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ー子貢曰く、紂の不善は、是の如くこれ甚だしきにあらざりしなり。是を以て君子は下流に居るをことを悪む。天下の悪、皆なこれに帰すればなりー
世界初の共産党政権がこうしてロシアに誕生しましたが、前途は多難でした。そもそも資本主義国は、共産主義建設をめざす国家の存続を許すわけには行かず、ヨーロッパ諸国と国交こそ開けたものの、ヨーロッパにおけるロシアの外交上の事実上の孤立は避けられないものとなり、ロシアは極めて厳しい外政の舵取りを迫られます。
また、ピューリタン革命、フランス革命、中国の易姓革命(つまり王朝交代時)などの、あらゆる革命につきものの、革命の功臣の粛清の運命がロシア政界を待ち受けていました。革命の功臣は、往々にして多大な栄誉と破格恩賞にあずかって確固たる地位を占め、その子孫は次世代の最大の特権階級として政界に牢固たる地位を築き上げるものです。また、革命新政権の功臣たる革命家とは、既成の秩序を破壊し、現状を大転換させて新時代を開くことは得意な人ではあっても、既成の秩序を効率よく管理維持していくことの得意な人とは限りません。「狡兎死して走烹狗らる」とはまさにこのことです。
さらにはこの時代のロシアには、戦争による時の政権崩壊で途絶してしまい、結果として帝政時代の政治家達がやり残した宿題、農業国から工業国への転換、つまりはロシアの工業化という難事業が残されていました。工業化への転換には、由来強権の発動がつき物です。ドイツ帝国の産業革命には鉄血宰相ビスマルクあり、フランスの工業化にはナポレオン3世第二帝政あり、日本の近代化には、極めて中央集権的な明治政府の力が必要でした。
もちろん帝政ロシア時代にも、歴代蔵相による工業化の試みは行われました。フランスとの外交関係を良好化させ、それどころか、ある程度フランス外交の膝下に屈するのをやむなしとした上でのフランス市場での起債による資本導入。ヴィシネグラツキーの、フランスで起債と穀物を徹底的に輸出にまわすことによる工業化の資金捻出。または、ウィッテの、フランスで起債しその資本を鉄道敷設に投入することで、鉄鋼生産・鉄道用部品制作を通じた工業界全体の刺激を図る。さらにはアジアとヨーロッパを結んだシベリア鉄道完成の暁には、イギリスが仕切っていた、船によるアジアとヨーロッパの物流を、はるかに運輸スピードの速い鉄道で駆逐し、運送・旅客業関連の収入で債務返済と資本主義化をはかろうというもの、などです。
しかし、特にことを急ぐなら、あらゆる過渡期には特有の問題が発生します。この二人の蔵相の下での工業化の過程で発生した問題は、飢餓、恐慌による労使問題の発生でした。で、このような問題が発生したときのツァーリ政府の対応は、責任者を首にして、朝野の不満を解消し、さらには近代化政策を頓挫させることで、問題の先鋭化に一息つかせる(先送りする、ともいいますが)ものでした。結局のところ、やはり、臣民に対してそんなえぐいことは強制できなかったのでしょう。
したがって、帝政ロシア下ではその工業化は満足に進まず、それどころか大戦でツァーリ政府そのものが崩壊してしまいました。そこで近代化の途絶という負債を返済すべく、実力で時の政権を打ち倒し、実権をもぎ取ったという最高の権威と権力をもって、腹をくくって犠牲と悪評を覚悟で工業化を貫徹したのが、初期のソ連政府であり、当時の指導者スターリンでした。これらのすさまじい流血をともなう事業は、まさに革命政権下でなければ、これほど短期にこれほど徹底的はなしえなかったことでしょう。
外交的孤立からの脱出、革命家から能吏への政界再編、ソビエトの工業化達成、この三つの重圧が全てスターリンの双肩にかかることとなりました。しかも、やむにやまれぬ事情があったとはいえ、レーニンは大見得切って戦争から単独離脱し、結果的に帝政ロシア時代の借款を踏み倒しましたから、当分は誰もお金を貸してくれず、今度は自前の資金のみで工業化を行なわねばなりません、革命騒ぎで国の金庫は空です。この問題の解決策として、レーニンはネップを提唱しましたが、後で述べるようにこのネップは結局行き詰まりを見せ(平たく言うと失敗が明らかになり)、新たな代案を示すことなくレーニンはあの世へ旅立ってしまいました…。
翻って本朝、わが日本の近代化はどうやって成し遂げられたのかといいますと、帝政ロシアよりはるかに信用が乏しく、借款は厳しい状態でしたから自前で輸出できるもので、資金を獲得しなければならなかったのです。そこで、明治政府にはいいものがありました、それは絹と銅です。シルクロードという言葉が示すとおり、絹はもともと東洋で発達したものですから、軽工業製品としては、この絹が当時の日本の技術でも唯一欧米製品に太刀打ちできる商品なのでした。また、銅ですが、金・銀・銅は同属元素といいまして、性質が似ておりますし、産出場所も似ております。江戸時代に掘りつくしたとはいえ、日本はもともと金銀が大量に出る国であり、黄金の国ジパングというのもまんざら嘘ではなく(当時の金銀の比価がそれを物語っております)、したがって銅は明治時代まだまだ産出し、絹同様、これまた明治政府の重要な収入源のひとつでした。絹と銅で予算を組む以上、女工哀史があろうが、足尾鉱毒事件があろうが、近代化まっしぐらの明治政府にとってはやはり聞く耳持てる状態ではとてもなかったのでしょう。しかし、被害者は被害者で厳として存在するわけで、進むも地獄、退くも地獄とは、まさにこのことです。
現在(2006年)、今度は世界に売り出せる民生品を開発できる国になろうと努力しているロシアでは、工業化の資金源として借款ではなしに、資源(特に石油とガス)の売却金を当てようと考えているようです。きわめて大雑把な話をすれば、資源なら地面を引っかけばでてくるものですから、工業製品を輸出するより元手ははるかに安く済みます。旧ソ連時代、この資源は、共産圏をまとめる戦略上の理由で、旧共産圏に安い値段で供給されていたものですが、覇権国家政策をとりあえずは放棄した今、今度は資源を、ホイットニーが提唱したとされる「部品の互換方式」を可能とする規格化部品開発のための治具や工具、またそれらを開発するための精密工作機器のノウハウを吸収するための資金源に使おうとしております。サンクトペテルブルクにトヨタ工場を建てたり、日産を誘致させたりなどは、みなこの目的によるものです。
話は飛びましたがソ連史に戻りますと、ですから、ないない尽くしの中(赤化して外資が逃げたため、おそらくこの時代、資源はあっても産出・精製のノウハウがないため資源輸出ができない状態です。)、工業化を急ぐとなると、どこかでものすごい出血が起こることが予想されます。しかも、これから国家主導の計画経済を行おうというわけですから、工場新設などの設備投資資金、運転資金からから労働者の給料まで、すべてを国家が負担しなければなりません。ある程度の監督・指導・優遇を行うにしても、大原則としては民活に任せて勝手に儲けさせ、経済を発展させようとする資本主義国とは工業化の必要金額の桁が違うのではないでしょうか。残念ながら正確なデータを見たことがないので詳細を知ることはできないのですが…。
もっとも、明治政府などでも払い下げられるまでは、工場なども官有物ですから、赤字から運転資金からすべてを国が抱え込まなければらない点では同じですからスタートラインの苦悩は同じかもしれません。しかし、もっとも問題なのは工業化が軌道に乗ったその後です。明治政府などは、経営が軌道に乗り始めたら官有物は払い下げ、後は野と為れ山と為れ、不採算企業はつぶれなさい、といえますが、ソ連はそうは行きません。失業者を出さないため、採算が取れない工場・国営企業支店まで丸抱えで、これをソ連のあらゆる工場・国営企業でやるわけですから、こういった不採算工場・企業の抱え込みは、後のソ連国家にとって膨大な負担となったのではないでしょうか。ブレジネフ時代の停滞は、このあたりがボディーブローのように効いてきたのが原因だったのではないでしょうか。
先走りますと、工業化に要する資金捻出のため、犠牲を食らったのは農村です…。1905年革命終結後の革命運動沈滞期の時代、資金難に陥ったボリシェヴィキにお金を提供するため、ボリシェヴィキの「戦闘団」(簡単に言えば銀行ギャングです。)に指示を与える役回りを引き受けたがごとく、ここでまたも汚れ役を演じざるを得なくなったのがスターリンです。彼は自分の生涯でこの仕事を全てやり遂げました。周囲の状況からやむを得ず、この三つの大変革を彼一代で行なった重圧は、国の上下に大変な犠牲を強いることとなりました。
工業化とは、真にそれを望むなら、どこの国でも、誰がやっても、国民のどこかの層へのしわ寄せと、とてつもない環境破壊を避けて通ることはおそらくできません。ですから、工業化とは、そもそもの始まりから、このような原罪を背負っているものだと僕は考えます。
しかし、飢餓発生、政治的粛清などは、間違いなく罪です。ソ連の工業化は、はたしてそれほどの罪を犯さねば達成できなかったことだったのか、あるいはあれだけの罪を犯しても、それを補ってプラスの面が出ることだったのか。いつになったら結論がでるのか、そもそも結論が出るような問題なのか、まったくわかりませんが、スターリンの下ですすめられた、ソ連政界の安定化・ソ連の工業化のやり方・資本主義国家群と対抗すべく結成した共産主義国家群の形成が、罪だったのか功だったのか、どちらが大きかったのかを、ともかく慎重に追っていきたいと思います。
〜 1. 奇跡のグルジア人ースターリンの生い立ち 〜
ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ、後のスターリンは1879年12月21日、現グルジアの町ゴリで生まれました。父親は靴直し職人のヴィサリオン・イヴァノーヴィチ・ジュガシヴィリ、母親はエカテリーナという名前でした。台所と部屋が一室という、非常につつましい生家であったということです。後の後の政治経歴が示すとおり、利発な少年でしから、この時期にすでにロシア語も母国語グルジア語と同様に話せるようになっていました。
数え年で10歳になったとき、ヨシフはゴリの町の神学校に入ります。そこを優秀な成績をあげると、今度はリスの神学12歳の時、チフ校に入学します。ところが、ヨシフはここで当時のすばしっこいあらゆる若者を襲った革命思想に目覚め、革命に関する文献を読みふけり、『ブルゾーラ(闘争)』なるマルクス主義者の団体を作った挙句、とうとう神学校を放校になります。
このころヨシフはコーカサスの英雄コバの名前を名乗るようになり、チフリス鉄道工場のストライキの指導を行ないます。ここから警察に追われる身となり、レフ・ボリーソヴリッチ・カーメネフの世話でエカテリーナ・スワニーゼとその姪ケケ・スワニーゼ(のちのスターリンの最初の夫人)の住む部屋へ身を隠しました。その後チフリスのメーデーを組織したり、するなどし、共産党活動に本格的に参加していくようになります。
そして、当局による逮捕・拘留・シベリア流刑などを経て、筋金入りの共産党員としての道を歩み始め、その活動は党の注目するところとなり、警察の手を逃れ、バクーへ逃げた時には、同盟罷業委員会書記に任命されます。さらにフィンランドのトラメルスフォルスで開かれた第三回全ロシア・ボリシェヴィキ会議でレーニンと面識を持ちます。この会議の後、レーニンは、コバに向かい、もっと印象的な名前をもつよう勧められ、「鋼鉄の人」という名前はどうかと提案されます。これがのちに、彼の使用した数多くの名前のうちの、もっとも有名な名前、スターリン(鋼鉄の人)の名となりました。
その五ヵ月後の第5回共産党大会において、スターリンは後に全面対立することになるトロッキーと始めて面識を持つに到ります。
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20世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
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〜 2.ネップの危機ー権力闘争開始〜
話をソ連政界に戻しますと、レーニンは死後、夫人のクールプスカヤの反対にもかかわらず、防腐処理を施され、1924年、世界遺産のいわいるレーニン廟に安置されました。1924年1月、レーニンの死後、いよいよ共産党の新航路を巡り、党内での権力闘争が始まります。まず、スターリンの手に落ちた書記局の審査の下、レーニンの死をきっかけに、厳正な入党審査を経ずに、大量の労働者を共産党に入党させた、「レーニン記念入党キャンペーン」を展開します。こうして共産党内には、共産党活動の非合法期、あるいは内戦・干渉戦の嵐をくぐりぬけた古強者でなく、そのような厳しい時期を知らない新人達が多数を占めることになりました。こうして、アメリカで、ピルグリム・ファーザーたちが、次から次へとやってきた新移民の波に埋没してしまったごとく、共産党の古強者達(オールド・ボリシェヴィキ)は、新人党員集団の中に埋没してく現象がここから始まったのです。
その彼等の前にあらわれたのがスターリンです。彼は1924年4月、5月に新党員集団の前で「レーニン主義の基礎について」という抗議を行い、彼等への影響力を確保しようとします。革命は終わり、いまだ磐石とはとてもいえませんが、ともかく一定の秩序が完成し、国家として成立した共産党政権を維持運営していくために、今後人材の入れ替えが起こります。国家を運営する幹部を、秩序の破壊は得意でも秩序の維持は苦手な革命家から、創造的な仕事は出来なくても、既存の秩序の維持運営には巧みな官僚的な人物に入れ替えること、これがスターリンの当面の目標だったのです。新たに大量入党した新人党員の中から、この目的に絶えうる人材がすくいだされ、これ以後の共産党エリートを形成していくこととなるでしょう。
さて、トロッキーですが、彼は共産党政権がネップに突入せざるを得なかった理由として、農産物価格と工業生産物価格の乖離(工業生産品価格の、異常な高値、鋏状価格差と呼ばれます。)を挙げました。国民の8割を占める購買層である農民が儲からない限り、工業製品を農民が買うことはなく、生産した工業製品が売れないことで、企業が利益を出せず、投資の元が取れず工員の給料も払えない。ネップは失敗し、このことから恐慌が発生すると予想していました。トロッキーの理屈が正しかったかどうかはわかりませんが、ともかく1923年夏には経済恐慌が発生します。
これを危惧したトロッキーは、しかし党内で孤立していましたから、自分の意見を党内に反映させるべく、「四十六人の政綱」なる文章を政治局に提出しました。この文章の内容は、共産党の経済政策の、計画経済からネップへの転換などの一貫性のなさの批判、書記長を筆頭とする党内ヒエラルキーの批判などであり、これは、海千山千の革命家達を押さえつけ、せっかく構築した党内秩序を崩壊しかねませんでしたから、1924年1月の第十三回共産党協議会で否決され、トロッキーの党内での孤立、影響力の低下は決定的となります。
そうして、宿敵トロッキーを追い込み、数の上での自分の影響力を確保すると、スターリンはいよいよ1924年6月、ジノヴィエフ、カーメネフを公然と批判します。騒然とするロシア政界を安定させるべく、トロイカ体制が解体され、「7人組」なる体制が発足します。トロッキーを除く全政治局員にクィブリシェフを加えたこの体制でなんとか混乱を収拾しようとしましたが、このとき孤立したトロッキーが、自分の論文集の序文で、ジノヴィエフ、カーメネフが十月革命直前、武装蜂起に反対していたというセンセーショナルな事実を暴露しました。例の、ジノヴィエフ、カーメネフがメンシェヴィキの新聞『ノーヴォエ・ブレーミャ』に、ボリシェヴィキの十月革命の契機となった、レーニンが秘密裏に進めていた武装蜂起計画を暴露してしまい、なおかつ二人はこの蜂起に反対であるという声明を出した例の一件です。
もちろんジノヴィエフ、カーメネフらの両人は革命そのものに反対だったわけではなく、未だ脆弱であったボリシェヴィキが、革命に失敗した際の(その公算は大いにありました)取り返しのつかない破滅を恐れたからです。しかし、共産党政権が確立し、あれほどひ弱だったボリシェヴィキズムが昔物語になり、新党員の増加で往時の事情をを知るが少数派となった今、共産党政権確立のシンボルともいえる十月革命に反対したということは、革命精神そのものに対する反対と受け止められたのです。
これによって自らの権威に致命的な傷をつけられたジノヴィエフとカーメネフは、革命前、レーニンとトロッキーが対立していたことを示す文章を持ち出し、トロッキーに反撃します。こうしてトロッキー、ジノヴィエフ、カーメネフらはおたがいに傷つけあって力を失い、スターリンが益々力を増してきました。
この状況を見たジノヴィエフ、カーメネフ、レーニンの妻クールプスカヤ、ソコリニコフらは1925年12月に開かれた第14回共産党大会で反スターリンの「新体制派」を旗揚げしました。かれらは書記長という党内の決定権を握る重要ポストについたスターリンの力に脅威を感じ、スターリンに対し団結する必要を感じたのです。社会体制的には、ジノヴィエフらの、後進国ロシアでは社会主義社会の実現は不可能であるという議論と、共産党きっての理論家ブハーリンと協力して、ロシア一国でも社会主義社会を成し遂げることが出来るというスターリンの「一国社会主義論」意見のぶつかりあいでした。
ジノヴィエフらは、工業化が革命で途絶してしまったロシアでは、まだまだ資本化がすすんでおらず、ロシアが真の社会主義・共産主義を成し遂げるためには、ヨーロッパ諸国に共産革命を起こし、ヨーロッパ全体を共産化した後、彼らの先進工業技術の輸入が不可欠だと説いたのです。あくまで共産主義実現をとなえるなら、なるほど、ごもっともな意見だと思います。
一方、スターリンらは「経済的および政治的発展の不均等性は資本主義の絶対的な法則である。ここからして社会主義の勝利が、始めには少数の資本主義諸国で、または単独でさえも、可能であると言うことになる」、というレーニンの思想を引用し、このレーニンの考えはロシアにおいて可能であり、ロシア一国の社会主義化も可能と主張したのです。少々苦しいですが、しかし、ソ連がヨーロッパ諸国に共産革命を、と息巻いている限り、ヨーロッパはソ連を警戒して国交を開いてくれないでしょうし、革命・内戦でよたよたとなったロシアを立ち直らせるためには何よりも内政重視で、外政で他国にちょっかいを出している暇はない、というのがスターリンの本音でしょう。なるほど、現実的な意見ではあります。
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ニコライ・イヴァノヴィッチ・ブハーリン
Николай
Иванович Бухарин
1888-1938
モスクワ大学法学部に学ぶ、党内随一の理論家
スターリン派となるが、のちにスターリンにより粛清。
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経済政策的な対立としては、主流派の主張は、農業生産の発達のスピードが遅いため、農民が農産物を売って儲けることができず、農民に購買力がなく、結果として農村の所得からすれば異常な高値の工業製品価格が生じ、農作物価格と工業製品価格の乖離が生じたのである。したがって、農業政策に重点を置いて、農業生産を高め、工業発達のスピードも緩めれば、農作物と工業生産品の価格乖離も解消する、というものであります。反対派の主張は、むしろ工業製品の生産が立ち遅れているため、工業製品が都市部のみに流通し、農村まで広まってかないため、農村における有効需要を生み出すことが出来ず、工業製品の欠乏が、工業生産品価格のインフレを引き起こしているということでした。
結局党大会で、「新体制派」は敗北し、カーメネフは政治局員から政治局員候補に降格されます。やがてカーメネフはコミンテルン執行委員会議長を解任され、ブハーリンがその後を襲いました。しかし反対派は主流派に対する反対を止めず、ジノヴィエフ派とトロッキー派が合同して、「合同反対派」を立ち上げます。強敵スターリンを目の前にして、反対派同士の合従連衡が起こったのでした。彼等は1927年、12月の党大会用に「合同反対派の政綱」なる文章を発表しようとしますが、拒絶されてトロッキーとジノヴィエフは党中央委員会から解任され、ロシア革命十周年記念便街頭デモを組織したかどで党から除名されます。こうして、実際に革命を起こしてインテリボリシェヴィキ党員が、共産党内部から消し去られ、いよいよスターリン時代がはじまったのです。
〜 3. スターリン時代の開始ーネップの放棄 〜
ところが行動反対派を葬り去ったスターリンは、ブハーリンらと共に唱えた、農村重視のこれまでの政策をかなぐり捨て、工業化を至上命題とする方針を打ち出しました。新主流派の誕生です。ここでまるで図ったかのように発生したのが、穀物危機です。この穀物危機とは、国の調達機関による、穀物買い付け価格が低すぎるため、当然農民が農作物を売り惜しみ、国が穀物の調達に失敗するという現象です。
ソビエトは穀物を調達し、都市に穀物を行き渡らせるのみでなく、工業化の原資にする予定の外貨獲得の手段が帝政ロシア時代と変わらず穀物輸出でしたので、農民の穀物売り惜しみは深刻な問題でした。ネップ期は、農民に生産物処分の権限を与え、ソビエトが経済的方法により穀物を買い上げる、という方法によるものであり、穀物危機が起こったということは、とりもなおさずネップ的方法による穀物調達の失敗と言うことにほかなりません。
この問題の背景には、労農ソビエトとは呼ばれても、もともと資本家と労働者との対立から生まれた共産党は、そもそもが都市政党であり(資本家と労働者の活動基盤は都市です)、労働運動・組合を通じた労働者の組織化には巧みでも、農村の統制はうまくいかなかったという背景があります。むしろ、農村における革命運動の働きかけは、ナロードニキたちが実践し、すでに失敗してるわけですから、ボリシェヴィキは革命において、都市の労働者の蜂起には頼っても、農民一揆で革命を起こしたわけではありません。
さらに言えば、現在を、資本主義が極限にまで発達し、ブルジョアとプロレタリアの闘争の真っ只中であるとするマルクス理論では、地主と小作関係に関する言及はあっても、この理論の主体はあくまでブルジョアとプロレタリアであって、農民の存在はあまり出てこないのです。逆にいえば、国民の8割を農民が占め、工業国化・資本主義の発達が不十分であり、ブルジョアとプロレタリアの階層分化もそれほど先鋭的でないはずのロシアで、プロレタリア革命による共産社会の実現はそもそもできるのか、というジノヴィエフらの話にまた戻ってしまうのですが。
僕からすれば、むしろ、マルクス理論によると、資本主義の極限に発達した社会に発生すると予想された共産革命が、なにゆえ工業国化・資本主義の発達が十分とはいいにくいように見える当時のロシアで成功したのか、そっちのほうがよほど解明すべき今後の問なように思えます。
というわけで、一応富農と貧農という区別を作りましたが、マルクス理論を信望する限り、レーニンたちも農民に関しては、正直、どう扱っていいのかわからない状態だったのでしょう。そこで、ボリシェヴィキが手をつけかねている間、農村に関してはむしろСР党につけ込まれてしまった経緯もあり、共産党の農村政策の不得手が一気に火を吹いた形となります。そこで、レーニンなどはネップを発動し、農民に自由販売をみとめることで農民の歓心を買い、なんとか国をまとめてきたのですが、ネップ的方法による穀物調達の失敗は、農民に対する譲歩がもはや不可能だと言うことが白日の下に晒されたと言うことにほかなりません。
そもそも、この穀物危機を回避するには、農産物の買い付け価格を上げればいいのですが、それは必然的に、工業化の資金を圧迫することになります。工業化を至上命題としたスターリンらは、これを受け入れることは出来ませんでした。農業をとるか工業をとるか、その激しい鬩ぎあいの中で、結局工業化を最優先とし、強烈な行政指導により、強制的に穀物を国家に上納させ、農民の犠牲の下、工業化の原資を獲得するという方法が取られ、ここに悲劇が発生したのです。
具体的には強制的に農業の集団化を進めて農民をコルホーズに囲い込こみ、コルホーズから穀物を徴収し代価を支払うというものです。しかし代価といっても、穀物生産量の10%、牛乳の原価の20%、肉の原価の5%という形式的なものです。したがって、事実上の税金の物納といってよく、これは実質的には農民が物納だった農奴制への逆行です。
ただし、机上の空論で話をすすめるのもいかんだろうということで、スターリン自身を含む共産党最高指導者が直接農村を視察し、出した結論は、この穀物危機は、クラーク(кулак)たちの投機が引き起こしたというものです。確かにある程度は事実でしょう、このクラークたちにはロシア共和国刑法典107条、投機の罪が適応されました。
この穀物の強制供出は農村とソビエトの全面的な対立を呼び、さらに首相のルイコフ、もともとネップ賛成派のコミンテルン議長ブハーリン、労働組合最高指導者トムスキーらの反発を買い、政治問題に発展します。スターリンらによって着々と進められていた第一次五カ年計画は、スターリンの社会経済の推進、つまりは左転回であり、ネップを支持するブハーリンらはこれを警戒し、さらにはスターリンがトロッキーたちとは比較にならない強敵と感づきはじめ、それに対し策を練る必要に駆られ始めたのです。
しかし、時はすでに遅く、党組織を完全に掌握していたスターリンの手で、1929年2月9日、ルイコフ、ブハーリン、トムスキーらを批判する決議が採択され、三人の抗議の辞任を最初拒否する姿勢を見せていた党中央もついにこれを受け入れ、トロッキーを国外追放に処しました。ここに、党内抗争は終息し、ついにスターリンが全権を握ることとなったのです。
〜 4. 五カ年計画と集団農業化ー統制経済への道 〜
こうしていよいよ党内での立場を不動なものとしたスターリンが取り掛かったのが第一次五カ年計画です。1927年12月の第15回共産党大会で発表され、自由主義的なネップの政策を放棄し、統制経済への移行の立場を鮮明にし、農業国ロシアの工業化を目論んだこの計画は、極めて野心的なもので、銑鉄の生産高を、1933年には、1928年の5倍に、石炭・石油の産出も2倍にしようというものでした。第一次五カ年計画が一体どれほどの成長をもたらしたものかは、まだまだ資料・統計の整理・取捨選択が完了していないことがあり、現在なお正確な評価に近づくのは至難の業ということです。現在での結論は、ソ連当局の目標達成には程遠かったものの、全体的にソ連の工業を急速に推し進めたのは間違いないというところのようです。
また、農村に対しては、穀物調達を簡略たらしめ、トラクターなどの農業機械を導入し、効率的な農業生産を行なうための集団化が行なわれました。これは、「ウラル=シベリア方式」と呼ばれる、古来ロシアの農村につたわるミール(農村共同体)を通じて行なわれ、穀物調達目標、集団化の決定、つまりはコルホーズ加入するということをミールの集会に採択させるというやり方です。
ここで、クラークの処遇が問題となりました。そのままクラークをコルホーズに加入させてしまうと、いずれクラークがコルホーズを牛耳り、コルホーズが党の統制から離れてしまうという意見がで、結局クラークはコルホーズに加入させず絶滅させるという政策が採択されました。
1930年の政治局決定により、、クラークは以下の三つに分類され、処遇が決定されました。第一は積極的に反革命活動に従事するもので、全財産没収の上強制収容所送り。場合によっては死刑も課せられます。第二は積極的ではないが、反抗的なもの。彼らは極北・シベリアなどの遠隔地へ追放されます。第三はソビエトに従順なもので、地区内での追放です。
ちなみに、モスクワ出身の方で、お爺さんがこの時代に第三分類のクラークに認定され、モスクワからウラジーミルへ追放された(シベリア流刑だったら助からなかっただろうといっていました)と方のお話を伺ったことがあります。結局追放を解かれたものの、市民権を剥奪され、そのせいで、その方のお父さんは大学教育を受けることができなかったといっておられました。
ともかく、この上からの革命に反発した、農民の農具破壊、種子収蔵拒否、逃散、さらには結局のところ生産性の高い篤農だったクラークの全滅による収穫の低下、それでもつづく強権的な穀物供出などが重なり、1932年、ロシア南部でこれによる飢餓が発生します。スターリン農政の最高責任者となったラーザリ・モイセーエヴィチ・カガノーヴィチ(フルシチョフを引き上げた人物です)がクバン地方に派遣されたとき、苛烈な穀物徴収を行い、抵抗する農村をブラックリストに載せ、もっとも成績の悪い16の村を北方に追放処分にしたと言います。
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ラーザリ・モイセーエヴィチ・カガノーヴィチ
Лазарь Моисеевич Каганович
1893-1991
ウクライナに生まれ、スターリン施政の実行部隊をつとめる。
自らが引き上げたフルシチョフにより失脚させられる。
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この飢餓発生による農民の逃散を防ぐため、パスポート制が導入されました。この制度により、ソ連市民はパスポートを持たねば国内を移動することができず、パスポートに査証を受けた土地でないと居住できないこととなりました。ソビエト当局は、このパスポートを農民に対して発行せず、ここにソビエト時代の農民の境遇は、さきにのべたコルホーズ加盟農民の、事実上の、税金の収穫物による物納とあわせて、事実上の、農奴制の復活とでもいえる状況となったのです。
ともかく第一次五カ年計画が終了し、目標値が高すぎることが明白となりました。党中央委員会・中央統制委員会合同総会でスターリンが報告し、第二次五カ年計画では、あまりに急激なテンポの成長を目標に掲げることは取りやめられました。スターリンの同郷人で友人の重工業人民委員オルジョニキーゼが、スターリンの側近人民委員会議議長モロトフとゴスプラン議長クイブイシェフらの原案の成長目標をやや下方修正する提案をだし、これが採択されるなど、「建設より習熟へ」が新たなスローガンとなったのです。
もっとも、第一次五カ年計画の結果、マグニドゴルスク、クズネツクに、超巨大鉱山工場複合体、コンビナートが誕生し、スターリングラード、ハリコフ、チャリャビンスクなどにトラクター工場が完成しました。これらの工場を稼動させた第二次五ヵ年計画では、軽工業重視、より実質的な目標値に修正され、成長率はともかく順調な進展を見せますが、1937年のテロルで一時停滞します。1938年からは第三次五カ年計画が実施されますが、これも予定通りにはゆかず、1941年6月の独ソ戦開始により中止となります。
〜 5. 迫害時代ー昨日の友は今日の敵 〜
Утомлённое солнце
Нежно с морем прощалось,
В этот час ты призналась,
что нет любви.…
1932年の飢饉は、スターリンの無理な集団農業化強行および穀物の強制供出がたたったもので、とうぜんスターリンの指導力に対する疑惑が発生します。集団農業はともかく、かつてアレクサンドル3世統治下の帝政ロシア時代の1892年、当時の蔵相ヴィシネグラツキーがロシア政府の収入を増やそうと、穀物を輸出にまわしすぎて飢餓が発生しましたが、これと似たようなもので、徹底的な工業化を進めるべく徹底的に穀物を徴収した結果、不作により徹底的な飢餓が発生したのです。そこで、1933年の第17回共産党大会では、ジノヴィエフやカーメネフも党大会での発言を許され、ブハーリンは『イズベスチャ』編集長へ返り咲きます。
ここで注目を浴びたのが、セルゲイ・ミラノーヴィチ・キーロフです。彼の略歴をのべますと、早くに両親を失い、孤児院で育ちますが、1904年にボリシェヴィキとなり、共産革命の時期はコーカサス・ソビエト結成に動きました。1921年から共産党中央委員となり、1925年の第14回共産党大会、ジノヴィエフ、カーメネフ、レーニンの妻クールプスカヤ、ソコリニコフら、反スターリン派が旗揚げしたこの大会では、スターリン派となってスターリンをバックアップし、その功でジノヴィエフに代ってレニングラードの党書記となりました。1930年には政治局員(中央執行委員会幹部会員)となってソ連政治の中枢に就き、非常に有能で、トロッキー以来という弁舌に恵まれた人物でした。
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セルゲイ・ミラノーヴィチ・キーロフ
Киров,Сергей Миронович
1886-1934
スターリンの有力対抗馬、1934年暗殺
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1933年のこの第17回共産党大会では、なんとスターリンが書記長を解任され、このキーロフが書記長となったという話もあります。もっともひそかにキーロフを書記長に推そうとしただけで、キーロフ自身は固辞したとの話もあります。ともかくキーロフを推したのはスターリンの友人オルジョキニーゼと、クィヴィシェフです。ともかく、キーロフ主導の体制のもと、1934年11月に開かれる党中央委員幹部会では、キーロフらによる改革案が提示される予定でした。
ところが1934年、そのセルゲイ・キーロフが暗殺されます。党中央委員幹部会にキーロフが出発しようとした夜のこと、キーロフに恨みを持つと言うニコラーエフという青年がピストルを持ってスモーリヌィの党本部をうろついていたところを二度逮捕されました。ところが、ニコラーエフは二度釈放され、なぜか警備員がいなかったところを幹部会から返ってきたキーロフを射殺したのです。
この事件を契機にスターリンは、キーロフ暗殺はジノヴィエフ派によるものだったとし(現在は事実無根であったとされています。)、ジノヴィエフ・カーメネフら両人を逮捕します。さらにジノヴィエフらはトロッキー派とも連携を組んで他のテロリスト活動も企画し、政権転覆を図っていたとされました(トロッキスト・ジノヴィエフセンター)。しかし、この時点では両人の事件への直接的な因果関係を立証できるにはいたらず、石橋叩いて渡るスターリンは、彼等を懲役刑処分にとどめます。
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1935年の会議
左からミコヤン、スターリン、モロトフ
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1936年にスターリンはソビエト憲法を制定しました。これにより、ソビエト大会は廃止され、連邦最高会議(但し、年間を通じて開催時期が年に二回、合わせて一週間弱。)が制定され、この会議が最高国家機関となります。これにより、連邦最高会議に国家権力が集中させ、さらに、新選挙制度では、定数一人の選挙区に、一人の候補者を立てるという慣例が導入され、その候補者は党が推薦し、結果として選挙とはいっても、党推薦の候補者に対して信任・不信任を投票するだけ、となります。つまり、連邦最高会議は事実上骨抜きでして、こうして、完全なる一党権力集中体制が固まったのでした。
1936年8月18日にはスターリンは大赦と減刑の権限を連邦最高会議議長に与える政治布告を出しました。そうした上で、1936年8月19日午後0時10分、モスクワ労働組合会館の「10月の間」(かつての貴族会館の舞踏室でした)で、第一次モスクワ裁判が開催されます。この裁判は、反革命事件に関する、ソビエト市民150人と外国人記者や外交官用の席30人分の傍聴席を用意した公開裁判でした。検事総長ヴィシンスキーが読み上げた起訴状によると、ジノヴィエフ、カーメネフら被告16人は、海外亡命中のトロッキーの指令を受けて、スターリン、キーロフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチら党・政府首脳の暗殺を企て、この目的のためにナチスドイツのゲシュタポの援助を受けて殺し屋9人をベルリンからソ連に密入獄させたとして、銃殺刑を求刑されます。
翌20日カーメネフの証言があり、はじめのうちはかなり威厳を保って発言していたということですが、反対尋問が始まるとその罪状のほとんどを自白(?)します。陳述を終えて着席した後、二人の息子に言い残したいことがあるともう一度立ち上がり、「私の判決がどうであろうと、私は前もってそれが正しいと考えている。後ろを振り返るな。前へ進め。ソビエト人民と一緒になって、スターリンに従え」。といったということです。それからカーメネフは座り、顔を両手で埋めました。
ジノヴィエフですが、彼は非常におどおどしてほとんど話ができない状態だったといいます。ジノヴィエフはスターリンに反対することはまったく容認できないと述べ、「私の欠陥のあったボリシェヴィキズムは反ボリシェヴィキズムに転化し、トロッキズムを通じてファシズムにたどり着いた。トロッキズムはファシズムの一変種であり、ジノヴィエフ主義はトロッキズムの一変種である」と述べたのです。
この二人の自白(?)は、とても本心からのものとは思えません。例のスターリンの大赦と減刑を連邦最高会議議長に与えるとの政治布告にすがってなんとか極刑だけは免れようとこのような陳述をおこなったのでしょうか。
8月24日、もちろん被告人たちは大赦を訴えますが無視され、法廷は求刑通り被告人全員に銃殺刑の判決を下します。翌25日、モスクワ市内ルビャンカの内務人民委員部の処刑場で執行されました。カーメネフは銃殺執行者の前で「さあ打て」と言って銃殺され、ジノヴィエフは夜半彼の元に将校が二人の兵を連れて赴いて独房から出るように申し渡しましたが頑強に抵抗したためその場で銃殺されたといいます。
10月革命の大立者であり、ボリシェヴィキ草創期からの重要メンバーだったジノヴィエフとカーメネフは、こうして銃殺されました。さらに、被告達の強制自白により、トムスキー、ルイコフ、ブハーリンらもこの暗殺に関与していたとされ、訴追されます。
追求が自分の手に伸びてくることを知ったトムスキーは自殺、但しブハーリンらは指導部に幅広いコネを持っていたことから、追い詰めることは難しく、ブハーリンに対して刑事立件を行なう根拠はないとの声明が出されました。これに対し、スターリンは当時の連邦内務人民委員ヤーゴダを解任し、エジョフを後釜に据えます。
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ニコライ・イヴァノヴィッチ・エジョフ
Николай
Иванович Ежов
1895-1938
連邦内務人民委員(НКВД)部委員、
スターリンの粛清を実行
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帝政ロシアの秘密警察に勤めていたという前歴をスターリンに握られていた、このエジョフの精力的な活動により、1937年1月、第二次モスクワ裁判が開かれ、旧トロッキー派で重工業人民委員代理のピャタコフ、ラデック、セレブリャコフ、ソコリニコフら17人が被告となりました。ラデック、ソコリニコフらは禁固10年となりましたが、13人には死刑判決が下りました。このさい、ピャタコフの直属の上司でスターリンの友人だったオルジョニキーゼはスターリンに抗議したようですが、2月18日自殺に追い込まれます(キーロフがまだ生きていたときに、いわばスターリンを裏切ってキーロフを推したのですから、予見された結果ではありますが。)。
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1937年の革命20周年記念パレード
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さらに、1937年秋、のちの対独協力を理由としたヴォルガ・ドイツ人自治区のドイツ人や北カフカース諸族の民族強制移動のはしり、沿海州の朝鮮族16万人のカザフスタン、ウズベキスタンへの強制移住が行われました(彼らの子孫の一人が、ロシアの有名な往年のロックスター、ヴィクトル・ツォイです)。スターリンにとって初の民族強制移動ということで、今回は慎重に実行され、一週間の猶予をもたせて地域機ごとに分けて行われたといいます。対日戦に備え、国境地帯を安全にする、つまりは朝鮮族が日本のスパイとなる可能性と摘み取るために行われたということですが、自らも少数民族グルジア人の出で、民族主義も爆発を肌身で知っていたスターリンは、少数民族をユーラシアのあちこちに送って分散させ、かきまぜることでいわば民族のスープを作ろうとしていたように思えます。
つづいて6月12日には、トハチェフスキー元帥を始めとする上級将校8人が非公開の軍事裁判で処刑されたとの発表がありました。軍関係者への迫害も凄まじく、5人の元帥のうち3人、15人の軍司令官のうち、13人、プトナ、コルク、ヤキール、ウボレヴィチ、エイドマン、プリマコフ、フェリドマン、ディベンコ、エゴロフ、ブリュッヘルらが処刑されたといいます。
はっきりいってしまいますと、この赤軍粛清の目的は明らかにリストラです。基本的に軍隊というのは生産的なものではありません。人生で一番生産能力のある時期に若者を徴兵して働かせないわけですから。内戦は終了したので、通常兵備からすれば明らかに過剰な人員を抱えているわけですから、つぎはリストラを行わないといけません。しかし、普通に予備役に回していたのでは年金・恩給がかさみます。いまは革命騒ぎと工業化でお金なんてどこにもありません。そこで、政治犯にして処刑してしまえば、犯罪者ということで年金・恩給ともに剥奪できる、つまりお金を払わずにすませることができ、オプションとして軍の若返りも期待できるという、計算された結果の判断です。かくして無実の罪で赤軍大量粛清が起こったのですが、たしかに、目的そのものは理にかなっても、あまりにも手段が無茶と日本人である僕には思えます。
しかし何より相手は軍人です、いざとなったら破れかぶれのクーデターだって起こせる可能性がありますから、ことは慎重に運ばねばなりません。ですから、ソ連体制が十分固まるのを待って、赤軍粛清が行われる必要があり、いちばん後回しになったのでこの時期に決行されたのでしょう。韓信も劉邦に切られたがごとく、革命の功臣は結局このような目に逢ってしまうのです。暴力と流血から生まれた革命は、結局暴力と流血を残すのでしょう。
しかし間が悪かったのは、1941年の独ソ戦と重なってしまったことです。個人的にはこのタイミングの悪さは運の悪さであって、ただの失策とは思えません。その当時、ヒトラーの『わが闘争』を読んで、まさかこの人物が本気で著作に書いたことを完全に実行しようと考えていたとはだれが予想できたでしょうか。実際に相手がどのような動きに出たのか、すべての結果が分かった現在からの判断で、あのときはこうすればよかった、ああすればよかったというのは、将棋で待ったを繰り返して勝つとか、もっと極端には後出しじゃんけんで勝ったりするのと同じことです。ここはやはり、いったんは当時の状況に立ち返り、当時の人たちと同じ一寸先は闇の条件で考えなければ、当時の人たちが、結局のところなぜそのような決断を下し、行動したのかに迫ることはできない、つまりは当時の人たちの心に触れることはできないと思います。それは歴史というものの大きな醍醐味を失ってしまうことでもったいないです。
この赤軍粛清が独ソ戦での初戦での苦戦、と前提条件なしでもともと主張し始めた人たちは軍事史家なんではないかと思います。要は軍事が専門ですから、党内権力闘争についてあまり知らない、ですから、ソ連体制の安定化のための党内権力闘争の都合で行われたため、結果として一番最後のほうに回された赤軍粛清が、なぜこのタイミングで行われたかが彼らにはわからない。仕方なく、純軍事的な判断をくだすから、この時期の粛清は単純に失策である、と結論付けるのでしょう。もちろん間違いではないと思いますが、もう少し広い視野から考えてもいいのでは、と思います。
ただし、結果論としては、この粛清は赤軍に大打撃を与え、独ソ戦の緒戦におけるソ連の敗北の大きな原因となりました。
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裁判中のトハチェフスキー
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1938年3月2日、テロルの総仕上げとしてモスクワで元政治局員、コミンテルン議長ブハーリン裁判が開かれます。この裁判では、ブハーリン、ルイコフ、クレスチンスキー、ラコフスキー、もと連邦内務人民委員ヤーゴダ(死刑判決)などが裁かれました。罪状はソ連の社会主義制度と国家組織を破壊し、資本主義制度復活をたくらみ、そのためにレーニン、スターリンら要人の暗殺を計画するとともにドイツ・日本のためにスパイ活動を組織し、国内でさまざまなサボタージュを行い、軍部によるクーデターを画策したというのです。
レーニンと直接の面識を持つ、共産党草創期からの最後の古参有力党員ブハーリンは、資本主義的な右翼ブロックを結成したことは認めたものの、レーニン暗殺の罪はあくまで否認し、5月13日銃殺されました。最後の陳述で、ブハーリンは以下のように述べたといいます。
ー「今回の予審での審問を、自分は三ヶ月間にわたって否認し続けてきたが、ついにある程度認めるようになった。それはなぜか。自分は獄中において自問自答した。死ぬ時は何人の名において死ぬべきか、最後に自分を動かしたのは祖国であった。祖国の名は自分をして一切の武装を解かしめた。われわれの企てた反革命の計画も、これを消滅させようとする政権の力も、いずれも時が大いなる解決の翼を広げて、包み溶かしてくれるであろう。討つものも討たれるものも、祖国と祖国の人民を愛するものに相違ないことは後世の歴史が立証する。自分は祖国と祖国の人民の前にひざまずくことにしたのである。」ー
こうして、あらゆる革命が避けては通れない粛清が完了したのです。流血で始まる革命は、流血に終わります。やはり暴力的な手段というのは結局ろくでもない結果しか残さないのでしょう。1956年2月、ソ連共産党第二十回大会でフルシチョフが行なった演説によりますと、1937年から1938年にかけて党中央委員会の委員と候補139名のうち、98名が銃殺されたとのことです。ただし、個人的には、スターリン批判を筆頭とし、上司を数々蹴落とすことでどんどん出世していったフルシチョフ自身も、かならずしも信用できる人物とは僕には思えません。
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1938年の連邦内務人民委員部(НКВД)会議
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このソビエト国内の、特に上層部を襲ったテロルは「エジョフシチーナ」と呼ばれましたが、当初の目的であった大物の粛清に成功してしまうと、スターリンは、1938年11月17日の人民委員会会議・党中央委員会秘密協定でこのテロルの終息の方針を打ち出しました。この会議では、テロルの結果による階級の敵の消滅を評価したものの、拙速により根拠のない大量逮捕者が発生し、歪曲が生じたとされました。そして、その原因は、内務人民委員に潜入したスパイだという結論になりました。
かくしてエジョフは内務人民委員を降格され、水運人民委員に転出し、1939年1月以降公の場から完全に消えます。ついで内務人民委員に選ばれたのが彼の同郷人、グルジアのアブアジアで生まれたミングレル人ベリヤでした。
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ラヴィレンチー・パーヴロヴィッチ・ベリヤ
Берия, Лаврентий Павлович
1899-1953
エジョフの後を襲って連邦内務人民委員部(НКВД)委員となる
スターリン死後フルシチョフらとの権力闘争に破れ銃殺される。
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そして、1939年3月、第18回共産党大会が開催されます。この大会では、党規約からチーストカ(粛清)の言及が削られました。この象徴的な行為により、スターリンはテロルの終息を宣言したことになります。こうして、このテロルにより政敵をこの世から消し去り、さらにスターリン直属の個人秘書局と、それに密着した治安警察の力があらゆる国家機関の力を超えて絶大な権力をもつこととなりました。こうしてスターリンの権力が完全に確立し、これ以後13年間、共産党大会が開かれることはありませんでした。
国外追放に処されていたため、ボリシェヴィキ草創期のメンバー中で、唯一この迫害の波を免れたトロッキーも、1940年、メキシコで暗殺されました。
〜 5. ソ連外交ー孤立化からの脱却をもとめて 〜
外務人民委員部でなく、コミンテルンがソ連外交を担うものだという考え方は、1923年まで残りました。1923年に、借金のかただとばかりに、フランスがドイツのルール工業地帯に出兵し占領した事件にたいし、ドイツ国内には大反攻運動が起こりましたが、これをドイツ革命までもっていこうと、コミンテルンが暗躍します。コミンテルンからカール・ラデックが派遣されて扇動にあたり、赤軍の援助をちらつかせながら軍や政府に働きかけ、8月にドイツの内閣が辞職すると、実際数都市で蜂起が起こります。しかし、シュトレーゼマンがでて、ゼネストを禁止し、蜂起を鎮圧してこのコミンテルンの働きかけは失敗に終わりました。
やはり、外交は外交官に任せるべきだとのことで、それ以後外務人民委員チチェリンによって運営されてきたソ連外交ですが、彼が20年代後半から健康を害し、かわってマクシーム・リトヴィノフが外務人民委員となります。リトヴィノフ外交の肝は、英仏と宥和してドイツを牽制するというものです。さしあたって問題となったのは、外貨を獲得し高性能の工作機械を手に入れるため、穀物・木材・石油の大々的な輸出を行うことでした。1929年に発生した世界恐慌の波により、フランスを中心にソ連に対する貿易制限措置が行なわれました。
それより更に問題となったのは1933年に政権をとったナチスドイツです。ナチス党の党首ヒトラーは、政権奪取以前から、その著書『わが闘争』で、ボリシェヴィキズムの打倒と、ゲルマン民族の人口増加を支えるための生活圏(レーベンスラウム)獲得のための東方進出を主張しており、そのヒトラーが内閣を成立させたことで、いずれナチスドイツ侵略の矛先がソ連に対しぶつかってくる可能性が極めて強くなったのです。このナチスドイツの東方進出の理由は、歴史的に東へ進む傾向のあったゲルマン民族の道を、歴史好きだったヒトラーが真似た結果でしょう。
ーそこで同盟はもっぱら全てこの観点から検討し、その利用しうる度合いに従って評価すべきであった。人々がヨーロッパで土地と領土を欲するならば、そのさいは大体においてロシアの犠牲でのみ行なえた。その場合には、ドイツの鋤には耕土を、だが国民には日々のパンを与えるために、ドイツの剣でもって、新しいドイツ帝国は再び昔のドイツ騎士団(チュートン騎士団)の岸の道をすすまねばならなかったのだ。かかる政策のためには、もちろんヨーロッパには唯一つの同盟国があった。すなわち、イギリスである。
イギリスと結んでのみ、背面を保護されて、新しいゲルマンの行軍を始めることができたのである。なおまたその権利は、われわれの祖先の権利よりも決して小さくはないであろう。わが平和主義者といえども、たとい最初の鋤といったものがかつては「剣」と呼ばれたにしても、東方のパンを食べることを拒みはしない。
イギリスの好意を得るためには、だがどんな犠牲でも大きすぎることがあってはならなかった。植民地と海上勢力を断念し、そしてイギリス工業に対して競争を差し控えるべきだった。ー
〜 ヒトラー著 『わが闘争』より 〜
要するに、イギリスと手を結んでソビエトを叩くというのがヒトラーが宣言したドイツ外交です。西側諸国は、ソ連と連携してナチスドイツを牽制するか、ナチスドイツと融和してナチスをソ連に向かわせるか、二つの選択が発生し、イギリスを中心とする西側勢力は、最初後者の方式を選択しました。
リトヴィノフは、イギリス、フランスと結び、ドイツを牽制する方策を取ろうとしました。リトヴィノフは、このドイツでの明らかに反共的な政権の誕生を前に、独ソ秘密軍事協定を打ち切ります。代わってリトヴィノフは1933年2月のジュネーヴ軍縮会議でフランスの安全保障要求に対する共鳴演説を行いますした。10月に発生したドイツの国際連盟脱退をうけ、ヴェルサイユ体制に対する露骨な挑戦の意図を示したナチス・ドイツに対し、フランスも対抗措置を取る必要に迫られ、ソ連に対し、国際連盟の加入及び仏ソ相互援助条約締結の提案を出します。ヒトラーはこの相互援助条約がロカルノ条約を踏みにじったと主張し、ロカルノ条約によって独仏国境の現状変更に着手し、独軍のラインラント進駐となります。
もっとも、スターリンは、ソ連のヴェルサイユ体制参加には慎重意見を示し、この構想は一時頓挫します。しかし1934年にはソ連は国際連盟に加入を果たし、なんとか国際的な完全孤立から脱出します。さらにはイギリスと1934年に新英ソ通商協定を結び、また、リトヴィノフは1933年にも新興資本主義国アメリカと1933年11月に国交を樹立させることに成功しました。こうして、リトヴィノフは資本主義国の間に協調関係を打ち立てることに成功したのです。
ところが、ヒトラーは独裁者ヨーゼフ・ピウスツキ率いるポーランドと1934年1月26日不可侵条約を結びます。この時点では、下手をするとドイツ・ポーランド関係の良好化、ひいてはドイツ・ポーランド連合軍によるウクライナ侵攻作戦(ポーランドにとっては旧領回復、ドイツにとってはレーベンスラウム獲得です。実際ピウスツキは1920年、革命干渉戦と内乱でごたついていたロシア・ソビエト社会主義連邦に攻め込んでいる前科があります。)に進むかと思われました。そこで、1935年の第七回コミンテルンでは、ブルガリア共産党のディミトロフとイタリア共産党のエンリコ・エルコリの提案で発表された人民戦線決議を採択し、「ファシスト・ドイツとこれに連合しているポーランド及び日本に対する力の集中は、共産主義諸政党のもっとも重要な戦術上の課題を意味する」とし、反撃に出ます。
ファシスト陣営も黙っていた訳ではなく、1936年、日独伊防共協定が締結され、日独伊の三ヶ国がソビエトを的に絞った協定を締結します。ここに、枢軸国ドイツと日本のソ連挟撃の可能性が発生し、これだけは絶対に実現させないことが、ソビエト外交の軸となります。
さらに、1938年3月当初の目的であったオーストリア併合を成功させ、勢力を東に拡大したナチスドイツの次の目標はチェコスロヴァキア併合でした。ところがイギリスのチェンバレン首相を始めとする英仏陣営は、ソビエトと協力して防衛しドイツを封じ込める策をとらず、逆にドイツと宥和し、ナチスの矛先がソビエトに向かいかねない政策をとります。
第一次大戦の惨禍がまだ生々しいイギリス・フランスは、ドイツとの衝突を避けたいが為、1938年9月、ミュンヘンで行なわれたイギリス・フランス・ドイツ・イタリアの四カ国の会談(チェコスロヴァキア代表は会議に参加しておりません)で、チェコスロヴァキアの、ドイツ系住民の多いズデーデン地方の併合を認めてしまいました。
ところが年が明けて1939年3月、ヒトラーがミュンヘン協定を破ってチェコスロヴァキアを完全に制圧しました。ここで英仏陣営はナチスに対する宥和政策を取りやめ、イギリスのチェンバレン首相、ハリファックス外相は英仏ソ波四カ国軍事同盟を提案してナチスドイツ封じ込めをはかります。が、ソ連指導部の間では、イギリス・フランスの真意が実はナチスドイツをソ連にけしかけようとしているのではないかという観測が広まります。1939年3月10日の第十八回ソ連共産党大会の席上でスターリンは英仏の態度を非難、リトヴィノフ外相が更迭され、モロトフが首相のまま外相となりました。英仏との宥和の方針は転換され、ナチスドイツとの接近が図られたのです。
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ヴャチャスラフ・ミハイロヴィッチ・モロトフ
Молотов(Скрябин), Вячеслав Михайлович
1890-1986
外相兼内相、スターリンの腹心
のちフルシチョフらにより追放
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と、今度は極東で日本との衝突が起こります。ソビエトは、とにかく日本と悶着を起こすまいと、1932年には北部サハリン島の石油採掘権と北方海域の漁猟権を譲り、1935年3月に東清鉄道を満州国に売却し、局地紛争の種を取り除こうと努力していました。さらに、1937年日中戦争が勃発すると、ソ連は国民政府との間に中ソ不可侵条約を結んで中国の抗日支援の姿勢を明らかにし、日本軍が中国大陸での戦闘に釘付けとなり、ソ連に向かってこないよう行動しました。
しかし、満州国とソ連・モンゴル人民共和国との間には勢力範囲の確定していない長い国境線がありますので、努力の甲斐も空しく、とうとう、1938年7月29日、ハサン湖事件(張鼓峰事件)が起こります。これは、ソ連軍が張鼓峰に進出したのを、関東軍が独断で攻撃したために発生した軍事衝突です。この戦闘では、機械化したソ連軍の猛攻の前に日本軍が圧倒されますが、モスクワで日本とソ連の外交交渉が成立したため、停戦が成立しました。
ところが1939年5月4日、今度はノモンハンで満州国軍とモンゴル人民共和国軍の戦闘がはじまりました。この戦闘では満州国軍がモンゴル人民共和国軍をハルハ川まで押し戻したところで戦闘が終結しましたが、モロトフは1936年のモンゴル人民共和国との友好条約にもとづき、モンゴルの国境を守ると宣言しました。そして、ベラルーシ軍管区副司令官で騎兵隊畑出身のジューコフをノモンハンに送ります。
カルーガ州の農家の家に生まれたジューコフは第一次世界大戦で徴兵され、ロシア帝国軍の一平卒として軍隊内でのキャリアを始めましたが、見る見るうちに頭角を現し、現在の地位についたのです。また、満州・モンゴル付近は、言わずもがなですが、古来遊牧民族の闊歩した平原であり、騎兵が機甲化した戦車がこそが、その最大の力を発揮するわけでして、騎兵科出身のジューコフの派遣は、おそらくそこを見込まれてのことでしょう。
ジューコフは赤軍機による爆撃を開始し、満州国軍の後ろ盾である日本軍も第23師団の総力を挙げて戦う方針をとり、モンゴル人民共和国のタムスクを爆撃します。ジューコフは高性能性を誇ったКВ-1戦車を投入、機械化された大量の兵力による攻撃を開始し、日本軍の第23師団を壊滅に追い込みます。こうして9月15日には日ソの間で停戦条約が結ばれ、極東ではまずは日本の脅威を跳ね返すことに成功しました。
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当時実戦投入の始まったКВ-1戦車
(カレリア前線にて)
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日本陸軍の史上空前の敗戦として名高いノモンハン事件ですが、せっかく戦車の話が出たついでですので、戦車やその材料にまつわることについても多少述べてみたいと思います。
兵器の特性を決する要因は実に様々です。エンジンなどの選定はもちろんのこと、兵器に使用する鋼材の選定、鋼材の硬さ、鋼の硬度と不即不離の問題ですが、鋼を加工する工具鋼の開発(硬い鋼を作るのは大いに結構ですが、あまりに硬い鋼の場合、どうやって切削加工するのでしょうか?)、雨の日も雪の日も屋外で使用するわけですから、塗装という表面処理でなんとかごまかすにしても、できれば耐食性(つまり、金属だけど、大気中で錆びないで欲しいという虫のよい性質です)に優れること。
また、弾を発射すると、砲身は非常に高温になり、高温だとあらゆる化学反応が軽やかに進みますから、砲身を金属で製造すると、酸化(この場合、金属が錆びる)という化学反応も当然軽やかに進みます。高温ゆえに、塗料を塗るという防食加工も厳しいです。錆びが砲身内にたまってくると、弾が砲身内を通る際に、錆びに引っかかって、命中率低下、甚だしい場合は弾が飛び出てくれず、砲身が爆発、などということになりますから、この点でも耐食性に優れることは大切です。エンジンだって高温になりますから、やはり耐食性に優れた金属が欲しいわけです。
また、溶接性に優れること(溶接がうまくいかないと、ボルトやリベットで金属板を止めることなり、不利です。また、ドイツのクルップ社が発明した世界初のステンレス鋼V2A、オーステナイト系ステンレス鋼です、は、やっかいなことに溶接熱影響部分が腐食するという欠点がありました)、鋼材そのものを作るための、量産体制に乗っても大丈夫な生産方法開発と、高炉そのものの設計、プレス加工技術、型鋳造技術、などなど、考え出すときりがありません。ですから、兵器の開発はそれこそ国中の科学者・技術者が集まって国家総動員体制で行わないと進みませんし、また、兵器を納入する側は、こういった点をいちいち全てを検討するのも無理なので、スペックのみ見るのでしょう。
これらの諸条件のうち、僕でもわりとわかり易い合金について書きますと、まずは、錆びない鉄、ステンレス鋼ですが、実用的なものとしては、これはもともと1913年イギリス人ハリー・ブレアリーがライフル用の鋼材として開発したのがそもそもの始まりです。発射時の高温による銃身内部の腐食(錆びの発生)と、その結果による銃身内部の汚れを防ぐために、融点の高さ、耐高温磨耗性、急冷しても硬化しない、などの性質から、クロム(金属、Cr。いわいる六価クロムなどはこのクロムの酸化物です)を多く含む、高クロム鋼を開発しました。
この高クロム鋼は、ライフル用としては初期の目的を達することはできませんでした。が、そのかわり、ブレアリーは、この高クロム鋼が腐食性に優れていることを見抜き、果物ナイフ用(りんごでもみかんでも、食べるとすっぱいですが、あれは果酸がはいっているからすっぱいわけで、当然この果酸は金属を腐食させます)としての用途を考えついて製品化されたのが、ステンレス鋼(13%クロム系マルテンサイト鋼)実用化第一号です。鉄とクロムの合金は、錆びた表面が、緻密な不動体化皮膜を形成し、金属と外部を遮断してしまうため、腐食が金属内部まで進行しない性質があるのです。
さらにブレアリーの後を継いだウィリアム・ハットフィールドが、V2Aを発明したドイツのグルップ社のエドアルド・マウラーのクロムニッケル鋼の組織図を再検討した結果、クロム18%、ニッケル8%の組み合わせが最も効率的にオーステナイト組織が得られると結論づけました。こうして発明されたのが、ステイブライトなる商品名で商品化された、一世を風靡した18-8鋼です。戦車に限った話ではないですが、こうしていよいよ本格的に砲身・エンジンにステンレス鋼が多用される時代がやってきたのです。
さて、オーステナイト組織のステンレス鋼は、焼入れによってマルテンサイト組織に変態し、このマルテンサイト組織は、鋼の焼き入れ組織としてはもっとも硬く、硬度の点でも優れています(日本刀の剣先などはこの組織です)が、今度はどうやってその硬いステンレス鋼を切削加工するかです。このような見地から開発が進められたのが超硬合金です。
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(左) オーステナイト組織(面心立方格子)
(右)マルテンサイト組織(立方格子)
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この超硬合金ですが、先駆的な研究は1893年ごろからはじまり、アメリカなどで時計の軸受けとして1909年製品化されたりしましたが、結局ものになったのは、1923年のドイツのオスラム社において、シュレーターが炭化タングステンWC-Co(タングステン、炭素、コバルト)を完成させたのがその元です。タングステンですが、これは実は融点が3680K(3407℃)の金属で、こいつを溶融しようとしても、こんな高温に耐える溶融炉はちょっと考え付きません。
そこで考えられたのが、燒結という手法です。陶器が割れたとき、その割れた面を見ると、粒粒しています。これは、燒結体と言いまして、陶土が溶融しているのではなく、粒粒どうしががくっきあって形成されているのです。この燒結体の強度が高ければ、融点まで持っていかなくてもその物質の成型体を製造することができます。ちなみに、燒結助剤といいまして、燒結体の粒をくっつけるために混ぜ物をする場合がありますが、WC-Coにおいてはコバルトがその役割を果たすのです。ともかく、特殊鋼に対する切削工具の開発もこうして進んだのでした。
長々何をいいたかったのかといいますと第一次世界大戦終結後の世界において、合金の時代が到来した言うことです。かつてビスマルクはヨーロッパ政治は鉄と血をもって回転する、と喝破し、鉄の生産量イコール国力と考えられた時期もありました。したがってあのエッフェル塔な
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