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〜 1. パーヴェル一世の時代 〜
次期皇帝位をめぐり、さまざまな前評判が飛び交っていましたがエカテリーナ2世がなくなると、、結局は息子のパーヴェルが後を継ぎ、1796年パーヴェル1世として即位します。
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パーヴェル1世 / Павел T
1754-1801年 乱脈政治で暗殺される。
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彼が残した最大の政治上の功績は、戴冠式当日に公布した、「帝位継承法」です。これまで帝位継承権に関して、成文化された決まった取り決めがなく、全国会議で選出されたり(ロマノフ王朝初代のミハイル・ロマノフ、ピョートル大帝など)、皇帝の遺言によって決定されていたり(ピョートル3世など)して次期皇帝ですが、この法律により、男系の男子による継承順位が確定しました。
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この章に登場するロマノフ一族の系譜
―ピョートル3世
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├――――――パーヴェル
| ├――┬―アレクサンドル1世
エカテリーナ2世
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| ├―コンスタンチン
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| └―ニコライ1世
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フリードリッヒ・オイゲン―マリーア・フョードロヴナ
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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古今東西、いつでもどこでも問題となるこの後継者相続順位は、キエフスカヤ・ルーシの時代のヤロスラフ賢公による長子順番相続制、モスクワ大公ヴァシーリー2世の大公位の長子相続制、その全てをご破算にしたスムータの時代を経て、ようやくこのロマノフ王朝で確定したことになります。これがパーヴェル1世の治世における最大の功績でした。
もっとも、その他はその施策に見るべきものはあまり見当たらず、亡き母親エカテリーナとの生前の確執により、パーヴェル1世は母帝の方針と全て反対する政策をとります。エカテリーナ2世時代の寵臣をほとんど追放し、ラジーシチェフのシベリア流刑を解き、ロシアのポーランド分割に抵抗したポーランド人コシューチェンコに資金を持たせてアメリカに亡命させ、アレクサンドル・ネフスキー修道院から持ち出したピョートル3世の柩を、エカテリーナ2世の柩のそばに並べてエカテリーナ2世の葬儀を執り行うなどを実行に移しました。
さて、ここからパーヴェル一世の乱脈政治が始まります。実の母親もドイツ人、妻もドイツ人、息子二人の嫁もドイツ人というドイツ人に囲まれた生活を続けたパーヴェル一世も、ピョートル3世と同じくやはりドイツかぶれにおちいり、ロシア軍をプロイセン式に改変、二百名の竜騎兵をもちいてペテルブルクを徘徊させ、プロイセン式の服装をしない市民を逮捕・流刑に処します。やはり革命嫌いな彼はプロヴァンス伯(のちのルイ16世)にクールランドの領地と年金を与えました。
さらには、外交面でも無軌道振りを発揮しました。パーヴェルはまず地中海進出を企て、イギリス(小ピット首相)・オーストリア・トルコを加えた第二次対仏同盟を結成、ウシャコフ提督に率いさせた黒海艦隊を出動させます。ロシア軍はイギリス艦隊と共同歩調をとり、イギリス艦隊は地中海のフランス艦隊を壊滅させ、ロシアの黒海艦隊はアドリア海を制圧し、ここにナポレオン率いるフランスエジプト遠征軍は、フランス本国との連絡を経たれ孤立します。
さらにロシア軍はオーストリア軍と共同でイタリアに侵攻し、北イタリアからフランス軍を追い払います。ロシア・イギリスによる厳重な海上封鎖にもかかわらず、ナポレオンは奇跡的にエジプトから脱出し、フランスに舞い戻ると彼は凱旋将軍のごとくに扱われます。1799年11月9日、総裁政府に対しブリュメール18日のクーデターを起こして権力を握ると、執権政府を樹立し共和国初代第一執政になりました。
このクーデターにより、パーヴェルはナポレオンを反革命派と判断すると、突如イギリスと断交し、ナポレオンと反英同盟を結成しました(つまり第二次対仏同盟は崩壊したわけです)。ナポレオンのトルコ分割案の誘いに乗って東グルジアを併合、そしてフランスとの間で、インド征服計画が練られ(この時代にはロシアの勢力はカザフスタンのバルハシ湖のあたりまで伸びていましたので、地図上ではまんざら夢物語でもないですが…)、1801年1月オルローフ将軍に命じ、2万3千のカザークに出撃命令を出しました。
ここで、たまりかねた近衛連隊の将校たちによるクーデターが発生、1801年3月11日、皇帝の就寝中を将校たちの一隊が襲い、スーボフ伯が皇帝を絞殺し、事件当時宮殿の別棟で呆然としたままのアレクサンドルをバルコニーに引っ張り出し、近衛隊が新帝に歓呼しました。かくしておそらくこのクーデター計画を知りながらも日和見的な態度をとったアレクサンドルが即位することになります。「謎の皇帝」、「王座のハムレット」、といわれたり、ナポレオンから「アレクサンドル皇帝以上の知能を有することは難しいであろう。しかし、そこには何かがかけている。そしてそれが何であるかは、ついに私にはわからなかった」といわれたり、メッテルニヒから「アレクサンドルの性格は、男性的特質と女性的弱さの奇妙な混合を示している」と呼ばれた皇帝の即位でした。ロシア史にしばしば出てくる、鵺(ぬえ)みたいな性格の人の一人でしょうか。
しかし、アレクサンドル1世に対してプラスの評価を下した人もいます。それはフランスの馬事総監ヴィサンス公コレンクールです。彼はもともとフランスのロシア遠征には大反対でナポレオンに直々にそれを進言していた人ですが、その著書『ナポレオン』(時事通信社)中でいわく、
ー…私は、アレクサンドル皇帝に対して世人の評価にはいたらぬところがあると思う、と答えた。皇帝は、一時期、たしかに悪いことに、明察というより単なる用心深さに支配されていたと思われるが、それはむしろ善良で良心的な性向に由来していたと思われてならない。しかし、そのような用心深さのようなものは、ともすれば皇帝の性格について人に思い違いを起こさせやすく、皇帝を弱い、あるいは優柔不断な人物に見せるものだったと思う。…皇帝は防御の場合しか戦争はしないだろう。しかし、事がいったん決すれば、アレクサンドル皇帝にはきわめて一徹なところがあることも私は認識している…。ー
個人的にはコレンクールのコメントが一番正解だと思います。アレクサンドルは本当は皇帝をやりたくなく、静かな普通の生活が送りたかったのでしょう。しかし自分の生れと周囲の状況と、頼まれるといやとはいえない善良な性格から皇帝業を務めた人、晩年にはついに夢かなってごく一時期とはいえタガンロークでひっそりと隠遁生活じみたものを送ることができた人、それが僕のアレクサンドル1世像です。
〜 2. アレクサンドル一世の時代ー初期時代 〜
さて、即位後アレクサンドルはパーヴェルによって遠ざけられていた友人たちを集め、「秘密委員会」を設立し、ピョートル大帝以来の参議会を廃止して八つの省(文部、陸軍、海軍、外務、内務、司法、財務、商務)を設立し、専任の大臣をおきました。各大臣は元老院の監督下にあって、毎年元老院に所轄事項の報告を提出することが義務付けられました。土地に関しては、これまで貴族のみに許可されていた土地の購入権を市民や国有地農民にも与えました。また「自由耕作者に関する法令」を発布し、地主、貴族が自発的に土地をつけて農奴を解放することを法的に許可しました。以前のツァーリに比べなかなかのリベラル改革派です。このように、改革に熱意を見せましたが、代議員制の設置や農奴制の廃止(ただし、バルト三国に限っては試験的に農奴解放を実施します)などについては抜根的な改革は行ないませんでした。
外交的にはアレクサンドルは、フランスを中心にヨーロッパ全土を荒れ狂う戦火の渦から身を引こうとします。1801年6月イギリスと友好通商条約を、9月にフランスと平和条約を結びますが、プロイセンと互角に渡り合い、もはやヨーロッパの大国の一つとして数えられるようになったロシアを両国ともほってはおかず、両陣営の間ではげしいロシア引きこみ合戦が起こりました。
もっとも、ザカフカースにおいては圧迫を続け、トルコ・ペルシャの圧政に音を上げて、これくらいなら鞍替えした方がましとばかりに、ロシア帝国を頼ってきたザカフカース諸国を併合します。1801年にはグルジアが、1803年にはメグレリア人が(グルジアとアブハジアの中間の民族)が、1810年にはアブハジアも併合します。
さて、アレクサンドルは、後年自らが提唱した神聖同盟の構想の邪魔になりそうな、1804年皇帝に即位したナポレオンの率いる孤立気味のフランスを捨て、イギリスと結ぶことに決定します。ロシアは1804年にオーストリアと、1805年にイギリスと同盟を結び、第三次対仏同盟が成立しました。ロシア帝国のアレクサンドルはクトゥーゾフ(Кутузов, Михаил Илларионович)にロシア軍の指揮をまかせ、ハプスブルク・ロートリンゲン家の神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世とともに9万の軍勢で、7万の軍勢のナポレオンとアウステルリッツで戦いますが、戦史に残る記録的な惨敗を喫し、オーストリアはフランスと講和してしまいます。
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ナポレオン・ボナパルト / Napoleon Bonaparte,
Наполеон Бонапарт
1769
- 1821年
フランス革命の生んだ風雲児。
ヨーロッパ史に残る戦術の天才。
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これで第三次対仏同盟は崩壊し、さらにアレクサンドルはプロイセンを引っ張り込んで第四次対仏同盟を結成、ナポレオンに対抗します。しかし、ナポレオンはプロイセンに宣戦布告、プロイセンのフリードリッヒ=ウィルヘルム3世の軍もアウエルシュテットなどで撃破され、フランス軍はベルリンへ入城しました。
フランス軍はそのままポーランドへ進軍し、解放者として迎えられます。これ以後ポーランドは、ドンブロフスキ将軍率いるポーランド軍とともにナポレオンに味方してイタリアでナポレオン軍と共に戦い、祖国再建をフランスに賭けました。ロシアはあくまで戦意を崩さず、1807年プロイセン領のアイラウ村付近で敗北し、ニーメン川の東へ退却します。
さらに1804年、ナポレオンの勢いの前にフランツ帝は神聖ローマ帝国皇帝の名称を捨て、オーストリア帝国皇帝を名乗ります。1806年7月、ナポレオンの命令でライン同盟が結成され、ライン同盟に強制参加させられたバイエルン選帝侯、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン、ダルムシュタットなどが神聖ローマ帝国議会からの脱退を宣言し、筆頭選帝侯マインツ大主教がこのナポレオンの傀儡のライン同盟の諸公主席として運営されることになります。時ここに至り、オーストリア皇帝フランツ1世は神聖ローマ帝国皇帝から退位し、8月6日、神聖ローマ帝国の滅亡を宣言しました。
こうしてオーストリア、プロイセン、ロシアの三カ国を戦場で完全に叩き潰したナポレオンは1807年、プロイセン、ロシアと講和条約を結びます。ニーメン川上のいかだの上で、ナポレオンとアレクサンドル1世が直接会見し、結ばれたこのティルジット条約では、プロイセンは旧ポーランド領にワルシャワ大公国を建国(ただしザクセン国王が当分の間統治)させられ、エルベ川左岸も放棄させられるなど国土の半分を失い、わずか四州(ポメラニア、ブランデンブルク、古プロイセン、シレジア)のみが残されることとなりました。放棄したエルベ川左岸とライン川にはさまれた地域はヴェストファーレン王国となり、ナポレオンの弟ジェローム公が国王となります。
ロシア帝国も領土の割譲こそありませんでしたが、イギリス相手の大陸封鎖令に参加を強制されます。イギリスを日干しにする目的で1793年にはじまった大陸封鎖令は、1806年のベルリン勅令で強化され、1807年の第二回ミラノ勅令では、アメリカ合衆国などの中立国をも含むヨーロッパの全ての船舶の、イギリスへの寄航が禁止されるという無茶なものとなっていました。
これはイヴァン雷帝期の黒テンから始まり、いまや木材・穀物の輸出先であり、繊維の輸入先であったイギリスとの貿易を禁じられたため、ロシアの関税収入は落ちこみ、国内は不況におちいり、ナポレオンとの戦争における戦費負担と相まってインフレを起こし、国内では不満が高まっていました。
もっとも、皇帝ナポレオンとてタダでロシアを大陸封鎖令に参加させたわけではありません。このティルジット条約では、ロシアの小アジアでの行動の自由および、ロシアがスウェーデン領フィンランドをいかようにしても良いということをフランスが認めていたのです。この時期欧州の小国となってしまったスウェーデンですが、ナポレオンを通じて欧州全土に広まったフランス革命の狂乱の渦をまともにかぶってしまいます。
オペラ座の仮面舞踏会で暗殺されたグスタフ3世の次の国王、グスタフ4世は、もともと国王を処刑し王制を破壊して成立したフランス共和制を憎悪しており、なおかつ制海権をイギリスに握られていたため、イギリスに味方します。また、イギリスとロシアは第三次対仏同盟を通じて同盟国であったため、イギリスと結ぶことで東方からのロシアの脅威も免れ得ると考えた上での外交上の選択でした。
ところが国際関係の激変は、小国を荒波にもまれる木の葉のごとく扱います。ロシアはフランスに破れ、ティルジット条約により突如フランス側へ鞍替えしてしまい、おまけにこの条約はフランスがスウェーデン領フィンランドへの軍事行動の自由を認めていたのでした。
大陸封鎖令の参加を拒否したスウェーデン王国に対しロシア側は軍事行動を開始し、1808年、ロシア軍がフィンランド南部に侵入します。スウェーデン・フィンランド連合軍は応戦に出ますが大敗北を喫し、1809年、フレデリクスハムンの和平が結ばれました。これにより、スウェーデンはオーランド諸島および500年このかたスウェーデンの一州であったフィンランド全土を失います。フィンランドは大公国となり、ポルボ―の議会で新たに選出された身分制代表125名を前に、アレクサンドル1世自らが大公位につきました。ただ、自分は圧制者として出なく、解放者としてフィンランドにきたと宣言し、外交権を除く全ての自治(徴税権・財政権・軍隊保持・議会設立、教育、通信、郵便の自由)を与えました。
〜 3. スペランスキーの改革案 〜
ともかく、最強の相手フランスと講和できたことで、ロシアは他の戦争に決着をつけることができるようになります。ティルジット条約で保障された小アジアでの行動の自由に基づいて、1804年から続いていたペルシャとの戦いに本格的に軍を派遣して勝利し、1813年グルジア、ペルシャの穀倉地帯アゼルバイジャンの一部を手に入れます。
トルコ関係ですが、1806年にはアウステルリッツの会戦で勝利したナポレオンはロシアに圧力を加えるため、オスマントルコに対してロシアと友好的なワラキア、モルダヴィアの君主更迭とロシア船舶のボスポラス海峡の通過禁止を求めます。オスマントルコはこれを実行、これにロシアは反発し、ロシア軍はドニエルトル川を渡り、ワラキアとモルダヴィアを占領、またトルコと戦争になります。1807年のティルジット条約でナポレオンはトルコとロシアを和解させ、ロシアのワラキア、モルダヴィア占領を認め、一方でトルコに対しパリでの講和会議の招集を示唆しました。
1808年、エルフルトでナポレオンはロシアの現状を追認、トルコはこれに納得せず、休戦を破棄して戦闘を続行します。先走ってしまいますと、結局この戦いはナポレオンとロシアの関係の悪化に伴い、ロシアがフランスに対すべくトルコに講和を求め、トルコも疲弊していたので1812年のブカレスト条約に調印となりました。これにより、ロシアはワラキア、モルダヴィアをトルコに変換し、代わりにベッサラビアを手に入れ、プルート川が国境線となります。
ロシアはカフカース地方に手を伸ばすことになり、これは大英帝国の中近東の権益に接近し、イギリスの警戒を呼びます。ここに、次世代ヨーロッパ外交の中心軸、イギリスとロシアの対立の萌芽が芽生えることとなりました。
さて、内政ですが神父の息子でペテルブルクの神学校を卒業したスペランスキ−(Сперанский, Михаил Михайлович)を登用し、「国家改造案」を提出させます。内容としては、地方・中央とも三権分立とし、立法の最高府として国会(ドゥ−マГосударственная
дума)を設立します。この三権を束ねるものとして、皇帝の任命した三十五人の議員からなる国家評議会を設立、1811年に実行に移すというものです。
彼の先進的過ぎる改革案は、国家評議会を除いてはほとんど実現することはなく、さらにスペランスキーの改革案は、保守的な上流貴族から警戒され、結局波風立てることを好まないアレクサンドル1世にスペランスキー追放されてしまうことになります。ちなみにアレクサンドル1世を「支配者としては弱すぎ、被支配者としては強すぎる」と論評したのは彼です。
ちなみにスペランスキーのドゥーマのアイディアは、はるか後年(ほぼ100年後)のニコライ2世の時代、日露戦争による極東進出政策の失敗による反省から生まれた改革による実行された1907年の初のドゥーマ選挙で結実することになりました。
〜 4. ロシアの東新ー北アメリカ貿易 〜
1799年レザノフが設立した露米会社はアラスカのシトカ島に根拠地を置き、探検隊を四方に派遣して事業拡大を図ります。1803年から1804年にかけてバラノフ率いる20隻の船団がカリフォルニアのサンディエゴ湾に達し、サンフランシスコの金角湾にロシア領を宣言する銅板標を建立します。1806年にはスロボドゥチコフの指揮する50隻の船団がカリフォルニアを経由してハワイ諸島に到着、毛皮を食料品・日用品に交換して帰国しました。ロシア船団はカリフォルニアとハワイを毎年行き来し、北太平洋はロシアの内海のような観を呈しました。とくにハワイに対しては、1814年カウアイ島を拠点にハワイ諸島を植民地化しようとして失敗しています。
こうして競争相手のいない中、ロシアのアラスカ・北太平洋事業は成功を収めましたが、植民地で生産された商品はまずカムチャツカに運ばれ、次いで対岸のオホーツク、そして内陸部のヤクーツクを経由して清との交易地のあるバイカル湖のそばのキャフタまで運ばれ清の茶・綿布に交換されますが、これだけの距離を運搬するには時に2年の歳月がかかったといわれ、運搬途中の事故によるキズものが多く採算が悪いのが欠点でした。
そこで新たに考えられたルートが、北米植民地から清のマカオや広東に直行する航路の開拓です。この航路を開くためには、まず清がキャフタに代わって広東での交易を認めること、つぎに中継地点である日本が寄港地を提供することの2点にかかっています。そこで1792年にラクスマンが根室をおとずれ、ついで1804年レザノフ自らが日本に赴き開港について交渉しましたが不成立でした。これと並行して清の辺境行政と交易をつかさどる理藩院に広東との交易を許可するよう請願しましたが、こちらも拒否にあいました。
結局ロシアはバルト海から大西洋へ出、そこらから一気に南下し南アメリカのマゼラン海峡のホーン岬から太平洋を北上、ハワイを経由してペトロハバロフスクに辿り着くという遠大な航路を開拓しましたが、これも往復に2年を要すためあまり採算が取れない、ということになりました。
そうこうするうちにアメリカ合衆国では西部開拓が進捗し、1821年から1822年ごろには大量の移民がロッキー山脈を越え、現オレゴン州コロンビア河流域にたどりつき、サンフランシスコのロシア勢力を寸断します。1823年にはモンロー・ドクトリンが出されてアメリカはカリブ海・北アメリカの経営を本気で推し進めることになり、ロシア勢と衝突します。まれに聞かれる露米会社の悪評とは、このときのアメリカに顕著な、競争相手に対するまことに手段を選ばぬやり方でロシアにぶつけられた、いまだに大統領選挙などで聞かれるネガティヴキャンペーン、より率直には罵詈雑言の類の可能性もあると思ったりしております。
結局採算のとれぬ事業ということで、1841年にはサンフランシスコに近いロッス植民地の売却をはじめとして次第にアラスカからロシアは手を引き始めることになります。
〜 5. 祖国戦争ーナポレオンとの一騎打ち 〜
ナポレオンは1809年12月、皇后ジョセフィーヌとの離婚を公表し、アレクサンドルの妹二人のどちらかと結婚したいという意向を示しますが、ロシア側に事実上拒否されたため、オーストリアののハプスブルク・ロートリンゲン家皇女マリア・ルイザと結婚することとなり、フランスはオーストリアと決定的な関係を持つことになりました。
さらに、スペランスキーの提案で、ナポレオンの大陸封鎖令に音を上げたロシア経済救済策として、ロシアの港に中立国の寄航を許すなどの処置をとります。また、フランスは中立国の輸入品に対する植民地物産に対する高関税まで要求していましたが、物不足のおりですから、アレクサンドル3世は植民地物産に関する関税引き上げを拒否します。ナポレオンにとってみれば、これではせっかく広げた統制の網に穴があいているようなものであり、かつ、ティルジット条約違反、彼の権威に対するあからさまな挑戦ですから、捨て置くわけには行かず、ナポレオンはロシアに対する戦争に踏み切ることを決意します。
1810年12月、ナポレオンはハンブルクやブレーメンなどの旧ハンザ同盟都市を含む北ドイツを併合、1811年1月にはアレクサンドル1世の妹エカテリーナの嫁ぎ先であるオルデンブルク公国を占領しました。公国の領土保全はティルジット条約で保障されていましたからこれは条約違反であり、ロシア政府はフランス政府に正式抗議を行いましたがナポレオンはこれをはねつけます。
一戦あるやもしれない雰囲気を感じ取ったロシアは、もとナポレオンの幕僚であり、結局スウェーデン王国皇太子に納まったベルナドットと攻守同盟を結び、クトゥーゾフは戦争で疲弊したトルコとブカレスト条約を調印して講和にこぎつけます。さらにイギリスのセント=ジェイムズ内閣ともストックホルム条約を結び、脇から攻撃を受けないよう外交上の防備を固めました。
一方ナポレオンもプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世との間に軍事条約を結び、軍需品の補給の提供を約束させ、メッテルニヒの仲介でオーストリア帝国と軍事条約を締結し、オーストリア軍がナポレオン軍の右翼を担当する取り決めを結びました。
1812年、ナポレオンは50万の大遠征軍をロシア国境に終結させました。内訳は、皇帝近衛軍(ルフェーブルとモティエ指揮下)、第一軍(ダヴー指揮下)、第二軍(ウディノ指揮下)、第三軍(ネイ指揮下)、第一、第二騎兵隊(ミュラー指揮下)、外国軍混成部隊の補助軍でした。これはフランスの総兵力の約半分にあたる数でした。これがトルストイの不朽の名作『戦争と平和』に描かれたナポレオン戦争(旧ソ連的な言い方では祖国戦争)の始まりでした。
ちなみにこのナポレオン戦争における戦費貸付(全体で7億フラン)・海外保険の引き受けを行なったのが、イギリスのベアリング・ブラザーズです。イギリスには産業革命によるイギリス本国の生産力と植民地市場、本国と植民地のシーレーンを防衛する海軍力の力が相まって海外貿易が盛んとなり、この貿易で膨大な資本金が蓄積され、これを元手とした巨大金融資本がすでに誕生していました。1762年創業のベアリング商会も、この波に乗ってハイリスク・ハイリターンの国際金融に打って出るべく、1806年ベアリング・ブラザーズと名前を変えてマーチャントバンク(現在の投資銀行)として再出発したのです。
ベアリング・ブラザーズはこのナポレオン戦争で莫大な利益をあげ、本格的なマーチャントバンクとして世界で事業を展開します。のちにベアリング・ブラザーズはアルゼンチンの下水事業に失敗し、1890年英国中央銀行が救済措置をとって一時持ち直しますが、最終的には1995年日経平均株価の大量売買に失敗してオランダのINGグループに買収されます。このころから本格的になってきた金融資本の力、軍事的なパワーとは別個のお金のパワーの出現と、金融的には結局フランスとイギリスはつながっていたわけであり、大陸封鎖令って本当に一体なんだったのかわからないという両方において考えさせられるところがあります。
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フランス軍の三将

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ネイ
ロシア遠征撤退中の殿軍を務め、最後までロシアに踏みとどまった猛将。「百日天下」ののち、ナポレオンに加担した罪で銃殺刑。
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ミュラー
聖職者の道を目指すも軍人に転向、騎兵隊を指揮。遠征末期ナポレオンに指揮権を譲渡されるが、軍のコントロールに失敗。のち死刑
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ダヴー
自ら指揮した戦闘では全て勝利を収めた名将。ナポレオン失脚後も一貫して彼を支持した硬骨漢で、迫害を受けるがのち名誉回復。
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さて、アレクサンドル1世が終結できたのは20万です。内訳は、第一軍(バルクライ=ド=トーリー、バルト海沿岸に定住したスコットランド系、総指揮官)、第二軍(バクラチオン、グルジア系)、第三軍(トルマソフ、ロシア系)、ウクライナからきたコサック騎兵部隊でした。このようにロシア軍はロシアの多民族性を反映して、指揮官の民族も多彩でした。のちにバルクライ(英語読みではバークリーです)と交代してロシア軍の総指揮をとるクトゥーゾフはタタール系、アレクサンドル1世自身も半分以上ドイツ人の血が流れており、更に祖母エカテリーナ2世から受けたフランス教育によって、母国語ロシア語よりもフランス語の方がうまかったと言われている人物です。
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ロシア軍の三将

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クトゥーゾフ
バルクライの後任でロシア軍総司令官に。不活発といわれ続けながらも、堂々たる無為の作戦でナポレオン軍をロシア領から撤退させる。
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バルクライ
モスクワ入城までにナポレオン軍の兵力を激減させた名将。クトゥーゾフの死後ロシア軍総司令官に返り咲き、パリ入城後に元帥に昇進。
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バグラチオン
グルジア系の猛将タイプの司令官。積極作戦を唱えるも、ボロジノの戦いでの負傷がもとで戦死。死後ボロジノに記念碑が建立される。
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さて、ロシア軍にはもともと広い国土を利用して戦術的撤退をかさねる考えがあったといいますが、そもそも、稀代の用兵家ナポレオン相手に倍以上の兵力的劣勢の上での正面衝突は、ロシア軍の壊滅を招きかねませんから、バルクライは否応なしにナポレオンとの正面衝突をさけ、撤退を重ねざるを得ない状態でした。ですから、モスクワ遠征初期のロシア軍の撤退は作戦でもなんでもなく、軍事的な面から言えば当然の選択です。
ところが、ロシア住民にしてみれば、自国の軍が戦いもせずに逃げていて、おかげで自分たちの土地がフランス軍に踏みにじられている、ということにほかなりませんから、撤退を続けるバルクライに非難が集中し、国民の声という政治的な要素も当然深く考慮せねばならないペテルブルク宮廷からの要望もあり、彼は仕方なくナポレオンと一戦交えることに決定しました。
第一戦 スモレンスク
さて、ロシアに住んでおられる、もしくは夏のロシアに旅行にいかれた方なら経験されるかもしれませんが、ロシアは大陸性気候で冬も寒いですが、夏も暑いところが多く、モスクワでも気温が30度を越える日があります。
したがってナポレオン軍は酷暑にやられており、バルクライもそれを狙ってナポレオン軍を待ち受けたのだと思われます。スモレンスクではロシアのバルクライとバグラチオンの軍、ナポレオンが命令を下すミュラーとネイの軍が激突し、フランス軍はスモレンスク付近の村を占領します。
戦闘が終わったその夜、火の不始末か作戦かわかりませんが、とにかくスモレンスクは炎上し、ロシア軍も早々に撤退を始めたので、モスクワ街道を一路北上したバルクライ軍はナポレオン軍の追撃を振り切り、ナポレオンはロシア軍主力を粉砕することができず、両者痛みわけといった趣のうちに戦闘は終結しました。が、ナポレオン軍は酷暑と戦闘で、この時点ですでに16万人に減少していました。
第二戦 ボロジノ
さて、個人的には、無理に戦端を開かず我慢に我慢をかさね、ナポレオン相手に戦争の初期段階で、50万もいたフランス兵をよく16万までに減らすことができたものだとバルクライには感心します。が、このスモレンスク放棄で散々な不評を買ってしまったバルクライはアレクサンドルによって更迭され、代わりにクトゥーゾフが総指揮官に任命されました。
さて、ボロジノはモスクワまでわずか120キロの距離にあり、平野も広がっています。正直、クトゥーゾフはなるべく少し時間を稼いであまり戦いたくなかったのでしょうが、この辺で何とかしろというペテルブルクの宮廷からの圧力をまたも受け、ナポレオン軍とロシア軍の戦力がほぼ互角となっていたのでやってみるか、という気になったものと思われます。
このボロジノでの戦いは激戦でした。フランス側はナポレオン、ダヴー、ミュラー、ネイとほとんどの軍勢が参加し、ロシア側も総司令官クトゥーゾフ、バルクライ、バグラチオンらが打って出、結局ネイ元帥の突撃がバグラチオンの第二軍を壊走させ三つの突角保(このときの負傷がもとでバグラチオンは死亡します)を占領ます。
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「ボロジノの会戦におけるフランス砲兵中隊
に対するロシア騎兵隊の突撃」
ビクトール・ビケンチェビッチ・マズロフスキー画
. Мазуровский,Виктор Викентьевич.
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馬事総監コーランクールの兄で、ナポレオンの副官であるオーギュスト・ド・コーランクールの騎兵突撃(この攻撃でコーランクールは戦死)により、ライエフスキー角面保の占領がなされます。両軍とも深刻な損害を出し、どちらが勝ったのかなんともいえない状況でしたが、結局バルクライの進言で、クトゥーゾフは撤退を決めました。
フランス軍のモスクワ入城
さて、モスクワまで撤退したロシア軍の間では軍議が開かれていました。議論百出しましたが、結局クトゥーゾフの、モスクワを失ってもロシアは失われないが、軍が滅びればロシアも滅びる、との主張でモスクワ放棄がきまり、ロシア軍はコロムナへ向けて出発しました。ナポレオンは無血開城したモスクワへ入り、軍の補給と休息をとろうとしますが、失火か放火かわかりませんが、とにかくモスクワが炎上し、それも不可能となります。
遠征軍も10万近くまで減少し、ナポレオンはアレクサンドルへ何度も使者を送りますが、完全に黙殺され、ロシア側に講和の意思がまったく無いことがはっきりして以来、兵力が減少したまま敵地深くに入り込んでいることの危険を感じたナポレオンは撤退を決意します。
フランス軍撤退
モスクワを後にすることにしたナポレオンは、戦闘には適さない冬も迫ってきたこともあり、とりあえずは南へと進撃します。その後をひそかにロシア軍が追っていました。クトゥーゾフはいわば共和制ローマのファビウス・マクシムスのように慎重な(不活発な)人だったらしく、マロスラヤヴェッツでの遭遇戦以外、いくらチャンスがあっても大掛かりな戦闘は避けつつ、小規模な襲撃を繰り返し、戦死者よりも落伍者を増やすことでナポレオン軍の勢力を削っていました。
スモレンスク到着とペレジナ河渡河
さて、スモレンスクはフランス軍の後方補給地として武器・食料・衣服などを備蓄していましたが、このときすでに4万近くに減少していたフランス軍にとっても備蓄は十分でなく、このままナポレオンはフランスへ撤退することに決定します。スモレンスク付近で待機していたビィクトールとウディノ率いる2万の軍を合流させ、軍の先頭はナポレオン軍、ついでダヴー軍、しんがりはネイ軍という陣容でした。
ネイ軍は追撃戦をしかけるロシア軍に包囲され、ほとんど壊滅状態になりますが、なんとかロシア軍の重包囲をくぐりぬけてナポレオン軍と合流しました。あとはべレジナ河を渡れば一路フランス同盟国領ですが、そのベレジナ河の向こう岸に、フランス軍より劣勢とはいえ、先にミンスクを占領したチチャゴフ率いるロシア軍が展開していたのです。
そこでナポレオンは陽動作戦をとり、ミンスク奪回のための進軍と見せかけて、ドヴィナ河直前で突如北へ進路を変えます。この作戦にチチャゴフが引っかかったのと、ないないづくしの中での、フランス科学の粋を結集したフランス工兵隊(クーロンの法則のクーロンなどはフランス技術士官です)の必死の橋架作業が早めにおわったことで、フランス軍はナポレオン、ダヴー、ネイを含む本隊の渡河に成功します。
ところが、やはりこの渡河はロシア軍に発見され、西岸のチチャゴフ、バルクライ率いる第一軍の、第一師団を率いたウィトゲンシュタインに挟み撃ちにされます。まだ渡河を行なっていなかったヴィクトール軍は算を乱してわれ先に渡河しはじめ、結局ベレジナ河を渡れたのは3万人程度だとされます。
ヴィルナ放棄とニェーメン河渡河
何とかベレジナ河をわたったナポレオンは、大遠征軍公報第二十九号を口述し、大遠征軍崩壊による、フランス本国の動揺を防ぐため、ミュラーに遠征軍の生き残りの指揮権を託し、少人数の部下とともに1812年パリに帰還します。ところがナポレオンという精神的な支柱を失った遠征軍残党は、近衛兵ふくめ一週間で軍規が崩壊、ようやくヴィルナにたどり着きます。
ところがここでもフランス軍はロシア軍の追撃を受け、24時間後にはヴィルナを放棄してニェーメン河へ向かいました。ネイがまたも殿軍となり、ヴィルナから100キロはなれたコヴノの町をめざし、付近の橋を渡って命からがらプロイセン領へと撤退しました。結局最後まで組織的に撤退ができたのは5千人程度といわれます。ここにナポレオンのモスクワ遠征は終了しました。
〜 6. ロシア軍のパリ占領 〜
ここで歴史が動きます。これまでクトゥーゾフの報告に目を通し、文句はつけても基本的に彼の方針に口出ししなかったアレクサンドル1世がなぜかリーダーシップを取り、対フランス戦に対して積極的な行動を起こし始めたのです。大遠征の終了した翌1813年4月、堂々たる無為の戦法でナポレオン軍を追い払ったクトゥーゾフがプロイセンで亡くなり、アレクサンドル3世自らがロシア軍の総指揮を取ります。ファビウス・マクシムスからスキピオ・アフリカヌスへのバトンタッチとでも言えるかもしれません。
1813年2月、アレクサンドルはプロイセンと軍事同盟を結びます。7月にはウェリントン率いるイギリス軍がスペインでフランス軍を撃破し、のちにボルドーまで占領します。8月にはオーストリア軍がこれにくわわり、アレクサンドル1世、バルクライも参加する三カ国連合軍36万はパリを目指して進軍、ライプツィヒでナポレオン率いる18万5千と激突し、さすがのナポレオンも衆寡敵せず、敗走します。
連合軍はそのまま前進し、ライン川を渡河、フランス領に入るとフランス各地の抵抗を排除しつつパリに接近します。ここで、アレクサンドル1世の発案で、ヴィンツェンゲローデ率いる騎兵隊がおとりとなって、ナポレオンをひきつけ、そのすきに本隊が一路パリを目指す作戦を取りました。
作戦は見事に成功し、ナポレオンが気づいた時にはすでにおそく、同盟軍は前進を続け1814年三月、モンマルトルの丘を占領します。ここにいたってこれ以上の戦闘は惨劇を招くだけと判断したパリ市当局は、降伏文章に調印し、パリは連合軍に無血開城しました。
〜 7. ウィーン体制 〜
パリに入城したアレクサンドルは自らがイニシアティブをとり、平和条約が調印され、ナポレオンは退位しエルバ島へ引退、ルイ18世によるブルボン王朝の王政復古、フランスの自然国境への回帰、などが決定されました。
さらにそののち、ナポレオン没落後のヨーロッパの政治秩序構築のためのウィーン会議が開かれます。ナポレオンのエルバ島脱出と百日天下により会議は一時中断しますが、
なんとかウィーン会議最終議定書が調印されます。これにより、ヨーロッパ大陸から離れたイギリスはいつものように日和見主義、フランスのカメレオン外相タレーランの手助けもあり、プロイセン王国・オーストリア帝国・ロシア帝国の強大化によるフランス王権の強化とフランス革命運動押さえ込み、という「ウィーン体制」が成立します。
また、領土的には、ロシアはワルシャワ大公国とロシア領ポーランドをあわせてポーランド王国を作り、ポーランドは憲法を持ち、国王をロシア皇帝がかねる立憲君主制を採用し、二院制の国民議会までもつ国として復活することになりました。ポーランドはロシアの傀儡政権に過ぎなかったかもしれませんが、エカテリーナ2世の時代、ポーランドはロシア・オーストリア・プロイセンによって三次に渡る分割によって地図から消えうせていたことを考えると、これはポーランドにとって進歩と言えるのではないでしょうか。アレクサンドル1世はポーランド王国議会議長オストロフスキ伯に以下のようなフランス語の書簡を送ったということです。
ー「予は国民の真摯なる希望に応えることを欲して、ポーランド国王の称号を得た。予は憲法の上に国民の幸福を望むものであるが、その憲法に基づき、ポーランド王国はロシア帝国に統合される。世界全体の安寧という大儀のために、ポーランド全国民を同じ王冠の下に結ぶことが出来なかったのは遺憾であるが、少なくとも予は、可能なるかぎりにおいて、分割の厳しさを和らげ、いずこにおいてもその国籍を享受できるよう努力したつもりである。」ー
トルコをのぞく全ヨーロッパからの君主が参加したこの会議で、アレクサンドル1世の発案により、ウィーン体制を維持するための神聖同盟がイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン・フランスの五大国で結成され、勢力均衡、とりあえずは今もってるものでみんなが満足し、人の領土に手を出したらいけません、という取り決めがなされます。
このウィーン体制および神聖同盟は、おそらく史上初の全ヨーロッパを網羅した勢力均衡政策による体制と、その体制維持組織です。ここに史上初めてのロシア主導による、ヨーロッパの秩序建設が行なわれたことになりました。
〜 8. 中央アジア政策ーカザフスタン併合 〜
ナポレオンをやぶったアレクサンドル1世は、つぎにインドへの道、中央アジア征服を企てます。狙われたのはカザフスタンの大オルダ、中オルダ、小オルダで、1822年カザフ法令を出し、中オルダのハーン権力を停止し、中オルダをロシア帝国の行政区画に組み入れます。ついで1824年、小オルダも支配下にいれます。これはアレクサンドル1世から二代下った皇帝、アレクサンドル2世の時代に本格的に始まった中央アジア制覇の地ならしでした。
〜 9. デカブリストと晩年の治世 〜
ナポレオン戦争終結後のアレクサンドルは、陸軍大臣アラクチェーエフを重用し、聖書を教育の中心にすえ、ロシアの内外政策の批評を行なう書物の出版の禁止などの検閲を強化し、一般市民の土地購入を禁止し、貴族の没落を防ぐ法案を作るなど、現体制維持のため保守化します。
また屯田兵制度を設立し、軍人を平時には農耕につかせることにより、兵士という非生産者を生産者に変え、また徴兵の緩和を期待します。が、アラクチェーエフによる厳格な生活規範などが不評となり、屯田兵たちは度々反乱を起こしました。
ロマノフ朝の国威が最大限に輝いたこの時期、ロマノフ朝時代初の革命結社が誕生します。これはのちの革命運動の萌芽であり、ロマノフ家にとっての不吉なシグナルでした。かれらは1825年12月14日、実際に武装蜂起を起こしたことから、デカブリスト(12月はロシア語でデカーブリ)と呼ばれることになります。
祖国戦争を戦い抜き、パリを占領した青年将校たちの中には、ヨーロッパを自身の目で見、ロシアの科学技術・法律・社会制度の後進性を痛感した人たちがおり、彼らの間で将来のロシアを考える意見交換の場として、1816年サンクト・ペテルブルクで6人の青年将校たちが集まり、「救済同盟」なるグループが結成されました。
デカブリストのヤクーシキンが以下のように語っております。
―フランスから1814年われわれは海路帰国した。近衛第一師団はオラニエンバウムに上陸し、そこで大司教デルジャーヴィンが執り行った感謝の儀式に参列した。式の最中、警官は、兵士たちに近寄ろうとした民衆を情け容赦もなく打擲していた。これが我々が得た帰国第一歩の悪印象であった。…ようやく皇帝があらわれた。近衛師団を指揮し、立派な栗毛の馬にまたがり、手に抜き身の剣を持っていて、皇后の前に来るとその剣を下にさげた。我々は歓喜して彼を見つめた。
しかし、ちょうどその時、彼の馬の鼻先を通って一人の百姓が道を横切った。皇帝は馬に拍車を当て、抜き身の件を振りかざしつつ、逃げまどう百姓を追いかけた。警官はこん棒で百姓を滅多打ちにした。我々は自分の目を疑って、顔をそむけた。我々の愛する皇帝のために悲しんで。これが私が皇帝に感じた最初の失望であった。はしなくも私は、美女に変身した猫が、ネズミを見たら思わずそれに飛びかかったという話を思い出したのであった。―
問題は、このように目につきやすいことのみでなく、政治的にも派手好みだったエカテリーナ2世の時代に赤字となった国家財政(1801年、財政赤字706万ルーブル)が、大陸封鎖令、ナポレオン戦争でさらに悪化、1822年には3億5千ルーブルという信じられない規模に拡大していたことでした。改革を行わねばならないという機運、というより焦りは青年将校たちにも広まっていたのです。
この「救済同盟」はすぐに「祖国の真の忠実なる息子たちの結社」という長い名前にかわり、徐々に世論を通じ社会に影響を与えようという穏健派と、行動で今すぐ社会を変革しようとする急進派に分裂し、解体寸前になりますが、なんとかまとまり、1818年、「福祉同盟」に名称変更します。
ところが、またも二派の対立が再燃し、結局福祉同盟は解体し、サンクト・ペテルブルクが本部の「北方結社」とキエフに近いトゥリチンに本部をおく「南方結社」に分裂します。北方結社のほうは立憲君主制、貴族との協力した政治をめざす穏健派ですが、南方結社の方はジャコバン派の影響を強く受け、短期の独裁による徹底的な改革による農奴制の廃止と共和国成立を主張していました。
このような動きが地下で進み、当然当局はこれを察知していましたが、近衛隊司令官ヴァシーリチコフは詳細な報告を送っていましたが、アレクサンドル1世はこれらの行動についてなんら対策を講じなかったといいます。
1825年9月13日から、アレクサンドル1世は皇后の保養のため(よりによってなぜか)タガンロークに滞在していました。皇帝と皇后が滞在した家は、アゾフ海に面した小さなチャペルつきの二階建てで、皇后のための部屋が6つ、皇帝のための部屋が2つという質素なものでした。毎日のように皇帝と皇后は一緒に散歩し(いわいるпрогулкаです、教養はフランス、流れる血はドイツであっても、心根はやっぱロシア人だったんでしょう。)。また皇帝は若いころのように一人で町の中をよく散歩していたということです。
完全な隠居生活といいますか。しかし、若いころ妻と二人でライン川のほとりに住みたいと友人に手紙で語ったり、静かな田舎町でささやかな家庭を営みたいとかエカテリーナ2世に言ったりしていた彼のことですから、このときの生活が彼にとっては一番幸せだったでしょう。タガンロークを基点にセヴァストーポリやバフチ=サライを視察旅行していたアレクサンドル1世は、子供のないまま急死します。ただしタガンローク旅行出発前にアレクサンドル=ネフスキー寺院へお参りしておりまして、府主教のセラフィウムから祝福を受けておりましたが、その際セラフィウムに、次期皇帝はだいぶ年下の弟ニコライに決定する、との内容が書かれた書類を渡しておりました。念のため同様の書類を元老院議長ロプーヒンにも渡しており、自分の死後の混乱を避けうるような配慮を残していました。1825年11月19日、享年48歳でした。
ーーーこのページの主要参考文献ーーー
・『物語 北欧の歴史』
武田龍夫
著
中央公論社
・『よみがえるロマノフ家』
土肥恒之
著
講談社
・『ロシアとソ連邦』
外川継男
著
講談社学術文庫
・『神聖ローマ帝国』
菊地良生
著
講談社現代新書
・『中央アジア史』
江上波夫
編
山川出版社
・『ナポレオン1812年』
ナイジェル・ニコルソン
著 白須英子 訳
中公文庫
・『ナポレオン』ロシア大遠征軍潰走の記
コレンクール
著 小宮正弘 訳
時事通信社
・『デカブリストの反乱』
A・G・マズーア 著 武藤 潔 山内正樹 共訳
岩波文庫
・『歴史読本ワールド ロシア帝国の興亡(第2巻 第7号)』
新人物往来社
・『アレクサンドル一世』
アンリ・トロワイヤ
著 工藤庸子 訳
中公文庫
・『ロシア史 2』
田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
山川出版社
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