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〜 1. ニコライ1世の即位とデカブリストの乱 〜
アレクサンドル1世は女の子が二人生まれますが、二人とも夭折してしまいました。そこで、アレクサンドル1世には、パーヴェル1世の定めた帝位継承法により、弟のコンスタンチンに帝位を継がせる腹案があった、といわれております。ところが肝心のコンスタンチンは帝位を継承する気がなく、しかも妻と離婚してポーランド夫人と再婚しました。個人的には別段問題のない話ですが、ロシア正教徒の皇帝としてははなはだまずいことです。
そこでアレクサンドル1世は、20歳年下の弟、兄弟ながら年下過ぎてエカテリーナ2世の影響をほとんど受けず、どちらかというとパーヴェル1世に似ているのではないかと巷では言われており、将来軍人となるべく育てられていたニコライ1世をひそかに後継ぎに決めました。そして、詔書を三通作成し、ウスペンスキー寺院、元老院、国家評議委員に渡して死後開封するよう命じていました。
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この章に登場するロマノフ一族の系譜
―パーヴェル
├――――――┬――アレクサンドル1世
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| ├――コンスタンチン
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| └――ニコライ1世
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マリーア・フョードロヴナ
青色下線:メイン人物
赤色 :女性
斜体 :物故者
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ところが、1825年、アレクサンドル1世が死去した時、ニコライ1世本人をはじめほとんどの人はこれを知らされておらず(ただ、ニコライ1世が皇位継承者に選ばれていたことを知っていたかどうかについては、はっきりしたことはわからないようです。ただ、アレクサンドル1世が生前ニコライ1世に、君はいつか国家統治の任を引き受けねばならない、とほのめかしたことはあるとのことです。)、役所・軍隊・一般市民はコンスタンチンに宣誓しました。コンスタンチン自身は帝位を継ぐ気はありませんでしたから、ニコライ1世に宣誓しますが、ニコライ1世は突然の帝位継承にためらいがあり、兄のコンスタンチンが帝位辞退を正式に放棄する声明を出すまで、即位を断ると伝えました。
この3週間の権力の空白を狙い、クーデターを決行したのがデカブリストのニキータ・ムラヴィヨフ率いる北方結社です。かれらはニコライ1世が、12月14日を元老院と近衛部隊の新皇帝への宣誓式に日と定めたことを聞きつけ、その日に反乱を起こすことに決定しました。
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デカブリストの三人
(左)セルゲイ・イヴァノーヴィチ・ムラヴィヨフ=アポストル
Муравыв-Апостол, Сергей Иванович
1793-1826
(中)パーヴェル・イヴァーノヴィチ・ペステリ
Пестель, Павел Иванович
1793-1826
(右)コンスタンチン・フョーダラヴィチ・ルィレーエフ
Рылеев, Констанин Фёдорович
1795-1826
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デカブリストたちは名門貴族のトルベツコーイを最高指導者に選び、「ロシア国民への声明」を作成、反乱参加メンバーが元老院広場に終結し、ペテロ=パウロ要塞を占領する計画をねります。が、いざクーデターを決行してみると、ベストゥージェフ兄弟率いる部隊の到着がおくれたため、すでに宣誓式は終了していました。おまけにトルベツコーイが責任を放棄してオーストリア大使館に避難したため(ネクラーソフの詩、『公爵夫人トルベツカーヤ』を読んだ身としてはがっかりですが。)、集まった三千人の兵士たち、ペストゥージェフ率いるモスクワ連隊の砲兵、擲弾兵、陸戦隊、はなすすべがなく、ただ広場に立ち尽くすだけだったといいます。
こうして夕方まで何もしなかったデカブリストですが、事情を知って派遣された政府軍九千が反乱兵を取り囲み、「余の治世の最初の日に、わが臣民の血を流させようとするのか」と言ったニコライ1世は、武力行使を避け説得で話をつけようとしました。しかし、デカブリストたちはそれに応ぜず、反乱軍を説得に来たペテルブルク総督ミラドヴィッチ、ペテルブルク司令官スチュルレル両名はともに射殺され、しかも変事を聞いて集まってきた民衆の数も増える一方であったので、ニコライ1世もついに発砲命令を下し、散弾砲が発射されました。
撃ち合いは一時間ほど続き、結局デカブリストが数十の遺体を残して遁走、蜂起は終了しましたが、ニコライ1世にとっては残念なことに、結局治世の始まりを、流血の惨事で始めてしまったことになります。しかし自分の即位の日にクーデターという露骨な不信任を突きつけられたニコライ1世の心中も察して余りあります、この事件は相当なトラウマになったことでしょう。
南方結社の指導者ペステリは密告で逮捕され、残党はセルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルらを中心に、チェルニゴフ歩兵連隊とともにウクライナで蜂起しましたが、鎮圧されます。
さて、裁判ですが、事件の関連性を疑われ500人が逮捕されました。ニコライ1世は自らが反逆者の訊問にあたり、南方結社の指導者ペステリ、同じくセルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル、扇動詩人ルイレーエフ、ミロラドヴィッチを射殺したカホフスキー、ベストゥージェフ=リューミンら5名は絞首刑、重労働ならびに終身刑31人、有期流刑85人、残りのデカブリストの乱の参加者は、全員一兵卒に降格され、カフカースの懲役者大隊に送られました。
このとき、反乱に参加した青年貴族の将校たちのうち18人が既婚者でしたが、その妻達のうちで夫の後を追ってシベリアへ行った者がいました。デカブリストの妻がシベリアに赴くためには、貴族の称号と特権の放棄、子供の同伴は不可、シベリアで生まれた子供は国有地農民の身分に落される、夫の死後もシベリアへ残留、などの厳しい条件がついたにもかかわらず、9人(ムラヴィヨーヴァ、イワーシェヴァ、トルベツカーヤ、ナルイシキナ、ローゼン、ヴォルコーンスカヤ、アンネンコヴァ、エンタリツェヴァ、ユシネーフスカヤ)がシベリアでの夫との生活を選んだのです。だいぶ後ですが、実際はデカブリストの妻たちは、シベリアで亡くなったムラヴィヨーヴァ、イワーシェヴァ、トゥルベツカーヤを除く6人は露都サンクトペテルブルクへ戻ってくることができました(ヴォルコーンスカヤなどは1856年)。
はるか後代、スターリンの粛清の最後の仕上げであるブハーリン裁判に連座し禁固20年の判決を受けた元ウクライナ首相・駐英大使クリシティアン・ラコフスキーは、「革命はわが子を貪り食う」といいました。このように、革命の萌芽はかならず当時のエリート層から生まれ、実際に革命が成功したその時、最大の犠牲者となるのはかならずかつてのエリート層なのです。
このデカブリストの妻達の挿話は、後代アンチ帝政の機運が高まる中、ニコライ・アレクセーェヴィチ・ネクラーソフによって『デカブリストの妻』という総題にまとめられました。この詩は文学作品としては面白くて感動的だと個人的には思います。『公爵夫人ヴォルコーンスカヤ』などの最後の場面はちょっくらダンテの『神曲』の『天国編』の一番最後の場面を彷彿とさせますが、それでもなかなかすばらしい結末で、素晴らしい出来だと思います。
しかし、革命的イデオローグ詩人だったネクラーソフのこと、この『デカブリストの妻』はやはり、ロシア史上初のおおっぴらな反帝政運動たるデカブリストの乱をヒロイックな話に仕立て上げようせんがために作られた面もある作品なのでしょう。これまで述べたように実際のデカブリストの乱自体は余りにふがいない結末だったため、シベリアに流された夫を追った妻の話をロマンチックに劇的に仕上げることで(実際に劇的な話ですが)、そのもととなったデカブリストの乱自体も美化される、を意図した作品であると思います。
ネクラーソフのことをあまりに悪く書いてしまいましたが、ロシアのインターネットなどを見ると、ヴォルコンスカヤ公爵夫人の伝記などで以下のような文章があるとのご指摘をいただきました。この文章の前ふりとして、1863年ヴォルコンスカヤがシベリアで心臓病で死去したとき、彼女の書き付けが残されました。控えめで、信義にあふれた、簡潔な素晴らしい文章だったと言うことです。
Когда сын Волконского читал их в рукописи Некрасову ,
поэт по несколько раз в вечер вскакивал и со словами: "Довольно, не
могу", - бежал к камину, садился к нему, схватясь руками за голову, и
плакал, как ребенок. Эти слезы сумел он вложить в свои знаменитые,
посвященные княгине Трубецкой и Волконской поэмы, на которых воспиталось
несколько поколений русских женщин.
ーヴォルコンスキーの息子が手稿の中の書き付けをネクラーソフに朗読したとき、詩人はその夜、「もう十分だ、私にはできない。」との言葉とともに何度も立ち上がった。ー暖炉へ走り、それに向かって座り、手で頭を掴みながら、子供のように泣き出した。彼にはこの涙を、トルヴェツカヤ公爵婦人とヴォルコンスカヤ公爵夫人に捧げた自分の有名な詩、その詩とともにロシア女性の数世代が育ったのだが、に注げる力量があったのだ。ー
これを読みますと、「ロシアは誰に住みよいか」など、やっぱりネクラーソフは革命的な傾向が感じられる作品を書く人とは思うのですが、しかし彼も、本当に心打たれてこの作品を書いたのだと思います。
しかし、その意図はともかく、作品の内容・質とも素晴らしいものでありますので、ぜひ読者諸兄に一読お勧め致します。
〜 2. 内政改革 〜
身長205cmの巨漢で、1833年にモスクワーサンクトペテルブルク間を38時間で走破する記録を打ち立てるなど、体力づくりにも気を抜かず、歴代皇帝中、ピョートル大帝の次に職務に励行したといわれる皇帝ニコライ1世は、とにかくまじめに政治に取り組みます。文学作品の検閲にも自ら目を通し、1826年、プーシキンを皇帝の仮御所チュードフ僧院に呼びつけ、自ら審問し、先帝によるプーシキンの南ロシアの植民地保護局への追放を解いたものの、プーシキンの『青銅の騎士』を出版不許可にし、同じく『プガチョフ史』に「反乱」の一語をつけることで出版を許可したのもニコライ1世自身の検閲とその判断によるものです。
ロマノフ王朝中最大級の専制権力を手中にしたといわれる皇帝ニコライ1世には、真偽のほどはともかく以下のような逸話が残されています。中学校を視察して、授業中にひじを突いている生徒のいた学校の校長を追放した、教会の祈祷中に腰をおろしていた外国人教師に、緊迫衣をきせて精神病院に入院させた、コレラの流行の際にはコレラをものともせず病人の慰問に出かけたが、周りの人間はコレラよりも皇帝を恐れたといいます。こんな皇帝にたいし、ペテルブルクからモスクワまで鉄道を建設する計画が持ち上がったとき、例によって例の如くニコライ1世は、自ら定規を取って市を結ぶ直線を引きましたが、皇帝の指に当たって直線が三箇所飛び出しました。しかし、工事はその曲がった部分を忠実に再現し、実施されたとのことです。
ともかく、その余りの職務への励行振りは、偽善的にも見えるほどであったらしく、以下のようなチュッチェフのエピグラムが残されております。
Не богу ты служил и не России,
Служил лишь суете своей,
И все дела твои, и добрые, и злые, -
Все было ложь в тебе, все призраки
пустые:
Ты был не царь, а лицедей.
神にもロシアにもお前は仕えなかった、
ただおのれの心配事のみに仕えた、
良くも悪くも、お前のことのみに。
お前の中にあるのはすべてがうそ、空虚なファントム、
お前はツァーリではなかった、偽善者だった。
さて、ニコライ1世は、反乱は鎮圧したものの、臭いものに蓋をするだけでなく、反乱の原因となったものをとりのぞき、根本から問題を解決する必要があることに気づいていたと思われ、ロシア帝国を運営する官僚機構の整備に取り掛かります。即位当日に反ロマノフの洗礼を受けたニコライ1世の政策には一貫した「反革命」が通っています。
ニコライ1世はまず、評判のわるかったアラクチェーエフを解任します。ついで皇帝直属官房を第一部から第五部まで拡大します。第一部は皇帝の勅令の実行状況を監督し、第二部は法律の編纂を行なう。第三部は防諜を担当し、第四部は教育・慈善事業を担当、第五部は行政改革と国有財産の管理を担当、というものです。
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ミハイル・ミハイロビッチ・スペランスキー
Сперанский, Михаил Михайлович
1772-1839
法整備に尽力
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第二部の責任者として、兄アレクサンドル1世に左遷されたスペランスキーを呼び戻し、法律の作成および集大成を命じます。こうして1649年制定された「会議法典」以来、ながらく放置されていた法律を、スペランスキ−は収集・整理し、年代順にまとめた「ロシア帝国法律大全」を刊行し、さらに現行法の収集・整理を行なった「ロシア帝国法典」を刊行します。ニコライ1世のさらなる命令でスペランスキ−に新刑法の起草も命じられますが、これはスペランスキ―の死後に完成します。
第三部の責任者として初代長官に内務省の諜報部員だったフォン・フォックが任命され、1844年にフォックが死ぬと憲兵長官のベンゲンドルフ伯爵が任命されました。第三部は、アレクサンドル1世の創立した警察庁の秘密局(第二委員会)を廃止した上で、ウィーン警察を模範として警察機構をロシアに完備することを目標として設立されました。第三部は首都と大都会のみを管轄下に置き、一方ロシア全土は、これまた第三部が掌握する憲兵隊が管轄します。つまり、ロシアの軍警一体制はこの時に始まったわけで、現在でもロシアで警察の階級と軍の階級が一緒なのはこの時の伝統です。
さらに第三部は四つの課に分かれます。第一課は重要事件、検閲の取り締まり、第二課は贋金取締、居住制限管理、外交官監視、第三課はスパイと在留外国人監視、第四課は通信物の検閲です。第三部は1832年になると、国外にも著法部員を配置することになり、当初はポーランドの移民組織の監視を行っていましたが、やがて他の地域の監視も行うようになり、結局第三部の活発な活動で、1833年、アメリカの外交官が大統領あてに「秘密警察の要員でない使用人を雇うことは不可能である」と報告する有様でした。
さて、こうしてアクティヴに活動する警察の密告で、外務省の翻訳官だったぺトラシェフスキーが、禁書処分となっていたサン=シモンなどの自由主義的傾向のつよい書物を所有しており、「金曜会」というサークルを組織していたかどでメンバーが逮捕されます。このなかに文豪ドストエフスキーも混じっていました。
ドストエフスキーを含む21人が銃殺刑の判決をうけますが、土壇場でシベリア流刑に減刑になります。ドストエフスキーはシベリアのオムスクで四年間の刑期を過ごしたのちに、このときの体験を「死の家の記録」として発表しました。
また、国威高揚のため、それまでイギリス国歌の「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」のメロディーに、ロシア語訳の歌詞をつけてお茶を濁していたのを改めるよう計画し、アレクセイ・リヴォフに新ロシア国家の作成を命じます。教会でも軍隊でも演奏でき、学者にも無学者にも理解でき、神秘的で力強く、国民性が刻印されたような歌を、という無茶な注文でしたが、リヴォフはなんとか新国家のメロディーを作り、ジュコフスキーの詩から歌詞を拝借して、「神よ皇帝を守りたまえ」を完成させます。初演は1833年のニコライ1世の名前の日で、モスクワのボリショイ劇場で行なわれました。
〜 3. 中央アジア遠征 〜
中央アジア諸族は交易に従事するも略奪にも明け暮れ、特に奴隷貿易を生業としておりました。ロシアとヒヴァとの交易が進むにつれてヒヴァ側のロシア隊商の襲撃、カスピ海にロシア人が進出するにつれて、ヒヴァがロシア人を誘拐し奴隷として売りさばいてしまう事件が多発するようになるとこれはロシア政府としては捨て置けない問題となります。
そこで1820年、ムラヴィエフが使節としてヒヴァに赴いた際、ボハラにも使節として赴きましたが、ボハラ側は交易の隊商は歓迎しても、対象の道中の安全は保障できないと明言します。そこでロシア側が出資して隊商に護衛をつける会社を資本金600万ルピーで設立することとなりました。しかし、1824年、この会社から派遣された500名の護衛兵で護衛されたボハラ行きの隊商がヒヴァの襲撃に会い、商人の損失が54万7千ルピー、ロシア政府の損失が22万4千ルーブルという巨額の損害が発生するにいたります。
これはさすがにまずいと思ったのか1826年ヒヴァ側はロシア側に使節を派遣しますが、ロシア側は(当たり前ですが)1824年の損害を賠償すること、ロシア人奴隷を全員釈放するように要求しました。しかし、ヒヴァのハーンは隊商の襲撃はあくまで個々の部族が行ったことでハーン側の関与するところではない、もし事件を恐れてヒヴァをロシア隊商が通らなくなればヒヴァは商売上がったりとなるので更なる襲撃が行われるであろうと回答しました。たしかにヒヴァ汗国などは国家というよりも部族連合とでもいったほうがいい状況で、個々の部族の細かな行動にハーンが細かい規制を加えることができませんが、中央集権国家を成立させた国から見たらこういう状態を「無政府状態」というのではないでしょうか。
ロシア側としてはともかくも奴隷を解放しようと1820年のネグリのボハラ使節、1834年のデメゾンのボハラ使節で交渉しますが、ロシア人奴隷解放にいたらず、とうとうロシア政府は奴隷を買い戻すため、3千ルーブルの支出を認めます。しかし、ロシア人奴隷の相場は一人30ルーブル、当時ロシア人奴隷はトルキスタン方面に2千人近くいたとされますからどうにもなりません。
そこでロシア側も横暴には横暴で答えるべしと強攻策に出ます。1837年オレンブルクから出発しようとするヒヴァ商人をとらえ、ロシア人の囚人を全員解放しなければ釈放に応じないと通達します。1837年9月にヒヴァからロシア人の囚人数百人全員を釈放するとの報告がもたらされますが、実際に到着したのは25人、しかも彼らは30年から55年間奴隷として酷使され、奴隷としての価値がなくなったため送還された者たちでした。ロシア側は人質5人のみを解放してロシアの囚人を全員釈放しない限りヒヴァ人を抑留すると宣言します。結局解放されたロシア人囚人は、囚人となったヒヴァ人の親族が個人的に解放した5人、ヒヴァ側が新たにつれてきた80人(しかもこのうち32名はカスピ海の海賊がロシア人漁師をさらってヒヴァの汗に献上したものでした)のみでした。
ことに進展のなさにいらだった国境委員会(国務大臣代理、陸軍大臣、オレンブルク総督からなります)は本国政府に武力を用いての解決を陳情し、1839年3月24日付けでニコライ1世のヒヴァ遠征許可の裁可を得ます。しかし西をカラ・クム砂漠、東をキジル・クム砂漠に囲まれた陸の孤島、ヒヴァを攻めるには軍隊が砂漠を越えないといけません、飲料水・食料はどうするのか。また、夏は砂漠に火の粉のような砂交じりの「熱風(デバット)」が吹き荒れ、地面に伏せてこれをかわせなかった人間は熱で即死するといいますから侵攻はとても無理。侵攻可能な冬は、さすが内陸性気候、かなりな雪が降って進軍が妨害されます。
結局ロシア側はオレンブルクから南下し、アラル海にぶつかったところで西に向きを変え、そのままヒヴァを目指すとのルートを取りました。しかし、この遠征、何もかもが始めてでありました。まずもって、ヒヴァの厳重な鎖国政策のため、アラル海南からヒヴァまでの地理がまったくわからないこと。砂漠の行軍ということで正規兵一人にラクダ二頭を与えましたが、ロシア軍はラクダを扱うのはこれが初めてだったこと。最後に、そりなども用意しましたが、いったいどのくらいの積雪量なのかわからないことです。
ともかく、オレンブルク総督ペトロフスキーの主導の下、5
千人の兵が集められ、1839年11月24日、ヒヴァ遠征が発令されます。すでにロマノフ朝と同盟関係に入ったカザフ族からラクダやラクダ用の牧草の補給を受けながら、ヒヴァまで65日の行程の予定でした。ロシア軍の構成は、ヒヴァまでのルートに兵站部を作るためにすでに5月オレンブルク要塞をたった先遣隊ヘイク大佐の歩兵二中隊、バシキール人部隊4百人、軽砲4門。総指揮官トルマチェフ中将指揮下のウラル・コサック、バシキール部隊の第一軍。クズミンスキー中佐のオレンブルク・コサックの第二軍。マンスロフ大佐の率いる第三軍。ツィオルコフスキー少将の第四軍。以上でした。
しかしこのロシア軍を冬将軍が襲います。零下35度(これはモスクワでもひどい寒さです)の厳しい寒さの中、例年にない大雪の中、雪嵐(ブラン)がロシア軍を襲い、視界は20メートル、雪嵐の中の行軍では21キロ進むのに4日かかったこともあるほど困難、兵の中に雪盲が出始め、それでも何とか凍死者を出さずに、先遣隊の築いた二つの砦のひとつ、エンバ砦にたどり着きます。しかし、海運を使用したカスピ海北岸のノヴォ・アレクサンドロフスクを通じての食糧輸送を計画していたのが、冬の寒さでカスピ海北岸が凍りつき、輸送船10数隻が海に閉じ込められ、そこをトルクメン族やキルギス族に襲われて焼き払われるものなどがでて、結局食糧補給は不可能になっておりました。
先遣隊の築いたもうひとつの砦、アク・ブラク砦のほうはヒヴァ側の攻撃を受けていましたが、砲兵隊の力で防衛に成功しておりました。1840年1月25日、ロシア軍はエンバ砦からさらに170キロ先のアク・ブラク砦にたどり着きましたが、これでもヒヴァまでの半分の距離までたどり着いたに過ぎません。事の成り行きを心配したオレンブルク総督ペロフスキーも直接アク・ブラク砦にやってきましたが、当初1万5千頭いたラクダが8千9百頭に激減、これを危惧したペロフスキーは各隊の司令官を集めてヒヴァ遠征の成否を問いただすも全員が不可能と回答、ウスト・ウルトに偵察に出ていたビジアノフ大佐も深雪で不可能であろうと回答、現地人協力者のキルギス人族長なども同意見、これで撤退が決まりました。
撤退もやはり雪中行軍となり、困難を極めましたが、幸いにもヒヴァ側からの攻撃はなく、撤退を見届けるためにアク・ブラク砦にのこったペロフスキーが1840年4月23日オレンブルクへ帰還し、ヒヴァ遠征は終了しました。ほとんど戦闘らしい戦闘は何も起こらず、千人の兵を失い、1万5千頭いたラクダも1千5百頭に激減していました。
この辺を読んでいますと、無条件に「ロシア軍は冬に強い」「冬将軍はロシア軍の味方」と考えるのは間違いなんじゃないかという気がしますよ。後代のソ連とフィンランドの冬戦争のときに、寒さに弱いロシア軍が苦戦したという話を聞きますが、それはフィンランド軍がロシア軍よりさらに寒さに強かったというわけではなく、たんにロシア軍がそれほど寒さに強いわけではない、という話に思えます。実際にロシア人に、ロシア人だから寒さに強いでしょう、みたいな話を持ち出すと、セントラルヒーティングが完備したかの国では言下に否定されることがほとんどです。
しかしヒヴァ側のハーン、アリー・クリーはこの僥倖に目が曇るような人物ではなく、このロシア軍の撤退を機に和平を提案、ヒヴァで酷使されていた416人のロシア人奴隷全員を解放、ロシア側もオレンブルクにとどめ置かれていたヒヴァ商人640人全員を解放、遠征そのものは失敗したものの、ロシア人奴隷解放は成功しました。
このとき舞台裏で活躍したのが、ヒヴァに潜入し行方不明となったイギリス人士官の消息を探るために当時ヒヴァに潜入していたイギリス人士官、リッチモンド・シェークスピアです。彼はたまたまヒヴァに居合わせたため、期せずしてハヒヴァとロシアの仲介役のような形となり、結局ヒヴァのハーンからロシア人解放奴隷をロシア側に引き渡す役をおせつかったのです。彼は、ヒヴァ中のロシア人奴隷を探し出し(中には倉庫の地下室に隠されていた場合もあったとのことです)、引渡しを渋る資産階級をハーンの死刑命令で脅して奴隷を解放させ、道案内役とわずかな従者でこの416人の解放奴隷とキャラバンを編成し、砂漠を越え、カスピ海北東岸のノヴォ・アレクサンドロフスク砦に辿り着き、無事ロシア側に囚人たちを引き渡したのでした。
めでたしめでたし、といいたいところですが、ここであきらめないのがロシア人です。ヒヴァ汗国との関係は良好化したものの、ペトロフスキーは再度の中央アジア侵攻作戦を練っており、ロシア軍は1845年にツルガイ、イルギーズ、さらにはライムスク、アラルスクの要塞をアラル海から発するシルダリア川河口に設けました。さらにイギリス・スウェーデンから購入した蒸気船、スクーナー船を分解して馬とラクダで運び、シルダリア川川岸で組み立て、こうして進水した「サマルカンド」「ペロフスキー」「タシケント」の三隻を使って兵と物資を運びます。こうした豊かな物資補給を背景に、ヒヴァ・ボハラ汗国とは衝突せず、コーカンド汗国のみを攻撃目標に定める作戦を練りました。
さて、1850年代は、アメリカ南北戦争の戦火により綿花が生産不可能となり、1854年、これまで世界に綿花を供給していたアメリカが綿花輸出を中止したことで世界中に綿花危機が起こっていました。イギリスなどはエジプトから綿花を輸入するなどの対応策をとりましたが、ロシアは中央アジアで産出する綿花に目をつけ、この地域を併合することで綿花危機に対応しようとしたのが、中央アジア制覇の理由の一つでもあります。また、インド防衛のためイギリスが、インドを足がかりに周辺地域を植民地化しようとしていたこともあり、それに対抗するという意味でも中央アジア征服は始まりました。
ところが中央アジア産の綿花は品種・原綿製造ともに粗悪で、高級綿製品に使用することができませでした。そこで、この地を征服した、近代中央アジアの父ともいえるカウフマン将軍が、トルキスタン征服後、アメリカのテキサス州に役人を派遣して、木綿技術を習得させ、さらにアメリカの木綿品種を導入することで、この地の綿花栽培事業に大きく貢献したのです。
1853年、捲土重来を期して進発したペロフスキーはシル川北岸のコーカンド汗国のアク=マジスト(ペロフスク)を占領し、シル側に沿って要塞線を築き、前進基地を得ます。また、当時大オルダを糾合しようとしていたキルギス人のケニサールイの膝下に身を投げ出すのを不満としたキルギス人の5部族がニコライ1世に臣従を誓います。そこでロシア軍が派遣され、西シベリアから中オルダの領域を通り、バルハシ湖をこえ、大オルダのカザフをコーカンド汗国から切り離して支配下に入れ、南下しヴェールノエ要塞(現アルマ=アタ)を築き、セミレッチェンスク州が建設されました。ケニサールイは清に逃れましたがそこで殺害されました。
大オルダとは、今のカザフスタンにあった部族集団です。つまりカザフスタンは現在の中央アジア5カ国のなかで最も平和的に、むしろ進んでロシアの勢力下にはいったため、ロシア化が極めて順調に進んだ国であり、もっともヨーロッパ化したといわれます。あるカザフスタン人の知人(本当に日本人そっくりです)がおりまして、彼曰く、「日本はアジアっぽいから、ヨーロッパの僕らからするとエキゾチックに感じる」と言っておりましたから、一般のカザフスタン人が自らをヨーロッパ化した民族と考えているという話は本当だと思います。
これ以降の話はアレクサンドル2世の治下になるので、切りが悪いですが次ページで説明いたします。
〜 4. ロシアの工業概観 〜
さて、ナポレオン戦争終結後の、戦費調達のための紙幣乱造によるインフレーションは、ドイツ出身の蔵相カンクリンによる銀本位制の導入で沈静化し、国内産業保護育成のための高関税政策をとりました。経済が安定したところで、近代国家への転換に不可欠な工業化を進めるか、というですが、ニコライ1世の時代はロシアの工業化に対し不活発な度をとります。
態
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エゴール・フランツェヴィッチ・カンクリン
Канкрин, Егор Францевич
1774-1845
本名ルードヴィヒ・ダニール・カンクリン
ドイツのヘッセンで生まれ、ロシアで蔵相となる

カンクリンの発行した紙幣
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1850年には、国内産業振興のためには最適な高関税もインフレ終結後に撤廃し、1549年にいたっては、労働者によるストライキ・暴動を防ぐため、モスクワに綿紡織業・羊毛紡織・鋳物業・化学工業の企業の新設を禁止する法律まで作ります。
工業の発達が上流市民であるブルジョアジーを生み、新階級である彼らこそがフランス革命の原動力でしたから、おそらくそのような革命を起こすような物騒な階級の勢力伸張になりかねない工業化は禁止して、農業国にとどまり、あくまでツァーリと大貴族が治める国となるのが帝政ロシアにとって最適とニコライ1世は考えたのでしょう。
ただし、ニコライ1世は鉄道建設は行い、蔵相カンクリンの、表向きは「社会のモラルを低下させる」(イギリスの鉄道発達は、日帰り旅行を可能にし、結果としてレジャーを生み出しましたから、まじめ一方の人にとっては確かに勤労意欲をそぐモラル低下かもしれません。)、本音はアフガンニスタン情勢介入による軍事費の増加でとにかく出費を押さえたい、という理由の反対を押し切り、1837年、サンクトペテルブルクとツァールスコエ・セローを結ぶ25キロの鉄道を建設しました。さらに1843年に、サンクトペテルブルクとモスクワ間を結ぶ鉄道建設に着手し、1951年には完成させます。こうして急ぎの馬車で丸6日間かかっていた両都市の交通を23時間に短縮しました。ともかく、この時代に鉄道建設の基礎ができ、ニコライ1世のひ孫の時代のニコライ2世のシベリア鉄道建設へとつながっていくのです。
〜 5. アフガニスタン情勢−ロシアvs.イギリス 〜
1826年、ロシア帝国は、グルジアのロシア帝国への編入を認めないペルシャのカジャール朝と戦争になり、勝利して1828年アルメニアを奪い、古都タブリーズを手に入れ、トルコマンチャーイ条約を結んでペルシャ各地に領事館を置いて最恵国待遇を獲得し、ペルシャの戦いにかたをつけ、事実上の従属国とします。
そして1837年、カジャール朝に命じて、族長ドースト・ムハンマドの創立したムハンマドザイ王朝の支配する、現アフガニスタン西部のヘラートへの侵攻を行なわせます。ロシアやポーランド人将校も加わったこの侵攻は順調に進み、やがてこの軍勢はアフガニスタン東部のカーブルまで制圧します。もちろん、イギリスもアフガニスタン軍にイギリス士官エルデレッド・ポッティンジャーを送って戦闘指揮を執らせ、いわば英露代理戦争が起こっていたわけですが、ロシア側のこのアフガニスタン侵攻はインドを擁するイギリスの警戒心を刺激します。
インド植民地まで目と鼻の先までロシア軍が侵攻し、イギリス政府と当時のインド総督ジョージ・イーデンはロシアの南下を食い止めるため、アフガニスタンを緩衝国化し、アフガニスタン侵攻を計画します。さて、アフガニスタンの主権者のドースト・ムハンマド国王は、ペシャワールを占拠していたインドのシク教徒をイギリス軍の力で追い払ってもらえればイギリスとの関係強化を考えたい、もしペシャワールが返ってくるなら、当時のシク教との指導者ランジット・シンのもとへ自分の息子を人質として送り、毎年賠償金を支払っても良いという破格の譲歩まで提案します。
ところがインド総督府はこの提案を無視し、この心情にうまく取り入ったロシアのエージェント、ヴィトケヴィチの力もあり、失望したドースト・ムハンマド国王はロシア帝国に接近します。ウィトケヴィチはこう語ったそうです「英国は政治的見地から見て、この国(アフガニスタン)の重要性を十分に認め、アフガニスタンに足場を確保するためには、面倒も出費も厭うことはありません」。、はたして、これを危険視したイギリス側は、前アフガニスタン国王シャー・シュジャーを祭り上げ、彼の復位を旗印としてアフガニスタンとの戦争に踏み切りました。1839年、セポイ(イギリス軍インド人傭兵部隊)を中心とするイギリス軍がアフガニスタンに侵攻し、カーブルを占領、シャー・シュジャーを国王の地位につけることに成功します。
ところが1841年、アフガニスタン人の反攻が本格化し、現地入りしたインド総督府代表補佐役アレクサンドル・バーンズ(イギリス人エージェントです)が、アフガン人に襲撃されて殺害されるなどの事態が発生しました。おまけに政権が保守党になって、前政権とは方針ががらりと変わりアフガン駐屯軍の経費削減を決め、物資不足となり、イギリス軍は撤退を決定します。ところがこれを待っていたアフガン人とパシュトゥーン人の追撃が始まり、結局撤退地のジャララバードに到着した時にはほぼ全滅状態でした。
このイギリスの植民地戦争で最大級の敗退の責任をとらされてイーデンは総督を解任され、新総督エーレンボローは捕虜となったイギリス人救援が名目の、殆ど憂さ晴らしの作戦を実施します。1842年カーブルに入ったイギリス軍は掠奪・破壊を繰り返し、町は灰燼に帰しましたが、イギリス人勢力はアフガンから一時撤退する羽目になります。こうして、ロシアによってイギリスがアフガニスタン戦争の泥沼に足を突っ込まされた際に、ロシアはヒヴァ汗国に対する軍事行動に出たのでした。
〜 6. 革命運動の萌芽 〜
大きく広がったわけでは有りませんが、ロシア帝国を震撼させたデカブリストの乱は、鎮圧された後もさまざまな余波を残します。それは、一方では制度の手直しによる帝政の強化で、これはニコライ1世の手により行なわれました。もう一方は、帝政そのものを考え直すと言うものです。
さて、当時のモスクワは、サンクトペテルブルクと違って首都ではないですから、皇帝の厳しい監視の目も、サンクトペテルブルクほど強くはなく、むしろ当時のモスクワ大学の学長ストロガノフは自由主義者として知られており、この雰囲気の中で、密かに社会主義を研究する学生サークルが誕生しました。なんだか、当時のモスクワとサンクトペテルブルクの雰囲気が、今の雰囲気と比べて逆な感じが致します。
それらのサークルの中で有名だったのは、アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・ゲルツェン、ニコライ・プラトーノヴィチ・オガリョフ、ニコライ・スタンケーヴィチらの率いるサークルです。この三人は全員貴族の出身でした。
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アレクサンドル・イヴァノーヴィチ・ゲルツェン
Герцен, Александр Иванович
1812-1870
ロシアの社会主義、ナロードニキ運動の草分け的思想家
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ことにニコライ・スタンケーヴィチのサークルは、参加メンバーが、スラヴ主義者のコンスタンチン・アクサーコフ、のちの国際的な無政府主義者で、ナロードニキに大きな影響を与えたミハイル・バクーニン、レールモントフやプーシキンらの作品を批評し、初めてロシア文学に正当な評価を与えたヴィサリオン・ベリンスキー、作家のツルゲーネフら、そうそうたる人物がそろっており、極めて活発な討論が行なわれたと考えられます。
また、ベリンスキーは、在学中に発表した劇が、政府批判を行なっていたと言うかどで退学となります。彼は海軍軍医の子でして貴族ではなく、いわいるラズノチーンツィ(雑階級)、貴族でないインテリゲンチャの走りであったため、生活のために働かねばならず、文芸批評家となって糊口をしのぐことになります。そこで、プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリの作品の批評をはじめ、ロシア文学の価値を当時の読書人に知らせるとともに、文芸批評の陰に隠れて政府批判もやったため、検閲が厳しくなりますが、大事に至る前に肺結核で1848年亡くなってしまいます。また、ベリンスキーは遅れた国ロシアを救うのは、文明と啓蒙とヒューマニズムで、これはかのピョートル大帝も選んだ道である、とロシアの西欧化を説き、西欧派(ザーパドニク)の走りとなりました。
さて、ゲルツェンのサークルですが、自由主義的な思想を好んだ彼に対する検閲も厳しくなり、もともと西欧派であったこともあり、1847年とうとう亡命(オガリョフもそうですが)します。さて、パリを見たゲルツェンですが、そこでプロレタリアの敗北とブルジョアの勝利を見、絶望します。そこで、ゲルツェンは、確かにロシアは西欧より遅れているが、それだけ新しい道が選べる。どのような道かというと、それは社会主義の担い手をプロレタリアの中に求めるのではなく、農民にもとめるのだという考えを抱くに至りました。こうしてナロードニキ運動の草分け的な考えを発表し、スラヴ派(スラヴャノフィール)へ転向したゲルツェンは、これらの考えを『祖国記録』という雑誌にまとめ、ロシアで出版します。
農民がその担い手であると言う、ロシア独自の社会主義(ちなみにロシア発の社会主義思想でもあります)を唱えたゲルツェンは、当然当局の怒りを買います。1850年、ゲルツェンに帰国命令が出ますが、彼はこれを蹴ります。その結果、国外追放となり、1855年、オガリョフとともにロンドンに自由ロシア印刷所を作り、『ポリャールナヤ・ズヴェスダー(北極星)』を発行し、1857年には『コーラカル(鐘)』を発行します。ゲルツェンらは、この雑誌の中で、ロシアで発禁となった詩・文章・資料などを集めて掲載し、それをロシアへ逆輸入しました。
こうして、ゲルツェンらの行動は、ロシアで初めて現れた、おおっぴらな帝政批判の文章の発行となりおおせます。
〜 7. トルコとの戦争 〜
ニコライ1世は、1816年から外相を務めるネッセリローデの政策に従い、ロマノフ王朝初期のアレクセイ1世の時代から現れ始めたロシアの膨張のはけ口を、ギリシャおよび黒海方面に移すことにします。いわいるニコライ1世の保守政治(ウィーン体制維持政策)、トルコ・バルカン半島へのロシアの膨張政策は、この海・陸軍軍人(!)をつとめ、外務省に入り、最終的に宰相にまで上り詰めた、バルト・ドイツ人のこの人物の主導によるものです。
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カール・ロベルト・ネッセリローデ
Нессельроде, Карл Васильевич
1780-1862
バルト・ドイツ人のロシア帝国外相(1816-45)、宰相(1845-56)
トルコ・バルカン半島への膨張と、神聖同盟維持に尽力
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ロシアの三つの対外進出路、バルト海方面からヨーロッパに進出する方法は、絶頂期を迎えたイギリスが立ちふさがるため無理、ポーランドから直接ヨーロッパに抜ける方法も、おとろえたりとはいえ老帝国の面目を失わないオーストリア帝国があるため無理、ということで、この時代弱体化の著しいトルコを破って黒海を抜け、地中海からヨーロッパへ、さらには世界へ進出する方針を固めていました。
さらに都合のいいことに、この当時ギリシャでは、オスマン・トルコに対する独立運動が燃えさかっておりました。1821年2月、ペロポネソス半島(モレア)で反乱を起こしたギリシャ人は半島全域からトルコ人領主、イェニチェリを追い出して、1822年、ギリシャからの代表60名が集まり、半島のコリントの西南エピダウロスの森で独立を宣言、首都をコリントに定め、憲法を定めました。
当然オスマントルコ帝国がこんなことをほおっておくはずもなく、ペロポネソス半島に正規軍3万を送り込みますが、撃退され、ギリシャ正教の総主教、ギリシャ人を虐殺、教会を破壊して報復します。ここにキリスト教徒保護のためという介入の大義名分ができ、当時のアレクサンドル2世は1822年7月、キリスト教徒への寛容、ドナウ両国からの撤退を条件とする最後通牒を発しますが、オーストリアのメッテルニヒの反対で出兵は断念します。
しかし、オスマントルコはギリシャの反乱運動を押さえつけることができず、1824年、自治を任せていたエジプトのパシャ、メフメト=アリに交渉して、シリア総督職を代償に共同出兵をもちかけます。こうしてペロポネソス半島の北からトルコ軍が、南からエジプト軍が攻め寄せました。詩人のバイロンがギリシャに赴き、騒いだのがちょうどこのときです。
しかし、鎮圧にてこずるトルコ軍を見、軍の近代化の必要を痛感したスルタン・マフムトは1826年、密かに構想を温めていた新正規軍の設立を宣言、それまで正規軍の座にあったイェニチェリ部隊が怒って各地で反乱を起こします。その反乱を新正規軍は押しつぶし、マフムトはトルコ陸軍の近代化の一歩を踏み出しました。
このトルコでの動きに対し、1827年7月、ロシアを牽制するためロンドン条約が結ばれました。ロシアのトルコに対する宣戦布告によるダータネルス海峡封鎖の可能性を防ぐため、イギリス・フランス・ロシアの三国が、トルコが休戦勧告を受け入れない場合には三国が共同でギリシャを援助し、海軍を出動させるというものです。実際にこの条約に基づき、10月にはナヴァリノ海戦が発生、イギリス・フランス・ロシアの三国艦隊がエジプト艦隊を破ります。
しかし、ニコライ1世は1828年にトルコに宣戦布告し、またも露土戦争が勃発します。1829年、ディーヴィチ将軍が指揮を執り、ロシア帝国軍は戦いを有利にすすめ、ロシア軍として初めてトルコ内陸に進行することに成功、バルカン山脈を越えます。8月にはかつてオスマン・トルコ帝国の首都でもあったアドリアノーポリを占領しました。
結局トルコ帝国が圧倒的な不利な状況の後、ロシアは1829年アドリアノーポリ条約を結ばせます。この条約により、ロシア船舶のダータネルス・ボスポラス海峡の自由航行権を得て地中海への回路を確保し、ギリシャ・ワラキア・モルダヴィア・セルビアなどの、トルコ領内での自治を獲得してバルカン半島を影響下に治め、ロシア商品のトルコ領内での関税免除、そして領土としては黒海に面するザカフカース地方を手に入れ、かの地のほぼ全域を得ました。
もっとも、北カフカースの強力な山岳民族の住む諸地域、ダゲスタン、チェチェン、アディゲなどは頑強な抵抗を繰り広げ、この地の完全制覇は1860年代ごろになります。
南方方面の紛争を有利に片付け、ザカフカースへ地方への勢力浸透により中東方面の権益に抵触し、さらには大陸伝いの英領インド侵攻が可能にしかねないロシアの膨張を見たイギリスの、対露封じ込め政策がこのころから本格的に発動します。
じわじわと発達していた近代科学を工業製品生産技術に応用することに成功、いち早く産業革命を起こし、科学技術と産業で得た富で強力な兵器を手中にし、その資本力と軍事力で七つの海を支配してシーレーンを確保、シーレーンを通じてインド・カナダ・オーストラリアなどの植民地を自国製品の市場としていたのが当時のイギリスです。
それどころかこの時期、産業が機械化される、つまり生産が工業機械によって行なわれる工業化が成功した国はイギリスだけでしたから、品質が安定し、しかも廉価なイギリス製品は別に植民地に限らず世界中のどこでも売れ、「植民地はイギリスの首にかけられた石臼である」という極論もささやかれたビクトリア朝時代、イギリスは絶頂期をむかえていました。
そこで、イギリスは、本国の負担を軽くするため、イギリス化が進んだ各植民地はに自治を与えます。1867年、カナダに連邦が組織され自前の政府をもつようになり、オーストラリアも19世紀中ごろから各州に自治権が与えられ、1900年にはオーストラリアも連邦組織ができ、自治が与えられるようになります。1907年にはオートラリアからニュージーランドが分離し、1909年に南アフリカ共和国も自治を与えられ、イギリス連邦内の5つの自治植民地が形成されました。
ところがこの傾向にまず冷や水を浴びせたのがロシア帝国です。先帝の時代にナポレオン率いるフランスを下し、その国力の伸張を海外に求めていた黒海から地中海に抜けようとするロシアの政策は、当然イギリスにとって脅威と移ります。イギリスにとっては今が一番いいときであり、この状態がいつまでも変わらず続いてくれればいい…、つまり保守化していましたので、イギリスの傘下に入る、もしくは強調するということをせずに国力を膨張させようし、現体制を崩しかねない勢力に対しては、とりあえずは押さえ込む、封じ込め政策をとります。
そこで、トルコに叛旗を翻したエジプトとの戦いを通じて、各国ともに共同歩調をとるという形で、ダータネルス・ボスポラス海峡が全ての国の軍船に対し平和時に閉鎖されるというロンドン協定を、イギリス・フランス・ロシア・オーストリア・プロイセンの間で結びました。
イギリスやフランスにとって地中海から黒海沿岸へ向かう必要はさしてありませんが、ロシアにとっては打撃です。こうして地中海への道が閉ざされ、この閉塞状態からロシアが無理にでも出ようとしたことが、後年のクリミア戦争勃発の原因です。
〜 7. 革命運動への強硬姿勢 〜
ナポレオンは没落し、また後年の彼の行動もフランス革命の理念とはまったくかけ離れたものではありましたが、ともかく革命の思想はナポレオンの軍勢や占領地からヨーッパ各地に広まりました。また、フランスでも、ルイ18世によるブルボン王朝の立憲君主制(君主の権限が憲法により制限される制度)をベースとする王政復古が成ったものの、一旦共和制の味を知り、かつ資本主義のかくまで発展した時代に合わなくなっていた、専制君主制に反対する層が徐々に力を増していました。
そこでフランスで起こったのが1830年の七月革命です。直接税の納入額による厳しい制限選挙による貴族と上流ブルジョアジーの政権に対し、中小商工業者の間に不満がくすぶっていましたが、その不満は1830年の選挙後の国王の処置で表面化します。選挙では制限選挙反対派が与党勢力に100議席以上もの差で圧勝しました。
そこまでは良かったのですが、この結果に対しルイ18世の後を継いだシャルル10世は、出版の自由停止、議会解散、制限選挙の資格の更なる強化、新選挙法による再選挙、の王令を発しました。
つい最近革命をおこし、己の力に目覚めた市民階級はこれに黙っておらず、7月27日パリでバリケードを築き、7月28日この騒乱を鎮圧しようとする政府軍との間に市街戦が展開されました。この日パリ市庁舎やノートルダム寺院が市民軍に占領され、7月29日にはブルボン宮やルーヴル宮も陥落、ルイ・フィリップ王の立憲王制が樹立され、ブルジョアジーの支持を背景にシャルル10世の治める正統ブルボン王朝は打倒されてしまったのです。
フランスは神聖同盟から脱退し、この余波でベルギーのブリュッセルで蜂起が起こり、オラニエ王朝が追いだされ、1815年のウィーン会議でオランダへの併合が認められていたベルギーは1830年10月にオランダからの独立を宣言しました。
このオラニエ王朝、と私が書いた一族についてもう少し詳しく説明いたします。オランダを含むフランドル地方はシャルル突進公の死後、政略結婚によりハプスブルク家の当主がフランドルを支配しておりましたが、代々神聖ローマ帝国皇帝位を継ぐハプスブルク家当主はフランドル地方に不在がちなことが多く、そのためハプスブルク家は有力なネーデルランド貴族から、オランダ総督を任命しておりました。
さて、1568年、オランダ独立戦争が勃発し、その指導者となったのがスペイン王フェリペ2世によって総督に任命されたオラニエ公ウィレム1世であります。さて、独立を果たしたネーデルランド北部7州(つまり、今のオランダの領域です)は、連邦共和国となり、それぞれの州はそれぞれ総督を任命し、総督が議会を指導し、法の執行を監督し、役人の任命を行いました。ところが、オランダ独立戦争の英雄オラニエ公ウィレム1世の一家、オラニエ=ナッサウ家の当主オラニエ公が連邦共和国中最大の力を持つホラント州(つまり、オランダ州です)および他の4,5州の総督を占め、あとをウィレム1世の弟ヨハンの家系、ナッサウ家が支配することとなりました。ホラント州とゼーラント州の総督は連邦議会から陸海軍総司令官に任命されており、このオラニエ家は実質オランダの国王のようなものでした。
オラニエ=ナッサウ家はナポレオンの台頭時、一時オランダから追放されてイギリスに亡命しておりましたが、ナポレオン没落後、ヨーロッパのすべての政治秩序をナポレオン以前の専制君主制にもどすというウィーン会議の方針の下、「王の帰還」と相成りまして、ベルギーを編入したネーデルランド王国が成立したのです。
ともかく、これはロシア帝国も主導して出来上がったウィーン体制への重大な挑戦であり、革命のヨーロッパおよび自国への波及を恐れるニコライ1世は、保守派の政治家で神聖同盟結成時のロシア全権だったロシア帝国宰相カール・ロベルト・ネッセルローゼとともに、オーストリア、プロイセンをさそって干渉しようとします。が、ロスチャイルド家の軍事公債発行拒否により、オーストリアは戦費が集まらず、さらにはイギリスとフランスはベルギーの独立に賛成したため、やむなくニコライ1世は独立を承認します。
ニコライ1世の恐れたとおり、ポーランドがこのベルギーの独立に触発されました。ニコライ1世は1826年5月ワルシャワでポーランド国王として即位しておりました。この時点でポーランドは立憲君主政体であり、二院制の議会までもっていました。これに対し帝政ロシアが議会をもったのは、日露戦争後の1906年、ロシアが憲法を持ったのは、革命とその後の内戦・干渉戦で手間取ったとはいえ1936年のスターリン時代です。そんな他のロシア帝国領に比べて、憲法も持ち、議会もあるという破格の自由待遇を受けながら、これ以上何をかいわんや、というのがロシア帝国の言い分でしょう。
が、ポーランドから言わせれば、自民族の上に支配民族として君臨し、おいしいとこ取りを続け、在住民族の意思に反し独立を認めないロシア帝国はやはり抑圧者でしょう。ポーランドはポーランド・リトアニア大公国、スムータ時におけるモスクワ占領などの、かつての強国時代の思い出と、西ヨーロッパ文化のスラブ世界への輸出を担った文化先進国であるとの思いが消えず、支配者ロシアに対する反感が強烈でした。
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ロシアで発行された
ポーランド・ロシア共通硬貨
双頭の鷲です

最上段は『純銀60と3/4ドーリャ(約2.699g)』と書いてあります。
実測値は3.063g(METTLER TOLEDO AB204-5)
15コペイカ(ロシアの通貨単位)
1ズヴォチ(ポーランドの通貨単位)
とそれぞれ書いてあります。
画像の著作権はありません。
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しかし、皇位継承権を放棄しポーランド総督となっていたアレクサンドル1世の弟のコンスタンチンは、憲法を無視していたため、不人気であり、七月革命はこの不満に対する絶好の火付け役となりました。ポーランド婦人と再婚し、ショパンから「軍隊行進曲」(現在は散逸しております)を贈られたコンスタンチン大公のことですから、大公は相当に親ポーランド的な人物ではなかったのかと思うのですが、残念なことです…。
1830年11月17日に青年将校や学生が革命地下組織の指導のもとに蜂起し、コンスタンチンを敗走させます。11月28日には市民がペルヴェデーレ宮殿を襲い、ポーランド軍もこの動きに同調し、ロシア軍を国境外に撤退させました。ポーランド国民政府首班アダム・チャルトリスキ(リトアニア大公ゲディミンの子孫という名門貴族です)はヨーロッパ列強に援助を要求し、勢いに乗るポーランド議会はニコライ1世の廃位を宣言します。
翌年ニコライ1世は大軍を送ってワルシャワを占領し、反乱を鎮圧した後、革命指導者を厳罰に処し、ロシア通貨の導入とロシア語教育を強化し、憲法と議会を廃止し、放棄の温床となったワルシャワ、ヴィリノの大学を閉鎖しました。
ちなみにこの1830年、コンサート活動のためウィーンに滞在していたのが、フランス人を父に持ち、ポーランド人を母に持ってポーランドで生まれ育った当時20歳のピアノの詩人フレデリック・ショパンです。結局彼はロシア領ポーランドには戻らず、ロシアの影響の強くなったオーストリアをも脱出し、そのままパリへ亡命しフランスを拠点に活動を続けることになります。
こうしてヨーロッパ各地の革命運動は下火となり、ウィーン体制に支えれたヨーロッパ情勢は小康を保ちますが、産業革命によって引き起こされた社会の変化は押しとどめることが出来ず、1848年フランスで二月革命が起こり、ルイ・フィリップが打倒され、ナポレオン3世が実権を握りました。
革命の余波は今度はドイツに飛び火し、1848年三月革命が勃発します。3月13日、まずオーストリアのウィーンで暴動が起こり、老帝国の体面を守りつつ、無難な国政の舵をきりつづけてきたメッテルニヒが辞任してロンドンへ亡命し、オーストリア帝国最後の皇帝フランツ・ヨーゼフが弱冠18歳で即位し、憲法制定議会の召集が決議されました。
ついでベルリンでも革命が勃発、軍と市民が交戦状態に陥り、国王の譲歩の下、自由主義内閣が成立しました。また、ドイツ統一と憲法制定のための国民会議も開かれます。
さらにはオーストリア領内でハンガリーが独立を宣言してオーストリアと交戦したため、ニコライ1世はオーストリアの要請に応じて1849年に10万の大軍を派遣し、ヴィラゴスでハンガリー革命軍を破り、ハンガリーの抵抗を粉砕しました。ドイツの動きに対してもニコライ1世もちろんプロイセン王を支持しました。
このようにニコライ1世は自国他国を問わず革命運動にたいしては徹底的な弾圧策をとり、こうすることはロシア帝国の、ひいてはヨーロッパ大陸の専制君主制そのものの維持になると考えていたようです。
〜 8. クリミア戦争 〜
クリミア戦争の直接の原因は、1852年フランスのナポレオン3世の進言でトルコ皇帝が、聖地エルサレムの管理権をギリシャ正教徒からうばい、カトリック教徒に与えてしまったことです。フランスは革命政府がカトリックを廃止して理性の崇拝を主張したことからスレイマン大帝時から続くエルサレム管理権を放棄し、オスマントルコの承認のもとロシアが聖地の管理権を継承したのですが、それをまた返せといってきて実際取り返してしまったのです。
ニコライ1世はもちろんこれに抗議しましたが、ロシア帝国の膨張を恐れ、ロスチャイルド家のイギリス分家とフランス分家からの戦時公債引き受けをうけて潤沢な戦費調達が可能となったイギリスとフランスがバックについたオスマン・トルコ帝国は今回は強弁でした。もっとも、ロシア側も相当に挑発的で、1853年3月、宰相ネッセリローデから、開戦は不可であると釘を刺されたにもかかわらず、ロシア使節メンシコフ(あのピョートル時代の寵臣メンシコフのひ孫にあたります、先祖の血がよみがえったのでしょうか。)は、黒海でロシア海軍の観艦式を行なうというデモンストレーションの後、イスタンブールへ乗り込みました。
メンシコフはわざわざ平服でスルタンとの謁見に望み、ロシアとトルコの攻守同盟を提案し、その条件としてトルコ領内のギリシャ正教徒の支配権をロシアに認めさせる、を持ち出しました。トルコがこの話を蹴ると、ロシアはワラキア・モルダヴィアに兵を送ります。ところが、トルコは3月イギリス・フランスと同盟を結び、10月にはセルビアからのロシア軍撤退を要求しつつ、オメル=パシャがゴルチャコフのロシア軍に対し軍勢を終結します。こうしてロシア側のヨーロッパ各国への根回しがうまく行かないうちに、ロスチャイルド家からの借款をうけたトルコは、1853年11月ロシアに宣戦布告します。
ロシア軍にとって、トルコ軍はやはり敵ではなく、黒海のシノペでロシア艦隊はトルコ艦隊を壊滅させました。これを見たイギリス・フランスは、トルコが崩壊し、ロシアが地中海になだれ込んで来ることを恐れ、1854年、トルコ側に立ってロシアに宣戦しました。ヨーロッパの勢力均衡を願って創立された、ウィーン体制の完全なる崩壊です。バルカンでのロシアの勢力拡大を不安な面持ちで見ていたオーストリアも、ワラキア・モルダヴィアからのロシア軍撤退を要求し、これを見たプロイセンもイギリス・フランス側に同調しました。
つまりヨーロッパ政界でほとんど孤立無援になったわけですが、始めた戦いをやめるわけには行かず、トルコ軍とロシア軍はザカフカースで交戦し、フランス・イギリス艦隊はロシアをけん制すべく、バルト海、白海、はてはカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャートキーまで出撃し攻撃をくわえます。ちなみに後で述べますが、この極東のペトロパブロフスク・カムチャートキーでの防衛戦は、ムラヴィヨフ・アムールスキーの活躍で見事な成功を収めます。
しかし、あちこちちょっかいを出すだけでは当然勝負はつかず、そのうちだんだんに戦いの焦点が定まり始め、イギリス・フランスはロシアの黒海制海権の心臓部、クリミア半島へ艦隊を派遣し、ここでの戦いの中心がセバストーポリ要塞で行なわれることなりました。こうして『戦争と平和』で有名な文豪レフ・トルストイも26歳で砲兵少尉として参加し、名もなき一般ロシア兵卒の敢闘の様子をつづった『セヴァストーポリ』を執筆した、セヴァストーポリの包囲戦が起こったのです。
イギリス・フランス・トルコの同盟軍が半島西岸に上陸し、セヴァストーポリめがけて南下しました。要塞の司令官コルニーロフは同盟軍艦隊に海側から港を攻略されまいと、港の入り口に7隻の艦船を自沈させ封鎖するといういかにもロシアらしい荒っぽい方法をとって、これは成功し、同盟国軍の艦隊の湾内侵入は阻まれます。
両陣営は結局この半島の奪い合いに総力をつぎこみ、結局一年以上もつづく激戦となりました。しかし、このクリミア戦争中最大の激戦地となったセバストーポリ要塞の戦いですが、激戦になったというのはどっちも相手を倒せる決定的な力を持っていなかったということであり、早い話がお互いもたもたしていたということです。そこで、膨大な時間を物資をつぎ込みながらも陥落しそうにない状況、軍隊給与の不完全、病院施設の不備が、初の従軍記者を送ったイギリスの新聞『タイムス』の記事で暴露され、非難が巻き起こりました。
一体誰が責任者なのか、誰に許可を取ればよいのかわからない状態でのナイチンゲールの強引な活躍が注目され、ナイチンゲールは傷病兵からは天使の如く慕われますが、陸軍将校からすれば、上流階級出身という自分の高い社会的地位をふりかざして軍の業務に容喙する悪魔と写り、ともかく非難の嵐の中、アバティーン内閣が倒れ、パーマストン内閣が成立しました。
パーマストン内閣は軍政改革を強行します。イギリス陸軍の組織ですが、まだ王権が強力だった頃から存在した歩兵・騎兵隊は国王の新任する長官の指揮下にありました。ところがブルジョアジーが強力になった近代になって登場した兵科、砲兵や工兵に関する指揮権は議会が握っていました。さらに砲兵の武器弾薬、衛生・経理・輜重の権限は、議会の監督下にある財務部が握っていました。さらに植民地相が、植民地と第三国との戦争を管轄していましたが、この植民地相も軍の作戦計画に対して一切口出しできません。
パーマストンは、軍部の抵抗をねじ伏せ、これらの入り乱れた軍事に関する責任関係を全て一元的に纏め上げ、軍事に関するあらゆることは内閣の一省が管轄する、つまりは世界初の陸軍省を設立したのです。パーマストンも統帥権(国王の任命する軍の最高長官は国王にの
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