ソビエト時代(6)

〜〜 アメリカとの対決とウクライナ派の台頭 〜〜






セルゲイ・パーヴロヴィッチ・コロリョフ
Королёв, Сергей Павлович
1907-1966

ウクライナ出身(キエフ生まれ)、ソ連宇宙開発の父

 


Российская
История

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 Он был мал, этот самый первый искусственный спутник нашей старой планеты, но его звонкие позывные разнеслись по всем материкам и среди всех народов как воплощение дерзновенной мечны человечества.

 ー彼は小さかった、我々の古い惑星の、一番最初のこの人工の衛星は、しかし、彼の澄んだコールサインは、人類の大胆不適な夢の実現として、全大陸と全民族に知れ渡った。ー



  〜 3. スターリン批判ー飼い主を噛む飼い犬 〜

 1956214日、第20回共産党大会が開催されました。この席で、フルシチョフを有名にした、いわゆるスターリン批判が起こります。この大会に先立ち、『歴史の諸問題』誌読者会議が開かれ、スターリンの経済論文と『ソ連共産党史小教程』が批判されましおりました。さらに21日の幹部会では、1930年代のテロルに関して討議されまあした。フルシチョフがこの件を大会で報告するように言うと、モロトフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチら、つまりあの大祖国戦争(第二次大戦)で、国家防衛委員会の委員で、スターリンとともに独ソ戦を戦いぬいた忠実なスターリン派は、これに反対しますが、ミコヤンを含む新世代の多数はこれを認めます。

 第20回共産党大会の議事が終わった後に、党書記ポスペーロフらによってまとめられた資料を基に、フルシチョフを報告者として行なわれたこの秘密報告は、まずレーニンの遺書を提示し、スターリンの人格的批判を行ないました。

 ー「スターリンは余りに粗暴である。この欠陥は我々当人の仲間うちでのつきあいではまだ我慢できるものであるが、書記長という役職にあっては許しがたいものとなる。そこで、私は、スターリンをこの地位から下ろし、他の人物に替えるよう同志達に提案する。その人物はなによりもまず、同氏たちにたいしスターリンよりも忍耐力があり、一層忠実で、さらに物腰がやわらかく、もっと慎重で、その上移り気でない等々の性格をもっているという点でスターリンとは根本的に異なっていなければならない。」ー

 前にも書きましたが、この手紙は例の、「余の死後開封のこと」とレーニンが但し書きをつけて夫人のクールプスカヤに渡した、ボリシェヴィキの主要メンバー全員を批評した手紙の一説です。ただしこの手紙は別にスターリンのみを批判する手紙ではなく、たとえばトロッキーは「真のボリシェヴィキではない」と書かれ、ジノヴィエフは「隠密政治家」と評され、ブハーリンは「講演臭強く、マルクス主義者とはいえないし、弁証法的思考に乏しく、机上学問的で、現実理解にかけてはいるが、全党の評判はよい。」などなど、他のメンバーも散々にこき下ろされておりました。また、この手紙の別の箇所では、スターリンは「なんら政治的欠陥はない」と評されております。

 ともかく、こういったスターリンについて非難に値する部分のみを集めて公表し、個人崇拝と専制のきわみで大量抑圧が起こったと発表しました。また、第17回党大会で選出された中央委員、候補の139名のうち98名が処刑されたという数字を発表しました。こうして、スターリンの独ソ開戦時および戦争指導の不手際、事件の捏造と党・赤軍内の粛清、個人崇拝の害毒、といった批判を展開し、返す刀で、ベリヤが、1919年にアゼルバイジャンのイスラム民族主義派ムサヴァティストの諜報機関で働いていたことがあるから外国諜報機関の手先であり、党の敵である、とこのとき既に処刑されていたベリヤも批判しました。

 いわいるスターリンの大量抑圧というのは、殆ど全てがこのフルシチョフの秘密報告から出たものです。これまで秘密のベールに包まれていた、ソ連政界の一端が明るみに出たのはそれはそれでプラスであったと思います。スターリン時代の重圧から解放されたとの感を得た党員達は確かにその場では喜んだでしょう。しかし、当初の興奮からさめたとき、スターリンが生きているうちは彼に忠誠を誓っておきながら、死ぬと一転、死者に鞭打つがごときスターリンの大批判を展開するような人物を、正直、支持できるものでしょうか。この辺が、フルシチョフが、歴代ソ連書記長経験者中、在任中に失脚させられた二人の内の一人である理由の遠因と感じます。

 さて、この秘密報告は各地の党員集会で朗読され、大きな衝撃を与えます。4月にはスターリンの東欧支配の出先機関だったコミンフォルムを解散し、さらなる非スターリン化をはかります。この状況の中、話は更に進み、64日、ポーランド共産党が秘密報告のポーランド語訳を作成し、党内に配布したものをアメリカの工作員が入手し、アメリカ国務省がこの秘密報告を英訳して発表したことが、各地の共産諸国に激震をもたらしました。

 特に深刻だったのは、このスターリン批判が中ソ対立の遠因となってしまったことです。中国共産党指導者の毛沢東、北朝鮮指導者の金日成にとっては、スターリンを通じて社会主義の理念や実際の組織を学んだのであり、スターリンや彼の作った制度はあがめるべき存在であったのです。確かにソ連人にとってはスターリン時代はさっさと忘れたい忌むべき時代でしたが、アジアの共産党関係者にとっては、偶像を踏みにじられた思いであったでしょう。さらに、フルシチョフの、個人崇拝批判というは、よくよく考えると、そのまま各国共産党指導者に対する批判に直結してきます。この辺の感情を計算に入れず、あるいはこの辺の忠告を聞き入れず、フルシチョフはスターリン批判をやったのでしょう。

 批判が悪いとは言いません、むしろ正鵠を得た批判は大いにやってもらうべきです。しかし、こういったことは歴史家の仕事であって、少なくとも、政治家が、自分の思惑から政治的に利用するために行なうものではないと思います。国内的なうけはよかったのかもしれませんが、このスターリン批判は外交的には非常なマイナスをもたらしました。

 フルシチョフのスターリン批判に対し、毛沢東らは、『人民日報』に「スターリンに誤りはあっても偉大なマルクス・レーニン主義者である」という見解を載せます。この意見の溝は結局埋まらず、ここに中ソの意見のすれ違いが生じました。核技術供与問題(これもフルシチョフ時代のことですが)をきっかけに中ソ対立が起こり、東アジアの大国でこの地域に隠然たる影響力をもつ中国に離反されたソ連は、アジアの共産党各国全体から離反されるという事態に陥ります。

 それはのちのことにしても、表立った波乱が起こったのはポーランドとハンガリーです。ポーランドはその余りに強すぎる民族主義的感情から、ソ連のコントロールがあまり効かず、またハンガリーは第二次大戦後に開かれた自由選挙で共産党が17%の得票率しか得られず、共産党の影響力の弱いところでした。このような背景からこの二国にはとくに反ソ反共的な動きが爆発したのです。

 1956628日にポーランドのポズナンで、機関車・鉄道車両を製作するジスポ工場の労働者が、待遇改善要求を求めるデモを起こし、これが暴動に発展します。事態を収拾するため、7月のポーランド共産党中央委員会総会を前にブルガーニン首相とジューコフ国防相が派遣されますが、ポーランド側はこの圧力を跳ね返し、政治局の人事更迭、労働者の企業参加などの独自路線を選択します。

 これに危機感を募らせたソ連は、今度は1019日に開かれるポーランド共産党中央委員会総会の数時間前、ポーランド側の要請を無視して、フルシチョフ、ミコヤン、モロトフ、カガノーヴィチ、コーネフらソ連最高首脳をワルシャワに送りつけ、あわせてポーランド駐留ソ連軍をワルシャワに移動させ、圧力をかけます。

 ところがポーランド側はこの圧力を跳ね返し、民族主義的としてかつて追放されたゴウムカをポーランド共産党第一書記に就任させ、ソ連国籍を持ちながらポーランド国防相を勤めるソコロフスキーの解任をあくまで主張します。さらにはポーランド国軍は出動態勢をとり、第二次世界大戦時にナチスドイツに一戦も辞さない態度をとったときと同じように、ソ連軍とも一戦辞さない態度をとります。ゴウムカの、ソ連の戦略的利益を損なう意図は全くないという意思表示もあり、結局圧力が効果をあげないことを悟ったソ連側はポーランドから引き上げ、結局ゴウムカは党第一書記となり、ソコロフスキーは解任されます。

 ハンガリーでさらに深刻な事態が発生します。当時ハンガリーでは革新を求めるペテーフィ・サークルの活動が高まり、失脚したイムレ・ナジの復活と、ハンガリーのスターリンと呼ばれたマーチャーシュ・ラーコシ勤労者党第一書記の解任と粛清への責任追及を要求していました。ところがラーコシはサークルに対する集会禁止令を出しました。ここで、非スターリン化には基本的に賛成のソ連は、ミコヤンとスースロフを送り、ラーコシの退陣工作に乗り出します。そしてラーコシを退陣させたまではよかったのですが、後任にラーコシの右腕と呼ばれたスターリン主義者、エルネー・ゲレーを選出したのです。

 これに市民が反発し、ゲレー指導部の集会禁止令にもかかわらず23日、30万人といわれる市民がポーランド人と連帯し、ブダペストでデモを行ないます。これに対し治安部隊側から(といわれれおりますが)発砲があり、デモ隊は暴徒化、武器庫から武器を奪い放送局を占拠、市内で銃撃戦が始まります。この暴動は全国に波及し、労働者は24日にゼネストに入ると発表します。

 23日に開かれた党中央委員会は、市民をなだめるため、ナジの首相任命を決め、アンドロポフソ連大使のなにがしかの助言によるものとされる、治安維持のためのソ連軍介入を要請します。24日昼、ソ連軍がブダペストに突入し、戦闘がはじまります。同時にミコヤン、スースロフ、セローフなどがモスクワから到着し、ゲレー、かつてチトー主義者として投獄されたヤーノシュ・ガーダール、イムレ・ナジらを交えて会談を行い、結局ゲレーの党第一書記の解任と、公認としてガーダールが後釜に座ることが決定されました。

 事態は止めどなく進み、27日にはナジを首班とする愛国人民政府が誕生し、28日にはソ連軍の撤退をもとめ、30日には勤労者党の一党独裁をやめ、複数政党制に移るとの声明を出します。ソ連は、1030日に、社会主義諸国間の独立、平等、内政不干渉の原則を盛り込んだ政府声明を発表し、ブダペストからの撤兵し、全面撤兵の交渉の用意があると述べました。






停止したソ連戦車に
群がる人々



 しかし、いつの段階で決定がなされたのか今なお不明ですが、ともかくソ連政府はハンガリーのナジ政権を打倒を決めておりました。ミコヤンはモスクワに戻りましたが、そのときフルシチョフは幹部会の決定に基づき、ハンガリー軍事侵攻への支持を取り付けるため、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラヴィアに来訪するところでした。ミコヤンはこの決定に反対しましたが、フルシチョフはこれを聞かず、出発しました。翌31日から111日にかけて、新手のソ連軍がハンガリー国境を突破してなだれ込み、ブダペストから撤退しかけていたソ連軍も首都に再突入、攻撃を開始しました。

 重なるソ連軍介入にナジは怒り、111日、ハンガリーはワルシャワ条約機構を脱退、完全中立を宣言し、その保障を国連に求めました。ここに到ってカーダールとミュンニッヒはソ連大使館の手引きで脱出し、カーダールは「社会主義労働者党」を結成すると発表し、4日には東部のソルノクからの放送で「革命労農政府」の樹立と、ソ連への援助要請を行なったという発表がありました。

 ソ連軍は42000台の戦車を投入してブダペストを制圧、さらに、一週間かけて抵抗する地方を鎮圧しました。ナジはユーゴスラヴィア大使館に逃げ込みましたが、身柄を拘束しないとのハンガリー政府の誓約にもかかわらず、ユーゴスラヴィア大使館を出たところでソ連軍に逮捕され、ルーマニア方面に連行された後、1958616日、ハンガリー司法当局の発表でナジらの4人の裁判と処刑が発表されました。ハンガリーの民主化運動は完全に叩き潰されたのです。

 ついで離反の動きを見せたのはアルバニアです。もともとアルバニア共産党は、ユーゴスラヴィア共産党の指導と支配を受けており、戦後も国家予算の半分をユーゴスラヴィア共産党からの援助にあおいでいました。ところが、スターリンとチトーが対立し、ユーゴスラヴィアがコミンフォルムから除名されると、強力なソ連につくべきか、恩のあるユーゴスラヴィアにつくべきか、深刻な立場におかれます。

 アルバニアは小国です、一度の国政の舵取りの失敗が致命傷になりかねません。党書記長兼首相のエンヴィル・ホジャはおそらく悩んだ結果、副首相兼内相のジョジェら、ユーゴスラヴィア指導部の信任厚いグループを裁判にかけて処刑し、反チトー路線を打ち出して、ソ連よりの姿勢を明確にします。

 そこに降って湧いたスターリン批判がおこりました。スターリンの施策をほぼ180度転換させるこの企ては、ソ連からのジョジェの名誉回復と指導部の更迭というメッセージでアルバニアに届きました。いまさら何を言うんだと思ったのでしょうか、結局ホジャは勧告を無視し、スターリン崇拝の立場を確認、195611月、親ユーゴスラヴィア的傾向のあるプラクー将軍を党から追放し、政治局員リリ・ゲガとその夫のヌドレゥ将軍を裁判にかけて処刑し、国内を固めます。

 しかし、こうしてアルバニアは世界から孤立無援に陥ったわけです。そこへ、強力な同盟国が現れました、中国です。フルシチョフのスターリン批判を「修正主義」と称して激しいソ連非難を繰り返し始めた中国ですが、中国も立場を同じくするアルバニアと接近し、1958年から1959年にかけて両国は国防省を相互訪問させ、経済関係の拡大などを決めます。

 結局アルバニアとソ連の関係は悪化し、1960年、フルシチョフとホジャはモスクワにおける社会主義諸国首脳会談で相互に罵倒しあい、1961年にはソ連はアルバニアへの経済援助を打ち切り、専門家を引き上げます。代って中国が経済援助と専門家の派遣を行い、1961年ソ連はアルバニアとの国交を断絶、1962年にはアルバニアはコメコンやワルシャワ条約機構のすべての会議をボイコットします。

 もうひとつ、ソ連とは独自の道を歩み始めた国がルーマニアです。ハンガリー動乱以降、ルーマニアはソ連と交渉し、19585月に自国からのソ連軍の撤退を実現させました。さらに、ルーマニアは195811月、第二次五カ年計画の最終年を打ち切り、工業生産年間成長目標13%という無茶な目標をかかげ、1960年から六カ年計画をスタートさせたのです。

 これが、ソ連が進めようとしていたコメコン内部の「国際社会主義分業の基本原則」と抵触したのです。ルーマニアなどの後進国には農業や原料生産を重視させようとしていたフルシチョフとルーマニアは対立し、結局このソ連の提案をルーマニアは撤回させます。さらに中ソ論争においてもルーマニアは中立の態度を取り、使節団をアメリカやフランスに派遣するなどし、ソ連・中国・西側諸国と仲良くやっていこうというルーマニア外交は「三台のピアノを同時に弾く」と呼ばれました。このように、ルーマニアは独自の道を歩みだしたのです。

 さて、内政ですが、1957年、フルシチョフは管理機構の改革を党中央委員会に提案します。これは従来の産業部門別省庁の大半を廃止し、地方ごとに新設される国民経済会議に権限を移すという内容のものでした。当然これにはテクノクラートが反発し、ペルヴーヒン、サブーロフらの経済担当の幹部会員は反対します。しかし、フルシチョフは中央委員会での採決を勝ち取り、さらには議題を全国民討議会にかけ、この結果国民の支持が得られたとして、自らの政策を強行します。さらには余勢を駆ってフルシチョフは、3年後にはアメリカを肉、牛乳、バターの生産面で追い越すという目標を立てます。これは肉の生産を3倍にしなければならないという無茶な目標でした。

 ここにいたって、無茶な目標を掲げるフルシチョフにたいし怒ったマレンコフ、サブーロフ、ペルヴーヒンらのテクノクラート派、ソ連の反動化により息を吹き返したモロトフ、カガノーヴィチ、ヴォロシーロフらの保守派が手を結び、フルシチョフを退陣させるべく画策します。両者の連合はブルガーニン首相らのフルシチョフ派も取り込み、党幹部会で多数を握っていました。618日、フルシチョフ派のキリチェンコ、中立のスースロフ、サブーロフの欠席の元、マレンコフがフルシチョフの第一書記解任を提案しました。理由は集団指導体制の原則を踏み外し、個人崇拝を助長した。肉の牛乳の生産で3年でアメリカを追い越すなど不可能である、などが理由です。

 この時点でフルシチョフを支持したのは、ミコヤン政治局員、ジューコフ、ブレジネフ党書記、フールツェヴァだけでした。フルシチョフは幹部会員、候補、書記の全員の出席のもと決定は下されるべきだと主張してなんとか対抗します。翌19日、20日と幹部会が開催され、フルシチョフが粘っている間に、国防相のジューコフが、軍用機を使って党中央委員をモスクワに集め、中央委員会総会開催を要求します。

 ここで中央委員会総会開催が決定され、力関係は逆転します。622日に開かれた総会ではフルシチョフの司会の下、ジューコフがスターリン時代の大量抑圧に対するマレンコフ、モロトフ、カガノヴィッチの責任を追及します。マレンコフはレニングラード事件について、この件に関してはスターリンの指示に従っただけで、自分が組織者ではないが、道義的な責任を負うと発言しました。

 24日〜28日にわたって繰り広げられた批判の中で、29日、マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチはとうとう自己批判書を提出し、この日3人を幹部会から追放することが決定されました。結局フルシチョフはこの三人に「反党グループ」の烙印を押して追放することに成功したのです。シェピーロフは書記を解任、ブルガーニンは譴責、ベルヴーヒンは幹部会員候補に降格、サブーロフは幹部会から追放となりました。しかし、誰も逮捕・処刑される者はおらず、この点ではスターリン時代と比べ、非常にすばらしい処置でした。

 ところが、フルシチョフはこの一件で非常な力を振ったジューコフの力を警戒します。実際に1957714日、海軍記念日の祝典に出席のためレニングラードを訪問したジューコフ元帥に対する歓迎振りは、同年5月にフィンランド訪問の途中にレニングラードを通過したフルシチョフに比べはるかに熱狂的であったといいます。疑り深いフルシチョフは、党からの軍の自立をはかり、軍隊ない党組織の役割を縮小するべく画策した件(これは事実のようです)でジューコフを党中央委員会総会で批判し、国防省と党幹部会員のポストから解任、かわりに第二次大戦中フルシチョフとともにウクライナで戦ったウクライナ人マリノフスキーを国防相に据えました。196110月の第22回党大会ではマリノフスキー新国防省は、フルシチョフのことをソ連軍の最高司令官と呼びます(フルシチョフは政治将校としては陸軍中将なのですが)。

 さらに、「反党グループ」事件で煮え切らない態度を見せたブルガーニンをフルシチョフは追放することに決定、1958327日、第五回最高会議第一会期でブルガーニンは首相を辞任、フルシチョフが党第一書記と首相を兼任します。こうしてフルシチョフもスターリンと同じく独裁的な権力を固めたのでした。


    〜 4. 宇宙開発レースー月到達の夢(1) 〜

 さて、フルシチョフが第一書記をつとめていたこの1960年代というのは、米ソが宇宙開発競争にしのぎを削り、宇宙開発事業で最も熱い時期でした。この米ソの宇宙開発競争を、時折世界のロケット技術史も交えながら、ソ連サイドから書いていこうと思います。

 まず、ソ連時代のロケットの理論で名を馳せたのが、コンスタンチン・エドゥアルドロヴィッチ・ツィオルコフスキーです。






コンスタンチン・エドゥアルドロヴィッチ・ツィオルコフスキー
Циолковский, Константин Эдуардович
1857-1935

ソ連航空宇宙学の祖、ロケット理論の先駆者



 ツィオルコフスキーは幼少時から耳が聞こえず、苦学して数学の教員となりましたが、宇宙への夢を暖め続けていました。

 ここで、宇宙に飛び出るためには、理論的に一体どういう条件が必要なのか、少し前置きとして説明したいと思います。

 とにかく、宇宙に飛び出るためには、地球の重力を振り切らねばなりません。質量mのロケットは、万有引力により地球にひきつけられていますが、この万有引力による、地球がロケットをひきつけている力は、ニュートンの万有引力の法則の公式から、-GmM/R2Gは万有引力定数、mはロケットの質量、Mは地球の質量、Rは地球の半径)となります。この引力を振り切るだけのエネルギーを、出せばロケットは宇宙に飛び立てるわけですが、ロケットのもつ運動エネルギー1/2mv2vはロケットの速さ)が、この地球の引力から生み出されるエネルギーGmM/R(位置エネルギーといいます。)と同じかそれ以上なら、ロケットは地球の重力圏から脱出できます。そこで、方程式を立てますと、

          

               これを解くと

           

 つまり、とにかく加速して、計算で今求めた速度(第二脱出速度)に達することができれば、宇宙に行けるわけです。さて、それでは、ロケットエンジンを使ってこの第二脱出速度に達するには、どのような条件が必要なのでしょうか。

 1897年、ツィオルコフスキーは、

               V = V0 log (W0/Wt)