ロシア的な(?)ぺトログラードに変更されました。バッハ、ブラームス、ベートーベンなどの音楽も禁止、ドイツ的風習としてクリスマスツリーまで禁止します。










(右) 1914年発行15コペイカ銀貨 西暦下のミントマークが
С.П.Б.(サンクトペテルブルク)です

(左) 1915年発行10コペイカ銀貨 首都改名に伴い
ミントマークを削除しています


画像の著作権はありません。




 さて、ベルギーに侵攻したドイツ軍ですが、ベルギーの頑強な抵抗に阻まれ、時間を浪費した隙にフランス・イギリス軍に戦争準備の余裕を与えてしまいました。またロシア軍の総動員が非常なスピードで進んだこともあり、ニコライ・ニコラエヴィッチ大公総司令官(実戦経験はありませんでしたが)、ヤヌシケヴィチ参謀総長率いるロシア軍は、レネンカンプの指揮下ワルシャワを占領、ケーニヒスベルグ、タンネンベルグに迫り、ロシア軍がベルリンを窺う予測もとり沙汰され、ドイツは危機に立たされます。そこで、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は急遽ヒンデンブルクを起用してルーデンドルフを参謀総長とし、西部戦線から2個師団半を与え、計6個師団を東部戦線に向かわせました。

 1914823日から9日間、タンネンベルクでロシア軍とドイツ軍が激突し、ヴィルヘルム2世の人事が大成功してこの作戦は見事に決まり、サムソーノフら率いるロシア第二軍5個師団を完全に包囲殲滅することに成功します。サムソーノフは自殺し、ロシア軍の死者7万、捕虜92千を出したということです。1410年7月15日、リトアニア=ポーランド同君連合国、モスクワ大公国連合軍5万が、チュートン騎士団32千と、グルンヴァルト村とタンネンベルクの間の野で激突してスラヴ勢が勝利を収め、チュートン騎士団の弱体化が決定的となったタンネンベルクの戦いをとって、このときの戦いもタンネンベルクの戦いと呼ばれます。500年近い時を経た、ゲルマン勢の、スラヴ勢に対するリベンジが成功ということでしょうか。

 ところがこの包囲成功の代償として、ドイツ軍の開戦当初の早期戦争終結のためのシューリフェン計画、西部戦線においてドイツ軍右翼に圧倒的な兵力を配備してフランス軍左翼を圧倒し、ドイツ軍右翼が前進しつつ大旋回を行なって、ドイツ軍左翼と協力してぐるりとパリを包囲するという計画が、東部戦線へのドイツ軍の引き抜きによりドイツ軍右翼に圧倒的な兵力を配備することができず台無しとなってしまいました。戦争の早期終結を至上命題とするドイツにとって戦略的にみると、このタンネンベルクの会戦はやってはならない戦いだったのではないでしょうか。逆にいえば、ロシア帝国は自らを犠牲にして三国協商加盟国として最高の働きをしたということになります。

 足止めを食ったドイツ帝国軍ですが、戦争のさなかですので良い代案のあるわけもなく、やむなく縮小版シューリフェン計画を実行したところ、ドイツ軍右翼はフランス軍に進撃を阻まれ、どころかフランス軍の将軍ジョッフルにより、191495日より行なわれたマルヌの戦いで中央突破を蒙り、ドイツ軍の右翼と左翼が分断されてしまいます。おかげでパリ包囲は不可能となり、戦線は膠着状態に陥ります。ここでロシア軍は休息をとる必要があったのですが、イギリス・フランスの追撃要求により、11月、シレジア、ポズナンに攻撃をかけました。フランスの外債で国家予算を組んでいた当時のロシア帝国によってこの要請はとても断ることができなかったのでしょう。そこで、ドイツ軍は西部戦線から14個師団を引き抜いてロシア軍に当たらせ、損害を与えます。

 ここにいたってドイツ軍は戦前の計画を変更し、先にロシアを叩くことに決定、西部戦線からさらに13個師団を引き抜き、マッケンゼン将軍の指揮の下、1915年から東部戦線全域に渡って攻撃を開始しました。さて、開戦当初から大打撃を蒙ってしまったロシア軍ですが、さらにこのドイツ軍の攻勢が始まり、ガーリチからの退却、ワルシャワの放棄、ドイツ軍によるリトアニア全土の占領、クールラント・ベラルーシ・ウクライナへのドイツ軍侵入、ロシア軍の40万人近い損害、と「大退却」が始まります。

 このロシア軍の退却には、高校で理系化学を選択した人は必ず習わさせられる、アンモニア合成のハーバー・ボッシュ法で名高いハーバーが中心となって準備された毒ガス攻撃をくらったこともあずかって力ありました。1914712日、ガリモフで初攻撃がおこわなれた、塩素とホスゲンの混合ガスによる攻撃は、科学技術の立ち遅れでロシア軍は防毒手段が常に未熟であり、毒ガス攻撃による被害が甚大だったのです。

 防毒マスクも、活性炭(ホスゲン防毒には活性炭が効果があるとはいいますが)をつめた吸収缶を胸につけただけという簡素なものでした。じきにハーバーの研究室が開発した、吸入せずとも皮膚に触れるだけで被害を受けるイペリット(フランス軍の呼称)、またはマスタード・ガス(連合軍の呼称)、または黄十字(ドイツ側の呼称)などが登場してからは毒ガス攻撃に対してロシア軍は全く打つ手なしという状態になります。毒ガス攻撃による報復攻撃の行えなかったロシア軍は、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受けっぱなしという状況となり、結局、毒ガス攻撃によるロシア軍の死者は56千人を数えました。







      


緑色の玉は塩素、白色の玉は酸素、オレンジ色の玉は炭素


ホスゲン(左)、塩素(右)







 しかし、この退却により、ドイツ軍は補給線が延びた一方、ロシア軍は補給線が縮小したことで、ロシア軍はドイツ軍を食い止め、リガ・ヴィルナ・ビンスク・タルノポールの線で防衛線を構築することに成功しました。しかし、この「大退却」はやはり評判が悪く、内閣改造が叫ばれ、物資不足の進行も問題になっており、打ち続く戦争で銃後の生活を脅かされた市民たちによるストライキも6月ごろから再発していました。そこで1915719日、ドゥーマが開催され、国防特別審議会(各省代表、両院代表、中央戦時工業委員会、自治体連合代表により構成)、が設置されます。

 さらに、戦争指導失敗の責任をとって最高司令官ニコライ・ニコラエヴィッチ大公および宰相ゴレムイキンの更迭が大臣達から求められますが、ニコライ2世はニコライ・ニコラエヴィッチ大公の罷免には同意したものの、宰相ゴレムイキンは留任させ、あまつさえラスプーチンに説得され、1915年、自分が総司令官になる方針を打ち出します。

 大臣達は皇帝が宮廷を離れることによる政治の弱体化、ひいてはアレクサンドラ皇后とその後ろに控えるラスプーチンの権勢増大を恐れ、8人の大臣が連名で書簡を出し、この人事に反対しますが、皇帝は最初の人事を貫徹しました。そこで大臣達が次々と抗議の意味と、沈む船からねずみが逃げ出すがごとき意味を含めた辞任を行い、ラスプーチンが宮廷内の人事を握り、政局はますます混沌としてきます、というか、誰がロシア帝国の政治に責任を持つのだろうという状態になります。

 もっとも軍事的にはこの人事は功を奏し、最高司令官は皇帝ニコライ2世ですが、参謀総長はヤヌシケヴィチからアレクセーエフに交代し、ロシア軍はドイツ軍の進撃を食い止めます。のちにロシア軍はガーリチまで再侵攻しますが、これは1916221日の、ドイツ皇太子を総司令官とするドイツ軍のヴェルダン要塞への総攻撃が失敗し、ドイツ軍の攻撃が鈍ったからです。

 ドゥーマでも、自由主義者の発言力が強まり、カデットのリヴォフ公、同じくカデットのチェルノコーフ、オクチャブリストのグチュコフ(ロシア赤十字社の社長)、進歩党のコノヴァーロフらの肝いりで、ドゥーマ議員の過半数が参加した「進歩ブロック」が結成されました。彼らは、大臣は皇帝でなく国会が選出するものと要求し、議員製内閣、政治犯の恩赦、ユダヤ人差別撤廃、労働組合、労働者新聞の合法化、なども要求しました。

 ニコライ2世はこの非常事態に大掛かりな改革を行なうことの危惧を訴え、またこの措置は皇帝の大権を制限することそのものですから、承服しませんでした。そこで、首相のゴレムイキンは「進歩ブロック」の要求を拒否し、916日に国会を停止します。このときは心配された騒ぎもおこらず、ペトログラードは平穏なままでした。この二日後の918日、皇帝は総司令官となり、前線に赴きます。

 ところが、どうにもならないのが生産体制です。総力戦といわれたこの第一次世界大戦は、膨大な食料・燃料・兵器・人的資源を食い、物資不足が深刻な状態に達し、事態を打開するためラスプーチンは19161月ゴレムイキン首相にかわってシチェルメルを首相に据えますが、こんな小手先のことでは状況が良くなるはずもなく、どころか人手不足を解消しようと中央アジアの民族を鉄道・軍事施設建設に徴用しようとしたところサマルカンドで反乱が起こります。そこでラスプーチンはつぎに191611月に運輸省トレポフを首相に任命しますが、やはりこの巨大な歴史の歯車を動かすことができようはずもなく、事態は悪化していくのみです。以下にそんな資材逼迫の一例として、郵便切手型小票(一部)、定額補助紙幣(一部)、加えて寄付金付切手を載せておきます。










資材逼迫の一例
1915
922日、郵便切手型小票の発行

見た目は普通の切手です。左から額面101520コペイカ
(というか普通の切手に何枚か紙を
重ね貼りして厚手にしてあります。)





裏返しにしてみると以下の文字が(新正書法に直します)

Имеет хождение наравне с
разменной серебряной монетой.
「両替用小銀貨と等しい流通力を持つ。」というわけです。