ロマノフ王朝(2)

〜〜アレクセイの時代〜〜



アレクセイ / Алексей
1645 〜 1676年 ポーランドとの「十三年戦争」で勝利し、ドン・カザーク(コサック)を抑える

 


Российская

 
  История




   〜 1. アレクセイの即位とモローゾフの統治 〜

 1645年、ミハイルの長男アレクセイが16歳でツァーリに即位しました。もっとも16歳では普通はさすがになにもできませんから、実権は、アレクセイの妃で、父親は平凡な士族の出であるマリア・ミロスラフスカヤの姉妹を後添えにもらったアレクセイの扶育官モロゾフが握りました。ちなみにモロゾフはアレクセイの結婚後10日で自らも結婚しており、自分がツァーリの縁戚となるために、ツァーリの結婚を仕組んだといわれました。




     この章に登場するロマノフ一族の系譜



      ―
ミハイル      
ナターリャ
           |           ├
           ├―――――
アレクセイ
           |           |
       
エヴドキア        
                      |
   
イリヤ・ミロスラフスキーマリア
                    |
                   └

                    ├
                   
モローゾフ


   
青色下線:メイン人物
   
赤色   :女性
   
斜体   :物故者




 さて、モローゾフは動乱時代の混乱と、スモレンスク包囲戦による財政破綻を打開しようと、士族に対する土地支給の制限等の緊縮財政を決行します。さらに税収を上げようと1646年、従来の3倍という高額の塩税を実施し、変わりに直接税である銃兵税、駅逓税を廃止します。

 どんな国民でも生きるうえで絶対に必要な塩に高額の税金をかけたことは、国の上下、特に民衆に激しい不満を呼び起こします。ところがこの塩税による塩の消費量の落ち込みで結局所期の税収は得ることができず、1647年塩税を廃止し、銃兵税、駅逓税を復活させその3ヶ年分を徴収しようとしたからたまりません。

 ヴォロネジ等各地で塩税反対暴動がおこり、モスクワでも6月1日、トロイツェ・セルギエフ修道院からクレムリンへの帰途についていたアレクセイに嘆願書を渡そうとした民衆が護衛に逮捕・追い立てられます。翌日モスクワ市内への修道院でのツァーリの行進にも民衆は嘆願書を手渡そうとしましたが、やはり護衛に蹴散らされ、それに怒った民衆は暴動を起こし、モスクワは数日間暴徒に占拠され、クレムリに民衆と銃兵が押し入り、モロゾフ引渡しを求める騒ぎとなります。

 暴動が続く中、6月3日モスクワに火災が発生し、その直後モロゾフが自らの執政を覆い隠すためにモスクワに火を放ったといううわさがひろまります。民衆はクレムリンに押し寄せ、6月5日、アレクセイが民衆の前に現れ、涙を流して、モロゾフを追放するからどうか彼の命を助けてくれと嘆願することでやっと暴動は収まります。こうしてアレクセイはモロゾフをキリロ・ベルゼロスキー修道院に追放し、銃兵は給料増額で手をうってこの問題を解決します。そしてモロゾフの失脚後、実権を握ったのはアレクセイの妃の父イリヤ・ミロスラフスキーでした。


    〜 2. ポーランドとの死闘ー13年戦争 〜

 さて、この当時ロシア帝国の対外進出先として次の三つがありました。

 一つ目はバルト海に面する領土を手に入れ、バルト海をロシアの内海とすることで、スウェーデンとデンマークの間をぬける新航路を確定し、ヨーロッパへ進出するというものです。この方法は、アルハンゲリスクからスカンジナビア半島の北極圏の海を経由するという危険なルートを回避し、西方貿易を促進することができます。この場合、北の強国であるスウェーデンと正面衝突することになります。

 二つ目はポーランドとあくまで戦って旧領を回復し、最終的にポーランドを下すことで東方の覇権を握り、直接ヨーロッパ方面へ進出しようとするやり方です。この場合、やはり西の強国ポーランドと激突することになります。

 三つ目は南に目を向け、長年にわたって南ロシアに侵入略奪を繰り返してきたクリミア汗国を叩き潰し、黒海北岸をて手に入れ、これを足がかりに地中海に進出するやり方です。この場合、クリミア汗国を臣従させるオスマン・トルコ帝国とぶつかることになります。

 様々な動きがありましたが、結局アレクセイの時代は二つ目の方法、ポーランドとの戦いに全力を尽くすことになりました。

 ポーランド王国は、ルブリンの合同の1569年以来ウクライナに進出し、17世紀前半には左岸ウクライナ(ドニエプル川の東岸)にまで勢力を伸ばしていました。ポーランドにより侵食されたウクライナにはマグナートと呼ばれるポーランド系大貴族が移り住み、ウクライナ人の土地をどんどん私領化していったのです。

 さらにジグスムンド3世は、1596年ウクライナとベラルーシに、正教の典礼を残しつつ、ローマ法王の権威を認めるという「合同(帰一)教会、ユニエイト」を成立させることに成功、正教会の所領・教会堂は合同教会へ没収され、正教会の信徒は圧迫を受けることになります。もともとは、ポーランド王国のカトリックとウクライナの東方正教会の融和策として考え出されたこの方法は、ポーランドはウクライナ人の地上の王国のみならず、天の王国も支配しようと画策を始めたととらえられました。

 また、三十年戦争の初期にジグスムンド3世は「リソフチイツィ」と呼ばれる騎兵軍団を設立し、ハプスブルク家勢力を牽制すべく、1620年トランシルバニア(現ルーマニアの一部)を攻めましたが、そのつけで、トランシルバニアの宗主国オスマン・トルコ帝国の怒りを買ってトルコ軍がウクライナに侵攻し、藪から蛇的にトルコとの戦闘が勃発、トルコの意を忖度した、オスマン・トルコ帝国に臣従するクリミア汗国のノガイ・タタールの侵略も活発化し、領民の生活を圧迫する上に安全も守ろうとしないポーランド本国に対して不満が爆発、このような背景から、1648年、ヴワディスラフ4世の時代、ウクライナ領内に拠点を持つザポロージェ・カザークのボグダン・フメリニツキーが首領となった反ポーランド暴動が起こりました。






ボグダン・ミハイロヴィッチ・フメリニツキー
Хмельнищкий
, Богдан Михайлович
1595?-1657

フメリニツキーの乱の指導者
コサックによる初のウクライナ国家、ヘトマンシチーナを建設




 フメリニツキーはチギリンの登録コサックの子として生まれ、幼少時キエフ・モヒラ・コレギウムで学んだ教養も高い人物でした。1620年、彼は父と共にモルダヴィアの戦闘に従軍しますが、父は戦闘で亡くなり、自身はコンスタンチノープルで2年間に渡る虜囚生活を送り、母親が身代金を支払い、解放されました。トルコ、タタールの知識及びトルコ語は虜囚生活で身に着けたものと思われます。

 ちなみに登録コサックとは1572年、ポーランド国王兼リトアニア大公のジグムント2世が300人のコサックを軍人として管理統制すべく正式の登録し、扶持を与えて国家奉仕をさせたのが始まりで、1625年の段階で6連隊6000人にまで増加していました。優遇措置を受けた彼らはコサック社会の支配層となり、のちに登録コサックになりたくてもなれない非登録コサックとの対立が起こります。

 さて、解放後の1622年、フメリニツキーは登録コサックとなり、チギリンのコサックの隊長を務めます。そのまま行けば何事もなくチギリンの領主で一生をおわるはずでした。ところが、1647年、ポーランド貴族でチギリンの副代官であったチャプリンスキが、フメリニツキーの領地に所有権を主張、フメリニツキーの末子を市場で鞭打って殺害し、フメリニツキーが結婚しようとしていた寡婦をさらって殺害し、フメリニツキーの館を焼き払うという事件が起こります。フメリニツキーは土地の法廷、シュタフラ議会、ポーランド王などあらゆる方面に訴えましたが、すべて彼の訴えは退けられ、それどころか当局から逮捕されてしまいした。

 1647年12月、友人の計らいで何とか牢獄暮らしから脱出できたものの、私憤と公憤がない交ぜとなったフメリニツキーはザポロージェ・シーチへ逃れ、1648年、コサックのヘトマン(首領)に選出され、登録コサックと呼ばれる社会的地位の高いコサックを糾合し、コサックの共和国を建設しようとイスラム・ギレイ3世のクリミア汗国と同盟してポーランド軍と戦端を開きます。ここの「フメリニツキーの乱」が勃発したのです。

 マグナートの横暴にウクライナのコサックは上下共に不満を抱いているさなかでしたから、戦いは順調に進み、フメリニツキー率いる反乱軍8000とタタール兵4000は、1648年5月、コルスンでポーランド正規軍6000を破ります。夏にはポーランド正規軍4万を下し、やっと三十年戦争が終わったと思いきや、内乱に見舞われたポーランド勢を、フメリニツキーは右岸ウクライナ(ドニエプル川の西岸)まで押し戻し、10月近くにはリヴィウを抜け、ワルシャワを窺う情勢となります。ここにいたって最近死去したヴワディスワフ4世の異母弟ポーランド王ヤン2世・カジミシェが国王選挙で選出され、ヤン2世カジミシェはフメリニツキーとの間にズボロフの和と呼ばれる講和をポーランド軍との間に結び、フメリニツキーは左岸ウクライナの覇者となります。






ヤン2世カジミシェ
1609-1672

「大洪水」のさなかの治世




 この講和で、登録コサックを4万人にまで増やすこと、ウクライナ(キエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州)をコサックの土地とすること、キエフの府主教はシュタフラ議会に議席をもつこと、等々が決定され、ここにフメリニツキーの領地のチヒリンを首都に置く事実上のコサックの国家(ヘトマンシチーナ)が誕生したのです。こうして史上初の、ウクライナ人によるウクライナ人国家が誕生したわけですが、コサック国家が誕生したとの報により、このヘトマンシチーナには四方からコサックたちが流入し、突如として増大したコサックたちをまとめ切ることができず、非登録コサックによる反乱がおこり、さらには、1651年に再発したポーランドとのベレステチコの戦いでは、ポーランド側からタタール側への莫大な貢税が効いたのか、クリミア汗国に裏切られてフメリニツキーは拘束され、総司令官の欠如でコサック軍は総崩れとなります。

 そこで、ビラ・ツェルクヴァの休戦協定が結ばれますが、この協定には、登録コサックを2万人に減少させ、ヘトマンシチーナの自治はキエフ州に限る、などの厳しい条件が課されていました。クリミア汗国は信用できない、ポーランド王国とも犬猿の仲、ということで万策尽きたフメリニツキーは、1654年ペレヤスラヴリでモスクワと協定を結び、ツァーリに臣従を誓って援軍を要請します。

 条件は、コサックとウクライナ人はツァーリへの忠誠を誓う、ツァーリはコサックへ軍事援助を行なう、ヘトマンはコサックが選出するが、ロシア帝国に事後報告の義務がある、登録コサックは6万人とする、ウクライナ貴族はこれまでの権利を認められる、などなどです。この条約がポーランド支配下の、ウクライナ情勢へのロシア帝国の介入の条約的根拠となり、ツァーリへの忠誠云々の項は、ひいてはロシア帝国のウクライナ併合の第一歩となったので、この協定には色々と議論も多く、この協約の原本は紛失していますから、ウクライナ側からは、改竄の可能性などの指摘もあるそうです。

 ともかく、この協約から、長い称号の、「全ルーシのツァーリ」の部分を「全大ルーシおよび小ルーシのツァーリ」と変更したアレクセイは、フメリニツキーの反乱などを始めとするポーランドの混乱を見、積年の対決に勝負をつけるべく、1654年、ロシア・ウクライナコサック連合軍は、クリミア汗国と同盟したポーランドに侵攻します。十三年戦争の始まりでした。このロシアの宣戦布告に合わせて、ポーランドの苦境を見たスウェーデン国王カール10世率いるスウェーデン軍も1655年ポーランドに進撃します。

 北欧の歴史をちらりと概観しますと、1397年、デンマーク王ワルデマール他日王の娘で、ノルウェーに嫁したマルグレーテがポメラニア生まれの姪の息子エリクを押し立てて成立させた、スウェーデン・デンマーク・ノルウェーを合一させたカルマル同盟(デンマークが盟主)が発足していました。が、グスタフ・バーサが反乱を起こし、カルマル同盟から1523年スウェーデンを独立させ、バーサ王朝の時代が到来していました。そのバーサの四人の息子の一人ヨハンは、バーサの後を継いでスウェーデン国王となっており、スウェーデン国王ヨハンの息子ジギスムントはポーランド王となっていました。

 ところがヨハンは急死し、ヨハンの弟のカールがしばらく摂政をしていましたが、ジギスムントがスウェーデンにやって来てスウェーデン国王に即位したのです。ポーランド国王のジギスムントはカトリック化しており、このジギスムントのスウェーデン国王即位は、プロテスタントが入り込み始めていたスウェーデンをカトリック化しようという画策があったといいます。

 ジギスムントがポーランドへ帰国した後、この機を捕らえたカールはプロテスタント(ルーテル派)を宣言し、軍を率いて戻ってきたジギスムントを打ち破ります。そしてジギスムントの国王廃位を宣言し、自ら国王に即位し、スウェーデンを完全にプロテスタント化しました。

 ところが、ポーランド王国側はあくまでスウェーデン王国の王位継承権を破棄しておらず、このポーランド王国のバーサ王家の継承権を放棄させるため、前述したカール10世の1655年のポーランド攻撃が始まったのです。

 スウェーデン軍とロシア軍の挟撃を受けたポーランドになすすべはなく、ロシア軍は破竹の勢いで進軍し、スモレンスクを奪回、白ロシアとリトアニアの大部分を占領し、ポーランド領のワルソー(ワルシャワ)、クラクフまで占領し、ヤン2世・カジミシェは国外逃亡(シュレージェンへ)します。が、南のウクライナでは、ポーランドを支援するクリミア汗国の抵抗により戦況は芳しくありませんでした。さらに1655年国王が亡命先からレジスタンスを訴えると、シュタフラたちはこれに答え、各地でスウェーデンに対する抵抗が開始されます。1656年、ヤン2世・カジミシェはポーランドに戻り、本格的な反攻を開始します。

 ポーランド王国はともかく二面に敵を迎えてはなすすべがありません、そこで先ほど述べたロシアとポーランドの間では1656年休戦条約(ヴィリノ条約)が結ばれました。しかしこの休戦条約のため、ペレヤスラフでせっかくヘルマンシチーナがロシアと結んだ条約が事実上骨抜きとなります。

 ロシア帝国の戦線脱落に危機を感じたスウェーデン王カール10世は、フメリニツキー、ブランデンブルク選帝侯フリードリッヒ・ヴィルヘルム、トランシルバニア公、をさそって史上初のポーランド分割を提案します。これにそって連合軍がポーランドに攻め込みますが、ポーランド王国はロシアと休戦し、デンマークと同盟を結び、ブランデンブルク選帝侯にはプロイセン公国に対する宗主権を放棄することで、スウェーデンを孤立させることに成功しました。

1657年、協約違反を訴えながらフメリニツキーが病を得て死亡すると、新ヘトマンに選出されたイヴァン・ヴィホフシキーは、ハジャチ条約をポーランドの間に結び、キエフなどを中心とする大ルーシ公国を建国し、大ルーシ公国をポーランドに併合させました。やっとこさっとこ、これでポーランドはスウェーデンとの一騎打ちに入れる状態になります。

 孤立無援のスウェーデン側ですが、ここでさらに突発事態が発生します。ポーランドと同盟したデンマーク王国のフレデリック3世が、スウェーデンがポーランド軍との戦闘に入った背後を突く形でスウェーデンに宣戦布告し、さらにポーランドからプロイセン公国ももらったことですし、むしろスウェーデンの勢力拡張を危惧した神聖ローマ帝国の選帝侯ブランデンブルク候も敵に回し、オランダも艦隊を派遣、一気に攻守ところを変え、四方八方を敵にまわし窮地に陥ってしまったのです。しかし、スウェーデン軍は1657年の大寒波で凍りついたデンマークの海峡を軍で踏破してコペンハーゲンに迫るという荒業を敢行し、戦意を喪失したデンマーク軍は1658年、ロースキレの和議を結び、デンマークは領土を割譲されます。

 これを機会にデンマークをスウェーデンの一属州にしてしまおうと、カール10世はポーランドとの戦争を続行しつつ、1659年、和議を蹴り倒してさらにデンマークに侵攻し、コペンハーゲンを再度囲みますが、激烈なデンマーク軍の抵抗にあい、加えてオランダの派遣した艦隊、ブランデンブルク候の軍隊も到着したため囲みを解き、ポーランド全土からも撤退しました。さらに1660年、カール10世が38歳で突然死去したため、4歳のカール11世が即位しました。当面は摂政団が作られ、1666年ポーランドとオリヴァ条約が結ばれ、ポーランド国王のスウェーデン王位継承権の放棄、リヴォニアの割譲を条件に休戦が結ばれました。

 安定したと思われたウクライナ情勢ですが、ハジャチ条約で定められた措置にはコサック側の反対も多く、ヴィホフシキーはポーランドへの亡命を余儀なくされます。翌1659年、フメリニツキーの子ユーリーがヘトマンに選出され、ペレヤスラフ協定をモスクワと再確認し、モスクワへ接近しました。

 さて、こうしてスウェーデンと休戦したポーランドはロシアに向かって反発し、またも戦端が開かれます。もはやロシア一国と戦えばよいポーランドは優勢に立ち、白ロシアとリトアニアを回復し、これを見たヘトマンのユーリーはウクライナをポーランドに併合し、自治をポーランドから承認されます。ところがこれにも猛反発がおこり、1663年ユーリーはポーランド勢力の強い右岸ウクライナへ去ることになり、この年以降右岸ウクライナと左岸ウクライナはそれぞれ別個のヘトマンを立てることになりました。

 長引く戦乱と重税、それにペストが加わった不況で戦費調達に苦しむロシア政府は銅貨を乱発し、インフレを引き起こしました。この中で政府の支払いは銅貨を使用する一方で国庫納入には銀貨を要求したため民衆の不満は一気に噴出し、1662年、赤の広場でのちに「銅貨一揆」とよばれる民衆暴動がおこります。




左が当時の銀貨、右が銅貨





(表)





(裏)


著作権はありません。




 このロシア側の混乱の中、ポーランド軍は1663年ヤン2世カジミェン王自ら率いる軍隊により左岸ウクライナ回復に乗り出しますがこれも失敗、1667年戦争に疲れた両国は13年の講和条約(アンドルソヴォの和)を結びます。無論、戦場となったウクライナにとってこの時代は、国土が破滅的に荒廃した時期であり、フメリニツキー死後の20数年は、「ルイーナ(荒廃の時代)」と呼ばれます。

 この条約はロシア側にとって極めて有利なものであり、右岸ウクライナはポーランド領となったものの、ロシアはキエフを含む左岸ウクライナを手に入れ、次のソフィア摂政の時代に入り、最終的にほぼウクライナ全土をロシアが併合することができたことなどは、東方の覇権がポーランドからロシアへ移ったことを象徴するものでした。ところがポーランドは、ロシアとは講和できましたが、オスマン・トルコ帝国との戦いはなんと1676年まで続けねばなりませんでした。

 ポーランド王国には、三十年戦争初期のトランシルバニア侵攻から始まったオスマン・トルコのウクライナ侵攻およびクリミア汗国の襲撃、スウェーデン国王グスタフ2世・アドルフのアルトマルク条約締結によるリヴォニア北西部喪失と痛いことが続きました。

 さらにそれだけではなく、ボグダン・フメリニツキーのウクライナでの反乱、それに呼応してポーランドに侵入したロマノフ朝のロシア帝国との13年戦争と左岸ウクライナ喪失、さらにこれを好機と攻め込んだグスタフ2世・アドルフの娘のクリスチーナ女王の次のスウェーデン国王カール10世の攻撃、この外交政策の失敗による周辺各国の一連の侵攻をシェンケーヴィチの小説から取って「大洪水」と呼びます。この大荒廃の痛手から、ポーランドは二度と立ち直ることはできませんでした、というかこれだけの攻撃を受けて国家がよく崩壊しなかったものだと不思議です。

 もっともこの時代、ロシアはポーランドとは対立していたばかりではありませんでした。実際ロシアの近代化の模範となったのはポーランドです。アレクセイは1631年創立され、当時のスラブ世界の最高学府であったキエフ神学校の卒業生で当時ポーランド領だったベラルーシ出身のポロッキーを家庭教師に召抱え、フョードル3世や後の摂政ソフィアの教育に当たらせたのです。


    〜 3. 総主教ニコンの抜擢ー典礼改革 〜

 1652年、アレクセイは空位となった総主教座に、ノヴゴロド府主教であったニコンを任命します。ニコンは敬虔なロシア正教徒であったツァーリ・アレクセイも加わる宗教サークルのメンバーでありまして、このサークルでは、民間にのこる異教の迷信の排除、翻訳間違いや長い間をへるうちに変化してしまった典礼方式などを正式なやり方にもどすことなどが討議されていました。他のサークルメンバーにはツァーリの懺悔聴僧ステファン・ヴォニフャチェフ、イヴァン・ネロノフ、アヴァクームなどがおりました。ニコンはニージニー・ノヴゴロドの農民の出でありましたが、このサークルのメンバーに入ったことでアレクセイの目にとまり、その学識・胆力などを見込まれ、破格の出世を遂げたのです。






総主教ニコン
(1605−1681)

ロシア正教の典礼改革を行う




 ロシア正教会の最高権力者となると、ニコンはすぐに精力的な行動を開始します。彼はまず典礼書を、当時ヴェネツィアで出版されていたギリシャ語の写本に準拠し、素性のよくわかっていないギリシャ人アルセニオスの手を借りて、新たに正確にロシア語に訳出しました。そして1952年2月、教会での跪拝をとりやめ、三本の指で十字を切っていたのを二本の指で切るように、ハレルヤも二回ではなく三回、十字架更新の向きを従来と逆にするよう布告します。また、非妥協的な彼は自分の言うことを聞かないものは容赦なく排除し、ステファン・ヴォニフャチェフは宗教改革事業の中心から外され、イヴァン・ネロノフも排除、改革に徹底的に反対だったアヴァクームはキリスト者の上位者に対する不服従の罪で布告から半年後逮捕され、1953年8月シベリアのトポリスクに流刑にされました。

 世俗の権力への忠誠が流儀の東方正教会には珍しく、アレクセイは神の国の権力の、俗界の権力への優越を主張し、法令の前文には「聖なる総主教が指示し、貴族会議が取り決めた」という前文を挿入し、アレクセイが創設した修道院長の権限を抑制し、総主教の位はツァーリの上にあることを太陽と月の比喩で主張しました。

 いくら自分が抜擢したとはいえ、ここまで暴走し始めたニコンをアレクセイもほおって置くわけには行かず、1658年、些細な対立から自らの修道院に引っ込んだニコンに対し、1660年、アレクセイは新総主教選出とニコンの聖職剥奪を決定します。アレクセイは修道院領の下賜と引き換えに新総主教の祝福を求めますが、ニコンはこれに対し、このような行為は破門に価するとツァーリを脅します。

 これに対し、アレクセイは、東方正教会内では極めて地位の高いアンティオキアとアレクサンドリアの総主教をロシアに招いて教会会議を開き、1666年から、アレクセイがニコン対し取った処置を検討させます。会議はアレクセイの思惑通りに進み、結局アレクサンドリアの総主教はニコンから総主教の頭巾と胸間イコンを取りあげ、正式に総主教から廃位、今後は修道院で罪の許しを乞う生活を送るよう言葉をかけ、ヴォログダのフェラポントフ修道院へ流刑となりました。

 改革の推進者であるニコン自身はこうして流刑となりましたが、教会儀式改革そのものは正式に承認されます。しかし、古い典礼に対し執着を持つ人も多く、教会でひそかに古い典礼を守ったり、古来からの信仰を守るため、北方の森の中や孤島に移り住んだ者も出ました。こうして分離派(раскол)が誕生したのです。特に激しい分離派の抵抗としては、分離派の信者や僧侶達が1668年から白海に浮かぶ世界遺産のソロヴェツキー諸島(ソロフキ)に立てこもり、政府軍と交戦、8年間の戦いの後鎮圧されたものがあります。ちなみのこのソロヴェツキー諸島はソ連時代強制収容所となります。

 ニコンの宗教改革に徹底して反対だったアヴァクームですが、トポリスクからさらに懲罰として東シベリア遠征軍の従軍僧としてアムール川の支流シルカ川まで行軍させられます。1664年モスクワに戻され説得を受けるも不転向、その年のうちに逮捕され、北ロシア、プストジョールスク(ここはもはや北極圏です)、メゼーンに流刑にされました。1667年にはアレクセイがニコン追い落としと典礼改定のために開いた教会会議に分離派代表として呼び出されますがやはり分離派支持、そこで1667年極地プストジョールスクへ流刑、15年間土牢に収監されますが執筆活動を続け、1682年4月14日、あくまで信仰を捨てず、火刑に処せられました。


       〜 4. ステンカ・ラージンの乱 〜

 さて、ポーランドとの激闘にロシアが勝利を収めたまさにそのとき、アストラハンを軸に内乱で大量に出現した貧困階級を率いて各地を転戦したのがブィリーナ(英雄叙史詩)に名高いスチェパン(ステンカ)・ラージンです。

 1667年、ラージンはドンを出発し、ヴォルガ川をくだってカスピ海に入り、バクーなどを荒らしつつカスピ海を南下しました。






17世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市





 そしてカスピ海東南岸へ上陸したラージンはペルシャ帝国のシャーに仕えることを願い出ましたが、ツァーリの要請で出兵したペルシャ軍に破られ、一旦撤退します。バクーの小島に潜んだラージンはカザーク軍打倒を期して出撃したペルシャの艦隊を破り、提督の息子・娘を捕虜にするという快挙に出ます。この勝利を背景に庶民に人気の高まったラージンはアストラハン長官と交渉し、しばらく市中に滞在し、のちにドンに帰還しました。

 さらにラージンは、流賊の常で、各地を転戦するごとに雪だるまのように膨れ上がった兵7000人を率い、「ドンからヴォルガへ、ヴォルガからルーシへ」と呼びかけ、モスクワへの進撃を開始します。

 まずツァーリツィン(ヴォルゴグラード、ソ連時代名スターリングラード)を陥落させ、アストラハンを攻略します。反乱にはヴォルガ川の河川労働者も加わったためラージンはヴォルガ川水系を支配下におさめ、カザンへとせまるシムビルスクを包囲しますが、カザンから急遽派遣された守備隊に行く手を阻まれます。






ステンカ・ラージン 1630?〜1671
後世ブィリーナ(英雄叙史詩)で長く伝えられる




 そこでラージンは「魅惑の文章」なる檄文を発布。農民、下層市民が反乱に同調し、反乱は全土に波及しかねない勢いを見せます。モスクワの宮廷では首都を厳戒態勢に置くとともにロシア帝国正規軍をシムビルスクに派遣、ステンカ・ラージン軍に決定的な打撃を与えました。

 ちなみに1669年、妻マリアに先立たれたアレクセイはスモートリヌィを開き、使節庁長官アルタモン・マトヴェーエフが後見していたナターリャ・ナルィシキナと結婚します。この二人の間に生まれた息子が、後に大帝と呼ばれるピョートルT世です。これでミロスラフスキー家は一時失脚し、ナルィシキナ家がわが世の春を謳歌します。

 ラージンはドンに逃げ帰り、再起を図りますが失敗、カザークの長老層に捕らえられ、モスクワへ護送され1671年6月6日、赤の広場で処刑されました。

 最後までラージン側について戦ったアストラハンも1672年11月に降伏、ラージンの乱は失敗に終わり、これを機にアレクセイは、すべてのコサックにツァーリへの忠誠を誓わせることに成功しました。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『物語 ウクライナの歴史』
    黒川祐次著
    中央公論社

   
・『物語 北欧の歴史』
    武田龍夫 著
     中央公論社


   
・『よみがえるロマノフ家』
    土肥恒之 著
     講談社


   
・『聖なるロシアを求めて』
    中村善和 著
     平凡社


   ・『ポーランド・ウクライナ・バルト史』
    伊東孝之 井内俊夫 中井和夫
     山川出版社


   ・『ポーランド文化史』

   ・『ロシア史 1』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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