ソビエト時代(3)

〜〜 ヒトラーの挑戦 〜〜



アドルフ・ヒトラー
/
Гитлер, Адольф(1889-1945

ドイツ国家社会主義労働者党(NSDAP、ナチス党)党首、総統

第二次大戦を引き起こす

注意!音が出ます
(
ソ連国歌 1944-1977年版)

 


Российская
История

Российская
История


 



ェルサイユ体制の、一方的にドイツに大戦の責めを追わせ、ドイツを封じ込めようというフランスの極端に対独報復的な措置のゆがみが、ヒトラーという人物を生み落し、彼の暴走で、内政に励み、計画経済による工業化へとひた走ろうとしていたソ連にとっては、避けれるものなら確実に避けたかったであろう第二次世界大戦がとうとう勃発してしまいました。

 むろんワイマール共和国内でも、ヴェルサイユ体制の修正の努力を傾け、それにある程度は成功していたのです。アメリカ資本の流入により、国内経済の悪化も一息つき、1926年には国際連盟復帰を果たして常任理事国となり、ヨーロッパにおける外交的孤立は脱しました。連合軍によるラインラント進駐問題も、シュトレーゼマン外相の努力により、最大進駐期限15年以前に終了させること、1930年を撤兵期限にする事が決められました。ドイツの天文学的賠償金も、ドーズ案、ヤング案とだんだんと現実的な額に引き戻され、最終的にブリューニング首相の結んだローザンヌ協定により、賠償金の9/10は帳消しにすることに決まりました。この協定は発効しなかったとはいえ、ともかくドイツは賠償金問題はうやむやにして逃げ切ることに成功したのです。厳しい制限のつけられたドイツの再軍備問題も、結局ジュネーヴ軍縮会議の席で、ブリューニング首相は、ドイツの再軍備に関して事実上の承認を取り付けることに成功していました。

 つまり、ドイツは、ブリューニング首相等の努力により、ヴェルサイユ体制の不平等是正の「目標100m手前」まで到達していたのです。ところが、降って湧いた世界恐慌の前に、アメリカはドイツから一気に資本を引き上げ、とうぜんドイツは一国だけではこの世界恐慌の波を乗り切れず、ドイツの国民感情は、ヴェルサイユ体制の破棄を叫ぶヒトラーを政権につけ、ワイマール共和国を崩壊させたのです。

 イギリス・フランスも絶対に避けたかった第二次世界大戦ですが、この戦争はヴェルサイユ体制による戦後処理の不備にかなりな原因がありますから、身から出た錆といえないこともありません。かくて、ボリシェビキズムの打倒とユダヤ人絶滅をかかげ、ドイツ人の生存に必要不可欠とヒトラーの主張する生活圏(レーベンスラウム)獲得を目指し、ヨーロッパの世界支配に致命的な打撃を与えるべく遣わされた黙示録の竜ヒトラーの猛威がヨーロッパ、ことにロシアで荒れ狂い、20世紀最悪のジェノサイドが発生したのです。

 自らの東方拡大の野望の前に立ちふさがったフランスを破り、降伏させたヒトラーは、その著書「わが闘争」に自ら書いたごとく、イギリスと協力してソ連を叩こうとします。ところが、イギリスはフランスとともにドイツに宣戦布告し、ヒトラーの和平への呼びかけは、反共でしたがそれに劣らず反ナチのチャーチル首相に完全に無視されます。そこで、イギリスにも攻撃の手を伸ばしますが、頑強に抵抗するイギリスの前に、イギリスとの和平、さらには同盟を諦めたナチスドイツは、当面のイギリス方面の攻撃を緩めます。そして、その攻撃の主力を、いよいよ真の敵ソビエトに真正面からぶつけました。大祖国戦争の勃発でした。



    〜 1. ソ連の膨張ー独ソ戦への備え 〜

 ポーランド侵攻が終了した後、ソ連は、おそらくは来るべきナチスドイツの侵攻に備えるための旧ロシア帝国領域の回復を目論見ます。1939928日に、ソ連はモロトフ外相の下、エストニアと、エストニア領内にソ連空軍・海軍基地を建設するという相互援助条約を締結、エストニア軍15000のところにソ連軍25000(最終的に9万)が進駐します。10月にはラトヴィア・リトアニアにも同じ内容の条約が結ばれ、こうしてバルト三国はソ連の軍事的勢力圏に入りました。

 ついでフィンランドにも同様の相互援助条約を締結することを求めましたが、これはフィンランドの拒絶に会います。それならばと、この相互援助条約の最大の肝、レニングラード防衛の要、ハンコー岬の30年間の租借、カレリア地峡の割譲、フィンランド湾内の若干の諸島割譲を求めますが、これも断られます。そこで、ハンコー岬の売却を求めますが、これも断られたので、11月末、フィンランド側からの発砲とその語の敵対的態度を理由にフィンランドと外交関係を断絶し攻撃を開始しました。「冬戦争」の始まりでした。

 ソビエト政府はモスクワのコミンテルン本部で働いていたフィンランド共産党指導者クーシネン(フルシチョフ時代にソ連邦の政治局員にまで上り詰めます。後の書記長アンドロポフを引き上げた人でもあります。)を首班とする「フィンランド民主共和国」を樹立し、122日にはこの政府と相互援助条約をむすび、カレリア地帯を巡る領土交換を取り決めました。ボリシェヴィキズム打倒を国是とする強力な国家ナチスドイツの非常に危険な膨張政策を前に、なりふりかまわないというか、むちゃくちゃといいますか、今でも追い詰められたロシア人がやりがちなことをこのときもやったのです。

 当然フィンランドがこの措置に黙っているはずがなく、フィンランド軍は徹底抗戦の構えを取ります。フィンランド大統領と政府の懇願で、最初は年齢と健康を理由に固辞したものの、ロシア革命後のフィンランドで白軍を組織し内戦を戦った旧ロシア帝国中将出身のマンネルヘイムがフィンランド軍最高司令官として今度も戦いの指揮をとりました。






オットー・ヴィル・クーシネン
Otto Ville Kuusinen
1881-1964

フィンランド共産党指導者、ソ連共産党政治局員。
後の書記長アンドロポフを引き上げる。





ソ連・フィンランド民主共和国
相互援助条約に署名するクーシネン




 フィンランド側は善戦し、1214日には国際連盟総会はソ連を国際連盟から追放する決議を出します。19402月やっとのことでカレリア地峡での戦闘で優位にたったソ連軍は、両国は3月和平交渉に入ります。この時点でスターリンはクーシネン内閣を見捨て、その代わりカレリア地峡、ラドガ湖の西岸北岸を割譲させ、ハンコ湾の30年間の租借を認めさせました。

 19406月、独ソ不可侵条約でとりきめたルーマニアのベッサラビアと北ブコヴィナを軍事占領し、さらにバルト三国にはリトアニアにデカノーゾフ、エストニアにはジダーノフ、ラトヴィアにはヴィシンスキーを全権代表として送り、バルト三国内で新たな選挙を行なわせ、721日、22日には新議会でソ連への編入を決める決議を採択させました。こうしてバルト三国は強制的にソ連邦へ編入されてしまいました。

 さらに927日、ベルリンで、日独伊防共協定を発展させた日独伊三国軍事同盟が締結されます。イギリスの歓心を買うため、ヒトラーは第一次世界大戦前ドイツ帝国が行なったのとは反対に、意図的にドイツの海軍力の拡充を行ないませんでした。しかしその分日本の海軍力に期待し、日本とドイツが緊密な同盟関係になることで、日本の太平洋における海軍力がアメリカを牽制し、ヨーロッパの戦いにアメリカが参戦するのを防いでくれることを望みました。ドイツびいきの日本陸軍はこの同盟に乗り気であり、さらに外相松岡洋右の策により、この同盟は結ばれたのです。

 松岡洋右は、日独伊三国同盟を踏み台にして、これにソ連を加え、日独伊ソの四カ国協商を作り上げ、アメリカに対抗する意図があったと考えれられています。ナチスと結ぶことでのアメリカと日本の関係悪化はこの四カ国協商成立の代償でした。日本とソ連の中はノモンハン事件以来悪化したままでしたから、日本がドイツの同盟国となった見返りに、ドイツがこの時点では不可侵条約を結んでいたソ連に対し、日ソ間の関係改善の仲介を果たしてもらい、ついでに四カ国協商の提案を行なってもらうというのが松岡洋右の腹積もりだったようです。

 ところが、独ソ不可侵条約で規定されていなかった、バルカン諸国における両国の勢力範囲が問題となりました。第一次対戦前から、この地域におけるドイツ帝国とロシア帝国の勢力範囲の確定をめぐり両国はもめていましたが、やはりこの世紀も同じ問題が起こったのです。

 石油資源の不足するドイツは油田を目当てにルーマニアに対し、ポーランドから押収した旧式武器の譲渡、軍事使節という名目で一個師団を派遣を決定し、翌19411月にはこれを実行に移します。これに関しソ連は不快感をあらわにし、1112日、13日にモロトフがベルリンを訪問し、独ソ外相会談が開催され、両国の利害関係の調整を行ないます。ここでリッベントロープが例の四カ国協商の協定草案なる「リッベントロープ腹案」を持ち出しました。これは日独伊ソの世界の勢力範囲を確定するもので、ソ連には中東およびインドの領域が割り当てられていました。

 これに対するモロトフの回答が1126日に出され、それにはフィンランド、ブルガリア、中東でのソ連の勢力範囲が設定されており、こんな要求には応じられないとヒトラーは四カ国協商案を放棄し、調整は不調に終わります。これでヒトラーは独ソ戦を決意したらしく、1218日、ドイツ国防軍最高司令部は、ヒトラーの承認と署名を得てドイツ第三軍総司令部に命じ、戦争遂行指令第21号、作戦「バルバロッサ」(1941515日までに完了)を発令します。さらにドイツは31日ブルガリアに軍を派遣して日独伊三国軍事同盟にブルガリアを強制加盟させ、ユーゴスラビアも三国軍事同盟に加盟させようとします。

 が、ユーゴスラビアの王国評議会が三国同盟加盟に調印したとたん反乱がおこって政府が倒れたため、ナチスドイツは軍を派遣を決定します。ドイツ軍侵攻の直前にユーゴスラビアとソ連の間に不可侵条約が結ばれますが、これを無視してドイツ軍は進撃を開始し、ユーゴスラビアを一週間で占領、無理やり三国同盟にユーゴスラビアを加盟させ、ついでにギリシャも占領してドイツがバルカン半島の覇権を握ったのです。

 そこで、ソ連は1941413日、ヒトラーの意図を知らない日本の松岡洋右と日ソ中立条約を結びます。こうして独ソ不可侵条約でひとまずは西での安全を確保し、さらにこの、日ソ中立条約で東方の安全を確保しておいて、スターリンは来るべき独ソ戦に備えて軍備の増強に励みます。1939年にはすでに一般兵役法を定め兵役年齢を21歳から19歳に引き下げ、兵員数を39年1月の194万人から41年春までには約500万人に増員させました。

 戦略物資のアルミニウム・弾性ゴムの備蓄も39年から進められ、特にロシア軍は伝統的に大砲が好きですから、重小火器、迫撃砲などは増強は着々と進んでおりました。しかし、農業を犠牲にした工業化により、農作物の収穫減が食糧備蓄に響き、さらに戦車(第二次大戦中の傑作戦車T34もこの時点での配備はソ連の保有する戦車1475台のうちの967台です。)と航空機の生産体制は不十分でした。この状況下で、赤軍の強化に成功するまでの間、できる限りスターリンはドイツとの友好を保とうと模索します。

 この間にも、ナチスドイツの不気味な進撃は続き、トハチェフスキーを破ったウェーガン将軍の努力の甲斐なく、19406月にはフランスはドイツに降伏、パリのシャンゼリゼ大通の凱旋門の下をくぐってドイツ軍が入市、という事態が起こります。さらにヒトラーはロンドンを空爆、イギリスはこれにたいし、レーダー網とツピットファイヤで応戦するという、バトル・オブ・ブリデンに突入しました。しかし、このときすでに、ヒトラーの心は、彼の著書『わが闘争』で書かれたごとく、この戦争の真の目的、ナチズムの真の敵、ボリシェヴィキズムの打倒へと向けられていたのです。


 〜 2.バルバロッサ作戦発動
          ーナチズムvs.ボリシェヴィキズム 〜

 こうして西の大敵ナチスドイツと不可侵条約を結び、東の敵日本とも日ソ中立条約を結んだスターリンは、なんとかソ連の安全を確保し、しばらくは一安心と有卦に入ったでしょう。ところが、そうして安心したであろうスターリンに対し、各ソ連情報機関はナチスドイツのソビエト侵攻計画に関する極めて不愉快な情報を集めてきました。日本の東京にいたソ連軍参謀本部の防諜総局(ГРУ)のゾルゲ、スイスの情報機関に所属するハンガリー共産党員であったシャンドル・ラドらの報告により、ドイツ軍の進撃は実は間近で、620日前後であると伝えられてきたのです。







リヒャルト・ゾルゲ
Зорге,Рихард
1895-1944

日本の対ソ情報を流したソ連スパイ
日本で逮捕され銃殺




 この辺が現代史が完全に歴史になっていないという事情、つまり関係者およびその一族が存命していたり、関係国にまだまだ波紋を呼びそうなデリケートな問題があったりなどの事情で全ての文章が公開されておらず、本当のところを決定付ける文献的証拠が今のところ利用できないので、どういう原因であったか正確に判断することは不可能です。が、ともかくスターリンは1941年前半には独ソ戦は起こらないと判断していた模様で、こういった前線の情報は無視されておりました。

 これはあくまで私の憶測ですが、スターリンが戦争準備を進めていたことを考えると、やはり独ソ戦は不可避であると考えてはいましたが、他国の指導者と同じく、ヒトラーの行動に対して、自らの希望の混じった甘い観測、つまりはドイツ軍の攻撃はまだ先になる、を行なっていたのでしょうか。

 また、ゾルゲやシャンドル・ラドらの報告は結果的には正しいものでしたが、まったく役に立たず、歴史の闇に葬られたガセ情報も数多く寄せられていたはずです。確度の薄い情報に、ソ連軍全体が振り回されてしまうのは、外交的にもそうですが、きわめてよろしくないことです。しかも、スターリンは石橋たたいて渡る性格ですから、諜報員の情報と前線、あるいは軍の報告が一致しない限り、行動に移ろうとはしなかったのでしょう。一応独ソ不可侵条約がありますので、それほど反対の色を立てるわけにも行かず、しかも、この場合弱い立場にいたと思っていたのはスターリンの方です。なおさら情報が確実と思えなければ、動く気にはならなかったのでしょう。

 しかし、ドイツ軍は着々と攻撃準備を進め、とうとう1941年の621日、駐在フランスソ連武官からドイツの攻撃を警告する報告がありましたが、スターリンはこれも無視しました。しかし、相次ぐ前線からのドイツ軍の行動活発化の報告にさすがのスターリンも不安になったと見え、チモシェンコ国防人民委員とジューコフ参謀総長の意見を取り入れ、22日から23日までにドイツ軍が奇襲をかけるという警告を前線部隊に対し発しました。しかし、22日朝に指令が解読される間もなく、1941622日モスクワ時間午前315分、550万のドイツ軍がなだれを打ってソ連に攻め込み、「バルバロッサ作戦」が発動されたのです。ここに松岡洋右の日独伊ソ四カ国協商の夢は完全に崩れさりました。


 





ゲオルギー・コンスタンチノーヴィチ・ジューコフ
Жуков, Георгий Константинович
1896-1974

騎兵科出身、ノモンハン事件で日本軍第23師団を壊滅させる
第二次大戦で赤軍参謀総長をつとめるも、フルシチョフにより
国防相を解任。




   ドイツ軍の北部・中部・南部からのソ連領侵入

 レニングラード占領を目指す北部方面軍、モスクワ占領を目指す中部方面軍、ウクライナ・カフカースを狙う南部方面軍がソ連になだれ込み、奇襲は完全に成功、ドイツ軍機の急降下爆撃は多数の飛行機、鉄道網、通信施設を破壊します。そのため開戦後数日立っても、このころ執務室をクレムリンに移したスターリン側では前線の状況がつかめぬありさまでした。

 スターリンにとってこのドイツ軍の攻撃は寝耳に水だったらしく、22日の朝4時にモロトフから独軍ソ連に侵攻するの報を聞くと一瞬絶句したといわれます。そして朝5時半にモロトフがドイツ大使シューレンブルクと連絡をとり、ドイツとの開戦が間違いないものだと確認すると、自らの判断の誤りに対する負い目があったのでしょうか、ラジオ放送でモロトフに開戦の事実を伝えさせます。そして総統帥部を設けると、チモシェンコをその長に据えました。しかし、ドイツ軍に通信網を寸断され現状を把握できない政府首脳は混乱を続け、これだけ国土深くドイツ軍に進撃されているにもかかわらず、指令第三号では前線で戦う赤軍に対し、敵を撃滅し、国外へ打って出るという指令が出ました。

 ところが前線ですが、パブロフ上級大将指揮下(政治将校フォミニエイ)の西部特別軍管区の司令部のあったミンスクは22日の朝ドイツ軍の集中砲火を浴びて高周波(周波数の高い波長)の特別通信は寸断されて孤立し、一週間を経ずして陥落しました。この責任を取らされてパブロフと彼の部下である第四軍司令官コロプロフはモスクワに召還され、722日臆病と裏切りの罪で処刑されます。クズネツォフ大将指揮下(政治将校ディブロフ)のバルト特別軍管区の守るソ連北部でもドイツ軍は快進撃を続け、71日にはリガが陥落し、リトアニア、ラトヴィアが早くもドイツの勢力下に収まりました。キエフ特別軍管区とオデッサ軍管区のあるウクライナ方面ですが、ここは相対的に手厚い軍備がしかれていましたが、赤軍が撤退を続けた事実には変わりはなく、3週間でウクライナ全域がドイツ軍の占領下に入ります。







20
世紀のロシア
赤丸は当時の主要都市
地図拡大




 余りのドイツ軍の快進撃に麻痺状態だったソ連中枢ですが、結局側近達はスターリンを盛りたててのこの戦いを乗りきるべく集まり、1941630日モロトフがスターリンの側近とともにスターリンの元へ訪れ、内戦時代の労農国防会議を参考に、モロトフを長とする国家防衛委員会の設立を提案します。スターリンはこれを受け入れ、モロトフ、ヴォロシーロフ、のちの書記長マレンコフ、内務人民委員ベリヤなどを加えたこの会議がソビエト側の戦時中の最高意思決定機関として機能しました。

 73日、当初のショックから回復したらしいスターリンは開戦後、ラジオを通じて国民向けの初の演説を行ないます。

 ー「同志、市民諸君、兄弟姉妹よ、わが陸海軍の兵士達よ。私は諸君に訴える、わが友よ…

  …敵は残酷かつ無慈悲である。彼等はわれわれの土地麦や石油を取ろうと狙っている。敵は地主の権力を回復し、帝政を再び打ち立て、ソ連人民の民族的文化を破壊しようと望んでおり、ソ連人民をドイツ貴族たちの奴隷としようとしている…

  …われわれは、ソ連国土の一センチまで闘わねばならず、わが町や村のために最後の血の一滴まで戦わねばならない…

  …また、敵に味方する者を直ちに処刑し、絶滅しなければならない…

  …人民の全ての力は敵を壊滅するために使わねばならない。前進せよ、勝利に向かって。」ー

 スターリンはこの演説中で始めて、それまでも新聞やラジオでこの戦争をさす名称として使用され始めていた「大祖国戦争」という表現を公式に始めて使用しました。ここでやっとこさっとこ総力戦体制に入りかけたソ連は、総統帥部を最高司令部とし、スターリンがその長となります。また、前線の名称を変更して、旧バルト海沿岸特別軍管区を北西方面軍としヴォロシーロフを総司令官に任命、西部特別軍管区は西部方面軍としチモシェンコを総司令官に任命、その他は南西方面軍とし、ブジョンヌィを総司令官としました。さらにスターリンは719日に国防人民委員(軍需相)を兼任し、88日には最高司令部を最高総司令部と改称し、ソ連軍最高総司令官に就きました。

 そしてナチスドイツの攻撃をさけ、あるいはナチス占領地でのソ連工場の転用を恐れ、軍需工場の疎開が検討され、19616月、33歳の若さで軍需工業人民委員(閣僚)に任命されたウスチノフがなんと数週間で軍需工業の大部分をウラル山脈東方に移転させることに成功します(ちなみに後の初代ロシア大統領エリツィンの回想録『告白』によると、このとき疎開してきた工場は、機械の据付が終わった時点で天井すらできていない状態で稼動をはじめ、工員は工業団地などないまま急造のバラックで寝泊りしながら生産に取り掛かったそうです。このときに作られたバラックはエリツィンがスヴェルドロフスク第一州知事時代までだいぶ残っていたとのことです。)。その後有能なウスチノフはブレジネフ時代の1976年国防相に任命され、ソ連邦元帥に昇格します。







大佐時代(1943年)のブレジネフ




 当時ウクライナのドニエプロペトロフスク州党委員会書記だったレオニード・ブレジネフも戦時特別任用令で陸軍中佐となり、後に軍管区が改組されてできた南部方面軍の政治部次長に転出しました。1942年には大佐となり、第18軍政治部長として戦争指揮を執りましたが、このときの軍司令官でブレジネフの戦友だった人物が、のちにブレジネフ書記長時代に国防相に任命され、その6年後国防相のままで政治局員に上り詰めたグレチコです。

 ドイツ軍の快進撃は続き、715日、スモレンスク市南部の砲台をドイツ軍が占領します。ちなみにこの戦闘ではじめてトラックに積んだ八連装のミサイル発射機、ソ連軍側のあだ名「カチューシャ」、ドイツ側のあだ名「スターリンのオルガン」が投入されますが、この時点ではまだ配備数が少なく、わずかな成果をあげたのみでカチューシャ部隊は撤退せざるを得ませんでした。さて、古来モスクワへの入り口であるスモレンスクを奪われることはモスクワへの侵入路を確保されるということで、スターリンは716日、西部方面軍総司令官チモシェンコに対しスモレンスクの死守を命じますが、その日のうちにスモレンスクは陥落してしまいます。しかし、ソ連軍は陥落後も散発的な抵抗を続け、ドイツ軍がスモレンスクを完全な支配下におくのは26日になります。







ミサイル発射中のカチューシャ







展示されているカチューシャ




 このカチューシャは(黒色火薬の場合のものもありますが)、世界で初めて、ダブルベース(いわいる綿火薬のニトロセルロースと、いわいるダイナマイトの1,2,3−トリニトログリセリンの混合)無煙火薬を使用したロケットミサイルをつんだ自走式ロケットランチャーです。ニトロセルロースにしても、ニトログリセリンにしても、それ自体は爆弾ですので、燃焼が早すぎ、固体燃料にしても一気に燃焼してしまって(言葉を変えると爆発して)、推進力になるどころかロケットを破壊してしまうのですが、両者を半分づつうまく混ぜ合わせると、燃焼速度がゆるくなり、固体燃料として使えるのです。

 無煙火薬は黒色火薬に比べ排気速度が倍であり、それまでのロケットにくらべ、相当の飛距離を誇ったものと思われます。このカチューシャ・ロケットは、ニコライ・イヴァノーヴィチ・チホミーロフの手で個人的に、モスクワで研究されていた固体燃料ロケットです。

 写真を見てもわかるとおり、簡単な構造です。トカレフしかり、カラシニコフしかりで、兵器・工業製品は、構成部品数を徹底的に絞り、非常に簡単な構造に仕上げることに徹する、はロシアの工業製品全般に通ずる設計思想です。私も、お土産の旧ソ連製のサモワールが壊れていたので、友人に手伝ってもらって分解したことがありますが、あの図体で心臓部の部品が手のひらに乗っかるほど小さく、あまりの簡単さに驚いたことがあります。

 しかしよく考えてみると、シンプルというのは大量生産が宿命の工業製品にとってはきわめてプラスなことなのです。たしかに、単純な構造だと、性能もそこそこになってしまうため、一級品にはなれません。しかし、二つの部品を一つにくみ上げるのと、三つの部品をくみ上げるのでは、明らかに前者のほうがくみ上げミス率が下がります。少ない部品は工程を少なくできます(つまり安上がりで早くできる)し、簡単な部品だと製造も簡単なため、欠陥品が出る割合が下がります。

 構造が簡単だとそもそも故障する部分がないので、少々荒っぽい使い方をしても故障しませんし、故障したとしても自分で直せる可能性が上がります(実際旧ソ製のサモワールも結局直りました)。このように構成部品が少なく機構が簡単だというのは、こと量産という点になると、すばらしい長所となるのです。この簡単な設計による量産化における優位、故障率の低さこそが、優秀なるナチス・ドイツの兵器を、質では劣るソ連兵器が量で圧倒した背景であると思います。

 話はずれますが、さらにこの旧ソ連製のサモワールを大学の学園祭でロシア喫茶と展示をやったときに使用したことがあります。飲み物として紅茶を出すことにしたのですが、我々のサークルが使用を許可された教室の校舎の老朽化の関係上、その際電力の使用制限が非常に厳しく、ワット数の使用上限が390Wに制限されていまして、1000W近い電力を消費する普通の日本製の電気ポット(2006年)はとても使用不可能な状態でした。そこで、ロシアの電圧220Vの条件下で1000Wの出力のサモワールを電圧100Vの日本で使用し、さらにレギュレーターで出力を50%ダウンさせ、結局約250Wでサモワールを使用したのですが、こいつが立派に作動したのです。

 激しい沸騰が起こるという程度ではありませんでしたが(日本の100Vコンセントで使用すればちゃんと沸騰します)、少なくともお湯の保温には何も問題のない使用状態でした。見かけは最悪ですが、相当な悪条件にも堪えうる強力なパワーがあり、旧ソ連崩壊から数えて最低でも製造後15年を経過したにもかかわらずまったく壊れる気配のない家電製品である旧ソ連製のサモワールを見ながら、日本とロシアの設計思想についてつくづく考えたものです。

 さて、無煙火薬は排気速度の速さから見てもわかりますが、もともとは大砲・銃の炸薬として使用されたものでして、爆発力が大きいため発射時のショックも大きく、ロケットが頑丈な構造をしていることが要求されます。したがって、このカチューシャは、単純で頑丈で壊れにくいソ連兵器ならではの、傑作ロケットランチャーつきトラックだったのでしょう。

 さて、1894年に固体燃料ロケットの研究を始めたチホミーロフはその後20年間以上にわたり研究を続け、1921年とうとうソ連政府から予算を獲得することに成功します。そしてレニングラードで一連の発射テストを成功させた後、1925年、全実験設備をモスクワからレニングラードへ移しました。そして1928年、カチューシャの発射テストを行い、その直後、航空機の翼理論で有名なジューコフスキーの肝いりでレニングラードにГДЛ(気体力学研究所)が発足しました。







ニコライ・イヴァノーヴィチ・チホミーロフ
Тихомиров, Николай Иванович
1859-1930

若き日のカチューシャロケットの開発者




 ちなみにモスクワにもロケット研究機関がありました(ГИРД)が、1933年、ミハイル・トハチェフスキー元帥の尽力により、モスクワとレニングラードでばらばらに進められていた研究は一本化され、РНИИ(反動推進研究所)が誕生し、研究者も資金も分散せず効率よくロケットの開発が進められていくようになります。一方アメリカはゴダードが勝手に液体燃料ロケットの実験をやっていたくらいで、国家プロジェクトとしてのロケット開発はやっていないに等しく、しかも当初は陸・海・空軍の三軍がばらばらに開発競争を行なっていたため、重複した研究を行なうなど極めて効率の悪い体制でした。つまり、第二次大戦中におけるカチューシャ実用化などが示すように、ソ連に於いてはそもそも戦前からロケットの開発が進んでいたわけで、このあたりが、宇宙開発においてソ連がアメリカに先駆けた根本的な(つまりはある意味当然な)理由です。

 さらに、極東では日本が関東軍特殊演習を行い、ソ連を脅かすような行動をとりますが、結局戦端を開くには到りませんでした。ナチスドイツの進撃に合わせて、企業・工場のウラルやシベリアへの疎開がおこなわれました。これに歩調を合わせて、エカテリーナ2世がロシアの近代化をはかる目的でヴォルガ河流域に定住させたドイツ人たちに対し、破壊分子・スパイ活動を行なう者がいるとの理由で、1941828日、彼ら全員に対し、ノヴォシビルスク、オムスク、アルタイなどへの強制移住が決定されました。こうして、ヴォルガ河流域のドイツ人自治ソヴィエト共和国が消滅しました。

 この話と関連しますが、あるヴォルゴグラード(旧スターリングラード)出身のロシア人の方とロシア料理店でいろいろしゃべった(2006年)のですが、その人はお父さんがドイツ人だとおっしゃっていまして、それでそれならお父さんとお母さんが東ドイツあたりで出会ったのかと思っていたら、そのお父さんはなんとエカテリーナ2世がドイツから招いたドイツ人の子孫だったということでした。今はそうではないが、その方の家は昔はプロテスタントだったそうで、いまでも彼女はロシア語だけでなくドイツ語もしゃべれます。で、先ほど述べたごとく、その方のおじいさんの時代、ドイツ人自治ソビエト共和国は消滅させられ、住んでいたドイツ人達はシベリアなどロシア各地へ離散させられたといっておりました。一度も会ったことはないが、いまだに親戚がシベリアに住んでいるとのことです。自分たちの世代はもう昔の話だから覚えていないが、おじいさんたちはあの時代を、スターリンを非常に憎んでいた…、と言っておりました。

 バルカン半島はナチスドイツの手に落ち、アフリカにおけるロンメル将軍の快進撃はアレキサンドリアまで迫り、ボスポラス海峡をトルコに封鎖された今、イギリスとソ連の通信・物資補給路はイランだけとなります。1941814日、カナダのニューファンドランド島の沖合いで、アメリカ大統領ルーズベルトと、イギリス首相チャーチルとの間で太平洋憲章が採択された会談で、イラン占領によるソ連への補給ルートを確保することが決められました。そこで、もとコサックで旧ロシア帝国大佐であり、1921年テヘランに進撃し、クーデターに成功してイランのカジャール朝を倒し、パーレビ王朝を打ち立てたレザ・シャーに対し、イギリスとソ連はドイツ人の追放を要求します。

 この戦争で中立を宣言し、さらに近代化のため多数のドイツ人顧問および技術者を雇い入れていたレザ・シャーは当然これを拒否しました。そこで1941823日、ルーズベルトの黙認の下、ソ連、イギリスはイランへの侵攻を開始し、レザ・シャーを退位させインド洋のモーリシャス等へ島流しとし、息子のモハマド・レザ・パーレビへ王位を譲らせました。こうして何とか南部からのソ連への補給ルートが確保されたのです。

 ただし、この占領によって本当にイラクが分割されることのないよう、1943年ソ連、イギリス、イランの間で三ヶ国条約が結ばれます。この条約の第五条に、「同盟軍は、ドイツとその同盟軍との戦いが終わった後、6ヶ月以内にイラン領土から撤退しなければならない」と明記してあり、これはテヘラン会談でもコミュニケで明記されました。


        ドイツ軍の北部・南部方面進撃

 ここで、どういう心境が働いたのか謎ですが、ヒトラーはドイツ軍内部の反対意見を押さえ、このまま一気にモスクワへ侵攻するのでなく、北のレニングラードと南のキエフを押さえてからモスクワへ侵攻するという方針を出し、ドイツ軍の攻撃は北と南に集中します。

 スターリンは最高総司令部大本営命令270号を発表します。「戦闘中に階級章をはがし、後方に退却するか敵に降伏した司令官及び政治担当官は、悪質な脱走者と見なし、その家族は、宣誓を破り、祖国を裏切った脱走兵の家族として逮捕する。」というこの命令は全部隊で読み上げられます。

 この戦争指導方針に従いソ連軍は撤退をやめ、徹底抗戦に向かいますが、この結果ドイツ軍に包囲されたキエフで撤退の時機を逸した4050万人のソ連兵が捕虜となり、1941917日にキエフは陥落します。そこで南西方面軍総司令官ブジョンヌィは解任され、チモシェンコが総司令官に任命されます。

 北部でも8月半ばノヴゴロドが陥落し、さらにフィンランドがナチスドイツと呼応するかのように、ソ連に対し軍事行動を開始します。「継続戦争」のはじまりでした。(フィンランド側はナチスドイツとの間にいかなる合意もなかったと主張しておりますが、実際のところはわかりません)。マンネルヘイム率いるフィンランド軍はラドガ湖北西部に進出し、北部ソ連軍をレニングラードとカレリアに完全に分断しました。98日からレニングラードは包囲され、ドイツ軍の砲撃が始まり、別段食糧備蓄を行なっていなかった市を飢餓が襲ったのです。ラドガ湖を使った船と、結氷期にはそりを使った輸送が細々と続けられましたが、この包囲は1944年まで続き、餓死者の数は60万〜100万の数字が挙げられています。


           首都モスクワ攻撃

 こうして北と南でソ連軍を追い詰めたドイツは1941930日、いよいよモスクワ総攻撃を開始します。モスクワまで200300kmの位置までドイツ軍が迫り、105日、国家防衛委員会はヴォロコラムスクーモジャイスクーカルーガを結ぶモジャイスクを防衛ラインと定めました。この防衛ラインには極東から引き抜いた四個師団、中央アジアの二個師団、モスクワの志願軍三個師団、ドイツの包囲から逃れてきた兵を集め、結局14個師団、16戦車旅団、40歩兵連隊の陣容がととのいました。

 ここが破られればもはやモスクワまでの道のりを阻むものは何もありません。そこで国家防衛委員会は108日から9日にかけて撤退の際に爆破する建物や施設のリストアップを行い、15日には首都撤退の決定を下します。モロトフはモスクワにとどまっていた外国使節をスラーリングラードの北方、ボルガ河に臨むクイブイシェエフに撤退させるよう命令が出、ベリヤとシチェルバコフにはドイツ軍がモスクワ城門に現れた際市内の諸施設を爆破するよう命令が出されます。

 そして、外国使節と内務人民委員部の中央機関がモスクワを離れました。スターリンの娘スヴェトラーナの回想録によるとスターリンは家族をクイブイシェフに避難させ、自身も蔵書類などの荷物をまとめるなど撤退の準備を進めていた模様でしたが、結局彼はモスクワにとどまりました。この点は、はるか700年前、キエフがモンゴル帝国のバトゥの軍勢に責められた際、当時のキエフ公が部下に防衛を任せて自分は逃亡してしまったことに比べて極めて高く評価できます。あるいは、やっぱりスターリンはロシア人ではなしに、グルジア人だったということなのでしょうか。ともかく、このスターリンの行動は前線の兵の士気を鼓舞したでしょう、なんとかドイツの進撃を食い止める働きをし、そろそろ冬が迫り、ドイツ軍の攻撃も10月末には鈍ってきます。

 さらに11月となり、スターリンは116日、地下鉄マヤコフスキー駅で24回革命記念日の祝典を行ないました。ちなみにロシアの地下鉄は地下へと続くエスカレーターがむやみと長く、やはりこういった戦時のシェルター代わりにもなるよう設計されていたのでしょう。翌7日には赤の広場で軍事パレードを行い、このときのスターリンはレーニン廟の上にしつらえられた演壇から、レーニンのみならず、ナポレオンを撃退したクトゥーゾフやスヴォロフらの名前も出した演説を行い、盛んに戦意の高揚に務めます。クイブイシェフでもヴォロシーロフらによる演説が行なわれ、パレードが行なわれました。しかし、クイブイシェフのパレードにあらわれたのは、小型の戦車、騎兵の引っ張る旧式の機関銃、トラクターの引っ張る大砲など、ソ連軍の苦境をあらわして余りあるものだったといいます。

 11月半ば、ドイツ軍の攻勢も跳ね返し、これを反攻の好機と見たスターリンは125日、モスクワ全面のドイツ軍に対し攻撃命令を下します。これでなんとか19421月までにはドイツ軍を100km250kmまでの地点に押し戻しました。スターリンはこれに勢いづき、1942年の1月半ばから膳戦線に渡って総攻撃に出るよう命令をくだし、北西方面では250km、南部では50km前線を押し戻しますが、ここでソ連軍の反撃はストップしました。スターリンはナチスドイツの目標はあくまでモスクワ方面だと考えており、主力をモスクワ方面に温存しておりましたが、ヒトラーの方では目標を変え、イランからのイギリスの対ソ補給ルートを遮断すべく南部戦線に兵力を集中し始めていたのです。

 さらには128日、日本の真珠湾攻撃から日米開戦となり、三国軍事同盟には特に参戦の義務はありませんでしたが、ドイツ・イタリアもこれに呼応してアメリカに宣戦します。結局日独伊三国軍事同盟にソ連を加え、三国同盟をユーラシア四カ国同盟に昇華することを日本から期待されたナチスドイツは独ソ戦を起こすことで日本の期待を打ち砕き、その海軍力に期待され、日本海軍の抑止力でもってアメリカの今大戦への参戦を押さえようと期待された日本は、真珠湾奇襲でかえってもっとも強力な敵アメリカを戦争に誘い出してしまい、結局外交的には三国同盟は、加盟国同士のとてつもない足の引っ張り合いに終わりました。ともかく、これで戦争はいよいよ世界大戦に突入してしまったのです。


  補給路南部への攻撃ースターリングラード攻防戦

 1942年の5月から6月にかけてモロトフはイギリスとアメリカを訪れ、ナチスドイツの全面攻勢に立たされているソ連の立場を訴えます。イギリスは英ソ同盟条約を結びますが、この問題から逃げ、アメリカのルーズヴェルトは第二戦線構築を約束します。しかし、628日に、ドイツ軍はタガンロークからクルクスにかけての戦線でボロネジの南とドン側の西と北に展開するソ連軍を撃滅しようとする、作戦「青」を発動して一大攻勢に出ました。この作戦は成功し、ドイツ軍はソ連の防衛ラインを突破、ソ連の南西方面軍は後退してスターリングラードに終結し、スターリングラード方面軍を組織しました。







スターリングラード戦線で
当時、南部方面司令部軍事会議委員のフルシチョフ




 しかし、ドイツ軍は北カフカースを占領して油田を占領、イランから届く石油の供給路の切断を目論見ます。そしてとうとうスターリングラードを攻撃目標に定めたドイツ軍は717日からスターリングラードに対する攻撃が始まり、825日にはスターリンがこの町がドイツ軍に包囲された声明を発表し、非戦闘員の退去を命令、913日にはドイツ軍のパウルス中将率いる第6軍のスターリングラード総攻撃がはじまりました。

 なんと言ってもここはスターリンの名前を冠した町ですし、それより重要なことは、ヴォルガ川に面すこの町を占領されれば、ソ連がイランを経由してのアメリカ・イギリスの補給を受け、南部の資源を北部に輸送するルートが遮断されることとなり、モスクワが干上がってしまいます。そこでソビエト側は軍事専用鉄道車両をつかって補給を強化し、スターリングラードにこもるチュイコフ中将率いるソ連軍第62軍も徹底抗戦の構えを見せますが、ドイツ軍はスターリングラード市街中部に侵入しトラクター工場、町を南北に分断します。







瓦礫の山と化したスターリングラード内部




 建物の一階一階を奪い合う熾烈な戦闘が続きましたが、チュイコフ中将はなんとかこの攻防戦を耐え抜き、冬の訪れで行動の鈍ったドイツ軍にたいし、作戦「ウラン」を発動、列車で輸送されてきた南西方面軍、ドン河方面軍、ドイツ軍の攻撃を受けているソ連軍第62軍を含むスターリングラード方面軍は吹雪をついて前進します。パウルス中将は撤退を進言しますが、ヒトラーの厳命により前線死守を命ぜられ、けっきょくソ連軍は1123日、三つの方面軍でドイツ軍第6軍を逆包囲することに成功しました。

 ドイツ第6軍を救出する作戦も失敗し、孤立状態で、なんとかドイツ空軍が補給を続けますがうまくいかず、冬のさなか飢餓が発生し、腹が減っては戦ができぬ、です。194321日、モスクワ放送は第6軍団司令官パウルス中将の降伏を放送し、工場を占拠し最後まで抵抗した第6軍団指揮下の第11軍団は22日午前840分、「第11軍団はその指揮下の6個師団とともに最後まで任務を遂行した。総統万歳、ドイツ万歳。ストリーカー(第11軍団長)」との最後の電報をうち、第6軍団気象班は午後1235分、最後の気象報告を発信すると、「これにて本気象局を閉鎖する。祖国よ、わが祖国よ…。」という言葉を発信し、これを最後に、第6軍団からの通信は完全に途絶えました。

 このスターリングラード攻略戦の失敗でドイツの電撃作戦は完全に失敗し、ソ連側も緒戦の打撃から立ち直ります。スターリンは勢いに乗って全軍で攻勢に出ますが、ドイツ軍の頑強な抵抗に阻まれ、ジューコフとヴァシレフスキーの助言で全線で防御に徹する方針を固めました。また、スターリンはお手盛りですが、このスターリングラード攻防戦の功績でソ連邦元帥に任命されます。

 1943413日、ドイツのベルリン放送が「カチンの森の虐殺事件」を発表します。ロンドンのポーランド政府が、ソ連軍のポーランド東部侵攻の際、捕虜となった多数のポーランド将校群、一般ポーランド市民の行方を追ってソ連政府と交渉を続けていました。ソ連側の答えはすでに捕虜は釈放されたとのことで、のちに彼らの所在を確認するとのことでした。

 ところが、グネズドボ駅についた汽車から毎日トラック数両で捕虜らしい集団が運ばれ、森で銃声が響いたのを聞いた市民がおり、その市民が後に森に出かけ、墓らしきものを確認していたのです。そこで、ドイツ軍による調査が行なわれた結果、カチンの森で、穴を掘って中に埋められた、頭部に銃弾を打ち込まれた約4200体のポーランド将校の遺体が発見されたのでした。

 ソ連時代、ソ連当局はこの事件をドイツのでっち上げだと主張しましたが、ゴルバチョフ時代、この事件の究明が約束されました。調査結果からみて、おそらく、犯人はソ連軍とみて間違いないと思われます。


      クルスクの戦車戦ーターニングポイント

 さて、ドイツ軍ですが、連合国軍のイタリア侵攻作戦が伝えられ、そろそろヨーロッパの枢軸国側が危なくなってきた状態で、194374日作戦「保塁」を発動します。これは、戦線中突出しているクルスクを、北、南、西、の三方向から同時に攻撃し、戦線を平らにしようというものです。それ以上の意味はないのですが、ともかくこれは史上最大の戦車戦となります。ソ連軍は、兵員約134万人、戦車・自走砲約3300両、火砲約2万門、空軍2650機が参加し、ドイツ軍は兵員約90万人、戦車・自走砲約3700両、火砲1万門、空軍2500機が参加するという壮大な規模となります。

 ソ連の中央方面軍、ボロネジ方面軍(ここの政治将校としてフルシチョフが赴任していていました。彼はこのクルスクの戦いで戦車を土中に埋没させ、トーチカとして使用することを提案しました。この提案は実行に移されましたが、土中に固定された戦車はその最大の特徴である機動性を失い、ドイツ軍の思いのままの攻撃目標となり大損害を出したといいます。そんな彼がスターリン批判で第二次世界大戦中のスターリンの戦術的誤りを指摘したのはお門違いというものでしょう。)もナチスドイツの攻撃に対し打って出、ソ連の誇るT34戦車、КВ-1戦車が繰り出され、ドイツ側は35ミリキャノン砲を装備し、爆撃機なのに対戦車砲撃が可能というHs129型爆撃機、37ミリキャノン砲を装備したユンカース87急降下爆撃機などの援護の元、ドイツの誇るティグレ戦車、パンテル戦車、フェルディナンド自走砲を繰り出して行なわれたこの戦いは、結局双方相打ちという形となりました。結局どちらが勝ったともいえない状態のまま、ヒトラーは、シチリア島上陸から始まった連合軍の地中海での反攻によるイタリア戦線の崩壊を恐れ、作戦を中止させます。いよいよ、これ以後ドイツ軍が全面的劣勢に立たされはじめたのです。







クルスクの戦い






T34/85

ソ連の開発した第二次大戦の傑作戦車




 このT34で画期的だったのは、ディーゼルエンジンを使用したということです。ディーゼルエンジンは、圧縮して高温となった空気に、重油を噴出して自己発火させピストンを押し出すものです。したがって、高圧にして無理やり発火させるので、ガソリンの発火点付近まで気温が下がり、ガソリンエンジンが点火しにくくなる寒冷地でも使用できると言うこと、ガソリンは揮発性であるうえ、引火点が-40℃であり、極めて爆発し易いのにたいし、ガソリンほど蒸気圧が大きくなく、重油は引火点が70-200℃であるため、ディーゼルエンジンは、火炎瓶をエンジンにたたきつけられても、発火の危険が少ないという利点があります。

 欠点としては、高圧燃焼ですのでNOxが極めて発生し易いと言うこと、重油の中に含まれる硫黄分のため、SOxが発生すること(戦場ではあまり気にならないのかもしれませんが)、ディーゼルノックの発生および高圧空気を送り込むため、騒音が激しく、エンジンが破裂しないため頑丈なつくりが必要とし、そのため重量が大きくなりがちであるということです。このディーゼルエンジン搭載戦車も、不恰好で効率は悪いが、異常に頑丈な工業製品の多い、これぞまさにロシア製といったところです。


   〜 3. 太平洋憲章ー戦後新秩序構築 〜

 少々時代がさかのぼりますが、ここで第二次大戦後の新秩序を決めることとなった太平洋憲章について説明したいとおもいます。1941814日、カナダのニューファンドランド島の沖合いで、アメリカ大統領ルーズヴェルトと、イギリス首相チャーチルとの間で以下のような共同声明がなされました。


 (1)米英両国は、領土その他の拡張をもとめない。

 (2)両国は、関係国民の自由に表明された希望と一致しない領土変更を希望しない。

 (3)両国は、全ての国民に対して、その政体を選ぶ権利を尊重する。両国は、主権と自治を暴力によって奪われた人々に主権と自治が返されることを希望する。

 (4)両国は、既存の義務を十分尊重しながら、大国たると小国たるとを問わず、また戦勝国たると敗戦国たるを問わず、あらゆる国家が、平等の条件で、経済的繁栄に必要な貿易と資源を利用できる状態を促進するように努力する。

 (5)両国は、全ての人々に対する労働条件、経済調整、社会保障、等の改善を確保するために、すべての国が経済の分野で完全な協力関係をつくりだすことを希望する。<