ロマノフ王朝(5)
〜〜アンナ・イヴァノ―ヴナの時代〜〜

アンナ・イヴァーノブナ
Анна Ивановна
1693-1740
ドイツ人を積極的に登用
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Российская |
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История |
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ピョートル大帝の数々の改革は、ロシアが中世を脱却し、近代へと向かおうとする行為でした。それ自体は確かに必要なものでしたが、そのスピードは急激かつ、その手法は強引なもので、このような行き過ぎたやり方には、必ず反動が起こります。過ぎたるは猶及ばざるが如しです。 ピョートル路線の継承か、それとも復古かをめぐって宮廷は真っ二つに分かれます。一方はピョートル大帝によって登用された、ピョートルの妻エカテリーナ、メンシコフらを中心とする新興階級で、彼らが大帝の改革の意義を理解し、それを更に発展させていくだけの力量があったかどうかは謎です。しかし、彼らが破格の出世を遂げ、今あるような権力の地位につけたのは、ピョートルの方針にあるのは間違いありませんから、この派はともかくもピョートルの路線を継承しようとします。 もう一方の派は、保守派大貴族です。そもそもピョートルの刷新政策は、旧弊を重んずる彼らにとってそもそも肌が合いませんですし、それに加えて新興階級や技能を持った外国人の登用は、彼らがこれまで占めていた地位を脅かす、あるいは乗っ取ってしまうという実害もあったのです。 ピョートルは後継者を指名せず死亡していましたので、もし、この二つの派が、後のロシア政界の航路を巡って激しい争いを展開しておりましたら、ロシア政界に激震が走りロマノフ王朝に致命的な影響を与えたかもしれません。しかし、ピョートル派は、本人一代で取り立てられたので基盤が弱くすぐに力を失い、大貴族達は、イヴァン雷帝以来長引く皇帝の支配で、政界から完全に引き離されおり、政治の実務能力が全く失われていましたので、たいしたことはできませんでした。 けっきょくピョートル大帝の改革で起こった波乱をまとめたのは、最初は外国に嫁いだピョートルの娘たちと、その側近のドイツ人たち、最後はピョートル大帝の娘エリザヴェータでした。 〜 1. ピョートル後ーエカテリーナ1世即位 〜 ピョートル大帝の死後、後継者をめぐって宮廷は二つの勢力に分かれます。 一方はピョートルの、人材登用政策によって破格の出世を遂げた新興階級、自らの改革を成し遂げるため、信用できない保守派の大貴族階級ではなく、全くの一般階級から登用しツァーリの手足として改革を実行させた、幼い頃ピロークを売り歩いたことがあるというメシンコフらの成り上がり実力者たち、その技術をかわれてロシアに招聘され、取り立てられたドイツ人を中心とする外国人たちの一派です。彼らが中心となって推すのは、自分たちの総帥とも言える、マリエンブルクのプロテスタントの牧師グリュックの女中からロシア史上初の皇后までのぼりつめたエカテリーナ(旧名マルタ)でした。 |
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もう一方はドルゴルーキー、ゴリーツィンらの名門貴族たちです。かれらはピョートルの改革により踊り出た新興階級たちに従来の権益を圧迫され、中央集権化政策により自分たちの所領における権力を圧迫されたのを不満に思い、ピョートル大帝という重しが取れた今、かつての自己の権益を取り戻そうと皇太子アレクセイの遺児ピョートル2世を推しました。ピョートルの息子アレクセイの横死も、彼がひそかに守旧派に担がれてしまい、保守派の巻き返しを恐れた父が断固たる処置を取ったことに、その悲劇の芽があったようです。 |
この章に登場するロマノフ一族の系譜 ―イヴァン5世―┬アンナ・イヴァーノブナ | └エカテリーナ―アンナ―イヴァン3世 エウドキア シャルロッテ・クリスティーナ | | | ├―――ピョートル2世 | | ├―――――アレクセイ | | ――ピョートル1世(大帝) | | | カール・フリードリッヒ | | | ├―――ピョートル3世 | | ├――┬――アンナ・ペトローヴナ | | | └――エリザヴェータ・ペトローヴナ | エカテリーナ1世 青色下線:メイン人物 赤色 :女性 斜体 :物故者 |
結局同じく新興階級であり、さらにエカテリーナはもともと兵隊女房で、兵士達と共に戦場に出、宴会のときは自ら兵士達に杯をついで回ったほど軍隊が好きでしたから、近衛連隊はエカテリーナ側に味方し、新興階級が勝利し、エカテリーナは、ロシア史上初の女帝エカテリーナ1世として即位します(つまり、皇帝になってしまったのです。)。1725年1月28日、ピョートル大帝が死の床についていた際、アレクサンドル・メンシコフがエカテリーナを後継者とする提案をしたと同時に近衛兵が乱入し、広場を兵が埋め尽くしたので、やむなく貴族達もこの措置を認めました。スウェーデン領リヴォニアの農民として生まれた彼女の、人生の大勝利でした。その後エカテリーナ1世は幼いころ生き別れとなった兄弟たちを宮廷に呼び、貴族の地位を与え、それぞれ、後のスラヴロンスキー家、エフィーモフスキー家、ゲンドリコフ家となります。 さらに、メンシコフはエカテリーナとともに、ピョートル大帝の懐刀のノヴゴロド大主教、アレクサンドル・ネフスキー大修道院を建立した宗務院副総裁フェオドーシー(ピョートルによって取り立てられた他の側近と同じく、スモレンスクの騎兵傭兵の息子という低い身分の出でした。)の失脚を実行します。戒律の厳しいロシア正教総本山トロイツェ・セルギエフ大修道院の若いころの苦行の成果か、フェオドーシーはピョートル大帝の臨終の際に、昼も夜も文字通り片時もはなれずピョートル大帝の側に控え、ピョートル大帝の遺言について真実を知りえた可能性のある彼はエカテリーナ1世の正当性を脅かしかねない人物と判断されたのです。罪状は女帝への冒涜の言葉を吐いたことと、下賜されたダイヤモンドの着服でした。フェオドーシーはアルハンゲリスク郊外のニコルスキー・コレルスキー修道院に幽閉され、獄死します。 しかしエカテリーナ1世は政治を昔の愛人であったメシンコフらにまかせきりにし、自身は遊興にふけります。これを利用してメシンコフは元老院の上に最高枢密院なるものを設置し、旧ピョートル大帝の側近メンバー、アプラクシン(海軍大将、珍しくもピョートル大帝の血縁者で、ピョートルの異母兄フョードルの妃マルファの兄です)、トルストイ(秘密警察長官、ロシア文学のレフ・トルストイの先祖)、ゴローフキン、オステルマン(ウェストファリアの僧侶の子として生まれ、オランダの官軍中将の召使であり、ピョートルの通訳から成り上がりました)らに、旧貴族代表のゴリーツィン公らをくわえ、旧新勢力の妥協の場を作りました。メンシコフは自分の地位を固めるために、ゴリーツィン公の親戚の娘と自分の息子との縁談も持ちかけ、自分に逆らい始めたトルストイをエカテリーナ1世のサインのある逮捕状を使って反逆罪で逮捕し、白海に面したソロヴェツキー諸島の修道院に永久幽閉としました。 1727年、エカテリーナ1世は早くも体を壊し、後継者問題がまたも持ち上がります。ここで、大貴族達が力を盛り返し、ピョートル大帝の夭折した息子アレクセイの遺児で12歳のピョートルを皇帝に推薦する動きに出ました。自身の立場を強化すべくメシンコフは、エカテリーナ1世の病床で、メシンコフの娘マリア(実はマリアはリトアニアとポーランドにまたがる大貴族ピョートル・サペガ伯との婚約が済んでいたのですが、メンシコフはそれを破談にしました。)とアレクセイの息子ピョートルの結婚を承諾させました。 こういったメンシコフの、これまでピョートル一辺倒であったにもかかわらず、大貴族と融和することで保身を図ろうとする節操のない行動をみておりますと、メンシコフはピョートル大帝の政策の意義を理解し、共鳴したから大帝の行動を手助けしたというわけではなく、自らが権力と財力を握るためにピョートルの腰ぎんちゃくとなったという感が強いです。むろん、メンシコフのような成り上がり貴族は、古い家柄を誇る大貴族からは憤激を買っていたでしょうから、古い大貴族は、隙あらばメンシコフを失脚させようと、虎視眈々と狙っていたでしょうから、周り中を敵に回すわけには行かず、そういった大貴族と融和を図るのは、ある程度はやむをえない行動ではありましょうが。 ともかく、エカテリーナ1世は、ピョートルの死後2年のち、脳炎をおこしに死亡してしました。 ここで運命の変転が起こります。ピョートルの不幸な先妻エウドキアは女性関係で乱脈を重ねるツァーリに見捨てられ修道院へ送られた後、アレクセイ皇太子事件の際関連を疑われ身辺調査が行われました。その際に監視役のグレーボフ大尉との不倫がばれ、さらには子供まで誕生していたのを発見されてしまい、グレーボフ大尉は死刑、エウドキアはラドガ湖付近の修道院に追放されていました。さらにエカテリーナの即位後、独房に移されていました。 ところがエカテリーナが死亡し、アレクセイの息子ピョートルがピョートル2世として即位することが確実となると、エウドキアは独房から宮廷へ呼び戻され、ツァーリの祖母として遇されることとなったのです。しかし、あまりに長く修道院の生活を続けたエウドキアは華美な宮廷生活になじめず、やがて自ら修道院での生活に戻り、1731年に亡くなりました。 さて、エカテリーナ1世の死後、1727年ピョートル2世が即位し、メシンコフはツァーリの義父として実権をにぎります。男爵のオステルマンにより、ピョートル2世とメンシコフの娘マリアの婚約が発表され、オステルマンがピョートル2世の扶育官となります。また、この時期メンシコフは大元帥の地位を手に入れました。 しかし、メンシコフは、年少の皇帝を甘く見ていたが祟ったのか、ピョートル2世の不興を買い、さらにはエリザヴェータとの仲も悪化、そこを突かれてメンシコフの専横に不満を持っていたオステルマンらを中心とする勢力のクーデターが起こります。ちょうど病に倒れ療養中だったメシンコフは病から癒えてすぐに失脚し、娘達とともにシベリアのベレゾフに流され、妻は流刑途中になくなり、ベレゾフで娘とともに2年後亡くなりました。もっとも、彼のひ孫のメンシコフは、後のニコライ1世時代海軍大臣まで上り詰めますから、メンシコフの一族が決定的に没落したと言うわけでもありません。やはり、先祖の功徳は偉大なのでしょう。 |
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こうして実権をにぎったのは名門旧貴族のゴリーツィン公とアレクセイ・ドルゴルーキー公です。非常な狩り好きであったと伝えられるピョートル2世ですが、彼は1792年の秋、600匹の猟犬を使ってウサギ4000匹、狐50匹、オオヤマネコ5匹、熊3匹を捕らえたということです。もちろんこれほどピョートル2世が狩りに熱中できたのは、明らかにアレクセイ・ドルゴルーキーの差し金でして、ピョートル2世を狩り熱中させることで政治から目をそらさせ、あわよくばスポイルさせて自らが実権を握ろうとしたのでしょう。 こうして、アレクセイ・ドルゴルーキーはピョートル2世を傀儡とし、もちろん政治方針は復古主義で、ロシア帝国の首都もサンクトペテルブルクからモスクワに戻されます。メンシコフやトルストイの脱落で欠員となった最高枢密院にヴァシーリー、ドミートリー、ミハイルの三人のドルゴルーキー家を補充して権力を固め、その最高枢密院から許可をとり、ピョートル2世の妃にはアレクセイ・ドルゴルーキー公の娘が選ばれました。ところが、ピョートル2世は1730年1月に、モスクワ川の氷上で行なわれた聖水式の行事で風邪を引き、さらには天然痘を併発、婚礼の前夜1月18日には死亡してしまいます。 〜 2. アンナ・イヴァーノヴナ即位ードイツ人登用 〜 ここでまた後継者問題が発生し、ピョートル2世がなくなったレフォルト宮で最高枢密院が開かれました。エカテリーナ1世の遺言によると、ピョートル2世の次の皇位継承優先順位は、スウェーデン王位継承権第二位をもつホルシュタイン・ゴットルプ家に嫁いだピョートル大帝とエカテリーナ1世の娘アンナ・ペトローヴナとその子ども達です。しかし、アンナ・ペトローヴナのほうは遺言で定められた皇位継承権を放棄しておりました。 すると、次なる候補者は、アンナ・ペトローヴナの妹エリザヴェータ・ペトローヴナが妥当な線です。しかし、革新派であるピョートル色の払拭を狙ったであろう大貴族達は、エリザヴェータがピョートル大帝とエカテリーナ1世の正式な結婚前に生まれた子どもである、つまり庶子であることを表向きの理由にエリザヴェータの即位を拒否して、ピョートル大帝の兄イヴァン5世の次女アンナ・イヴァーノヴナ擁立に動いたのです。 ちなみにイヴァン5世の長女エカテリーナはメクレンブルク公に嫁ぎましたが、メクレンブルク公は奸智に長けたなかなかの切れ者で下手をするとお妃を通じてロシア政界に影響を及ぼしそうで危険、おまけにエカテリーナは酒におぼれていて女帝にふさわしくないと判断されたのです。しかし、ピョートル大帝の実の娘がツァーリッツァになれないとはそんな馬鹿な話はないとエリザヴェータの主治医でドイツ人のヨハン・レストクなどは彼女に決起を進めます。が、のちに自らも女帝となったエリザヴェータは、その治世を通して見られるまともさ・穏健さをこのときも発揮し、結局後継者選出に関して積極的に動こうとしませんでした。 さて、ゴリーツィン公らが率いる最高枢密院は、ピョートルの異母弟イヴァン5世の娘で、1710年クールラント辺境伯のもとへ嫁ぐも、たったの二ヶ月で未亡人となってしまい(婚礼の席でクールラント辺境伯は飲みすぎ、新妻との帰宅途中に卒中で死亡したのです。)、亡き夫に代わり愛人のバルト・ドイツ人ビロン男爵にクールラントの統治をまかせていたアンナ・イヴァーノブナを女帝に迎えることに決定しました。イヴァン5世の娘であるアンナ・イヴァーノブナの、ピョートル色が薄いと思われる点を狙った、というか、外国暮らしが長くそもそもロシア色が薄まり、かつてロシアで暮らしていた時のロシア人たちの関係も切れているでしょうから、ロシア人の子飼いの部下の不足で身動きとれず、ピョートル2世と同じく傀儡化も可能、と名門貴族たちは判断したのでしょう。とにかくちなみにこの決定がもととなって、1795年、クールラントはロシア帝国に編入されます。 最高枢密院はアンナ・イヴァーノブナに即位の条件として、開戦と講和、近衛兵の指揮、新税制定、文官武官の昇進・土地の下賜没収、貴族の生命・財産・名誉の決定、同意なしの結婚及び後継者の決定などについて最高枢密院との協議と同意が必要であると表明し、これに違反した場合ただちに帝位を剥奪されるという条件をつけました。アンナはこの文章に同意し署名します。しかし、この条件が本当に履行されれば、これでは本当に飾りもののツァーリです。 ところが、最高枢密院という、少数の名門貴族議員による議会制(定員10〜12名なので人数が少なすぎですが)制限君主制の試みは、多数の一般貴族、勤務士族層の憤激を買います。最高枢密院のメンバーに漏れた、豚飼いから取り立てられたというピョートルの側近の一人で元老院検事総長ヤグジンスキーがまとめ役となって、ひそかに勤務士族たちはアンナに手紙を送り、ロシアを旧来のように専制的に支配して欲しいと嘆願していたのです。基本的には身分の低い一般貴族、勤務士族たちにとっては、ツァーリになられるお方が、ロシアにいようが外国にいようが、普段めったに合う機会がないという点ではまったく同じで、外国にいたからアンナと一般貴族が特に疎遠であるわけではありません。もし、それを疎遠というならば、仮にアンナがロシアにいても身分の低い彼らには普段会う機会が滅多にないわけですから、どっちにしろ疎遠です。つまりは、ドイツ暮らしの長いアンナが、一般貴族からは特に疎遠と見られていたわけではなく、これが大貴族達の読み誤りのひとつです。 さらに、大貴族からすれば、現ツァーリの一族とはいっても元をたどれば彼らは14世紀ごろプロイセンからやってきたロマノフ・ザハーリン家ですから、特にユーリー・ドルゴルーキーの子孫で、かのウラジーミル・モノマフの血を引き、元をたどればあのリューリクまで行き着くアレクセイ・ドルゴルーコフ公などからすれば、ツァーリの一族はよそ者にすぎず、大貴族達の間では、むしろツァーリを軽んずる気風もなきにしもあらずです。しかし、身分の低い一般貴族達からすれば、ツァーリはまごうかたなき雲上人にほかならず、さらに大貴族に向けられた一般貴族の反感もまことに激しいものであったのは想像に難くなく、この二つを読み誤ったのも、大貴族達の誤算でした。おまけに宗務院総裁でプスコフ大主教フェオファン・プロコポーヴィチを筆頭とする宗教界も最高枢密院の方針に反対でした。 近衛兵もアンナと最高枢密院に同時に宣誓するのを拒否し、1730年、モスクワのクレムリン宮殿で開かれたアンナの即位式で、一般貴族代表タティーシチェフとカンテミールはアンナ即位の条件の撤廃を求める嘆願書を読み上げました。最高枢密院が一般の支持を得ていないことに気づいたアンナは条件の明記されていた文書を破り捨て、アンナ・イヴァーノブナの治世は始まりました。 |
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アンナは、かつての遊び仲間のヴァシーリー以外のアレクセイ・ドルゴルーキー公を含むドルゴルーキー一門をシベリア流刑に、アレクセイ・ゴリーツィンを悪名高いシリッセリブルク要塞幽閉に処します。イヴァン・ドルゴルーキーと婚約していたナターリャ・シェレメーチェヴァは周囲の反対を押し切ってイヴァンとひっそり結婚し、夫とともにシベリアへ行きました。デカブリストの妻のさきがけのような人です。さて、アンナはバルト・ドイツ人を登用します。チュートン騎士団がルター派の信仰を受け入れ世俗化し、団長がポーランド王国の一封臣(公爵)となることで誕生したクールラント公国へ嫁ぎ、本来ならバルト・ドイツ人になりきり、この地へ骨を埋めるつもりでクールラントへやってきたアンナですから、友人から家臣団を含む彼女の人間関係は全てバルト・ドイツ人が占めていました。 ロシアを離れて久しいわけですからサンクトペテルブルクでのロシア人との人間関係もとっくに切れているのは想像に難くありません。そこで本当に信頼できる人物はバルト・ドイツ人から選ぶしかなく、これが後世アンナの時代が「ドイツ人支配の時代」とよばれる原因となりました。実際ピョートル大帝創立の近衛連隊を完全に信用し切れなかったアンナは、新たに将校の殆どがバルト・ドイツ人からなるイズマイロフヴォ連隊なる近衛連隊を創立します。 この時代活躍したバルト・ドイツ人は、まず妻帯していたにもかかわらずアンナに決定的な影響力をおよぼしたクールラント公ケトラーの馬丁の孫で、ロシアの公となり侍従長の寵臣ビロン、陸軍元帥となったオルデンブルクの将軍ミニュヒ、対外政策担当はウェストファーレン出身のオステルマン(最高枢密院出身者でありながらぬけめなくアンナへの態度を保留し、決定的な時期に体調を崩していて派手な行動をとれなかった彼はアンナ即位までの大嵐を乗り切り、ビロンに屈して見事生き残ったのです。)、科学アカデミーの中心人物シューマッヘルらです。 しかし、この余りのバルト・ドイツ人の登用振りを見ていますと、当時のロシア大貴族が如何にツァーリに信用されていなかったか、あるいは、旧套墨守で新時代の技術・やり方を身に付けていなかったため、如何に実際政治から浮き上がり、実務能力を欠いていたかがわかるような気がいたします。ピョートル大帝がわざわざ貴族達を連れて西欧へ視察旅行へ行ったのですが、残念ながら効果がなかったのでしょうか。クリュチェフスキーいわく、「アンナの10年の治世はロシア史における暗黒の一ページであり、そこにおける最も暗い斑点は女帝その人だった」ですが、ドイツ人の専横をロシア人が苦々しく思ったのはそうかもしれませんが、残念ながらそうなるだけの事情がロシア側にもあると思います。たとえばミュニヒなどは軍功はもちろん、学生軍事教練団を作り、ロシアの将校育成機関を作り上げ、ロシア人が10年間かかっても完成できなかったラドガ湖の運河を完成させたりと、正直彼らの事績はロシアに益すること極めて大でした。 アンナは自分を飾り物のツァーリッツアにせんと画策した、最高枢密院を廃止してカビネットなる官房府をつくり、カビネットで開かれる会議で政治が決定されましたが、アンナは次第に体力と精力を激しく消耗する政治に興味を失い、ビロンが実権を握ります。彼の住居はアンナの宮殿と連結され、アンナの恩顧をいいことに蓄財に走ったといわれています。ロシア宮廷へのわいろの実に半額は彼がとったもので、ビロンの服、家具調度はアンナのそれを上回る豪奢さであり、彼の使用した食器はフランス大使を驚かせたと伝えられます。 |
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1737年には、クールラント公国のケトラー家の血統が絶え、そのときビロンはクールラント公候補者に名乗りを上げます。アンナは、アムステルダムで現金化できる小切手の形で選挙資金をビロンに送り、その資金の力でビロンは見事(?)クールラント公になりあがったのです。しかし、彼の女帝の恩顧をかさにきた金権政治はロシアでもクールラントでも上下の憤激を買っていました。 アンナ女帝の時代、ロシア帝国はポーランド継承戦争(1733〜1735年)、対トルコ戦(1735〜1737年)と続けざまに戦争に突入し財政を圧迫していた時代でした。これら戦費増大による財政難は強制徴税をまねき、とうぜんこれは貴族たちの憤激を買いましたので、それを押さえ込むため死刑、シベリア流刑が続きました。 この金不足の時代に唯一生産を伸ばしていたのが鉄鋼生産でした。アンナ女帝はピョートル大帝の重商主義をうけつぎ、ウラルの鉄鋼生産量は年々増加し、アンナの死亡した1740年には、大帝時代の末期の倍に増加していました。 鉄鋼の大口取引先となったのがイギリスで、1734年イギリスとロシアの間で通商条約が結ばれるようになり、ロシアの外国貿易の殆どをイギリスが占めるようになります。ロシアはもはや毛皮だけの国ではなくなろうとしていたのです。 1740年10月17日、アンナは自分の姪(姉エカテリーナの娘)のアンナ・レオポルドヴナの息子で当時生後二ヶ月のイヴァンを次期ツァーリに指名してこの世を去ります、ピョートル大帝よりもあくまで実父イヴァン5世の血統を重んじたのでしょう。享年53歳でした。 〜 3. 中央アジア政策ーインドへの道 〜 17世紀はじめ、オイラート部からでたガルダン=ハーン(もともとラマ僧になる予定で、ダライ・ラマの下で修行していましたが、兄センゲが殺害されたことで還俗して領主となったのです)が、モンゴルの左隣にラマ教を国教とするジュンガル帝国を起こし、四方を威圧しはじめました。ガルダン=ハーンは1696年、清の康熙帝の親征軍により壊滅し、ガルダン=ハーンは自害(または病死)しましたが、ジュンガル本国でガルダンの甥のツェワン・ラブタンが独立し、ラブタンの息子のガルダン・ツェリンとともにジュンガル帝国の国威を高めます。 ジュンガルと清との戦いは雍正帝にまで引き継がれますが、ともかくこのジュンガル帝国の膨張で圧迫されたオイラートの一部族カルムイク族がヴォルガ河流域まで移動し、ジュンガル帝国はイルティシュ河を越えてカザフ平原にしばしば侵入し、1720年代にはトルキスタン全域を占領してしまったので、当時、「大」「中」「小」の三つの遊牧集団に分かれていたイスラム教徒のキルギス人の土豪はトルキスタンから追い出され、ロシアへ庇護を求めるようになりました。 1731年には小オルダのアブール=ハイル=ハーン、中オルダのアブール=マンベト=ハーン、アブライ=スルターンがロシア当局へ赴いて通好を求めます。このとき、ちょうどロシアでは、ピョートル大帝に見出された貴族院の書記官長で地理学者兼統計学者キリルロフが、中央アジア政策として、オリ川に市を建設しその地の支配を固める建策を出しており、それに基づき1735年にオレンブルク要塞(現オルスク)を築いて、1744年オレンブルク州をつくり、ロシア人を入植させ中央アジアとインド貿易の拠点としていましたから、一応この話に乗ります。 小オルダのアブール=ハイル=ハーンがオレンブルク要塞に赴いてロシアの庇護下に入る決定を下しますが、この決定はアブール=ハイル=ハーンの個人的な決定によるものであって、小オルダの総意ではありませんでした。そこで、他のキルギス人たちはロシア皇帝への宣誓を拒否し、ロシア皇帝に代理人としてキルギス人たちに宣誓させるためにやってきたタタールの公テヴケレフを脅迫しました。しかし、テウゲレフはうまく話をまとめ、キルギス人を宣誓させることに成功します。これに続いて1740年、中オルダのハーンもオレンブルクへ赴き、ロシア帝国との間に臣従関係を結びます。しかし、この当時のロシア帝国は、オレンブルク、西シベリア、イルティシュの要塞線を守備するのみで、内陸アジアにはそれほど関心をもっていたわけではありませんでした。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『物語 バルト三国の歴史』 志摩園子 著 中公新書 ・『よみがえるロマノフ家』 土肥恒之 著 講談社 ・『大帝ピョートル』 アンリ・トロワイヤ 著 工藤庸子 訳 中公文庫 ・『ピョートル大帝の妃』 河島みどり著 草思社 ・『アジヤロシヤ民族誌』 沼田一郎 訳編 彰考書院版 ・『中央アジア史』 江上波夫 編 山川出版社 ・『ロシア史 2』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |