ソビエト時代(1

〜〜 史上初のプロレタリア独裁国家 〜〜



ウラジーミル・イリイチ・レーニン(本名ウリヤノフ)
Ленин(Ульянов), Владимир Ильич
1870-1924

ボリシェヴィキ指導者、革命後に人民委員会議議長

世界初の共産革命を成功させ、
РСФСР(ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国、略してロシア共和国)を成立させる。

注意!音が出ます
”インテルナツィオナーレ”(ロシア共和国・ソ連の国家 1918-1943年)

 


Российкая
История

Российкая
История


 


           ー苛政は虎よりも猛ー

 ギリス、フランス、ベルギーなどにおいて17世紀から19世紀にかけて、ブルジョアジー、つまりは産業革命で資本を蓄えた上流市民階級の手による革命によってヨーロッパ各国は王制を打倒、あるいは王制から実権を奪い、主権在民を標榜する国家群が誕生します。

 ところがこの革命の指導者たるや、やはりブルジョアジーでして、彼らの作った政権は、やはりブルジョアジーの手になる、ブルジョアジーのためのものでした(大汗かいて革命を成功に導いたいのは彼らですから、ある程度はやむをえないでしょう)。確かに彼らは選挙による国民の政治参加の道を開きはしましたが、ある程度以上の国税を納めるものに限って投票権を与える制限選挙を導入したのです。これにより、当時国民の大多数を占めていた労働者、農民の政権参加を事実上ふさいでしまったのです。政治に対して発言力のない労働者たちは、労働条件の悪化などに対し正当に訴え出る場がなく、やむなく彼らは、時に暴動などに発展する労働争議などの荒っぽい手段に訴えざるをえませんでした。結局この革命は、支配階級の入れ替わりで、血統による支配が大資本による支配に変わったに過ぎないという不満が残ったのです。

 欠陥のない制度などありえないものですが、ともかくこの矛盾は、当然不満を呼び、もう一度革命を起こして、今度こそ、国民の最大多数階級たる労働者と農民による政権を打ち立てよう、という考えが起こりました。これが共産社会、資本家と労働者の同自性、経済界における、民主主義の側面を取り入れた考え方の台頭と相成ったのです。

 当時人々がそこまで考えた上かどうかは、今となってはもはやわかりませんが、ともかくロシアはボリシェヴィキに政権を委ねるという選択を選びます。世界初の総力戦を経験し、たとえ戦火に巻き込まれなくとも、物資・人的資源等の総動員により、自分達の日々の生活が露骨に脅かされてしまった人々の心には、ボリシェヴィキズムの内容よりも、ボリシェヴィキの訴えた、戦争の即時停戦が、より大きく響いたのかもしれません。

 マルクスによりますと、工業化の進展はブルジョア階級を発達させ、これに対立する階級である、プロレタリア階級を生みます。ブルジョア階級による圧迫に対抗するため、プロレタリア階級はブルジョア階級との闘争をへて、国境を越えて大同団結し、ブルジョア階級を打ち倒します。その後、プロレタリア階級の独裁政権が誕生し、ブルジョア的資本・生産設備をプロレタリアの手に戻し、ブルジョア階級が消滅すると、ブルジョア階級の対立階級だったプロレタリア階級も消滅します。最終的には、あらゆる人々の生産が、あらゆる人々に還元される共産社会が誕生する、ということになっております。

 したがって、マルクスの理論にのっとれば、レーニンは革命によって、プロレタリアによる独裁国家の段階までロシア社会をもっていったということになります。ともかく、この時点でロシアは共産主義を選択します。共産主義体制はその思想上、資本主義国家にとって生かしておくわけには行かない経済体制です。この先進資本主義国家群の海の中で、ソビエト社会主義共和国連邦が、いかに泳ぎきり、いかにその寿命を終えたかをこれから見ていきたいと思います。



  〜1.ブレスト=リトフスク講和ー戦線離脱と内戦勃発〜

 ーわれわれが和平交渉を始めたのは、ドイツ、オーストリア、ハンガリーおよび連合諸国の労働者政党を立ち上がらせたいがためであった。このために、われわれは和平交渉をできるだけ引き延ばして、ヨーロッパの労働者に、ソビエト革命のおもな事実と、その平和政策を理解させる時を稼がねばならなかった。ー 

     〜レフ・トロッキー著 『レーニン』 より〜

 ボリシェヴィキが権力を握って後、ソビエトの単独講和予備交渉が、ドイツの東部戦線司令部の置かれていたポーランドのブレスト=リトフスクでおこわなれました。まず、1215日になってドイツ、オーストリア=ハンガリーなどの同盟側の中欧4カ国とソビエトとの間で1ヶ月の停戦協定が結ばれます。そして1222日から交渉が始まりますが28日には休会し、翌191817日、トロッキーを主席全権代表として交渉が始まります。

 ボリシェヴィキの実力、国民感情を冷静に察したレーニンの腹は即時講和でした。しかし、ボリシェヴィキの党員の中には、帝国主義諸国との取引などもってのほかという考えをもつものも多く、さらに、かつてレーニン自身が提唱した革命のレーニン理論、革命ロシアが帝国主義諸国に進行し、世界に共産革命を広げていく、という理論に反しているのではないか、という意見もありました。したがって、即時講和派はこの時点では少数派でした。

 ドイツ側は民族自決をたてに、ドイツ軍占領地域の事実上のドイツへの割譲を主張しますが、ソビエトはこれは受け入れられぬとします。そして、交渉力をつけるため、労働者をつのって編成した赤衛隊を、本格的な軍事組織にすべく、赤衛隊の労農赤軍への組織化令を、115日に公布しました。さらに、党中央委員会決定の方針に従ってトロッキーは「戦争からは離脱するが、講和条約の調印を拒絶する」と2月1日交渉を打ち切って帰国しました。







レフ・ダーヴィドヴィチ・トロッキー(本名ブロンシュテイン)
Троцкий(Бронштейн), Лев Давидвич
1879-1940

ボリシェヴィキ党内随一の雄弁家
スターリンと対立し、29年国外追放、40年メキシコで暗殺




 すると217日、ドイツ軍の進撃が始まり、バルト諸国は占領され、ナルヴァ、プスコフ、キエフが陥落したので、ボリシェヴィキ党中央委員会が開かれました。218日の投票では、レーニンの主張する即時講和が最初6:7で否決されます。ところが深夜の再投票で75(棄権1)の僅差で可決され、この決定はラジオ電波に乗り、ソビエトは講和条約に調印する用意があるとベルリンに伝えられました。

 223日、ドイツ側の出した条件はより厳しくなります。ボリシェヴィキは、ドイツ占領下のリトアニアとクールラントの事実上のドイツ支配下での独立、エストニアとラトビアのソビエト内での自治の承認、ウクライナの独立に対する、48時間以内の回答を求められました。これは、ロシア帝国時代の人口と領土の1/4、鉄と石炭の3/4を失うことであり、ロマノフ王朝時代にこつこつためていった権益を一気に失うということですから、会議は白熱したものとなったと思われます。

 しかし同日、ボリシェヴィキ党中央委員会は74(棄権4)でドイツ案の即時受諾を決定し、228日にはロシア全権代表がブレスト=リトフスクに到着しました。33日、ソビエト側代表ソコリニコフは講和条約に調印し、ドイツ軍の進撃の即時中止がドイツ側から宣言され、ソビエトはこの条約の2週間以内の批准を求められ、8月下旬には巨額の賠償金の支払いが補足協定で決められました。同盟側の中欧4カ国(ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア)へのソビエトの単独講和です。

 第四回全ロシア・ソビエト大会は、左派エスエル、ブハーリンやピャタコフ、ウリツキーらなど、この講和条約に対する徹底的な反対も多かったわけですが、なんとかこの条約を批准します。これによってソビエトは戦争から離脱することが決定しました。講和に反対した左派エスエルは政府から脱退し、連立政権は崩壊します。ちなみにこの大会で、首都をペトログラードからモスクワへ移します。第7回ロシア社会民主労働党大会では、党名を、ロシア社会民主労働者党からロシア共産党(1952年に解体され、ソ連共産党となります。)に変更することも決定されました。

 こうしてソビエトとドイツの外交関係が樹立され、独ソ間で大使の交換が行なわれ、ソビエトからはヨッフェが駐ドイツ大使として派遣されました。ところがヨッフェは、ソビエト大使館内で膨大なボリシェヴィキズムの宣伝文書を印刷し、東部前線やドイツ国内でばら撒くなど、ドイツにおけるプロレタリア革命成功に向けて、様々な努力を傾けます。

 このソビエト政府の講和に対し、連合国側は激怒し、イギリスは3月にムルマンスクに上陸、日本が4月にウラジオストックに上陸します。東部戦線からの圧力から解放されたドイツ軍は全ての戦力を西部戦線に振り向け、19183月下旬、総攻撃を開始します。ドイツ軍はマルヌ川流域まで進出し、一時はパリを窺う様子を示しますが、フランス軍の粘りとアメリカ軍の補給の前に8月下旬あたりで力尽き、9月に入って連合国側の大攻勢が始まりました。

 さて、講和したソビエトですが、当面の問題は、できたばかりの自国政府防衛のための軍の再建です。労農赤軍を、ドイツ軍と対抗できる組織・能力をもった集団へ昇華させるため、トロッキーが軍事人民委員に任命されました。それまで部隊指揮官の選挙制を廃して任命制にもどし、正規の教育を受けた旧ロシア帝国軍将校を赤軍に編入しました。これは赤軍内のたたき上げの将校等との間で摩擦を起こし、後のトハチェフスキー事件などはこの摩擦が一因です。

 また、この講和で得られた貴重な時期に矢継ぎ早に共産主義政策を採用、19181月には「土地社会化法」が公布され、全ての土地は無償で収用され、全人民の資産とし、その土地で働く勤労者が利用すると定められました。この作業は4月までに完了させ、効率のいい大規模農業である地主、あるいはストルイピンの改革でできた近代的な農場も接収され、細分化されたため、この政策はかえって農業の零細化を進めてしまいます。

 191712月にはすでに銀行を国有化していましたが、19181月には貿易を国の独占とし、2月には穀物取引を国の独占とし、5月には鉱山を国有化、6月には石油産業を国有化し、ロイヤル=ダッチ=シェルの所有していたバクー油田はソ連政府のものとなってしまったのです。

 しかし、この内外多難な時期には国内改革ばかりしているわけには行かず、一旦は逮捕されたものの、また力を盛り返した反革命勢力のコルニーロフ将軍が、コサックの支持を受け、ウクライナ付近で旧ロシア帝国軍将校を集めます。しかし、赤軍に粉砕され、19184月、エカチェリノダールの戦いでコルニーロフ自身が戦死し、事なきを得ます。

 それより問題だったのは、ウクライナの動向です。伝統的に小麦多産地帯であるこの地域を支配する国は、全て小麦の輸出国となります。リトアニア然り、ウクライナ然り、帝政ロシア然りでした。したがって、この地域はロシアの食糧供給地帯であったのですが、このウクライナがロシア帝国の崩壊により民族意識に目覚め、独自の国家を建国しようと独立運動を始めたのです。

 少し時代が下りますが、191711月、ウクライナ中央ラーダと総書記局はボリシェヴィキの暴力的な権力奪取に賛成せず、第三次ウニヴェルサルを発表し、「ウクライナ国民共和国」の創立を宣言しました。ウクライナ国民共和国は、ロシアと連邦の絆は保つと宣言したものの、ボリシェヴィキ政権を認めておりませんから、これは事実上の独立宣言です。このウクライナとの摩擦が、内戦の始まりでした。

 また、同時平行でフィンランドでもボリシェヴィキの承認したスヴィンフーブド内閣が赤軍の反乱で倒れます。しかし、西海岸のバーサに逃れたスヴィンフーブドは、1889年ニコラエフスク騎兵学校卒業、1917年にはロシア帝国軍中将として第6騎兵軍団長を務め、革命後旧ロシア帝国中将の職を辞してフィンランドに帰国したマンネルヘイムを説得して白衛軍(白軍)の組織化を頼み、ドイツとスウェーデンに援軍を要請します。祖国フィンランドから最高司令官、騎兵大将に任命されたマンネルヘイムの指揮下、白軍はヘルシンキを奪取し、ドイツからはゴップ将軍率いる1万人のドイツ兵が来ます。







カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
Carl Gustaf Emil Mannerheim
1867-1951

旧ロシア帝国軍中将、フィンランド白軍総司令官、のち大統領
フィンランドの英雄




 これらの勢力と共に、フィンランドでは白軍7万と、政権を奪取した社会党革命委員会の最過激左派の赤軍10万の熾烈な内戦が繰り広げられます。結局白軍が勝利を収め、フィンランド議会では1919717日新憲法が採択され、フィンランド共和国が発足します。そしてドイツの仲介で1920610日、エストニアにおいてソビエトとフィンランドとの間で講和会議が開かれ、同14日に平和条約が結ばれました。

 しかし、ウクライナ情勢ですが、穀物・石炭・鉄鋼産出地帯であるウクライナに独立されてはソビエトが成り立つはずがありません。ロシア共産党による、ウクライナのボリシェヴィキ勢力をてこにして、ウクライナ政府をのっとろうとするたくらみは失敗しました。そこで1917年、ソビエトはレーニン・トロッキーらの連名の署名の入った最後通牒、ウクライナでのボリシェヴィキ軍の行動の自由を認めれば、ボリシェヴィキはウクライナ国民共和国を承認する、という手紙を送りました。しかし、中央ラーダはこれを拒否したので、ソビエトは実力でウクライナを屈服させるべく、アントノフ・オフセンコ、ムラヴィヨフ(エスエル党員)らに12千の赤軍を与え、キエフへ進撃させました。

 中央ラーダ軍はシーチ射撃軍、自由コサック民兵段からなる15千の軍を派遣しました。しかし旧ロシア帝国軍将兵が混じり、曲がりなりにも軍事の基礎を知る指揮官を擁する赤軍には勝てず、各地で敗退します。勢いを駆る赤軍は4万に膨れ上がり、キエフを包囲しました。中央ラーダは第四次ウニヴェルサルを発し、ウクライナが完全な独立国であることを宣言しましたが抗しえず、2月にはキエフを放棄しました。

 こうして赤軍はほぼキエフ全土を制圧します。そこで進退窮まった中央ラーダは、ソビエトとは別個に自らの代表団をブレスト・リトフスクに派遣、19182月、同盟国側と講和条約を結びました。講和条件は、ウクライナが穀物100万トンをドイツ・オーストリア軍に供給する代わりに、ドイツ・オーストリア軍はウクライナ政府を支援してボリシェヴィキズムと戦うというものでした。

 この取り決めにしたがってドイツ・オーストリア連合軍45万がウクライナに侵攻し、多勢に無勢、赤軍は数週間キエフを掠奪した後にウクライナから撤退しました。こうしてドイツ・オーストリア連合軍は4月中旬にはウクライナの奪還に成功、ロシア屈指の穀倉地帯ウクライナの失陥により、ソビエトの食糧危機は決定的になったのです。

 19185月、レーニンは「飢餓について」と銘打った労働者向けの公開書状で農村に対して武力による穀物徴発を呼びかけます。ソビエトは「食料独裁令」を発布し、1918611日付けで、ソビエトの出先機関である貧農委員会を設立し、穀物の販売を国家専売制度を実現しようとしました。が、エスエル党勢力の深く浸透する農村地帯では、ボリシェヴィキの影響力は弱く、専売制に対する農民そのものの抵抗もあり、ソビエトは都市民や穀物消費県の市民を武装させて「食料隊」を編成し、農村に派遣しましたが、埒が空きませんでした。


    〜 2. 干渉戦勃発ー第二のスムータ 〜

 1918年、ここでいよいよ連合国側による本格的な干渉戦の火蓋が切られます。その発火点となったのはロシア帝国軍によって捕虜となったチェコスロヴァキア軍団の反乱でした。ロシア帝国は、オーストリア=ハンガリー二重帝国からの解放を求め、自主的に降伏してきたチェコスロヴァキア人を集め、オーストリア=ハンガリー戦線へ送り出すべく軍団に編成しておりました。ところがブレスト=リトフスク条約の発効により、彼等が戦う理由がなくなります。そこで、チェコのマサリクと民族人民委員スターリンとの間で話し合いがもたれ、ソビエトはチェコスロヴァキア軍団をシベリア経由で、海路はるばる東ヨーロッパ戦線へ送ろうとしますが、彼等を武装解除して送るか武装したまま送るかで話がこじれ、武装解除を拒否したチェコスロバキア軍団と赤軍の間で525日、武力衝突が起こります。

 シベリア鉄道各駅付近に集められていたチェコスロヴァキア軍団は行動を起こし、6月にはオムスク、クラスナヤールスク、ウラジオストックなど鉄道駅のある都市を占領、さらにシンビルスク、カザンなどのヴォルガ川沿岸地域の要衝を占領、「反革命サボタージュと戦う全ロシア非常委員会」の長、ジェルジンスキーの鉄の規律によりシベリア鉄道のダイヤそのものは厳格に守られましたが、なにせ駅から各地への通信手段がなく、極東地域、ヴォルガ川流域はボリシェヴィキの手から離れました。

 この動きに呼応して7月左派エスエル党系の反ボリシェヴィキ活動が始まります。彼らはヴォルガ川流域に集まり、サマラ、カザン、シンビルスクなどで「憲法制定会議議員委員会(コムーチ)」なる独自の政府組織を設立、エスエル党はさらにドイツとの断交を要求して反乱を起こしました。チェー・カー幹部のエスエル党員がドイツ大使ミルバッハを爆弾テロで殺害、さらには東部方面軍総司令官ムラヴィヨフが赤軍に対し、チェコスロバキア軍との戦闘を停止し、直ちにドイツ軍と戦端を開くよう命じ、混乱が生じました。そこで左派エスエルも、右派エスエル、メンシェビキ同様非合法化されました。

 チェコスロヴァキア軍団は白軍と合流し、オムスクからエカテリンブルグにせまりました。そこで、当時エカテリンブルグに幽閉されていた皇帝一家が、白軍の手に渡るとの危惧が起こり、そのような事態を防ぐべく、ボリシェヴィキの手によって、ニコライ2世を始めとする、皇帝一家の処刑が執行されました。7月18日、全ロシア・ソビエト執行委員会議長の名で、ニコライ2世の処刑の声明が伝えられました。

 チェコスロヴァキア兵の反乱が意外に広がる中、誕生まもなくの労農赤軍の弱さを目の当たりにし、このチェコスロヴァキア軍救援という本格的な介入の口実を手に入れた連合国側はソビエトに侵攻します。極東では香港から出撃したイギリス軍が191883日ウラジオストックに上陸し、9日にはフランス軍も上陸を果たしました。アメリカ・日本はシベリア出兵を宣言し、191895日、日本軍はハバロフスクを占領します。6日にはザバイカルコサックのセミョーノフが日本軍とともにザバイカル州の州都チタを占領し、東シベリアを支配下に置きました。オスマン・トルコ軍はバトゥムを占領、ドイツも講和を破ってロストフを占領、中国軍も連合国側について出兵しました。さらにヨーロッパ北部ではイギリスはムルマンスクをてこに白海に進出、アルハンゲリスク、オネガを占領しました。カナダ、ルーマニア、セルビア、ポーランド、ラトヴィアも出兵します。

 多国籍軍の侵入という、この外部からのおそるべき危機に対し、まずはそもそもの原因であるチェコスロバキア軍団壊滅を目標に人民軍事委員トロッキー自らがヴォルガ河まで出向き、陣頭指揮をとりました。







陣頭指揮をとるトロッキー




 この大混乱のさなか、830日エスエル党員のカプランによるレーニン襲撃、ペトログラード・チェー・カーの責任者ウリツキーが暗殺される事件が発生します。レーニンは「赤色テロル」を宣言、「反革命サボタージュと戦う全ロシア非常委員会」だったチェー・カーはボリシェヴィキの政敵の逮捕銃殺にその役割を変え、いよいよその本領を発揮し始めます。また、ボリシェヴィキは、ドイツ国境に配備されている赤軍をそっくりソビエト内地に転進させ、内戦に利用できるよう、ドイツ政府と掛け合いました。この交渉は成立し、増強されたヴォルガ川方面の赤軍は、シンビルスク、カザンを奪回し、エスエル勢力のコムーチ本部はシベリアへ移動します。また、カデットが中心となって923日に設立されたウファー政府も、赤軍の軍事圧力に耐えられず、オムスクに移動しました。叛乱ドン・コサックのクラスノフ将軍もツァーリツィン(旧スターリングラード)を目指して北上しますが、ツァーリツインにこもったウォロシーロフとスターリンの後方援護で、ツァーリツィンの守備に成功します。


 〜 3. 大戦の終了ー干渉戦本格化と党綱領採択 〜

 第一次世界大戦に話を戻しますと、1918915日、戦場の主導権を握った連合軍がブルガリアに攻め込むと、ブルガリア軍はたちまち敗走し、休戦条約が結ばれます。もはや同盟国ブルガリアを助ける余裕もなくし、この段階で戦争続行は不可能と判断したドイツ参謀本部のヒンデンブルグとルーデンドルフは、宰相ヘルトリングに休戦交渉の即時開始、アメリカ大統領ウィルソンの望むドイツ政府の組織改造を進言します。

 それを聞いたヘルトリンクは辞任し、かわって自由主義者のバーデン大公マクシミリアンが終戦処理内閣の組閣を行います。マクシミリアンはスイスを通じてウィルソン大統領に休戦及び講和の申し入れをしますが、大統領は帝政と関係のある組織とは一切交渉に応じない姿勢をみせ、ドイツは戦争の続行か帝政の廃止かを迫られます。ドイツは戦争を続行しましたが、103日にオスマン・トルコ帝国が降伏、114日には、命旦夕に迫ったフランツ・ヨーゼフに帝国の命運を予感するオーストリア=ハンガリー二重帝国も降伏(フランツ・ヨーゼフは同月11日に崩御します)しました。同日、ドイツでもキール軍港で水兵の反乱が発生しました。

 この革命の空気は全ドイツに広がり、119日には内閣首班がバーデン大公マクシミリアンから、社会民主党のエーベルトにかわり、同じく社会民主党のシャイデマンが帝政廃止と共和制の樹立を宣言します。皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダに亡命、1111日、ドイツ帝国は休戦条約に調印しました。こうして44ヶ月にわたる大戦争は終わりを告げたのです。1919112日から、ヴェルサイユ講和会議が開催されました。

 さて、ボリシェヴィキ政権ですが、ドイツ帝国の降伏を機に19181113日、ブレスト=リトフスクでの講和を破棄しました。さらにこの休戦機関を利用して急いで国家体制を整え、戦争終結による諸外国の本格的な干渉戦に備えるべく、工業の国有化を系統的に行い、国有化された企業を産業部門別に管理する国家管理機関(グラクフ、ツェントル)を増加させます。

 ドイツへの赤色革命伝播に非常な期待をかけ、このドイツで革命が起こることによってヨーロッパ全土にプロレタリアートによる共産革命が起こることを望んでいたレーニンは、ボリシェヴィキ政権やドイツ労働者のために食料と軍事の両面で援助するためと称し、ロシア国内の余剰穀物の集荷の努力亢進と世界労働者革命を援助するため300万人の赤軍を編成する目的で、レーニンを議長とする労働者農民国防会議を設立しました。この会議が事実上の国家総動員実施機関となり、人民委員会議の機能をも果たし始め、内戦期の危機管理組織となります。

これにともない、1919111日には食糧徴発制度が実施されました。これは、公定価格による買上制に代わり農産物の強制的な割当供出 (徴発) を課するものでして、抵抗する地域には武装した食糧徴発隊を派遣して 「余剰農産物」 を強制的に押収するというものです。こんな措置に、特に富農は黙っているはずがなく、ウクライナなどを中心として大農業地帯では旧ロマノフ派の高級軍人と結託した農民の大反乱がおこることとなります。つまりは、後述するユーデニッツ、ウランゲリ、デニーキンといった旧ロマノフ朝系軍人の反乱は、こういった農民の怨嗟の声を背景に起こったものですから、世が世ならばステンカ・ラージン、マゼッパやプガチョフのような一定の評価が与えられていたかもしれない人たちだと僕は思います。

 また、十月革命の成功により、世界の社会主義者は中絶した第二インターナショナルの復活をめざし、19192月、各国社会主義者団体がスイスのベルンに集まり、会合を開きました。レーニン率いるボリシェヴィキはこれに刺激され、外務人民委員チチェリンが音頭取りとなって、共産主義者の国際会議の開催をラジオで全世界に呼びかけました。そして3月、初代議長をジノヴィエフとする第三インターナショナル、コミンテルンがモスクワで開催されました。







グリゴリー・エヴセーエヴィチ・ジノヴィエフ(本名ラドムイスリスキー)
Зиновьев(Радомысльский), Григорий Евсеевич
1883-1936

レーニンの副官と呼ばれる
スターリン、カーメネフと組んでトロッキーを追放するも粛清される




 このコミンテルン(共産主義インターナショナル)は1920年の第二回大会の参加条件として、全ての改良主義者(修正マルクス主義者、マルクス、エンゲルスの直弟子ヘルベルシュタインらの、急進的な社会革命ではなく、漸進な社会改良を説く派です)、カール・カウツキ―らの中間派を排除を挙げ、この大会を事実上コミュニストの集まりにしてしまいました。

 さらに19193月、第8回共産党大会が開かれました。ここでは共産党と国家の一体化が特徴である、党中央組織の整備拡充が進められ(下図 ソ連時代の党組織)、政権党としての新しい任務を規定した「共産党綱領」も採択されました。これこそ世界史上初の社会主義社会建設の綱領であり、共産党は以後この綱領に沿ってのちのソ連邦全体の、社会主義の建設を進めていくことになったのです。いわば、この大会で国家を指導する共産党の組織と国家目標が固まったわけで、第8回共産党大会は非常に重要な大会です。

 また、ウクライナ、バルト三国、ベラルーシなど旧ロシア帝国領で成立した各共和国の共産党中央委員会は、ロシア共産党の州党委員会のと同様の権限をもつが、ロシア共産党中央委員会に完全に従うべきであるとの決定を下します。こうして、ロシア共産党は、ロシア帝国崩壊後に出現した各共和国を、事実上その統制下に治めたのです。







ソ連共産党の中央組織

   『ソ連共産党書記長』 木村明生 著 講談社現代新書
より作成




 共産党とはいったいソ連でどのような権限をもっていたのでしょうか。それは、197710月で採択された憲法を見るのがよろしいかと思われます。第一部「ソ連邦の社会制度と政治の基礎」の第一章「政治体制」第六条によると、

 ー「ソ連共産党はソビエト社会を指導し、方向付ける勢力であり、ソビエト社会の政治体制、国家機関と社会組織の中核である…
 マルクス・レーニン主義の学説で武装した共産党は社会発展の全般的な見通しをたて、ソ連邦の内外政策の方針を決定し、ソビエト国民の偉大な創造的活動を指導し、共産主義の勝利を目指すソビエト国民の戦いに計画性と科学的裏づけを与える…」ー

 つまりは、共産党はソ連邦の内外政策を決定し、ソ連邦各種組織を指導・監督することでその決定の実現をはかるわけです。まさにソ連社会推進の原動力です。

 少し細かく言いますと、党の政治的指導は、経済・社会発展のための五カ年計画の基本方向の策定、国民生活のあらゆる分野の重要問題についての決定の採択などによって行なわれます。また、閣僚からコルホーズ議長にいたるまでの幹部要員の人事は党の推薦または承認によって行なわれます。さらに、個々の政策は、党中央委員会と閣僚会議の連盟で行なわれます。つまり共産党が大小の政府の政策立案を指導し、あらゆる組織の幹部要員の人事権をを持っているわけです。

 さらに、その政治的指導の効果を保証するため、共産党が国家機関(政府社会発展の、裁判所、官公庁、軍など)、社会団体(労働組合、協同組合、共産主義青年同盟すなわちコムソモール、作家同盟、企業など)を指導します。具体的には、共産党はソ連社会のあらゆる組織の中に三人以上の党員がいる場合、党グループを組織してそれぞれの機関内で党の政策を実現することが党規約61条で定められておりました。つまりはソ連のあらゆる組織の中には党組織が張り巡らされておりまして、この党組織が共産党の方針を貫徹・実現していたのです。

 ただし、共産党が行なうのはあくまで「政治的指導」でして、各種国家機関・社会団体が行なう業務まで、党組織が行なうことは戒められておりました。党規約においても、党規約60条において、「党組織は、ソビエト、労働組合、協同組合やその他の社会団体にとって代わるようなことがないようにし、党機関の機能と他の機関の機能の混同を避け、活動上の不必要な重複を許さない」とあります。

 さて、この強大な権限をもつ共産党の党中央機構の役職ですが、書記局は、党の日常業務を処理し、内外政策の立案(書記局で決められた事案が政治局に持ち込まれます。)、党の決定の履行状況の監督と指導、要員の選抜と配置(つまりは人事権を握っています)を行ないます。通常10人内外の書記で構成されます。

 政治局は共産党中央委員会の総会から総会までの間の党活動を指導する機関で、事実上ソ連の内政・外政全般にわたる基本方針を決定します。メンバーは正局員(16人以下)と局員候補(9人以下)から構成され、局員候補は評議権はありますが、評決権はありません。政治局局長という職はないので、書記長が議長をつとめることになります。

 つまりは、書記局が立案し、政治局が決定するということで、書記局も政治局もその長は書記長が兼任します。つまり、共産党が国家を強力に指導するソ連においては、党を牛耳る書記長が全権を握るということになります。ソ連首相といえども、政治局の判断がくだらない限りなにもできないわけです。

 当時書記をやっていたスターリンは、この時党内人事をつかさどっていた信頼度・資質・党歴によって国家機関の党員を配置する組織局員を兼ねます。スターリンはのちに政治局員にも任命され、当時の共産党の中央機関三局全てに籍を置き、意思決定機関と執行機関双方に足場を占めることとなりました。これにより党内での圧倒的な立場を獲得し、地方執行委員会の書記などに自分の味方を配置することで、地方人事もやはり地方書記が握っていますから、書記をスターリン派で押さえれば、人事的にはすべての地方党員をスターリン派で固めることが可能です。このように、党組織を全て自分のシンパで固め尽くすことで、スターリンは自らの地位を不動のものとし、ポストレーニンの筋金入りの古参党員達との熾烈な権力闘争を勝ち抜いたのです。

 さて、ヴェルサイユ講和条約ですが、最初はドイツはアメリカ大統領ウィルソンの主張する無賠償・無併合を訴えた講和を念頭において、ウィルソン宛に休戦・講和を申し入れました。ウィルソンとロイド・ジョージは、ロシアの内戦が終結した際、この講和会議にロシアの各勢力を招待しようとしたのですが、ボリシェヴィキのフランスでの共産主義猛宣伝を恐れたクレマンソーが反対します。こうしてロシアの各勢力のパリ入りが不可能となったので、ウィルソンはロシア国内の政治団体に対し、ラジオ放送でマルモラ海のプリンキポ島で会合を開くよう提案しました。しかし、内戦で正直それどころではないボリシェヴィキはこの話を断ります。

 ところが、いざヴェルサイユ会談が始まってみると、二十数カ国の連合国側の交渉は、結局フランス大統領クレマンソー、イギリス首相のロイド・ジョージ、アメリカ大統領ウィルソンの三人が事実上取り仕切ることとなり、さらにはイギリスとフランス、とくにはクレマンソーの対独恐怖がウィルソンを押し切る形となり、ドイツに対するどう考えても支払不能な天文学的数字の賠償金、海外領土の全部、ドイツ本国の一部ですが、資源豊かな部分、徴兵禁止と極端な陸海軍の軍縮によるドイツの非武装化、ドイツの重要工業地帯ライン川沿い右岸50キロ、左岸全域の非武装化、などなどが決定され、対独報復措置の異常に強い講和条約となってしまいました。

 さて、大戦の後始末をつけた資本主義諸国は、共産主義の各国への伝播を恐れた共産党政権転覆、大量のロシア公債の担保であるソビエト資産の保護などがメイン目的の、本格的なソビエト干渉戦を始めます。例えば、1883年、ロシア公債の大量引き受け(20億フラン分)を行なったロスチャイルドのパリ分家は、その功績でロシア政府から、バクー油田の経営を許されます。ところが、ロスチャイルドは1914年、バクー油田をロイヤル・ダッチ・シェルに破格の値段で売り渡し、ロイヤル・ダッチ株10%、シェル株24万ポンド分を手にします。

 すると1917年には10月革命が成功し、外国資産が接収される恐れが出てきました。結果から言うとバクー油田は接収され、このときの損害と、ロスチャイルドの株式購入の結果、ロイヤル・ダッチ・シェルはロスチャイルドのパリ分家に資本を握られてしまいます。この場合ロスチャイルド家はうまく共産革命の波をすり抜けたどころか、ロイヤル・ダッチ・シェルまで傘下におさめてしまいますが、割を食ったのがロイヤル・ダッチ・シェル経営陣です。このような資本家を救う目的もあり、干渉戦は始まったのでした。




  


白軍の三将

(左)アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コルチャーク
Колчак, Александр Васлыевич
1873-1920

(中)アントン・イヴァノーヴィチ・デニーキン
Деникин, Антон Иванович
1872-1947

(左)ピョートル・ニコラエヴィチ・ヴランゲリ
Врангель, Пётр Николаевич
1878-1928




 1918114日、当時ロシア国外にいた元黒海艦隊司令官コルチャークが連合国側に支援され、中央シベリアのオムスクに入ってカデット勢力の打ち立てたウファー執政政府の陸海軍大臣となり、さらにクーデターを起こして実権を握りました。これで中部シベリアは白軍の領袖コルチャークが押さえ、東部シベリアは日本とアメリカが押さえたことになります。1122日、ウィンストン・チャーチルの提唱で連合艦隊が黒海に入りました。19193月から攻勢を開始したコルチャーク軍は赤軍東部方面軍の第五軍を壊滅させました。これをみたイギリス政府は5月にコルチャークをロシア政府として承認します。同じくフランスも1217日、6万の兵をオデッサに上陸させ、干渉を試みますが、パルチザンに苦しめられ、さらには厭戦気分に満ちた自国兵に反乱を起こされ、19194月に撤退します。

 軍事人民委員トロッキーはまたしても陣頭指揮をとり、4月末から反攻を開始、1919528日、再建した赤軍第五軍を率いてウファーでトハチェフスキーがコルチャーク軍と激突、赤軍の勝利に終わり、コルチャーク軍から25千の投降者が出、6月にはコルチャーク軍攻勢以前の勢力まで持ち直します。ここから赤軍は追い上げ、717日には赤軍はウラル山脈を越え、24日にはチェリャピンスクを陥落させました。この功績でトハチェフスキーは赤旗勲章をうけました。この2ヵ月後に赤軍はコルチャークの根拠地オムスクまで迫ります。

 コルチャークの退潮が決定的となったと見たイギリスは10月に撤退し、11月にはコルチャークはオムスクを放棄し、イルクーツクへ首都機能を移転します。しかし、12月末には赤軍がイルクーツクへ侵入、激しい市街戦が展開されますが、白軍内部の分裂も手伝って(イルクーツクのコルチャークの守備隊が叛乱を起こしたのです)19201月にコルチャークはイルクーツク軍事革命委員会に引き渡されます。そこでアメリカが撤兵を日本に通告して撤退し、フランス軍、イタリア軍、中国軍もこれに続きましたが、日本軍は1922年まで残留します。コルチャークは略式裁判の後に2月銃殺されました。

 ちなみにコルチャークはロマノフ朝の財宝を抱えて都落ちしましたが、この財宝は日本軍が支援したザバイカルコサックのセミョーノフが自分の根拠地のチタに運んでおりました。時の日本の蔵相高橋是清は金本位制導入下における対外決済用準備通貨をどうやって拡充するか頭を痛めておりましたが、このコルチャークの残した財宝の話を聞きつけると早速行動を開始します。日本軍を動かし、チタから金の延べ棒に代えられていた財宝をハルビン経由で旅順に持ち出し、朝鮮銀行(旧日本債権銀行)大連支店から門司、神戸を経由して大阪造幣局に売却され、金貨に鋳造しなおされました。これははっきりいって日本軍によるロシアからの金塊強奪でして、正直なところ、返却すべきものであると個人的には考えます。


    〜 4. ウクライナの戦火ー内戦本格化 〜    

 これでほとんど外国軍は撤退し、中部シベリアはボリシェヴィキが支配したわけですが、ところが危機はこれでは終わらず、今度はロシア南部で、ドン・コサックの支持を集めた旧ロシア帝国軍将校デニーキンが白軍を組織し権力を握ります。一方キエフでは、ドイツ降伏でウクライナから撤退したドイツ軍に変わって誕生した、中央ラーダの残党で結成されたペトリューラ率いるディレクトリアが支配権を握りました。トロッキーはコルチャークを破ったばかりのトハチェフスキーを南部方面軍司令官として任命、19191月ボリシェヴィキの軍がキエフに迫り、ペトリューラはキエフを放棄し、赤軍がキエフを占領します。ちょうどそこにデニーキン将軍が現れ、赤軍を破りました。これに歩調を合わせてペトリューラはボリシェヴィキに反攻を開始し、8月にキエフを占領することに成功します。ところがすぐさまデニーキンの軍がキエフに迫ったため、弱体なペトリューラはキエフを放棄し、デニーキンがキエフを占領することになりました。

 19197月デニーキンは、モスクワ指令を発し、モスクワを目指してウクライナを北上します。デニーキンの軍は103日にはヴォロネジを占領、13日にはオリョールを占領して、モスクワに迫りました。ほぼ同時期にユーデニッチ率いる反ボリシェヴィキ軍がバルト海方面からペトログラードに迫ります。1015日の政治局はペトログラードは明け渡さないと宣言しましたが、首都モスクワを守るため、トゥーラ地区を優先し、ペトログラード放棄もやむなしの態度を見せます。

 ボリシェヴィキ最大の危機でしたが、しかし赤軍は、現地のパルチザン部隊の抱きこみに成功します。こうして赤軍が丸め込むことのできた、元徒刑囚で、アナーキズムの黒旗を掲げるネルトル・マノフ率いるウクライナ農民パルチザン部隊は、デニーキンの武器補給を奪い、デニーキンの致命的な戦力低下をもたらしました。結局トゥーラ地区での激戦の後、デニーキンは撤退を開始します。ペトログラードにはトロッキーが赴き、なんとか町は持ちこたえました。

 こうして赤軍は粘りに粘って攻勢を開始し、10月にキエフを占領、しかしその10月中にデニーキンがキエフを奪取しますが、12月、さらに赤軍がキエフを再占領します。ところが19205月、チフスの伝染で更に弱体化し、ポーランドに逃げ込んだペトリューラが、ポーランドと合同して誕生したポーランド・ペトリューラ連合軍がキエフを奪いました。しかし、最後まで粘った赤軍が、6月にキエフを制圧します。デニーキン軍は、19203月、東南正面軍司令官トハチェフスキー率いる赤軍にコーカサスで破れ、壊滅し、デニーキンはアメリカに亡命します。

 白軍、ペトリューラを破った赤軍は、最後にウクライナに残った勢力、マノフの黒軍の壊滅(赤軍に協力したにもかかわらず…)に着手します。19218月、トロッキーらの赤軍は、黒軍の拠点の村を非戦闘員ごと包囲殲滅しました。マノフは海外逃亡し、フランスのルノーの機械工となって一生を終えました。

 こうしてロシア南部の内乱が終わりかけ、19201月に、連合国側はロシア・ソビエトに対する経済封鎖を解除します。この対ソ融和的な措置は、ヨーロッパ列強があまりにソビエトを痛めつけて崩壊させてしまうと、将来ドイツがロシアを植民地化し、再びフランスに立ち向かってくる可能性を危惧したクレマンソーの思惑によるものでした。また、同じくクレマンソーの提案で、ヴェルサイユ条約第116条に、「連合国及びその連合国の与国は、この条約の原則に基づいて、損害賠償及び補償をドイツに請求する権利を明確にロシアに留保する」と規定し、ソビエトをヴェルサイユ体制に含めようとするがごとき動きがなされます。クレマンソーに引きずられたロイド・ジョージも「ロシアに平和を保つことなしには平和は保たれない」と発言し、こうしてソビエト政府とヴェルサイユ体制の間で外交交流が始まりました。

 とそのとき、今度はロシア西部で問題が発生します。1920425日、ポーランド国家主席ピウスツキ元帥が、ウクライナへの総攻撃を命じ、56日にはキエフを占領します。このヴェルサイユ条約の民族自決の方針によって復活を遂げたポーランドですが、なぜこの国家を連合国側首脳が許したかというとそれにはやはりヨーロッパ列強の思惑がありました。

 ヨーロッパ列強から言わせれば、小国にも独立が許されたのは、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国、ポーランドおよびウクライナが独立国とし、これらの一続きの国の鎖が、ボリシェヴィキからの「防疫線(クレマンソーがそう呼びました。)」としてヨーロッパを守ることが期待されたからです。さらに、それらの小国家群の要として、ポーランドが、ドイツ領内に深く食い込む強力な国家となってドイツを押さえ込み、さらにはロシアに対するにらみとなってほしいがためでした。

 ともかく、ポーランドは、ヨーロッパの安定に貢献するどころか、ポーランドの勢力を旧ロシア帝国領だったウクライナまで伸ばそうと、キエフに侵攻、ソビエト政権にけんかを売り、東欧に戦乱を巻き起こしたのです。

 第一次大戦後崩壊したハプスブルク=ロートリンゲン家支配のオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下にあった中・東欧の諸民族ですが、ウィルソンの民族自決の原則とクレマンソーの「防疫線」構築政策により、小国乱立状態で独立を達成しました。しかし、先走ってしまいますと、それらの小国たちは、ヨーロッパが風雲急をつげるなか、大国と張り合って独立を守ることができようはずがなく、その後のナチスドイツの勢力拡大の前に屈し、さらにその後のソ連勢力の拡大の前に飲まれて、現在(2005年)では、ソ連が崩壊し、ロシアの力が弱っているいまのうちに、西ヨーロッパ地域の集団安全保障機構EUに加盟を認めてもらい、なんとか独立を保とうとしている状態です。確かに独立は勝ち取ったものの、オーストリア=ハンガリー二重帝国という力強い傘を失い、後に周辺の強国の成すがままとなった中・東欧諸国を見ていますと、傍目には、独立したがよかったか、ハプスブルク家の支配が存続したほうがよかったのか、私にはなんとも判断がつきません。







ヨゼフ・ピルスツキー
Юзеф Пилсудкий
1867-1935

ポーランド軍人、大統領、独裁者
赤軍をポーランドから駆逐し、最後まで権力の座に着く




 話を戻しますと、ポーランドは血迷ったか、というところですが、ともかくこの危機に対処するため、ソ連側では赤軍総司令官カーメネフは、1914年アレクサンドロフ陸軍士官学校を卒業し、1918年入党の27歳の旧ロシア帝国軍人、デニーキンを破ったトハチェフスキーを西正面軍司令官に任命して、ポーランド軍に当たらせます。トハチェフスキーは7月にミンスクを陥とし、727日にはカーゾン戦を越え、831日にはワルシャワ正面に進出します。







レフ・ボリソヴィッチ・カーメネフ(本名ローゼンフェルト)
Каменев(Розенфельд), Лев Борисович
1883-1936

モスクワ大出のインテリでトロッキーの妹を妻とする
ジノヴィエフと同じくスターリンとの権力闘争に敗れ粛清される




 トロッキーは赤化目的の軍事侵攻に反対しましたが、レーニンは、軍隊による共産革命の世界波及の観点からこの赤軍の快挙を喜びました。そのときのボリシェヴィキ首脳の興奮を、第二回コミンテルン議長ジノヴィエフは以下のように語っています。

 ー「会議場には大きな地図がかけてあり、その地図の上に、毎日、われわれの軍隊の前進がピンで示された。そして毎日、代議員達は夢中になって地図のまわりに集まった。このことはある程度まで象徴的であった。国際的プロレタリアートの最善の代表達が、夢中になってー心をわしづかみにされてと形容してもよいーわれわれの陸軍の進撃を追っていたのである。

 われわれは、もしわれわれの陸軍の前に課せられた戦争の諸目的が達成されたならば、このことは国際的プロレタリア革命の莫大な加速化を意味したであろうことを、皆完全に了解した。われわれは皆、われわれの赤軍の前進の一歩一歩に、文字どおり国際革命の運命がかかっていることを把握した」ー

 これに対し、せっかくソビエトに対し融和的になっていた連合国側は反発し、ロイド・ジョージはポーランドへの攻勢を中止せねば経済封鎖を再開するといい、フランスは軍事顧問を派遣します。このフランスの派遣した軍事顧問ウェーガンの指揮のもと、反ロ感情が爆発したポーランドは反撃し、ワルシャワ正面に進出した赤軍を破り、赤軍は7万の捕虜を残して遁走します。結局、リガでポーランドとソビエトとの停戦交渉がもたれ、ソビエトは領土を割譲して10月停戦協定が結ばれました。さらに、デニーキンの後継者であり、クリミア半島を根拠地とするバルト・ドイツ人のヴランゲリ将軍率いる白軍がさらに反乱を起こし、モスクワを目指して北上しますが、最終的に赤軍のフルンゼによって鎮圧され、ウランゲリは西ヨーロッパに亡命しました。事実上の内乱・干渉戦の終わりでした。







ミハイル・ニコラエヴィッチ・トハチェフスキー
Тухачевский, Михаил Николаевич
1893-1937

内戦・干渉戦時代に活躍、赤軍の機械化に貢献
元帥まで昇進するが赤軍粛清時に処刑





 実際アメリカも、19201月、ソビエトからの撤退を表明します。しかし日本は残留を決定し、アムール川のニコラエフスクに共産党のパルチザンが入ったので、これを撃退しようと日本守備隊が日本居留民と共に攻勢をかけたところ全滅し(尼港事件)、その事件に対する保護占領の名目で7月サハリン島北部に進撃しました。

 さらに19213月、クロンシュタットでかつて皇帝専制に反対して蜂起した水兵が、今度はソビエトの自由選挙、共産主義者のいないソビエト権力を目指して反乱を起こします。トロッキーとトハチェフスキーが赤軍を率いて凍結したフィンランド湾を渡り鎮圧しました。また、シベリアで先年発生した農民反乱が拡大し、赤軍の正規軍の侵攻と毒ガス使用によるゲリラ壊滅作戦が行なわれました。

 尼港事件の直後、日本軍との衝突を避けるため、レーニンの指示でバイカル以北に極東共和国なる緩衝国家が出現します。192046日、極東共和国建国宣言が採択されました。首相兼外相はクラスノシチョーコフ、首都はヴェルフネウジンスク、のちにセミョーノフが敗走してからはチタに移りました。極東共和国と日本軍は停戦交渉を始め、1921427日に極東共和国はソ連に先駆けて憲法を制定します。192210月になってやっと日本軍が完全に東シベリアから撤退した後は、極東共和国もロシア共和国連邦に併合されます。これが、内乱・干渉戦の完全終息です。







アレクサンドル・ミハイロヴィチ・クラスノシチョーコフ
Краснощёков, Александр Михайлович
1880-1937

極東共和国建国者、スターリンにより粛清



   


国旗(左)と国章(右)




 この時代あたりから、今はもう亡くなられていますが、当時を生きていた人の話を、その周りにいた人、例えばご存命のその人の御家族、から聞くことができます。ここでは、内乱・干渉戦時代の雰囲気を少しでも感じることができればと思い、この内戦にまつわる、ある亡命白系ロシア人方のお話を書かせていただこうと思います。ただ、そのとき僕はメモや録音機材などを用意しておらず、しかも何年も前の話ですので、正確な部分には間違いがあるかもしれません、そのときはどうぞご容赦願います。しかし、その話をドキュメンタリー仕立てでできるだけ忠実に再編成し、紹介させていただいてこの章を終わらせようと思います。

 それは、とあるパーティーの席でのことでした。あるロシア語が達者な、人品卑しからぬ紳士の方が来ておられ、やさしい方だったので、そのお人柄に甘え、お話をさせて頂いておりました。

 そして私が、どうしてそんなにロシア語がうまいのですか、その方にお尋ねしたところ、「ああ、母がロシア人だったもので」とのお返事でした。このお年で御母堂がロシア人ということは、と思い、僕が「御母堂様は白系ロシア人の方だったのですか。」と尋ねると、「白系ロシア人について知っているのですか」と聞き返されましたので、「ええ」と答えると、以下のようなお話をして頂きました。


 ー…ええ、母は白系ロシア人だったんですよ。母の父は騎兵隊長だったそうです、白軍の。でも、私の母の父、つまり私の祖父ですが、は好きで軍隊に入ったわけじゃない。入らざるを得なかったんですよ。戦争で学校は閉鎖されてるし、働こうにも工場や商店はみな閉まってるし、農地をもってたわけでもない。そこで14歳の時に騎兵隊に入ったそうです。軍隊に入ればとにかく食料は支給されるし、給料も出るから家族も養えますしね。

 戦闘で、故郷を出て、各地を転戦したそうですよ。そうして祖母に会って結婚して、家族もできて。でも、だんだん赤軍が押してきて、とうとう白軍が負けて、父と家族に逮捕状が出たんですよ。このままでは赤軍の政治警察に逮捕されてしまう、そうなったら、どうなるかわからないから、祖国から脱出しようということになったんです。

 で、満州へ逃げようということになったんですよ。でも国境を越える時、家族で固まっていると目立つから、ばらばらに満州に入ろうと。そしてハルピンで待ち合わせるということにしたんです。で、母は苦労してソ連と中華民国の国境を越え、なんとかハルピンにたどり着きました。でも、待っても待っても、ハルピンには、父親を始め家族は誰も現れなかったそうです。母と家族とは、それっきりだということです。

 母は苦労して満州で生きて、日本統治下の満州国で日本人と結ばれて、そうして生まれたのが兄や私です。で、やっと生活が軌道に乗ってきたら、こんどは第二次大戦で、ソ連軍が満州国境を突破して攻め込んできましてね…。

 母は苦労を重ねて、それから一度も故郷を訪れることなく、日本で、異国の地で亡くなりました。異国で誰も親戚が居らず一人ぼっちで、母はいつもさびしそうでした。そんな母が本当にかわいそうでね…。母は最後までボリシェヴィキズム、レーニンに対する憎悪を抱いて亡くなりました。私もなかなかその気持ちが抜けなくてね、でもそのソビエトもなくなっちゃってね…。ー


          〜 5. ネップの導入 〜

 多大の犠牲を払って終息した内戦・干渉戦後に、ソビエト経済を立て直すべく、レーニンの提案でネップ(НЭП, новая экономическая политика)が推進されます。これは一言で言えば、国家経済の挫折による資本主義的経済への回帰で、党員から批判があったものの、現実的にやむをえない選択でした、一歩前進、二歩後退というわけです。クロンシュタットの反乱が示す如く、戦前の13%の水準に落ち込んだ工業生産、1916年に比べ半分に落ち込んだ穀物生産量、この負担に国民はもはや耐え切れず、生産を高めるために、個人個人の利益に訴え、資本主義的傾向を復活することをレーニンが決定したのです。

 具体的には、農業政策としては、1921年の第十回共産党大会によって、評判の悪かった農産物の割当徴発制度から、現物税制度に変更し、農民の手元に残る農産物の市場での売買を許可します。工業部門では、小工業・家内工業の国有化を断念し、国家から受ける給付を削減するかわり、大企業は自由市場で工業製品を売り払うことでの運転資金調達を許可しました。英露連合国を結び、バクー油田やグロズヌイの油田を外国人にも開放し、もはや資本主義とあまり変わらぬ政策を取り始めたのです。もちろん、経済・工業を統括する無策な国家機関を監督すべくゴスプラン(国家総合計画委員会)も設立されました。

 そして、とどまるところを知らないインフレを収束させるべく、ルーブルと平行して、新貨幣単位「チェルヴォーネツ(=10ルーブル)」を制定します。もともと帝政ロシア時代においてチェルヴォーネツとはピョートル以前のロシアで外国金貨のこと、帝政ロシア時代では3ルーブル金貨、口語で510ルーブル金貨のことでしたが、このチェルヴォーネツはなんと兌換紙幣です(本によっては兌換性はなかったと書いてありますが、実際の紙幣には「金との交換義務に服す」と書いてありますし、チェルヴォーネツ金貨も残されておりますので、少なくとも、ソ連政府は交換の準備は整えていたのは間違いありません)。







1チェルヴォーネェツ
(表)





(裏)




 このチェルヴォーネツは、企業と経済機関に銀行が担保(金、外貨、消費財もOK)を取って貸付を行う、という形で発行されました。しかも発行高の25%は法より金貨もしくは外貨を担保にせねばならなかったため、通貨膨張に歯止めがかかります。こうして担保と国による金準備高による二重の制限がかかり、これは厳格に守られたため、つねにチェルヴォーネツの発行高は抑制されました。しかし、こうした価値の高いチェルヴォーネツを国民が隠匿し始めると市場に流通しなくなってしまうので、チェルヴォーネツの返済はチェルヴォーネツで行うこと、また法人税その他の各種税金はチェルヴォーネツで支払うことを定め、チェルヴォーネツの還流の道を作ったのです。

 こうしてチェルヴォーネツは珍しくも良貨が悪貨を駆逐することとなり、1923年秋には流通貨幣高の3/4におよびます。また、1922年には豊作に恵まれ、1922年に農民の現物税制度は軽減され、19231924年には貨幣による納税に移行します。古い流通紙幣も1チェルヴォーネツ=10ルーブルというレートで流通から撤去され、予算もチェルヴォーネツで組まれるようになります。

 安定した経済状況の中、ネップマンと呼ばれた資本家、クラーク(富農)と呼ばれた地主が、共産体制の中で合法的に発生することとなりました。しかし、このネップによりソ連経済は息を吹き返し、1925年には重工業生産が戦前の75%に回復、農業生産は1922年から1925年に64%増加します。原則には忠実でも戦術には柔軟ないかにもレーニンらしいやり方です。

 また、第十回党大会後に党員の行状の点検(チーストカ、чистка)が行なわれました。これは党内から旧エスエル党員・メンシェヴィキを締め出し、ボリシェヴィキの古参党員の権限を強め、さらには党内体制の強化を狙ったものでした。

 外交関係では、共産革命沈静後、ヨーロッパ諸国と国交回復をもくろみ、イギリス首相ロイド・ジョージも戦後のイギリス復興計画の一環として、ソビエトとの通商をもくろんでいましたから、外務人民委員のチチェリンを通じてソビエトと資本主義諸国の協定(ヴェルサイユ体制への加盟)を決める国際会議案が浮上します。

 ロイド・ジョージはカンヌで連合国最高会議を開催し、連合軍側がドイツも含め、対ソ借款団を結成し、ソ連と会談を行なうことを提案します。しかしドイツ内部で、ビスマルク時代から続くドイツ重工業製品のロシア国内の寡占状態を脅かされることに対する反対があり、またヴェルサイユ条約はソビエトのドイツに対する賠償請求を認めていましたから、ソビエトが会議で第一次大戦でのドイツに対する賠償請求を持ち出すおそれが懸念されたことなどによる借款団計画への反対意見が出ます。更にソビエトは、このような連係プレーで迫ってくるヨーロッパ資本主義国に畏れをなし、けっきょくこの対ソ借款団の話はお流れとなります。

 それでも、カンヌ会議では、戦後のヨーロッパの経済復興のための国際会議をジェノヴァで開催することが決められ、戦勝国のみならず敗戦国のドイツ、オーストリア、あるいはブルガリア、ソビエトなども招かれることが決定されます。こうしてソビエトと資本主義諸国の会談は結局はジェノヴァで開催されました。外務人民委員チチェリンがこの会議に出席しますが、会議そのものはやはり不調に終わります。

 ところがジェノヴァ会議の最中、ソビエトは、英仏の頭越しに、ヴェルサイユ条約で一方的な賠償負担を押し付けられ、ヨーロッパで孤立するドイツと1922416日、ラパロ条約を結ぶことに成功します。ドイツ外相ラーテナウ(彼自身はこの条約に反対でしたが)とソ連外務人民委員チチェリンとの間で結ばれたこの条約で、ソビエトがドイツに対するヴェルサイユ条約での賠償請求権を放棄するかわりに、ドイツはソビエト国内のドイツ資産に対するドイツの請求権の放棄を決定し、独ソ国交回復が取り決められました。







ヴァルター・ラーテナウ
1867-1922

ワイマール共和国復興に尽くすも暗殺される




 ちなみにラーテナウは、もともとドイツ有数の大企業AEG(一般電気会社)の社長であり、第一次大戦中、請われて戦時原料局局長に就任しますが、現状のまま放置しておけばドイツの物資は数ヶ月で底を尽くことを見抜き、原料物資の生産と調達の徹底的な組織化・計画化を行ないます。実のところ、この戦時社会主義の原料部門への確立をヒントにレーニンが行なったのが、例の戦時共産主義(のちの計画経済にその考えは引き継がれました)です。

 ドイツ国防軍とソ連当局の間で、軍事交渉はすでに1919年からはじまっていましたが、この条約をてこに、のちにはソ連赤軍のドイツでの訓練、ヴェルサイユ条約でドイツに禁じられた、ソ連領内での航空基地、毒ガス試験場の提供などがなされました。こうしてソビエトは、水面下では曲がりなりにもドイツとの交渉をもつことで完全なる孤立状態からは脱出します。

 しかし、ネップにも限界がありました。先走って言ってしまいますと、1920年代後半から、国家の強力な行政指導で誕生した各種産業での国有企業・トラスト部門は圧倒的な独占を生み、価格を吊り上げ始めたのです。ソ連政府は「指標価格制度」を導入し、物価を統制しようとしますが独占企業は馬耳東風、あまりの値上がりに商品が売れず、生産が在庫の積み増しになる状態でも値段を落とさず物不足、せっかく農作物を売っても商品のつり上げで実質価値が下落した紙幣で受け取るのは冗談じゃないと農家は売り惜しみをはじめ、またもや穀物危機の様相が漂い始めました。

 この危機を乗り越えるため、政府は市場原理に全面的に介入、1927年ごろには生産計画はゴスプランが決定、投資計画は大蔵省と国立銀行が決め、調達・供給は商業省が統括するようになりました。「定価表示」という形ですでに物価統制も行っておりますから、これでネップは息の根を止められ、完全に統制経済に突入したことになります。