ソビエト時代(4)
〜〜 冷戦の開始 〜〜

ハリー・シップ・トルーマン
Truman, Harry Shippe
1884-1972
アメリカ第33代大統領
対ソ封じ込めの「トルーマン・ドクトリン」を発表
Российская
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伝統的に親露的なブルガリアは枢軸国ですがソ連に参戦しておりませんでした。しかし、ソ連は1944年9月5日にブルガリアに宣戦布告し、8月にブルガリア領内に進軍しました。そこで9日、パルチザンと「祖国戦線」はソフィアなどで一斉蜂起し、権力を掌握しました。 さて、新政権のズヴェノ人民連盟のキモン・ゲオルギエフを首班とし、労働者党4、農民同盟4、ズヴェノ人民連盟4、社会民主2、無所属2という振り分け的には割と平等な構成でしたが、労働党は法相、内相のポストを得て検察・警察権力を手にしました。この労働党のユーゴフ法相のもと、人民法廷が組織され、親独派の大量粛清が始まりました。 1945年には労働者党は祖国戦線による統一候補者名簿方式を主張しましたが、農民同盟はそれに反対して候補者を引っ込めます。すったもんだありましたが、結局戦況は強行され、祖国戦線が88%を得票し、ここでも親ソ政権が誕生したことになります。 ユーゴスラヴィア・アルバニア のちにのべますので、ここでは割愛しますが、ともかくこの二国はソ連軍がやってくる前に既にある程度自らの手でドイツ軍から勢力を奪い返しておりましたので、ユーゴスラヴィアはソ連とは独自の共産主義路線をとり、アルバニアに到っては、やはり山国なのでしょう、鎖国というドラスティックな選択をとります。 こうして各国それぞれ事情は異なりますが、ユーゴスラヴィアとアルバニアをのぞいて、ともかく親ソ政権が誕生し、いわいるヨーロッパの東側諸国といわれる地域が終戦とともに確立したのです。こうしてスターリンは資本主義諸国との間に緩衝国をおく目標を達成したのです。 〜 2. 冷戦の開始(1) ー ヨーロッパ・中東地域 〜 1946年3月5日、第二次世界大戦が終わった翌年の春のことです。訪米中のイギリス前首相ウィンストン・チャーチルが、アメリカのミズーリ州フルトン市にあるウェストミンスター大学に招かれ、講演を行ないました。そのときチャーチル率いる労働党は選挙に破れ、野に下っていましたが、第二次世界大戦時のイギリスの戦争指導を行なったこの著名な政治家を一目見ようと、群集が詰め掛けており、アメリカ大統領トルーマンを始めとする要人もチャーチルを案内すべくわざわざ詰め掛けていたと言います。 そこで演壇に立ったチャーチルによる、有名な「鉄のカーテン」演説がおこなわれたのです。 ー「いまやバルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステまで、一つの鉄のカーテンがヨーロッパ大陸を横切っておろされている。これらすべての有名な都市とその周辺の住民達は、ソ連の勢力範囲に入っている。そして、なんらかの形でソ連の影響を受けているのみならず、モスクワからの極めて強力でかつ増大しつつある支配に服している」ー この演説は、とうぜんスターリンの不興を買い、スターリンは『コムソモールスカヤ・プラヴダ』で3月31日、以下のように言い放ちました。 ー「チャーチルの演説は、連合国間に不和の種をまき、協力を一層困難にすることを目指した危険な行動であると考える。それは平和と世界の安全を危うくするものである。じっさい、チャーチルは、いまや戦争屋の立場に身をおいている。しかし彼はそこに一人でいるわけではない。イギリスだけでなく、同じくアメリカにも彼の友人がいる。この点でチャーチルとその友人達は、不思議なほどヒトラーと彼の一味をおもわせるでないか。」ー 予期されたことではありますが、こうして終戦一年後を経ずして、資本主義陣営と共産主義陣営の争い、冷戦がすでにはじまろうとしていたのです。一方のアメリカですが、大統領のトルーマンは以下のように述べました。 ー「アメリカの外交政策の主要目標は、我々が他の諸国とともに、強制から自由な生活を営めるような条件を作り出すことであり、これは日独両国との戦争に際しても、その根本目的となったものであった。… …しかし、我々が今、自由な国民が、その自由な政体と国家的独立を維持し、これに全体主義的態勢を強制使用とする侵略的運動に対抗するのを援助しないならば、アメリカはその目的を達成することはできないだろう。われわれは、直接間接の侵略によって自由な国民に強制された全体主義的体制が国際平和を脅かし、ひいてはアメリカの安全を掘り崩すに到ることを率直に認めなければならぬ。多くの国家の国民が、最近その意思に反して、全体主義的体制を強制されている。… …世界史のこの瞬間において、いまや殆ど凡ての国民が、その点について生活方式の二者択一をせまられているが、その選択は必ずしも自由に行なわれているとはいえない。一つの生活様式は、多数者の意志に基づき、自由な生態、代議制、自由選挙、個人的自由の保障、言論信教の自由、政治的抑圧からの自由をその特徴としている。これに反し、第二の生活方式は、多数者に対して強制的に加えられる少数者の意思に基づいており、その手段は、テロ、弾圧、出版放送に対する検閲、選挙干渉、個人的自由の抑圧である。私は武装した少数派や、国外からの圧迫に反抗しつつある自由な国民を支援することこそ、アメリカの政策でなくてはならぬと確信する。」ー 〜 トルーマン・ドクトリンより〜 これが、アメリカ第33代大統領ハリー・S・トルーマンによって、1947年3月12日に発表されたトルーマン・ドクトリンの一部です。これは、当時国務省の政策企画委員長のジョージ・F・ケナンが作成し、Mr.Xの匿名で『フォーリン・アフェアーズ』に発表されたレポートの構想によりまとめられた「封じ込め」政策の実現でした。ケナンは、ソ連の国際的地位の向上は、ソ連自身の国力の増大によるものではなく、隣接諸国家の崩壊によって引き起こされたものであり、アメリカをはじめとする西側諸国が断固としてソ連の勢力圏拡張の既成事実を認めない行動に出れば、ソ連は現在権利を主張している領域の凡てにわたって、その権利の保持を長くは続けられないと結論付けていました。 |
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この考えを推し進めて発表された、世界を自由主義陣営(アメリカ、イギリス、降伏させた日本、西ドイツ)と全体主義陣営(ソ連およびその影響下にある国)に二分し、アメリカが自由主義陣営の盟主となって傘下の国々を守り、全体主義陣営の膝下に置かれている国々を支援するのがアメリカの目的だ、ということです。コーデル・ハルにより起草され、ルーズヴェルトによって提唱された太平洋憲章の精神は完全に打ちすてられてしまったことになります。 実際は、この宣言が出される以前、既に中東で揉め事がおこっていました。1941年、ソ連とイギリスの連絡・補給路確保のため、ソ連とイギリスが占領したイランですが、1943年結ばれた三国条約により、ナチスドイツ崩壊後はイランからの撤退が約束されておりました。英米軍は1945年末、軍を撤退させますが、イラン北部五州を占領するソ連軍は動く気配をみせず、やがてアゼルバイジャン州で暴動がおこり、暴徒は、将来的なソ連への編入を目指すアゼルバイジャン自治共和国の建国を宣言します。 さらに、この暴動はクルディスタン州にも飛び火し、クルディスタン共和国の建国が宣言されました。このあまりに露骨なソ連干渉に、パーレピ国王のイランは安全保障理事会に二回この問題を提訴しますが、埒が空きません。そこで、チャーチルは1946年3月5日、アメリカで「鉄のカーテンを越えて西ヨーロッパにまで手を伸ばしてきた各地の共産党第五列(スパイ)は、文明に対する挑戦である」と講演し、トルーマンは3月8日、モトロフ外相対し強力な警告を送り、これで1946年4月9日、ソ連駐留軍はイラン領から撤退しました。しかし、ゲリラ兵にカモフラージュした事実上の駐留軍を残したままでした。 そこで、強力な英米の支援を受けたイランのパーレピ国王は12月、イラン軍をアゼルバイジャンとクルディスタンに侵攻させ、奪還に成功しました。ところがソ連はテヘラン政府に圧力をかけることでイラン北部の油田のための合弁会社設立に成功します。ところが、この会社の出資は51%がソ連、49%がイランという事実上のソ連の支配下にある会社でしたので、イランの輿論が納得せず、イラン議会は条約を批准せず、話が白紙に戻ります。 すると、イラン南部のフゼスタン州の町アバタンで、労働者の暴動が発生し、これをソ連が糸を引いたと見たイギリスが、1万5千人という大部隊を送り込み、ペルシャ湾は異様な緊張に包まれました。 かたやバルカン半島では、ギリシャにおける共産党ゲリラの活発化(ヤルタ会談で示されたとおり、ギリシャはイギリスの勢力範囲とされたためソ連はこの地域には基本的には手を出しておらず、1944年12月、イギリス軍の全面介入により民族解放戦線と人民解放軍が武装解除されておりました。が、彼らがその後の政情不安で反乱を起こしたのです)、およびソ連からトルコ政府に示されたモントルー条約の改定(黒海から地中海への進出というピョートル時代からのロシアの念願をかなえるということ)をせまりました。 この、イギリスの海だった地中海にソ連の勢力が伸びそうなバルカン、トルコでの動きを見た、アメリカ大統領トルーマンが議会に教書を送り、アメリカがイギリスに代わってギリシャとトルコに四億ドルの経済援助を与えた決定の後に、先に述べたトルーマン・ドクトリンが発表され、ソ連の地中海進出を押さえるため、トルコとイタリアに核ミサイルが配備されたのです。 これは、帝政ロシア以来のロシアの膨張をこれまで押さえてきたイギリスにかわり、アングロサクソンの家出息子アメリカがソ連封じ込めを担当するということを表明したことのほかなりません。いわいる冷戦の始まりです。1946年から1949年まで国連安全保障理事会ソ連代表を務めたグロムイコが拒否権を連発し(1946年と1947年の2年だけで22回です。)、「Mr.ニエット」のあだ名を奉られたのはまさに冷戦が険しくなっていった時期と一致しております。 |
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さらにアメリカは1947年6月、マーシャル・プランを発表します。このマーシャル・プランはアメリカが130億ドルの対欧復興援助を申し出たものです。これはアメリカの寛容さを示す話として当時大きく喧伝されましたが、この援助は実はドル建てでおこわなれました。戦後ヨーロッパではポンドの勢いが弱まり対外決済通貨が極めて不足してたため、貿易収支を決済する機関としてEPU(European Payment Union)が作られましたが、これがマーシャルプランの受け皿となったのです。つまりは、このマーシャルプランは、これまでキーカレンシーだったポンドの、ドルへの入れ替えをも狙ったものだったのです。 ところが、いくらヨーロッパへドルを散布しても、アメリカが一方的に儲かるだけでは、結局は世界からドルがアメリカに吸い上げられるだけに終わってしまいます。そこで、アメリカはモンロー・ドクトリンに代表される保護貿易政策を放棄し、10月30日、関税と貿易に関する一般協定を調印し、アメリカ市場を世界に開放し、ドルがアメリカから世界へ流れていく道を作りました。こうしてドルがアメリカから世界へ、世界からアメリカへ還流する道が出来上がり、これは、西ヨーロッパへの影響力の強化、アメリカによるポンド追い出しによるドルの基軸通貨化と、さらにはドルブロックによる世界経済からのソ連締め出しを意味しました。 対外貿易で巨額の黒字をはじき出し、資本を国内に溜め込むことに成功した国家は、金融大国となり、マネーパワーによって他国に強烈な攻撃を仕掛けてくるようになります。世界が一つの市場で結ばれ、その富を自国に流れ込ませることに成功し、史上かつてないほどの金融資本をためこんだ国が20世紀後半(イギリスのビクトリア朝にその萌芽がみられますが)に登場してきます。本格的な経済戦争の始まりです。 この動きにソ連は当然反発し、経済援助によって東欧諸国までアメリカの影響下に入ることを畏れたソ連は東欧諸国にマーシャルプランに参加することを自粛させます。具体的には、1947年7月にはチェコスロヴァキア政府はマーシャルプラン受け入れを表明しますが、ソ連の助言ですぐにそれを取り消し、受け入れでゆれていたポーランドもチェコスロヴァキアの例に倣います。さらにはこのマーシャルプランへの対抗策として、7月に、ソ連版マーシャルプランの「モロトフ・プラン」を発表し、ヨーロッパの共産主義勢力を結集させるため、1947年10月15日、ポーランドでコミンフォルム(欧州共産党情報局)が開かれ、創設大会でジダーノフが、世界は帝国主義陣営と反帝国主義・民主主義陣営に二分されていると主張しました。いよいよ冷戦が公然と姿をあらわしたのです。 そんな最中、チェコスロヴァキアで1948年、共産党によるクーデターが起こりました。もともとチェコスロヴァキアでは、第二次大戦前から共産党が非合法ではなく、その関係上、他の政党と共産党が共存していると言う珍しい共産主義国家であり、この国には鉄のカーテンがおりていないと言われておりました。ソ連はこの態度に満足できず、1948年2月、総選挙で共産党が敗北すると予測して、ゾーリン外務次官をプラハに送り込みました。彼の指導の下、ゴールドワット首相の率いる共産党はクーデターを起こして2月25日、政党各派による連立内閣ののっとりに成功します。ただ一人内閣に残った社会党の外相ヤン=マサリクは投身自殺をとげ、ベネシュ大統領も職を追われ、チェコスロヴァキアも完全に共産党の支配下に入ったのです。 このソ連の動きに西側は決定的に反発し、イギリスの労働党も、ソ連とアメリカの間に立ち、両国を仲介していたこれまでの立場を捨て、イギリスの国内はソ連との対立路線で固まりました。そして3月17日、フランス、ベネルクス三国と西欧連合条約(ブラッセル条約)を締結します。この西欧連合条約が、後のNATO(北大西洋条約機構)に発展して行くのです。 さらに、ここに第二次世界大戦終了直後の東西冷戦のひとつの頂点、ベルリン封鎖が発生します。戦後の政権が消滅してドイツの運営を行なうため、ドイツ管理理事会が発足しますが、すでに1947年12月、ロンドンにおける四カ国外相会議が決裂し運営が暗礁に乗り上げていました。そこで、英・仏・独の三カ国はその占領地区に独自のドイツ政府を樹立し、西側陣営に仲間入りさせようとしていたのです。 ソ連側はこれを四カ国協定違反であると非難し、ドイツ管理理事会をボイコット、さらには4月1日から西ベルリンへ出入りする鉄道・道路に交通制限を行ないました。しかし西側諸国は、新通貨ドイッチェ・マルクを発行します。ソ連はこれに対抗して東ドイツ地域で独自の通貨を発行、さらには6月24日、西ドイツの新通貨が西ベルリンに流入することを恐れたソ連は、西ドイツから西ベルリンにいたる陸上・水上の全ての交通網を完全に遮断したのです。 アメリカ軍当局は、装甲車と戦車でソ連の封鎖を突破するよう提案したと言われますが、第三次世界大戦をおそれるイギリス・フランスの反対にあって中止となり、かわりに必要な物資を飛行機で空輸すると言う作戦が取られました。この空輸は11ヶ月続き、最も多いときは45秒に一回飛行機が着陸するというペースでした。この問題を解決するためモスクワで外交交渉が行なわれましたが埒が空かず、結局西側の強い態度の前にソ連も1949年の5月12日、ベルリン封鎖を解除しました。 しかし、このベルリン封鎖は東西ドイツの分裂を決定付け、1949年8月、西側三ヶ国の占領地域で選挙が行なわれ、9月にはドイツ連邦共和国が成立しました。これにたいし、ソ連占領地域では1949年5月に人民議会による選挙が行なわれ、10月ドイツ民主共和国が成立しました。こうして、ドイツは完全に二つに分裂してしまったのです。 1949年1月25日、マーシャルプランに対抗してソ連と東欧5カ国の間で経済相互援助会議(コメコン、正式にはセフ、Совет Экономической Взаимопомощиです)が結成されます。4月4日には、アメリカを盟主とする、ヨーロッパの西側陣営が一つのブロックとなった北大西洋条約機構(NATO)が調印されました。この協約の内容は、NATOの加盟国の一つに加えられた攻撃は、NATOの全加盟国に加えられた攻撃と見なすという強力なものです。ここにアメリカは、モンロー・ドクトリンから始まって久しくアメリカの外交姿勢を決定付けた孤立主義をかなぐり捨て、世界情勢への介入の姿勢を鮮明にしたのです。 NATOの延長として1955年、トルコ、イラクとの間にバグダッド条約が結ばれ、さらにイラン、パキスタン、イギリスを加えて中東における反ソ防衛線が築かれます。(これに対抗して1955年、ヨーロッパの東側陣営ではソ連が中心となってワルシャワ条約機構が結成されました。) 1949年11月30日には対共産圏輸出統制委員会(ココム)が結成されました。こうして、国際的な機関による地球の秩序安定は完全に忘れ去られ、世界各地で地球を分割する勢力圏の設定が行なわれるようになったのです。 しかし、アメリカがジョージ・ケナンによる封じ込め政策という明確なプランのもと、マーシャルプラン結成やヨーロッパにおける対共産圏地域安全保障機構であるNATO、アラブにおける対共産圏地域安全保障機構バクダッド条約などによる、経済・軍事包囲網を着々と構成した反面、ソ連はこの危機に対処する具体的なプランを持ち合わせていなかった模様です。セフにしてもコミンフォルムにしても、あくまでアメリカの行動に反発した受身の行動で、ソ連の積極的な反攻ではありません。 しかし、この外部での緊張に対し、スターリンは国内粛清の必要を感じた模様です。こうして、独ソ戦の際本国から見捨てられ、独力で防衛に当たらねばならない羽目に陥って独立思考を身につけ、さらにもともとヨーロッパの窓として建設されただけあって外部に解放され、自由主義的なレニングラードに対する粛清が始まります。 この事件の背景には、マレンコフとベリヤのポストスターリンをめぐる思惑があり、スターリンがレニングラードの党組織指導者のクズネツォフを組織局員に任命して人事権を与え、レニングラード州および市委員会の第一書記であったジダーノフによって引き上げられた、大戦中に戦時経済を引き受けたゴスプラン議長のヴォズネセンスキーが政治局員になるなど、レニングラード派の成長が顕著でした。これに対抗するため、マレンコフとベリヤが中心となって、指導者選出の際に不正があったとのかどで弾圧が始まり、ヴォズネセンスキーとクズネツォフは死刑となり、1949年までにはそれまでのレニングラードの指導者層が一掃されます。 さらにスターリンの猜疑心はユダヤ人ファシスト委員会にまで矛先が及びます。この組織は、大戦中ソ連のユダヤ人が欧米のユダヤ人と連絡を取り、ソ連への支援を確保するために戦時中作られた組織でした。しかし、大戦後もこの委員会のメンバーはその人脈を使って欧米との連絡を取り続けたためスターリンに疑われ、スターリンは同委員会の解散を命じ、メンバーを逮捕しました。逮捕者の中にはモロトフの妻も含まれており、これでモトロフは外相を解任されかれの権威は失墜します。 こうして強力な力を蓄えたマレンコフとベリヤを牽制するため、スターリンはウクライナ共和国等第一書記のフルシチョフを呼び戻し、中央委員会書記及びモスクワ党委員会第一書記の地位にすえ、二人への対抗馬とします。これがフルシチョフが中央政界へ乗り出すきっかけとなりました。 また、スターリンは東側諸国の結束を固めることに専念します。1948年2月、スターリンはユーゴスラヴィアとブルガリアの代表をソ連に呼び、予め東側諸国の盟主ソ連に事前協議を行なわず対外政策を決定しないよう命じます。1943年までコミンテルン中央執行委員会書記長、その後ソ連共産党国際部部長、1946年からブルガリア首相を勤めたディミトロフ率いるブルガリアはこれに従いますが、ユーゴスラヴィアはそうはいきませんでした。ユーゴスラヴィアは、1941年4月にナチスの攻撃を受け、国王と政府が海外に亡命した後、独ソ戦開始後に共産党パルチザンが結成され、英米の軍事使節の訪問を受けるなどして、1943年夏ごろには国土のほぼ半分を解放区にすることに成功していたのです。 独力でナチスドイツからの解放を勝ち取ったと自負するチトーはこれに反発します。そこで、スターリンは1948年6月28日、コミンフォルムからユーゴスラヴィアを除名しますがこれは返ってユーゴスラヴィアの首脳部を結束させる形となり、イタリア軍に占領されながらも、ユーゴスラヴィア・パルチザンの援助で臨時政府を設立したアルバニアも同様に、これらの二国は独自の共産主義路線を歩むことになります。この流れを受けて、東欧諸国では粛清が起こりました。 |
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〜 3. 冷戦の開始(2) ー アジア地域 〜 中国大陸・インドシナ半島編 ソ連のアジア政策ですが、スターリンは、中国共産党との関わりも深め始めました。満州を占領したソ連軍は、地元の共産党組織とかかわりを深め、ソ連軍が中国共産党東北局に横流しした武器は、中国共産党が国共内戦を勝ち抜く力となります(しかし、このことで東北局は、延安の毛沢東とは独立の影響力をふるうこととなり、1954年、中国東北部共産党組織は、毛沢東の意を受けた周恩来の手により、粛清されます。)。しかし「一国社会主義」を取るスターリンは、中国共産党にはそれほど関心はなく、国民党の蒋介石、中国共産党の毛沢東、どちらが中国の支配者になってもいいよう両陣営と接触を持っており、むしろ蒋介石を中国における交渉相手と考えていた彼は、日本がポツダム宣言を受諾した8月14日、国民党との間に中ソ友好同盟条約を結びました。 蒋介石との関係が悪化すれば、ヤルタ会談で米英がソ連に認めたクリル諸島(千島列島)の権益を反故にしかねませんでしたから、国民党と条約を結んだわけです。ところが、アメリカの仲介で国民党と共産党が和解したのもつかの間、国共内戦に突入しましたが、最終的には共産党の勝利が確実となりました。そこで、1949年1月、極秘裏にミコヤンを、まだパルチザンの真っ最中で、河北省の西柏坡にいた毛沢東のもとへ派遣したのです。そこではソ連と中国との調整が行なわれ、ソ連側は、未だ農民国である中国が社会主義建設へ進むには早い、共産党の権力独占を求めるべきではないと主張し、毛沢東はこれを受け入れます。 そして1949年7月、劉少奇団長の中国共産党代表団の極秘裏の訪ソ受け入れとなり、劉少奇に対し、スターリンにしては珍しくもこれまでのソ連の中国に対する行動に関して遺憾の意を表明します。この話し合いでは、東欧・対米関係に関してはソ連が一元的に行なうが、東アジアの共産党に関しては、フィリピン・インドシナ半島の共産党組織が華僑ネットワークでつながっていたこともあり、中国共産党に任せるという決定がなされました。 こうして中国共産党とソ連との関係改善の機運が高まる中、8月29日、カザフスタンのセミパラチンスクで、ソ連は原爆実験に成功しました。この事実が世界に確認されたのは、9月23日の、トルーマン大統領の特別記者会見で、ソ連が最近数週間以内に原爆実験を行なったという証拠があると発表し、25日にタス通信がその事実を認めてからです。 ディミトロフもソ連・ブルガリア鉱物協会(共産圏でのウラン鉱探索のための機関です。)を勤め開発に協力した核兵器ですが、ことの起こりは1943年、イギリスなどが密かに核開発を進めているとの情報をソ連首脳部がキャッチした事がきっかけとなり、物理学者イーゴリ・クルチャトフらが中心となったグループに、核開発の要請がなされたのが、ソ連政府が中心となって核開発を始めた最初でした。 |
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クルチャトフらは、西側の研究者やスパイからもたらされた情報の検討をはじめ、さらにアメリカの砂漠の真ん中にあるロスアラモスでの核開発計画『マンハッタン計画』の詳細な情報を得ます(ちなみに日本でも『二号計画』(理研産業団、仁科芳雄ら)、『F研究』(京都帝国大学、荒勝文策ら)の名前で昭和18年(1943年)、熱拡散法、超遠心分離法によるウラン235の分離、濃縮の実験が始まっていました。)。ソ連首脳部が国際政治における核兵器の意味に気がついたのは1945年8月6日の、私の故郷広島への原爆投下からです。 ベリヤを長とし、マレンコフらも加わる特別委員会が直ちに結成され、内務人民委員部の全面的な支援(物資調達と海外の情報収集)と監視(機密保持のための閉鎖都市建設と科学者の監視、収容所での労働力を使用)のもとで進み、とうとう1949年、先ほど述べた如くカザフスタンのセミパラチンスクでソ連は核実験に成功します。しかも1953年、ソ連の科学者達は、ウラン235の核分裂の際に大量に発生するエネルギーを利用する原爆と異なり、原爆による超高温・超高圧状態を利用して、重水素を核融合させる際に大量に発生するエネルギーを利用する水爆のプロトタイプの開発に独力で成功しました。 こうしてソ連は核保有国となり、さらには10月1日、中華人民共和国が成立します。ソ連は、中華民国はもはや一地方政権に転落したとして、中華人民共和国を承認します。さらにソ連は中華人民共和国に中国の代表権を渡すよう提案し、これが受け入れられぬとして国連のボイコットを始めました。こうしtれ、東側諸国の西側諸国に対する攻勢感が俄に強まってきました。 12月16日に毛沢東がモスクワを訪れ、二ヶ月間に渡ってクレムリンに滞在し、スターリンとの会談を始めました。ところが、中国内部に残るソ連権益をめぐって対立が起こったらしく、会談は物別れに終わります。そこで翌1月、外相兼首相の周恩来をモスクワに呼び寄せ、政治局員ミコヤン、外相グシンスキーらの間で再度交渉が討議され、2月14日、中ソ友好同盟相互援助条約に調印がなされました。内容は、日本もしくは日本と同盟関係にある国からどちらかが攻撃を受けた場合、互いに相手に相互援助を与えるというものです(明らかにアメリカがターゲットとなっております。)。代償として、1952年末までにソ連は長春鉄道に関する権益を放棄し、旅順からソ連軍を撤退させることなどが決まりました。 さらに、スターリンの最大の懸案であったモンゴル情勢ですが、内モンゴルと外モンゴルを統一の国家に仕立て上げることなく、モンゴル人民共和国に関しては、現状を認めるということが決定されました。これで中国方面に関してはソ連は一応国境の安定化に成功したこととなります。 朝鮮半島編 さて、朝鮮半島を独立させることは1943年の12月、カイロ宣言ですでに決定されておりました。しかし、大日本帝国のあっけない降伏により、アメリカは、これまで中国市場に進出しようと虎視眈々蒋介石の国民党に援助を続けてきたわけですから、中国への橋頭堡、朝鮮半島を失うわけには行かないと考えておりました。しかし日本降伏の時点でアメリカがもつ朝鮮半島への最近接部隊は沖縄の部隊のみ、ソ連は満州全域を占領し、朝鮮半島までは一跨ぎの距離にいます。そこで、1945年8月、アメリカの国務・陸軍・海軍三省連絡調整委員会ではたらく将校が、彼らのみでワシントンで38度線を確定し、これが正式決定となりました。1945年8月12日、ソ連軍は北朝鮮に進軍し、38度線で停止、9月8日、アメリカ軍は仁川港に上陸します。 そして、具体的にどういう風に半島を独立させるかについて、1945年12月、モスクワで米英ソ外相会議が開かれ、朝鮮半島問題を解決する米ソ合同委員会が開かれました。しかし、米ソの対立が表面化し、とても解決する見込みがないということで、アメリカは国連に問題を持ち込み、1947年11月、ソ連の反対を押し切り国連朝鮮委員会が設置されます。委員会の下占拠が行なわれ、1948年8月15日、李承晩が大統領に選出され、大韓民国が成立し、12月に国連総会はこれを正統政府として認めました。 これに対抗するよう9月9日にソ連の後押しで朝鮮民主主義人民共和国が成立し、朝鮮半島は二つに分断されます。アメリカとソ連に後押しされてできたこの二つの国はやはり対立し、38度線に関する国境紛争が絶えず、その中で1948年9月、ソ連が同年中に北朝鮮から占領軍を撤退させるためアメリカもこれに続くように申し入れ、こうして米ソは朝鮮半島から撤退していきました。とにかくアメリカとの対立は避けたいスターリンは、こうして緩衝地帯を作り上げることで一安心と言うところだったでしょう。 しかし、この状況が追い風としたのが、ソ連の後押しで朝鮮半島北部に権力を確立した、1940年以降、ソ連軍人としての経歴をもつ元ソ連軍大尉、のちの抗日ゲリラ活動に身を投じた金日成(本名金成桂)です。ウランを産出する関係でこの地域における権益に、スターリンも非常に関心を持っていた(実際1950年代、ソ連は北朝鮮から2万6千トンものウランを含む砂岩を搬出し、1万5千トンのウランを抽出したといわれます。)のですが、1950年4月にモスクワを訪れた金日成はスターリンと会談し、武力による朝鮮半島の統一をスターリンに認めさせた模様です。米ソ対立を恐れるスターリンはソ連軍をこの戦闘に参加させる気はありませんでしたが、スターリンと金日成は毛沢東に中国側の意見を求め、毛沢東もこの考えを支持しました。 こうして1950年6月25日、北朝鮮の軍隊は、南からの攻撃を理由に北韓38度線の全線に渡って攻撃を開始、国境11箇所からの進撃を開始します。朝鮮戦争の始まりでした。当時世界最高の性能を誇ったT34戦車、155ミリ野戦銃砲、ヤク型戦闘機など、ソ連製の武器で武装した北朝鮮は韓国軍を圧倒、3日でソウルを占領します。アメリカは、中国代表問題で、人民共和国を支持したソ連がボイコットしていた国連安全保障委員会で、拒否権の発動なしに北朝鮮軍に軍事的強制措置を取らせる決議を行い、国連軍を派遣する決定を行ないました。しかし、国連軍とはいっても、陸軍の50%(40%は韓国軍)、海軍85%、空軍93%がアメリカ軍で、本来は指揮統制の機関として国連の軍事参謀委員会がありましたが、これにはソ連代表が居座っていますから、この委員会の利用は不可能で、安全保障委員会は結局指揮権をアメリカに委ねました。したがって、これは実質上アメリカ軍といっても過言ではありません。 北朝鮮軍は7月末には、韓米国軍を釜山まで追い詰めます。が、米軍の260隻の舟艇を使用した二個師団の仁川への上陸が成功し、北朝鮮の補給線を攪乱できたことで、米・韓国軍が優勢となります。9月26日には韓米国軍はソウルを奪還、北朝鮮軍を南北に分断します。ここで統一朝鮮の実現を目論むアメリカは半島北上を決定、10月1日には38度線を突破、10月20日には平壌を陥落させ、北朝鮮軍を国境付近まで追い詰めます。ここで、中国が参戦し、国防相彭徳懐率いる100万人の中国人民志願軍の派遣を決め、ソ連軍も中国空軍パイロットに偽装させたソ連パイロットを派遣、スターリンも「フィリポフ」の名で戦術の指示を行ないます。 |
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ミコヤン・グレーヴィチ設計局の傑作機、ドイツから入手した軍事技術を応用した後退翼ジェット戦闘機Миг15の供与も決定しました。Миг15は、北朝鮮の工業地帯を爆撃に飛来した、あの日本を焦土と化した戦略爆撃機B29をなぎ払い、アメリカ初の実用戦闘機P-80シューティングスターと、世界初のジェット機同士による航空戦を展開、P-38を寄せつけず、半島北部での航空優位を確保します。そのМиг15の航空援護の下、中・北朝鮮軍は12月には平壌を回復、翌1951年1月はじめにはソウルを再占領します。 ここに到ってアメリカ軍は共産軍の浸透人海作戦に対し火力による反攻作戦を決定、日本を焦土と化した焼夷弾の強力バージョンのナパーム弾、対戦車砲のバズーカ砲、誘導ロケット砲、夜間狙撃銃、無反動砲などを投入、ノースアメリカンF-86セイバーを投入してМиг15と戦い、3月14日にソウルを回復しました。けっきょく38度線付近で戦線は膠着し、1951年7月から、停戦交渉が始まりました。しかしスターリンは戦争継続は共産主義にとって有利であるとし、戦争終結を望まず、休戦条約が結ばれたのは1953年、スターリンの死後のことです。 アジアにおける共産主義の膨張を見たアメリカですが、1951年1月、アレン・ダレス国務長官が、再軍備と安保体制への組み込みの予備交渉で日本に乗り込み、1951年9月8日、サンフランシスコ対日講和条約・日米安全保障条約締結に踏み切ります。まさに、昨日の敵は今日の友、を地で行くやり方ですが、こうしてアメリカは、敗戦国日本を独立させ、日本をアジアにおける西側陣営のパートナーの一人としてみとめたのです。日本を反共の砦とすべく自衛隊の前身となる警察予備隊も創設され、これはスターリンとトルーマンの、日本を軍事化しないという合意に反しましたが、冷戦の悪化を前に、アメリカはこれを反故にしたわけです。サンフランシスコ講和条約には、グロムイコらも参加しましたが、調印には到りませんでした。 さらに、サンフランシスコ対日講和会議では日本が台湾の領有権を放棄することが正式に決まったわけですが、台湾の帰属に関しては棚上げ状態でした。ところが、蒋介石政権が安定し、朝鮮戦争で台湾の経済が回復すると、次第に台湾は中国本土と独立の状態となり、1942年、蒋介石は日華平和条約を結び、さらに1954年、米華相互防衛条約を結びました。こうして、フィリピン・台湾・沖縄・日本本土・韓国という、アメリカの東アジアにおける防共ラインが完成しました。 以上、アジアに出来上がった冷戦地図は、資本主義と共産主義で南北にわかれた朝鮮、これまた資本主義と共産主義で二つの国となった台湾(中華民国)と中国本土(中華人民共和国)、しばらくインドシナ戦争の混沌が続きましたが、1954年のジュネーヴ合意で、結局南北別々の国家となったベトナム、分割こそ避けられましたが、北方領土問題を抱えることとなった、東アジアにおける米軍基地の後背地としての役割をになう日本。多かれ少なかれ、アジアの国々は国内に分裂問題を抱させられることとなり、それぞれの一方にはアメリカ、ソ連が肩をもつ、という形となります。 冷戦が米ソの直接対決とは言わなくても、代理戦争として実際に火を吹くようになる中、ソ連だけでなく、アメリカ内部でも、個人の共産主義的思想に対する、事実上の取り締まりが始まります。そのヒステリックな反応の最たるもので、共産主義における粛清に対応するものが、赤狩りです。1950年、上院議員だったジョゼフ・マッカーシーは国務省の中に205人もの共産主義者がいるとの爆弾発言を行い、その後4年間に渡り、彼のイニシアティヴによる赤狩りはアメリカで猛威を振います。 魔女狩りを髣髴とさせるこの赤狩りは、ソ連の粛清が文化面にも及んだ如く、ハリウッドにまで及びます。実はこの赤狩り以前に、下院が設立した非米活動調査委員会が、1947年に、共産主義の浸透について公聴会を行い、結果監督・脚本家10人が既に追放されていました。しかし、マッカーシー登場後の赤狩りはそんな小さな規模ではなく、1951年、第二回目の公聴会を行なわれ、じつに324人もの映画関係者をハリウッドから追放されました。そんな中、アメリカに嫌気がさしてイギリスに帰ってしまったのがあのチャップリンです。チャップリンは1952年の非米活動調査委員会の喚問を拒否してヨーロッパへ向かったところ、司法長官は再入国の場合は監禁すると発表し、事実上の国外追放処置をとったのです。 〜 4. スターリン後ー後継者問題 〜 1951年12月、第19回共産党大会が開催されました。公式の場に入場・退場する時は政治局員の先頭に書記長が立つのですが、前回の党大会から13年目にして開かれたこの大会では、集団指導体制を強調したかったのか、スターリンはアルファベット順を選択し、会場に殆ど最後の順番で入ってきました。 この大会の目的は、農業問題を主体とする深刻な経済問題の改善を図り、大戦後の新たな目標、1951-1955の新五カ年計画の提案、最重要なものは、後継者の確定による政局の安定でした。最後にこの会議の終わりでは、政治局を、25人のメンバーと11人の候補からなる幹部会にすることが決まりました。 この大会ではスターリンはほとんど発言をせず、中央委員会報告はマレンコフが行ないました。つまり、これでスターリンの後継者がマレンコフであることが内外に示されたのです。しかし、党規約改正問題に関してはフルシチョフが抜擢されました。また、スターリンは、連邦内務人民委員部委員であるベリヤを畏れていました。そこで、まずはベリヤの側近のグルジア人を一掃し、ベリヤの出身民族ミングレル人(黒海沿岸にあった金毛羊の話で有名なコルキス王国の遺民です)がソ連邦からの独立運動を企てているとの告発を行い、グルジアとグルジア共産党の要職を占めていたミングレル人を逮捕します。こうしておいて、今度の党大会でもベリヤにはなんら目立った役目を与えませんでした。 この大会が終わった後、スターリンはさすがに耄碌したのでしょう、突然クレムリンの警護を担当していたヴラシク中将を逮捕させ、クレムリンの要人担当の医師達が反国家的活動をしていたという「クレムリン医師団事件」を新聞に発表させました。これからまたも粛清が起こるかと思われましたが、1953年3月2日、スターリンは脳の動脈硬化の発作を起こして倒れ、意識の戻らぬまま3月5日午後9時50分息を引き取りました。 |
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〜 5. スターリン評ー怪物政治家 〜 ここで扱っているのは現代史でして、現代史は残念ながら、資料が十分に公表されていないのと、事が起こってからそれほど時間がたっておらず研究途上ということがあり、まだ評価が確立していない部分が多々あります。しかも、新資料が発見されでもしたら、一気に叙述もひっくり返ってしまい、このHPの内容も書き直さねばならなくなります。ですから、現代史の内容をああだこうだと決定するのは時期尚早ですし、スターリンのような巨大で複雑な面をもつ人物を評価するのは正直非常に難しいのですが、ここであえてスターリン評を下してみようと思います。 スターリンは死後、子飼いの部下であったフルシチョフのスターリン批判演説で批判され、実際に批判されるに足る所業を行なったため世界的に言っても極めて評判のわるい政治家です。今なおスターリンに対していい感情を持たないロシア人も多い、というかかなりの人がそうです。 しかし、ソ連を農業国から工業国へ転換させたこと(農村の犠牲は極めて大でしたが)。実力で時の政権を打ち倒し、自負心に満ち溢れ、一癖も二癖もあり少々のことでは他人の言うことを聞かないたたき上げの革命家を粛清して、ともすれば分裂しそうだった共産党を統一し、政局を安定化させたこと。緒戦では失敗を重ねましたが、ほぼ独力での独ソ戦の勝利とその後のヤルタでの外交交渉を成功させ、戦後のソ連復興を成し遂げたこと。その結果、レーニンからソ連を受け継いだ段階ではいつつぶれるかわからないよちよち歩きだった世界初の共産主義国家ソ連、世界大戦でドイツ軍に破壊し尽くされたソ連を、その晩年にはアメリカと並ぶ世界の二大超大国の一つへと押し上げたこと。これらを実現したスターリンの手腕にはただならぬものがあります。こうしたスターリンの努力の果実を手に入れたのが、次期ソ連書記長フルシチョフです。 また、スターリンはあくまで公人としてふるまい、政治に私情は一切さしはさみませんでした。レーニンが生きていた頃、自分の祖国であるグルジアを、ザカフカース・ソビエト社会主義共和国連邦へ併合しようと暴力的な手段を用い、レーニンの不興を買っていたくらいでした。また、第二次世界大戦時、ナチスドイツから、ソ連側の捕虜となったヒトラーの親族と、同じくドイツ側の捕虜となったスターリンの最初の妻ケケ・スワニーゼとの息子ヤーシャとの捕虜交換提案がなされますが、スターリンはこれにたいし特に手を打ちませんでした。別にスターリンは子どもに対して特別冷淡であったわけでなく、娘のスヴェトラーナには惜しみなく愛情を注ぎ、スヴェトラーナはその回想録で ー「子どものころのわたしに父がやさしくしてくれたこと、心からの愛情を注いでくれたことを、わたしは決して忘れることができない。父が私に対するようなやさしい愛情を注いだ人間は、ほかにほとんどいないだろう。」ー と率直に語っています。スターリンは、非凡な政治家に共通の特性、必要な時には非常に冷徹になれる、をもった人だったのでしょう。 |
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むろん、彼によって起こった犠牲の数々、クラーク(富農)として断罪された人をはじめ、極端な工業優先政策の犠牲となり飢餓まで発生し多くの犠牲をだした農村、粛清、実際はスースロフの施策とはいえ、独ソ戦の勃発で民族ごと居住地を移動させられて消滅したヴォルガ河流域のドイツ人自治ソヴィエト共和国、対独協力が理由の、チェチェン人、クリミア・タタールのカザフスタンなどへの強制移動、多数のポーランド将校が犠牲となったカチンの森の虐殺などが、これで帳消しになるわけではありません。 またあるロシア人の先生のお宅にお招きしていただいたときのこと、そのときはありがたいことに台所に通され、さまざまなお話を聞いたのですが、その中でも、ソ連時代は盗聴を避けるため蛇口の水を出しっぱなしにして台所で本当の話をしたんですよね、とかなんとかいう話題になった時にポロッと先生の口をついて出た言葉、Ничего страшного нет…, без лагери.(何でもない…、ラーゲリ(ソ連時代の強制収容所)を除いては。)という言葉が忘れられません。「普通に生活してれば大丈夫なんじゃないですか?」と後でしつこく尋ねたのですが、先生は首を振って何も答えようとはされませんでした。あの迫害時代は、ロシア人の心に相当の恐怖を与え、その後も長く恐怖を残したのでしょう。 ただ、レーニン没後のソ連政界を殆ど一人で仕切り、ソ連の工業化の殆ど全てを担ったため、工業化を進めるうえで避けては通れなかった罪業(日本でも工業化推進のため農村を犠牲にした結果、女工哀史、東北大飢饉が発生しました)、革命後の政局安定(幕末に吹き荒れた天誅および明治時代の西郷隆盛・江藤新平らの追放、自殺及び処刑も見方を変えれば粛清にほかなりません)のための罪業、戦後のソ連復興の過程での農村の負担・犠牲(同盟国アメリカの資本主義国内での分業政策の意向もあったのでしょう、やむをえなかったとは思うのですが、日本でも高度経済成長期の金の卵政策が地方のさびれ、都市の過密など問題を生み出したのは明らかです。)等、工業化の過程で各国が抱えてこなければならなかったさまざまな犠牲の罪を、スターリンは一身に体現する羽目になったのです。 つまりスターリンは、功罪ともに大きいという、ユーラシアに時として現れる大人物の一人なのでしょう。私が遠からず、単なる正当化ではない再評価がなされるとにらんでいる人物の一人です。スターリンの生涯を振り返る上で、僕の頭の中で鳴り止まないのが、かのマキアヴェリの、『君主論』の文章です。 ーしたがって君主たる者は、自分の領民を結束させ、忠誠を誓わすためには、冷酷だのなどの悪評をなんら気にかけるべきではない。なぜなら、あまりに憐れみぶかくて、混乱をまねき、やがては殺戮や掠奪をほしいままにする(内乱を招く:私の注です)君主に比べれば、冷酷な君主の方は、ごくたまの見せしめの残酷さを示すだけで、ずっと憐れみぶかい人物になるからだ。後者の場合、君主が処刑を言い渡すのは、ただ一部の個人だけ傷つければすむわけで、前者であれば、全領民を傷つけてしまう。 なお、君主のなかでも、新君主にあっては、国が新しいため、危険に満ち満ちているから、冷酷だという評判を避けて通れない。ウェルギリウスが、ディドの口をかりて語ったのも、そのことである。 「事態の深刻さと国の若さのために、わたしはやむなくかかる方策を取り、国境のすみずみまでも、護りを固めるまでになり」ー 〜 17 冷酷さと憐れみ深さ。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか〜 ー君主は、ことに新君主の場合は、世間がよい人だと思うような事柄だけを、常に大事に守っているわけにはいかない。国を維持するためには、信義に反したり、慈悲に背いたり、人間味を失ったり、宗教に背く行為をも、たびたびやらねばならないことを、あなたは知っておいてほしい。したがって、運命の風向きと、事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心構えを持つ必要がある。そして、前述の通り、なるべくならばよいことからはなれずに、必要にせまられれば、悪にふみこんでいくことも心得ておかなければならないー 〜 18 君主たるもの、どう信義を守るべきか〜 スターリン時代の結果については、確かに農村体制の帝政ロシア社会を近代工業社会のソ連に大転換させることに成功し、ソ連社会に益するところ多大なものがありました。が、ある本に「そのあまりに大きすぎる犠牲の故、功績であると言い切る勇気を持たない」と書いてありましたが、同感です。政治とは、なくてはならない経世済民の営みでありますが、非常に後味の悪い行為を避けては通れない、つらいものなのでしょう。僕自身、この時代は、HPを書く上で、もっとも後味の悪い時代でした。 ーーーこのページの主要参考文献ーーー ・『物語 アメリカの歴史』 猿谷 要 著 中央公論社 ・『激動の東欧史』 木戸蓊 著 中央公論社 ・『アジア冷戦史』 下斗米信夫 著 中央公論社 ・『ペルシャ湾』 横山三四郎 著 新潮選書 ・『世界の歴史 23 第二次世界大戦』 上山春平・三宅正樹 著 河出書房新社 ・『ハル回想録』 コーデル・ハル 著 宮地健次郎 訳 中公文庫 ・『ソ連共産党書記長』 木村明生 著 講談社現代新書 ・『君主論』 ニコロ・マキアヴェリ 著 池田 廉 訳 中公新書 ・『ロシア史 3』 田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編 山川出版社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー |