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ーロシア帝国はあまりに広大であるがゆえに、専制君主以外の他のいかなる統治形態もこの帝国にとって有害である。なぜなら、他の形態は全ての執行が緩慢であるからだ。ー
〜 1. エカテリーナの夫ピョートル3世について 〜
7年戦争のさなかの1761年12月、エリザヴェータ・ペトロ−ヴナが亡くなり、彼女の後を継いだのはエリザヴェータの甥にあたるピョートル3世です。
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この章に登場するロマノフ一族の系譜
カール・フリードリッヒ(ホルシュタイン=ゴットルプ家)
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├―――――――ピョートル3世
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―┬――アンナ |
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└――エリザヴェータ |
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ヨハンナ・エリザヴェータ |
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├―――――――――エカテリーナ2世
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クリスチィアン・アウグスト(アンハルト=ツェルプスト家)
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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エリザヴェータには姉がおり、ピョートル大帝とエカテリーナ1世との間に生まれたアンナ・ペトローヴナ(アンナ・イヴァーノブナとは別人)がその姉で、ドイツのホルシュタイン・ゴットルプ家へ嫁いでいました。生涯独身を通したエリザヴェータには、少なくとも嫡出児はおらず、ロシア帝国の後継者として姉アンナ・ペトローヴナの子供であるカール・ペーター・ウルリッヒを後継者に指定したのです。
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フョードル・ラカトフ画
「ピョートル・フョードロビッチ大公,後のピョートル3世の肖像」
1758年,油彩,モスクワ,トレチャコフ美術館蔵
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ところが、生前のピョートル大帝は自分の息子アレクセイを当面の後継者にと考えており、彼は娘たちをドイツに嫁がせ、ドイツの貴族として生きるよう取り計らっていたのです。カールはドイツ人として教育されていたわけですから、当然本人もドイツ人のつもりでした。しかし、皇太子アレクセイの横死、ピョートル大帝の後継者を指定しないままの死が、カール・ペーター・ウルリッヒの運命を狂わせたのです。
そんなわけで半ば強制的に、急遽ルター派からロシア正教に改宗し、名前もピョートル・フョードロヴィッチと変えて1642年、14歳でロシアへやって来たものの、ピョートルはロシア語よりドイツ語の方がうまく、ドイツに対する郷愁が非常に強い少年だったのです。
そんな彼が1762年ロシア皇帝として即位したのです。さらにロシア皇帝としては甚だまずいことに、ピョートル3世は非常なプロイセンびいきで、フリードリッヒ2世に対する尊敬を隠そうとしなかった人でした。
ですからピョートル3世は即位するとすぐにプロイセンからロシア軍を撤退させ、ロシアの全占領地をプロイセンに返還、1762年4月24日フリードリッヒ2世と和平を結び、おまけにプロイセンと共同してオーストリアと戦端を開くことまで約束したのです。7年戦争でフランス・オーストリア・ロシアの三カ国を同時に敵に回したプロイセン側にとってこれは降って湧いたような幸運で、後にドイツで「ブランデンブルク家の奇跡」と伝えられるようになりますが、当然ロシア軍部の激しい反発を招きました。
もっとも彼はただの暗君だけであったのではなく、1762年2月、「貴族の解放令」を出します。貴族達は今後も国家に勤務することが望ましいが、強制はしないというこの法は、ピョートル大帝の定めた勤務義務がただの苦役でしかない中小貴族からは歓迎され、多くの貴族が故郷に帰ります。
さらに、ロシア側の撤退が引き金となった七年戦争終結ですが、結果的にはこれもよかったのではないでしょうか。この戦争でその国土が主戦場となり、戦争の惨禍をもろにこうむったプロイセンをはじめ、オーストリアはそのそもそもの目的であったシュレージェン地方の回復(だいたいシュレージェンは古来獲ったり獲られたりを繰り返し続けた地域でして、厳密に誰の土地かなどと言えるような場所ではありません。)を果たせず、フランスも戦費が無駄な上に、イギリスとの植民地での戦争に敗れ、アメリカとインドという海外植民地の二大拠点から追い出され、結局これ以後植民地では、常にイギリスの後塵を拝するようになります。漁夫の利を得たかに見えるイギリスですが、この戦争の後遺症で、戦費をまかなうために植民地に高課税をしたところ、それは後にアメリカの独立という形で跳ね返り、結局、イギリスの海外植民地最大の足がかりたる北米を失ってしまうという結果に終わりました。
しかも、あの大帝と呼ばれるフリードリッヒ王のことですから、たとえロシアが一抜けしなくても、自力で危機を乗り切った可能性もきわめて強いと思います。つまり、この戦争は、「墓場の平和」でして、誰の得にもならないまま、犠牲ばかり生み、皆が疲れて終わった、一体何のために行われたのかわからない戦争の感があります。
この戦争の唯一の収穫としては、マリア・テレジアの株が上がったかもしれない、ということがあげられますが、その目的のために払った各国の犠牲が大きすぎます。七年戦争の実行が、僕がマリア・テレジアの統治を胡散臭く思う理由のひとつです。こんな戦争をさっさと終結させて、被害の少ないうちに場を流してくれたピョートル3世は、結果論ですが、別の見方からすれば、よき君主といえないこともないのでしょうか。
ピョートル3世はエカテリーナ2世によって位を簒奪され、歴史から抹殺された君主です。本来正当でない自分の地位を正当化したいエカテリーナ2世サイドから悪評ばかり流された人物なので、たいがいのこの君主に対する評価は低い(というか最低に近い)ですが、この点は考慮すべきであると考えます。現在、以下の硬貨、1748年のジェニガが残されています。
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左の1748年銘のジェニガ(1/2ルーブル)なのですが、
同じ模様の右のものと色からしてなんだか雰囲気が
かなり違います、これは分析するしかありません。

まずはXRD(X線回折)です。
上の赤い線が右の硬貨のもの。
相当純度の高い銅Cuです。
しかし、左の硬貨のXRD図は指数づけの結果、
亜鉛Znに帰属されました。
亜鉛貨ということでしょうか??

左の硬貨表面のSEM像(倍率964倍)です。
いまいち面白くありません。

上はさきほどのSEM像部分をEDXで分析したものです。
他の金属も混じっています(錫や銅)が、
やはり多量のZnが存在します。
クロスチェックにより、
この硬貨の主成分は亜鉛と思われます。
データと画像の著作権はありません。
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以下はこの硬貨が本物であれ偽物であれ、当時鋳造されたことを仮定しての話です。近代においてもこの亜鉛硬貨が登場するのは戦争などによる経済の逼迫が理由です。しかも、亜鉛は鉄砲玉の原料となる鉛と一緒に産出しますから、戦争中、とくに亜鉛の有効な使い道のわからなかった時代は不足する硬貨の原料(特に柔らかく加工が容易で鉄に比べ錆びにくい銅は大砲などの材料に使用されました)として使用されました。分析したこの硬貨の年代はまだ1748年ですから、ピョートル3世が即位した時代とは隔たりがあるとはいえ、当時の経済は底も浅く景気の変動もいまよりはるかにゆっくりしていましたから、まだまだこの時代、ロシアが戦争とお家騒動で疲弊し、台所事情が苦しかったのも想像に難くありません。
「貴族の解放令」も出した彼のこと、ピョートル3世本人の発案かどうかはまた別の問題として、のちにまた述べるプロイセンとの単独講和はロシア経済の疲弊を緩和をねらって行ったものであった可能性もあると思います。問題はその次になされたデンマークへの宣戦布告です。
しかし、ホルシュタイン出身者の重用、極端なドイツかぶれなどはアンナ・イヴァーノヴナ治下の「ビロンの時代」を彷彿とさせるに十分であり、軍部・政府高官などの反発を招き、ピョートル3世の立場はだんだん危険なものとなっていきました。
〜 2. エカテリーナの生い立ちから即位まで 〜
ここで話をエカテリーナ2世に移します。旧姓をゾフィー・フリデリーケ・アウグスタという彼女は1729年、プロイセンのシュテッテンで、敬虔なプロテスタントのルター派信徒であった両親のもとに生まれました。父親はプロイセン軍の少将、アンハルト=ツェルプスト家のクリスチィアン・アウグスト、母親はホルシュタイン=ゴットルプ家のヨハンナ・エリザヴェートでした。
エカテリーナ自身の手による『回想録』は以下のような書き出しで始まります。
ー「私は1729年4月21日、つまり今から42年前に、ポメラニアのシュテッテンで生まれた。男子を期待したのに最初の子が女の子で、みんながっかりした、と後でよく聞かされた。でも父は、周りの人々よりは私の誕生を喜んでくれたらしい」ー
いくらなんでもかわいそうなコメントだと思いますが、ともかく、ゾフィーは、ゆくゆくは、ドイツの一地方貴族の娘として一生を終えるはずでした。が、アンナとビロンの失脚によりエリザヴェータがツァーリッツア(女帝)となったことが、ピョートル3世同様、ゾフィーの運命を変えます。政権が安定してのち、エリザヴェータは自分の後継者と目していた、当時すでに亡くなっていたエリザヴェータの姉アンナの息子でピョートル大帝の孫カール・ペーター・ウルリッヒの花嫁候補を探し始めました。
ちなみにゾフィーの母親ヨハンナは、エリザヴェータの最初で最後の婚約者カール・アウグストの妹という縁があり、これもきっかけの一つだったのかどうかわかりませんが、ともかくゾフィーはお妃候補の一人としてロシアに呼ばれます。エリザヴェータのおめがねにかなったゾフィーはロシアでルター派からロシア正教に改宗し、名前もエカテリーナ・アレクセーェヴナに変え、ピョートル大帝の孫カール・ペーター・ウルリッヒと婚約しました。
その後もエカテリーナはロシア語を学び、正教に帰依し、ロシアに溶け込もうと努力を重ねたため、エリザヴェータの寵愛と周囲の好感を集め始めましたが、一方宮廷のピョートル3世への反感は募る一方でした。
そんな空気の中、先ほど述べたように、ピョートル3世がプロイセンとの間に電撃的単独講和を結んだのです。かてて加えて、ピョートル3世は彼の心の故郷ホルシュタインのために、シュレスヴィヒを取り戻そうと(ということにされております)、デンマークに対する戦争準備を命令しました。戴冠式も済まさず、皇帝自ら出陣するとピョートル3世は軍港クロンシュタットの対岸、オラニエンバウムに入ります。
これが決定打となって6月28日、近衛連隊を中心とするクーデターが起こります。当時エカテリーナの愛人(1760年ごろー1772年まで)だった近衛連隊歩兵士官のグリゴリー・オルローフ、左岸ウクライナのコサック出身で、前女帝エリザヴェータの侍従から近衛連隊長と科学アカデミー総裁を兼任していたキリール・ラズモフスキー(弟のアレクセイ・ラズモフスキーがエカテリーナ2世の愛人でした)、エカテリーナの友人で、前女帝エリザヴェータの宰相をつとめたミハイル・ヴォロンツォーフの姪エカテリーナ・ダーシコワなどが中心です。彼らクーデター派の一人パッセク大尉がエカテリーナ2世のことで不用意な発言をして逮捕されてしまったので、余計なことを吐かないうちにクーデターを決行することにしたのです。ちなみにこのクーデターには、のちのグリゴーリー・ポチョムキンも近衛連隊の一員として参加しています。
当時ピョートル3世の命令でペトロドヴァレッツに住んでいたエカテリーナは寝ていたところを起こされ、サンクトペテルブルクへ迎えられ、1762年皇帝エカテリーナ2世として即位します。ピョートル3世は、デンマーク遠征用の大部隊を擁していたにも関わらず、軍を率いてサンクトペテルブルクへ進撃しようとはせず、クロンシュタットへ逃げようとしますが、すでにこの大軍港はエカテリーナ2世の手に落ちていたため上陸を拒否されます。オラニエンバウムにもどったピョートル3世は退位宣言書に署名させられてペトロドヴァレッツ付近のロプシャに追放され、そこで亡くなります。エカテリーナの意を忖度したグリゴーリー・オルローフの兄弟のアレクセイ・オルローフに殺害された可能性も高いです。
そして1764年7月、シュリッセルブルクの要塞に幽閉されていたイヴァン6世が殺害されました。生後1年半で幽閉された24歳の彼はすでに精神錯乱をおこしており、「誘拐」「逃亡」の場合はいつでも彼を殺害してよいという指令が出ておりました。この指令が厳格に守られ、こうしてピョートル大帝の血を引く正統な帝位継承者が完全に絶えてしまったのです。
この、クーデターに参加したメンバーおよび、後のエカテリーナの側近グループを見てみると浮かび上がってくるのが、ダーシコワ公爵夫人を除いてほぼ全員が近衛連隊出身ということです。つまり、エカテリーナ2世は結局はドイツ人であるために、ロシアにやってきた段階で先祖代々からの譜代の家臣をすべてドイツに残してきたうえ、新参者ですから当然ロシア国内の古くからの有力者(名門貴族)に血縁関係を主とするコネなどもないために、側近には、親しく接する機会が多いことから手なずける機会も多く、自分に忠実なことが一番確からしい近衛連隊から引っ張り挙げるしかなかったのです。近衛連隊出身者も基本的に身分が低いわけですから、万一女帝の目にとまれば破格の出世も期待できるわけで、その期待もあって女帝のために身を粉にして働くものが多かったのです。
ですから、とにかく数少ない側近を確実な味方にしておくためには、破格の出世・莫大な褒章はもちろんのこと、外聞や手段を選ばず側近と男女の仲になるのもいとわなかったわけです。もちろん、彼女の愛人遍歴は、男女問わず、人間が何でも出来る力と権威を手に入れたら一体何をするかを正直に実行した結果ともいえますが、まず第一にはこういった切実な理由があったのです。
〜 3. 治世の始まり 〜
さて、ドイツ人でありながらロシア皇帝に即位し、ロマノフ・ホルシュタイン・ゴットルプ王朝(?)を開いたエカテリーナが行なったことは、啓蒙主義者たちと手紙などで親しく交わり、自らも古典に親しむ、開明的な啓蒙主義君主としての姿を彼らを通じヨーロッパに宣伝させることでした。ラジオ・テレビ・インターネットなどが存在していなかった当時としては、たくさんの読者が関心を持って読む、有名作家の寄稿する文章は主要な宣伝媒体だったのです。
こういうわけでクーデターの九日後にディドロをペテルブルクへ招いて彼の「百家全書」の出版の援助を約束し(これは拒絶に会いましたが)、資金援助を与え、ヴォルテールと十五年にわたることになる文通を開始して意見を交わし、「法典編纂に関する覚書」なる文章を(当時の啓蒙主義思想化の著作の寄せ集めに近いものです)執筆しました。
このように、エカテリーナの教養の源は、フランス知識人層の作品で、上の者のやることは下の者もまねしますから、ロシアが文化的に模範とする国家はこの時期に決定的にフランスとなります。
そして、国内経済活性化のため、ヴォルガ川下流域のドイツ人入植を進めます。彼らには、兵役の免除、開発資金の10年間の無利子貸与、三十年間の免税、信仰の自由などの破格の特権が与えられました。
1766年、エカテリーナは立法委員会(新法典の編纂のための委員会)を召集します。召集に先立ち、エカテリーナは「法典編纂に関する覚書」を発表、広大な領土に多数の民族を抱えるロシアにとって、専制君主制がふさわしいという一方で、市民の自由・法の前での平等を訴えました。もっともこの委員会はエカテリーナに対し、祖国の賢母、大帝の称号を贈ったのみに終わり、二度と召集されることはありませんでした。
このように帝国外部に対しては、海外には進歩的君主の姿を喧伝させるのに骨を折る一方、帝国内部、より具体的にはクーデターの時に自分を支持し、その後もエカテリーナの権力の根源であった貴族階級に対しては、彼らにとって極めて都合のいい政策をとります。
エリザヴェータの時代に出された、貴族が服従しない農民をシベリアに送る権利などを追認し、加えて農民を無制限の懲役に送ることを認め、さらに農民が領主の不正を皇帝に訴えることを禁止するなど、農奴制の強化を促進する政策を打ち出します。
前にも述べましたが、結局のところ帰化ロシア人であるため、有力な親族、先祖代々の譜代の家臣のいないエカテリーナにとっては、大貴族をけん制しつつも、彼らのご機嫌を常に伺うことは、彼女にとって一生の至上命題だったのです。
〜 4. 第一次ポーランド分割と露土戦争 〜
1763年、ポーランド国王アウグスト3世の死去とともに、エカテリーナは昔(1755年ー1761年まで)の愛人スタニスワ・ポニャトフスキを傀儡の国王に送り込むことに成功します。これが、スムータの時代にはモスクワを占領したことさえあったポーランド分割の始まりでした。
ポーランド本国が無力となった今、もはやウクライナ情勢について文句をいう国はどこにも居らず、エカテリーナは科学アカデミー長官で、クーデター時の皇帝即位文章を起草した教養あるコサック、キリール・ラズモフスキー伯をヘトマンに推薦し、事実上ウクライナをロシアの支配下においていましたが、1764年、ラズモフスキーをヘトマンから解任し(彼が最後のヘトマンとなります)、代わりにマラロシア参事会を設立して、ウクライナをロシア国家の一機関の統治する地域とし、1765年にはスロボダ・ウクライナの自治を廃止、先走りますが、1775年にはザポロージェ・コサックを廃止し、1780年にはマラロシア参事会を廃止して、キエフ、ノヴゴロド・セーヴェルツキー、チェルニーゴフの3県を置いてロシアの一地方に格下げし、1783年、最後の仕上げとして登録コサック制度を廃止し、全ウクライナの自治を廃止します。こうしてスムータ時に情勢のキャスティングボードを握ったコサック国家ウクライナは、ロシア帝国に完全に併合されてしまったのです。
さて、ロシア帝国は、文化的にはお手本にしていても、政治上は対立するフランスに対抗するため、フランスと仲の悪いプロイセン、さらにはオーストラリアとも語らって、三カ国で同盟関係を結びます。
すると、ついでというわけでもありませんが、関係三カ国の中央にあり、なおかつ弱体であるポーランドを三カ国で分割しようという話が持ち上がりました。結局ロシアはこのときポーランド領であった、より正確には旧リトアニア大公国領であった、リヴォニア、ベラルーシの一部を併合します。
さらに、1768年、トルコとの戦争が勃発しました。ロシアは1765年に発生したボスニア、モンテネグロの反乱を後方から支援しており、ピョートル大帝の対オスマン政策、クリミアおよびカフカスの領有、黒海でのロシア艦隊の建造、ボスポラス海峡の自由通行、ワラキア及びモルダヴィアの領有、ドナウ川までの領土確保、を実現すべく、機会をうかがっておりました。
開戦の原因は、傀儡のポーランド国王誕生に反対するポーランドの民族主義者が反乱をおこし、それをロシア軍が鎮圧したところ、旧同盟国を頼って彼らはトルコ領に逃げ込み、それを追ってロシア軍もトルコ領内に進入、そのさいにオスマン・トルコ帝国民も巻き添えを食らって殺害されたことです。これをうけてトルコがロシアに宣戦布告したのです。この1768年ですが、クリミア汗国の最後のロシア南部襲撃が行われます。
この時期には守旧派の巣窟となり、トルコ近代化のガンとまで言われるようになったイェニチェリの近代装備拒否などにより弱体化していたトルコ軍はロシア軍の敵ではありませんでした。ギリシャ人の反乱の報を聞くと、正教徒保護を名目にオルローフ提督指揮下のバルチック艦隊は北海をぬけ、ジブラルタル海峡から地中海に入り、モレアに辿り着きます。しかし、反乱は鎮圧されたとのことでしたので、チェスメの海戦でトルコ艦隊を撃破し、付近の島を砲撃、占領します。ルミャンツェフ率いる陸軍もベッサラビアからベンダー、ブカレストなどバルカン半島を攻略し、ドナウ川を越えてドブルジャまで進行します。別の一群は、はるかイヴァン雷帝の昔から続くタタールのロシア南部襲撃の震源地であったクリミア半島を占領、クリミア汗はイスタンブールに逃亡しました。
この時点で、オーストリアはロシアの勢力拡大を警戒してオスマン・トルコと同盟を結び、プロイセンのフリードリッヒ2世も戦争の拡大を避けるべく仲介に乗り出しました。そこでロシアはトルコと和平条約を結び、1774年、クチュク=カイナルジ条約を結び、露土戦争は終結します。これにより、ロシアはトルコ領内の通商特権、ドン川河口の黒海の戦略要地アゾフを手に入れ、将来のロシア領への併合を見込んだクリミア汗国のオスマン・トルコからの独立、ボスポラス・ダータネルス海峡の通行の自由を手に入れ、事実上黒海の制海権を手にし、地中海進出への手がかりを得ました。これにより、ロシア帝国の影響はバルカン半島、ザカフカースにまで伸びることになります。
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18世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
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〜 5. プガチョフの乱ーコサックの服属 〜
ところが戦争にはお金がかかります、このしわ寄せは基本的には増税でまかなわれるので、帝政ロシアに入って以来、大戦争をすると必ず反乱が起こってきました。アレクセイもポーランドとの十三年戦争を乗り切った時点でステンカ・ラージンが反乱を起こし、ピョートル大帝の時代もスウェーデンとの戦争が一息ついた時点でブラーヴィンが反乱を起こします。
エカテリーナ2世の時代にも、トルコ戦のさなか、エメリアン・プガチョフが反乱を起こしました。しかもこの3つの反乱の首謀者は全員ドン・カザーク(コサック)出身者です。
ドン川沿いのジモヴェイスカヤ村に生まれたプガチョフは、7年戦争と対トルコ戦に参加したということ以外は良くわかっておりません。1773年、ヤイクに現れた彼は自らピョートル三世と名乗り、カザーク、バシキール人、キルギス人などを糾合し、流賊の特徴で見る見るうちに軍勢を増やし、ロシア帝国の中央アジアへの目、オレンブルクへ攻撃を開始しました。
対トルコ戦にかかずらっているロシア側は有効な手を打てず、オレンブルクは苦境に立たされましたが、ビービコフらを送ってなんとかオレンブルクの包囲を解きます。ところが、今度はプガチョフはカザフを占領してしまいました。
ようやくトルコと和平条約を結んだロシアは正規軍を送り、ツァーリツィン(旧スターリングラード、現ヴォルゴグラード)の戦いでプガチョフの軍勢を全滅させます。結局配下の裏切りでプガチョフは捕らえられ、1775年、モスクワで四つ裂きの刑で処刑されました。ついで1775年ザポロージェ・コサックの本営ノバも破壊され、スムータの時代とユーラシア北部ツンドラ地帯の併合に主役を果たしたコサックは完全にロシアに従属することになりました。
このトルコとの戦争のさなか、エカテリーナは文化事業も行ないます。イタリア人ラストレッリによって立てられた冬の宮殿に、フランス人ヴァラン・ド・ラ・モットにより別館が増築されましたが、この別館にエルミタージュという名前をつけ、彼女が集めた美術コレクションの展示館にしました。これが後世、世界三代美術館の一つに数えられるエルミタージュ美術館の始まりでした。(現在のエルミタージュ美術館へのリンクはこちら)
〜 6. 行政改革 〜
さて、この当時政治の為政者としてロシアに主権を振るうことができるのは、ツァーリであるという資格でした。したがって、為政者として不適格であると思われる人物に交代を要請したい場合は、暗殺・クーデターなどの方法しかありません。
ところが、君主の身辺が鉄壁である場合、なんとか現主権者の交代による天下泰平を願う民衆の心は、「真の善きツァーリ、ロシアに全盛を施せる人物はどこかにいれば」という願望に向かい、政治がますます悪化すれば、苛政からのがれたい一新の人々の心の中で、その願望がやがて確信となります。
つまり、偽ツァーリ事件が発生したというのは現代で言えば不信任案を突きつけられたのと同じことですから、エカテリーナは政治に関して何らかの改革を行なわねばならないことを自覚したと思われます。
そこでエカテリーナは地方分権の政策を取ります。プガチョフの乱が燎原の野火のごとく広まった理由の一つとして、地方行政官の怠慢、もしくは権限不足を思った彼女は1775年、「全ロシア帝国の県行政のための基本法」を公布します。これにより、人口によって県を細分化し、県の数を25から42に増加させます。これにより、県知事の目が県全体に行き渡り易いようにしました。
さらに、貴族集会を設立し、治安や地方の裁判など、本来は地域のコミュニティーに任せておいたほうがいいことがらに関しては地方貴族に任すべく、集会で貴族裁判所の判事や郡警察署長などを貴族から任命し、地方有力者である彼らにも地方行政の一端を担わせ、ロシア帝国の地方行政の補佐役とします。
最終的には、1785年「貴族への恵与状」を公布し、貴族の所領は完全に貴族のものとされ、国家は彼らの所領に対し、没収刑を課すことはできず、彼らの土地から出た資源の使用は貴族の自由にされました。原則的な貴族の国家勤務の強制の禁止を認めました。これは、イヴァン3世の定めた知行制による勤務士族層の廃止でして、エカテリーナ2世の孫のアレクサンドル時代に顕著となる、大学の増設による官僚層の育成補充が本格化し始めたことによる措置です。彼女の時代から、ロシアの歴史区分としての近代突入の萌芽が見られ始めたわけです。
その代わり「貴族の解放例」は、貴族集会への出席を義務付けし、県貴族団長に知事に次ぐ官位を与えるなど、貴族に権限を付与し、封建制(地方分権)を推し進めました。国家勤務からは解放されましたが、しかし地方政治も広い目で見れば国家の事業ですから、朝三暮四とはこのことでしょうか。
〜 7. アラスカ領有ー新たな毛皮獣の地 〜
都合上話はさかのぼりますが、ピョートル大帝により北太平洋探検を命じられたベーリングは1741年アラスカの島を発見します。ところが、食糧不足のため上陸を断念し、帰途に着きますが、悪天候と燃料の薪不足で現在ベーリング島と名づけられた島で越冬します。しかし、そこで彼は病気でなくなります。
結局探検隊の71名中31名が壊血病で死亡しますが、彼らの持ち帰った700枚のラッコの毛皮が高値で売買され、これが話題を呼んで高価な毛皮獣のすむアラスカへの関心が高まります。ちなみに、アラスカは1774年、イギリスのキャプテン・クックによっても探検されました。大清帝国と戦闘後に結ばれた1689年のネルチンスク条約による黒龍江以南への進出不可、1727年のキャフタ条約による蒙古方面からの進出不可の結果として、それならばさらに東へ進もうという話になったのです。
1763年には少尉補のアンドレーフにより、チュコト半島(ユーラシア大陸の一番右端の半島、すぐ向こうはアラスカです。)のさらに6つの未知の島々と人々があり、さらにその向こうに土地があって(アラスカのことです)、三四抱えもある樹木があり、その高さと茂みのために太陽は森林内にほとんど届かず、森林には多くの銀ぎつね、黒テンがすみ、赤銅がたくさん取れる、という報告が寄せられました。これをまとめたオホーツク港の指揮官は、カリフォルニアに至る北米の全土をロシア帝国の版図に入れることが可能かつ望ましいとの報告をエカテリーナ2世に上奏しました。ちなみにこのときのエカテリーナ2世の反応は知られておりません。
1766年にはアレウトの6つの島がロシア領となり、毛皮商人たちが大勢アラスカに押しかけるようになりました。1784年ルイリスク出身でシベリアに移住した商人グレゴリー・シュレーホフが3隻の船を率いてゴディアック島に最初の植民地を作り、ロシア領を宣言します。そして、翌年にはアラスカ本土へ活動拠点を移します。シュレーホフのこの行為に対しエカテリーナ2世は褒章を与えました。1794年、事業拡大のためにシュレーホフは北方会社の設立に成功しましたが、その成果を見ず1975年には没します。シュレーホフの事業を継いだのは後に日本までやってきたレザノフで、1797年に彼は北米にあるほとんどの会社を合同し、魚猟・貿易を目的とする合同アメリカ会社の設立に成功しました。
さらにレザノフは1799年パーヴェル1世の勅許を得、イギリスの東インド会社にならって、ウルン、ベーリンゴフ、アトハの三つの島をそれぞれ占領していた複数の諸商事会社を合併し、アラスカの植民地経営を円滑ならしむための露米会社の設立に成功します。また、1799年にはシトカ島にアレクサンドル・ヴァラノフが砦を築き、やがてシトカ島に建設されたノヴォ=アルハンゲリスクがアラスカの中心都市として発展し、シトカは1912年までアラスカの州都でした。
ちなみにこの時期になると毛皮だけでなく、寒冷地に適応し皮下脂肪の発達した哺乳類から灯油をとるため、鯨(油をとるだけです)、オットセイ、シーライオンなどの猟も盛んに行なわれるようなっていました。乱獲による海獣類の減少、これに伴う灯油の品薄化により、その代替品としての需要から、石油化学工業における原油の常圧蒸留による灯油(炭素数9〜16の炭化水素)の生産方法の開発が進んだのです。
〜 8. クリミア汗国の滅亡 〜
1774年クチュク=カイナルジ条約が締結され、露土戦争が終了した後、形式上の独立時代に入ったクリミア汗国でしたが、1775年、スルタンに支援されたデヴレト・ギレイが反ロシア派とともに決起し、クリミアに侵攻してサヒプ・ギレイからハーンの位を奪う事件が起こりました。
最初ロシア側はこの事態を静観しましたが、翌1776年、スヴォーロフ率いるロシア軍がクリミアに侵攻し、サヒプ・ギレイの兄弟で、カルガ・スルタンであったシャヒン・ギレイがハーンに即位しました。クリミア汗国最後のハーンとなるシャヒン・ギレイは先のサヒプ・ハーン時代にタタール代表団を率いてサンクトペテルブルクに赴き、エカテリーナ2世の知己を得ていた人物で、エカテリーナ2世自身彼を大いに気に入っていたといいます。
シャヒンはクリミア汗国の近代化にとりくみます。まず、ハーンの権力を確固たる物にするため、ハーンの選出を選挙制から世襲制にし、自己に支持を表明したギレイ家、マンスル家以外の有力貴族をディーヴァーヌから追放し、宗教指導者や、カザスケルなども自己の息のかかった人物で固めました。
そしてロシア軍を手本に、西欧式の常備軍や親衛隊の設立を計画し、モスク領やワクフ領(寄進地)を没収して農民に再分配し、一種の農地改革を強行します。ところが、経済的に大きな力を持つキリスト教徒の教会(ギリシャ・アルメニア・グルジア正教)の土地はそのまま手をつけなかったため、シャヒンのやり方に対する極めて激しいイスラム教徒の反発が起こります。
この反発は内乱に発展し、1777年ハーンの宮殿が襲われ、東方正教会の信者に対する焼き討ちがおこり、親衛隊までが反乱に加わります。これをみたオスマン・トルコはクリミアに艦隊を派遣、事態が本格的に悪化したところでロシア軍の介入が起こり、1778年反乱は一応鎮圧されます。
この辺でクリミア汗国に愛想を尽かせ始めたロシア帝国は、当時オリエント各地で迫害されたキリスト教徒の保護役を主張していたため、の落ち着き先としてクリミアで迫害された正教徒のロシア領への移住が計画され、アゾフ海沿岸に3万人近くのが正教徒移り住みました。もっともこの移民はうまくいかず、1780年クリミアへの帰還を目指す運動がおこります。
ともかく、経済的利害の関係する層をクリミア汗国から避難させた後、1779年オスマン・トルコ帝国とアイナリ・カヴァク条約を結んだ後、ロシア軍はクリミア半島から撤退します。こうしてロシア軍という重しが取れたクリミアでは、1780年にノガイとカフカースのチェルカッシ人の反乱がおこり、1782年にはオスマン・トルコの支援を受けたシャヒンの兄弟のクーデターが起こり、シャヒンはハーンの地位を失い、ロシア軍に護送されつつケルチへ避難します。
エカテリーナ2世はポチョムキンにまたも内乱の鎮圧を命令し、ポチョムキンはクリミアに侵攻し、再びシャヒンをハーンの位につけます。シャヒンは先の反乱の加担者に対する断罪を主張し、このままではいずれまた内乱が勃発すると判断したポチョムキンは、ここに到ってペテルブルクに赴き、エカテリーナ2世にクリミア汗国の直接統治を進言します。
エカテリーナ2世も決断を下し、1783年4月、クリミア併合が宣言されました。これにより、クリミア汗国は340年の歴史に幕を閉じ、長年にわたってロシアを苦しめ続けてきたタタール人国家、チンギス汗の打ち立てた大蒙古帝国に直接つらなる最後のハーン国が、ユーラシアから消滅したのです。
シャヒンはエカテリーナの保護のもとロシアに移住しましたが、1787年にトルコへ亡命します。しかし、スルタンの命令により、ロードス騎士団から奪ったのちオスマン・トルコ帝国領内の流刑島となったロードス島で処刑されました。
しかし中央アジアには、まだ三つの強大な汗国、ヒヴァ汗国、ボハラ汗国、コーカンド汗国が控えており、彼らはのちにロシア帝国の侵入に対し相当な抵抗力を示し、かつてユーラシア全土に武威を輝かせた遊牧民族の残照は、まだまだ輝くことになります。
〜 9. 1787年露土戦争とスウェーデンとの戦争 〜
エカテリーナは、ピョートル三世を追放した宮廷クーデターの主要人物の一人であり、当時の愛人であったポチョムキンを旧クリミア汗国地域の県知事に任命し、黒海北部沿岸およびクリミアの開発を行なわせます。ポチョムキンはクリミアをロシアの膨張政策の突端とすべくセヴァストーポリ要塞を築き、黒海艦隊を設立します。これに抗議し、なおかつクリミア汗国併合で大量のクリミアタタール人がトルコ領内に流れ込んだので、クリミアおよび黒海北岸からの撤退をトルコは要求します。しかし、ロシアはこれを正式に拒絶、トルコとの間で1787年、またも露土戦争が起こりました。ベオグラード条約での領土失陥回復をねらうオーストリアもロシア側にたって参戦、トルコ領に攻め込みます。
ここで、ポチョムキンが海軍元帥と陸軍元帥を兼ね、彼の元に実際の指揮はスヴォーロフがとり、1788年、トルコ側のオチャコフ要塞を包囲しました。
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グリゴーリー・アレクサンドロビッチ・ポチョームキン
/Григорий Александрович
Потёмкин
1739-1791
クリミア汗国の統治に辣腕を振るう。
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このとき、フランス・トルコと同盟国だったスウェーデンのグスタフ3世が、スウェーデン・ロシア国境におけるコサック騎兵の発砲事件を機会に、ロシアに対しロシア領フィンランド返還を要求します。もちろんこれは拒絶され、それなら、ということでスウェーデン軍がフィンランドに上陸し、ロシア帝国とスウェーデン王国は戦闘状態に入ります。
ロシア側はオチャコフ要塞を陥落させ、スウェーデンを牽制するためデンマークを援助し、スウェーデンへ宣戦布告させますが、グスタフ3世はデンマーク軍を破り、さらには1790年、フィンランド湾でスウェーデン艦隊がナソー公率いるロシア艦隊を破ります。トルコとスウェーデン、二方面からの敵を抱えることの不利を考慮したエカテリーナは、スウェーデンと休戦に入ることになり、プロイセンとイギリスの仲介で停戦します。条件はグスタフ3世がスウェーデンの絶対君主であることを認める、ということでした。
こうして一方での戦争を終わらせたのち、トルコ戦線では戦いは有利に進み、スヴォーロフが難攻不落と呼ばれたイズマイルの要塞を陥落させました。しかし、革命の自国への波及を恐れるオーストリアがオスマン・トルコと講和、1791年シトヴァ条約を締結して占領地をトルコに返還、ロシアへの支援を打ち切るとこをと約します。半年後、ロシアも1791年、ヤッシーの講和においてドニエルトル川を国境と定め、黒海北部沿岸の完全ロシア領化に成功、その他の占領地は返還しました。この新しくロシア帝国領に編入された地域を、エカテリーナ2世は、ノヴォロシア県という行政単位とし、総督にポチョムキンを任命しました。
さらに1792年、グスタフ3世はオペラ座の仮面舞踏会の席でアンカーストレムという元近衛仕官に背後から狙撃され、その傷が元で2週間後亡くなります。黒幕は不明でした。
このクリミアの成長ぶりを視察するため、ポチョムキンの演出でエカテリーナはクリミア視察旅行に出かけます。そのときポチョムキンの命令で街道沿いにエカテリーナ一行を歓迎するための特別に豊かな村が作られ、これを世人は「ポチョムキン村」と呼んだといいます。もっともこの時代、ポチョムキンの尽力により、今なお黒海沿岸の主要都市であるオデッサ、ニココライエフ、ヘルソンなどが建設されたわけで、彼の統治がまんざら見せかけだけだったわけでもありません。
〜 10. フランス革命ー帝政の未来の危機 〜
経済の発達は封建社会の崩壊を招きます。フランスにおいて、貨幣経済に乗り遅れた第一身分の専制君主と貴族たちと、その殆どが名門貴族より任命されるため、第一身分とほぼ利益を一つにし、事実上の共同歩調をとる高位聖職者達からなる第二身分に対し、貨幣経済の波に完全に乗り、富と実力を増したにもかからず、政治の世界からは完全に疎外されていた第三身分-上流市民たち-の要望は日増しに大きくなるばかりでした。
その一方で君主や貴族たちよりもさらに悲惨な形で貨幣経済に取り残された農民、工業労働者たるプロレタリアートたちが不穏な動きを見せ、彼らを焚きつけた上流市民であるブルジョアジーたちが、経済の発達により複雑化した社会を統治しきれない第一身分、第二身分に対し、武力でもって権力を奪取するべく蜂起しました。
1789年、パレ−・ロワイヤルで行なわれたカミーユ・デムーランの演説から火がつき、7月14日のバスチーユの襲撃で始まったフランス革命は瞬く間にフランス全土に広がり、ルイ16世、マリー・アントワネットおよび国王家族は捕らえられてチュイルリー宮に幽閉され、国民議会が一応権力を握ります。
しかし、長年にわたり牢固とした勢力を張っていた国王・貴族階級を打ち倒すには、年月をかけて成長した大木を根こそぎ引き抜くがごとき膨大なエネルギーと破壊を要し、フランス各地で混乱と惨劇が引き起こされることとなります。
国内経済・民生産業の発展、インフラ整備などによる国土建設などといった有益なことがらに使われることのなかった革命の凄まじいエネルギーは、破壊の力と転じてフランス全土を覆いつくし、それでも消費されなかったそのエネルギーは、行き場を求めてさらにフランス国外へ、ナポレオン戦争という形で暴発し、ヨーロッパ全土を破壊と混乱の渦に巻き込むことになりました。
これまで、自分が啓蒙君主と見えるよう宣伝を行なっていたエカテリーナは(この辺が私には浅はかに思われるのですが)、この革命がロシアに及ぼす影響を恐れ、思想の弾圧に転じます。
「ペテルブルクからモスクワへの旅」で農奴制の悲惨さを浮き彫りにしたアレクサンドル・ラジーシチェフはシベリア流刑となり、のちに「寓話集」を書いたクルィロフは当時発行していた雑誌を休刊処分にされます。
そしてルイ十六世が処刑されるとフランスとの国交を断絶、通商条約を破棄して、革命政府を否定し、ロシア帝国に忠実であるという旨の宣誓書に署名したフランス人のみの滞在許可を与え、ほかはロシアから追放しました。
〜 11. 第二次、第三次ポーランド分割 〜
1790年、ポーランドは滅亡の瀬戸際にある自国の防衛のため、プロイセンと同盟を結び、ロシア政府とエカテリーナはこれに激怒します。ところでポーランドでは新憲法が公布され、国政を混乱に陥れてきた国王の自由選挙制(つまりはシュタフラ共和制による議会制)を廃止し、世襲的な立憲君主制体の樹立が宣言されました。
ロシア政府はこれに反対するタルゴヴィツァ連盟の軍事介入の要求に応じて、ポーランドとリトアニアに出兵します。
これに対し、「抵抗派」は、先のプロイセンとの同盟に基づき、プロイセンに援軍を要請しますが、プロイセンのフリードリッヒ=ウィルヘルムはこれを蹴り、あまつさえロシアとポーランド分割の条約に調印し、オーストリア帝国までこれに加わりました。
1793年の第二次ポーランド分割で、ロシアはベラルーシの大半と、1569年のルブリンの合同から、223年このかたポーランド領であったウクライナ、ラトヴィアの一部を併合しました。
当然ですが、ポーランドを分割した三カ国に対するポーランド人の抵抗が巻き起こり、リトアニア出身のコシューチェンコを指導者とする反乱がおこりますが、これも鎮圧され、コシューチェンコはペテルブルクで虜囚の身となります。
そして、1795年、第三次ポーランド分割条約がロシア、プロイセン、オーストリアの三カ国によって結ばれ、ロシア帝国はネマン川までの土地を併合し、正確に言えば、ロシア側にとってはポーランド領の分割ではなく、旧リトアニア大公国領の併合である、ポーランド分割が完成しました。タタールのくびき時代に勃興し、モスクワ大公国の時代(イヴァン一世カリターからイヴァン雷帝まで)の東欧最強国として君臨し、スムータ時にはモスクワを占領したことさえあったポーランドは国家としては地図から一時姿を消すこととなります。
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18世紀に分割されたポーランド
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黄色 1772年分割
青色 1793年分割
赤色 1795年分割
白色 東プロイセン
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〜 12. 後継者問題と死 〜
さて、エカテリーナには、父親は定かではないといわれていますが、とにかく長男パーヴェルが生まれていました。ところが、先の女帝エリザヴェータはその子供を引き取り、自らの手で養育していたため、エカテリーナはパーヴェルに対してほとんど愛情を抱いておらず、また、パーヴェルの政治的能力も見限っていたため、彼はガッチナの宮殿でほとんど幽閉状態で生活していました。
そこで、エカテリーナ2世はパーヴェルの息子のアレクサンドルとコンスタンチンを、早くから手元において育て、二人の結婚相手を彼女の故国ドイツ(バーデン公国)から連れてきて結婚させます。ちなみに、ピョートル大帝が息子のアレクセイの嫁をドイツの公国から迎えましたが、これを皮切りに、ロマノフ王朝にはドイツ人の血が多く入るようになり、エカテリーナ2世の時代にこの伝統が確定します。
これは、うかつに大国からお姫さまを迎えでもしたら、それがすぐに同盟関係となって自国の外交政策に跳ね返ってしまうわけで、そういった軋轢を避けつつ、しかし、国内の大貴族から嫁を取ってしまうと、嫁の実家の縁戚が政界に跋扈してしまうため、それも避けるために、外国人貴族からお妃を迎えるとなると、事実上分裂国家である神聖ローマ帝国領内の小公国から迎えるのがもっともすわりがいい、ということになるのでしょうか。
世上にはパーヴェルを差し置いて、アレクサンドルに帝位を譲ろうとしているうわさもありましたが、1796年、エカテリーナは卒中の発作を起こし、後継者に対する自分の意思をはっきり示すことなく死亡します。67歳でした。
皇帝となった時代に、先代の皇帝の始めた事業が実を結び、甘美な果実を収穫できた幸運な人がいますが、エカテリーナ2世はまさにこの型の人物といえるでしょう。古くはドミートリー・ドンスコイ、イヴァン3世、イヴァン雷帝などの時代に苦労を重ね、少しずつ勢力をけずってきたタタール勢がエカテリーナ2世の時代に併合できるまでに弱体化し、またアレクセイやソフィア摂政の時代に極東開発に投入することでガス抜きをしたり、アレクセイやピョートルの時代に反乱を実力で押しつぶすことで弱体化させてきたからこそコサックも併合でき、スムータ時にはモスクワさえ占領した強敵ポーランドも、イヴァン雷帝の25年にわたるリヴォニア戦争、アレクセイの時代の13年戦争などの血みどろの死闘を繰り広げ、それに勝利したからこそ、タタール勢のときの似たようなかたちで併合することができたのです。子曰く、如し王者有らんも、必ず世にして後仁たらん。ー名君が現れても、その善政が実るのは次の世代のことだーとはまさにこのことです。
エカテリーナ2世は幸運に恵まれた時期を統治することができたのであって、ピョートル大帝やイヴァン3世のような傑出した才能を持った君主でなかったのは確実だと思われます。しかし、同じ時代に生まれながらも、この状況をうまく使えず殺害されたピョートル3世のような君主もいますので、幸運を確実に物にし、それをてこに治世の実をあげる能力があったという点では賢帝といえます。
ドイツ人として生まれるも、完全にロシアに帰化し、ロシア帝国の領土を広げ、権威を高めて死んだ、数奇ではありますが幸運な女性の一生はこうして幕を閉じたのでした。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『女帝エカテリーナ 上・下』
アンリ・トロワイヤ
著 工藤庸子 訳
中公文庫
・『物語 ウクライナの歴史』
黒川祐次著
中央公論社
・『物語 北欧の歴史』
武田龍夫
著
中央公論社
・『よみがえるロマノフ家』
土肥恒之
著
講談社
・『ロシアとソ連邦』
外川継男
著
講談社学術文庫
・『アジヤロシヤ民族誌』
沼田一郎
訳編
彰考書院版
・『女帝のロシア』
小野理子
著
講談社
・『鉄の歴史』
ベック
著
たたら出版
・『ロシア史 2』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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