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〜 1. フョードル3世の時代 〜
1676年、アレクセイが崩御するとゼムスキー・ソボール(全国会議)が開かれ、未亡人となった皇后ナターリヤの子供でなく、アレクセイの先妻マリヤ・ミロスラフスカヤの子で15歳のフョードル3世が即位しました。しかし、この年では政務を取れる状態ではなく、しかもフョードルは壊血病の持病があり、足が腫れてあるくのもままならない状態であったといいます。
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この章に登場するロマノフ一族の系譜
マリア
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├――――┬―ソフィア
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| ├―フョードル3世
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| └―イヴァン5世
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―アレクセイ
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├――――――ピョートル1世(大帝)
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ナターリャ
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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これにともなって政変がおこり、アレクセイの子供ピョートルを出産したナターリヤの出身一族で、これまで栄華を極めていたナルィシキン一門は宮廷からおいだされ、代わってフョードル3世のいとこイリヤ・ミロスラフスキーとその一族が権力を握ります。ナターリヤと幼い息子、のちに大帝と呼ばれるようになるピョートルは、プレオブラジェンスコエ村へ自主的に引きこもりました。また、先帝アレクセイが重用した使節庁長官マトヴィエフもシベリアへ流されます。
まだフョードルは成年に達していませんから、彼には家庭教師がつけられます。皇帝の教師に任命されたのがキエフ・モヒラ・コレギウムの卒業生、シメオン・ポロッキーです。ウクライナは、リトアニア大公国領となり、リトアニア大公国がポーランド王国に併呑された後、ポーランド文化の影響を強く受けていたものですから、当然キエフ・モヒラ・コレギウムの教育もポーランドの影響が強く、シメオン・ポロッキー、彼の死後は弟子のメドヴェージェフを通じてフョードル3世はポーランド文化を学び、ロシアの宮廷文化がだんだんポーランド文化してきたのはこの時代をその嚆矢とします。
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フョードル3世(1661-1682)
治世に努力するも短い生涯を閉じる
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さて、フョードル3世統治下でも軍事行動は続行され、ロシアは左岸ウクライナを併合し、1672年、オスマン・トルコとクリミア汗国による右岸ウクライナ割譲を目的とするポーランドへの侵攻が起こっており、ジュラヴノ条約が結ばれ、結局トルコへの右岸ウクライナ割譲が認められていました。そこでロシア軍はポーランド救援を名目に右岸ウクライナに侵攻、ザポロージェ・コサックを支配下に置きます。
この権益をとりもどそうとオスマン・トルコは1677年ロシアと開戦しましたが、セリム・ギレイ率いるクリミア汗国軍が敗退したため、セリム・ギレイは更迭され、ムラート・ギレイが新ハーンに任命されます。そして1678年、トルコの大宰相ムスタファ・パシャの率いるトルコ軍が右岸ウクライナを取り戻しました。
1679年、フョードル3世は、ポーランド人が先祖で、スモレンスクの氏族階級出身の人物を父親にもつアガフィアという女性を見初め結婚します。自分以外の人物がツァーリに影響を与えそうな危険を察知したイリヤ・ミロスラフスキーはアガフィアと父親を中傷するうわさを流しますが、これがフョードル3世の逆鱗に触れ、イリヤ・ミロスラフスキーは失脚します。こうしてフョードル3世は質素な結婚式をあげ、めでたくアガフィアと結婚します。
ところが1681年6月、アガフィアは初産で亡くなり、生まれた子どもも数日後に亡くなってしまいました。フョードルは悲しんだでしょうが、翌1682年2月、側近のイリヤ・イジーコフの娘と結婚しました。イジーコフはツァーリの病が重くなるに連れて権力を増し、新しいゴドゥノフなどと呼ばれました。
され、フョードル3世は、門地制度を廃止します。1682年1月、フョードルは全ての身分のものが門地なしにあらゆる職務につくことが認められ、門地を考慮した人事上の拝領、あるいは官職の席次をめぐる争いなどの弊害をこれで断ち切ろうとしたのです。その他、世帯勢の導入、土地調査なども行ないました。
しかし、フョードル3世は1682年4月27日、即位後6年で亡くなります。フョードル3世の実弟のイヴァンか、アレクセイの二度目の妻のナターリヤ・ナルィシキナの子どもピョートルを取るかでもめましたが、結局精神に異常をきたしていたイワンでなしに、ピョートルが貴族会議と総主教ヨアヒムでツァーリに任命され、ナターリャがピョートルの摂政となりました。
〜 2. ソフィアの権力奪取 〜
しかしこれを不服としたのがフョードル3世の姉ソフィアです。シメオン・ポロッキーらによるポーランド語教育(ポーランドは当時のロシアの宮廷文化のお手本でした)を受け、教養も高く、野心も強かった彼女は、フョードル3世時代も摂政をやって政治の味を占めた彼女は、自分が日陰者の地位にいることを潔しとしなかったのです。ソフィアは愛人のヴァシーリー・ゴリーツィン公、おじのイヴァン・ミロスラフスキーらと手を組み、ひそかにモスクワ唯一の常駐軍事力である銃兵隊を扇動し、暴動を起こしました。
ソフィアらに糸を引かれた銃兵隊はナルィシキン一門の有力者を血祭りに挙げると、ナターリャとソフィアが召集した全国会議の席に乗り込み、イヴァンが第一ツァーリ、ピョートルが第二ツァーリに即位し、ソフィアが二人の摂政となるよう要求し、会議はこれを受け入れます。1682年6月25日、ウスペンスキー寺院でピョートルとイヴァンの即位式が行なわれましたが、もちろんソフィアの肝いりで行なわれたものです。
こうしてまたも全権を掌握したソフィアですが、内政にはなかなかの腕を見せます。まず行なったのが、権力掌握の諸刃の剣、銃兵隊の統制でした。
先の皇帝アレクセイの時代、総主教ニコンがロシア正教の写本の誤りを訂正し、新たな典礼形式を提唱しました。しかし、父祖のしきたりにそむくことを拒絶し、あくまで古い典礼を守る分離派(ラスコーリニク)といわれる一派がロシアの各階層に浸透し、新たな社会不安の原因となっていました。
銃兵隊もその例外でなく、銃兵隊の分離派は父祖の侵攻に帰ることを唱え、さらなる待遇向上を図り暴動をあおっていました。そこでソフィアは銃兵隊の非分離派を金品で抱き込んだ後、分離派の主だったメンバーを捕らえ、斬首・流刑に処します。
さらに自身はモスクワを離れ、銃兵隊の尊敬を集めるイヴァン・ホヴァンスキー公をおびき出して処刑します。そしてホヴァンスキー公殺害の後起こった銃兵隊の暴動も鎮圧し、20ある連隊のうち、実に12を辺境勤務にまわしました。
〜 3. ソフィアの外政ーオスマン・トルコとの戦い 〜
こうして硬軟両方を使い分け、内政上の最大の騒乱分子である銃兵隊を掌握した彼女は、イヴァン5世をクレムリンにとどめる一方で、ピョートルとナターリヤをまたプレオブラジェンスコエ村へ蟄居させ、完全に宮廷の権力を握りました。そしてヴァシーリー・ゴリーツィン公とともに外政ートルコとの戦争にのりだします。
オーストリア、ドイツ諸侯、ポーランド連合軍の総司令官となったポーランド国王ヤン3世ソビエスキが、1683年の第二次ウィーン包囲を解かせることに成功するなど、おとろえの目立ってきたトルコ帝国に対し、これまで強力なトルコの軍事力に圧迫されてきた周辺キリスト教国、ウィーン包囲を跳ね返したハプスブルク家のオーストリア・ポーランド王国、ヴェネツィア共和国、がローマ法王を中心に神聖同盟を結成し(ローマ法王が中心にいる場合、神聖同盟を結成することができます)、一気に攻撃を加えることでトルコに反撃しようと、ロシア帝国にも同盟参加を呼びかけてきたのです。
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ヤン3世ソビエスキ
1629-1696
ヨーロッパ連合軍総司令官として
オスマントルコのウィーン包囲を解かせる。
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黒海へ進出して前進基地を手に入れ、そこから地中海、ヨーロッパへ進出しようと考えていたソフィアはこの話に飛びつきましたが、同盟参加の条件として1686年モスクワ条約を結び、ポーランド王国から、オスマン・トルコに占領されていた右岸ウクライナ部分のうち、キエフ、ザポロージェ・コサックの住む一帯(ポーランドに、ザポロージェ・コサックに対するロシアの宗主権を認めさせた結果です)、ドニエプルからスモレンスクにいたるまでのウクライナの大きな部分を割譲することを認めさせました。ちなみにポーランドは後にトルコからとりもどした右岸ウクライナで1700年、コサック制度そのものを廃止し、これにより右岸ウクライナではコサックが消滅し、新たな支配者としてマグナートがまたも大挙してウクライナに押し寄せることになります。
そしてソフィアはスコットランド人のパトリック・ゴールドンを補佐役につけて、ヴァシーリー・ゴリーツィン公を総司令官としてロシア軍をトルコ領めがけて南下させました。
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17世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
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ところが相変わらず黒海北岸に勢力をもち、オスマン・トルコのスルタンに臣従するクリミア汗国は、得意の騎馬戦術をつかい長駆してロシア軍の背後の補給線を完全に攪乱し、二度にわたるトルコ遠征は、1687、1688年の二回ともクリミア汗国による補給線攪乱が成功して、戦闘状態は続行なものの、撤退するしかありませんでした。
〜 4. 極東政策ー康熙帝との激突「露清6年戦争」 〜
清に撃退されたことでアムール川流域の開発を断念し、ヤクーツク軍政部もアムール川流域のロシア人進出を禁止していましたが、1665年、毛皮商人チェルニゴフスキーの一団がアムール川最北部のアルバジンに集団移住して農地を開墾、さらには鉱山を開き、この入植地はシベリア経済にとって不可欠のものとなります。
この頃清朝は聖祖康熙帝の時代でしたが、1673年、追い詰められた呉三桂の起こした三藩の乱が起こる前でしたので、ロシア人の動きを静観しておりました。しかし1681年三藩の乱を平定し、清朝歴代の懸案、なかば独立勢力と化していた雲南・福建・広東の三軍管区を中央の支配下に組み込むことに成功、さらに鄭一族を降伏させて台湾を征服します。こうして南方の領土を安定化した清朝は、いよいよ北のロシア勢力との国境問題を解決すべく乗り出したのです。
三藩の乱の最中も康熙帝は二度にわたって満州を巡幸、ロシア側の動きを聴取しながら対露戦備の進捗を督励していたわけですが、三藩の乱終結の翌1682年、寧古塔(ニングタ)副都統浪談(ランダン)にアルバジン偵察を命じ、その報告に基づき対露作戦を立案します。ロシア側も清朝の活発な動きから攻撃を予測し、アルバジンやネルチンスクなど八つの砦を建設し、防御態勢を固めます。
そしてロシアの「東部開拓」に耐えかねたツングース系住民ソロン族が清朝に保護をもとめたのを受け入れる形で清朝が軍隊を派遣し、1683年6月16日、アムール河畔のコサックの根拠地で450人のこもるアルバジン砦を、大砲200門、一万の軍勢をもって包囲します。こうして「露清6年戦争」または「アルバジン戦争」の幕は切って落とされたのでした。コサックは善戦しますが、兵糧攻めには勝てず、司令官アレクセイ・タルブジンは清軍に降伏します。
ところが、ネルチンスクの司令官イヴァン・ヴラーソフは70人のコサックをアルバジン砦跡に派遣、アファナーシー・ベイトン指揮するコサック部隊もさらに到着し、旧アルバジン跡よりさらに下流に、砲撃に強い稜保型の要塞を建設しました。アルバジン再建を知った清は6500人をもって1686年、2度目の826人のこもるアルバジン包囲を開始しますが、コサックの猛烈な抵抗に会い、1686年10月にロシア政府からの停戦提議があったのを受け12月には停戦、翌1687年に清軍はとうとう囲みを解いて撤退してしまいました。
この時代すでにピョートル大帝の治世になっておりますが、行きがかり上話を進めまして、イエズス会士フェルビースト(ベルギー人イエズス会士で欽天監)、ブーヴェ(フランス人イエズス会士で『康熙帝伝』の作者)らを仲介にピョートル大帝と康熙帝の間で停戦交渉が行われますが決裂し、その後九千と戦闘が繰り返されます。
さて、ヴァシーリー・ゴリーツィン公は、中央ロシアからあまりに遠く、大兵力を送ることがほぼ不可能な極東での国境問題を外交で解決すべく、コサックとは別途にゴローヴィンを送り、康煕帝は義兄弟で大学士ソエトを送って1689年ネルチンスクで交渉を始めます。
あれほどコサックが奮闘したにもかかわらず、手元に軍勢のない悲しさで、清国側が送った総計一万とも言われる陸兵と軍船の前に、1500人の守備隊しかいなかったゴローヴィンは完全に気をのまれ、ほぼ清の要求をのんでネルチンスク条約を結びました。これ以後もロシア極東部の防衛問題(人口が少なく兵が集まらない、なのに長大な国境)は長らくロシアの懸案となります。
これによると、ロシア側はアルバジン要塞を破壊し、コサックによる開拓のだいぶ進んでいたアムール川流域を完全に放棄し、アムール川、ウスリー川から相当北に進んだスタノボイ山脈(外興安嶺)が両国の国境線と決まりました。これによりロシア極東部で大型船の航行可能な物流の大動脈アムール川を使用できなくなり、ロシアの南下は一頓挫することになりました。絶頂期の国力を背景にした清の、ロシアの南下を防ぐ決意の前にロシアの南下がくじかれたということです。これ以後、のちのベーリングの探検隊が持ち帰った報告から、ロシアはさらに東へ、新たな毛皮獣の住まう地、アラスカへの進出を模索し始めるのでした。
ロシアの南下をくじいた清ですが、さすが異民族が立てた中国王朝らしく、これまで聖人(孔子)の教化(儒教化)がおよび中国の文化(漢字など)と暦を受け入れた国とのみ柵封関係(朝貢関係)を結び、化外の地は完全に無視していた歴代中国王朝とは違い、一応対等の条約を珍しくも結んだ清ですが、その後アムール側流域からは撤退し、国境確定の最後の仕上げ、現新疆ウイグル自治区、東のジュンガル部ハーン、ガルダンの制圧に向かいます。
〜 5. ピョートルのクーデターー権力失墜 〜
トルコに破られ清にくじかれ、外交ではいいとこなし、という状態ですが、そうこうするうちにピョートルはエウドキヤと結婚し、成人への道を踏み出します。ピョートルが心身ともに問題なく成人すれば摂政としての自分の地位も危うくなると考えたソフィアはまたも銃兵隊を使い、ピョートルとナターリヤ、およびこの時期ピョートルの周りに形成されつつあった彼の側近グループを殺害する計画を立てます。
ところが良心の呵責を感じた二人の銃兵から自分の暗殺計画を聞いたピョートルは聖セルギー・トロイツァ修道院へ逃げましたが、その彼のもとに二度にわたるクリミア遠征の失敗に失望していた大部分の銃兵隊が終結しました。
それを見たピョートルはヴァシーリー・ゴリーツィン公を流刑に処すよう命令し、ソフィアを修道院へ送り込みました。
このようにしてピョートルはナルィシキン家の実力者たちとともにソフィアから権力を奪回したのです。17歳と4ヶ月の時のことでした。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『よみがえるロマノフ家』
土肥恒之
著
講談社
・『大帝ピョートル』
アンリ・トロワイヤ
著 工藤庸子 訳
中公文庫
・『物語 ウクライナの歴史』
黒川祐次著
中央公論社
・『世界の歴史14 明と清』
三田村泰助
著
河出書房新社
・『オスマン帝国』
鈴木
薫 著
講談社
・『ロシア沿海地方の歴史』
ロシア科学アカデミー極東支部
歴史・考古・民族学研究所
編
村上昌敬
訳
明石書店
・『歴史読本ワールド ロシア帝国の興亡 第2巻 第7号』
新人物往来社
・『ロシア史 2』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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