ロマノフ王朝(4

〜〜ピョートル大帝の時代〜〜



ピョートル大帝 / ПетрTВеликий
1672
1725年 ロシアの近代化の父

 


Российская

 

 

История


 


 ピョートル1世、神の恩寵により、全ロシア、モスクワ、キエフ、ウラジーミルおよびノブゴロドの皇帝にして専制君主。カザンのツァーリ、プスコフの君主、スモレンスクの大公、エストニア、エヴォニア、カレリヤ、トゥベーリ、ウグラ、ペルミ、ビャトカ、ブルガールその他諸公国の公。ニジニー・ノヴゴロド、チェルニゴフ、リャザン、ロストフ、ヤロスラヴリ、ベロオーゼロ、ウドリア、オブドリア、コンディアの君主にしてグルジアのツァーリ。カバルダ、チェルケスおよび山岳地域諸公の世襲君主ならびに宗主。

 上の文章は、のちに大帝と称され、ロシアの西欧化の歴史に決定的な影響を与えたピョートル1世の正式な肩書きです。建設と破壊、理性と獣性、大の西洋好みと骨の髄からのスラブの気質、火花のように散って消える好奇心と、あくまで続く一貫した政治のビジョン、この相反する性質を同一人物に宿しつつ均衡をたもつ、時にロシアに歴史に現れる天才の一人である彼は、一体どのような人物だったのでしょうか。


          〜 1. 生い立ち 〜

 摂政ソフィアに実権を奪われ、ミロスラフスキー一族が政界復帰し、ナルイシキン一族は徹底的に報復されます。ピョートルも、母ナターリアとともにクレムリンを追放され、プレシオブラジェンスコエ村で流鐸の身となったため、幼い権力者を利用しようと群がる宮廷人たちに取り囲まれるということもなく、ピョートルはかえってのびのびと(ほったらかしにされて)育ちます。また、このようなつましい境遇はピョートルをかえって質素倹約を好む性格に仕立て上げるという結果ともなりました。



     この章に登場するロマノフ一族の系譜


     マリア
       |
       ├――――ソフィア
       |       |
       |      ├―フョードル2
       |       |
       |      └―イヴァン5
       |            |
       |           └アンナ・イヴァーノブナ
       |
       |         エウドキア
       |            |
  ―アレクセイ         ├―――アレクセイ
       |            |
      ├――――――ピョートル1世(大帝)
       |             |
     ナターリャ        ├――アンナ
                   |    |
                   |    └エリザヴェータ
                   |
                エカテリーナ一世 


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 ピョートルは子供の頃から機械、船などに興味を持っていました。当時彼の科学分野の教育を任されていたティンメルマンと倉庫の中から見つけた大叔父の持ち物だった船を修理してヤーウザ川に浮かべて自ら操縦したり、測量器を外国からもちかえってもらったりしましたが、もっとも興味のあったものは戦争でした。


 





ピョートルが少年時代自ら操縦した船
のちに「ロシア艦隊の父祖」と呼ばれる



 彼は近隣の平民の子供をあつめて二つのグループにわけ、プレオブラジェンスキー連隊、セミョーノフスキー連隊と任命し、戦争ごっこに夢中となっていました。

 ピョートルは成長するにつれこの二つの連隊にますます愛着を感じるようになり、外国人居留区(当時ロシアに住んでいた、殆どがプロテスタントであったイギリス、オランダ、ドイツ人とロシア正教のロシア人との摩擦を避けるため、アレクセイが1652年にモスクワ郊外にもうけておりました。)の中から士官経験者を探し出し、ピョートルは連隊のメンバーと一緒になって彼らに軍事訓練の手ほどきを学びます。ちなみにこの外国人居住区(немецкое село)ですが、немецкийが語の本来の意味からすれば「口のきけない」、つまりは外国人という意味のはずが、現代ロシア語では「ドイツ人の」という意味の形容詞になっているのは居住区に住んでいた外国人のうちで、いかにドイツ人が多かったかを物語っていると思います。

 さらに後にソフィアから実権を奪った後もこの二つの連隊での軍事訓練は入念さを加えつつ続きました。ついには銃剣を装着し実弾を装填した銃で突撃し、実際の榴弾が炸裂するという「訓練」を行ない、24人が死亡、80名の負傷者が出ると言う騒ぎになります。ピョートル自らも軍曹となって参加したこの時の訓練を近隣住民は「コジュホーフの戦い」と呼びました。

 ピョートルはこの手塩にかけて育て、気心の知れたプレオブラジェンスキー連隊を、後にごっそりプリカースー中央官庁組織に昇格させます。皇帝の命令を正確に迅速に実行する、専制君主制の支えともいえる組織は、初期はモスクワの治安維持を、更には、ピョートルが地方貴族から取り上げた個々の地方の警察権の全てを握る、ロシア初の全国縦断組織となります。

 一向に素行の修まらないピョートルに対し、母ナターリヤは結婚すれば身上も安定するだろうと考え、1689年、17歳のピョートルを20歳のエウドキヤ・ロプーヒナと結婚させました。さて、結婚したということは、一家の主となったということで、これはピョートルが少年期を過ぎ、法的に一人前の大人としてあつかわれることとなり、摂政ソフィアの立場を微妙なものにします。

 そこでソフィアはピョートルを亡き者にするため銃兵部隊を送ろうとしますが、銃兵部隊はかえってピョートルを支持し、結局ピョートルはソフィアを修道院に送り込むことに成功し、実力で権力を奪り、イヴァン5世とともにツァーリに即位しました。

 ピョートルは、当面外国人居留区に入りびたりの生活を送ります。この行動の理由は、外国人居留区からもたらされるヨーロッパの動きを知り、このころから頭をもたげはじめたドイツの驚嘆すべき科学技術を吸収し、本人自らが大好きであった乱痴気騒ぎを楽しむため、であったと思われます。やがて彼の後見人であったナターリヤが1694年になくなり、彼の親政が本格的に開始されることとなりました。


    〜 2. アゾフ遠征−地中海を望んで 〜

 彼が最初に行なったのはドン川河口に位置するオスマン・トルコ帝国の支配するのアゾフ(古くはターナ)要塞の攻略です。

 アゾフ要塞は黒海の北からの入り口アゾフ海を抑える要衝であり、かつ黒海からドン川をさかのぼる際の要に位置していました。アゾフ要塞攻略は、ピョートルは、キプチャック汗国が解体して以来、常に南部の農業地帯を略奪し、農民をさらって奴隷として売り飛ばしてきたロシア帝国心中の虫というべきクリミア汗国にダメージを与え内政を安定化させるとともに、黒海に侵入し、地中海をぬけて世界へ拡大しようとするロシア帝国の膨張政策の一環でした。


 





17
世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市




 1695年、ゴールドン、ゴロヴィーン、ルフォールらの三将軍に率いられたロシア軍のアゾフへの総攻撃が行なわれますが、ロシア帝国が海軍というものを持っていなかったためアゾフ要塞の海に面した側が封鎖できずガラ空きとなり、トルコの海側からの補給をとめることができなかったため要塞は長期間持ちこたえ、そのうちクリミア汗国軍の騎馬集団に補給線を攪乱され始めたため撤退せざるを得ませんでした。

 翌年すぐさま貴族会議で海軍創立が可決され、ピョートルは37隻のガレー船を主軸とするロシア艦隊を編成しこれをスイス人フランツ・レーフォルトに指揮させました。ちなみにこのさなかの1696年、ピョートルの兄イヴァン5世が死亡し、名実共にピョートルの支配が確定します。

 1696年のアゾフ攻撃は、今回は海上封鎖の成功が功を奏し、さらにオーストリアの仕官と技師が到着、彼らの技術力により大砲の標準を正確に合わせることが可能となって、2ヶ月あまりで要塞は陥落しました。これにより、ピョートルは先代のソフィア摂政とは異なり、ロシアを防衛するに足る軍事的才能が自分にはあることを内外に示すとともに、黒海進出の足がかりを作ったことになりました。

 こののちの1699年、四方八方からキリスト教国に攻め込まれ、泥沼化した戦争から足を引きあげるべく、オスマン・トルコ帝国の書記官長ラーミー・メフメット(のちにこの交渉をまとめた功績で、1702年宰相に出世し、1703年には、それまで殆どを小姓(イチュ・オウラン)出身者が占めていた大宰相に書記官長出身の人物として初めて出世します。)が交渉を始めます。

 ロシア帝国は戦略目標のアゾフは手に入ったことですし、トルコとの講和には乗り気、ハプスブルク家のオーストリアも嫡子なく没そうとしているカルロス2世(翌1700年この王の死で、スペインの継承権を巡ってブルボン王朝のフランスとハプスブルク家のオーストリア、のちにイギリスとオランダまで加わったスペイン継承戦争が勃発します)の死後のヨーロッパでの政治波乱を見越してトルコからは撤退したい、東地中海の全戦域で圧倒的な勝利を得たためこの時点での講和もかまわないヴェネツィア共和国、1697年の国王選挙で選ばれたザクセン公フリードリッヒ・アウグスト1世、ポーランド国王としてはアウグスト2世、も旧領回復で問題ない、と関係諸国の利害は一致して、1699年カルロヴィッツ条約が結ばれました。オスマン・トルコ帝国初のヨーロッパにおける領土割譲です。

 この条約は、ロシアに関してはクリミア汗国にカッファでの奴隷貿易を禁止させ、クリミア汗国への貢納金の停止が決定なされます。1243年、ウラジーミル大公位につくためにバトゥに承認を受け、貢納金と兵力提供を確約されて以来、実に436年の歳月が過ぎて、ピョートル大帝の手で名実共に「タタールのくびき」が断ち切られたのです。

 ピョートル大帝はさらに多くを望んでカルロヴィッツ条約を認めませんでしたが、ロシア単独でオスマン・トルコ帝国に立ち向かうのは不可能ですから1700年イスタンブール条約を結び、アゾフ城砦領有を確定したところで手を引きます。


〜 3. ピョートルの遣欧使節団ー近代化を目指して 〜

 1697年、ピョートル大帝は、フランツ・レーフォルトを団長とする300人の使節団を西欧に派遣しました。対トルコ戦におけるロシア軍の造船技術の遅れ、砲兵技術の未発達などを身を以って体験し、これらを西欧先進技術で補い、ひいてはロシアの近代化をすすめようというつもりだったのでしょう。

 欧米先進技術を視察し、これをロシアに導入するため派遣されたこの使節団の中には公然の秘密でしたが、「ピョートル・ミイハイーロフ」なる変名を使って身分を隠したピョートル自身も混じっていました。もともと機械いじりの類の好きなピョートルは、ケーニヒスベルクでの二ヶ月の滞在中、シュテルンフェルト大佐の下で修行し、砲術師の免許皆伝を取ります。

 また使節団は、地中海を経由せず喜望峰から直接東洋へ立ち寄る新ルートを開拓し、貿易立国として財をなした、当時一級の造船・航海技術をもつオランダに立ち寄ります。アムステルダムでは市長ウィッツエンに頼み込み、東インド会社の造船工場で働く許可を受け、ピーター・ティンメルマンと名乗って親方ヴェリック・クラース・ポールの元で丁稚奉公を始めました。

 ピョートルは自ら技術を学び取るだけでなく、随員に分担して航海技術、索具の組み立てなどの造船関連技術を学ばせ、とうとう親方から船大工および作図の免許皆伝を得ました。

 その他当時医学はオランダで最も進んでいましたので、人体解剖、外科手術の見学を行います。また歯科技術にも興味を示し、初歩的な知識を学ぶと抜歯道具一式を買い込みました。廷臣たちを片っ端から「診療」し、虫歯の疑いのある歯を麻酔なしで抜きとり、それを小さな袋に入れて持ち歩き、時々眺めるのは生涯を通じたピョートルの趣味となりました。

 さらに使節団はイギリスに足を伸ばして造船・航海技術を学び、艦隊演習を見学しました。さらにイギリスの議会を見学し、造幣局・天文台などを回りました。

 こうして彼は自ら様々な分野の初歩的な技術を習得し、それらの技術の概観を自分がつかんだ上で(やはり「君子は器ならず」なのでしょう。)、専門の職人・技術者をスカウトし故国へ連れて帰りました。彼らは自分たちの専門技術をロシア人弟子に伝え、その弟子たちが本格的にロシアに西欧先端技術を根づかせていきました。

 またこのピョートル大使節団は、先進技術の視察だけでなく、アゾフ遠征での成功に更にはずみをつけ、本格的に黒海進出を図るための対トルコ軍事同盟を結ぶ相手国を探ることも目的の一つでした。

 その頃ヨーロッパではハプスブルク家のカルロス2世の死が間近に迫っており、その死によって起こるであろうヨーロッパ権力の再編成(のちにオーストリア、フランス、イギリス、オランダ間でスペイン継承戦争が勃発します)にほぼ全宮廷の目が集中しており、西方のトルコに注意を払う余裕はヨーロッパにはありませんでした。

 そこでピョートルは、今後のロシアの膨張政策としてトルコ帝国よりは弱体に見えたスウェーデン王国と戦い、バルト海を抜けてヨーロッパと交渉する、という方策を採用し、帰国することになりました。

 また、この旅行の最中の1698年に修道院に送り込まれたソフィアと連絡をとった銃兵隊の反乱がおこりますが、すぐロシア正規軍に鎮圧されます。そしてポーランド王国に立ち寄り、新国王アウグスト2世と会談しますが、このときロシア帝国とポーランド王国によるスウェーデン王国の挟撃が決められたようです。ロシアに帰国したピョートルはこれを機会に772人の銃兵を処刑して反対派を一掃し、ソフィアから皇女の位を奪い、尼僧スサーンナに格下げしたピョートルは、同時に気の合わなかった正妻エウドキアをスーズダリのポクロフスキー修道院へ追放しました。修道院へ送るということは現世との縁を立つということですので、結婚は自動的に解消ということになります。


 〜 4. 改革と北方大戦争ースウェーデンとの戦い 〜

 大量の技術者をともない、西欧から帰還したピョートルは近代化を目に見える形にまで広げるため、「髭剃り令」ともいえる命令を発しました。この、日本でいえば「断髪令」にあたる処置により、近代化への意気込みを誰の目にも見える形で示します。

 また、それまで使われていたビザンツ暦(9月1日が新年で、西暦0年を5508年とする)を取りやめ、より正確なユリウス暦を採用し、ロシアアルファベットの改革を行います。ロシア初の叙勲制度として聖アンドレイ勲章を設立したのも彼です。また、1704年には皇帝特別官房を設置し、長官にもと馬丁のビロン(彼はピョートル大帝死後のアンナ・イヴァーノヴナの時代に帝国の実権を握ります。)を任命し、秘密警察の役割をこの組織に持たせます。






ピョートル大帝時代の銅貨(1711年発行)。






真ん中はコペイカと読み取れます。
その他はちょっと判読不能、古代教会スラヴ文字の
プシーなどが見えます。

画像の著作権はありません。



 このような改革を推し進めつつ同時にピョートルが考えていたのがバルト海進出のためには避けては通れないスウェーデン王国との戦争です。イヴァン雷帝、アレクセイらが望んで果たせなかった懸案、バルト海に面した土地をロシア領にし、北極海を経由しない安全な交易路を確保し、ゆくゆくはヨーロッパに進出すること、ピョートルはこの目標を達成しようとしていたのです。

 スウェーデン王国はミハイル・ロマノフの時代、スムータの後遺症で混乱するロシアからカレリア地方とイングリアを手に入れ、三十年戦争の勝者として1648年のウェストファリア条約により、北ドイツにポンメルン、メックレンブルク公国などの公領を手に入れ、神聖ローマ帝国の帝国等族となり、帝国議会の議席権、発言権、議決権を手に入れます。さらにはアレクセイの時代のロシア・ポーランド13年戦争に介入し海をわたってポーランドと戦い、休戦条約でリヴォニアを奪いました。

 ついでカール11世の時代、スウェーデンに取られた領土を回復しようと宣戦布告してきたデンマークのクリスチャン5世を、北欧史上最も凄惨な戦いと呼ばれるルンドの会戦でやぶりました。戦いの山場で投入されたスウェーデン騎兵集団の突入が決定打となったのです。この勝利により、バルト海の制海権を握り、デンマークの穀倉地帯スコーネを奪ったスウェーデン王国は、当時まさに絶頂期を迎えていました。

 つまりバルト海から西ヨーロッパへ抜けるルートを探っていたピョートルにとってスウェーデン王国は避けては通ることのできない敵だったのです。ところが1697年、スウェーデン王国では、カール11世が41歳で亡くなり、弱冠15歳でしかない王、カール12世が即位することとなりました。強国スウェーデンに年端も行かない王が立った、これは失地回復を狙っていた近隣諸国にとって絶好のチャンスに思えたのです。






スウェーデン王 カール12 16821718
近隣諸国との死闘の中に一生を過ごす。




 ちょうどその頃、ポーランド王アウグスト2世の補佐官であったリヴォニア亡命貴族パトクリの肝いりで、デンマークのフレデリック4世、ポーランドのアウグスト2世、ロシアのピョートルとの間で軍事同盟が締結されました。30年戦争の勝者となり、ポンメルン、司教領ブレーメンなどドイツにも領土を獲得し、万人の脅威となりかねないスウェーデを、3カ国でたたこうというのがこの同盟の目的でした。あまりに周辺に敵を作りすぎたつけといいましょうか。

 そして1700年、ポーランドのアウグスト2世がリヴォニアに軍を向け、デンマークがスウェーデンと同盟していたホルシュタイン・ゴットルプ公領(ピョートルの孫、のちのピョートル3世の父親の実家です)に攻撃を加え、ピョートルはミハイル・ロマノフの時代割譲されたイングリア(インゲルマンランド)に攻め込みます。スウェーデン王国の運命も風前の灯かと思われました。

 ところが当時弱冠18歳のカール12世は軍事的才能に恵まれた君主でした。デンマーク本土のジーランドに上陸し、首都コペンハーゲンに迫ることで、デンマークにホルシュタイン・ゴットルプ公領を攻撃しないこと、スウェーデンの敵を助けないなどを約した強制単独講和を結ばせることに成功します。

 1700年、オスマン・トルコとの30年間の講和条約を結んだピョートルは、総勢およそ4万の軍勢でスウェーデン領ナルヴァを包囲します。が、カール12世自らが率いる18千のスウェーデン軍に完敗し、145門の大砲の全てをうばわれます。寡兵で大軍をやぶるという、戦史上めったにない例といわれています。

 ロシア軍に痛撃を与え、ロシア側が軍を立て直すまでしばらく時間がかかっているスキにスウェーデン軍はポーランドとの本格的な戦闘に入ります。ちなみにモスクワで大火があり、イヴァン雷帝が作らせた「鐘の王」が割れたのもこの頃です。

 この時期ピョートルは、スカヴロンスカヤ・マリア(もしくはマルタ)とよばれると出会いました。のちにエカテリーナと改名するこの女性は、スウェーデン軍がポーランドに転戦している間、ロシア軍がスウェーデン領に攻撃をかけた際捕虜となった人物です。リヴォニアのリフリャンド地方に生まれたマルタは四人兄弟でしたが一家は食い詰め、最初ダウトという牧師の家に子守として出されていました。が、ダウト家の使用人全体がペストにかかり、マルタも半死半生となっていたところを博識のグリュックという牧師に引き取られ、マリエンブルグへ移ります。

 さて、成長したマルタはスウェーデンの竜騎士ヨハンと結婚しました。しかし、ピョートル率いるロシアとスウェーデンとの間で戦争が勃発し、ヨハンは出征、そのまま帰らぬ人になります。マリエンブルグはロシア軍に包囲され降伏、マルタは占領軍司令官で大貴族のシェレメーチェフの目にとまって彼の愛人となります。しかし、シェレメーチェフの陣営に来たピョートルの寵臣メンシコフ(質素なピョートルに対し贅沢を好んだ人で、ピョートル大帝が宴会を開くときは食器などの食事会セットをメンシコフ亭に借りに行ったほどです)がマルタを自分の愛人として奪い、さらにメンシコフの陣営に訪れたツァーリの目にとまって召し上げられて愛人となり、後に正式な皇后となります。

 さて、ポーランド軍を次々と破ったカール12世は1704年、反アウグスト2世派とともにアウグスト2世を廃位させ、自分の推薦するポズナン県知事スタニスワフ・レシチンスキを国王に即位させます。1707年、最終的にスウェーデン軍はアウグスト2世の本拠地ザクセンに攻め込み、スウェーデンの軍事的圧力のもと、アウグスト2世は正式に退位し、ポーランドとスウェーデンは平和条約を調印することになりました。

 このスウェーデン軍のポーランド各地への侵攻は、かつては東欧随一の強国であったポーランド王国への最後の打撃で、この惨禍からポーランドは二度と立ち直ることは出来ませんでした。全会一致を原則とするポーランド議会も17世紀中ごろから起こり始めた自由拒否権の乱発で、一議員の拒否で議会が流れることが頻発し分裂したまま身動きがとれず、中央集権化することもなく、これ以後ポーランドは長い後退期に入ります

 スウェーデンがポーランドとの全面戦争に突入している貴重な時間を利用して、ピョートルはなりふり構わずロシア軍の建て直しを図ります。「利得者」といわれる税源発見の役人を登用し、髭税(髭を生やしているとかけられる税金)、印紙税などの大量の臨時税を導入しました。また、1705年はロシア初の徴兵制を導入しました。これは、ロシア軍が従来のように公などの主権者の呼びかけに応じて、各地から封建君主が、職業軍人である従士である自分の一族郎党を率いて集まる混成軍団から、徴兵された一般人民を訓練して軍を編成し、ツァーリから指揮権を与えられた将校が、指揮系統を統一し軍を率いて戦うという近代的軍事組織に切り替わる萌芽でした。また教会の鐘を溶かして大砲に変えたりもします。

 さらにピョートルは、これまでは戦争が終わると解散されていた軍を維持し、常備軍を設置することを考えます。この常備軍を維持するため、自由民からホロープ(私的隷属民)までのロシアの人口調査を行い、それにしたがって人頭税を定めます。

 もっとも重税、働き手をとられる徴兵には当然反対運動が起こりました。まず、ステンカ・ラージンの乱の際のときに最後までラージンを支持したアストラハンが、モスクワから追放された銃兵隊を加えて反乱がおこります。この反乱が鎮圧されると、こんどはカザーク(コサック)の巣窟ドンで反乱が起こりました。

 重税による逃亡農民の増加は当然税収の低下につながったため、ロシア政府は逃亡農民の捜索に乗り出しました。ところが、ドン川流域にすむカザークにとって逃亡農民の受け入れも、彼らの構成員を増加させる重要な手段となっていたうえ、カザークにはある程度の自治が認められ、逃亡農民はドンから引き渡さないという不文律があったのです。それにもかかわらずドルゴルキー公らによって強行された逃亡農民探索はカザークを刺激し、コンドラティ・ブラーヴィンが率いるカザーク部隊がドルゴルキ―公の部隊をおそい、これを全滅させてしまったのです。

 もはや後には引けないブラーヴィンは各地に「魅惑の書」を送り、反乱は全土に広まりました。ブラーヴィンはドンの中心都市チェルカッスクを陥落させ、コサックの全体集会で全てのドン軍団の頭目に選出されます。

 一方ロシア帝国も32千の正規軍を率いて鎮圧に乗り出し、結局ブラーヴィンは仲間の裏切りで殺され、反乱は徐々に収まっていくことになります。

 さらにこの時期1703年にはヨーロッパへの窓、スウェーデン領バルトへの侵攻拠点、サンクトペテルブルクの建設がはじまります。この都の建設は、スカンジナビア半島を北上せず、バルト海から直接ヨーロッパに接したいというピョートルの願いの現実化の第一歩でした。このサンクトペテルブルクの建設による、同都市経由の商業路の発達は、ノヴゴロドの商都としての地位を完全に奪ってしまうことになります。


 〜 5. ポルタヴァの戦いースウェーデンを下す 〜

 こうしてピョートルがロシアの国内態勢をととのえていたとき、カール12世は12万と称される大軍を召集し、1707年ザクセンからロシアへ進発しました。

 ピョートルは焦土作戦を展開、家畜を避難させ、畑を焼き橋を破壊したため、スウェーデン軍は兵糧の現地調達が困難となり、リガから補給部隊を率いたレーヴェンハウプト将軍がスウェーデン軍本隊に合流しようと1708年南下を始めました。

 これを防ぐためピョートルは、シェレメーチェフに本隊を残し、カール12世の本隊のけん制するよう命ずると、遊撃軍をみずから率いると、レースナヤ村でレーヴェンハウプト軍に対し攻撃を開始しました。

 結果はロシア軍の勝利に終わり、レーヴェンハウプトは残存部隊を率いて辛くもスウェーデン軍に合流できましたが、補給物資の殆どがロシア軍の手に落ちるという惨状になります。

 補給物資が届かず、糧食の現地調達もできずという状態でスウェーデン軍は士気が落ち、落伍者も増加しました。そこでカール12世は、食料を調達し、ピョートルの信頼が厚かったにもかかわらずスウェーデン軍の侵入に乗じてロシアに対し叛旗を翻したコサックの左岸ウクライナのヘトマンのマゼッパと合流するため、黒土の広がる豊かな穀倉地帯ウクライナへと軍を進めました。

 マゼッパは、キエフに近いビラ・ツェルクヴァの小領主の家に生ました。彼の父はフメリニツキーの反乱に参加したことがあるといいます。マゼッパはキエフ・モヒラ・アカデミーに学び、ワルシャワへ出、そこでヤン・カジミシェ王に気に入られ、国王にオランダ留学費用を負担してもらって見聞を広めます。

 1663年になぜか故郷に帰った彼は、1669年右岸ウクライナのヘトマンのドロシェンコに仕え、筆頭副官になりますが、1679年、クリミア汗国の使節に赴いた際にザポロージェ・コサックに捕らわれてモスクワに送られます。ところが、そこで気に入られ、左岸ウクライナのヘトマン、サモイロヴィッチのもとで筆頭副官になります。1687年、サモイロヴィッチがシベリア流刑となると、彼の後を襲って左岸ウクライナのヘトマンになったのです。

 さて、話をスウェーデン軍に戻しますと、1709年、ヨーロッパを記録的な大寒波が襲い、悪条件下での敵地での困難な越冬を終えた後、カール12世とマゼッパの連合軍は、ウクライナの城塞都市ポルタヴァに対し攻撃を開始しました。

 ピョートルみずからも指揮をとるこの戦いでロシア軍は勝利を収め、カール12世は左足に銃創を負います。さらに退却するスウェーデン軍は退却先のペレヴォローチナでさらにメンシコフ率いるロシア軍に追撃され、カール12世とマゼッパは農婦に変装し、1500名の兵とともに南下しオスマン・トルコ領内へ亡命しました。マゼッパは亡命先のベッサラビアで亡くなり、一方レーベンハウプト将軍は迂回撤退を命じられましたが、スウェーデン軍は戦意を喪失しており、やむなくレーベンハウプト将軍は全軍を率いてロシア軍に降伏しました。スウェーデン軍は事実上壊滅してしまったのです。






アレクサンドル・ダニーロヴィチ・メンシコフ
Меншков, Александр Данилович
1673
1729

ピョートル大帝の寵臣、大公まで上りつめる。



 このポルタヴァの戦いに呼応してデンマークが再度スウェーデンに宣戦布告しますが、ステンボック将軍に撃破され、これ以後デンマークはスウェーデンに対抗する力を完全に失ってしまいました。

 1710年、ロシアが戦争に勝利し北方での脅威を取り除いた後、本格的に黒海方面に進出すると踏んだオスマン・トルコ帝国は、カール12世の進めもあり、講和条約を破ってロシア帝国に宣戦布告します。オスマン・トルコ帝国の大宰相バルタジュ=メフメト=パシャは大軍を率いてドナウ川に向かって前進し、属国クリミア汗国にも出撃を命じました。

 ロシア側はこれを受けてたち、ポーランド等のキリスト教近隣諸国を戦争に呼びかけますが、わずかにモルダヴィアがこれに同調したにすぎず、ピョートルは皇后エカテリーナ(元の名前はマリアまたはマルタ)を連れ、ドナウ川を越えて進撃してきたトルコ軍を黒海の西プルート川で迎え撃ちます。

 このころ皇后エカテリーナとなっていたマルタですが、1703年、カチェリーナ・ワレフスカヤという名前をもらい、情婦の地位を磐石にしていました。しかし、さすがにいつまでも情婦のままではまずいということで、モスクワのロシア正教に改宗し、教父がピョートルの息子のアレクセイ、教母がピョートルの異母姉マルファ、教父アレクセイの名前をもらって、エカテリーナ・アレクセーェヴナと改名、1712年にはピョートルと正式に結婚式を挙げていた(先妻エウドキアは押しのけられました)のです。

 ちなみにエカテリーナは一般兵に混じって戦場に出、敵軍の一斉射撃を受けたとき、隣にいた兵士が銃撃をうけ即死したこともあるそうです。しかし、トルコ軍は12万、ロシア軍は38千と数の差が圧倒的すぎ、たちまちピョートルはトルコ軍の重包囲に陥ります。

 ピョートル最大の危機でしたが、カール12世のスルタンへの猛烈な働きかけにもかかわらず、莫大な賄賂で、アゾフ要塞の放棄とタガンロークの町の取り壊しで黒海への進出を当分中止することで休戦するという、ロシアはトルコと1711年プルード条約を結ぶことに成功します。

 南の問題が一段落するや、ピョートルは新たにプロイセンを加えて北方同盟を再建し、当時スウェーデン領だったフィンランドに攻め込みます。ロシア帝国の首都をサンクト・ペテルブルクに移したのもこのころの1712年でした。

 また、サンクト・ペテルブルク建設と同時に、ロシア初の海軍、バルト艦隊(いわゆる日露戦争のときのバルチック艦隊のおおもとです。)を建造が始め、1714年、ハンゴー沖でスウェーデン海軍と激突し、これを破りました。この戦いは別名、「海のポルタヴァ」と呼ばれます。

 5年近くオスマン・トルコの客として滞在していたカール12世ですが、スルタンが彼をもてあましていたこともあり、171410月、意を決して一人の従者とともに昼夜馬で大陸を駆け抜け、14日でストラルスンドに到着、スウェーデンに帰国します。カール12世は直ちに戦線復帰しますが、ザクセン、プロイセン、ロシア帝国に同時に攻めこまれたスウェーデンは状況を回復することができず、さらには国内でペストが発生していました。

 踏んだりけったりの状態ですが、それでもカール12世は5万の兵を集め、デンマークからノルウェーを奪うべくオスロに出発します。ところがカール12世は、ハルデンの戦線で、1718年夜間戦況視察に出たところ、狙撃され死亡します。

 こうして一世の英雄はあたら泉下の客となってしまいました。彼の全軍事行動を見るにつけ、思い出されるのは「凡そ用兵の法は、(外交戦・謀略などで)国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」の句です。卓越した用兵家の彼は、戦場で何度も勝利を収め、一軍対一軍での戦術の才は、同時代のいかなる君主をも寄せ付けませんでした。しかし、惜しいかな、戦略眼、特に外交戦術に欠け、個々の戦闘で何度も敵を破り、不屈の精神を見せつけながらも、ロシアを中心とする周辺国の外交包囲網にからめとられ、袋叩きにされ結局は敗れ去ってしまったのです。国家規模の拡大による、戦闘での勝利が必ずしも戦争での勝利につながらない時代の始まりでした。

 1719年、兄のあとをついだイウーリカ=エレオノーラは戦争を続行しますが、ロシア軍はスウェーデン本国にまで侵攻し、とうとうスウェーデン王国の首都ストックホルムがロシア帝国軍の砲撃の射程距離に入ります。

 こうして北の強国スウェーデン王国を追い詰めたロシア帝国に対し、ヨーロッパ最強国の一つブルボン朝フランス王国のルイ15世の大使カンプルドンが交渉の仲介に乗り出しました。さらにポーランドとイギリスも加わって1721年、フィンランドの小さな漁港、ニスタットで和議が締結されます。ロシアがヨーロッパの無視できない勢力の一員となった瞬間でした。

 このニスタットの条約で、スウェーデン王国は、エストニア、リヴォニア、インゲルマンランド、つまりはバルト三国、カレリアの大半をロシアに割譲し、北の強国の座から降りることになります。かわってとうとうロシア帝国がバルト海の覇者となったのです。1558年のイヴァン雷帝のリヴォニア侵攻に始まるロシアのバルト海進出は、163年ぶりに達成されたのでした。

 また、ピョートルはこのニスタットの和議の後、ロシア史上初めて極めて西ヨーロッパ的な「インペラートル」(共和制ローマ時代、絶対指揮権インペリウムを持つもの、の意味。インペリウムとは二個軍団以上の兵力を指揮するときに必要な指揮権のことで、執政官、前執政官、法務官、前法務官、独裁官、もしくは元老院が特に必要と認めた者に与えられます。のちにローマ皇帝をさす言葉として定着しました。)を名乗りました。続いてサンクトペテルブルクで1ヶ月も続く、盛大な即位式を執り行いました。

 ローマ帝国崩壊後、皇帝とは西ヨーロッパでは俗界の最高位であり、ビザンチン帝国滅亡後もこの呼称を使用していたのは、法王から帝冠をいただき西ローマ帝国を継承したと自称したフランク王国の後裔神聖ローマ帝国皇帝のみです。その後もヨーロッパで皇帝を自称したのはあのナポレオンただ一人(第一次・第二次ブルガリア帝国は「ツァーリ」を名乗っていました。)、したがって西ヨーロッパ諸国がこの呼称を承認するに難色を示すのは必至でしたが、ピョートルがなぜあえてこの呼称を名乗ったのかはよくわかりません、おそらくビザンチン帝国の後裔国家であるということを西ヨーロッパにアピールしたかった、ということなのでしょうが、ともかく、軍事的成功に裏打ちされた自信と、思い立ったら驀進する性格のなせる技でした。

 ただ、やはりこのインペラートルの称号を認めたのはプロイセンとオランダのみ、ハプスブルク家のカール5世はロシアの使者に対して与えた答えが小声すぎてわからずじまい、という姑息な手を使いました。カール5世はそもそも神聖ローマ帝国皇帝でして、彼から言わせればロシアが皇帝を名乗るのは僭称と思えたでしょう、いかにイヴァン3世が滅亡したビザンチン帝国の最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪をお妃に迎えたとはいえ、ビザンチン帝国を継いでくれとイヴァン3世が頼まれたわけではございませんし、そもそもリューリク朝は断絶しています。しかし、神聖ローマ帝国皇帝がもともとローマ皇帝を名乗る根拠も判然としません、というか、厳密な話をすればそもそも存在しません。

 レオ3世が始めた、法王戴冠による西ローマ皇帝位(のちに神聖ローマ帝国皇帝位)の授与の根拠は、『コンスタンティヌス大帝の寄進状』でした。その内容は、コンスタンティヌス大帝がローマ教会に帰依し、帝国の西半分をローマ教会に寄進する、というものです。したがって、ローマ帝国の西半分を寄進された法王には、ローマ帝国西半分の皇帝を任命する権利がある、という理屈ですが、この『コンスタンティヌス大帝の寄進状』は8世紀ごろに作られたと考えられる偽作です。まあ残念ながら称号なんてこんなものみたいです。さて、フランスはピョートルの西欧視察旅行の際の乱痴気騒ぎをもちだしてインペラートルの器とはとてもいえないと返答、デンマークはシュレースヴィヒ地方との交換条件でなら認めてもいいと発言します。つまりはほとんど誰も認めてくれなかったわけです。


   〜 6. 中央アジア政策ーインドへの道 〜

 ピョートル大帝の目は何も西欧だけに向けられていたわけではありません。1713年、トルクメン人のホージャ・ネフェスと名乗る男がアム・ダリア河口の砂洲に含まれる砂金の話を語り、ロシアが金の採取を望むならトルクメン人たちはこれに援助を惜しまないであろうとピョートル大帝に奏上します。砂金の話とインドと中国の両方へ陸伝いに進出できる中央アジアの地勢的重要性に注目したピョートルは、黒海進出に挫折し、スウェーデンとの戦争も講和までの道のりが見え初めた

 1714年、トルコ系のチェルカッシ人でコーカサス地方の族長出身のダウルト・ギレーイをベコーヴィチ・チェルカツスキーと改名させ、ヒヴァの汗の即位を祝し、ボハラの商業状況を調査せよとの命令を与えます。ベコーヴィチはカスピ海を通ってヒヴァへ向かおうとしますが、冬の喚起に阻まれて断念します。翌1715年、再度カスピ海へ入り、北東岸に上陸しました。そしてかつてはカスピ海に流れ込んでいたアム・ダリア川の乾いた川床をみつけ、この川床をたどって行けばアム・ダリア川の近くにあるヒヴァまでたどり着けることを確認して一時帰国しました。

 1716年、ピョートル大帝は歩兵4千、騎兵2千からなる部隊をチェルカツスキーに引き率させ、アストラハンからカスピ海の東岸に出て、チュク・カラガンとクラスヌイエ・ヴォーヅィへ要塞を築くよう命じますが失敗します。こんどは1717年に、この部隊を西トルキスタンの有力勢力の一つ、ヒヴァのハーンの遠征に向かわせます。両軍はヒヴァまで4行程のカラガチで交戦しますがヒヴァは敗北し、ヒヴァのハーンは和平を提案しました。ハーンはロシア軍をヒヴァに案内する途中で、ベコーヴィチの兵を数部隊に分散させて宿泊させたいと申し出ます。この申し出が受け入れられ、兵力が分散したところで突如ハーンはロシア軍を襲い、部隊は全滅します。






17
世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市




 ピョートル大帝はベコーヴィチとは別途1715年、ヴォルインスキーをイスパハンに派遣し、東方の様子を探らせます。帰国したヴォルインスキーは、アゼルバイジャンを発祥の地とする強国サファビー朝ペルシャが、アフガン人マームッドの猛攻を受け、ペルシャの治安が乱れ、ロシア商人などが略奪にあったことなどを伝えました。

 アフガニスタンでは、カンダハルのギルザイ族有力首長ミール・ヴァイスの時代にペルシャに叛旗を翻して独立に成功し、さらにヴァイスの子アブドラを殺害して首長の地位についたマームッドが、勇猛な山岳民族アフガン人を糾合し、逆にペルシャ遠征を開始していたのです。

 ペルシャが弱体化していることを知ったピョートルはペルシャ遠征を決意します。1722年、アストラハンを出発した遠征隊は、カスピ海西岸の諸都市、バクー、デルベントなどを占領した時点でペルシャと平和条約を結びました。しかし、ロシア勢の楔がペルシャに打ち込まれることを不満に思うオスマン・トルコがロシア領に攻撃を開始し、結局ロシアがカスピ海の西岸を支配、トルコが西カフカースを支配するということで決着がつきました。


 〜 7. ピョートルの改革ースウェーデンを模範に 〜

 ピョートルがその一生をかけて戦った敵手スウェーデン王国は、ロシアの強力なライバルではありましたが、同時に強大な軍事力を持ち、また征服を可能にする強大な軍事力を支えた優れた行政組織を備えた先進国でありました。

 したがってピョートルはスウェーデンを模範としてロシアの国政、軍政を改革し、スウェーデンとの戦いを乗り切ることで、武器の生産能力、ひいては工業生産能力を増大させていったのです。

 戦争を遂行するために必要不可欠な鉄を生産するため、良質の鉱床をもつウラル山脈に新たに製鉄工場が2つの官営工場が建てられました。1702年、ロシアの鉄鋼業で欠くことは出来ない人物、冶金工ニキータ・デミドフが官営工場の払い下げを受け、1725年までに彼の工場はウラルの銑鉄の6割を占めるようになり、この功績でデミドフは世襲貴族の位を手にします。

 また、海軍増強にともない、大量の帆布が必要となったため、繊維工業が飛躍的に増大し、メーシンコフやトルストイ(文豪トルストイの祖先)なども投資した工場も現れ始め、この時期にロシアの軽工業の基礎が成立しました。

 内政改革としては、貴族会議に代わって元老院(セナート)を設立し、7名の議員を任命しました。さらにかつてスウェーデン王国に使えていたハインリヒ・フィックという人物をストックホルムへ派遣して事情を調査すると、元老院の統括する商業、工業、歳入、歳出、海軍、陸軍などを審議する参議会(コレギヤ)なる組織を12つくります。これにともない、40近くあった殆どのプリカースは解体されましたが、シベリアのみはプリカースを存続することになりました。

 軍事面では、先に述べたごとく徴兵制を導入し、これによってツァーリに直属するためいつでも戦争に投入できる常備軍を編成し、陸軍の専門学校、海軍アカデミーなどを設立し、あるは海外留学に送り出すことによって将校クラスの育成に励みました。

 また、1722年、様々な意味をこめた「官等表」を制定します。これにより、各部署のランクと報酬を明確に定め、さらに平民でも14等官になれば本人一代限りの貴族に、8等官まで上れば世襲貴族の地位を保証することで、能力ある庶民の登用をはかったのです。

 もっともこれは、貴族の次男三男以下の職の手当ても狙った政策でした。封建制の初期においては(ロシアに西ヨーロッパ的な定義へ正確に当てはまる封建制が成立していたかどうかは別として)所領は均分分割相続でした。しかしこれでは世代交代が進むごとに一人当たりの所領が小さくなっていき、最終的には一家族すら養えないほどの大きさの所領を相続することになってしまいます。すると結局食べていくために土地を担保に借金、あるいは土地そのものを売り払わねばならなくなり、最終的に一家は没落してしまいます。君主の権力が強大化し、国内が平和になると特にこの傾向が強まります。

 そこでピョートルは名門貴族家系没落を防ぐため「一子相続制」を発布したわけですが、これは大量の失業者予備軍を作り出すことになります。長男は家を継ぐのでよいとして、次男三男以下はみずからの道を切り開かねばなりません。

 貴族の指定の場合考えられる職としては聖職会にはいるか、もともと軍を率いる階級ですから傭兵まがいのことをやることになります。が、聖職会はポストが限られていますし、あまり聖職者が増えると教会の世俗権力増大につながります。さらに生産階級とはいえない層が大量に増えると国の生産力低下につながるという問題が発生します。

 また、傭兵が増えることで戦闘員の数が増えると、本来小競り合いですんでいたものも、大規模な騒乱に拡大します。腕に覚えのある失業者たちは、しばしば反政府運動に参加し現政権を転覆させることで自分たちの境遇を変えようとする傾向が強くなります。

 例を挙げると、日本では鎌倉時代、貨幣経済の発展により所領を失い、収入を失った元御家人層(無足の御家人と呼ばれた)が大量発生しました。徒党を組んで傭兵家業に手を出した彼らは「悪党」と呼ば、大きな社会問題となりました。

 鎌倉幕府は徳政令などを出すことで、借金の方に所領が流れて失業御家人が発生するのを防ごうとしましたが焼け石に水でした。この「悪党」を率いて戦い、鎌倉幕府滅亡に多大な貢献をした人物が楠正成です。

 そこでピョートルは一計を案じたと思われます。中央集権化がすすむと、封建制においてはそれまで個々の地方領主に任されていた地方業務(例えば徴税)も中央が果たさねばならなくなるため、必然的にこれらの業務をこなす行政官僚も増やす必要がありますし、君主の考えを即実行に移すための機関、それを運営する役人の数も必然的に増大します。参事会の設立は中央集権化の必然でもあったのです。

 貴族の次男三男以下に職を与えるために中央での役職を作り出し、そのヒエラルキーを定めたのが「官等表」でした。貴族の次男三男以下は国家から俸給をもらうわけですから、当然国家そのものを体現するツァーリに対し頭が上がらなくなり、ツァーリによる貴族統制が容易となります。以上がピョートルの国内改革の骨子でした。

さらに言えば、この官等表は、中国の九品官人法、日本の八色の姓にあたるものなのではないでしょうか。中国の九本官人法は、三国時代、漢王朝を吸収した魏の政権が、漢王朝の貴族と魏の実力者との上下関係を明記するために作ったもので、日本の八色の姓も、壬申の乱に勝利した新興階級の天武天皇が、成り上がった自分の部下と大友皇子形についた旧貴族階級の間の上下関係を決めるために制定したものです。これらはいずれも、新興階級と旧階級とを共通のものさしで身分の上下を明らかにし、無用な衝突を避けるためのものです。ピョートル大帝はこれらと同じように、新興士族階級と旧来の分領公系の貴族との間の悶着を避け、願わくば両者がこの新制度により混交することを望んでこの制度をつくったのではないでしょうか。

 さらに戦争は莫大な金を食います。この軍事費をまかなうため、ロシアの人口調査を行ない、後世悪名高い人頭税を制定しました。そのため農民の村からの逃亡が相次ぐようになったといいます。


      〜 8. 製鉄業政策ー富国強兵へ 〜 

 ピョートルは西欧旅行から帰国して後、武器・構造材として圧倒的な重要性をもつ鉄の生産に着手します。先にも少し述べましたが、エカテリンブルク県のネヴァ川で良質の鉱石が発見され、周りは森林地帯であり、当時の製鉄の燃料となる薪も豊富に入手可能ということで、1699年、付近のネヴャンスクに溶鉱炉と鋳造所の設立を命じ、もともとロシアの製鉄業をになっていたトゥーラの熟練鉄砲鍛冶ニキータ・デミドフを建設監督および施設の管理人に任命します。

 ニキータ・デミドフはパウチノ村の国有農奴のデミート・デミードヴィチの息子として生まれ、父と共にモスクワ南部のトゥーラへ出、その地で製鉄業を営んでおりました。ピョートルがトゥーラを視察した時、ニキータの非凡な試作品を見て、ピョートルが軍隊への武器供給を委託したのがピョートルとデミドフの出会いです。

 さて、デミドフを選んだピョートルの鑑識眼は正しく、デミドフは短期間のうちに1プード80コペイカで生産されていた砲弾と炸裂弾を1プード13コペイカで生産することに成功しまし、これはカール12世との北方戦争に大いに貢献しました。さらにデミドフは自らトゥーラに製鉄所を設立し、ナルイシキン家の経営になるトゥーラの帝国武器製作所よりも安く豊富に武器を生産することに成功します。ピョートルはいたく感激し、デミドフ経営の製鉄所と付近の土地をデミドフに与え、年に3000プードの鉄を国家に納める以外、課税をすべて免除しました。これにより、デミドフ家は莫大な富を築きました。

 さらに1700年、同じウラルのエカテリンブルクの近くのカーメンスクに製鉄所を建設し、こちらは建設・作業の管理をドイツ人に任せました。のちの1711年、独立のシベリア鉱山局が置かれ、ドイツ生まれの砲兵士官ヘニングが初代長官となり、彼はエカテリンブルクを建設し、1723年、この町にあらゆる種類の鉄工場が置かれ、シベリアの鉄鋼業、ひいてはロシアの鉄鋼業の中心となりました。


       〜 9. ピョートルの婚姻政策 〜 

 スウェーデンは長期にわたる戦争を続けた犬猿の仲でしたが、やはり喧嘩するわけには行かない近隣諸国のお隣さん、というわけで、ピョートルはスウェーデンとの関係修復に入ります。あるいは敵を作るだけ作って関係修復などを全く考えなかった挙句、周辺諸国から袋叩きに会ったスウェーデンの二の舞を踏みたくないと思ったのでしょうか。

 ピョートルはその死の直前、エカテリーナとの間の娘アンナとエリザヴェータの二人をスウェーデンとの関係の深いドイツ諸侯に嫁がせることに成功しました。長女アンナはドイツの名門でスウェーデン王家との姻戚関係も持つホルシュタイン=ゴットルプ家のカール・フリードリッヒと結婚し、一子ピョートルを産み落とします。



     この章に登場するロマノフ一族の系譜


    マリア
      |
      ├――――ソフィア
      |        |
      |       ├―フョードル2
      |        |
      |       └―イヴァン5
      |            |
      |           └アンナ・イヴァーノブナ
      |
      |         エウドキア
      |            |
 ―アレクセイ         ├―――アレクセイ
      |            |
     ├――――――ピョートル1世(大帝)
      |            |
      |            |
      |            |   カール・フリードリッヒ
      |            |       |
      |             |      ├ピョートル3
      |             |       |
    ナターリャ        ├――アンナ
                  |    |
                  |    └エリザヴェータ
                  |
               エカテリーナ1 


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者



 次女エリザヴェータはやはりホルシュタイン=ゴットルプ家のカール=アウグストと婚約しましたが、カールは天然痘であえなく世を去りました。しかしエリザヴェータはこの青年のことが忘れられず、後に数多くの愛人を持つようになりましたが、独身を貫くことになります。

 ただ、二人の娘はピョートルとエカテリーナが正式な結婚前に生まれておりますから、庶子ではないかとの話がホルシュタイン家からでましたので1724年、とにかくスウェーデンとの友好関係を樹立したかったピョートルはエカテリーナの地位を高めるため、日本の三種の神器にあたるウラジーミル・モノマフの王冠、王しゃく、宝珠を使ってエカテリーナの戴冠式を行います。この娘たちの婚姻関係が、のちのロシア社会におけるドイツ人進出に大きく関わってくることになります。


   〜 10. 北太平洋探検命令と科学アカデミー 〜 

 ピョートルは死の三週間前ナルトフをよびよせ、北太平洋探検の命令書を作成します。実行役はベーリングで、彼の指揮のもと、第一次、第二次カムチャツカ探検が行なわれ、この探検により、ベーリングはベーリング海峡を発見し(つまり、アメリカとロシアは陸続きでないということが確かめられたのです)、アラスカを調査したのです。この国家による探検と学術調査は1743年まで断続的に続けられました。

 また、「祖国を敵から安全に守りながら、芸術と科学を通じて国家の栄誉を得るように努力すべきである」と言ってロシア科学アカデミーを設立します。このロシア科学アカデミーは、神学部門をもたない、より実利的なものを目指しておりました。最初このアカデミーで働く学者は17人全てがドイツ圏からやってきた人物で占められました。


    〜 1. ピョートルの死ー後継者問題 〜 

 1725年、ピョートルは尿結石の症状を訴え、手術を受けますが、その甲斐も無く一月末、52歳の生涯を終えました。スウェーデンとの関係良好化のため、長女アンナとホルシュタイン=ゴットルプ家との婚約が成立した直後でした。しかし、わけあってピョートルにはロシア帝国を継いでくれる息子はいませんでした。

 その訳とは、皇太子アレクセイの悲劇的な死です。修道院へ追放した先妻エウドキアの息子アレクセイは、次期ロシア皇帝としてピョートルから帝王教育を授けました。が、本人は帝位を継ぐ気がなく、1715年、義理の母エカテリーナが男の子ピョートル・ペトローヴィチを出産し(4年後に亡くなりますが)、大帝の唯一の息子ではなくなった彼は帝位継承権の放棄の意思をピョートルに伝えます。ピョートルは、アレクセイが自分に反対する保守派の貴族達に利用されないよう、帝位継承権を放棄するなら、修道院に入れという命令をだし、デンマーク遠征に出かけます。

 ところが、アレクセイは修道院に入りませんでしたので、ピョートルは息子に手紙を書き、自分の軍に加わってもう一度帝位継承権を保持する意思を示すか、それとも修道院にこもるかの二者択一を迫ります。アレクセイは、ピョートルの軍に加わるとの返事を出し、愛人と数人の召使とともにサンクトペテルブルクを出発します。ところが、アレクセイはグダニスク(ダンツィヒ)で突如南下しウィーンに逃亡、義理の兄であるオーストリアのカール6世に庇護を求めます。ピョートルは、アレクセイを引き渡さないのなら戦争も辞さないとの強硬姿勢でカール6世に迫り、1718年、珍しくも貴族の側近トルストイ(あの文豪レフ・トルストイのご先祖様です。)を使ってアレクセイをロシアに連れ戻しました。






ピョートル・アレクセーエヴィチ・トルストイ