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〜 1. 治世の始まり 〜
さて、アンナ・イヴァーノヴナによってユリウス暦1740年10月17日、後継者に指名された生後8週間のイヴァン6世がツァーリに即位すると、アンナの死の床での命令ビロンがツァーリの摂政に任命されました。イヴァン6世の母、ブラウンシュヴァイク公アントン・ウルリヒに嫁いだアンナ・レオポルドヴナですが、夫との仲は最悪だった模様です。どうも、のちのエカテリーナ2世と夫のカール・ペーター・ウルリッヒもそうですが、ロシア皇女とドイツの小公国の男との結婚は破局しか生まないようです。
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この章に登場するロマノフ一族の系譜
―イヴァン5世――┬アンナ・イヴァーノブナ
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└エカテリーナ―アンナ―イヴァン3世
エウドキア シャルロッテ・クリスティーナ
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| ├―――ピョートル2世
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├―――――アレクセイ
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――ピョートル1世(大帝)
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| カール・フリードリッヒ
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| ├―――ピョートル3世
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├―――┬―アンナ・ペトローヴナ
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| └―エリザヴェータ・ペトローヴナ
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エカテリーナ1世
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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ところがビロンが摂政に任命されて3週間後の1740年11月19日深夜、陸軍元帥ミニュヒがクーデターを起こしてビロンを寝室で逮捕、四つ裂きの刑を求刑されますが、判決は全財産没収の上、シベリアのペルミへの終身流刑としました。後日談ですが、しかしビロンは22年間にわたるシベリア流刑を生き抜き、1762年ドイツびいきのピョートル3世に宮廷に呼び戻されます。さらに1763年、エカテリーナ2世によって公爵領を復活してもらいました。流刑から帰った彼は清廉な人物になって慈悲深い統治をおこない、ミタウの自分の城、ラストレリ城で1772年永眠しました、長生きはするものです。
代わってツァーリの母アンナ・レオポルドヴナがイヴァン6世の摂政を引き継ぎます。ところが、オステルマンがミュニヒを逮捕失脚させて、ビロンと同じくシベリアのペルミへの流刑としました。これまたオステルマンもビロンと同じくピョートル3世によって1762年流刑を解かれ、すぐ後エカテリーナ2世は彼をバルト海の港湾総裁に任命しました。さて、イヴァン6世、アンナ・レオポルドヴナと彼女から摂政を引き継いだオステルマンの体制が成立します。しかし、近衛連隊の支持を得られず、むしろ近衛連隊はピョートル大帝の実の娘エリザヴェータに心を寄せていました。そこで、アンナはエリザヴェータを外国に嫁がせて、ロシアから事実上追放してしまおうと画策をはじめます。
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ツァーリ、イヴァン6世と摂政のアンナ
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が、すでにとき遅く、1741年11月25日夜、衣服の上に甲冑を着込み、手に十字架をささげ持ったエリザヴェータ・ペトロ―ヴナは近衛連隊とひそかに謁見しました。そして、近衛連隊を前に、「わが子らよ!私を知っておられよう!私こそはピョートルの娘、ピョートルの血を引く唯一の者。私とともに武器を取ろう、命をささげよう、ロシアのために!」と啖呵を切ります。エリザヴェータの演説を聞いた近衛連隊はエリザヴェータを支持、かくしてエリザヴェータは近衛連隊ととともにアンナとイヴァン6世が就寝する冬宮の寝室に押し入り、二人を逮捕します。アンナは流刑となり、イヴァン6世は1歳半でシュリッセルブルグの要塞に幽閉されました。オステルマンも逮捕され、車輪刑を宣告されますが、減刑されて一族郎党とともにシベリアのベレゾフへ流刑となり、6年後の1747年になくなりました。もっとも彼の一族はエカテリーナ2世により宮廷に呼び戻されます。
エリザヴェータの母のエカテリーナ1世は、最初はエリザヴェータをフランスのルイ15世、それがだめならオルレアン公に嫁がせる腹積もりでしたが、さすがにフランス側から断られてしまい、そこでエリザヴェータも他の姉妹たちと同様、ドイツ諸侯に嫁ぐ予定で、ホルシュタイン=ゴットルプ家のカール・アウグストと婚約していました。しかし、婚約後まもなく、カールは天然痘でこの世を去ります(他のドイツ小諸公に嫁いだロシア皇女たちの家庭破綻を考えるとこの方がよかったのではないかと思わざるを得ません。)。カールをあきらめきれないエリザヴェータは、様々な愛人関係をもちますが、それでも独身を通していました。
彼女は、ピョートル大帝の実の娘であるということと、結果的にドイツの公と結婚していなかったことから、ドイツ人の影響も薄いと考えられてツァーリに推戴されたものだと思われます。
エリザヴェータはウスペンスキー聖堂でツァーリに即位すると、自らの統治の正統性を強調するため、ピョートル大帝を聖化し、元老院復活などの措置を行い、かわりにエカテリーナ1世、アンナ・イヴァーノヴナ時代の否定する宣伝を行ないました。
〜 2. シュヴァーロフの改革 〜
フランス語とドイツ語を操り、教養も高く、フランス文化を愛好し、このころからロシアの宮廷文化がフランス風となる端緒を作ったエリザヴェータは文化政策に力をいれます。イタリアの建築家ラストレッリを招いてサンクトペテルブルクに冬宮を建設し、モスクワ大学を設立、芸術アカデミーを設立し、サンクトペテルブルクにロシア初の劇場を建設しました。
また、後継者問題で長いことゆれたロシア政界ですが、自分の代ではこの問題に早々に片をつけるべく、エリザヴェータが即位して早々にホルシュタイン公国の首都キールに特使を派遣し、公爵の息子カール・ペーター・ウルリッヒを皇太子として迎え入れるべく使者を送ります。カール・ペーター・ウルリッヒは、自分の姉のアンナがホルシュタイン=ゴットルプ家のカール・フリードリッヒ公爵に嫁いで設けた息子です。
アンナは息子が生まれた後2ヶ月で亡くなり、父のカール・フリードリッヒ公爵もペーターが10歳の時亡くなって、ペーターは孤児となっていました。しかし彼は、当時生存する唯一のピョートル大帝の男の孫で、スウェーデン王位継承権ももっていました。万一このカール・ペーター・ウルリッヒがスウェーデン国王に即位でもして、自らの血筋を立てにロシア皇帝位を主張し始めでもしたら、面倒なことになるとの計算もあったようですが、ともかくこうしてエリザヴェータは治世の最初から後継者を指定することで、自分の代の跡目相続問題を未然に防ぎます。
ところが、しばらくすると健康のすぐれなかったエリザヴェータも政治に息切れをおこし母と同じく自身も遊興にふけりがちとなり(自分の衣装を1万5千着もっていたとのうわさもあります。)、やがてウクライナコサック出身の寵臣ラズモフスキー、ついでピョートル・シュヴァーロフが実権を握ります。
シュヴァーロフが行なったのは、一言で言えば内政改革でした。まずシュヴァーロフは1719−1730年間の人頭税の滞納分を一気に帳消しにし、さらに向こう2年に限って人頭税を10コペイカ引き下げ、国内関税を撤廃することで産業・商業の活発化による国民の収入増加、ひいては税収の増加を見込んだのです。但し、国内関税撤廃による税収の不足分は酒醸税と塩税などの間接税の増大に踏み切りることで確保しました。さらに1744年には第二回の人口調査を行って租税可能人口を把握し、租税可能人口に17%の増加をみることができました。
さらに彼は、商業活動活発化には貨幣信用機関の設置が必須であるというわけで、この時代ロシア初の二種類の銀行が設置されます。一つは貴族銀行で、土地を担保に年利6%でお金を貸つけるもの、もう一つは「ペテルブルク港での取引の改善のための銀行」というものでした。
つまり、シュヴァーロフの改革は、封建的土地貴族と宮廷貴族階級を温存しつつ、資本主義を推進する、つまり貴族性と資本主義を両立させるまたはうまく適応させるという手法です。当時としては穏健な考えの基に行なわれたのでしょうが、普通商品経済が発達すると封建制は崩壊しますので、現代から考えると、かなり大胆な試みであったと思われます。日本でいえば田沼意次の政策にあたるようなやり方です。
ところがこの封建制・資本主義合体政策とも言うべきシュヴァーロフ派に対して、貴族に特権を大幅に認めることで貴族階級全体を強化し、時代の変化を乗り切ろうというヴォロンツォフらを中心とする派がありました。結局ヴォロンツォフ派が権力をにぎることによって、ロシアの歴史は後者の方法を選ぶことになります。
〜 3. スウェーデンとの戦い 〜
大北方戦争敗北の後のスウェーデンですが、その回復は以外に急速でした。カール12世の戦場の不慮の死の後、妹のウルリカ・エレオノーラがあとを継ぎましたが、彼女は2年後王位を弟のドイツ人のヘッセン公に譲って、ヘッセン公がフレデリック1世として即位します。しかし、大北方戦争敗北後の絶対君主制への不信感から、1730年には統治法が制定され、王権が極度に制限され、絶対王政は廃止されます。国王は元老院の意思に従い、元老院は身分制議会の意思を尊重し、いまだ不完全ながらも議会政党制が始まりました。
身分制議会は二つの政党に分かれます。一つはカール12世の近衛士官だったアルビド・ホルン宰相率いるナイトメッソナ党、対するもう一つの政党はハッタナ党です。ホルンの政治は成功し、彼は海運・貿易・工業を推進する重商政策を取り、鉄鋼の輸出も拡大、インド、中国との貿易で東インド会社が設立されました。彼は内政にも力を入れ、1734年にはマグヌス・エリクソンの一般法(私法)に代わる新法(公法)も制定します。
しかし、ホルンは新ロシア派であるとうわさを立てられ失脚、親フランス派であるハッタナ党政権をとり、ジーレンボルイ伯が宰相となります。ジーレンボルイはフランスの要請の元、1741年、お家騒動でもめるロシアに対し、復讐戦に乗り出しました。しかしエリザヴェータ治下のロシア軍がスウェーデン軍に勝利、派遣軍の2/3を壊滅、フィンランド東南部を得ることができました。こうしてもはやスウェーデンはロシアにとっておそるるに足らない国家となってしまったのです。
〜 4. 7年戦争 〜
さて、エリザヴェータ・ペトロ―ヴナの時代に起こった最大の外政的出来事は7年戦争です。この戦争は、ロシアがヨーロッパ情勢に本格的に介入した最初の事件でした。事のそもそもの起こりは、オーストリア系ハプスブルク家で男系の子孫が絶え、マリア・テレジアがハプスブルク家領オーストリアを相続しようとしたことに始まります。
ハプスブルク家は、独特の婚姻政策を展開した家系でした。ハプスブルク家も他のヨーロッパにおける貴族と同じく、他のヨーロッパ貴族と様々な婚姻関係を結んでおりました。ところが、ハプスブルク家が婚姻関係を結んだ王国では、なぜか男系の子孫が絶える事態が続き、そのたびにハプスブルク家は、男児でなければ継承権なしとして婚姻先を自領に併合し、ブルゴーニュ公国、スペイン王国、ハンガリーのヤゲロー王朝などを吸収合併、結果としてヨーロッパにまたがる巨大な領土を獲得してしまいました。
イギリスのエリザベス1世が、スペイン系ハプスブルク家のフェリペ2世との婚約をのらりくらりとかわし、執拗に履行しなかったのは、このハプスブルク家の婚姻政策により、イギリスがスペインに吸収されてしまうことを恐れたがためでした。
ところが時代は下って、しっぺ返しといいますか、オーストリア系ハプスブルク家のカール6世が崩御したとき、ハプスブルク家に残された同家の子孫は女の子で、彼女こそロートリンゲン家の青年と結婚していたマリア・テレジアだったのです(これ以後ハプスブルク家はハプスブルク・ロートリンゲン家と称されるようになりました。)。そこで、父のカール6世は長子相続法を定め、長子であれば女の子でもハプスブルク家世襲領の相続が可能であるという国内法を定めます。これをプロイセン王国、バイエルン王国などの神聖ローマ帝国領内の王国に認めさせ、代償として東インド会社を放棄したり、周辺各国に所領を分割させたりして、ハプスブルク家から神聖ローマ帝国の帝冠は転げ落ちるにしても、世襲領はマリア・テレジアに相続されるようにと一応の手は打っておりました。
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マリア・テレジア(少女時代)
1717-1780
ハプスブルク・ロートリンゲン家領の中央集権化に着手
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ところが、これまでのハプスブルク家の歴史的な婚姻政策を見ていた周辺各国は、当然ですが、マリア・テレジアはハプスブルク・ロートリンゲン家大公女にすぎず、ハプスブルク・ロートリンゲン家領オーストリアの継承権はないと宣言しました。かくしてオーストリア継承戦争が勃発し、プロイセン王国(1700年に誕生、つい先ごろまではブランデンブルク選帝侯国)、フランス、スペイン、バイエルン選帝侯国、ザクセン選帝侯国がハプスブルク・ロートリンゲン家領に攻め込みました。多勢に無勢、いかんともしがたく、プロイセン王国のフリードリッヒ2世はオーストリアからシュレージェン地方を奪い、バイエルン選帝侯国のヴィテルスバッハ家のカール7世が神聖ローマ帝国皇帝になります。
ところがマリア・テレジアはそのまま黙っているような人物ではありません。夫のロートリンゲン公シュテファン・フランツ(ちなみにこのときの縁組でロートリンゲン(ロレーヌ)地方はフランスに割譲され、代わりにもらったのがトスカーナ大公メディチ家が断絶し、主のいなくなったトスカーナ公国です)を神聖ローマ帝国皇帝に即位させて自分が実権を握り、宰相カウニッツ伯と組みます。じつはこのカウニッツ伯にはとっておきの秘策がありました。彼は、かつては犬猿の仲だったフランスに対し、興隆著しく、放って置けば万人の災いとなりかねないプロイセン王国(のちのビスマルクによるドイツ帝国の中心王国で、ドイツ帝国皇帝はプロイセン国王が兼任します。)打倒の共闘戦線を呼びかけたのです。
ちなみにハプスブルク・ロートリンゲン家とフランス王国の間柄はこの時期までは最悪でした。スペイン王国を併合したハプスブルク・ロートリンゲン家とフランス王国との、イタリア半島領有をめぐるデスマッチは16世紀中ごろには、ハプスブルク・ロートリンゲン家がヴェネツィア共和国以外のイタリア半島全てを併合するもしくは影響下に置くことで、ほぼハプスブルク家側の完勝に終わっていました。
さらに抵抗を止めようとしないフランスに対し、ハプスブルク家はイギリスと同盟を結んで、スペイン・イタリア・ドイツ・イギリスの四方からフランスを封殺しようと、フランスは異教徒オスマン・トルコ帝国と同盟を結んで対抗します。時代は下っても、フランス王国宰相リシリュー枢機卿の、30年戦争への土壇場参加など、両者は対立を18世紀中ごろまで引きずっていたのです。
ところが先に述べたような理由でハプスブルク・ロートリンゲン家とフランスの間で同盟が結ばれ、その結果両家も婚姻関係が結ばれることになりました。その結果オーストリアからフランスへお輿入れしてきたのがマリー・アントワネットです。この劇的な領王国の関係改善を「外交革命」と呼びます
ハプスブルク・ロートリンゲン家と同盟を結んでいたロシアもこの同盟に加わります。当時フランスを仕切っていたのはルイ15世の愛人ポンヴァドゥ-ル夫人でしたから、この同盟は通称三枚のペチコートと呼ばれました。
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17世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
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まさかのまさかの大同盟が出来上がり、泡を食ったプロイセン王フリードリッヒが頼れた相手はイギリスでしたが、対露貿易を独占するイギリスは、お得意様ロシアの機嫌を損ねては大変なのと、大陸から離れて位置することにもよるのでしょうが、自分は一歩退いて、大陸の事件を傍観しつつ漁夫の利を得るという伝統的な日和見政策を展開、ヨーロッパでは、ロシアの機嫌をとりつつ、プロイセンも怒らせずに高みの見物と決め込みました。
ただし、ヨーロッパからはじき出されている分、海外活動にすさまじい執着を見せるイギリスですから、ヨーロッパ戦線はプロイセンに任せたものの、海外では派手な戦争を展開してフランスと戦います。こうして1757年、インドにおけるプラッシーの戦いに於いて、フランスとベンガル王侯の連合軍を破って勝利を収め、インドからフランス勢力を一掃します。こうして、イギリスのインド支配が確立する基礎がこの時代にできたのでした。
先走りますが、イギリスは更に北米で、フランスとネイティヴ・アメリカン連合軍と戦い(フレンチ・アンド・インディアン戦争と呼ばれます)、最終的に勝利を収め、1763年のパリ条約で、敗戦国フランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナを、そして同じ敗戦国スペインからフロリダを獲得しました。フランスを下し、北米に確かな足場を築いたイギリスは、こうして第一帝国と呼ばれる時代に入ります。これが、イギリスとフランスの間で行なわれた最後の植民地戦争が終わった年でした。
ところが、この戦争の費用がかさんだことで、財政が窮地に立たされたイギリスは植民地に負担をかけようとし、アメリカ植民地に砂糖条例、印紙条例などを制定して課税し、(激しい反対の後撤廃されましたが)、極めつけに、1770年、ボストンでイギリス駐屯兵によるボストン市民虐殺事件が起こり、1773年に、紅茶に課税する茶条例を制定したため独立戦争を起こされ、1783年にはアメリカが独立します。
結局フリードリッヒ2世は、ヨーロッパ戦線では強国に三方から同時に攻め込まれることになり、大苦境に陥ります。のちに七年戦争と呼ばれた戦いの始まりでした。
ロシアは1757年に戦端を開き、フェルモール率いるロシア軍は1758年ケーニヒスベルクを占領します。しばらくは両軍勝負がつきませんでしたが、プロイセンは1758年クーネルドルフの会戦で、フリードリッヒ2世自らが率いる4万8千のうち、3千を残し後は全滅もしくは壊乱しするという大打撃を受け、ロシアに完敗してしまいます。
ところがまったく諦めないフリードリッヒ2世は勢いを盛り返し、1760年8月リーグニッツの戦いで勝利を収めました。
しかし、オーストリア・ロシア連合軍は反撃に転じ、1760年9月、とうとうベルリンに入城します。
ところが両軍はベルリンを放棄せざるを得なくなり、トルガワではまたもプロイセンが勝利を収めます。
完全に追い詰められながらも、一歩も退かず凄まじい抵抗を止めないプロイセン王フリードリッヒ2世と、プロイセンを囲い込んだフランス・オーストリア・ロシア連合軍の間で、どちらが勝つのか予断を許さぬ一進一退の状況が続いていました。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『女帝エカテリーナ 上・下』
アンリ・トロワイヤ
著 工藤庸子 訳
中公文庫
・『ハプスブルク家』
江村 洋
著
講談社現代新書
・『よみがえるロマノフ家』
土肥恒之
著
講談社
・『ピョートル大帝の妃』
河島みどり著
草思社
・『物語 アメリカの歴史』
猿谷 要
著
中公新書
・『神聖ローマ帝国』
菊地良生
著
講談社現代新書
・『物語 北欧の歴史』
武田達夫
著
中公文庫
・『大英帝国』
長島伸一
著
講談社現代新書
・『ロシア史 2』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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