|
Он был мал, этот самый
первый искусственный спутник нашей старой планеты, но его звонкие позывные
разнеслись по всем материкам и среди всех народов как воплощение дерзновенной
мечны человечества.
ー彼は小さかった、我々の古い惑星の、一番最初のこの人工の衛星は、しかし、彼の澄んだコールサインは、人類の大胆不適な夢の実現として、全大陸と全民族に知れ渡った。ー
〜 3. スターリン批判ー飼い主を噛む飼い犬 〜
1956年2月14日、第20回共産党大会が開催されました。この席で、フルシチョフを有名にした、いわゆるスターリン批判が起こります。この大会に先立ち、『歴史の諸問題』誌読者会議が開かれ、スターリンの経済論文と『ソ連共産党史小教程』が批判されましおりました。さらに2月1日の幹部会では、1930年代のテロルに関して討議されまあした。フルシチョフがこの件を大会で報告するように言うと、モロトフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチら、つまりあの大祖国戦争(第二次大戦)で、国家防衛委員会の委員で、スターリンとともに独ソ戦を戦いぬいた忠実なスターリン派は、これに反対しますが、ミコヤンを含む新世代の多数はこれを認めます。
第20回共産党大会の議事が終わった後に、党書記ポスペーロフらによってまとめられた資料を基に、フルシチョフを報告者として行なわれたこの秘密報告は、まずレーニンの遺書を提示し、スターリンの人格的批判を行ないました。
ー「スターリンは余りに粗暴である。この欠陥は我々当人の仲間うちでのつきあいではまだ我慢できるものであるが、書記長という役職にあっては許しがたいものとなる。そこで、私は、スターリンをこの地位から下ろし、他の人物に替えるよう同志達に提案する。その人物はなによりもまず、同氏たちにたいしスターリンよりも忍耐力があり、一層忠実で、さらに物腰がやわらかく、もっと慎重で、その上移り気でない等々の性格をもっているという点でスターリンとは根本的に異なっていなければならない。」ー
前にも書きましたが、この手紙は例の、「余の死後開封のこと」とレーニンが但し書きをつけて夫人のクールプスカヤに渡した、ボリシェヴィキの主要メンバー全員を批評した手紙の一説です。ただしこの手紙は別にスターリンのみを批判する手紙ではなく、たとえばトロッキーは「真のボリシェヴィキではない」と書かれ、ジノヴィエフは「隠密政治家」と評され、ブハーリンは「講演臭強く、マルクス主義者とはいえないし、弁証法的思考に乏しく、机上学問的で、現実理解にかけてはいるが、全党の評判はよい。」などなど、他のメンバーも散々にこき下ろされておりました。また、この手紙の別の箇所では、スターリンは「なんら政治的欠陥はない」と評されております。
ともかく、こういったスターリンについて非難に値する部分のみを集めて公表し、個人崇拝と専制のきわみで大量抑圧が起こったと発表しました。また、第17回党大会で選出された中央委員、候補の139名のうち98名が処刑されたという数字を発表しました。こうして、スターリンの独ソ開戦時および戦争指導の不手際、事件の捏造と党・赤軍内の粛清、個人崇拝の害毒、といった批判を展開し、返す刀で、ベリヤが、1919年にアゼルバイジャンのイスラム民族主義派ムサヴァティストの諜報機関で働いていたことがあるから外国諜報機関の手先であり、党の敵である、とこのとき既に処刑されていたベリヤも批判しました。
いわいるスターリンの大量抑圧というのは、殆ど全てがこのフルシチョフの秘密報告から出たものです。これまで秘密のベールに包まれていた、ソ連政界の一端が明るみに出たのはそれはそれでプラスであったと思います。スターリン時代の重圧から解放されたとの感を得た党員達は確かにその場では喜んだでしょう。しかし、当初の興奮からさめたとき、スターリンが生きているうちは彼に忠誠を誓っておきながら、死ぬと一転、死者に鞭打つがごときスターリンの大批判を展開するような人物を、正直、支持できるものでしょうか。この辺が、フルシチョフが、歴代ソ連書記長経験者中、在任中に失脚させられた二人の内の一人である理由の遠因と感じます。
さて、この秘密報告は各地の党員集会で朗読され、大きな衝撃を与えます。4月にはスターリンの東欧支配の出先機関だったコミンフォルムを解散し、さらなる非スターリン化をはかります。この状況の中、話は更に進み、6月4日、ポーランド共産党が秘密報告のポーランド語訳を作成し、党内に配布したものをアメリカの工作員が入手し、アメリカ国務省がこの秘密報告を英訳して発表したことが、各地の共産諸国に激震をもたらしました。
特に深刻だったのは、このスターリン批判が中ソ対立の遠因となってしまったことです。中国共産党指導者の毛沢東、北朝鮮指導者の金日成にとっては、スターリンを通じて社会主義の理念や実際の組織を学んだのであり、スターリンや彼の作った制度はあがめるべき存在であったのです。確かにソ連人にとってはスターリン時代はさっさと忘れたい忌むべき時代でしたが、アジアの共産党関係者にとっては、偶像を踏みにじられた思いであったでしょう。さらに、フルシチョフの、個人崇拝批判というは、よくよく考えると、そのまま各国共産党指導者に対する批判に直結してきます。この辺の感情を計算に入れず、あるいはこの辺の忠告を聞き入れず、フルシチョフはスターリン批判をやったのでしょう。
批判が悪いとは言いません、むしろ正鵠を得た批判は大いにやってもらうべきです。しかし、こういったことは歴史家の仕事であって、少なくとも、政治家が、自分の思惑から政治的に利用するために行なうものではないと思います。国内的なうけはよかったのかもしれませんが、このスターリン批判は外交的には非常なマイナスをもたらしました。
フルシチョフのスターリン批判に対し、毛沢東らは、『人民日報』に「スターリンに誤りはあっても偉大なマルクス・レーニン主義者である」という見解を載せます。この意見の溝は結局埋まらず、ここに中ソの意見のすれ違いが生じました。核技術供与問題(これもフルシチョフ時代のことですが)をきっかけに中ソ対立が起こり、東アジアの大国でこの地域に隠然たる影響力をもつ中国に離反されたソ連は、アジアの共産党各国全体から離反されるという事態に陥ります。
それはのちのことにしても、表立った波乱が起こったのはポーランドとハンガリーです。ポーランドはその余りに強すぎる民族主義的感情から、ソ連のコントロールがあまり効かず、またハンガリーは第二次大戦後に開かれた自由選挙で共産党が17%の得票率しか得られず、共産党の影響力の弱いところでした。このような背景からこの二国にはとくに反ソ反共的な動きが爆発したのです。
1956年6月28日にポーランドのポズナンで、機関車・鉄道車両を製作するジスポ工場の労働者が、待遇改善要求を求めるデモを起こし、これが暴動に発展します。事態を収拾するため、7月のポーランド共産党中央委員会総会を前にブルガーニン首相とジューコフ国防相が派遣されますが、ポーランド側はこの圧力を跳ね返し、政治局の人事更迭、労働者の企業参加などの独自路線を選択します。
これに危機感を募らせたソ連は、今度は10月19日に開かれるポーランド共産党中央委員会総会の数時間前、ポーランド側の要請を無視して、フルシチョフ、ミコヤン、モロトフ、カガノーヴィチ、コーネフらソ連最高首脳をワルシャワに送りつけ、あわせてポーランド駐留ソ連軍をワルシャワに移動させ、圧力をかけます。
ところがポーランド側はこの圧力を跳ね返し、民族主義的としてかつて追放されたゴウムカをポーランド共産党第一書記に就任させ、ソ連国籍を持ちながらポーランド国防相を勤めるソコロフスキーの解任をあくまで主張します。さらにはポーランド国軍は出動態勢をとり、第二次世界大戦時にナチスドイツに一戦も辞さない態度をとったときと同じように、ソ連軍とも一戦辞さない態度をとります。ゴウムカの、ソ連の戦略的利益を損なう意図は全くないという意思表示もあり、結局圧力が効果をあげないことを悟ったソ連側はポーランドから引き上げ、結局ゴウムカは党第一書記となり、ソコロフスキーは解任されます。
ハンガリーでさらに深刻な事態が発生します。当時ハンガリーでは革新を求めるペテーフィ・サークルの活動が高まり、失脚したイムレ・ナジの復活と、ハンガリーのスターリンと呼ばれたマーチャーシュ・ラーコシ勤労者党第一書記の解任と粛清への責任追及を要求していました。ところがラーコシはサークルに対する集会禁止令を出しました。ここで、非スターリン化には基本的に賛成のソ連は、ミコヤンとスースロフを送り、ラーコシの退陣工作に乗り出します。そしてラーコシを退陣させたまではよかったのですが、後任にラーコシの右腕と呼ばれたスターリン主義者、エルネー・ゲレーを選出したのです。
これに市民が反発し、ゲレー指導部の集会禁止令にもかかわらず23日、30万人といわれる市民がポーランド人と連帯し、ブダペストでデモを行ないます。これに対し治安部隊側から(といわれれおりますが)発砲があり、デモ隊は暴徒化、武器庫から武器を奪い放送局を占拠、市内で銃撃戦が始まります。この暴動は全国に波及し、労働者は24日にゼネストに入ると発表します。
23日に開かれた党中央委員会は、市民をなだめるため、ナジの首相任命を決め、アンドロポフソ連大使のなにがしかの助言によるものとされる、治安維持のためのソ連軍介入を要請します。24日昼、ソ連軍がブダペストに突入し、戦闘がはじまります。同時にミコヤン、スースロフ、セローフなどがモスクワから到着し、ゲレー、かつてチトー主義者として投獄されたヤーノシュ・ガーダール、イムレ・ナジらを交えて会談を行い、結局ゲレーの党第一書記の解任と、公認としてガーダールが後釜に座ることが決定されました。
事態は止めどなく進み、27日にはナジを首班とする愛国人民政府が誕生し、28日にはソ連軍の撤退をもとめ、30日には勤労者党の一党独裁をやめ、複数政党制に移るとの声明を出します。ソ連は、10月30日に、社会主義諸国間の独立、平等、内政不干渉の原則を盛り込んだ政府声明を発表し、ブダペストからの撤兵し、全面撤兵の交渉の用意があると述べました。
|